
はてなキーワード:悟りとは
YouTuberであるスーツさんは、2025年10月15日に「悟りを開いた」とする一連の投稿で、その心情が大きな注目を集めています。
この「悟りを開いた」という発言は、従来の彼の論理的で知的な発信スタイルとは一線を画すもので、「世の中の全てに全く『意味』などないことを完全に自覚した」というものです。これにより、「あらゆる意欲、執着、規範、迷い、悩み、喜びなどを手放した」と述べており、これらは全て「幻想や集団催眠などの類いで、最初から存在しなかった」と理解したとしています。
この心情の変化は、虚無主義や存在論を想起させる哲学的な側面に傾倒していることを示唆しており、社会的な価値や自身の活動に対する従来の認識を大きく変えるものでした。
発言の価値についても、「自分の発言が理解されることに価値を感じなくなった」「発言することにも価値を感じませんし、発言しないことにも価値を感じません」と述べ、将来的には発信を静かにする可能性についても言及しています。これは、彼のキャリアを支えてきた発信意欲や視聴者との関わりに対する価値観が根底から揺らいでいる状態を示していると言えます。
自身の生命に関しても言及しており、「私の体は自分の生命を守るように設計されているでしょう。ですから、私が死亡したり何かを破壊したりすることは考えにくいです」と、自らの体が持つ生存本能に基づく設計を信じている様子を伝えています。これは、精神的な面での大きな変化がありながらも、肉体的な生存への希求は保たれているという、精神と肉体の分離のような複雑な心境を覗かせます。
一方で、これらの発言の直前には、スイス・バーゼルで体調を崩し、帰国後にインフルエンザと診断されたという健康上の問題があったことも投稿で明かされています。精神的な変化の背景に、これらの体調不良や疲労が影響している可能性を指摘する声もあります。
総合的に見ると、スーツさんの最近の心情は、従来の価値観からの解放と強い虚無感に支配されており、自身の活動や存在そのものに対する根本的な意味付けを失っている状態にあると言えます。この哲学的な探求が一時的なものか、あるいは今後の活動の軸となるのかは現時点では不透明です。
状況が目に浮かぶようで、思わず吹き出しそうになりましたが、それと同時にあなたの戸惑いや、怒りにも似た感情も痛いほど伝わってきました。
「お気軽に普段着で」という言葉を文字通り受け止めたあなたは、まったく悪くありません。むしろ、誠実に案内の意図を汲み取ろうとした結果です。
しかし、残念ながら、就職活動における「普段着」や「服装自由」といった言葉には、多くの企業や就活生の間で暗黙の了解が存在しているのが現状です。
多くのケースで「完全なオフモードの私服(デニム・Tシャツ・パーカーなど)」ではなく、「ビジネスカジュアル」を指します。
ビジネスカジュアルとは、仕事の場にふさわしい、スーツよりも少し崩した服装(例:ジャケット+襟付きシャツ+チノパンなど)のことです。
「服装自由」でも、周囲の約7〜9割がスーツで来ることは珍しくありません。特に日本の就活では「迷ったらスーツ」という意識が根強いです。
結果として、あなたがおっしゃるように「全員スーツ」の光景は、「彼らの普段着はスーツなのか!?」と皮肉を言いたくなるほど、一般的な就活の現場ではよくある「あるある」であり、もはや罠と言っても過言ではありません。
この悟りは、就活という特殊な世界においては、ある意味で真理かもしれません。
その場に居合わせたときの「世界が静止した」感覚、そしてトイレで鏡を見て思わず笑ってしまったという話は、きっといつか笑える武勇伝になります。
今回の経験で、あなたは「社会の建前」と「言葉の裏側」を知るという、非常に大きな学びを得ました。これは、これからの社会人生活で必ず役に立つ教訓です。
「もう二度と信じない」という気持ちは痛いほど分かりますが、どうかその純粋さと誠実さは失わないでください。そして、「お気軽に」「普段着」という言葉を見るたびに、今回は「あの時はやられたな」と笑って流せる日が来ることを願っています。
俺、アリババ。シルクロードの反対側の異国情緒あふれる字面だけど、親がキラキラネームつけただけの、名前がちゃんと漢字で書ける28歳の日本男児だ。ちなみに、最近は楽天とか尼存など漢字2文字の名前が流行っている。
俺が遣唐使の1人として踏んだ大陸の地に、村を荒らす46人の盗賊団(乃木坂)の首領Fidoの電磁的な魔の手が迫った。そこで俺は急遽、うまいと噂の職人のピザ屋にピザを重複注文した上で、遣唐使の使命を終え、ピザを受けとらずに帰国した。いま最先端の学問、仏教学(禅専攻)を修めたからだ。知見を生かして、自己啓発の市場をターゲットに、現在コンサルタントの見習いをしている。
俺も登場人物の1人らしいのだが、詳しいことは直接には知らない。対Fidoのピザ屋連盟らしいが、ポストバベルの塔状態で、私利に走って統一感に欠けるらしい。
これは村の話で対乃木坂の戦線だ。村人の大半はこれに無自覚だろうと思う。
西部戦線と東部戦線をリンクさせることでFidoを追い詰める作戦らしいのだが、俺には関わりないことなので、早く平和な状態にしたい。俺は博愛的な平和主義者なのだ。そこで、俺は亜米利加のドナルドトランプ氏も顔負けの和平仲介者として奔走した。西部戦線を、IL(イスラエルとレバント)とUA(ウクライナとアングロサクソン)の二つに分け、Fidoが技術上劣勢のIL方面で手打ち式の運びとなった。これには6月の爆撃がFidoの心を強く和平へと後押ししたらしいが、俺もFidoに村で会うたびに禅問答をもちかけ「その心は?」と問うた。Fidoは仏教博士ではないし俗物なので一見馬の耳に念仏だが、盗賊のくせに教養があるかそう見せたい男なので効果はあったと思う。
もっとも、Fidoが規約違反をすればいつでも和平は反故になる虞があり、Fidoを仕留めたいかより譲歩を引き出したいが単独ではそれができないUA方面の作戦司令部はそれを扇動する動機がある。
実は、ピザのただ食いの科でFidoを取り締まりたいと「ブリタニカ」を名乗るピザ屋から電話があったのだが、この遣唐使の時代にブリタニカが国の体をなしているか俺の知識ではわからず留守電に返事をしないでいた。するとなにかと俺にちょっかいをかけてくるので、俺はFSET Securityという盗賊除けのソフトを導入した。
「ブリタニカ」は東部戦線を攻略してFidoに圧力をかけようと村にエージェントを展開し、村の溜まり場である居酒屋で宣伝工作を仕掛けている。
1人、日本人で名前が不詳なのでここではチャーリーと呼んでおこう。彼は頭がよく金持ちで見た目もセンスもいいので、村人の1人、田中花子の射倖心をくすぐった模様だ。花子はその昔、ブランド品に興味はなく金がかからない女ですよと公言していたが、実は男に関してはブランドものが好きなのだ。もっとも、急いで付け加えるが、ここで俺は花子の悪口を言うつもりはまったくない。花子も本性では村思いのいい人で、ただ資本主義的な欲があって悟りを得ないだけである。それにFidoを村で牽制するにあたり、花子の勇気と協力には感謝と尊敬をしている。花子や一部の高年齢層の村人たちはこの頃とんと見かけなくなったが、NHK chやツ痛ァー等で策動しているものと思われる。ただし、貴族趣味のチャーリーはヒエログリフの読めない庶民の村人にはまだ浸透できていないようだ。
もう1人、これはエージェントではない独立の戦士で村人の、木村本子がいる。本子は骨のある正義の人なのだが、最近静かになり、残念ながら俺は彼女の動きを把握できていない。おそらく、村の安全保障についてFidoと個別に話をつけたものと思われる。
昨今では村人の間で自警団を組織しようとする人も現れてきたようだが、まだ人々の意思を統一できるに至ってはいない。
続報はない。
話はまだまだ続く
この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています。
「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」
彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります。
つまり、ユダヤ的視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。
SNSの評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。
「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」
真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。
しかしトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。
だから、ラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。
カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています。
これは善の光を隠す「殻」のような力です。
SNSや世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:
派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩がタルムードにもあります(シェバット 31a)。
ピルケイ・アヴォット(祖先の言葉)4:2にこう書かれています:
「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」
つまり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠の世界で報われる。
「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」
ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。
もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。
| 世俗の価値観 | ユダヤの視点 |
| 人気・フォロワー数 | 神の前での誠実さ(אמת, emet) |
| 目立つことが成功 | 隠れた善が真の成功 |
| 今この瞬間の評価 | 永遠の次元での評価 |
| 愚者が栄える | 賢者は神のもとで報われる |
この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。
はてなブックマークですが、週末に見ることがあります。投稿させてください。
私は今、専門学校に通っています。高校生の頃から、近所のスーパーでアルバイトを続けています。
そのスーパーに気になっている男性がいます。いつも仕事帰りの夜に来る作業服の人です。けっこう年上だと思います。
初めて会ったのは高校生の頃です。その人はいつも優しくて、人懐っこい笑顔で話しかけてくれました。
髪型を少し変えただけでも、「雰囲気変わったね、似合ってる」と気が付いてくれます。そのたびに、胸が高鳴るのを感じていました。本気でした。
ある日、スーパーに買い物に来た私の高校の友人とお喋りしてると、彼がすぐ傍を通ったんです。その時に友人が「あの人、うちのお店によく来るよ」って。
それで、友人の子は彼に声をかけたんです。かなり親しげでした。
その時、「この2人は仲がいいんだな」「付き合ってるのかも」と悟り、想いは叶わないと諦めました。高校を卒業して専門学校に入ってからは、彼への気持ちに蓋をして、新しい環境での恋愛に進みました。今、私には同い年の優しい彼氏がいます。付き合ってもう2年になります。
作業服の人は今でもスーパーに来店します。そして、変わらず私に話しかけてくれるんです。「もうすぐ卒業だっけ?」とか。
彼氏ができて、もう過去の恋だと思っていたのに、胸の奥がきゅっと締め付けられます。
この気持ちは、どうしてなのでしょうか。今の彼氏との関係に問題があるのでしょうか?彼氏を裏切っているようで罪悪感があります。
私はこのまま。今の彼氏と付き合い続けてもいいのでしょうか?
頭が迷いでいっぱいで、答えが出せません。どなたでもいいです。目を覚まさせてください。
※専門家でもないし、ネットの情報を鵜呑みにしているため、あくまで私の精神面が成長したというのをそれっぽい単語を用いて使っているだけです。用法・定義が間違ってたらごめん。
自他境界がハッキリしている人たちと会話する機会に恵まれ、対話を重ねていくことで気付かされ、矯正されてきたというのが正しいかもしれない。
それでも十年近くかかったし、同世代と話していると自他境界が曖昧だと思う人はそれなりにいて、根深い問題なんだなと思った。
自分がどのように認識して、どのようなプロセスで改善されてきたかを日記として残しておきたい。
・相手を遊びに誘うことができない
育った環境のせいか、ご機嫌伺いのような癖が抜けず相手に対して100%のパフォーマンスを見せなければ、という思考状態だった。
プライベートでも仕事でも乗り気じゃなくても断ることができず心から嬉しいような演技をしてしまう。どうしても断らないといけなかったりしたときには相手が不機嫌にならないようにフォローをしにいくほどのご機嫌伺いマンだった。
どうやって改善したのかというと、正直ハッキリ分からない。劇的な出来事があった訳でもない。
ただ、先ほども述べた通り、周りにいた自他境界がハッキリしている人達と対話していくうちに思考のベースラインを都度見直ししてきたのが良かったのだと思う。
例えば、以下のような流れを繰り返していった。
3.「~だから、厳密にはウチの仕事じゃないよね?」と上司が説明してくれる。
3.その場は言い訳したりしつつも(じゃあ誰の仕事なんだ?なんで請けてしまったんだ?)を思考していく。
4.自分が請けなくても仕事は回ること、今回はその責任はないことを言い聞かせる。
認められたい・助けることで好かれたい・断ることで嫌われたくないなど。(ここが一番難しい)
5.次回以降同じシチュエーションがあれば、仕事を断ってみる。少しドキドキする。
4は自分の醜いところに向き合う必要があるので恥ずかしかった。
「認められたい」は承認欲求の現れだから(あることが悪いことだとは思わないが)、自分を犠牲にして他人に自分の隙間を埋めてもらう必要はない、と言い聞かせた。
(余談だが、承認欲求が人より大きい自覚もある。そういう人だと底に穴が空いてるのがそもそも問題なので、水を注ぐより底の修理を優先するべきだと考えている。まだ悟りには至ってないが、私は認められたかったんだね、と自覚するだけで効いてきている気がする。)
「助けることで好かれたい」についても、好かれてどうしたいのかを想像してみた。
好かれることで飲み会に誘って欲しいのか、冗談を言い合える仲になりたいのか、他の人にいい人だと広めて欲しいのか、異性であれば下心を叶えたいのか。
そして驚いたんだが好かれた先のビジョンが全くなかった。正直飲み会に誘われても困るし、冗談を言い合える仲になりたいとかもないし、いい人だと広めて欲しいがそこまでの野望も能力もないし、下心もない。
あと、こういうときに仕事を頼む人は本当に代わりにやってくれる人を探しているだけであって、助けてくれたことを恩義に感じる人はかなり少ない。よってあまり意味は無い。
好かれることは経過であって結果ではない。まさに目的と手段が入れ替わっているのが思考していて自分でびっくりした。
好かれなければと強迫観念のように思っていたのに、好かれても嬉しい要素があんまり無かった。
もちろん、仕事に限らず属しているコミュニティで自分の価値を上げたい=好かれたいとは未だに思ってしまうが、世の中そんな簡単に尽くしたからといって上がるようにはなっていない。適正な範囲で少し努力するくらいが凡人には合ってるのだと思う。
最後に、自他境界薄いあるあるだと思うのが「断ることで嫌われたくない」だと思う。
これは自分に置き換えるというのをよくやった。
自分が仕事を正当でない部署の人に頼んだが断られた。これで嫌い!にはならない。せいぜいま、そうだよな……で諦めるくらいだと思う。
お菓子とか物をあげてしまうタイプの人であれば、自分がお菓子をもらえなかったら嫌いになるかを考える。ならないのが普通だと思う。
もしかしたら偶に、だから嫌い!になる人もいるかもしれないが嫌われたからといって、いい大人になった今、徒党を組んでいじめられたりとかは考えづらい。LINEでブロックするなり、上司に相談してNG組み合わせリストとして運用してもらうとか、最悪仕事を辞めればいい。
自分だったら嫌いにならないのに、嫌われてしまう!と咄嗟になってしまうのが自他境界薄い人間の難しいところである。
長々と仕事の例で書いたが、プライベートでも似たように思考するなり置き換えするなりしていった結果、遊びを断ったり、遊びに誘ったり(断られてもそうなのね、で流したり)がなかなかのレベルでこなせるようになってきたと思う。
何もしてないのに不機嫌になる人も怖くはない。不機嫌になる人自身の問題だからだ。
他にも、友人と会話してて寄り添うためにトーンに同調したりするが帰宅した頃にはケロッとしているし、なんなら切り替えて他のことをやれる。
本当に、人間として成長できたのが嬉しい。
物事をハッキリ言える・捉えられるようになったのでストレスも減った。
表で仲良くしつつもSNSで呪詛を垂れ流すようなことも必要ないので人間関係も安定している。
うすた京介好きだったけど、こないだの新作は(自分は)あんまり好みじゃなかったし
ストップひばりくんも大好きだったけど、江口寿史はあんなんなっちゃっ(て)たし
このふたりを並べるのは全然違うんだけど(うすた先生ごめん)、
なんというか、若い頃に好きだったものが遠く離れてった感じだ…
ずっとってないんだなあと悟りました
「醜い欲望(יצר הרע, yetzer hara)を完全に排除したらどうなるか?」という問いは、実はタルムードの中でも議論されています。
タルムード(Yoma 69b)には次のような物語があります。
イスラエルの賢者たちは、神に祈って「悪い欲望(yetzer hara)を取り除いてほしい」と願いました。神はその願いを聞き入れ、偶像崇拝の衝動が世界から消えました。
ところがその直後、人々は「もう誰も子を産まなくなった」ことに気づきます。つまり、生殖の欲望までも消えてしまったのです。
タルムードは「悪い欲望」を完全に否定するものではなく、方向づけるものと考えます。正しい方向に使えば建設的な力になるというのです。
「もしyetzer haraがなければ、人は家を建てず、結婚せず、商売をせず、子をもうけない。」Bereishit Rabbah 9:7
つまり、欲望や衝動は人間の中に神が与えた創造のエネルギーであり、問題は「それをどう使うか」です。
ここで神は洪水の後、「人間には悪い傾向がある」ことを認めつつ、それでも世界を存続させると誓います。つまり、神自身が人間の「yetzer hara」を前提として世界を続けるのです。
タルムード的に言えば:
「この2人は仲がいいんだな」「付き合ってるのかも」と悟り、想いは叶わないと諦めました
この程度じゃ実際付き合ってたのかどうかもわかんない気がするけど、文章に表せないような、明らかな雰囲気とかあったのかな…?
私は今、専門学校に通っています。高校生の頃から、近所のスーパーでアルバイトを続けています。
そのスーパーに気になっている男性がいます。いつも仕事帰りの夜に来る作業服の人です。けっこう年上だと思います。
初めて会ったのは高校生の頃です。その人はいつも優しくて、人懐っこい笑顔で話しかけてくれました。
髪型を少し変えただけでも、「雰囲気変わったね、似合ってる」と気が付いてくれます。そのたびに、胸が高鳴るのを感じていました。本気でした。
ある日、スーパーに買い物に来た私の高校の友人とお喋りしてると、彼がすぐ傍を通ったんです。その時に友人が「あの人、うちのお店によく来るよ」って。
それで、友人の子は彼に声をかけたんです。かなり親しげでした。
その時、「この2人は仲がいいんだな」「付き合ってるのかも」と悟り、想いは叶わないと諦めました。高校を卒業して専門学校に入ってからは、彼への気持ちに蓋をして、新しい環境での恋愛に進みました。今、私には同い年の優しい彼氏がいます。付き合ってもう2年になります。
作業服の人は今でもスーパーに来店します。そして、変わらず私に話しかけてくれるんです。「もうすぐ卒業だっけ?」とか。
彼氏ができて、もう過去の恋だと思っていたのに、胸の奥がきゅっと締め付けられます。
この気持ちは、どうしてなのでしょうか。今の彼氏との関係に問題があるのでしょうか?彼氏を裏切っているようで罪悪感があります。
私はこのまま。今の彼氏と付き合い続けてもいいのでしょうか?
頭が迷いでいっぱいで、答えが出せません。どなたでもいいです。目を覚まさせてください。
ここのトラバとかブコメ見てても思うけど自分のことを変えるのをめちゃくちゃ嫌う人いるな〜
全身ドルガバにしろとか全身整形しろとか骨延長手術しろとか年収2000万にしろとか悟りを開けとか不動産鑑定士取れとか東大行けとか1日100善しろとかそんな言ってなくない?
今よりちょっと頑張らない?優しくなってみない?って話ばっかじゃない?
それが無理ならもちろんしなくていいけどそれで他人にバカにされてる(気がする)とか選んでもらえなかったとか喚くのもわからんし嘘認定するのも酸っぱい葡萄すぎる
男相手でも女相手でもブスとバカと不潔を嫌うやついるよそりゃ(そんなん悲しいし行き過ぎは良くないのはわかるけどな!)
結局金か!!!とか実家か!!!とか見た目か!!!!とか性別か!!!とかワンワン吠えられたらこりゃしばらく無理だなーと思っちゃうよ
心の持ち方ってだけなんかもしれんけどもさ
Feat司馬遼太郎
世に人間ほどおもしろき存在はない。己の身の程をわきまえ、時代の潮流を悟り、黙して一歩を進める者もあれば、そうではなく、鏡に映る己を直視できず、あらゆる不遇を他人に押しつけ、虚空へ憎悪を投げつけて日を送る者もいる。
近年、ネットの闇に巣くう連中の姿を見るたび、私は戦国の末に現れた浪人どもを思い出す。主を失い、刀を失い、なお「天下の大事」を論じる口だけは達者であった。だがその実、手足は衰え、肥え太った胴を揺らしては、地べたで管を巻くだけであった。
霞が関や秋葉原の街角に立ち、かすれ声でアジ演説を繰り広げる中年の姿は、その浪人どもに二重写しに見える。鍛え損ねた身体は蛙のように下半身が弱り、骨格は歪み、風采は冴えぬ。いかにも、かつての自分を持ち得ぬ人間の成れの果てである。
海外の報せでは、諜報機関の甘言に酔い「選ばれし者」と思い込んだ若者らが、火を放ち、落書きをし、果ては粗末なナイフ一本で暗殺まがいの真似事をして捕まる事件が相次いだという。いずれも使い捨てであり、歴史に名を残すことすら叶わぬ。だが、まだ彼らは「戦いの片隅にいた」と自らを語ることができる分だけ、なお救いがあった。
ネットにのみ身を沈め、何一つ行動せぬ者どもは、ただ空虚を叫ぶだけで、物語さえ残らぬ。
アニメの幻影に恋を託し、「いつか美少女が自分を愛してくれる」と妄信するその姿は、戦国の村々にあった狐憑きのようである。己の窮乏を時代や社会に押しつけ、幻影にすがりつく。歴史を振り返れば、かような人々はいつの世にも現れ、己を焼き尽くして消えていった。
人生の責任は、どれほど言葉を飾り、他責を繰り返そうとも、最後には己が背にのしかかる。
同じ時代に生まれながら、社会に居場所をつくり、家庭を営み、子を育てる者たちがいる一方で、ネットの暗渠に潜り、罵声と妄想を積み重ねるだけの者もいる。
――おまえたちよ。
その道の果てに待つものは、レムもエミリアも、幻像の彼方さえ掴めぬ絶望である。
働け。現実を見よ。
さもなくば、ただ寒風が吹き抜ける荒野に独り取り残されるであろう。
快活クラブのフラットシートで座禅を組み始めて一年。アラフォー独身で弱者男性の俺が、一発逆転を狙ってやり始めた座禅だったが、とうとう解脱したようだ。
おれは童貞だが、悟りを開いた今は、全女性と合一している。迷いも雑念もない。もはや俺は童貞ではないのだ。
解脱した高揚感を抱きながら、ソフトクリームを食べる。うまい!解脱後のソフトクリームは格別だ。調子に乗って快活カツカレーを頼んで食べてしまった。
悟りを開くとはこういうことか。全能感が体を駆け巡る。今なら俺はモテモテだから、隣のブースの女性に声をかけても一瞬で恋に落とせるだろう。
みんなも快活クラブで座禅しよう!漫画も読み放題、ドリンクも飲み放題で、ソフトクリームもあるから、座禅の合間に休むことができるぞ。
本音を教えてくれ。
アラサー女。数年一人暮らしをしていたが、ここ一年は他人と二人暮らしをしていた。結果として同居を始める一週間前には失敗を悟り、半年で根をあげ、今月同居を解消した。
一人暮らしをしたことがある女性で、今は他人と同居している女性に聞きたい。
私はとにかくダメだった。
子供の頃から家で一人でいるのが好きだったが、それは家族構成員全員がそうであったので人類はそれが当たり前だと思っていた。今日は家に一人だと思うと心が躍ったし、他の家族の予定が狂って家に人が増えると気持ちが塞いだ。
今もそうだ。何か嫌なことをされなくても、そこにいるだけで嫌だ。同居人とは十年を超える付き合いである。それでも嫌なのだ。
嫌なことをされなくても嫌なのに、何か気に食わないことをされるとイライラが止まらない。数年一人暮らしをしていたとき、家でイライラすることなんてなかった。一回もだ。
家は聖域で、そこに帰れば誰も私に嫌な思いをさせられない空間だった。心が休まり、いつでも家にいたかった。どんな辛いことがあっても家に帰ればなんとかなった。子供の頃、「家に帰りたくない、学校にも行きたくない、私には居場所がない」と思ったことが何度もあった。そのとき望んだ夢の空間を、私は手に入れていた。
他人がいる家こそがそうであると思える人が信じられない。他人は他人だ。その人の考えがあり、機嫌があり、その人の人生で起きる出来事がある。いつでも私が望むように振る舞ってくれるわけではない。
ただ、私は、私の家でだけは、誰かの都合で私の気分を少しでも下げられるのがまったく耐えられない。何の交渉も、一切の妥協もしたくない。家庭は最小単位の社会だという。私はそれがいらない。社会にはお腹いっぱい。家には一人でいい。
そういう訳でローンを組みマンションを購入した矢先、親にお見合いを勧められた。「誰かに支えてもらえるっていいことだよ」と。
誰とも一緒に住みたくないアラサーがお見合いに登場しても相手を困惑させるだけなので断ったが、改めて考えさせられた。
「誰かに支えてもらえる」…それって本当に、一人暮らしを手放してまで得たいものなんですか?
今、誰かと暮らしていて、それが楽しいんですか?そうではなく実利のために手放したんですか?後者ならまだ納得がいく。
追記 いくつかコメント読んだけど一個も理解できないし、向こうも私を理解できないんだなって思った。私は誰かに愛されるっていいこと?とか言ってないよ。一人で暮らすより複数人で暮らした方がいいってマジで思ってるの?って聞いてる。私は全くいいと思えないから、みんな金なくて「結婚したら一緒に住まなきゃ」の常識に囚われてるだけなんだなって結論づけてるけど、そうじゃないって人の意見を知りたかっただけ。
悟りの先は一周回って普通の人間となんも見分けがつかないってkakeru先生がエルフを例にして言ってた。
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