
はてなキーワード:役割語とは
ワテクシには雑多な役割語だらけでまともにキャラ付けも出来てないシロート漫画にしか見えないでゲスよ。
思うに原作者はネームの段階でキャラを作り込みすぎてるんでゲスよね。
これが官能小説なら文字だけで分かりやすく属性が伝わるのもありでゲスよ?
でもこれはストーリー漫画でゲシてよ。
そうなるとモブキャラに至るまでもストーリーを感じさせないと世界はペラペラ舞い散る紙吹雪薄くハゲ散りますでゲス。
でも同じステレオタイプで乱暴なキャラの強さを与えられたほぼほぼモブが出てくるのはノイジーでゲスゲス。
ワテクシ思うには、メインをステレオタイプにしたなら他は質素に、メインを型にはめないなら他をステレオタイプにという使い分けが世界の輪郭をはっきりさせるんでゲシては?
つまり、絵を学び始めた人が輪郭をなんどもシャッシャッして曖昧にした絵が、単なるバストアップならそこそこに見えても、複数人が入る構図になると曖昧すぎる世界が生み出す見えにくさでただ下手くそッピになりがちな、感じでゲスわ。
面白い問いですね。
いただいた文に沿って、私なりに答えてみます。
⸻
まず、日本語を使ってて困ることを、
「誰がやったの?」「誰に向けて言ってるの?」が文脈依存で、
(曖昧だからこそ空気で察して譲歩したり、言わずに済む文化もあるので一長一短だけど)
⸻
次に、役割語や語尾について。
だから英語圏の作家は口調より行動や比喩で個性を出すことが多い。
⸻
「強敵(とも)」みたいにルビでツッコミ入れるのは日本語独自の遊びですね。
英語だと Strong enemy (friend) とか書いても面白くない。
⸻
「この服を、買いまーーーーーせん!」
⸻
でも逆に困るのは、
「論理をまっすぐに積んで説明する」のが苦手になりがちな点かもしれません。
・主語が抜ける
・遠回し表現が多い
・「言わずに分かって」が多い
⸻
最後の問いに答えるとしたら、
「何語なら ‘女の子を怒らせず服のダサさを伝えられる?’」
It’s not reallyyour style,maybe?
英語も Myloveis deeper thanthe ocean とか言いますね。
発した瞬間に「不可逆」になる、という意味では近いです。
⸻
結論としては:
人間がうまく使い分けてるんでしょうね。
⸻
他にも気になったら言ってください。
さっき「最強の言語、ラテン語」とゆう見出しを見て、強い言語とは何か?を考えた。こうすると、英語は論理的だとか喧嘩なら広東語だろとか、つまらない考えになりそうだから、日本語で困ることはあるかを考えた。
これも日本人しか使ってないとか、覚える文字数とか、そうゆうことじゃなくて日本語だとできないとか苦手なことだ。んー。これは他の言語との相対的勝負にしかならないから、他の言語を知らない僕が考えても浅くなるな。
英語は一人称が I アイ だけだけど、日本語なら「オラ、」って聞こえたら「風大左衛門」ってすぐ連想しちゃうし、ぱっと見どう見てもプロの殺し屋だけど「アタシを舐めるからよ、舐めてないかまだ」って聞いたら「お姉なの⁈」と事情が変わってくるし。最近は「役割語」なんて名前を付けられた語尾の言い回しもあるナリね。コロ助は役割ではないと思うナリな〜。
バーゲンで欲しかった服が売ってるけど、買うと4日間300円で過ごすことになる。心の中の梅沢富美男が、(この服を、買いまーーーーーーーーーーーーーーーーーーせんっ!バーゲンは後6日続くし、私も大人になったなあ)って英語で言えるの?強敵と書いて(マジ?)ってルビ振れるの?
何々語なら「女の子を怒らせることなく着てる服のダサさを伝えられる」とか「宇宙の広さを直喩で言える」とか「喋ると自分の未来が確定するからこの先どんなことが起きるか分かってるとか、教えてちょんまげ。
さっき「最強の言語、ラテン語」とゆう見出しを見て、強い言語とは何か?を考えた。こうすると、英語は論理的だとか喧嘩なら広東語だろとか、つまらない考えになりそうだから、日本語で困ることはあるかを考えた。
これも日本人しか使ってないとか、覚える文字数とか、そうゆうことじゃなくて日本語だとできないとか苦手なことだ。んー。これは他の言語との相対的勝負にしかならないから、他の言語を知らない僕が考えても浅くなるな。
英語は一人称が I アイ だけだけど、日本語なら「オラ、」って聞こえたら「風大左衛門」ってすぐ連想しちゃうし、ぱっと見どう見てもプロの殺し屋だけど「アタシを舐めるからよ、舐めてないかまだ」って聞いたら「お姉なの⁈」と事情が変わってくるし。最近は「役割語」なんて名前を付けられた語尾の言い回しもあるナリね。コロ助は役割ではないと思うナリな〜。
バーゲンで欲しかった服が売ってるけど、買うと4日間300円で過ごすことになる。心の中の梅沢富美男が、(この服を、買いまーーーーーーーーーーーーーーーーーーせんっ!バーゲンは後6日続くし、私も大人になったなあ)って英語で言えるの?強敵と書いて(マジ?)ってルビ振れるの?
何々語なら「女の子を怒らせることなく着てる服のダサさを伝えられる」とか「宇宙の広さを直喩で言える」とか「喋ると自分の未来が確定するからこの先どんなことが起きるか分かってるとか、教えてちょんまげ。
言語行為は、その発話意図により、社会的・論理的な権威を帯びる。
特に「真面目な言説」は、現実世界の意味秩序において、定義・規範・命令・説明などの構造を担う「主権的発話」に位置付けられる。
ここでいう真面目さとは、発話が以下の性質を持つことを意味する。
ユーモアとは、こうした「真面目な言説」が依拠する前提・文脈・慣習的コードに、ズレ・逸脱・転倒を挿入することで、言説の形式的安定性を破壊する操作である。
「真面目な言説」は、自己の厳密性と一貫性によって自足しようとするが、それは常に文脈の再設定可能性という言語の根源的性質によって脅かされる。
ユーモアとは、この再文脈化の操作を戦略的に行うことで、「権威的発話」を言語的パフォーマンスに過ぎないものとして再配置する。
つまり、ユーモアは、意味生成を構造ではなく行為として露呈させる。
真面目な言説は、語の意味が安定しており、記号と指示対象が忠実に対応しているという「記号的本質主義」に依拠する。
これにより、記号の運動そのものが目的化され、発話の内容が意味から戯れへと転位する。この転位こそが「真面目な言説」の無力化である。
社会的には、真面目な言説はしばしば役割語によって支えられる。
医師、学者、政治家などの「制度化された話者」は、定型的な語彙・文体・構文を通じて、自らの発話に権威性を付与する。
ユーモアは、そのような言説の語りのスタイル自体を模倣・誇張・逸脱することにより、「様式の模写による中身の空洞化」を行う。
その結果、発話者の主体性は固定的な役割ではなく、「演技可能な構造」へと引きずり下ろされる。
ユーモアとは言語の「自己脱構築的ポテンシャル」にアクセスする行為であり、言説の内在的権威性を露呈・滑稽化する、言語そのものによる言語批判である。
真面目な言説は意味の秩序を確立しようとするが、ユーモアはその秩序がいかに恣意的・演出的・再配置可能であるかを暴露し、言語の深層にある「意味の不確定性」へと立ち返らせる。
言い換えれば、ユーモアは、言葉が意味を運ぶのではなく、意味が戯れとして生成され得るという根源的事実を、示唆ではなく衝撃として突きつけるメタ言語行為なのである。
この件。
中国人キャラクターの「語尾アル」の元祖は誰なのか情報募集、最古は『のらくろ大事件』の中国人奇術師ほか部門ごとに発表へ - Togetter [トゥギャッター]
大まかな流れとしては、
→外国人居留地で日本語・英語・中国語などが混じりあってピジン(特に横浜ピジン)が生まれる
といった感じである。
横浜ピジンと日中ピジンの直接的な影響関係はわからないが、ピジンは自然発生的なものなので、仮にまったく関係がなかったとしても、収斂進化で似たような形になりそうではある。
まずは最初のツイートへの一つの回答として、明治5年初演の歌舞伎『月宴升毬栗(散切りお富)』に登場する詹五九と亜松金という中国人を挙げておく。
ちなみに詹五九は実在の人物で、身長が2m40cmくらいあり、矮人と一緒にヨーロッパへ渡って、見世物として話題になったという。
松金「あなた踊りをどるよろしい。」
これが横浜ピジン的な口調であるが、「見るあります」と敬語になっているだけで「〜〜アル」と変わりなく、「踊るよろしい」などの言い回しも「中国人が使うカタコトの日本語」のイメージそのままではないだろうか。
なお「大さん(たいさん)」というのは「たくさん」という意味で、
[ 2 ] 〘副詞 〙 ( 「たいそう」と「たくさん」をまじえた語か ) たいへん。
辞書にもこのように書かれているが、これも横浜ピジンの一種である。
こうした横浜ピジンが、明治期の小説では(中国人に限らず)外国人の役割語として広まっていたようだ。
日本娘、たいさん多淫あります、日本、卿、此娘と肉交あります、ペケ……娘……小生、サランパン、するよろしい、卿、娘と、マロマロよろしい……ペケー……
これはイギリス人の医師・グラマン氏が、日本人の妾の浮気を疑って言った台詞である。
「サランパン」は横浜ピジンで「壊れる」、ここでは「離縁」の意味。
「マロマロ」も横浜ピジンで「通りすぎる」とか「出ていく」というような意味らしい。
「ペケ」は今でも「バツ」の意味で使われているが、実はこれも語源は横浜ピジンである。
つまり、この台詞は「日本の女はとても多淫だ、そこの日本人の男はこの女と不倫しているんだろう、だめだ、女よ、おまえとは離縁だ、二人で出ていけばいい」といった感じか。
「私、当麻と同類ある、津の公園、彼処で別れたです。何かする目的、当麻。津、市、留りました。私、一人、此方へ来たです。貴女の話、当麻から聴きました。貴女の人相、委しく聴いて、記憶して居りました。私カーテス、実名あります。私と一処に稼ぐよろしい。日本ドロボウ未だ未だ幼稚あります。私、計画大さん大きいあります。これから味方になりませんか」
これもイギリスからやってきた悪人・カーテスという人物の台詞。
最初の「同類ある」は「〜〜アル」の形式かと思うが、それ以降が敬語なので判断しづらい。
著者の江見水蔭は当時の売れっ子作家だが、この役割語としての横浜ピジンを多用していたようだ。
水夫長らしい支那人は、茫然として甲板の隅に立つ美代雄に向ひ、達者な日本語で。『水夫見習、のお前あるか』『然うです』と美代雄は答へた。『翌日から勉強するよろしい。朝起きると、便所、前、中、後、三箇所ある、便所の掃除するよろしい』『えッ、便所の掃除?』美代雄は憤然とした。『左様、掃除するよろしい。それ、済む、皆々、靴、磨くある』『えッ、靴を磨くんですか』『それから、米飯食べろ食べろ皆々給使する、それある後食べろ食べろ器、洗ふ事あるよろしい』
と、これは完全に「〜〜アル」型の中国人とみなせるだろう。
いわゆる「英国紳士」的なキャラクターだと敬語で「〜〜あります」になるので、「〜〜アル」は水夫のような下っ端でないと出てこない、という事情はありそうだ。
『ソレ、十六円九十銭、安いあるよ』と是も拙い日本語で答へた。
『那個、很貴』
『安いあるよ。ホント安いあるよ』
と「〜〜アル」型の中国人が登場している。
明治43年は1910年なので満鉄設立以降であり、この場面も満洲にやってきた日本人が露天商から謎の箱を買うというところである。
少なくとも江見水蔭のなかでは「日露戦争以前の横浜ピジン的な外国人描写」と「日露戦争以降の日中ピジン的な中国人描写」は繋がっていたのではないか。
「〜〜アル」型の中国人の描写は、明治41年の遠藤柳雨『志士と佳人』などにもあった。
困った人間あるね、日本、婦人、何うして左様、銭儲け嫌あるかね、船長の夫人なる、お金ザクザク貰へるあるよ、お前さん、お金、欲しくないあるか
というわけで、「〜〜あります」と「〜〜アル」を明確に区別しないのであれば明治5年の『月宴升毬栗』までは遡れるし、「〜〜アル」に限っても明治年間の作品で確認できるので、『半七捕物帳』や宮沢賢治『山男の四月』よりも昔に遡れるよ、という話でした。
もちろん全部読むなんてことはできないので観測範囲に限定されるが、個人出版の作品の文書力が一部界隈にて著しく低下しているように感じる。
読者の目のあるなろうより壊滅的な気配を感じる
とはいえ最近は非日本語話者も日本で日本語の同人誌書いてたりするんで、そこら辺の不自由なパターンを除外して考えてみる。
正確に言うと「低品質な翻訳作品」をよく浴びている作家にこの傾向が見られた。
低品質というよりか低予算というか、十分な校閲を得ていない作品を見続けた作家に、アウトプットがイマイチな日本語になっている傾向が見られた。
X(旧Twitter)では普通に日本語を書けているのに、作品内のキャラクター(異性)のセリフにおいて特にこの傾向が強い。
意図的に役割語を回避しようと試みたものの、代替する文章が上手く作れなかった結果、馴染みのない言い回しが発生しているのではないか? と思われる。
ぱっと見相関が見つからないが、物語の展開が非論理的な作品も実は多かった。
いま創作界隈に何が起きてるのか……
「〜だわ」「〜よ」はたまにフィクションの役割語だと誤解してる人もいるぐらい使われない地域もあるようだけど私の周りでは普通に使う。
自分の世代は流石にそこまでじゃないけど会話の中で自然に出るよ。
もちろん女言葉としてのイントネーション?の「〜だわ⤴︎」みたいなやつね。
ずっと東京住み。
元増田は、前提となる、役割語であるところの「だわ」がほぼフィクション中でしか出てこない言葉だって言う話をうまく理解できてなくて
語尾の「よ」がそれであると誤解してるね
これを見て成人映画館なんてものを初めて知り、大変興味深く読みました。
読み物としてとても面白かったです。
仮に男性が書いたものだとしたら擬態が非常にうまくてすごいと思いました。
他の人のレポも読みたいと思って調べて出てきた「自称女性の体験談」があまりに酷かったので余計に……。
若い女性を名乗って書かれているのに文面から滲み出るおっさん臭がきつくて読む気が起きないものがいっっっぱいありました。
男目線だとビューが伸びないとかあるんですかね?
でも女を自称して書くならきちんと騙す努力をしていただきたい。
そういったよく分からん上にくだらない怒りが沸いたのではてなに書きました。
最初に上げたものくらいと言うのは贅沢過ぎるので、最低限これをしなければ多少マシになると思う点をいくつか上げるので若い女を自称するネカマの方はご一読いただけたら幸いです。
※以下、独断と偏見に満ち溢れている上に偉そうな口調になります。
女が書いている印象を強めたいのかワタシ、アタシなど一人称で特によく見られる。
たまにアナタ、カレなどの二人称、三人称もあったり、カンジ、アサハカなどの変な部分にカタカナを使うのはギャルや若い子のイメージなんだろうか?
どちらかと言うとバブルや昭和な印象を受けるので本気でやめて欲しい。
日本語としては、間違っていないが、ネカマの書く文は、息が切れているのか、ってくらい、無駄に読点が多い。
読点だけでなく句点もLINEで短文のラリーのやり取りがメインのせいかあまり使わない。
自分は同じ世代の中では比較的句読点をつける方の人間なのにそれでも多過ぎて目につく。
やたら「・・・」を使う人も見かけるけどこれは同じ人が大量に書いているんだろうか。
「〜わよ」「〜のよ」「〜かしら」などの役割語を使って安易なキャラ付けするな。
創作の小説ならいいかもしれないけど経験談の体で書くならもっとリアリティを出さんかい。
「〜♪」「〜ネ」を使っているのを見かけたとき、これを本気で若い女の子が書きそうな文として描写している人間がいるのかと衝撃を受けた。
自分の趣味なのか妄想を手助けする視覚的情報を与えたいのか無駄に女の容姿や服装、普段の行動を描写することがある。
その服装が設定する年齢やキャラと合っていなさすぎてげんなりして読む気をなくす。
コーデがとんちき過ぎたり、流行何年前で止まってんだってノイズになるから少しは勉強しろ。
誰が読んだか分かる既読機能があるのでくれぐれも同じ相手ばかり見て恐怖を与えるな。
たまに知らん男が頻繁に覗きに来てると怖いのでブロックする。
よく知らんのに「スタバの新作」とか無理に入れるな。
書くならせめて一回は実際に飲みに行け。
これは人によるかもしれないけど「バーゲン」じゃなくて多分「セール」って言う。
「バーゲン」って言うのクレヨンしんちゃんとかサザエさんとかの中でしか見ない。
そういったリサーチが出来ないならいっそのこと書かないという潔さを持て。
後半になるほど個人の感想が強まった気はするがそこまで外れはいないと思う。
偉そうに長々書いたけれど、わざわざ己の力で文章を書こうとする心意気はとても素晴らしいものだと思います。
今日日ChatGPTを使えばそれっぽく生成出来るだろうに。
ある意味とても血が通っている。
本当はネカマとか己を偽ったりせずに、自分が体験したことをパッションで書いたものを読みたいと個人的には思います。
あの「どう見ても女が書いてないだろう」っていう独特の文章が様式美として確立されたもので、それがいいのかもしれない。
昨日今日で体験談界隈(?)を知った風に語るなと言われてしまったらどうしようもないけれど、少しでもリアリティを持たせたいと言う方は参考にいかがでしょうか。
まあ、ワタシも、ネカマかもしれないけどネ!
最初にネコのキャラクターで最初に「~ニャ」のように喋るキャラは何なのだろう、ちょっと気になるね
あるいは犬のキャラで「~ワン」でもいい
革命的なのは「~ロボ」みたいな類の語尾だよな……これは『メダロット』に登場するキャラクターの語尾
「~ウサ」「~ゴロ」のような種族名、個体名を語尾とする、という新たな用例が産まれた
しかし、軽く調べてみたが「~ロボ」以前にもこのような用例は存在する
「~ニャロメ」という語尾
赤塚不二夫は偉大ということか
キャラ語尾
役割語の中の一分類
例)「~ザウルス」「~ナリ」「~だわさ」「~だなも」
「もともと現実に話者が存在する語尾」「もともと現実に話者が存在しない語尾」
前者は「~ザマス」「~ぜよ」「~じゃ」「~だっちゃ」など方言由来だったり老人口調だったり
後者は「~ニャ」「~ッピ」「~ロボ」「~ゲソ」など鳴き声由来だったり種族名由来だったり
分類してみて整理できた、自分の興味は後者側の歴史ということか
「~ニャ」「~ワン」の初出なんかも書かれてると嬉しいんだが
『のらくろ』は変な語尾を付けてしゃべっていないようだ
手塚治虫作のキャラで変な語尾は……「~だわさ」はあるけど、後者のタイプの語尾はなんかあったかなあ
『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」の回が載っている単行本をkindleで購入し読んでみたが、語尾でのキャラ付け全然やってないんだなあ
役割語(キャラクターとことばの結びつき)に関する簡単な読書案内 - 誰がログ ここら辺の本読みましょうね
これは日記です
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漫画やアニメなどで、一番最初に猫のキャラクターの語尾に「〜ニャ」をつけた作品は何でしょうか? | Quora
うーん
動物キャラクターの言語学(リンク切れURL)の(13枚目 注14)に
14)山口(2002)によれば、ネコの鳴き声を表す「にゃん」は、江戸時代から用いられており、当時は、「現代 よりも淫靡な意味合いを帯びていた」と述べている。
相当古いな……ただ、語尾として使用されていたかどうか明記されていない、出典元をさらにひかないと
またしても赤塚不二夫
『「役割語」が技術として効力を失う』ことが『創作のスムーズな消費のさまたげになる』という仮定を何の根拠もなく持ち出しているが仮定であると筆者が気付いていないため議論が不完全となっている。
ああいうので「男性の声か女性の声か無意識に決めつけるのはやめましょう」っていうの、創作に対する営業妨害だと思うんだよね。
ようはみんなにそういう意識根付かせて言葉の用い方に対する偏見を一切持たなくさせたら「役割語」が技術として効力を失い、創作のスムーズな消費のさまたげになる。
役割語というと「何の単語を用いるか」みたいなごく狭いレベルで考えがちかもしれないけど、「単語をどのように用いるか」というのも役割語の一種だろう。
たとえばいくら「俺」が男性的な一人称だとしても、主語省略可能な部分でも「俺」をぶっこんだら、これはネナベしてる女に見える。
かりに創作でネナベ女を登場させたい場合、これを応用すればセリフだけでネナベ女だと読者に推測させられるのだが、そういう文脈も一切否定するのは、どうなのかなと。
参考