
はてなキーワード:必然的とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.cnn.co.jp/world/35243888.html
トップのスターのコメントが、ただマスコミのネタをそのまま受けて背景やリアリティを感じていないよね
プーチンをどうしたら止められたのか?どうやって止めるのか?そのために何がいるのか?回答を持たずに悪いことをするやつが悪い(だから消えてくれ)だけ
もし、プーチンやトランプがいなかったら、の話をしても仕方がない
いっそ平和のために、悪いことをするやつを暗殺したり、戦争したりするのだろうか?
歴史的に政治に影響のある人々を中心に、ヨーロッパはロシアが好きではないから、関りを最小限にしてきた
同じように政治家が、ロシアが好きではないのは、日本も同じで、だから、多くの人々は北方領土問題に関わろうとしない
ロシアの政治的姿勢を変えようとしてきた人などほとんど存在せず、ただ、関わらないようにしてきただけ
ソ連は失敗を自発的に受け入れ、ロシアとそのほかの周辺の国になった
ロシアはある時期は、ヨーロッパに溶け込みたい気持ちがあって、ほとんど侮辱的な民主化政策を受け入れて、経済をボロボロにされて資源を安く取られた
いつまでも甘んじて受け入れるはずがないと思わないほうが不思議だ
恨みは消えることはないのは、韓国の政治をみていてもわかっているはずだ
プーチンを避けられなかったとして、次にウクライナのようにならないためにどうするのか?あるいは、占領された場所の住人のようにならないためにはどうするのか?
占領された場所は、当然、ロシアになるわけだから、ウクライナ戦争のために徴兵されている
住人がロシアになることを望んでいたかウクライナでいたかったかどうかは置いておくとして、戦争に行かされる
それと同じことが、戦争で占領されれば自分の国でも起こりうるし、起きた時どうやって同じような運命をたどらないようにできるのか?
今や中国の実質的な防衛費は、米国に並ぼうとしているだけでなく、実際に軍備の増強をし、中国の船が自由に寄港できる港も世界に拡大している
中国が自国領土だと認めた場所の欧米並みの自由な人権、民主的な活動ができなくなるのは、香港をみていれば、誰でも気づいているはずだ
台湾は香港になるまいとしており、平和的な中国との統合は難しいだろうし、どちらにしても、台湾の自由な人権や民主的な活動はその後どうなるか
北方領土を無視し続けるのと同じ、沖縄とその周辺に起きるだろう状況の変化も、関わらないようにし続けるか
トランプの行動も、プーチンとおなじく異常な行動だが、トランプの考えていることは異常なことばかりではない
ロシアが戦争も辞さない行動にでて、それを収める努力をしたが、それはかなり難しいとトランプは自分で実行してみて理解した
だから、次の施策に移り、まずは近いところから、敵を排除するために、ベネズエラの放置をやめた
ベネズエラの石油のほとんどは中国が買い付けており、ベネズエラの重い石油は、ほとんど軍艦あるいはタンカーなどの燃料として使われる
かつてのイギリスのように、中国が商船を装った軍艦を装備しているという話題はすでにでているので商船であっても米国は油断できない
イランの石油は昔は日本もかなり買い付けていたが、いまや半分は中国が買い付けていて、中国の重要な燃料だ
グリーンランドが、米国からみて北欧とのあいだにあり、その東の先にはロシアがすぐに近くにあることも少し観察すればわかることで
グリーンランドだけのことではないが、グリーンランドにはすでにデンマークではない外国企業が鉱物を採掘をはじめており、
その採掘業者は中国企業ではないが、会社の社長以下は中国籍の名前が並んでいる
理想だけで、相手が攻めてきたら戦争をせず自分が負ければいいと思っている人は
その時には、自分だけなく、友人も、自分の伴侶も、子供も、ロシアに占領された地域と同じように、その相手に奪われるだろう
韓国のように韓流コンテンツ、韓国企業の中国国内の営業停止、旅行制限のように威圧をうけ、自国の判断での決断ができなくなり、威圧を受け続けるようになったり
香港のように自由な活動が制限されていき、日本のような政府の批判もできず、政府の批判をすればすぐに収監されるようになるか
そういうことになっていくだろうことを自分の子供たちに強いるのだ
プーチンやトランプは歴史の必然ではないが、その結果に起きることは必然的に決まってる
娘の進学について、もし自分と似た所があったら何を助言できるかなぁと考えて過去を整理したので、ここに書き留めておくことにする。
中学受験コースに通い四科目の勉強を始めた。途中から社会の勉強がつまらなくて(楽しんで覚えられなくて)、二科目コースに移った。すると受けられる学校の幅が狭くなり、その中には強く行きたいと思う学校も無かったので、嫌になって中学受験コースから学校のサポートコースみたいなコースに編入した。
サポートコースは受験コースと比べると当然易しい内容で、簡単すぎると感じることもあった。
中学に上がると流石に高校受験を目指すコースになったが、そこでは上位クラスをキープできた。小学校の頃の助走があったこと、最初から三科目で行くと割り切っていたことも大きかったと思う。五科目で理科社会をやっていたら潰れていたか、結果的に総合的な偏差値を下げていたと思う。(社会は相変わらず覚えられなかったので……)
夏期講習や夜遅くまでの授業、正月特訓などを経て、無事に高校受験には成功した。
さすがに塾に通うことにはうんざりしていたので、絶対に予備校なんて行かない、大学の付属校に行くぞという気持ちで付属校ばかりを受けまくり、五校のうち四校に合格した。
高校ではその後、色々な点で苦しみながらも、友達や趣味に恵まれそれなりによい思い出を持った状態で卒業することができた。
苦しみについて補足すると、学校の授業で学び、家で宿題をするという当たり前の習慣に馴染めなかった。要するに勉強するモチベーションが沸かなかった。鬱に近い状態であったと思う。
勉強しなくてもちゃんと成績が取れる、という世界線を望んでいたのだと思われる。しかし自分はそのような天才ではなかったので、普通に悪い点を取ってはしょげてた。
それを認識した上でも、まだ勉強することに面白みを見いだせない時期が続いた。勉強は苦しみであった。もしも、目的意識がある、学問領域としての面白さに気付く、得意な科目で無双する、楽しんで競争する、といったことが出来ていたら、また違ったのかもなぁと思う。
そういう意味では情報の授業では割と無双してHTMLやJavaをやっていたかもしれない。
あとは、試験勉強を友達と学校やファミレスでやるというのも、楽しかったな。それに、そこで救われていたとも思う。
その反省も踏まえ、エスカレーターで進学した大学ではこの勉強が次にどう繋がっていくか、ということを少しは考えていたと思う。
B1は学部内で学科が分かれずに、B2で振り分けがあるタイプだったので、行きたい学科に行くためにはよい成績を取らなければならない、しかもこの学習はB2の基礎になるはずだ……とまでは考えたのかは覚えていないが、それなりに頑張ったと思う。
学科への振り分けも決まると、ようやく勉強と職業との繋がりが見えるようになってきて、学んでおきたいというモチベーションは増えた。またB3では研究室配属があるため、行きたい人気の研究室に入るためには良い成績を取らないとなぁという観点でも、諦めたりすることは無かった。
また、サークルに参加したのも良かったし、普段から内部進学の友達やB1でクラスが一緒だった友達とつるんでいたのも良かった。サークル活動に励んだり、喋ったりご飯を食べたりするのは楽しかったし、必然的に情報交換をして、頑張ろ〜なのかやんなきゃ〜なのか分からないけど、勉強のモチベーションになっていたのかもしれない。
サークル活動が専攻の内容ともリンクしていたことも価値があったと思う。これってどういうことだ?という疑問がサークル活動の遊びの中から生じて、別に宿題でも何でもないけど図書館に行って調べたり、活動の成果物を作るためにあれこれやったりしていた。
この頃は結構成績も良くなってきて、専門科目は一部を除いて良くできていた気がする。
そんなこんなで気になっていた研究室にも入ることが出来て、やりたい分野の企業にも就職することができた。今の仕事にも満足している。
勉強の苦い経験というのは、成長しているということであり、多かれ少なかれ苦しむことになると思う。その時に折れないで頑張れるかどうかは、自分の経験では目的意識と交友関係が大事だったのだと思う。
娘には、色々な事に興味を持てるといいね、仲間と一緒に遊んだり勉強したり色々やれるといいね、という方向性を提示していきたい。
合理性を掲げる彼らの実態は、既存の非効率なシステムの温存にほかならない。掲げる看板と中身が完全に矛盾しているからだ。
本来は簡素・公平・中立的であるべき税制において、事務負担が多大な現行消費税やインボイス制度を維持しようとしている。これは納税者に莫大な管理コストと労力を強いるだけでなく、消費行為に課されるペナルティ的なコストを上乗せする構造だ。景気の腰折れを招きやすい欠陥を抱えている。
ベーシックインカムに見られる徴収から給付というサイクルには、必然的に巨額の行政コストが発生する。まさにアーサー・オーキンの「漏れのあるバケツ」そのものだ。減税なら行政コストは省けるのに、あえてコストのかかる再分配ルートを選ぶ選択は非合理としか言いようがない。高コストな給付を選ぶ理由は、行政が市民の生殺与奪の権を握るためだろう。
結局のところ、目的は法人税減税の穴埋めに消費税を充てるという旧来の構造の維持である。デジタルやデータドリブンといった横文字を並べたところで、政治の本質は権力を巡るゼロサムゲームであり、それからは逃れられない。
彼らの言う合理性とは社会全体の最適化ではなく、特定の既得権益層にとって都合の良いポジショントークに過ぎない。今回の選挙で、消費税減税に反発する有権者が首都圏の一部地域に集中している事実が露呈してしまった。
その当時困ったことがあって、風呂場に入ってると弟が風呂場を開けてくるのだ
全裸で、リラックスしてる時にいきなりガチャと開けられるのがとにかく苦痛で仕方なかった
それまではわりかし関係が良好だった兄弟仲は壊滅的に悪くなった
そのことを親に何度か伝えた気がする、黙ってる性格ではなかったので
両親がなんて答えたかは分からないが、親は取り合わず何も対策を打たなかった
なぜ風呂場に入ってる時に開けられるのかも今に至っても不明なままだ
そのうちに弟が近づくだけで精神的に辛くなり、一緒にご飯を取らなくなり自室がなかったため、父の部屋に引き篭もるようになった
問題が、父の部屋はトイレの真横で弟がトイレ使う時に必然的に近づくと言うことた
詳細は忘れたが、弟がトイレに使おうと父の部屋に近づくと追い返してたらしい
悪意があった訳ではないと思う、悪意があったら覚えてるから
増田が風呂場を開けられる苦痛を訴えても無視してた両親は、弟のトイレ事情という〝それ〟に対して親はいよいよ問題視して、ようやくトイレが2箇所あり部屋が家族分ある家に引っ越ししたが、すでにその頃はかなり成長していた
時が遅かった
時は流れ現在、母親に「増田はあの頃荒れててね、弟を虐める悪い姉だった」と言われ
「あの時弟に風呂場開けられるの嫌って言ったじゃん!何も対策してくれなかったよね?」と言い返すと
青天の霹靂のようかのような反応された後に
「それは悪かったねぇ!!」と謝罪にもなってない逆ギレをされた
今の増田だったらどうするか
この文を考えてる間にXで「女はオーバーに表現しないと男は女の言うことを汲み取らない(意訳)」というポストを見かけた、ほーと思った
確かに増田は弟を殴って「風呂場開けんな!!」と叫んだり、部屋や風呂場を壊して自分が辛いことをアピールしなかった
気に食わない人間を刺して自己主張する性別と、無視してれば自然と黙る(我慢)性別、どちらの話を聞くかと言うと前者なんだよな
女性専用車両じゃくて痴漢された女性は駅員や通り下りの男を刺して主張しない
増田の望みはそれだけです
(寝る前なので乱文失礼)
現行の小選挙区+比例代表制が始まって野党第一党がほぼ消滅したのは選挙制度その物の構造的な帰結
小選挙区では最大で51%の票を獲得しなければ当選できない、これは極端な主張やシングルイシュー政党では当選できないことを意味する
51%の票を得ようと思えば必然的に包括政党にならざるを得なくなる、明確な主張をするという事は喜ぶ人間も居るが逆の人間は逃げるからだ
そして支持の熱量に関係なく一人一票な以上大勢から票を集めたいなら曖昧で総論的な事を言うしかない
比例代表制では逆に包括的で曖昧な主張の政党は生き残れない、そんな政党に積極的に投票する理由が無いし他にはっきりとした主張のある政党に流れるからだ
片方が減税を訴えていてもう片方が経済状況を鑑みて決めますや熟議の上で決定しますなど言えば減税して欲しい票がどちらに行くかは明らかだろう
小選挙区では少数の支持では議席にならないが比例ならそれで政党は維持できる
二大政党を目指し他党と合流すれば曖昧な主義主張で与党批判ぐらしかできなくなり乱立した明確な主張を持つ他党に票を持っていかれる
中道が壊滅的な結果になったけどこれが国民や参政党、チームみらいが政権交代を目指しても同じ結果になるだろう
一般的には珍しいと自負しているが、私は国立東京海洋大を卒業した後に何度かの転職をして自動車企業のプログラマとなった。
学生時代は当時はまだまだ思考実験レベルだった海洋ロジスティクス(海運)と先進ITを紐付ける様な研究へのめり込み、当時の私の研究の一部は現在世界中の海洋ロジスティクスを支えるシステムとして稼働している。
※先進IT:私が学生時代の時点でジャイロコンパスやロランCなどを活用した電波航法や、HITACHIH8やIntel 8086と電子センサを組み合わせた自動記録程度は実現していたが、航路の自動選定やエンジンルームを無人するほどの自動制御は実現出来ていなかった。また、ブロードバンド接続は夢のまた夢の状態だった。
本題に入るが、2026/02/09 6:00の時点で自民党が単独で議席の2/3を得るという、間違いなく日本初の女性首相誕生と併せて日本史の教科書へ載るレベルの選挙となった(安倍元首相の最期もおそらく同時に載る)。
何故ここまで中道改革連合は弱かったのか?という議論は様々な人たちが評価しているが、特殊な経歴の私の評価も公開しようと思う。
まず何よりも土壇場で起きた「#ママ戦争止めてくるわ」のネット運動は非常に不味かった。
何故なら、#ママ戦争止めてくるわの運動には、これまではてな界隈でも積極的に議論され指摘されていた中台開戦による日本経済損失や日本参戦について何ら効果が無いことが、投票行動へ出る程度に政治へ関心のある若者へ周知されてしまっていたからだ。
どういうことか?
若者の間では既に「日本が中台開戦へ非参戦を明言する →中国が台湾へ攻めやすくなる →日本の輸出入が滞る →日本が不景気になる」というロジックが広く共有されてしまっているのだ。
更に30歳付近の子持ち世帯の間では「日本の輸出入が滞る →我が家の子供のご飯が高騰し餓死の可能性が出る → 親世代が政府に中台戦争を何とかしろと要望を出す →日本参戦」というロジックも想定されている。
「#ママ戦争止めてくるわ」の運動へ参加する者は誠に残念だと感じるだろうが、非参戦を表明することには子供のご飯の高騰を避ける術がないと思われている。
いや、私は「#ママ戦争止めてくるわ」の運動へ参加する者の心理的ロジックも理解しているのだ。「中台開戦すれば日本が参戦するしないに関わらず日本の物価は高騰するだろ」というロジックを。海洋ロジを学んだ知見からもこれは肯定する。
しかしこのロジックには中台開戦可能性を低下させるという効果が無く、最終的に親世代の求めによって日本の参戦が励起されてしまうというのを若者はしっかりと理解をしている。
だから若者は「そもそも中台開戦をさせない様にする」という選択肢を取った。これならば子供のご飯を確保できるし自分が出征する可能性が下がるからだ。
つまり、これらの若者の動きは中台開戦を拒否する反戦だからこその決断だ。今回の選挙結果は投票権のある若者による「#中台戦争止めてくるわ」運動だった。「#ママ戦争止めてくるわ」運動へ参加した者はこれをよく考えないといけない。
話は変わるが、「若者の可処分所得の逆転」という日本の経済現象を知っているだろうか?
これは大都会のホワイトカラーと地方のブルーカラーへ就労する若者を比較すると、地方のブルーカラーの方が大都会のホワイトカラーよりも可処分所得が高くなってしまったという現象だ。
年収で比較してみると、当然ながら大都会の大卒ホワイトカラーの方が高いのだが、家賃光熱費、そして食費などを大都会と地方を比較すると、大都会ホワイトカラーの出費が多すぎて可処分所得で地方のブルーカラーを下回ってしまったのだ。
就労条件によっては大学新卒で大都会ホワイトカラー就労の可処分所得よりも、中高卒で地方ブルーカラーの可処分所得が上回っていたりもする。
特に悲惨なのは大都会で若年女性が求めがちないわゆる事務職で、年収は東京の最低賃金へ張り付き、昇給もごく僅か、ボーナスも月収の1ヶ月分程度になっており、人材の求人倍率の高さから改善する見込みもない。
その中で、流行りのファッションに化粧品、オシャレなランチ、ネットで話題のイベントへ参加する。当然ながら貯蓄などできるはずもなく、これらの状況を「キラキラ貧困」と自嘲気味に揶揄されている。
この様な「キラキラ貧困」へ陥る若者が増えている中で、主流左派が行うのは「地方の保守的な価値観」へ対するバッシングのみであり、眼の前に居る「キラキラ貧困」へ陥る若者へ一切目を向けていない。
大都会の若者からすると主流左派の言説は自分たちが対象でなく全く身近でない、自分たちの困窮を無視し続けているのにも関わらず「今の若者はリベラルだから主流左派の言説を支持するはず」という解釈のもと選挙へ挑んでいる存在なのだ。
もう一度言うが、主流左派は大都会のホワイトカラーへ就労している若者の現状を社会問題として取り上げているか?私は取り上げていないと感じる。
障害者や福祉へ接続されるべき若者のことを言っているのではない。普遍的に存在するであろう若者を取り上げているのか?という話だ。
逆に言えば人口減少に悩む「保守的な地方」の方が若者のことを考えて必死に呼び込もうとしているのではないか?
私は自動車系に居るプログラマで、その経歴から自動車総連系組合内で質問されることも多い(自動車総連では期間工も組合員なので色々な話が聞ける)。
それらの背景からはっきり言って今回の選挙は、初の女性首相誕生と、中道改革連合の失策、主流左派のズレた若者認識の3つが影響した必然的結末だったように思える。
自分のイデオロギーだけでなく、しっかりと今目の前に居る若者を見たほうが良い。そうしないと何度だって繰り返すと私は感じる。
画像のテキストは、ある本のページからの抜粋で、サルトルの哲学を引用・解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキストを自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像のテキスト順に沿って進めます。サルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Êtreetle Néant,1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由の関係を議論した箇所です。画像のテキストはサルトルのアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。
#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人の人生を凝視している間は、自分の人生を生きていないということになります。」
#### 2. 「フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」
#### 3. 「『憂鬱とは、他人の人生を凝視しすぎた結果である。解決策は、他人の人生を凝視しないことだ。』」
#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」
#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分が飛び降りる自由を持っていることを認識したからだ。」
#### 7. 「つまり、他人の人生を凝視しすぎると、自分の自由を直視できなくなり、憂鬱になる。」
#### 8. 「だから、他人の人生を凝視せず、自分の人生を生きろ、というわけです。」
####9. 「本当の成功者たちは、そんな他人の人生なんて気にしない。自分の人生を全力で生きている。だから、憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」
全体として、このテキストはサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人の凝視」という独自の解釈を加えており、原典から大きく逸脱しています。サルトルの本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈が自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。
結婚指輪ってめちゃくちゃ効力があるのにケチるなんて勿体無いな
これを付けてるだけで悪い虫が寄ってこない
人気男性声優が無意味に薬指に指輪つけて魔除けと呼ぶぐらいなのに
でも既婚者の場合は薬指の指輪を見て(大抵の)男は察して近寄ってこない
男性に「私の夫は結婚指輪買うのにも折半で、価値がないって言われて、しぶしぶチタンにしたの…」って涙目で言うかもよ?
そしたら男性が「それはひどい、俺ならあなたをそんな辛い目に遭わせないのに」と言って不倫が始まるかも
これから始まる家庭をそんなリスクに晒して「価値がないから」って言える精神が信じられないな
平穏な家庭って双方の努力と人間関係の潤滑油として金を使わないとダメだぞ?
それともケチ増田にとっては「平穏な家庭など価値がない」という価値観なのかな?
彼女さんかわいそうに
メール等では苦労しないのに、口頭の会話ではどうにも私のせいで話の流れが悪くなってるぞと反省する場面が多い。多分、はてな民には私と同じタイプの会話下手が多いと思う。あまり実践できていないが、私の心掛けを共有するので、他に何か基本事項があったら教えてほしい
相手に質問されて回答したら、次は「あなたはどうですか」だ。基本すぎるが、私はどうしてもそれを忘れてしまう。相手のことを知りたくない訳でもないのに、あまりにも相手に質問しないので「他人に全く興味がないやつ」だと思われてるらしい。これはマジで何とかしたい
「相手に聞き返す」と関連するが、会話の基本は相手が主語になるように話を繋げることだ。私が私が、のような自己中な話し方は論外である。その気がなくとも「相手に聞き返す」を忘れると自分が主語の発言が続いてしまうので怖い
「相手を主語に話す」に加え、会話の基本は「ポジティブな述語を言う」ことだ。合わせると「とにかく相手を褒めろ」ということになる。おべっか使いは良くないみたいな偏見は今すぐ捨て去るべきだ。会話が平均以上に得意なやつらは皆んな息を吐くように相手を褒めてるぞ
親しい人が相手なら「相変わらず」「今日も」のような副詞を付けて褒める。それだけで会話が親近スムーズになる。間違っても「いつもより」「今日は」のような副詞を付けてはいけない
褒めるポイントは自分が褒めたいポイントではなく相手が褒められたがっているポイントだ。別に特別なエスパーは要らん。相手の趣味やこだわりを褒めれば良い。「相手に聞き返す」「相手を主語に話す」ができていれば相手の趣味やこだわりも分かっているはずである
私のようなやつは逆に「自分を主語」に「ネガティブなこと」を言いがちだが、何を差し置いてもそれだけは絶対にやめるべきだ。日常会話において自虐が面白さを発揮する場面は無いと思って良い
謙遜の美徳みたいな文化はまだ確かに存在するが、謙遜に相応しい場面とそうでない場面には暗黙の区別があり、我々会話苦手の民はそんなの判別できる訳ないので一律禁止が妥当だ
世の中に「笑える自虐ネタ」があるのは確かだが、頭髪に関して秒で「私が前進しているのである」とポジティブなオチを付ける程のスピード感が無い限り言うべきでない。そもそも、会話が苦手な我々はそんなことを考える前にまず他にやるべきことがある
とにかく相手も褒めるし自分も褒める。それだけ覚えていれば良い
単に「気遣う」とだけ言われると我々会話苦手クラスタには難しそうに感じられてしまうが、要素分解すればおそらくそこまで複雑な話ではないと思われる。会話の上手い人々だって大抵の場合はパターンで喋ってる。単に「相手を主語に話す」原則の一パターンに過ぎない
まず、相手の一時的なネガティブ要素に気付いたら(永続的なネガティブ要素は気遣いの対象ではない)、相手を主語にネガティブなことを言い(その際には「いつもと違って」「珍しく」のような副詞を付ける)、心配の意を表明し(心配の表明は間髪入れずにやる。ネガティブなことを言いっ放しにしてはいけない)、それに対して相手が詳細を明らかにしてもしなくても、こちらはさらに労いの言葉を述べて会話が一区切りつく
なお、気遣いの対象は一時的な不調であることが要件なので、必然的に相手は普段の調子を知っている親しい相手に限られる。決して初見の相手を気遣おうとしてはいけない、それはおそらく相手の地雷を踏んでいる
以上のことは、会話の苦手な私の経験則でしかないので間違いや不足も多々あると思われる。しかし、会話巧者からのアドバイスよりはマシなはずだ。彼らに会話のコツを聞くことは、長嶋茂雄に打撃のコツを聞くに等しい
何でも良いので、ぜひ知りたい
ありがとう。真面目にレスしてくれて嬉しい。助かる。上手く返せんけど、ぜんぶ読んだよ
AIじゃねーよ!
親バカになるが娘は結構賢い方。まだ高二だが、学校の成績や塾の模試の点数からしても早稲田も狙えそうではある。
ただ、うちは大阪府民だから早稲田に行くなら必然的に下宿するわけで、我が家の家計ではどう考えても無理。だから奨学金を借りて貰うしかない。
甲斐性のないパパでごめんとしか言いようがないけど、この後弟も控えてるから。
東京一人暮らしプラス私立大学費なんて、ナンボ金有っても足りません。
娘本人にも、東京の私立大なら奨学金借りるしかないよとは伝えているが、気持ちはあまり変わってなさそう。
正直、娘なら大阪公立大や京都府立大や兵庫県立大やら関西の公立も十分狙えると思う。もっと頑張れば神大や阪大も行けるかもしれない。
最悪私立だとしても、下宿無しならなんとか奨学金無しで行かせてやれるのに...
妻とも話しているが、親のエゴで無理やり希望を変えてしまう方が本人のためにならないということで、このまま娘が早稲田へ行くつもりなら止めないつもり。
【はじめに】
※本稿は、先に公開した同名論考に対して寄せられた批评と、それを通じて得られた理論的再検討を踏まえ、特に現代貨幣理論(MMT)に対する理解を、主流的な財政論の枠組みから切り離し、より構造論的・環境依存的な視点へと修正したものである。
基本的な問題意識は変わらないが、いくつかの記述は、より精密な形へと再構成されている。
なお、本稿の結論──
「金利上昇によって、政治の裁量空間が急速に失われていく」という構造認識自体は維持されている。
今回の改稿は、その結論に至る理論的経路を、より正確な貨幣制度理解に基づいて再構成したものである。
本稿は、完成された主張というよりも、
構造モデルが批評によってどのように精緻化されうるかを含めた思考過程の記録として読まれたい。
本稿は、硬直化した日本政治システム(リヴァイアサン)がいかにして「変化」するのか、あるいは「変化しない」のかを、構造的制約(Structure)と主体的能動性(Agency)の緊張関係から分析する。
結論から述べれば、閉鎖された均衡システムにおいて、内部の主体的行動はシステムの延命(メンテナンス)に寄与するのみであり、構造転換をもたらす真の変数は、常にシステムの「外部」から到来する。
なぜ内部からは変われないのか。なぜ外部ショックのみが有効なのか。本稿はその力学的メカニズムを解明する。
システム内の能動性:なぜ「本気の改革者」は例外なく窒息するのか?
システム内には、現状維持を望む者ばかりではない。稀に、私利私欲を度外視し、本気で構造転換を志す「確信犯的改革者」が出現する。
彼らは「空気を読まない」強さを持ち、世論の熱狂を背に、既得権益という岩盤に突撃する。
しかし、なぜ彼らは例外なく敗北し、システムに吸収されるか、あるいは排出されるのか。
その敗因は、個人の資質ではなく、リヴァイアサンが備える高度な「免疫システム」にある。
日本の意思決定プロセスは、無数の承認ハンコと全会一致の慣行によって設計されている。
改革者の持つ「政治的熱量」は、膨大な会議、部会、審議会というプロセスを経ることで、「摩擦熱」へと変換され、散逸する。
鋭利な刃物も、泥沼を切り続ければ摩耗して切れなくなる。システムは「反対」するのではなく、「手続き」によって改革者を疲弊死させる。
河野太郎氏は「異端児」として知られ、行革担当相やデジタル相として、日本の非効率なアナログ行政(ハンコ、FAX)を打破しようと試みた。彼は「岩盤規制をドリルで砕く」という強い意志を持っていた。
システム(各省庁)は、彼の命令を拒否はしなかった。その代わりに、「法解釈の整理」「セキュリティ上の懸念」「関係各所との調整」という名の「手続きの迷宮」を展開した。
結果として、「ハンコをなくす」ために「デジタルハンコを押すシステムを作る」といった、本末転倒な解決策(システムの自己保存)へと誘導された。
結果:
彼の膨大な熱量は、岩盤を砕くことではなく、岩盤の表面を磨くこと(UIの微修正)に浪費された。彼はシステムを変えたのではなく、システムによって「改革ごっこ」というガス抜きの役回りを演じさせられたのである。
システムに逆らう異物に対しては、派閥や官僚機構が連携し、この血液の供給を遮断する。
協力者がいなくなり、情報が入らなくなり、部下が動かなくなる。
どれほど高潔な意志を持っていても、手足となる組織を兵糧攻めにされれば、改革者は「裸の王様」として孤立し、機能不全に陥る。
事例2:民主党政権(2009-2012)—— 「臓器移植」への急性拒絶反応
鳩山由紀夫および民主党は、「政治主導(脱官僚)」と「対等な日米関係(脱対米従属)」を掲げ、システムの中枢OSを書き換えようとした、極めて純粋な理想主義者たちであった。
明治層(官僚機構)は、新参者である民主党大臣に対し、重要情報を上げない、あるいは意図的にリークするという「兵糧攻め」を行った。
同時に、米国層(将軍)は、普天間基地問題を巡って「トラスト・ミー」と叫ぶ鳩山氏を「システムのエラー」と認定し、徹底的に冷遇した。
結果:
官僚と米国という二大免疫細胞に攻撃された政権は、内部から機能不全(多臓器不全)に陥り、わずか3年で壊死した。これは、適合しない臓器を無理やり移植した際に起きる「急性拒絶反応」そのものであった。
なぜ最も危険な敵ほど「中枢」に招き入れられるのか?
これは罠である。要職に就けば、その省庁の官僚を守る義務(答弁義務)が生じる。
改革者は、自らが破壊しようとしていた組織の「顔」として振る舞うことを強制され、既存の論理に取り込まれる(ミイラ取りがミイラになる)。
システムは、敵対者を「内部に取り込み、腐敗を共有させる」ことで、その牙を無力化する。
かつての日本社会党は、自民党の金権政治と軍拡に対抗する、強力な「システム外の対抗馬」であった。
1994年、自民党は驚くべき奇策に出た。長年の宿敵である社会党のトップ(村山富市)を、あえて「総理大臣」に指名したのである。
権力の中枢に座らされた村山氏は、システムの論理に従わざるを得なくなった。彼は就任直後、社会党の党是であった「自衛隊違憲論」や「日米安保反対」を撤回させられた。
結果:
「総理大臣」という最高のポストを与えられた瞬間、社会党の魂(イデオロギー)は死んだ。自民党は、敵を王座に座らせることで、敵の存在意義を消滅させたのである。これは、システムが実行した最も残酷で鮮やかな「安楽死」であった。
なぜ政治システムは「イデオロギー」ではなく「会計」で死ぬのか?
政治とは、究極的には「誰からリソース(税金)を徴収し、誰に配分するか」という資源配分の技術である。
戦後日本政治の安定性は、経済成長という「宿主」がもたらす無限の果実を前提にしていた。しかし、宿主の生命力が限界に達した現在、システムは「イデオロギーの敗北」ではなく「会計学的な死」に直面している。
なぜ自民党は「配れなくなった瞬間」に崩れ始めるのか?
前述の通り、自民党には核となるイデオロギー(魂)がない。多様な派閥や、農協、医師会、経団連といった利害が相反する集団を一つに束ねていた「接着剤」は、ただ一つ。「国からの補助金と公共事業」である。
崩壊の論理:高度成長期やバブル期は、パイ(財源)が拡大し続けたため、「全員に配る(Positive-sum)」ことが可能だった。しかし、ゼロ成長とインフレが常態化した現在、パイは縮小している。
一人のプレイヤーに利益を誘導すれば、別のプレイヤーから奪わねばならない(Zero-sum)。利益分配マシンとしての自民党は、その存在意義(配る機能)を物理的に喪失しつつある。カネの切れ目が縁の切れ目となり、システムをつなぎ止める引力が消滅する。
――そして露呈する、制度という名の「檻」
なぜ「国債を刷ればいい」は突然使えなくなったのか?
支配的な政策言説において、「税収が足りないなら国債を刷ればいい」という現代貨幣理論(MMT)的アプローチは、ゼロ金利・低金利という特殊な金融環境でのみ作動する例外的措置(チート)として理解されている。
この見方に立てば、MMTは恒常的な財政運営理論ではなく、長期停滞と金融緩和に覆われた日本においてのみ一時的に許容された「裏技」に過ぎない。
2024年の日銀による利上げ、すなわち「金利のある世界」への回帰は、このチート機能の強制終了を意味する。
金利が上昇すれば、国債残高に比例して利払い費は自動的に増大する。国債利払いは予算編成上、優先的に処理される「固定費」であり、政治的裁量によって削減することはできない。
これら不可避的支出だけで国家予算の限界値に達する以上、政治家が「自由意志」で配分できる裁量予算は消滅する。
結果として、政治家は「利益の分配者」から、膨張する固定費の帳尻を合わせるだけの「赤字の管理人」へと降格させられる――
これが、金利上昇後の世界において語られる、MMT「失敗」の物語である。
しかし、この物語そのものが、より深い構造的真実を逆説的に暴露している。
現代貨幣理論(MMT)の本質は、低金利下のチートを正当化するための方便ではない。
それは、貨幣主権を持つ政府は「支出のために徴税や借入を必要としない」という、現代通貨システムの物理的実態を可視化した理論である。
MMTの視点では、国債は資金調達手段ではなく、民間部門に供給された余剰通貨を吸収し、金利を調整するための政策ツールに過ぎない。
本来、政府支出を制約するのは「財政赤字」ではなく、供給能力の限界が引き起こすインフレのみである。
現代の金融システムは、中央銀行の独立性という「防波堤」によって、政治権力が通貨発行を直接統制することを禁じている。
これは、インフレを制御できない政治に対する制度的不信を前提とした安全装置である。
さらに、国債は国際金融市場において「安全資産」として機能しており、これをMMT的論理で無効化することは、現行のグローバル金融秩序そのものを動揺させかねない。
むしろ、「貨幣主権国家は理論上できること」と、「市場・制度・国際秩序が許容すること」との乖離である。
しかし、それを実行すれば「財政規律の崩壊」と見なされ、円安やインフレ、資本流出を招くという政治的・市場的制約が即座に作動する。
それは、我々自身が作り上げた「財政規律」という名の制度的な檻の中に、最初から閉じ込められていたのである。
日本の金融政策は、国内で完結した閉鎖系ではない。円という通貨は、ドルを基軸とするグローバル金融システムの一部として循環する開放系に組み込まれている。ゆえに、「ゼロ金利を維持するか否か」という選択は、国内の意思だけで決定できるものではない。
2022年以降、米国はインフレ抑制のため急激な利上げを実施した。金利とは通貨の「魅力度」であり、高金利通貨へ資本が流れるのは、重力や水位差と同じ物理法則である。
米国が高金利、日本がゼロ金利であれば、資本は必然的に円を売り、ドルへと移動する。この圧力は政策論争によって回避できる性質のものではない。
資本流出の帰結として発生した急激な円安は、輸出企業には利益をもたらす一方、エネルギー・食料を輸入に依存する国内経済に対して、強烈な輸入インフレとして作用した。
生活必需品価格の上昇は、国民の生存コストを直接押し上げ、システムにとって最も危険な閾値――社会的耐性限界――へと接近させる。これは単なる経済指標の悪化ではなく、治安不安や政権不安定化という「システム破壊リスク」の増大を意味する。
一つは、利上げを拒否し続け、通貨価値の下落と制御不能なインフレによって通貨の信認そのものを失う道。
もう一つは、利上げを受け入れ、国債利払い費の増大によって財政運営が硬直化する道である。
国家にとって「通貨の死」は即死を意味するが、「財政の死」は延命可能である。
外部環境によって銃口を突きつけられたシステムが、自動的に「より生存確率の高い地獄」を選ばされた結果に過ぎない。
ここにもまた、個別の意思決定主体の「自由意志」は存在しない。
あるのは、開放系における外部変数によって強制的に狭められた、選択肢なき選択だけである。
なぜ国民は反乱せず、「産まなくなる」のか?
配るカネがなくなったシステムは、最終手段として、声の小さい層(非正規雇用者、若者、そして未来の世代)から搾取し、コア支持層(高齢者、既得権益)へ移転するという「略奪的再分配」に移行する。
崩壊の論理:しかし、搾取される側の実質賃金(生存エネルギー)が限界を割った時、宿主は死ぬ。少子化や労働意欲の低下は、国民の道徳的退廃ではない。「これ以上搾取されることへの、Permalink |記事への反応(1) | 12:38
インターネットによってつながっている時代なんてせいぜいここ20-30年くらいの薄い時代なんで、そんなもの無くても大丈夫です。
そもそも、SNSで人々が自分の日常を発信するようになったのがせいぜい20年くらい。
その前は家族のホームページを作っている奇特な人が少数いたり、日常をブログにする学生さんがいたりしたけど。
その前は研究者が自分の研究内容を公開するものだったと言えばいいのか、趣味人が集まって文字をかき集めていたパソコン通信だったと言えばいいのか。
そんなSNSが無かった頃のロールモデルは身近な人で、親や親戚、先生、先輩、友達だったりしたものだったな。
しかし、あくまでも参考にする程度でなりきろうとまではしたんだろうかとは思う。
いくら誰かをロールモデルにしているからといって、その人の当日の服までまねしたらむしろ失礼に当たるってみんな分かってるからね。
もちろん、ドレスコードに従ったら必然的にかぶることがあり得るような場合は除くけれど。
そして、変なまねの仕方をしたらものまねをして侮辱していると捉えられても仕方が無いから、そういうまねの仕方はしなかった。
なんかインターネット上の人まねをする人は多分目の前にその人がいないからかロールモデルと言いながらもかつては失礼とされたことをやってるって思うね。
...いや、なりきり君はリアルにもいるけれど、その場合は本人に尊敬しているしあなたみたいになりたいみたいなことを言って、相手も周囲も受け入れているから成り立つのか。
やっぱり、勝手にやったらだめでしょってはなしだな。
【はじめに】
システム工学的「エポケー(判断保留)」と、リヴァイアサンの代謝
本稿は、現代日本政治における「権力と宗教」の構造的癒着、および「山上徹也」という事象を、道徳的善悪の彼岸にある「システム工学的な機能不全と最適化」の観点から記述する試みである。
あらかじめ断っておくが、本稿には犯罪行為を正当化する意図も、特定の信仰を弾圧する意図も一切ない。
現象の「論理的解明(Explanation)」は、決して行為の「倫理的擁護(Justification)」と等価ではない。
病理学者がウイルスの感染経路を淡々と追跡するように、筆者は犯罪者も、政治家も、信者も、すべて巨大な統治機構(リヴァイアサン)を構成する「部品」および「代謝産物」として等価に扱う。
読者が感じるかもしれない不快感は、システムそのものが内包する「非人間的な合理性」の反映に過ぎない。
筆者は前稿『歪なリヴァイアサン』において、自民党を「魂(イデオロギー)を持たない利益配分マシン」と定義した。
しかし、高度成長が終わり、配るべき「カネ(利益)」が枯渇したとき、魂を持たないこのマシンは、いかにして自らを駆動させる熱量を調達するのか?
本稿は、この問いに対する回答である。
システムは生存のために、外部から「安価な魂」と「無料の労働力」を調達する必要があった。その調達先こそが、統一教会という名の「政治的下請け業者(BPOパートナー)」である。
本稿では、リヴァイアサンがいかにしてこの異物を「召喚」し、その病理的な代謝プロセスの中で、いかなる副作用(山上徹也)を必然的に排出したのかを解剖する。
序論:誤診された「犯罪者」
2026年1月、奈良地裁は山上徹也被告に無期懲役を言い渡した。判決文、そして世論の多くは、彼を「家庭環境に絶望した、極めて特異で孤独な犯罪者」として処理しようとしている。
しかし、これは誤診である。あるいは、意図的な隠蔽と言ってもよい。
我々の「システム論」の視座に立てば、山上徹也という存在は、決して予測不能なバグ(異常値)ではない。彼は、戦後日本の政治システムが正常に稼働し続けた結果、必然的に排出された「産業廃棄物(システム・バイプロダクト)」である。
彼を「極端な個人」として切り捨てることは、工場が川に垂れ流した汚染水で奇形魚が生まれた際に、工場の排水システムを点検せず、「その魚の特異体質」を責めるに等しい。
なぜ、統一教会という異質なカルトが、日本の政権中枢にこれほど深く食い込めたのか。
「教会が巧みに自民党を洗脳・浸透した」という被害者面をしたナラティブが流布しているが、これは歴史的にも構造的にも誤りである。
正しくはこうだ。自民党というシステムには、構造的な「欠落」があり、その穴を埋めるために教会を自ら「召喚」したのである。
自民党と統一教会の関係を「信仰」や「思想の共鳴」で語ることは、事の本質を見誤らせる。
両者を結びつけていたのは、互いの「欠損」を補い合う、極めてドライで実利的な「政治的バーター取引(交換条件)」である。
この取引のバランスシート(貸借対照表)を精査すれば、なぜシステムが教会を切断できなかったのかが明確になる。
自民党が教会から調達していたのは、カネ(献金)以上に、「カネのかからない実働部隊」であった。
選挙には膨大な人件費がかかる。しかし、教会から派遣される秘書や運動員は、給与を要求しないどころか、教団の教義に従って「無私の奉仕」として24時間働く。
これは、企業経営で言えば「違法なほどの低賃金労働力」を独占的に確保しているに等しい。自民党議員にとって、これほどコストパフォーマンスの良い「兵隊」は他に存在しなかった。
数万票単位で動く教団の組織票は、全体の得票数から見れば僅かかもしれない。しかし、当落線上にある小選挙区の候補者にとっては、この「確実に計算できる数万票」こそが、政治生命を左右する決定打となる。
スパイ防止法制定や選択的夫婦別姓反対など、リベラル層からの反発が強い右派的政策の推進運動を、「国際勝共連合」という別動隊に担わせた。これにより、自民党本体は「中道」の顔を保ったまま、保守層の支持を固めることができた。
対する教会側が求めたのは、日本という巨大な資金源でビジネスを続けるための「不可侵条約」と「お墨付き」である。
教祖や幹部が、岸信介、安倍晋三といった歴代首相と並んで写真に収まること。あるいは、関連イベントにビデオメッセージをもらうこと。
これらは単なる記念ではない。信者や勧誘対象者に対し、「総理大臣も認める立派な団体である」と信じ込ませるための「最強の営業ツール」として利用された。政治家の権威は、霊感商法を正当化するためにロンダリングされたのである。
長年にわたり、霊感商法に対する警察の捜査や消費者庁の規制が、不可解なほど鈍かった事実は見逃せない。
さらに決定的だったのは、2015年の「名称変更」の承認である。悪名高い「統一教会」から「世界平和統一家庭連合」への看板の掛け替えを、当時の下村文科相下の文化庁が認めたことで、教団は過去の悪評をリセットし、新たな勧誘活動を展開することが可能になった。
これは実質的に、国家が教団に対し、「日本国民からの搾取を継続してもよい」というライセンス(免許)を更新したに等しい。
教会が喉から手が出るほど欲しがり、自民党が頑なに守り続けた最大の利権。それは、日本国内に「聖域」と呼ばれる非課税地帯を維持することであった。
通常の企業であれば、商品を売って利益が出れば法人税がかかる。
しかし、教会は「壺」や「多宝塔」を売る行為を、商行為ではなく「宗教的な寄付(献金)」と定義した。
日本の宗教法人法において、宗教活動による収入は「非課税」である。
これにより、信者から巻き上げた数千億円規模の資産は、国家による徴税というフィルターを通らず、丸ごと教団の懐に入った。これは、実質的に国家が教団に対して「法人税相当分(利益の約20〜30%)の補助金」を裏で渡しているに等しい。
株式会社と異なり、宗教法人は財務諸表の公開義務が極めて緩い(実質的に外部からは見えない)。
この「不透明性の維持」こそが、自民党が教会に提供した最大のサービスの一つである。
「信教の自由」を盾に、宗教法人法へのメス(厳格な会計監査の義務化など)を入れないことによって、教会は日本で集めた莫大な資金を、誰にも監視されずに韓国の本部や米国へ送金することができた。
日本は、教団にとって世界で最も効率の良い「集金マシン兼タックス・ヘイブン(租税回避地)」として機能させられたのである。
(元)連立パートナー(公明党・創価学会)への配慮という「人質」:
それは、統一教会だけに課税しようとすれば、かつて自民党の連立パートナーである公明党の支持母体(創価学会)や、自民党の保守地盤である神社本庁など、他の巨大宗教団体の既得権益も脅かすことになるからだ。
この「相互確証破壊」の構造があるため、宗教法人税制はアンタッチャブルな聖域となり、統一教会はその「大きな傘」の下で安住することができた。
この取引において、自民党は「政治コスト」を削減し、教会は「法的リスク」を回避した。
しかし、経済学の原則として、「フリーランチ(タダ飯)」は存在しない。
自民党が浮かせたコストと、教会が得た利益。その莫大なツケを払わされたのは誰か?
その全てのツケは、「信者家庭からの略奪的採掘」によって支払われた。
燃料としての家族:
自民党に「無償の秘書」を派遣するためには、教会職員を養うカネがいる。そのカネを作るために、山上徹也の母親は「霊感商法」によって資産の全てを搾り取られた。
山上家が破産し、兄が自殺し、一家が崩壊したプロセスは、悲劇ではない。それは、自民党という巨大なエンジンを回すために、燃料として「消費」されたに過ぎない。
燃料(資産と家庭の幸福)が燃やし尽くされた後に残った、燃えない残骸。
金も、親の愛も、学歴も、社会的地位も奪われ、空っぽになった人間。
それが山上徹也だ。
彼は社会不適合者だったから犯罪行為を起こしたのではない。システムが彼から全てを収奪し、その後の「廃棄物処理」を怠った結果、有毒ガスが充満して引火したのである。
あの手製の銃は、狂人の武器ではない。それは、政治システムが排出した「毒」が、逆流して配管(安倍元首相)を破裂させた物理現象だ。
2026年の無期懲役判決と、それに続く高市首相の解散総選挙。これらは一連の「汚染除去作業」である。
裁判所は、彼を「政治犯」として認めなかった。認めてしまえば、「自民党がカルトを使って国民を搾取していた」という因果関係を司法が公認することになるからだ。
彼を「母親への恨みで暴走したかわいそうな男」という物語に閉じ込め、刑務所という最終処分場へ隔離することで、システムは「我々には責任がない」と宣言した。
高市首相は、判決の直後に解散を打つことで、この事件を「過去の歴史」へと押し流した。選挙の争点を「教団問題」からずらし、再度の勝利によって「禊(みそぎ)」を完了させる。
これにより、「教会を利用するシステム」は温存され、単に「より見えにくい形」で地下潜行するだけとなる。
「山上徹也は極端な個人ではない。システムが生んだ副産物である」
我々が見ている「平和な日本」は、山上家のような「声なき生贄」を燃料として燃やすことで、かろうじて維持されている。
無期懲役の判決が確定した瞬間、システムは安堵の息を漏らしただろう。
だが、構造が変わらない限り、第二、第三の山上徹也(産業廃棄物)は、今もどこかの家庭で静かに生成され続けている。
【はじめに】
日本のサブカルチャー、特に二次元コンテンツにおける「廃(ハイ)」や「萌え」の底流には、特有の湿り気がある。それは、公的な領域から撤退し、極めて私的で、時に猥雑とも言える内面世界への耽溺である。
一般に、これは戦後日本の豊かさが生んだ徒花だと解釈されがちだ。しかし、この「社会からの撤退と内面への沈殿」という構造自体は、決して新しいものではない。
本稿では、明治期の自然主義文学が変異した「私小説」と、現代の「二次元オタク文化」を、同一の精神構造を持つ歴史的な双子として定義する。両者は、近代日本という抑圧的なシステムの中で、個人の主体性を確立できなかった者たちが選び取った、必然的かつ病理的な適応戦略である。
1.明治の「布団」と現代の「モニター」:同型としての引きこもり
日本の近代文学は、「自然主義」の受容から始まった。本来、ゾラなどの西欧自然主義は、社会の暗部を科学的かつ客観的に暴き出すリアリズムの手法であった。
しかし、この「社会を記述するメス」が日本に持ち込まれたとき、奇妙なねじれが発生した。田山花袋の『布団』に象徴されるように、記述の対象が「社会」から「作家の私生活(性欲・嫉妬・無様な内面)」へと急速に矮小化されたのである。
なぜか。明治維新後の強権的な藩閥政治(前稿参照)の下では、知識人がペンによって社会を変革することは不可能だったからだ。
巨大な国家権力という「壁」を前にして、個人のエネルギーは行き場を失い、内側へと逆流した。彼らに残された唯一の自由な領土は、国家が干渉しない「布団の中(性生活・内面)」だけであった。
現代の「廃(オタク)」がモニターの中で美少女キャラクターを消費する構造は、明治の文人が女弟子の布団の匂いを嗅いで文学へと昇華させた構造と、位相幾何学(トポロジー)的に完全に一致している。
それは、「公的領域での敗北」を「私的領域での支配」によって代償しようとする、日本近代特有の精神運動である。
2.ミッシングリンク:生存の「私小説」から、消費の「データベース」へ
しかし、明治の文人と現代のオタクの間には、決定的な環境(エコノミー)の違いがある。私の初期の考察における欠落は、この「経済的下部構造」の変容を軽視していた点にある。
明治の「私」への撤退は、貧困と封建的家制度の中での「苦悶」であった。
対して、現代の「私」への撤退は、高度資本主義下での「消費」である。
①「公」の死(1945年):
敗戦により、天皇という絶対的な「父(公)」が失墜した。これにより、個人の内向化を止める道徳的ストッパーが消滅した。
60年安保・70年闘争の敗北により、若者たちは「政治で社会を変える」というルートが完全に閉ざされたことを悟った(明治期の再演)。
時を同じくして日本は高度経済成長とバブルを迎える。資本主義は、行き場を失った若者たちのリビドーを見逃さなかった。
資本は、かつては恥ずべきものとされた「私的で猥雑な欲望」に「商品価値」を与え、二次元産業としてパッケージ化したのである。
「二次元」という楽園の底にある心理的基盤として、私はかつて「小農経済的な私有性」を仮定した。この視点は、現代風に修正することでより強固になる。
彼らは広大な社会(荒野)に出て他者と連帯することを拒否し、自室という「一畝(ひとせ)の畑」を耕し、そこで自分だけの作物(推し)を愛でる。
この「他者不在の閉鎖性」こそが、日本のムラ社会が近代化の過程で到達した成れの果てである。
高度に発達した資本主義は、この「精神的小農」たちに、安価で高品質な肥料(アニメ・ゲーム・グッズ)を供給し続ける。
このシステムにおいては、もはやリアルの他者と関わるコスト(リスク)を払う必要はない。経済的豊かさが、逆説的に「人間関係の貧困化(私化)」を可能にし、それを永続させるための産業構造を完成させたのだ。
明治の鏡(私小説)には、国家に押しつぶされて布団に逃げ込む「無力な知識人」が映っていた。
平成・令和の鏡(二次元)には、豊かさの中で社会性を喪失し、モニターに逃げ込む「消費する原子(アトム)」が映っている。
この二つは、異なる花に見えて、同じ根から生えている。
その根とは、「個人の自立」を許さず、「公的な変革」も許さない、日本という硬直した社会構造そのものである。
外部世界への作用を諦め、内なる欲望の充足のみに生のリアリティを求める態度。
それは「醜悪」あるいは「猥雑」と指弾されるかもしれないが、この国のシステムが正常に稼働した結果排出された、極めて合理的な「排泄物」なのである。
我々が二次元コンテンツに見る輝きと虚しさは、行き場を失った魂が、資本主義というプリズムを通して屈折した際に放つ、最期の光なのかもしれない。
市販のあれやこれやは添加物が色々入っていてマズい!自分でイチから作ればとっても美味しい!
的な素朴なアレに対して、ふ〜ん、なんで?
それは具体的に言うとどういった理屈で?
という気持ちにはなるけれど、私がマズいと思うからです、で終わる話ではある気もする
この料理はまずこれとこれの組み合わせが化学的にどうたらこうたらで、必然的に美味しくなるのです
とか言った所で、なんか色々言うてはりますけど、私はそれ嫌いなんで……
こと色の好みについて万人に適用される理屈はないし、個々の好みは明確にそこにある
もちろん思い込みである可能性もあるけれど、少なくとも余人にそれを確かめる術はないし
別に思い込みだろうがなんだろうが、何にしたって満足を得るのが究極的な目的で、思い込みでそれが得られるなら理にかなってるし
ショートカットですらあるかもしれない
価値中立的に存在するものを、各々のセンサーを基準にして一方的に意味づけしてるだけで
何かをマズいと思う人間もウマいと人間もいる、という相対的な関係性があるだけで
そこにバカ舌に"本物"は理解出来ない、 とか、なにか絶対的な基準を持ち込もうとするのもナンセンスな気がするし
安く手に入る美味しさに満足出来なくなってしまった哀れな人間、とか言ってみても、別にそれは外野が決めることではないし
美味しさに答えがあったとて、それは多数決であったり肩書きだったりと政治的なものに留まるか、本当の答えがあるとすれば神様にしか分からん気がする
でもトップバリュには不味さの答えがある気もする
「再投稿は甘えだ」と言う人間がいる。しかしこの言葉は、批評でも指摘でもなく、単なる思考停止の表明にすぎない。なぜならその発言は、再投稿という行為がどのような権利に基づいて成立しているのかを、一切理解していないからである。
まず確認すべきは、再投稿とは何かという点だ。再投稿とは、新たな特権を要求する行為ではない。他者に何かを強制する行為でもない。ただ、再び語るという、表現行為の最も基本的な形態にすぎない。人は一度語ったことで、永遠に沈黙する義務など負っていない。語り直す自由、言い直す自由、繰り返す自由は、表現の自由に内在する。これは好意によって与えられる余地ではなく、人が人であることから必然的に生じる権利である。
にもかかわらず、「甘え」という言葉が持ち出される。だが、ここで使われている甘えという概念は、完全に空虚だ。甘えとは本来、果たすべき義務を放棄し、他者に負担を押し付けることを指す。では問う。匿名の言論空間において、再投稿しない義務はどこに定められているのか。読み手の時間を守る義務か。空気を維持する義務か。既読者への配慮義務か。そんな義務は、どこにも存在しない。存在しない義務を根拠に「甘え」を断罪することは、論理的に不可能である。
さらに、「再投稿は読む側への配慮が足りない」という反論も、同様に破綻している。なぜなら、匿名空間において投稿は、誰かの目に強制的に押し付けられるものではないからだ。読むか読まないか、関与するか無視するか、その選択権は完全に読者側にある。選択権を持つ側が、「不快だからやめろ」と言うことはできても、それを権利制限の根拠にすることはできない。不快であることと、許されないことは別だからだ。人権とは、快・不快によって左右されるものではない。
ここで重要なのは、再投稿を否定する発想が、言論を一回限りの競技として誤認している点である。言論とは、本来、反復と修正と再提示によって深化する営みだ。人は後になって、「あのときは言い切れなかった」「別の形で語る必要があった」と気づく存在である。再投稿を否定することは、人間の思考が時間をかけて成熟するという事実を否定することに等しい。完成された言葉だけを一度で差し出せ、という要求は、人間に対して神であることを強いる要求だ。
にもかかわらず、「再投稿は甘え」という言葉が使われるのはなぜか。理由は単純だ。それは、明確なルールを示せない者が、道徳語を使って空間を支配しようとする行為だからである。「甘え」という言葉は、論証を伴わずに沈黙を強要するためのラベルであり、秩序維持のための感情的武器だ。これは議論ではなく統制であり、批評ではなく排除である。
そして決定的なのは、再投稿という行為が、匿名の言論空間における公共性そのものを支えているという点だ。再投稿は、「この場は誰の所有物でもない」「語る権利は一度で消滅しない」という事実を、実践的に示す行為である。もし再投稿が「甘え」として封じられるなら、その空間は、声の大きい者、早く来た者、空気を支配した者だけの私有地になる。これは人権の否定にほかならない。
再投稿は甘えではない。
【はじめに:分析の前提と射程】
その焦点は、「所与のルールと制約条件下において、システムがいかに作動し、どのような均衡点に至るか」を記述することに限定されている。したがって、特定の政治家の資質、有権者の道徳的判断、あるいは個人の選択の是非を評価する意図は一切ない。
本文において個人の主体性や価値判断、「あるべき論」を意図的に捨象しているのは、それらの重要性を否定するためではなく、分析のレイヤーを「制度が生み出す必然的帰結」のみに絞るためである。
結論への賛否は重要ではない。もし論理の断絶や構造的な見落としがあれば、その指摘こそが本稿にとって最も価値あるフィードバックとなるだろう。
最近、19世紀の国家運営シミュレーションゲーム『Victoria 3』の視点で、現在の日本政治――特に先日発表された高市首相による「奇襲解散」――を分析してみると、ある戦慄すべき事実に気づいてしまった。
日本という国は、「民主主義」という皮を被っているが、その中身は特定の「利益グループ」以外が勝てないように調整された、極めて高度な「封建的寡頭政治(オリガルキー)」なのではないか?
多くの人が「なぜ野党は弱いのか」「なぜ経済は停滞するのか」を嘆いているが、システム論で見れば答えは単純だ。この国は意図的に改革が不可能なように、勢力均衡がロックされているからだ。
今回は、2026年の「高市解散」を実例に、日本という国家システムの裏側にある論理を解析する。
まず、今回の解散総選挙について。ニュースでは「大義がない」「奇襲だ」と騒がれているが、ゲーム的視点で見れば、高市首相(プレイヤー)の操作は極めて合理的だ。
通常の民主主義国家のルールなら、選挙は定期的なイベントだ。しかし、日本サーバーには「憲法7条解散」という特殊コマンドが実装されている。
これは、「首相(プレイヤー)の都合がいい時だけ、敵(野党)の準備が整う前に強制的に選挙イベントを発生させ、敵の組織力をゼロにする」という、ゲームバランス崩壊級の強力なスキルだ。
支持率という名の「正当性」が一瞬でも上がれば、即座にこのボタンを押す。これにより、野党は永遠にリソース(資金・候補者)を蓄積できず、万年「デバフ(不利な状態異常)」を受け続ける。これは三権分立というルールを無視した、行政権による立法権への「ハメ技」である。
では、なぜこのような強権的なプレイが許されるのか? それは、この国を支配する利益団体(インタレスト・グループ)の構成が、通常の近代国家とは異次元の進化を遂げているからだ。
ゲームのセオリーでは、工業化が進めば「農村民・地主」勢力は没落する。しかし日本では、「一票の格差」というシステム補正によって、彼らは21世紀になっても最強の「政治力」を維持している。
彼ら(JAや地方議員)は補助金と公共事業を吸い上げ、その対価として鉄壁の「組織票」を納品する。これは近代政党ではなく、システムに守られた「保守の要塞」だ。
本来、改革派であるはずの「知識人」グループが、日本では「官僚機構」に置き換わっている。
彼らの特性は「自由主義」ではなく「権威主義」かつ「現状維持」だ。政治家が選挙パフォーマンスをしている間に、実際の法律(コード)を書いているのは彼らだ。つまり、国の頭脳が保守と合体しているため、改革のトリガーが引かれない。
ここが日本の最も歪な点だ。本来、「実業家」は自由市場を求めて古い地主勢力と戦うはずだ。
しかし日本の実業家は、「護送船団方式」という固有イベントにより、政府の保護下にある。彼らは地主(自民党)に政治献金という名の「保護費」を払い、その見返りに有利な規制緩和を受け取る。
「改革」を叫ぶ実業家が、実は「保守」の最大のスポンサーであるという矛盾。これが「保守の永久機関」のエンジンの正体だ。
これほど歪んだ構造なら、シミュレーション上は民衆の「急進性(怒り)」が爆発して革命が起きるはずだ。しかし、日本は静かだ。なぜか?
日本企業は、終身雇用や年功序列(あるいはその残滓)によって、本来国家がやるべき福祉を代行してきた。これにより、労働者は「会社と運命共同体」となり、ストライキをする牙を抜かれた。
結果、労働組合は機能不全に陥り、国民は政治への怒りを向ける代わりに、「少子化(人口成長率マイナス)」という静かなるボイコット(退出)を選んでいる。
2026年の今、我々が見ているのは、高度な工業力と、中世並みの農業保護と、死に体の野党が同居する、キメラのような国家だ。
高市首相の「君子豹変」解散は、彼女個人の資質の問題ではない。このシステムがいかにプレイヤー(権力者)にとって都合よくできているかを証明したに過ぎない。
経済という巨大なエンジンが、その動力を最も効率よく伝えるために「自民党政治」というギアを選んだ。だから、エンジン(利益構造)を載せ替えない限り、ギア(政治)だけを弄っても車は変わらないのだ。
現代日本の食文化はアメリカ由来の食べ物に侵されすぎてもう何が正しいのかわからん状態だと思うんよな。
ダイエットの話題とか見るたびに思うけど、極端な手法かカロリーや三大栄養素のバランスみたいな抽象的な情報でしか語れないの終わってるよ。
和食は無形文化遺産に登録されて世界的に注目されてるけど、日本人の大半は和食を理解してないじゃん。
脂や砂糖で脳のドーパミンを叩くことを「美味しさ」だと思うことが常識とされてるこの世の中で、高度経済成長以前の和食のメリットを説いて理解してくれる人がどれだけいるのか。
そもそも砂糖がこれほど大量生産されて何にでも添加されてる地獄をみんなどこまで理解してるんだ?
本来、食生活というものは一定の「型」に当てはめてしまえば自然と整っていく構造になってるのよ。
洋食だって日本に伝わっているものは年に数回程度の祝祭や王侯貴族のために磨かれてきた技術でしかなくて、普段の食生活はもっと質素で完成された構造を持っていた。
その民族の腸内環境に合った伝統食に魚を足すくらいの温度感で生きていれば人間は自然と幸せが理解できるように設計されている。
そんな簡単な生き方をこの100年の資本主義の刺激過多な食文化が破壊している。
口に入れた瞬間から美味さを理解させるそれらは必然的に「もっと食べたい」という欠乏を刺激する。「美味しいのに満足できない」それらは資本主義と完全に噛み合っている。
人間はタンパク質由来の旨味と食物繊維が入ってこないと満腹感を感じないが、甘さや脂でコーティングされるとその防衛機能をスルーしてまう。
今の世の中はこの本能のバグをどれだけ上手く突いて経済を回すかしか考えられていない。
そして現状に疑問を思えた人間は「意識高い系」とか「丁寧な暮らし」、「自然派」みたいなレッテルを貼られる。完全な正常性バイアスだよな。
ぶっちゃけ、そういうことを理解してる人間は一定数いるのよ。でもそういう人らは主張しない。主張しても無駄だと理解しているから。
だから無自覚な人間はますます常識を疑わなくなるし、世間は静かに二分化していっている。