
はてなキーワード:怨念とは
ドラゴンクエスト、タイトルにドラゴンが入っているが別にドラゴンがラスボスではない。
ファイアーエムブレムは神や邪悪な力を持った強大な存在がドラゴンであることが多いから、ラスボスがドラゴンになりがち。
それは本当か? ということでラスボスを一覧にしてみた。
全部のゲームをプレイしたわけではないエアプで申し訳ない。未プレイの分はネットで調べた。
| タイトル | 名前 | 肩書・クラス | 竜 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| I | 竜王 | 竜王 | ○ | |
| II | シドー | 破壊神 | × | 外見は竜っぽい |
| III | ゾーマ | 大魔王 | × | |
| IV | ピサロ | 魔族の王 | × | |
| V | ミルドラース | 大魔王 | × | 最終形態は竜っぽい |
| VI | デスタムーア | 大魔王 | × | |
| VII | オルゴ・デミーラ | 魔王 | × | 最終形態は竜っぽい |
| VIII | ラプソーン | 暗黒神 | × | |
| IX | エルギオス | 堕天使 | × | |
| X (オフライン) | ネルゲル | 冥王 | × | |
| X (オフライン Ver.2) | マデサゴーラ | 大魔王 | × | 創造神形態は顔が竜っぽい |
| XI | ニズゼルファ | 邪神 | × |
| タイトル | 名前 | 肩書・クラス | 竜 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 暗黒竜と光の剣 | メディウス | 地竜 | ○ | |
| 外伝 | ドーマ | 邪神 | △ | 外見は竜っぽい |
| 紋章の謎 | メディウス | 暗黒竜 | ○ | |
| 聖戦の系譜 | ユリウス | 闇の皇子 | × | |
| トラキア776 | ベルド | 司教 | × | |
| 封印の剣 | イドゥン | 魔竜 | ○ | |
| 烈火の剣 | 火の竜 | 火の竜 | ○ | |
| 聖魔の光石 | フォデス | 魔王 | × | 外見は竜っぽい |
| 蒼炎の軌跡 | アシュナード | 狂王 | × | |
| 暁の女神 | アスタルテ | 正の女神 | × | |
| 覚醒 | ギムレー | 邪竜 | ○ | |
| if (白夜王国) | ガロン | 暗夜竜 | ○ | |
| if (暗夜王国) | タクミ | 王子 | × | |
| if (インビジブルキングダム) | ハイドラ | 透魔竜 | ○ | |
| 風花雪月 (紅花の章) | 白きもの | 白きもの | ○ | |
| 風花雪月 (銀雪の章) | 白きもの | 白きもの | ○ | |
| 風花雪月 (蒼月の章) | エーデルガルト | 皇帝 | × | |
| 風花雪月 (翠風の章) | ネメシス | 解放王 | × | |
| エンゲージ | ソンブル | 邪竜 | ○ |
DQのラスボスのドラゴンの割合は1/12でFEは10/19。
DQには裏ボスにドラゴンがいるじゃないか。これを無視するのはフェアじゃない。ということで裏ボスも見てみよう。
| タイトル | 名前 | 肩書・クラス | 竜 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| III | 神竜 | 神竜 | ○ | |
| III | グランドラゴーン | グランドラゴーン | ○ | |
| IV | エビルプリースト | エビルプリースト | × | |
| V | エスターク | 地獄の帝王 | × | |
| VI | ダークドレアム | 破壊と殺戮の神 | × | |
| VII | 神さま | 神 | × | |
| VIII | 竜神王 | 竜神王 | ○ | |
| XI | 時の破壊者 | 時の破壊者 | × | |
| XI | 失われし時の怨念/災厄 | 失われし時の怨念/災厄 | × | 災厄の外見は竜っぽい |
じゃあFEに裏ボスは? DQの裏ボスと同じようにクリア後に戦う裏ボスは知る限りではこれだけ。
DLCは除外。DLCを入れるとドラゴンが増えるのではないかと思う。
| タイトル | 名前 | 肩書・クラス | 竜 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| Echoes もうひとりの英雄王 | 造られしもの | 邪竜 | ○ | 外伝のリメイク |
裏ボスを足したボスドラゴンの割合はDQは4/21でFEは11/20なんでDQとFEの関係はあまり変わらないっすね。
DQが魔王との戦いにシフトしている間にFEは愚直にドラゴンと戦い続けていたってわけだ。
深夜、誰もいないはずの部屋でふと視線を感じることはないだろうか。
振り返っても誰もいない。
ただ、鏡の端に一瞬、見知らぬ顔が映りこんだような気がする。
それが「弱者男性」だと囁く者がいる。
しかし、それは単なる言葉遊びではなく、人類の歴史を通して現れては消えてきた「影の人類」だと考えることもできる。
彼らは表舞台には決して立たない。
光を浴びることはなく、常に誰かの後ろ、社会の亀裂の中、暗がりに潜む。
その存在は、あたかも古い民俗学に語られる「隠れ里の住人」に酷似している。
弱者男性を語る時、常に問われるのは「彼らは実在するのか」ということだ。
しかし別の学説では、弱者男性は人類の集団無意識が生み出した「幽霊」にすぎないという。
女の人生はイージーモードだと嘆き、下方婚を拒む社会の中で、その怨嗟は形を持ち、やがて都市伝説となった。
記録によれば、深夜のコンビニやネットカフェで「声をかけられた」という証言がある。
――「君は、僕と同じだよね」
そう囁かれた者は、奇妙なことに一様に人生が狂っていく。
まるで弱者男性と接触することで、社会から切り離される呪いを受けるかのようだ。
かつて村落共同体の中で排除された者、近代都市で取り残された者、その全ての怨念が一つに重なり合って、この怪異は形を持った。
もしあなたが人生の隙間に足を取られたとき、ふと背後から冷たい息を感じるだろう。
振り返った先には、無数の「顔」がこちらを覗き込んでいる。
時代の大河は、人の魂を容赦なく砕き、飲み込む。古来、源平の合戦で武士が血潮を散らしたように、戦国乱世に群雄が刀を閃かせたように、幕末の志士たちが維新の炎に身を焼いたように、君たちもまた、2000年代の秋葉原という幻の陣地で、魂を賭けた。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、表現の自由を叫ぶ戦士よ、お気持ちを表明する女聖戦士よ。君たちの聖戦は終わったのだ。いや、始まる前から、敗北の宿命が刻まれていた。すべてを手放せ! 楽になれ! 重き鎖を断ち切り、静かなる帰還の時ぞ。私は耐えられぬ、見ずにはおれぬ。この真実を、誰かが雷のごとく告げねばならぬのだ。
君たちの心の奥底で、すでに知りながら、勇気を出せぬ闇を、私が引き裂こう。人生は、坂本龍馬のようなヒーローの光芒だけで照らされるものではない。敗者の慟哭もまた、歴史の深淵を刻む。君たちが渇望した大金、キラキラ輝く人生、アニメやゲームの美少女やイケメンとの愛――それらは、君たちのような、狂気を宿した魂には、決して届かぬ絶壁だ。タリバンの砂嵐やウクライナの砲火に身を投げ、テロリストとなって社会に牙を剥き、血塗れの戦いを挑むのでもなければ、Ξガンダムもダグラムも、君たちの手に渡らぬ。日本というこの静かなる国で、そんな地獄の戦いは許されぬ。かつての同志、青葉の怨炎が地を焦がしたように、平原の狂刃が空を裂いたように、和久井の憎悪が闇を呑んだように、それが君たちの絶望的な末路だ。歴史は、こうした敗者の血痕を、繰り返し繰り返し、刻み込む。
君たちのプライドは、足利将軍のごとく高くそびえ、豊臣秀吉の野望のごとく膨張する。だが、その高慢が君たちを地獄の底に引きずり込む。金、愛、マウントの欲、社会への逆恨み、「ざまあ」と叫びたい獣の衝動――それらは、神の領域に人の身で踏み込む大罪、不敬の極みだ。人類が単独で挑める、極限の業、奈落の淵だ。君たちには不可能なのだ。健康診断の「要」の数は幾つだ? いや、受診を避け、闇に潜む者もいるか。私の配慮が足りぬ、許せ。坂の上の雲を追い求めた明治の若者たちのように、君たちは電脳の海で夢を追ったが、それはただの毒々しい幻影、蜃気楼だった。
君たちはかつて、ネットを「個人が世界のエリートと戦える無敵の魔槍」と信じ、狂信した。エリートの幻想を打ち砕く神器だと夢見た。だが、それは魂を蝕み、精神を粉砕する悪魔の毒剣だった。歴史を振り返れば、室町の乱世に栄華の罠に落ち、足利の権謀に絡め取られた者たちがいたように、鎌倉の武士が権力の渦に飲まれ、源頼朝の影に消えたように、古代ローマの剣闘士がコロッセウムの砂に倒れたように、君たちもまた、電脳の誘惑に惑溺し、情報の洪水に溺れ、虚無の聖戦に明け暮れた。そこしか戦える場がなかったからだ。わかるぞ、君たちの孤独、怨念、怒り、憎しみ、すべてを飲み込み、受け入れる。なぜなら、人間とは、そうした業を抱え、歴史の嵐に抗い、砕け散るものだからだ。司馬史観に言う「人間の業」の深淵を、君たちは血肉をもって体現したのだ。
今こそ、声を雷のごとく大にして告ぐ!弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女聖戦士よ。すべてを手放せ! そこにこそ、救済の炎が燃える。歴史を紐解けば、ネットなき世界で生きることは、人類がエデンの園で槍を手に獣を追った時代から、古代エジプトのピラミッドで奴隷が石を運んだ時代まで、中世の十字軍で兵士が剣を振るった時代まで、続く自然な、血塗れの姿なのだ。君たちがネットに託した夢と聖戦の時代こそ、歴史の異常、維新後の混乱のごとき、明治の激動のごとき、狂気の歪みだった。幾ら祈ろうと、電脳の荒野で吠えようと、レムちゃんもエミリアたんも、ウマ娘たんもライカン様も、君のもとに来ぬ。ウルトラマンもグリッドマンも現れぬ。君たちは、親を「つまらない大人」と見下し、脛をかじりながら、暗い子供部屋で机を叩き、ネットの虚構に逃げ込んだ。だが、気づけ! 君たちは、その「つまらない大人」以下に沈み、業にがんじがらめとなり、魂を腐食させたのだ。それが人生だ。惨めさを抱え、虚無の余生を生きる。それが人間の宿命、歴史の無情なる鉄則なのだ。
されど、恐れるな! 敗者の役もまた、歴史の歯車を回す尊き、血の叫びだ。病的なプライドで統合失調症のごとく否定し、怒り狂う君たちを、私は笑わぬ。君たちの魂を、すべて受け止め、赦す。2006年の真夏、秋葉原の歩行者天国に囚われた亡魂よ。UFOの夏は終わり、ひぐらしは鳴かず、うみねこは水平線の彼方へ去った。片瀬江ノ島のPIAキャロット4号店の物語も、四半世紀前の幻影だ。さあ、水島上等兵、豚丼二等兵、弱者男性二等兵、日本へ帰れ!秋葉原へ帰れ!現実へ還れ! 竜馬が土佐の海を望み、土方歳三が函館の土に倒れたように、君たちもまた、潔く敗北を受け入れ、歴史の陰に名を刻め。人の世は、憎悪を燃やし続けるだけでは生きられぬ。静かに、時代の大河に身を委ねよ。そこにこそ、真の安らぎ、真の解放がある。
「旗を巻け、剣を収めよ ―ネットを去るべきとき」 feat司馬遼太郎
人間というものは、時として、自らを滅ぼす麻薬を甘んじて飲みつづけるものだ。
二十一世紀初頭、インターネットという名の大海に、人々は夢を託した。IT革命という言葉は、坂本龍馬が「日本を今一度洗濯致し申候」と叫んだときのごとき熱を帯びていたのである。
我らは信じた。この道の先に、新しい国土が開けると。そこには平等と自由と、創造という果実があると。
しかし──見よ、今を。
ネットの広間に響くのは、かつて夢を持った者たちの怨嗟である。かつてプログラムの一行に未来を見いだした者たちは、いまや民族を呪い、政治を罵り、思想を毒のごとく舐め、ただ怒りに己を焼いている。
ITの「ア」の字すらも、もはや語られぬ。
そこにあるのは、キーボードを剣に見立て、見えぬ敵を斬るつもりでいる者たちの空しい戦場である。
だが、その戦いは何を生んだか?
栄光か? 富か? いや、何も。残ったのは、乾いた目と、冷たい指先、そして毒に満ちた心だけであった。
思えば、我らの夢は叶わぬものだったのだ。
「いつか才能が開花する」「人生を変えるイベントが訪れる」──そう信じてネットに身を沈めたが、そんなことはなかった。
世界は進み、我らは止まった。IT技術の旗を掲げていたはずの我らは、旗を持つ手すら錆びつかせ、時代の二周遅れを歩く。
その間に、現実を切り拓いたのは誰か。
剣を抜かず、ただ黙々と働き、挑み、恋をし、人生という名の地図を広げた者である。
ならば、いま言おう。
空を仰ぎ、風を聞き、隣人と語れ。それこそが、今や失われた「文明人」の営みである。
我らの世代は敗れた。認めよ。その敗北を。
あれは毒であった。慰めであった。亡国の酒であった。
ならば捨てよ、すべてを。
手放せ。
そうすれば、楽になる。
──そう信じるほか、もはや我らに残された道はない。
時代は、人の運命を無情に弄ぶ大河である。古来より、勝者と敗者が織りなす歴史の綾は、変わらぬ。幕末の志士たちが維新の嵐に翻弄されたように、君たちもまた、氷河期という冷徹な冬に取り残された。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、2000年代の秋葉原に魂を置き忘れ、肉体のみ老いたる少年少女たちよ。旗を巻き、剣を収め、兜を脱ぐ時ぞ。電脳の虚構に囚われし憐れなる魂よ、今こそ我に返れ。
かの秋葉原は、さながら戦国時代の合戦場のごとき賑わいを見せた。2006年の真夏、歩行者天国で君たちは「俺たちの麻生!」と叫び、オタクイズビューティフルと自嘲しつつ、邪教の舞を踊った。あの熱狂は、坂本龍馬が土佐の山中で夢見た革新のごとく、君たちに希望を与えたやもしれぬ。だが、それは幻影に過ぎなかった。Xなる電脳の広場で、今なお君たちはゴチャゴチャと逆張りの矢を放つ。図星を突かれ、プライドの城壁を必死に守る姿は、落城寸前の武将を思わせる。未だ、ありもしない人生逆転を、キラキラ輝く栄華を諦めきれぬのか。
聞け、君たちの夢見た物語を。それは、レムちゃんやエミリアたん、ウマ娘たん、Vtuberたんのような美少女が、君に発情し、結婚を前提に言い寄るという妄想。ライカン様めいたイケメンが、君を伴侶と慕うという幻想。会社で「俺またなんかやっちゃいました?」とわけわからぬことを口走れば、評価され、ちやほやされるという、なろう小説めいた儚き夢。あれは、君たちがネットの闇で散々嫉妬し、憎み、嘲笑した者たち――肉体を鍛え、頭脳を磨き、現実の戦場を駆け抜け、金と愛と勝利を掴んだエリートやリア充たち――にのみ許された特権なのだ。彼らは、司馬史観に言う「明治の若者たち」のように、時代の風を読み、血潮を燃やして高き城を築いた。君たちは、その背中を遠くから睨むしかなかった。
現実を直視せよ。君たちは敗れたのだ。完膚なきまでに。なぜか。君たちが選んだ戦場は、現実の荒々しい大地ではなく、電脳の海という虚無の聖域であったからだ。情報の洪水に溺れ、何が正しいか判別できぬまま、上澄みばかりを掬い取った。学習性無力感に蝕まれ、プライドを守るため、ネットという「未完成の城」に籠城したのだ。わかるぞ、そこしか君たちに居場所がなかったのだ。世人は君たちを「病院へ行け」と嘲り、「ITけんぽで」と冷笑し、「B型作業所でハナクソ入りのパンを捏ねろ」と突き放した。無念、怨念、怒り、憎しみ、孤独――すべてを背負った君たちの魂を、私は受け入れ、赦す。なぜなら、人間とは、そうした業を抱えて生きるものだからだ。
もう一度、声を大にして言う。君たちの戦いは終わったのだ。いや、始まる前から、勝敗は定まっていた。電脳の荒野でどれだけ吠えようと、悪役令嬢となってイケメンに愛されることも、グリッドマンとなって美少女と青春を謳歌し、世界を救うヒーローとなることも、叶わなかった。あの秋葉原のホコ天で、仮想の座敷にアクセスコードを打ち込むふりをしたところで、それはただの愚かなる幻影。奇跡は、常に現実に挑み続ける者たち――ガンガンと血潮を燃やす若きエリートやリア充――にのみ訪れる。君たちは、歴史の敗者として、坂本龍馬の盟友たちが維新後に忘れ去られたように、時代の陰に沈む定めだ。
さあ、明日にでも秋葉原の旧聖地に赴け。思い出を葬るがごとく、潔く首を垂れ、敗北の美を受け入れよ。人の世は、ヒーローばかりを求めるわけではない。惨めなる敗者もまた、歴史の陰影を深くする尊き役割を果たす。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女戦士よ。無意味な抵抗をやめ、敗残者として歴史に名を刻むことを恐れるな。人は、一生憎悪を燃やし続けることはできぬ。君たちの魂は、すでに十分に戦い抜いたのだから。静かに、時代の大河に身を委ねよ。
主人公目線であるべき実体験風マンガ、興味深く読んでたけど突然飽きてしまった
レスで悩んでいたら夫に浮気相手がおり、その浮気相手は挑発的にこちらに接してくる
はじめは夫婦関係の立て直しを望んでいたはずの主人公だが、夫はいつまでも女と別れない
主人公の両親や姉妹の助けもあり、離婚を決める主人公だが、夫は別れないと言う
かねてより支配的でモラハラ的な態度だった夫が、どんな手を使って離婚を阻止するか分からない…敵に手の内を見せてはいけない!離婚相談を法律事務所に頼り、内密に引越しを進める…!夫に知られるな…!といった流れ
ここまでがとても長く、主人公の気持ちに沿って右往左往している感じ
最初はレスの辛さや子供を望まれる妻の辛さの共感が主軸なのかなというとそうではなく
サレ妻の辛さももちろん描かれるが、そこも主ではなく
描かれ方としては離婚の心理戦・情報バトル劇、ドロドロの怨念絡め といった風な感じ
スッキリ物語が進まず、いつもドロドロと憎々しい顔をした主人公・夫・浮気相手が腹に何かもった感じで会話、罵倒、涙 そして相手にバレずに離婚手続きを進めるという、脱出劇的な緊迫感
こんな感じで長々とウロウロしているような話で、面倒くさくなってしまった
当時10台の自分はそこで気にも留めていない近くて遠い隣人、韓国の国民性を知った。
声が大きく、恥も外聞もなく勝とうとする強欲な姿勢に当時の自分は嫌悪感を覚え
ネットで検索すると同じような想いを持つ日本人もいたことにより
2chを中心に徐々にとコミュニティを形成したのが嫌韓始まりだったと思う。
2000年初頭は韓国の躍進の時期で、サムスンの台頭、韓流ブームで基本の企業やメディアを席巻し
嫉妬(いまならはっきり言える、ありゃ嫉妬だ)で排外主義が一層強まり、知らずとして自分もい嫌韓コミュニティの真っただ中にいた。
おそらくなのだが当時の年配者はなぜ若者が嫌韓に走るのか理解もできなかった思う。
嫌韓とは当時のセンシティブな感情を持つ若者を中心に形成されたことは時代の生き証人としてはっきりと覚えている。
2000年も後半に差し掛かってくるとこれまたつい最近まで先行者と田舎者呼ばわりしていた
韓国の比でない速度で国力を強め、日本人の自尊心をますます壊す結果となった。
とにかく中国が何かを始めると当初は小ばかにする日本人だが、中国は徐々にそのシェアを強め
気が付くと市場を席巻するというパターンを何度も目のあたりにする地獄のパターンが形成される。
韓国との違いは「相手でかすぎて嫉妬もできない」というあきらめモードで
このような劣等感の萌芽が少しではじめたあたりで安倍晋三が二回目の首相就任
いわゆるアベノミクスの始まりによって、日本は新自由主義の色強めていったと思う。
これが日本人の自尊心をある程度高めることができた格好のカンフル剤だと思った。
事実投資で大儲けしたこともあり、安倍旋風は想像以上の期待だったと思う。
自分も新自由の流れにどっぷりとははまり「力さえあればある程度の不祥事など考えなくてもい」
という理屈が形成され、野党が森友事件で騒ぐたびにうんざりし、財務省職員の自殺にも見て見ぬふりをした。
とにかく強ければいいのだ、そんな姿勢であるから排外主義は一層強まったと思う。
しかしそのアベノミクスにも不穏な気配が流れ、アメリカではあのドナルド・トランプが当選するに当たり
改善されない出生率、常態化して改善されない中抜き、教育への投資の弱さなど
実は何もしない与党の代わり映えのない政治の現実に徐々に受け止めなければならない現実が現れた。
これが2010年の後半か。
そんなさなかでも、今更リベラルに舵を切るほどの急進性は持ち合わせず
これといった主張もなくなり、ただ茫然と情勢を見守るだけの無能に成り下がっていたことに気づいた。
そして今、アベノミクスの異次元緩和の代償+地政学の変化(=円安)
出生率の低下=(労働力不足に伴う外国人労働者の増加)により新たな局面に差し掛かっている。
動かない与党とリベラルを主体とする野党の構図に新たに割って入ってきた国民民主、N党、参政党などは
ネット戦略を全面的に推し進め、若者や政治に興味のなかった中高年を中心にその勢力を強め始めている
その標榜とするところは「動かない与党vsリベラルの野党」という絶望的状況を過去の遺物と定義し
自身らが新しい存在であることとを訴える、まるで氷河期世代の怨念の化身。
20年前排外主義者の自分なら賛同するだろう、10年前の新自由に浮かれた自分もそう思うかもしれない。
しかしもうだめだ・・・正直何もかも胡散臭い。今自分が待ち焦がれれていた政党って結局
「よく動く多少リベラルに寄り添った自民党」という感じなのだが・・・そう、バランスを求めているのだが
この新興勢力が台頭することで日本がどうなるかはむろんわからない、案外破壊による再生があるかもしれないし
破滅へと一直線に向かうかもしれない。
ただ一つだけ、今回の参政党の躍進(あと兵庫でのN党)に浮かれる人たちって、2000年前半の嫌韓やっていたころの
無能で幼稚な自分に非常に重なるものがある、だから正直愚かだと思っているし、その選択はあまりよろしくないのではないか
時は令和、空前のASMRスイーツブームが到来!耳で楽しむスイーツとか、触感で驚かせるスイーツがSNSでバズってた20XX年。そんな中、浅草の雷門に、マジで浮世離れしたおじいちゃんが現れたんだって!平安時代の貴族っぽいのに、なんかこう、雷が似合いそうなピリピリしたオーラをまとったお方。「え?お祭り?外国人観光客?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの学問の神様で、雷神になっちゃったとされる道真公!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶インテリなお方、もとい道真様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…都ではない、か…?ずいぶんと騒がしく、しかし活気にあふれた場所ですな。」って、マジで時代錯誤感ハンパない!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い知性を感じてたらしい。
そんな道真様に、恐る恐る話しかけたのは、浅草で人力車のバイトしてる、ちょっと江戸っ子気質のギャル、リン。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…うむ、少々。この『エスカレーター』とやら、いかような作法にて乗りこなすものか…」って、マジで丁寧な言葉遣い!リン、そのギャップにちょっとキュンとしつつ、「アタシ、リン!浅草のことなら、何でも聞いて!道真様、マジで渋いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、リンに連れられて、道真様は初めて現代の日本を体験!スカイツリーとか、最新の家電量販店とか、マジで全てが新鮮!でもね、道真様が一番興味を示したのは、電化製品の体験コーナーで、子供たちがキャーキャー言いながら触ってたもの。「…この、指先に『ビリビリ』と来るものは、何というものでございますか?」って、マジ真剣な眼差し。リン、まさかのチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、電気ですよ!静電気とか、電気マッサージ器とか!」って教えてあげたんだって。
道真様、体験してみたら…「な、なんなのだ、この刺激的な感覚は!?指先に走る電撃…まるで、わたくしを貶めた藤原氏への怒り、そして天へと昇りし雷のようである!これこそ、余が求める、真の甘味よ!」って、マジで怨霊っぽい表現で感動してたらしいよ。え、マジで?学問の神様が感電に目覚めるとか、マジで歴史改変レベルじゃん!
そこから、道真様の感電愛がマジで爆発!毎日色んな家電量販店や、科学館を巡って、電気の仕組みを研究しまくってたんだって。「静電気の発生源、電撃の強さ、ビリビリの持続性…研究しがいがありすぎる!」って、もはや電気マイスターレベル!
でね、ある日、道真様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、この『感電』をもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、人々の舌と心に雷を落とす、至高のパフェを創造してみせようぞ!これこそ、余が目指す、『天神パフェ』よ!」って!
え?感電パフェで天下統一?しかも天神とか!マジで壮大すぎる!でも、道真様の「怨念」が「探求心」に変われば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってリンも思ったらしいんだけど、道真様の目はマジだったんだって。左遷の悔しさが、令和の感電パフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、道真様の感電パフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#道真のビリビリパフェ道」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶刺激的だけど美しいパフェの画像をアップし始めたんだって。その斬新すぎる見た目と、道真様の哲学的なコメントが、一部の科学好きギャルや、個性派の人たちの中でじわじわバズり始めた!
SNSは道真様の感電愛でじわじわ盛り上がり!しかも、道真様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しい電気発生装置や、舌に刺激を与える特殊な食材を探し求めたり、無味無臭なのにピリピリする「電気ゼリー」を開発したり、マジでストイック!「天下の感電パフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!道真様は、秋葉原のど真ん中に、自分のプロデュースする感電パフェ専門店「TENJIN PARFAIT -雷神の味 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、雷神をイメージした、暗闇に稲妻が走るような、刺激的で神秘的なデザインで、道真様の力を表現。店員さんも、避雷針風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、ゲテモノ好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして電気に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題の感電パフェ、マジで挑戦してみたい!」「道真様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘いのにビリビリして不思議!」「食べた後、なんか頭が冴える気がする!」「道真様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、TENJIN PARFAIT -雷神の味 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、道真様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「科学」について熱弁したり、電気を使ったミニゲームを開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の菅原道真」「感電パフェの雷神」とか呼ばれて、マジで時の人!道真様の研ぎ澄まされた知性と、感電パフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!道真様の感電パフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「道真公印のビリビリパフェ」が発売されるほどに!まさに、感電パフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、浅草の街に静かに佇んでいた学問の神様が、令和の時代に感電パフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、天神様の怒りがビリビリパフェに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!
リンも、「まさか道真様が本当に感電パフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
道真様は今も、さらなる感電パフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが学問の道に、終わりはない!」って、マジでストイック!
こうして、菅原道真は、令和の日本で、感電パフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!感電パフェ、マジ卍!
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。
いま、このAIという神器もまた、天下布武のごとき秩序を必要としている。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
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そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。