
はてなキーワード:御真影とは
万博に最初に行ったのは、開幕1週目の平日。もともとは「う~ん万博?まぁよっぽど閑古鳥が鳴いてたらいってみようかな…?」といった感じだったのだけど、直前になると報道も(悪評が中心だが)増えてきて、こりゃ話のタネに行ってみたいなと急遽行くことにしたのだ。
そんなわけだから、「行ったら行ったで面白いだろうしけど、つまらなかったらつまらなかったで話のタネになるぞ」というくらいの気分で行ったわけだけど、結果楽しかったのでその後もリピートしているわけである。
とか言っていても、お囃子の声が聞こえてくれば、ちょっと行ってみようかなという気になり、行ったら買い食いもするし盆踊りを見たくなるもんさ。そういう魔力がお祭りにはある。(というより、その種の魔力を祭りというのかもな)
適当に歩いてたらさ、なんか踊ったり歌ったりしてる人がいてさ。ほんで自然に人が集まって、パフォーマンスが終われば自然と拍手が起こる。そういう空気が良かったなぁ。
昨今、社会の分断が問題って言われるじゃないですか。その場限りの空気ではあるが、それでも見ず知らずの人たちの間でちょっとした一体感ができることに、少しだけ救いを感じる。なんなら、入場ゲート前に国旗が並んでいるのを見るだけでもちょっとぐっとくるものがあった。
まぁもちろん、こんなのは幻想だ。万博を半年やったくらいで分断が消えるわけでもないし、国旗を並べただけで世界平和が達成されるわけでもない。なんなら万博自体が分断の種ですらある。あるいはこのイベントはパンとサーカスの類なのかもしれない。
が、それでも、である。たまにはそういう幻想を見て、仮に現実がそうでなくても、あくまで理想がどのようなものかを再確認する、というのは意義があるではないだろうか?
あー万博のテーマ?いのち輝く未来社会?う~ん、こっちについては自分はどういう意味かよく分からなかった。
いろいろ技術の展示はある。ただ、どうしてもこういう場所で展示されている技術はだいぶ無理した「背伸び」の展示だなという印象を受ける。技術ってのはもっと地味なもんなんだよ、ってのが自分の技術観だからなかな。
自分が冷めた人間なのかな。シグネチャーパビリオンを見ると、自分の表現物を実現するのに大金が動くクリエイターと、食うに事欠く人間の差は何なんだろう?とか考えてしまう。
まぁもちろんね、芸術に全然金が回らないような社会がいいとは思わないんだけどさ。
金のある先進国や産油国のパビリオン。あるいは企業パビリオンやシグネチャーパビリオン。まぁそういうところは、たしかに見てすげーってなるし、それぞれテーマがあって面白い。
でまぁそういうのも良いんだけど、けど、なんだかんだで私は中小国のパビリオンが好きだな。比較的待たずに入れるのも魅力だし、そういうところにふらっと入ったら愛想の良いスタッフが居たりすると嬉しい。ほんとの小国ともなると、説明員が誰も居ないか、居てもスマホいじってるだけだったりするわけだけど。
気合の入り方もピンキリでアフリカなんかは、正直どこの国も似たようなもん置いてんなぁ、違うのは大統領(大概軍人)の御真影だけか?みたいな国も多くてね。
それでもね、世界にはこんなに国があるのか~知らない国がい~っぱいっていうのを見れるだけでも、楽しいし有意義だと思うんだよね。子供達にはぜひそういうところを見てほしいね。
何回か行った万博で、やっぱり一番いい体験は、4月の開幕1週目に行ったときだったな。
単純に来場者が少なくて並ばずに入れるところが多いし、気温もちょうどいいし、というのが一番大きいのだけど、それだけではなく、事前情報がろくになかったので、攻略方法などという野暮なことを考えずに済んだ、というのも大きい。
好評が出回る中でも悪評が消えない予約システムだが、そもそも予約なんて大してあてにしてなかったからね。どこが見どころとか分からなかったし。
何度も言うように、万博はお祭りなのだ。祭りに行くときに、まずは射的をして次に焼きそばを…なんて考えるやつはいない。適当に歩いて、目に入った店を気分で見ていく。祭りってそういうもんだろ?
それを攻略法だのと称して、まるで最適解があるかのように言うもののなんと多き事よ。まぁね、安くもない入場料を払ったからには、というのも分かるんだけどなぁ。しかし、そのような「攻略法」は、万博の体験をむしろ損なっているのではないか?と私は思うのだ。
と言いながら、私も4回目とかになると、まだ行ったことの無い人気パビリオンに行きたいものだから、会場内で予約サイトをしょっちゅうチェックしたりしちゃうわけだ。
もうちょっとこう、何とかならないものかねぇ。(システム的な意味と、そういう野暮な行動をしてしまう自分の煩悩と)
話変わって、このあいだイオンモールに買い物に行ったんですよ。そしたらエスカレーター脇のちょっとした催し物とかやるスペースで、高校生かな?がビブリオバトルやってったの。で、クラスメイトらしき人や地域の人、たぶん通りがかっただけの人が周りで足を止めてなんとなしにそれを聞いている。
これを見て、私はそこに万博みを感じた。
日常の場と非日常の場、世界が集まる場と地域の場、スケールは全く違うけれど、小なりといえども舞台の上に立つ若者と、見知らぬ人たちの間で共有される拍手。
なんやかんや、イオンモールっていいところだなと思った。聞くところによれば海外では階層によって行くお店も使う交通手段も違うという。まぁ日本でも本当の貧困層や富裕層はイオンモールには来ないかもしれないけれど、それでも老若男女、だれが来ても許される空気みたいなのが、ここにある。そうだな、自分が好きな日本ところというのは、イオンモールに象徴されているのかもな、なんてことを言うのは大げさかな。あるいは地方都市民の発想かしらね?
天皇制(天皇の制度)は、日本の初代天皇とされる神武天皇の即位を紀元前660年とする伝承に基づけば、2025年現在でおよそ2685年続いていることになる
ただし、これは『日本書紀』などの記紀神話に基づく神話的な年代であり、歴史学的に実在が確認できる最古の天皇は第10代崇神天皇(3世紀頃)または第16代仁徳天皇(4世紀後半)とされることが多い
史実ベースで見ても、少なくとも1500年以上にわたって天皇という称号をもつ人物が継続して存在してきたことは確かで、世界最古の君主制とも言われている
しかし、それが今まさに終わろうとしている。
――つまり昭和天皇の存在感をリアルタイムで体感してきた人々は、すでに高齢者になっている
「玉音放送を聞いた」「御真影を拝んだ」「靖国で頭を下げるのが当たり前だった」そんな記憶を共有する世代が、静かにフェードアウトしようとしている
いまや平成生まれの中でも後半の世代にとって、天皇は「行事で見る人」「テレビに出てくる儀礼の人」くらいの存在でしかない
特別な信仰や敬愛の念を持っている若者は少数派で、むしろ「なんとなくまだある制度」としてスルーされている感じがある
それが制度の終わりを意味するかはともかく、「天皇を精神的支柱とする社会」は確実に過去のものになりつつある
また、天皇は「男系男子」でなければならないとする伝統は、現代の価値観から見れば極めて不自然だ
女性天皇は過去に存在したにもかかわらず、現在では「女系天皇は認めない」「男子がいなければ断絶もやむなし」という議論が公然と行われている
これは、血統と性別に過剰に依存した制度が、近代以降の法と倫理の進化にまったく追いついていないことを示している
そもそも現代社会では、性別によって職業選択が制限されることは基本的に許されていない
なのに、最も象徴的な国家機関の長が「男であること」を義務づけられ、それが当然だとされている
この違和感は、若い世代ほど強く感じているはずで、そこにある無言の排除や差別構造は見過ごせない
加えて、皇族女子は結婚したら「民間人」になる一方、皇族男子は家を継ぎ、制度の担い手となる
これは封建的な家制度の名残そのもので、女性にだけ選択肢がない
つまり天皇制は、性別によって人生の進路が大きく制限される制度であり、それが国民の象徴であることに誰もが疑問を抱きはじめている
「伝統を守る」ために女性を排除し、子どもの産める男子を数人に絞り込むという構造は、いずれ綻びる
女性天皇を認めれば制度が延命できるかもしれないが、そこに踏み込めない保守性こそが、制度の終わりを静かに早めている気がする
避諱(ひき)とは、君主や目上の者の諱の使用を忌避する慣習である。中国など東アジアの漢字文化圏にみられる。二字名の場合にどちらか一字を忌避することを偏諱(へんき)という。この項では中国の避諱を中心に記述する。
同文書には「全ての党員と公安当局者は、金正恩の名前を持つ住人のリストを作り、自発的に改名するよう彼らを教育するべきだ」と書かれていた。文書の一部は2日にKBSテレビで放送された。
改名手続きには、卒業証書や社会保障カードなどの公的文書に記載された名前を修正することも含まれていた。また当局者は、「キム・ジョンウン」と名付けられた新生児の出生証明書を拒否することも命じられた。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを求められており、1898年(明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って割腹自殺するという事件が起きた。 同じ長野県では1921年(大正10年)に埴科郡南条小学校(現在の坂城町立南条小学校)が火災に遭った際にも校長が御真影を持ち出そうとして焼死する事件も起きている[7]。
北朝鮮では「首領の権威を命をかけて守らなければならない」「火災や水害の際には、肖像画をいの一番で守らなければならない」との教育がなされており、守りきれなかった場合には「人民の義務を捨てた」として処罰の対象となりうる。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ
カービー米大統領補佐官は27日、ロシア西部クルスク州でウクライナ軍との交戦に投入された複数の北朝鮮兵がウクライナ軍への降伏を拒み、自殺したとの報告があると述べた。捕虜になった場合、北朝鮮政府が家族に報復するのを恐れたためだと指摘。過去1週間だけで北朝鮮兵千人以上が死傷したとの分析も示した。
noiehoie on tumblr • サヨクって本当にダメだなぁと思った件。
この件、是々非々を許さないカルト的怖さがあるんだが、分からん人には分からん。
教育勅語の件、「園児が教育勅語」ってバカにしてるが、この事件ってほっといたら 幼稚園→小学校→中学校〜と進む話だったんだぞ。
そうすると、カルトお墨付きの進学コースで人の上に立つ人材には、教育勅語を教義としてたたき込んでおかなければならないという意図が読み取れる。
【戦前教育を幼児に強制する塚本幼稚園】教育勅語の犯罪性について考える。 – お役立ち情報の杜(もり)
ちなみに御真影は、戦前の宗教弾圧では神道と毛ほども関係ないキリスト教会・仏寺に御真影が祀られ礼拝されていたわけだが、これは上の件と合わせると
それはそれとして、塚本幼稚園が
1.紀元節(現在の建国記念の日)、天長節(同、天皇誕生日)などの祝祭日に、校長、教員、児童は学校に集まり、儀式を行わなければならない(以下、式次第)。
2. 式場中央に奉掲した天皇皇后のお写真の覆いを撤する。その際、一同上体を前に傾け、敬粛の意を表する。お写真を拝戴していない学校では、宮城遥拝を行う。
3.国歌を歌う。
4.校長が「教育勅語」を奉読する。参列者は奉読開始とともに上体を前に傾けて拝聴し、奉読終了後に敬礼してもとの姿勢に復する。
5.校長が訓話を行う。
のような扱いをしていないから、たんなる戦後二次創作と嗤っていいものだろうか?ちょっと軽すぎない?
「皇室グラビア」と「御真影」 :戦前期新聞雑誌における皇室写真の通時的分析 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192611/1/kjs_009_093.pdf
に目を通せば、そんな単純な物ではないと思うよ。
イギリスのタイムズより取材を受けました。|新着情報|塚本幼稚園幼児教育学園
笑顔で丁寧な先生、2~5歳の制服を来た子供達は、他の幼稚園と同様愛らしい。しばらくした後、園児たちの“おじぎ”をする光景に気付く。それはお互いにするのではなく、壁の写真に対してである。
昭和の集合住宅に住んでいて平成不況と人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしいhttp://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html
さて、私は仏教徒だから遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国で仏教と儒教が習合してしまって渡来したから日本では混同されている。
私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産も相続したくない。
遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかったから火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。
遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離」である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。
「千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。
遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。
生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である。
死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶も所詮は細胞の状態でしかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。
日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである。日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元の岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。
そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院の資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典を暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文のネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術上のものでしかない。それでもその檀信徒が財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体が目的化している。
あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから、後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分が死ぬ方が先だろう。
忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変である。しかしその記憶もデータであって、細胞の状態である。
本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データでしかなく、ディスクがクラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。
それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。
器量良し、エロい、そしてエロいの三拍子揃った女性声優(Sさん)の、ここ数日における営業攻勢に失禁が止まらない。
以前から「かわいい」、「オッパイが大きい」、「やっぱりオッパイが大きい」と人気がある御仁だ。
本人もそのことを理解していて、Twiiterやブログにメチャシコな自撮りをよくアップしていた。
お顔のアップ、お胸の大きさがハッキリ出る服、お胸の大きさを強調するようにピンと反らした上体。
さらにサブカル、ミリタリー、今は亡き東側の盟主テイストの趣味がご贔屓で、オタサーの姫としても抜群のコンテンツ力を持っている。
いや、オタサーの""女帝""と尊称すべきだろうか。若い女性で、おいしさイナズマ級なのである。
ベッキーとは対照的に危機管理能力も高く、すみp……スペツナズである可能性は否定できない。
とりわけ、Twitterにあげたエロい写真が電子レイプされた時の対応は瞠目に値する。
写真の彩度を弄り、白服下のブラジャーを視認可能なレベルまで透けさせるという革命的同志が現れてしまったのだ(http://livedoor.4.blogimg.jp/himasoku123/imgs/f/4/f482ac7a.jpg ,http://livedoor.4.blogimg.jp/himasoku123/imgs/1/0/1061a4d5.jpg )。
日頃からドル売り女性声優はズリネタにされ、基本的に人権はない。
しかし、今回は事務所の許容範囲を越えたようで、Sさんのツイ垢は無期限凍結された。
今後しばらくはブログで活動報告するという。極東のマカーキが求める、しおらしい女性像を意識しての対応だ。
正しい。政治的にはアウトだが、業界的にはジャスティスである。
声ヲタは、愛を売ってドルを稼ぐ女性声優にさえ貞操観念を求めるのだ。
クリスマス前後の言動には彼らによる検閲が入り、結婚したら必ず報告しなければならない。
反動分子を粛清し、「すみぺ、俺たちに負けるな!」とアジっていたシンパをシベリア送りにし、何事もなかったかのようにTweetを続けられてはお猿さんたちが黙っていないのだ。
Twitterにおけるこの大陸的撤退戦は定石であり、それほどニュースバリューはない。プラウダも書かないだろう。
事変後、最初に投稿された写真は「かわいいお顔、オッパイ」である(http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/a/1/a10052cf.jpg )。
一見すると何も変わっていないようだが、もうスターリングラードのあとか先かくらい違う。
無論、透けてはいない。
さらにフリルがあしらわれており、身体のラインがダイレクトに出ない淑やかさも認められる。
しかし投稿されたのはTwitter凍結通告の翌日だ。彩度はダメだけど、別のモノなら弄ってもいいよというクレムリノロジー的メッセージが読み取れる。
さらに3日後には、黒のゴスロリお衣装と縦セタという、スプートニクショックが襲う(http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/8/8/885f0b4d.jpg ,http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/8/8/880292d0.jpg )。
黒は『まだ喪に服しています』という謙遜、縦セタは脈アリ。飴ムチである。彼女ならクリミアだって治められるに違いない。
そして4日後の3月12日、グラスノスチ。高シコリティーな御真影が復活する(http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/6/e/6e57cbd8.jpg )。
ホワイト!!(絶叫)ではあるものの、中には黒のインナーがしっかり。""分かっている""
そして2枚目(http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/b/c/bc75e99e.jpg )では大きく開いた胸元から谷間がЗдравствуйте!
╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !