
はてなキーワード:性的指向とは
チャッピーに聞いたら
・「性欲がない男と付き合いたい」という願いは、場合によっては性欲の一種になり得る(特に「相手が性的に無欲であること自体に性的興奮を覚える」場合)が、一方で単なる生活の相性や安全を求める希望ならば性的欲求とは別物である
ってさ。
あと、
「性欲がないなら同性と付き合えばいい。男性と付き合いたい時点でそれは性欲だ」という主張については「過度に単純化した誤り」だと。
性的指向・恋愛志向・欲求・社会的要因は別々の軸であり、男性(異性)のパートナーを望むことは必ずしも性的欲求ではないと。
「誰に性的に惹かれるか(sexualattraction)」と「誰と恋愛的に結びつきたいか(romanticattraction)」は別。
人は「性的には惹かれないが恋愛的には惹かれる」ことがありうる(例:異性愛的なロマンティック・アセクシュアル=heteroromantic asexual)。その場合「男性と付き合いたい」は性的欲求とは無関係。
あとは
・社会的・文化的・実利的理由により、性別選好には性的な理由以外の現実的な動機が絡む。同性と付き合うことは必ずしもその代替にならないことが多い。
・ジェンダーやパートナーの役割に関する期待が「男性であること」と結びついている場合があり、これは性欲ではなく価値観やライフプランの問題。
だってさ。
増田やはてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。
→法の下の平等、参政権、教育・労働の平等機会を重視。例:メアリ・ウルストンクラフト、ジョン・スチュアート・ミル。
→ 家父長制の構造そのものを批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン。
→女性と自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題とジェンダー問題を結びつける。
→女性の特質・価値(共感、ケアなど)を肯定し文化的再評価を目指す。
→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。
→フロイトやラカンの理論をジェンダー批判的に再解釈(ジュリア・クリステヴァ、ルース・イリガライなど)。
差異のフェミニズム(difference feminism)
→ 性や主体の流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。
→性的指向・ジェンダー・身体の多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。
→人種・階級・性的指向・障害など複合的差別の分析(キンバリー・クレンショウ)。
→西洋中心的フェミニズムを批判し、植民地主義的文脈を分析(チャンドラ・モハンティなど)。
→科学技術と身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。
→SNS・オンライン空間における性差別問題と運動(#MeToo、#TimesUpなど)。
→フェミニズムの成果を前提にした「個人の選択」重視の潮流(批判も多い)。
→日本型の「母性保護論」「差異の政治」「ケアの倫理」なども特色。
Permalink |記事への反応(19) | 21:01
| 分野 | リベラルの立場 |
| ------------ | ---------------------------------------------------------------- |
| **経済** | 貧富の差を減らすために、税金や社会保障で政府がある程度介入すべきだが、利権界隈だけが富続ける |
| **社会** | 性別・宗教・人種・性的指向などの違いを尊重すべきだが、移民利権が政治家と官僚の優良天下り先で結局利権でボロ儲けしたいだけ |
| **政治制度** | 言論・報道・表現の自由を守り、国家権力を制限すべきだが、バンバンSNSの不都合な情報は削除されオールドメディアは反日一色 |
| **外交** | 国際協調・人権重視の外交を支持する傾向だが、ただただ他国の言いなり雑魚外交しかできない |
| 分野 | リベラルの立場 |
| ------------ | ---------------------------------------------------------------- |
| **経済** | 貧富の差を減らすために、税金や社会保障で政府がある程度介入すべきだが、利権界隈だけが富続ける |
| **社会** | 性別・宗教・人種・性的指向などの違いを尊重すべきだが、移民利権が政治家と官僚の優良天下り先で結局利権でボロ儲けしたいだけ |
| **政治制度** | 言論・報道・表現の自由を守り、国家権力を制限すべきだが、バンバンSNSの不都合な情報は削除されオールドメディアは反日一色 |
| **外交** | 国際協調・人権重視の外交を支持する傾向だが、ただただ他国の言いなり雑魚外交しかできない |
| 分野 | リベラルの立場 |
| ------------ | ---------------------------------------------------------------- |
| **経済** | 貧富の差を減らすために、税金や社会保障で政府がある程度介入すべきだが、利権界隈だけが富続ける |
| **社会** | 性別・宗教・人種・性的指向などの違いを尊重すべきだが、移民利権と優良天下り先で結局利権 |
| **政治制度** | 言論・報道・表現の自由を守り、国家権力を制限すべきだが、バンバンSNSの不都合な情報は削除されオールドメディアは反日一色 |
| **外交** | 国際協調・人権重視の外交を支持する傾向だが、ただただ他国の言いなり雑魚外交しかできない |
これは古くて新しい問題というか、かつて「性の解放」の文脈でフェミニズムの内部批判がとっくにあった話だよね
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」はフェミニズム、LG運動、ヒッピー文化の潮流の中で重要なキーワードで、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張だったんよ
しかしこの「解放」は、フェミニズム内部からも批判の対象となった
・商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌
→特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も
・上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた
このような問題提起から出てきたのがインターセクショナリティ(交差性) の概念やね
・1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にする
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったわけよ
トランスジェンダリズムも結局はこの枠組みの中の問題だったってことやね
トランスアライたちの多くはアカデミズムや上流階級出身で、一般女性の安全や権利についての理解ができていなかったわけや
アンケート用紙にあったwebアンケートはこちらのQRコードを読み込み忘れたから代わりに感想をここに書こうと思う。
演劇は一応、年に2、3回くらい気になるのがあれば観るけど...みたいな感じで、とにかく期待してがっかりするのも嫌だし、傷つけられるのも嫌だから、警戒して警戒して観終わるまで警戒し続けるのが癖になっている。
ちなみにいいへんじの公演は初めて見た、そして恥ずかしながら出演者はじめ誰のことも存じ上げずただタイトルだけで気になってビビりながら予約してしまった。
自分はクィアでセクシュアリティもジェンダーアイデンティティも明かさないけれど、少なくとも黙ってたら無いことにされがちな存在だ。自分自身でも自分が何者なのか油断したら自分の輪郭も分からなくなりそうなくらい。
「われわれなりのロマンティック」を観て、驚いたことがある。自分が想像したことのない、想像するという発想すら思い浮かばない「未来」みたいなのが「存在する」かもしれないということに気づいた。
自分のこの性的指向、性自認の人間の未来に、こういうことが起きる可能性もある、その場合にはこんなことが起きる可能性もある、と、知らない未来みたいなのがなんか沢山出てきて本当に驚いた。
自分が「将来」を想像できていなかったことに初めて気がついた。
なんていうか、自分にも「将来」があるってことに、初めて気がついて本当にどうしよう、という気持ちが正直なところだ。そういえば「将来」になる前に死ぬか、もしくは永遠に将来が来ない生活を送るような感覚でいたな。
「小中学生の性的少数者が当事者として物語(ロールモデルとか?)に触れられるように....」みたいな話を聞いたことはあったけど、自分は成人してから自分のことに気がついた人間だから、それは大事なことだけど自分とは関係ない話、自分は対象ではないことだと思っていた。
だけど、めっちゃ自分の話でもあったんだということに今回のことで気づき本当に驚いている。
もしかして「一般的」とされる、シスヘテロ異性愛規範に当てはまれる人たちは、普段から将来像みたいなものを小さい頃から数えきれないほど、いろんなメディアで、テレビcmや教材のレベルで触れてきたのか??と思うと、まじかよ!いいな!!!!!おれも沢山ほしい!!!!!!知りたい!!!!!!!!
ほんでずっと自分が遠い話として見てきたいろんな物語はなんだったんだろう。友達とどっちのキャラがいい?みたいなのも、もしかして互いに違う感覚のまま話してたんかな、とか色々思い出した。
引っかからない点がないわけではなかった、グラウンドルールの1番に「何でも話していい」があるのに、「相手のジェンダーやセクシュアリティを決めつけない」とかがないのは気になったし、あと開演前と終演後のBGMが割とガチャガチャしていてプレイリストを順番に流している感じも気になった。上演の中にある音楽と同じくらい大切に扱ってくれたらいいのにとちょっと思った。
そんなんもちょこちょこ思ったりもしたけど、でもとにかく、本当に、自分にとっては本当にびっくりする出来事で、とんでもないことを教えてくれたからありがとうという気持ちでいっぱいである。
自分が登場人物全員をキャラクターと俳優の姿をしっかり認識して観終われたのは、書いた人が、つくった人たちが丁寧に向き合ったからだと思う。2人とか、3人だけじゃなくて、9人で書いてくれたから、9人の俳優がいてくれたから最後まで座って観ていられたし、助けられた。
最終公演まで、みんな元気に駆け抜けてほしい。
そして座席の数がゆるす限りできるだけ多くの人がこの公演を見て、分からなくても考え続けて生きていってくれたら、自分は多分どこかでほんの少し救われる。
もし自分みたいな人がいたら、演劇を観たことがない人でも、試しに、恐る恐るでいいから観に行ってみてほしい。東京の三鷹ってとこでやってるよ。
アンケート用紙にあったwebアンケートはこちらのQRコードを読み込み忘れたから代わりに感想をここに書こうと思う。
演劇は一応、年に2、3回くらい気になるのがあれば観るけど...みたいな感じで、とにかく期待してがっかりするのも嫌だし、傷つけられるのも嫌だから、警戒して警戒して観終わるまで警戒し続けるのが癖になっている。
ちなみにいいへんじの公演は初めて見た、そして恥ずかしながら出演者はじめ誰のことも存じ上げずただタイトルだけで気になってビビりながら予約してしまった。
自分はクィアでセクシュアリティもジェンダーアイデンティティも明かさないけれど、少なくとも黙ってたら無いことにされがちな存在だ。自分自身でも自分が何者なのか油断したら自分の輪郭も分からなくなりそうなくらい。
「われわれなりのロマンティック」を観て、驚いたことがある。自分が想像したことのない、想像するという発想すら思い浮かばない「未来」みたいなのが「存在する」かもしれないということに気づいた。
自分のこの性的指向、性自認の人間の未来に、こういうことが起きる可能性もある、その場合にはこんなことが起きる可能性もある、と、知らない未来みたいなのがなんか沢山出てきて本当に驚いた。
自分が「将来」を想像できていなかったことに初めて気がついた。
なんていうか、自分にも「将来」があるってことに、初めて気がついて本当にどうしよう、という気持ちが正直なところだ。そういえば「将来」になる前に死ぬか、もしくは永遠に将来が来ない生活を送るような感覚でいたな。
「小中学生の性的少数者が当事者として物語(ロールモデルとか?)に触れられるように....」みたいな話を聞いたことはあったけど、自分は成人してから自分のことに気がついた人間だから、それは大事なことだけど自分とは関係ない話、自分は対象ではないことだと思っていた。
だけど、めっちゃ自分の話でもあったんだということに今回のことで気づき本当に驚いている。
もしかして「一般的」とされる、シスヘテロ異性愛規範に当てはまれる人たちは、普段から将来像みたいなものを小さい頃から数えきれないほど、いろんなメディアで、テレビcmや教材のレベルで触れてきたのか??と思うと、まじかよ!いいな!!!!!おれも沢山ほしい!!!!!!知りたい!!!!!!!!
ほんでずっと自分が遠い話として見てきたいろんな物語はなんだったんだろう。友達とどっちのキャラがいい?みたいなのも、もしかして互いに違う感覚のまま話してたんかな、とか色々思い出した。
引っかからない点がないわけではなかった、グラウンドルールの1番に「何でも話していい」があるのに、「相手のジェンダーやセクシュアリティを決めつけない」とかがないのは気になったし、あと開演前と終演後のBGMが割とガチャガチャしていてプレイリストを順番に流している感じも気になった。上演の中にある音楽と同じくらい大切に扱ってくれたらいいのにとちょっと思った。
そんなんもちょこちょこ思ったりもしたけど、でもとにかく、本当に、自分にとっては本当にびっくりする出来事で、とんでもないことを教えてくれたからありがとうという気持ちでいっぱいである。
自分が登場人物全員をキャラクターと俳優の姿をしっかり認識して観終われたのは、書いた人が、つくった人たちが丁寧に向き合ったからだと思う。2人とか、3人だけじゃなくて、9人で書いてくれたから、9人の俳優がいてくれたから最後まで座って観ていられたし、助けられた。
最終公演まで、みんな元気に駆け抜けてほしい。
そして座席の数がゆるす限りできるだけ多くの人がこの公演を見て、分からなくても考え続けて生きていってくれたら、自分は多分どこかでほんの少し救われる。
もし自分みたいな人がいたら、演劇を観たことがない人でも、試しに、恐る恐るでいいから観に行ってみてほしい。東京の三鷹ってとこでやってるよ。
米国を中心に巻き起こっているダイバーシティ(和訳は多様性)なんだけど
これはあくまで
「人種・性別・宗教・性的指向などによって差別や不利益を受けないようにする」ために
「それらがいい感じに混ざった状態を目指す」と言う考え方なんですよ
これさ、日本人にはまったく理解できないというか、何ならアメリカ人にしかわかんねーだろって話に思えるんだけど
だから「意見の多様性」「スタンスの多様性」みたいな話はしてないわけ
日本人は理解できないから「いろんな意見や主義主張を受け入れる自由な状態」って勘違いしがちなんだけど
あちらさんは人種や性別など、大きなテーマでの話しかしてないんだけど
最近腐女子に対して「○○はホモじゃない!」「ゲイじゃないキャラを勝手にゲイにするな!」と批判している人をよく見かけるが、こういう意見を見かけるたびに「それなら異性愛者という根拠もなくね?」って思ってしまう。
「いやいや、ゲイなら原作でそう描くはずでしょ」とおもうかもしれないが、それこそヘテロノーマティビティ(異性愛規範)なんだって。
カミングアウトしていなければその人を異性愛者と決めつけるのはただの差別だし、カミングアウトしていない同性愛者の存在を無視してるんだわ。
例え原作で女性キャラにときめいている描写があっても、両性愛者の可能性はあるしね。
まあ恋愛ものの二次創作全般嫌いという人には何も思わないよ。男女百合BL全部の二次創作を等しく批判するならそれは真っ当だと思う。
キャラの性的指向を勝手に決めつけて恋愛させるっていうのは確かに良くないことではあると思う。
ただ、それをしてるのは男女も百合も同じなのに腐女子だけ叩くっていうのはダブスタじゃないかという話。
「異性愛者である根拠もないし同性愛者である根拠もない、だから恋愛もの二次創作は等しく悪いよね」ならわかるけど、BL(腐女子)だけ批判するのは「別に異性愛者という根拠もないけどそのキャラはホモじゃないに決まってる!二次創作BLだけキモいから叩く!」ってことでしかないし、何の正当性もない。
多分「自分の好きな男性キャラがゲイだったら嫌だ!」「普通のカッコイイ男性キャラは異性愛者であってほしい!ゲイの可能性があるなんて受け入れられない!」「LGBTキャラは俺様がシコれる美少女百合か可愛い男の娘かネタとして面白いオカマキャラしか認めない!それ以外は全部ポリコレか腐媚び!」って心理なんだろうな。
昔は「ホモは変態だしそれを好きな腐女子も変態!」という直球の差別が行われていたけど、今はそれが許されないご時世だからあくまでキャラ改変が悪というスタンスに切り替えたんだろうな。でもキャラ改変が悪なら全部の非公式CP二次創作が悪だし、全然ミソジニーとホモフォビアが隠せてない。
わざわざアナルでセックスをさせるというオナニズム(不妊娠性交)の異常性によってマウントを取ったような気持ちになるんだろう。
入れられる側はケツアナをチンコに浸していることにより、入れている側はチンコをケツアナにねじ込んでいるということで征服感が満たされる。
BLは「女性の性的消費が男性性に依存させられる」という話を定期的に見るのだけれど、そのたびに「すみません……でもなんか違うの……でもでも怒られても仕方がないよな」という微妙な気持ちになる。
多分、BL文化は「少女マンガの読者からこぼれ落ちてしまった女の子」たちのシェルター的に育っていた背景があるからなのだと思う。自分もその1人だ。
BLの源流とされるのは、1970年代「花の24年組」と呼ばれる作家たちの作品群だ。少女マンガなのに、主人公が少年である物語が多かった。
代表格の竹宮惠子先生によれば、当時の少女マンガには制約が多く、主人公が少女だと描けない物語が山ほどあったという。少女が主体的に動こうとすると「生意気」とされ、編集部から許可が下りない。だからこそ少年を主人公に据え、「女の子が言えないことを言ってくれる」物語にしたそうだ。萩尾望都先生も「少年を描くことで、女性が受けてきた社会的制約から解放される強い感覚があった」と語っている。要するに「少年=少女=私」。少年を着ぐるみ的に着せてもらった作品群と言えるのかもしれない。
そんな24年組の雰囲気を引き継いだのが、BL雑誌…というか、美少年作品を取り扱う雑誌「JUNE」で、編集長を務めた佐川俊彦氏は『「JUNE」の時代BLの夜明け前』で、こういう風に語っている。
女の子が美少年の姿になると「自由」になれる。女の子のままだと制約が大きすぎて何にもできない、冒険ができない。さまざまな現実のプレッシャーから逃げて身を守る、戦時中の、空襲の爆撃から守ってくれる「防空壕」みたいな役割を果たせるのが、「JUNE」なのではないか?僕はそう考えていました。
「24年組」の作家さんたちの多くは、本当に男の子になって冒険するみたいな、宇宙にも行くみたいな物語が描きたかった。少年マンガ的なノリで、自分も少年になって、「自由」にふるまいたかったわけです。
その「自由」の中に、もちろん「性的な自由」も入ってくる。女の子のままじゃダメで、美少年になったらできる。でも「中の人」は女の子なので、その対象の相手は男になる。
当時の多くの女性は「結婚して、仕事をやめて主婦になる」という道を歩んでいた。そうした「ジェンダーロール」や「社会的圧力」に居心地の悪さを抱えた少女たちにとって、BLは切実な願いを託せるファンタジーだったように思う。私自身も、一生働きたい、自立したいと願っていた少女だった。けれど現実では「女としてダメ」という言葉を向けられることも多く、その中で自己肯定感は削られていった。その度にBLの物語は脱出口のように機能した。
BLでよくある展開として「こんな俺なんて」となる受けに「そんな(外側からの評価なんて)関係ない、俺はお前と一緒にいたいんだ」と攻めが寄るシーンがある。これは「女としてクソだと言われ続けていた私」をどうにかして誰か認めてくれないかという願望をもった自分には不思議なことに強烈に響いた。違うけど根本は同じ、みたいな。こじれた少女マンガ……と言ってもいいかもしれない。
余談になるが「JUNE」を出版するサン出版では、ゲイ雑誌「さぶ」も出ていた。「JUNE」はゲイカルチャーではなく、「少女のための雑誌」と明確に分類がされていたそうだ。
もちろんBLは常に歓迎されてきたわけではない。90年代にはミニコミ誌を中心に、ゲイ当事者から「女たちは勝手にゲイを弄んでいる」という批判が噴出した。これが「やおい論争」だ。
論争の発端となったゲイ当事者でもある佐藤雅樹氏はミニコミ誌 『CHOISIR』20号 (1992年5 月) でこう綴っている。
俺たちゲイのセックス描いて、男同士がセックスしてる漫画読んで、喜んでいるというじゃないか。そんな気持ちの悪い奴らを好きになる理由も必要もない。第一、不快だ!
(中略)ゲイのセックスは、男からは嫌悪、女からは好奇の視線でしか見られない。オレたちのセックス覗いて喜んでいる女、鏡見てみろよ、覗き見してる自分たちの表情を!
この論争は読者にも衝撃を与え、BLのあり方を見つめ直すきっかけとなった……が、昨今はBL市場があまりに大きくなり、この歴史を知らない人も多い。
私は、BLは単なる「女から男への性的消費」では括れないと思う。そこには当事者批判の歴史も、多様な表現への発展もある。そして「少年の着ぐるみ」を着て得る自由は、百合やバ美肉にも通じる部分がある。
根っこにあるのは、性的指向以前の、もっと切実な願い――現実で奪われた行動の自由や存在の肯定を、別の姿を通して手に入れたいという欲求だ。
私は「BLは無罪だ!」と大声で言う気にはなれない。「少年の着ぐるみ」を着させてもらっている身としては、「いいとこ取りしようとしている」罪悪感があるからだ。行き過ぎた表現への懸念もあるだろう。それでも、この場所で救われた自分がいる。一部の大きな声で、すべてが否定されるのはなんだか悲しい。この文化が衰退しませんように。
Permalink |記事への反応(16) | 13:04
https://anond.hatelabo.jp/20250803192331
ごめんなさい、元増田への反応になってませんでした。初投稿だったから許してください。
当事者ど真ん中(左派、戸籍変更済みトランス女性、ついでにADHD投薬中兼ASDボーダー、気分障害既往歴あり)だから一応反論しておく。
元増田が課題として挙げていた三点を左派こそ考えるべきだよねっていうのはそうですねって読んでだけど、追記はさすがにどうしようもないから反論しておく。
端的に言って元増田の追記での主張は単なる「なんでも左派が悪い」論の亜種にしか見えないし、極右による分断工作だって言われても信じるレベル。
差別主義者にあなたがしてることは差別ですって言っても問題が解決しないのはその通りだけど、それで左派が負けてますは無理があるでしょ。少なくとも私が見てた範囲、参政党の批判の文脈で認定だけして終わりのプロテストなんて全然なかったと感じたし、仮にあったとしてそれを全部左派の責任にして何がしたいの?差別主義者が現れたとき、まず第一にすべきことは「あなたがしてることは差別です、やめなさい」って言う以外に何かあるんですか?そこで終わる怠惰さが敗因だって言ってるけど、世の中に差別とデマを掲げて選挙制度自体を壊そうとしてるような政党が現れたらカウンターとして「差別主義者認定」が増えるのは当たり前のことじゃないですか?それのどの辺が左派の敗因なのかわからない。そもそも「左派が負けてる」っていうけど、それが何を指してるのかも不明なんだけど。
最大限譲って、追記の主張内容が「前回の参院選における左派政党の対参政党選挙戦略が「差別主義者認定」のレベルで止まっていた、それが左派政党が伸び悩んだ原因である」くらいの内容だとしても事実誤認だと思う。
野田の発言とか一切無視してる?普通にファクトチェックレベルから始まって、どのような社会にしていきたいか語っていたと思うんだけど。その社会像が有権者に受けなかったから伸び悩んだっていうのはあるのかもしれないけど、差別主義者認定で終わってたっていうのは完全に間違ってるでしょ。
あとコメントにも「トランス問題で左派政党は女性票・フェミニスト票を失った」論者が現れてるけど、これも単にそういうことにしたいだけだよね。当事者としてそれなりの年数生きてた経験ベースで言うけど、世の中「トランス女性問題」なんて誰も気にしてないレベルで問題になってないよ。当事者と極右と一部のフェミニストを自称する集団が延々と内輪で議論してるだけで本当に誰も気にしてない。単にそれを問題にしたい人が一生擦ってるだけ。
以下元増田の挙げてた課題に対するコメント。エビデンスベースじゃないから読む価値ないと思うなら読まなくていいよ
「左派はデトランジション事例自体を知らない傾向にある。」はその通りかもね。というか当事者もデトランジション知らない人とか全然いると思うよ。だってトランス自体が少ないのにその中でもさらにマイノリティのデトランジションなんて件数が全然ないんだもん。それを知らないのを知的怠惰っていうのは無理筋でしょ。左派にばっかり求めすぎというか、世の中全ての人が全てのことに興味あるわけじゃないんで。
私自身ASDボーダーな上にASD傾向の強い人間が集まるコミュニティにいたから、明らかにASD傾向がある人が異性装とか始めて段々性別違和とか感じて最終的にトランスとして自分を定義しましたみたいなのいくらでも見たことあるけど、そこですらデトランジション本気で考えてる層なんて少数派だったよ。自分の性別違和がASD傾向や性的指向に基づくものなんじゃないかって悩んでる人ならいくらでもいたけど、そこそんなに簡単に区別できないの少し考えたらわかるよね。
あと「英国GPデータでGD児の半数超が不安・抑うつ歴。」って記述あるけど、これ普通に因果が逆なんじゃないの?元のデータ見てないから知らないけどトランスなんてほとんど全員病んでるか病んでたなんだから不安・抑うつ歴があって当たり前では?
結論が誤診を減らすために属性でスクリーニングして不可逆的措置は未成年には行わない方針にするになってるけど、これは非現実的でしょ。
原文では不可逆的措置に外科手術しか記載がないけどホルモン療法だって完全に不可逆的措置だよね。当事者のほとんど全員が子供のころからフラホル(フライングホルモン個人輸入などを使って未受診のうちにホルモン療法を自分で始めること)しとけばよかったって思ってる世界で、未成年はホルモン禁止ですって方針にしたっていたずらに当事者の苦痛を伸ばしてフラホル勢を増やすだけだよ。属性によるスクリーニングも上記の通り、そんな簡単に性別違和と各種属性を切り分けられないことは明らかなんだから、結果として逆の誤診( 「本当に」性別違和なのにASD等の属性もあるため治療を受けられない )を増やすだけだと思うよ。未成年を守れって簡単に言うけど、当事者の未成年はどうでもいいって言ってるように見える。
あとごめん、これはこっちが完全に無知なだけかもしれないけど「トランスジェンダー医療からのデトランジション(転換撤回)や後悔を告白する動画がバズったことが、昨今の急激な反トランス風潮の原因となった。」ってあるけどこれどこの世界の話なの?そんな動画全く聞いたこともなかったんだけど世の中私が知らないだけで、そんな動画がバズってるの?当事者が知らないようなバズが反トランス風潮の原因になったっていうのはさすがに無理があると思うんだけど、その辺どう考えてるか聞きたい。いまちょっと検索した限り全然そんな動画みつからなかったんだけど、なんか探し方が悪いのかな。これ本当なら純粋に教えてほしい。
これは割と妥当な議論だと思う。トランス特にMtFには体育やスポーツ自体にいやな思い出がありすぎて(私もその一人だけど)この問題を完全無視してる層が結構いるけど、割と話題になりやすいしデマも含めて何度もやり玉にあがってるんだからそろそろ界隈や政党は正面から向き合った方がいいっていうのは一理あると思う。個人的な意見を言うと、MtFの多くがスポーツ問題なんて嫌いなんだから左派も「トランスの女性スポーツへの参加は当然の権利だが、競技の性質上特に大会などではテストステロン値などで厳格な基準を求めていく」くらい言ってもいいかもね。
これは本当に難しいよね。私自身かなり異性愛者寄りだから語りづらいっていうのを差し引いても、ちょっとどうしようもないなって思うし落としどころが見つからない。「すべてはパス度の問題である」は本当に一種の真理だし「シスレズビアン限定パーティー」と「30歳以下女性と年収800万円以上男性限定の婚活パーティー」は何も違わないと思うしどっちも問題だと思う。
LもTもマイノリティ同士手をつないでいけたらいいなとは思うけど、残念ながら増田が言うように単なる性的資本の問題を差別だって騒ぐトランスがいるのは事実だし現実的にどうすればいいんだろうね。難しいしか言ってなくってごめんね。
後コメントに「MtFレズビアンはMtFレズビアンと付き合えば良いのでは?」って人いるけど、割とそういうカップルいるよ。シスしか無理みたいな人もいるだろうけど。
トランスジェンダー医療からのデトランジション(転換撤回)や後悔を告白する動画がバズったことが、昨今の急激な反トランス風潮の原因となった。
当事者の多くはトランス医療を継続するが、医療費が払えなくなったという経済的理由で断念したり、そもそも「トランス診断が誤診だった」という理由で撤回する場合がある。
以下の属性は誤診によるトランス治療の撤回が多いハイリスク群とされている。
あまり考えてない左派はデトランジション事例自体を知らない傾向にある。そうした知的怠惰さが、「トランスジェンダーなど存在しない」と言い張る、未だに聖書にすべての正解が書かれていると妄信する病的な宗教右派に利用されている。「トランスジェンダーなど存在しない」も「誤診など存在しない」も、両方愚かなのである。トランスジェンダー医療には誤診を防ぐためのASDスクリーニングや精神障害・パーソナリティ障害・被虐待経験のスクリーニングが非常に重要であり、不可逆的措置である外科手術などは18歳以降に行うなどの、不安定な未成年の保護こそ重要である。
女子スポーツでトランス選手が「片っ端から無双」し続けているかというと、水泳のリア・トーマス選手など世界で十数例程度でしかない。毎回大きく報道され、トランス選手の優位性が過大評価されている可能性がある。しかしトランス選手が優位というエビデンスのある種目もあり、治療期間による差もある。そうした個別要素が無視されて「男性が女性枠内で全面的に勝っている」とセンセーショナルに報道されがち。
多くの競技団体が近年テストステロン基準を厳格化(例:World Athleticsは5 nmol/L以下を24か月維持)し、女子カテゴリーでの継続的優位を構造的に得にくい方向へルールが動いている。ルールの改定がないとスポーツの価値にかかわるフェアネスが崩壊するため、競技団体は慎重に対応する必要がある。このテーマに対して、右派は「男性が女性枠内で全面的に勝っている」と元男体の優位性を過大に強調し、左派はスポーツにおけるフェアネスの重要性を軽視した。
シス女性のレズビアンがMtFレズビアンに対し「男性器がついている人をレズビアンである私は恋愛対象にできない」「レズビアンである私にとって顔や体格が男性的で好みでない」と拒否することを、MtFレズビアン側が「トランスフォビアである」「差別だ」と訴え、ずっと平行線を辿っているのがこの問題だ。LGBTのうちLとTで揉めているのである。
トランスの性についての問題は国内でも「すべてはパス度の問題である」と言われるように、容姿が良いMtF(佐藤かよ等)は蔑視されるどころか非常に歓迎されている。あまり容姿が良くないMtFについては男性トイレでも女性トイレでも排除的な目を向けられ、ホルモン治療による情緒不安定などもあって自殺率が高いなど深刻な問題がある。ただ、そもそもの話、容姿が良くない人間がマッチングにおいて排除されるのは「性的多数派」であっても同じである。「シスレズビアン限定パーティー」と「30歳以下女性と年収800万円以上男性限定の婚活パーティー」、何が違うのだろうか?そのため「マジョリティもセックス市場では苦しみを味わうものなのに、マイノリティだからと下駄を履こうとするな」という憎悪をもって語られやすいテーマである。
追記:ブコメで「こいつはTERFだ」と「こいつはTERFじゃなくミソジニストだ」と書かれてて笑った。それで、書き手がどういう差別主義者なのかを認定したら、何が解決すんの。そういう、差別者と認定するだけのお仕事を10年繰り返したから負けたんじゃないのか。その手法、「そうです私は差別者です」と返されたらお終いなんだよ。キリがない新差別の定義付けと差別者認定を繰り返し、その手法をまだ重ねようとしているから今後も負けるんだよ。参政党批判のアプローチもバカ丸出しだったな(参政党のことは当然批判的に見ている。左派は参政党支持者に対して馬鹿の一つ覚えのように「レイシストだ」と認定だけやり続けたのがとにかく馬鹿だと、認定以外なにもできない、プレゼン下手の、無能の、怠惰な馬鹿だから必ずまた負けるのだと言っている)。衆院選でも左派は負けるよ。
Permalink |記事への反応(17) | 19:23
みなさんは、なぜ“オシャレは足元から”といわれているか知っていますか。
目元から最も離れた場所にある、しかも体の部位で面積が広いともいえない足元。
そこのオシャレが大事というのは、感覚的に理解しにくいかもしれません。
それは先端は目立つということです。
トゲトゲの物体があったならば、通常はその棘部分に目がいくでしょう。
では人が立った状態の際、最も前に突き出ているのはどこでしょうか。
それが足元、という理屈です。
まず前者についてですが、「それらを踏まえた上で“先端は目立つ”ことによる視線誘導が強力」という話です。
そして後者ですが、これは実際その通りであり、そしてそれこそが「おっぱい型メガネ(仮)」を開発した理由にも繋がります。
では足元よりも目元に近い場所にあり、かつ前に突き出ている(可能性のある)部位はなんでしょうか。
そう、おっぱいです、大きな。
さて、胸の大きさでよく挙げられる悩みの一つとして「胸をやたらと見られる」というのがありますね。
これを「男性がスケベ(巨乳好き)だから」で終わらせることは可能でしょう。
しかし、それだけでは性的指向が異なる人、そもそも性欲が希薄な人ですら見てしまう理由を説明しきれません。
その理由が「“先端は目立つ”ことによる視線誘導」というわけです。
先ほど挙げた「オシャレは足元から」の例に照らし合わせるなら、「スケベ(巨乳好き)」は「オシャレ」にあたります。
オシャレに気を遣えば人一倍シューズに目に向けるように、スケベ(巨乳好き)は人一倍バストに目を向ける、ということです。
ここまでの要点をまとめますと
となります。
この時点で、察しのよい方ならば私がなぜ「おっぱい型メガネ(仮)」に辿り着いたか気づいたことでしょう。
そう私は、我々チームは「逆に視線誘導を利用してみないか、逆に」と考えたわけです。
「おっぱい型メガネ(仮)」のメカニズム自体は、ここまで説明してきたことの応用であり単純です。
嚙み砕いていうならば、「より目立つものを配置して胸を見られる頻度を減らす」アイテムということです。
実際に試作品を胸の大きな女性につけてもらい、不特定多数にみてもらうアンケート調査も行いました。
結果、最も気になる部分として回答されたのは「おっぱい型メガネ(仮)」となり、その次は「このメガネをつけている人の性質」でした。
また、開発の段階では気づきませんでしたが「目を見て話すことができるようになった」という副次的な効果も確認されています。
形状については開発のルーツであるため一旦おっぱい型を試作モデルとして採用しましたが「角や棘がないためケガをしにくい」という意見もあるようです。
素材については軽量の合成樹脂をメインに一体成型で作っています。
商品のコンセプトでもあるレンズ部分によってどうしてもバランスが悪くなるため、テンプル部分は耳に巻き付くような形状にしてズリ落ちを防いでいます。
一般的なメガネを普段からかけている方も使えるように、通常の眼鏡の上からかぶせて着用できるようにゆとりのあるシルエットとなっています。
サイズについては試作品の段階では推定D~Eカップあたりで作りました。
もちろん、より大きいほど(厳密には長いほど)視線誘導の効果は上がるのですが、現時点だとメガネとして無理なくつけられるのはこのサイズとなります。
サイズを上げすぎると安定しての着用は物理的に難しいので、特大サイズについては弥縫策としてゴーグルにすることも検討しています。
或いは錯視効果を利用して実際よりも大きく見えるようにしたり、何か特徴的なデザインを加えることで目立たせる方向性も検討しています。
なお「おっぱい型メガネ(仮)」という名前についてはあくまで仮称であり、マーケティングの観点からよりキャッチーな商品名にするつもりです。
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」(sexual liberation)はフェミニズム、LGBTQ運動、ヒッピー文化、反権威主義の潮流の中で重要なキーワードでした。特にウーマン・リブ運動の一部では、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張がありました。
しかしこの「解放」は、しばしば次のような批判の対象となりました:
商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌。
→特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も報告されています(例:セクハラという言葉が1980年代に米国で普及)。
上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた。
このような問題提起から出てきたのがインターセクショナリティ(交差性) の概念です。
1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にします。
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったのです。
アンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)
→ポルノグラフィを性暴力の一形態として厳しく批判。ポルノ産業が「性の解放」を利用して女性の搾取を正当化したと主張。
キャスリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)
→性的自由の名のもとに、女性の身体が公共空間で商品化されることに警鐘。
→黒人女性にとってのフェミニズムと、階級・人種を無視した主流フェミニズムの限界を指摘。
bell hooks(ベル・フックス)
→白人中産階級のフェミニズムに対し、「抑圧されているのは白人女性だけではない」と再三批判。とりわけ「性の解放」が階級間で異なる意味を持つことに注目。
性的自由を掲げた70〜80年代のフェミニズムの一部は、今でも「セックス・ポジティブ」な運動として評価されていますが、一方でポルノ・売春・性の商品化をめぐる議論は今なお分裂的です。
インターセクショナル・フェミニズムは現在の主流理論となっており、「誰の自由か」「誰の声が抑圧されているか」という問いが常に問われるようになりました。
性の解放は一枚岩ではなく、誰にとっての自由か? 誰の犠牲の上に成り立つのか? という問いがいまもフェミニズムの核心にあります。
職業差別って言葉けっこう安易に使われてるけど、差別はもともと人種や性別や性的指向みたいな生得的な属性に対する不利な扱いや否定的評価を言うもので、職業に無条件に拡大適用できるわけではないよ。職業は一定の行為を伴うもので、その行為に対しては規範的判断が可能だから。
かつて奴隷商人という職業があったけど、その仕事を否定することは奴隷制への規範的判断であって職業差別ではない。倫理的原理に基づく合理的批判であり、他者への強制ではなく自己の立場の主張であり、人格否定ではなく行為や構造への批判である場合、職業に対するものであっても差別ではない
現代でもたとえばヴィーガンは畜産業や漁業を肯定しないし、アーミッシュやジャイナ教徒は軍隊を是認しないし、アニマルライツを奉じる人は恐らくペット業者を許容しないでしょう。その職業が伴う行為に対する倫理的な否定的評価は差別とは呼ばない