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はてなキーワード:彫像とは

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2025-09-19

日本人の低身長男性よりも黒人遺伝子の方が優れていた

ジョー山中

ザ・ダイナマイツ山口冨士夫

母親にも捨てられ孤児院で育ったにも関わらず、あの世代で平均以上の身長だった

しかジョー山中モデル仕事をやっており、上半身裸の写真彫像のような美しさ

その上、会場に乱入してきた全学連学生返り討ちにする腕っぷしの持ち主

間違ってもいじめられっこホビットチー牛にはならない

Permalink |記事への反応(0) | 19:44

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2025-09-02

欧州では仕事9-17時、春1w(イースター)、夏2w、冬2wの海外旅行をして、貯金も貯まる。

ある年の冬、オフシーズンギリシャに行った。空港から地下鉄ストライキをしていて、駅員に聞いて乗り換えた。アテネ建物は古く、中心部はあまりれいではない。

とはいえ地区によっては瀟洒アパートきれいなブティックもある。当時、ギリシャ経済は最悪だったが、丘の上から夜景を眺めると、確かに明かりはG7の国の首都に比べれば控えめだが、それほどでもない。

博物館収蔵品は見応えがある。

アテネでは観光客らしくパルテノン神殿ホテル屋上からも見える。夜はライトアップされる)やそこらに点在する遺跡プラ地区の店やカフェを冷やかして周ったあと、車で時計回り国土の南三分の二を一周することにした。

コリントス地峡を渡って(シーサイドの道中、橋の夜景が絵になる)水かきのついた手の形をしたペロポネソス半島に着くと、酒屋で赤ワインを買って宿でバッカス乾杯した。なお、近所にバーはない。ギリシャ北部で作られる、クシノマヴロという葡萄品種の酒は、中重口で優美でおいしく、瓶熟成も期待できそうな、輸出できる味だが、伊仏のそれと比べて安い。

朝は煮出した濃厚なギリシャコーヒーで目を覚まし、近くの透き通った海で英気を養う。

この半島は、内陸部はオリーブしか生えないような岩と乾燥土の荒れ地で、岩山のてっぺんに砦があったりする。寝坊したので、古代遺跡に着いたらすでに入り口は閉まっていたが、柵を乗り越え中に入って古代競技場の観客席に腰掛けたりはしない。

半島の先端に行ってみたが、住人のいない迷路のような道の村に羊が歩いていた。

スパルタの町は、道路信号がなく、交差点では左右の車を阿吽の呼吸ですり抜けた。外国人でも通じるらしい。博物館彫像は、ことごとく首なしか鼻欠けだった。征服に来た古代マケドニア人仕業らしい。

いくつか小さな町に立ち寄ったが、海に近いのでシーフードがおいしい。

オリンピア遺跡を見た。

国道は片側一車線だが、路肩を使って二車線になっている。

夜、給油すると、係が、20%の消費税をぼやいていた。「政府が俺らを殺しているんですよ、メリークリスマス

風が強かったが、フェリーに車を乗せてザキントス島に着いた。イオニア海きれいな緑色をしている。ここは、夏場は欧州一円から来たパリピ若者が夜通し遊ぶところだが、冬はクラブも閉まって静かだ。何もないので、カフェバービールゆっくり飲む。

翌日、浜辺に難破船のあるシップレックビーチまで、道を間違えつつ辿り着き、崖の上から眺めた。鮭の切り身のような形の岩壁が突き出し、ここだけ色がひと際鮮やかなエメラルドブルーの海を区切っていて、有名な写真スポットだ。晴天だが風が強く、帰りのフェリー欠航まちがいない。島を一周して宿に戻る道すがら、レストランで久しぶりに鯛を食べた。

半島に戻ると、橋を渡って、本土西側イオニア地方の丘の上の遺跡を歩いた。この辺りの国道はなにもない丘と低木の生えた乾燥地を抜けていて、車は時速100km以上ですっ飛ばして行く。

実はギリシャ本土は北に行くほど山がちで、スキーリゾートがある。これを知らず、車はノーマルタイヤだった。なにしろ比喩的心筋梗塞に襲われ、旅行の前日に思い立って航空券を買ったのだ。

メテオラという、ビルほどの巨大な奇岩が連なっている天辺修道院が乗っている所に来た。修道院には、ロープウェイ物資を運んでいるらしい。

その後、オリンポス山を見に行ったのだが、雪に煙って見えなかった。バーに入って酒をたのんで話をしたあと、覚えていない。

ギリシャトイレ水道管は断面が狭いらしいので、トイレットペーパーは流さないでかごに捨てることになっているところが多い。

朝食では、濃厚なギリシャヨーグルトに特産蜂蜜をかけて食べた。いろいろギリシャ料理があったが、名前は忘れた。

一方通行路地の片側にはびっしり駐車してあり、しかも一台分の割り当てが短い。慣れずに苦戦していると、「きみ、出るのか入るのか、どっち?」

この日、神殿を見にデルフォイまで行くつもりだったが、途中、雪が散らつき車を飛ばせず、峠に向かうと夜になり、固く引き締まった雪道に空は吹雪いていた。実は、車屋の親父が調子のいいやつで、タイヤチェーンをトランクに入れてくれたのだが、サイズが合わない。峠で唯一のホテルの前で、明かりを頼りに苦戦していると、主が出てきて、中でコーヒーを飲ませてくれた。結局、諦めてアテネに戻ることにした。途中の高速道路新雪と融雪が斑なシャーベットになっていて、一台だけ時速60kmで進んだ。アテネに近づくと、辺りは雪の気配さえない。真夜中、アパートホテル場所を探すのに、手間がかかった。

結論として、今度ギリシャに行く機会があるとすれば、北部都市テッサロニキを見てみたいが、気温40度になる夏、あるいはたくさんあるうちの島のいくつかのビーチで寝そべって過ごしたいかといえば、よく分からない。もしかすると、クレタ島もいいかもしれない。

Permalink |記事への反応(0) | 20:47

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2025-08-18

anond:20250818164032

でも乳首ピン立ちとか表現してる内容が俗すぎて芸術っていわれてもピンとこないんだよなァ

筋肉ムキムキフルチン彫像ゲイ術って言われると納得なんだけどナ~

素っ裸の像がむき出しで置かれてるだけだからよろしくないだけで

芸術性を解説する石板も添えてあれば良いのかもしれないな

Permalink |記事への反応(0) | 16:51

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特に神戸の街には女性の裸体彫刻が多く、改めて考えると不思議だ。なぜ、公共空間女性の裸体を置きたがるのか。取材を進めると、戦後日本の歩みに深く関わっていることが分かった。

 神戸三宮フラワーロード三宮北側から遊園地東側にかけて、35の彫刻作品が点在する。うち女性裸体像は13点で4割近い。男性裸体像は1点なので、明らかに多い。

 帽子かぶり体をくねらせる女性、直立してこちらを見つめる女性、座って体を洗っているように見える女性…。いずれも全裸だ。

 神戸文化交流課によると、市内にある銅像モニュメントは500点以上。多くは1960年代後半以降の一時期に集中して設置されたという。戦災から復興し、「彫刻の街」を目指した同市は大規模な彫刻展を何度か開いて入選作を買い取り、神戸ゆかり彫刻からも寄贈を受けた。

 しかし、なぜ裸の女性なのか。担当者は「裸婦像には平和象徴のような意味合いがあったと聞いています」と話した。どういうことなのか。専門家取材することにした。

     ◇

 インターネットで「裸婦像 平和」を検索し、たどり着いたのが亜細亜大国際関係学部の高山陽子教授文化人類学)だ。専門の記念碑研究の傍ら、15年ほど世界各地の銅像を見て回っている。

 「公共の場に、これほど若い女性の裸体像が多いのは日本だけ」と高山教授。数年前に「国内でも多いと聞いた」神戸も実地調査した。公共空間女性彫像についての考察を2019年にまとめた。

 高山教授によると、いわゆる「銅像」が輸入されたのは明治以降軍国主義が進むと軍人像が増えたが、戦中の金属供出や、戦後軍国主義排除を目指したGHQ政策で大半が撤去された。代わって登場したのが、歴史性、政治性の薄い「乙女の像」だという。

 日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像は東京三宅坂の「平和群像」(1951年)で、以前は陸軍出身首相寺内正毅の像があった場所高山教授は「ここで平和意味けがなされた」と指摘する。

 70年前後には地方自治体都市整備事業の一環で設置を進め、高山教授は「駅前などに脈絡なく女性裸体像が立つことが増えたのではないか」と説明する。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/national/20250818-OYT1T50020/

かによくわからん

70年前後といえばブルマもぴっちりしたやつになったあたりか

変態が当時のお偉いさんにいたんだろな(苦笑)

Permalink |記事への反応(0) | 13:49

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2025-03-18

[今日知った言葉]マリアンヌ

フランス擬人化美女

フランス革命時に貧民の象徴とされたフリジア帽をかぶっている。

自由象徴として、フランスのあちこち彫像が置かれており、政府広報にその意匠が使われたりもする。

同様の擬人化としては、イギリスの「ブリタニア」や、アメリカの「コロンビア」などがある。

Permalink |記事への反応(0) | 10:19

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2025-02-21

これって俺が悪いのか?京大折田先生像

京都大学に「折田先生像」という謎の像があると聞いた。正式銅像撤去されたけど、なぜか毎年誰かが勝手に変な像を置いていくらしい。そんな面白い文化があるなら、一度見に行かないといけない。

ちょうど京都に行く機会があったので、京大の近くを歩きながら探してみた。ネットで調べると、その年ごとにゲームキャラだったり、謎の彫像だったり、色々なパターンがあるらしい。これは楽しみだなと思いながらキャンパス内をウロウロ。

しばらく探したけど、それらしきものが見当たらない。おかしいなと思って、通りがかった学生らしき人に「あの、折田先生像ってどこにあります?」と聞いてみた。

相手は一瞬「え?」という顔をした後、「あー、今年はまだ出てないですね」と申し訳なさそうに言った。え、そんなことあるのか? 毎年恒例じゃないのか?

せっかく来たのに何もないのは納得いかず、「誰か置きに行かないんですか?」と食い下がったら、「いや、あれ勝手に誰かがやるもので…」と困ったように返された。

じゃあ、誰かが置かないなら俺が置いてもいいのでは? という発想が浮かんだ。とはいえ、像を作る時間はない。でも、何かしら「ここに折田先生像があるべきだった」ことを示したかったので、近くのコンビニで買った肉まんをそっと地面に置いてみた。

数分後、通りがかった学生がそれを見て「あれ…?」みたいな顔をしていた。なんか申し訳なくなって急いでその場を離れたけど、もしかして俺、怒られるようなことした?

でも、今年何もないのが悪いよな?これって俺が悪いのか?

Permalink |記事への反応(2) | 12:17

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2024-09-02

サモトラケのニケ現象 想像力と言う魔力

サモトラケのニケと言う彫像を知っているだろうか?

翼が映えた勝利の女神、ニケを象った像だ。

この像の大きな特徴として、頭部と両腕が失わていることが挙げられる。

この説明を聞いて、頭部と両腕が失われている美術品なんて欠陥ではないか?と思った人も多いはずだ。

私はそうは思わない、逆にこの欠損が無かったらニケは今程有名ではなかっただろう。

何故なら欠損こそが見た者の想像力を掻き立て、頭の中で自分理想のニケを作り出す力があるのだ。

まりニケと言う彫像は単体では完成せず、観測者の脳内で補完されることによって完成するのだ。 

序論はここまでにして本題に入るとしよう。

「欠損した女神彫像想像力で補完され、完成する」なんて言うと如何にも非日常的に響くかもしれないが、我々はこれを日常的に行っているのだ。

切れてしまった人間関係死別した人間、2度と戻らない楽しかったあの思い出

これらの続きを思い浮かべたことはあるだろうか?

サモトラケのニケの欠損も、今挙げたこれらの思い出も不可逆でこの世界から失われたからこそ想像余地があり、途方もなく美しいのだ。

想像力は、自分の中の世界だけなら不可能を可能にしてしまう魔力がある。

どうか、この力と上手く向き合い、付き合ってほしい。

Permalink |記事への反応(1) | 03:24

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2024-08-18

ガラスの仮面、全49巻読み終わったけど、これ終わるのにあと5巻は欲しいよね?

終わるのか?

終わるのだろうか?

描き始めることが出来れば2年ぐらいでババっと仕上げることは出来そうだけど、そもそもそれが現実的なのかが分からない。

現状はあらゆる作中の伏線収束していっている所であり、これを「俺達の戦いはこれからだ!」とやってしまっては全てがどっちらけてしまう。

出来なくはないと思う。

モノローグを使いまくって「Aのお芝居は大成功した。具体的にはここがよかった」「Bのお芝居も大成功だった。ここが本当に良かった」「甲乙つけがたいぜー!紅天女をめぐるバトルはこれからだ!」「PS紫のバラの人との関係は進展してます 朝チュンチュン」でかませば1話に圧縮可能だ。

年表エンドの如き無理やりなラスト可能

だけど、ここまで盛り上げておいて、本筋に+αするための要素をこれでもかと盛り付けておいて本筋自体ハイハイチャッチャッで終わらされたら読者もやるせないだろう。

今、ガラスの仮面は本当に盛り上がっている。

作中最大の山場だ。

フルコースで言えばメインディッシュが運ばれてきた直後、カートの上にはクローシュを被せられた皿が並び、ウェイターがツラツラと今宵の主役が如何に素晴らしいか説明していくれている最中だ。

もしここで「すみません。もう閉店時間なので一口分だけの提供とさせていただきます」と言われたとして、納得できるものがいるだろうか?

SLAM DUNK山王工業高校戦、20点差をつけられた直後に突然モノローグが入り「なんだかんで20点差をひっくり返し激闘を制した。その後の3回戦、嘘みたいにボロ負けした。その試合桜木山王戦の負傷により出られず、今はリハビリである」で終わったら歴史に残るクソ漫画になっていたことだろう。

ガラスの仮面、本当にちゃんと終われるのか?

描くべきものは誰もが分かっていてあとは最後の仕上げを残すだけとはなっている。

仕上げを待たなくても書き上がりの景色の8割程度は想像がつく。

片腕のない彫像を見たとき、それ以外の部分がないはずの腕の形を教えてくれるようにだ。

だが、腕の先にある指の形まではわからない。

もはや勝負行方など作者にとっては枝葉末節なのやも知れぬが、読み手としてはハッキリと勝負の中でその答えを知りたいのだ。

描かないわけにはいかないだろう。

作者という神が、どのような答をこの物語に下すのか。

作品世界を生み出した神としての最後の大仕事だ。

天地創造における6日目だ。

まだ7日目ではない。まだ休むときではない。

Permalink |記事への反応(0) | 12:48

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2024-07-29

パリオリンピック開会式共同執筆者たちのインタビュー

マリアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図しりたくて、いろいろ読んだ。

具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。

id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。

増田フランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。

フランスインテル(という名の番組っぽい)

https://www.radiofrance.fr/franceinter/podcasts/l-invite-de-8h20/l-invite-du-week-end-du-samedi-27-juillet-2024-3772628

ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリアントワネットゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。

ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネット斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的イベント世界中が知っています私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たち価値見出していた(後述する)ロンドンエリザベス女王ジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。

ホスト歴史家パトリック・ブシュロンはどうですか。

パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的モニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たち勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家アイデンティティではなく、あくま政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。

(中略)

ホストダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分であるような感覚ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。

ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人白人アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループカリブ海)の音楽オーヴェルニュの音楽ヨーロッパ音楽を、同じ時にね。

LeParisianのブシュロンのインタビュー開会式前のインタビュー

https://www.leparisien.fr/jo-paris-2024/ceremonie-douverture-des-jo-2024-au-debut-vous-allez-peut-etre-vous-dire-oh-la-la-cest-cliche-26-07-2024-S35XYLUGNBG53ARPSYLRKMM5PM.php

トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。

(中略)

最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージ正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちエッフェル塔私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」

(中略)

幸せな猥雑さ(売春宿)」を見せる

共同執筆者たちは、過去の開会セレモニー研究しました。そして、アテネ謙虚さと、ロンドン自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズム拒否することにしたのです。

ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」

開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である

私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージ軍隊デモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」

パリ歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます

軍事パレードではない

英雄物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいていますセレモニーはそうでなければならない。私は歴史家からナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニー軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」

少し考えた後、彼はこう付け加えた。

「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリ世界を迎えるのであれば、ありのまま世界ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的ものですから政治的もの排除するということはありえません。しか世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」

彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。

RFIまとめ記事開会式の朝に出た記事

増田はルモンドやリベラシオン課金はしていないので、まとめ記事が助かった)

https://www.rfi.fr/en/france/20240726-we-need-this-moment-of-peace-say-olympic-opening-ceremony-storytellers

(略)

ジョリーと4人の作家2022年末に共同の冒険を始めたときルートはすでに決められていました。

東のアウステルリッツからまりノートルダム大聖堂マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリールーブル美術館ガラスドームが特徴のグランパレなど中世遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります

私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツからエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリール・モンドに語った。

私たちパリ歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑広場彫像文学的書簡映画ミュージカルも調べました。」

彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏執筆を続けた。

フランスカルト映画アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズエミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句アメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。

彼らはショーを12絵画セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートパレードと掛け合わせた。

3,000人を超えるダンサー俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンス披露し、それぞれの絵画は、パリシンボルと、過去現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界パリ​​の歴史建築の旅へと誘う。

例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式記念碑であり、19世紀作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています

世界最後テレビノートルダム大聖堂を見たのは、火災ときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志物語です。」

自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。

パーティーを開いてお気に入りプレイリストをかけるのとは違います世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」

(略)

エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年フランス革命から1948年世界人権宣言まで、「解放自由の偉大な物語」を提供すると述べた。

セレモニーの詳細は秘密ベールに包まれているが、フランス価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランスモロッコ人の小説家であるレイラスリマニは、パリ集合的であろうとする努力価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。

4人の作家は、自分たち物語に寛大な精神を持たせたかったという。

「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的価値観だけでなくね。」

ラグビーワールドカップの二の舞は避けたい

(略)

一方、昨年9月パリで開催されたラグビーワールドカップ開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。

アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽バゲットという出立ちで、1950年代フランスの村々を再現した模型自転車で巡り、ミルク絞りの女性ダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から時代遅れ陳腐フランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。

「ただの古臭い過去イメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家アイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから私たちセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」

フランス革命200周年

ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年フランス革命200周年記念式典を挙げている。

当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。

「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年ソ連中国天安門広場抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たち多文化フランスと呼ばれていたもの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」

数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗セレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。

結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。

それでも、暴力への抵抗必要性は残っている。

私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。

「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」

以下私なりの見解(読まなくてもいい)

なんでマリー・アントワネット

と思っていたけど、セーヌ川コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。

最後の晩餐のシーン

開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィア存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから真正からね。

要は、暴力クィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリ包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。

Permalink |記事への反応(2) | 11:44

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2024-04-21

anond:20211021220600

彫像は許されているのではない

罰せられている

から永遠に同じポーズで立たせられている

Permalink |記事への反応(0) | 10:33

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2024-04-18

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリアルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 …白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

Permalink |記事への反応(0) | 11:35

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2023-10-24

二階堂ふみの編み込みヘア

有名な編み込みヘアといえば「ドレッド」「コーンロウ」になると思うが、

実はどちらもヨーロッパルーツなのではないかと言われている

 

コーンロウに関してはwikipediaにて

コーンロウや三つ編みと思われるヘアスタイルの最古の描写は、現代フランスオーストリア発見された2万5000~3万年前のブラッセンプーイのヴィーナスやウィレンドルフのヴィーナスと呼ばれる彫像が知られている。

との表記があるように、大昔からヨーロッパ彫像にて表現されている。

 

またドレッドに関しても

ドレッドヘアの最古の描写は、クレタ島現在ギリシャ)を中心としたヨーロッパ最古の文明ひとつであるミノ文明紀元前1600~1500年にまでさかのぼることができるとされている。エーゲ海テラ島(現在ギリシャサントリーニ島)で発見されたフレスコ画には、長い編み込み髪や長いドレッドヘアの人が描かれている。

と、やはり記録上、最古の描写ヨーロッパルーツになっている。

 

もろちん、ヨーロッパのが過去文化の保存状態が優れていたため、

そもそもそういった遺物が残っている率が高い可能性は考慮できる。

 

古代エジプト壁画などにも似たような髪型が彫られていたり、

アステカ文明壁画からもにたような編み込みヘアを見ることができる。

まり、太古の昔から世界のあらゆる場所で発生してきた単なる「髪型」の一種しかないということだ。

 

どこがブラックルーツなんじゃい。

ニグロ奴隷として働かされたり差別されたりしてきたことはかわいそうだと思うけど、

からってなんでもかんでも許されると思うなよ。

Permalink |記事への反応(0) | 13:38

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2023-08-01

anond:20230731103637

東京家賃が高すぎて持続的発展的な文化活動に向かないんよ。

ある程度のレベルに達した人達オーディエンス、客を求めてマネタイズしにいくところ

世界一級のパトロンが金に飽かして世界最高のものを集めるっていうほど文化的に目が肥えている訳でも太っ腹な訳でもないし。

そういう意味では福岡とか生活コストが安くてコミュニティの維持コストが安くて文化インキュベーションに向いている。

材料費たくさん使える家賃払っていない味」レストランベーカリーパティスリーが沢山あるだけで作る側食べる側の文化度両方上がる

生クリームでもブルーベリーでも東京よりむしろ産地のある地方の方がふんだんに安く使える。サフランでもバニラでも家賃が安いので

必要ならコスト掛けられる。800円のショートケーキで原価率3割だと240円の材料ケーキ東京の人たちは食べている。

700円のショートケーキで原価率4割だと280円の材料ケーキ東京より安い値段で福岡の人たちは食べている。

しかも苺やブルーベリーは近所で朝獲れたやつで東京の半額で仕入れられる。東京で同じ材料でつくると360円かかる。

こういう理由で、食べる方(客)と提供する方(店)の良いものに対する平均レベル東京より地方の方が高くなる。

審美眼のあるお客さんの層も広がって生産側に回る人達も出てくる。

しかかり中の作品家賃あんまり払わなくていいアトリエ」だと大型の彫像に十分な製作期間がかけられる。

近所に変なおっさんが住んでて溶接したり鑿を振るったりレーザー加工機を使ってたりする現場があると、

周囲の小学生文化レベルが爆上がりする。(まあ昨今は安全にうるさいが・・・

結論だけど東京家賃が高すぎて文化伝承再生産にコストがかかりすぎるので文化活動に向いていないんだ。

Permalink |記事への反応(2) | 07:17

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2023-05-06

セクシーすぎる人魚彫像が物議をかもす。イタリア

胸の盛り方が童貞っぽくて笑った。これ制作過程でもう少し削ろうかって言う先生とか居なかったのか

Permalink |記事への反応(3) | 15:09

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2023-02-21

anond:20230221185936

山上先生彫像山上銃。

Permalink |記事への反応(0) | 21:48

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2023-01-23

ガチャ嫌いでガチャギャンブルホスト狂い扱いするはてなーに決定的な違いを教える

結論から言うと、ギャンブルにはゴールがない。

なぜなら、金を使って金を得るのがギャンブルからだ。

1000円が1万円になっても、次は1万円を10万円にしたいと思うだけで、もうここで終わり、というゴールがない。

逆に1万円が1000円になっても、次やれば取り返せるかもしれないから、負けても終われないし、ひどい時は使ってはいけないお金まで使ってしまう。

ガチャはどうかと言えば、もちろん全キャラ集めて最大まで強化するまで止まれないガチャ中毒も中にはいるだろう。

しかほとんどの人はイベントごとに好きなキャラ、強いキャラを一体手に入れられれば満足だろう。

適正な金額かまでは知らんがある程度のゲームは大抵天井もあるから、それには非現実的金額はかからない。

例え全キャラカンスト目指す中毒者であってもいつかは終わりが来る。

また、ガチャに勝ったからといってお金が戻ってくるわけではない以上、ないお金を使う心理的抵抗ギャンブルのそれより多少は高い。

ギャンブルは「勝てば取り返せる」という誘惑があるが、ガチャは勝っても1円も返ってこない。

「勝てる可能性があるだけギャンブルのほうが有意義だ」とのたまう人間がいるが、むしろその可能性こそがギャンブルが人を破滅させる要因になっている。

ホストキャバクラはどうか。

ゴールが無いわけでは無いが、現実的にはゴールできる可能性は極めて低い。

ホストキャバクラのゴールとはそもそも何か。

乱暴に言ってしまえば、彼や彼女自分とだけプライベートに付き合ってくれることだろう。

しかホストキャバ嬢仕事でやってるし、金で自分を買うような人間、あるいは養分しか思ってないような人間を本気で好きになるようなケースは早々ないだろう。

あったとしてもホストキャバクラに狂って破滅するような人間はまず対象外だろう。

からホスト狂いやキャバ狂いはほとんど0%の可能性のためにお金を注ぎ込むことになる。

そもそもガチャなどというと最近まれたモノのように感じるが、言ってしまえばくじ引きスクラッチカードゲームのパック、ガシャポンなど、類似遊戯はいくらでもある。

それらのことをギャンブルだの賭博だの言う人はいたか

もちろん、それらとガチャとでは注ぎ込む金額スマホによる課金のしやすさな無視できない違いもあるが。

また、本来言うまでもない事な気もするが、たかデータお金を、という人もたまにいるのだが、

買い切りゲームだろうがクリエイターの書いた漫画だろうがパソコン上のコンテンツは全部データだ。

現実絵画もただの絵の具のパターンだし、彫像はただの石だし、人間はただのタンパク質の塊だし、思考電気信号の集まりだし、地球はただの岩石である

データであることが何かの否定材料になることはありえず、それでもそのように主張するなら、その人は自分をただの肉塊である宣言するのと大差がない。

最後に、ガチャになんの咎も無いかというと、別にそんなことはないだろう。

上に書いたように、くじ引きだのガシャポンだのと違って金額中毒性は問題になりやすいのは否定できない。

ギャンブルのものではなくともギャンブル共通する要素はある。

共通点があればそれは同じものであるというのは乱暴すぎるというだけで。

あとはガチャ責任と言っていいのか微妙だが、買い切りコンテンツの開発をそっちのけて課金させるためのノウハウばかり生産者に注力されるのも困る。

じゃあ何が言いたいのかというと、ガチャはクソだということを主張するためにギャンブルだの水商売だのを適当イコールで結ぶのは問題所在曖昧にしてしまうからやめろ。

あとあれもこれも全部一緒くたにするの、頭の固いお年寄りみたいだよ。

(全部ピコピコとかファミコンとか言ってた昭和おかんか)

Permalink |記事への反応(0) | 20:06

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2022-12-13

欧州ネアンデルタールはすぐには征服されなかったから、サピエンスと同様に言葉を使い、嘘もついて騙される人もいだだろう

サピエンス氷河期保存食穀物)を蓄えることができて生き延びたそうなので、寒さ対策は侮れない

どちらもおサルの群れと同じようにボスを作ってボスを恐れたことはまず間違いないだろう

ヒトが神話を信じる癖は、おサル時代遺伝子の名残りだ

 

サル時代の癖を利用して、動物頭の男や巨乳の女が彫像化され、神話が始まったといえる

女性像が裸だったとき欧州の群れでは、女性奴隷立場だったかもしれない

古代ギリシャでは奴隷男性が多かったか男性裸像だ)

頭部のみの偶像女性男性もあるがおそらく地位の高い者だったのだろう

 

ヒトにおサル遺伝子があることは今後も変わらないので、何を信じるかが問題

Permalink |記事への反応(0) | 11:33

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2022-10-29

新興宗教Sへのウッカリ入会からスピード退会まで

■はじめに

気づかないうちに宗教団体Sの信徒になっていたので退会しました。

ネット見てたらそう珍しいことではない(Sにとっては常套手段)だけど個人的には初めてだったし、

知恵袋とかで自分と同様の状況にある方から質問を見かけたりもしたので、せっかくなので書いておこうといった程度の忘備録です。

若干のフェイクも含めてぼかしつつ書いていますが、困っている人がいたとして

検索に多少でも引っかかることが出来ればとも思い、いくつかの固有名詞は生かしました。

増田作法をよく知らないので、馴染まないところがあったらごめんなさい。




宗教団体Sを知る

遠方に住んでいる友人から連絡があった。

私が転職したこと友達伝いに知って数年振りに連絡をくれた。嬉しかった。

近況報告をする中で、通っているという宗教団体Sについて熱く教えてくれた。

電話で何十分と教義を語る友人の熱意には驚いたが、私は宗教全般にそこそこ興味があったので、

その時点でSという団体名すら知らなったものの、友人の話をフンフンと聞いていた。

関心といっても、あくまで観察対象としての関心である

■友人と会う

しばらくして、友人が私の暮らす地方に遊びに来るという。

たまには日常を離れたいだろうし、そうした先に私の暮らす場所を選んでくれたのが嬉しかった。ここは良いところなのだ

友人がこちらに滞在している間、ちょうどSで盛大に護摩を焚く行事があるので、

ぜひ当地にある分院に立ち寄って参加したいという。

てっきり護摩を見られると思った私は賛成し同行。護摩大好き。

集会に参加する

久しぶりに対面した友人と施設に向かう。

清潔感のある施設の中に入るやいなや、教団の建物教祖一家写真彫像が各所にあり、友人がいろいろ解説してくれる。

集まる人も多かった。心持ちは完全に社会科見学

集会ができるようなスペースに通された。祭壇などがある空間スクリーンがかかっている。……スクリーン

じきに、スクリーンに中継映像が映る。

結局、護摩とは本拠地で焚くもので、そこから離れた当地ではネット中継を見守るということだった。

てっきり生の護摩を見られるものかと…。

私は周囲の人々がそうするように正座して中継映像を見守る。

しかし思いのほか、この中継映像がすごかった。

複数ドローン含め10台はあるか)のカメラ効果的に切り替わって飽きさせない。

世界各国から本拠地へと集まった何人もの信徒名前テロップが即座に入る。

めくるめくこなされる儀式名目テロップで分かる。

離れたところにいるらしい合唱隊やオーケストラ生演奏も映る。

かに登場した教祖の姿に、故人である始祖の過去映像が重なる。始祖の生前スピーチ流れる

大きなスクリーン投影された映像は常に高精細で、乱れることが一切ない。

中継でありながらも綿密かつ予定調和的に作りこまれ映像にどことなく「ゆく年くる年」感を覚えながら、

リハーサルにどれだけ時間かけているんだろうとか、

音楽隊はどんなメンバー構成されているのか(職員一般信徒?)とか、ボンヤリ考えながら、

厳粛にこなされる儀式の数々を相席食堂千鳥気持ちで見守っていた。

■お浄めを受ける

儀式が終わった後、友人に「お浄め受ける?」と聞かれる。

Sについてネットで軽く予習していたがこれについてはよく分からなかったので尋ねると、

短冊形の用紙と黄色い用紙を棚から持ってきてくれた。

短冊形の用紙にお願いする内容を記入する。

浄めが結局何なのかよくわからなかったけれど、一つのお願いを500円で聞き入れてくれるというなら、

賽銭社会科見学のお礼のつもりで浄化してもらおう。ついでに知人の商売繁盛の祈願もしておこう。

友人も短冊形の用紙に色々書き込んでいた。

黄色複写式の用紙には自分名前、住所、電話番号を書く。

寺社で御祈祷を受ける時も同じような内容を書くので、こんなもんだろう。

友人の名前やSでの所属情報などを書く欄もあったのでそこは友人に記入をお願いした。

カウンターで用紙を渡し、お浄め商売繫盛の祈願代として1000円を払う。それとは別に1400円かかるという。

ん?聞いていなかったけれど、お金を払うカウンターで突っかかるのも嫌なのでとりあえず払っておいた。

友人は「ご先祖様も喜ぶね」とニコニコしていた。

対応してくれた職員さんは気のいい人でお菓子をくれた。今はこの地域に勤務しているが全世界に転勤があるらしい。大変だ。

ご老人もいたが若い世代も多く、公民館的な空気感だった。

施設に入ったときに「お帰りなさい」と言われたのも、そういうアットホーム雰囲気づくりに一役買っているのだろうか。

帰宅する

帰宅後、控えの用紙を改めて見てみる。

精進願い」と書かれたその控えを見ると、追加で払った1400円の内訳が「登録費」と年度末までの「会費」だということが分かった。

え、私、登録されてる?会費、払ってる?つまり信徒になったんか??ここで初めて気づいたのだ。

友人に連絡を取って確認してみると「この用紙を提出したことあなた信徒になった。説明足りてなくてごめんね、退会はいつでもできる」とのこと。

本人確認もなく、押印もなく、教団の教義ルール説明も、意思表示の機会もないままに、どうやら私は信徒カウントされる存在になっていたらしい。

私は「こうした大事なことは、まず家族との話し合いが必要」「自分スタンスとは合わない」とそれとなく退会の意思を伝えるも、

友人からの返事は要約すると「あなた気持ちは分かった。けれど、ここは様々な考えの人を受け入れるから大丈夫」と。

……もう何を言っても通じないと思うから、説得や議論はやめて、ほとぼりが冷めてから退会しようと決意した。

自分一人で解決しても良かったが、万一後から家庭内トラブルが勃発しても嫌なので家族顛末を話すと「ちょっとそれはどうかと思う、賛同できない」と。そりゃそうだ。

しばらくしてから友人に退会すると伝えたところ、すぐに退会に必要手続きを教えてくれた。

■退会する

精進届けの提出から半月後、退会届を提出しに行った。

先日お菓子をくれた気のいい職員が居たらちょっと気まずいので、その人と会いませんようにと思いながら向かった。

施設に入ると、数名の信徒が談笑していた。こちらをちらりとも見ず、挨拶もせずといった感じで、こんなもんかと思った。

平日の昼間という時間帯のせいかもしれないが、初めて行った日のように「お帰りなさい」と言ってくれる人もいなかった。

前回友人が精進届けを取ったのと同じ棚から退会届を出し、書けるところだけ書いた(ID部会名などは空欄。氏名や住所のみ)。

望みも空しく対応してくれたのはあの気のいい職員だったので、なんかごめんよ、と内心思いつつ提出すると、

職員は退会届に受領印を押し、「はい大丈夫ですよ~」と控えを渡してくれた。

こんなもんかと思った。施設に入ってから出るまで5分と掛からなかった。

あとがき

結果、入会もあっけなければ、退会も超あっけなくできた。

信徒職員にとって、こうした形で入会・退会する人の存在は珍しくもないのかもしれない。もう少し引き留められるものかと覚悟していたのに。

新興宗教では珍しく信徒が増えているというS。個々の宗教バックボーン否定しない(他宗教行事参加OKなど)教義

信徒を増やしているのかと思っていたけれど、こりゃ増えますな。

それにしても、入会させた人数で信徒としてのランクも上がっていくらしいのに、すぐ退会してもノーカンにはならないのだろうか?

入会~退会の渦中にいた時は正常性バイアスが働いて

「友人だって騙そうと思って私を入会させた訳ではないのだ」と信じていたけれど、

時間が経った今、友人の態度は誠実なものではなかったと思うようになった。

施設に行く前に「こんな田舎護摩が直接見れるのは楽しみ」と言った私に

「直接じゃなくてリモート」と言ってくれなかったこととか。

そもそも一緒に施設へ行かなきゃ良かったのにと思うけれど、

「友人がわざわざ私の居住地に来る(当地はお互いの出身地ではないので、私以外に知人も居ない)」、

「私の運転観光地をまわる予定」という中で「お寺に行きたい」と言われたら断りにくく。


友人には「退会届け出したよ」との事後報告もしていないし、

「退会届け出したんだね」との連絡も来ていない(知らないはずもないと思うんだけど)。

今後、よほどのことが無い限り、私から連絡を取ることはないと思う。


入会~退会の間の約半月、Sからの連絡(郵送物、電話集会への参加呼びかけなど)が

一切無かったことにはほっとした。もしかすると、もうしばらく経っていればIDカード等が届いたのかもしれない。

ネット情報によると、退会届けを出さずともフェードアウトしてSに関与しないことは可能だが、

導き親(今回のケースでは友人)が自分費用も年度ごとに払うのであれば会員は継続されるらしい。

もし私のように意思とは関係なく入会してしまった人は、モヤモヤするくらいなら退会届けを出しても良いかもしれない。拍子抜けするくらいあっさり退会できる。

ただ、導き親と頻繁に会う仲だったり、悩みを抱えていたりしたら私も退会を躊躇ったかもしれない。

でも、なーにがお救け、導き親じゃ。救けてくれとも導いてくれとも頼んでなんかないんじゃ。

Permalink |記事への反応(0) | 11:53

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2022-10-18

なぜ中世の人々はこんな破廉恥彫刻を作ったのか。主に2つの説がある。1つはやはり子授祈願だ。日本でも「子宝の石」やら「子授け岩」なんてものが各地にあるように、触れることで子宝を授かると期待する。これの根拠としては、彫像の陰部が特にすり減っているものが多いためだ。長い間、多くの人々が撫でてきたせいである。

もう1つの説が人魚に通じるものであり、こちらは「魔除け」を期待したものだという。その根拠は2つ。まずはシーラ・ナ・ギグの設置場所である教会ではアーチの中央最上部、すなわち要石にあることが多い。これは魔除けとして一般的位置であり、上で紹介したハドリアヌス神殿メデューサもそうである。もう1つの根拠は、古来より女性が陰部を見せつける行為には、魔を払う効果があるとされているからだ。

Charles DominiqueJoseph Eisen, Public domain,viaWikimediaCommons,Link

例えば古代エジプトでは、女性が陰部を畑に対して晒す風習があった。これによって畑から悪霊を追い出し、収穫が増えることを期待してのことだ。また、エジプト人はブバスティス祭では、舟が街に近づくと、女性たちは服を頭の上までまくりあげて陰部を晒したという。これを見たヘロドトスカルチャーショックを受け、その行為に「アナ・スロマイ」と名付けた。

ヘロドトスは知らなかったようだが、アナ・スロマイがあるのはエジプトに限った話ではない。例えばカタルーニャには「女陰を見せれば海が鎮まる」ということわざがあり、漁師の妻が夫を海に送り出す際に陰部を海に見せるという習慣がある。ロシア伝承では、若い女性がスカートまくりあげることで、クマを追い払えるという。

もちろん日本例外ではない。女陰露出することで問題解決する。古事記にもそう書かれている。

Permalink |記事への反応(0) | 09:54

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2022-07-19

カルト教団に入れてもらえなかった話

今にして思うと、「アレってカルトだったのかも…」となったから当時の思い出を書くことにする。

当時の俺は、就職に失敗して、なんとか契約社員としてゴミみたいな工場に潜り込んだ男だった。

とにかく最悪の人生を過ごしていたと言っていい。

まあ偏差値は50後半くらいで、イキってそこそこの大学に行ったけど、コミュ力なくて落ちぶれたパターンのやつな。

大体エスポワール号に乗る前のカイジイメージしてくれればいい。髪型とかマジであんな感じだった。

そんで、ある日、工場の同僚が「たまには遊びに行きませんか?」と言ってきたので、友達もいなかった俺は嬉しくなって夜勤明けの日に街に繰り出した。

で、一緒に飯食ってる時に、夢の話になった。「やりたいことないんですか」的なアレだ。

俺は嘘をついた。「実は輸入業とかやってみたいと思っている」と。

実際は輸入とかには全く興味はなかったが、フェアトレードがどうたらこうたら、それっぽいことを言うと同僚は何だか、色んな言葉を駆使して俺の事を褒めてくれたのを覚えている。

「今度、そういうの応援してくれる集まりがあって、友達に誘われてるんだけど、独りじゃ心細いから一緒に行きません?」と誘われた。

実のところ全く俺は他人応援する気はなかったが、褒められてうれしくなっていたので、二つ返事で「行く」と答えて、連絡先を交換した。

その週の終わりには、俺は近所の市営の集会所に呼び出されていた。同僚と、その友人を名乗る色黒、細見の眼鏡がいた。

大体10人くらい?の人が集まっていて、まず、名前と住所、仕事を書くことになっていた。

俺は嘘をついた。安アパートに住んでいるのが恥ずかしかったので、実在する地名に、適当マンション名を書いたのだ。

ということで、会はスタートした。優しそうなおじさんとおばさんが主催する会で、「普段地域クリスマスパーティとかお楽しみ会をやってるんだよ」的なことを言って、チラシを見せてくれた。

「実のところ、履歴書に書くこと目当ての大学生の人も多いと思うけどさ」とおじさんが言うと、笑いが起きたので、学生もいたのだと思う。

話は大体、みんながどういう人間になりたいか、的なことだった。最初はみんな、シャイな感じだったのだが、おじさん達は優しく合いの手を入れてくれた。

俺も気持ちよく輸入業を目指す青年という大嘘を突き通すことができた。言いながら(輸入ってなんだよ)とか考えながら、なんかよくわからんマレーシアから絹を仕入れるんです!的なことを言っていた覚えがある。

そもそもマレーシアって絹取れるんだろうかとか、まあ、わかりゃしねえよって気持ちだった。

同僚は不安げで、「なんか怪しい宗教みたいじゃないですか?」的なことをそれとなくツッコんだら、周りの人間も笑った。

「まあ、お寺とかは正直付き合いあるよ」とおばさんが微笑んだ。

地域振興やからね」と。

まあ、俺も幼少のころ、近所のキリスト教会の集まりに呼ばれて、大福などを作って食った覚えがあるので、そんなもんだろうと思ったが、

同僚は「うーん」とか言いながら、こちらをチラチラと見てきた。俺は「まあ、宗教って根ざしてるからね。地域に」と言って知見を示すと、同僚は笑顔になった。

夢をキラキラした目で語っていたガリ褐色眼鏡は、、同僚に対して、「俺さんもこう言ってるし、怪しいところじゃないでしょ」とかなんとか笑っていた。

そんな感じで、一回目の集会ではやはり大福が出てきて、茶を飲んで終わった。同僚は、不安げに「来週も着いてきてもらっていい?」と聞いて来たので、

頼られていると感じた俺はやはり二つ返事で「いいよ」と答えた。

2回目の集会では、親子関係というか、家族とは何か、的な話をしたと思う。それで、親の仕事について話す機会もあった。

俺は嘘をついた。

「親が丸紅に勤めてて、三人兄弟末っ子の俺は落ちこぼれたんですけど、やっぱり海外取引したくて」と。

親父はゴミみたいな中小企業で働くサラリーマンである丸紅ってそもそも輸出とか輸入とかしてんのか?まあバレやしねえよという気持ちで俺は親の職業を偽ったのだ。

ちなみに兄弟も余裕でいない。純粋一人っ子だ。兄弟がいた方がなんかカッコいいかな、と思って嘘をついたのである

で、3回目の集会にも俺は参加する、と言っておいて、当日になってなんかめんどくさくなったので約束を破った。

そしたら、職場で同僚は「ガリ眼鏡とおじさんが会いたがっている」的なことを言ってきたので、しょうがねえなあ、という気持ちで4回目の集会に参加することにして、

それからもちょくちょく、集会に参加した。お菓子が段々グレードアップしていたし、おじさんとおばさんは俺達をよく褒めてくれていたから、まあ悪い気分ではなかったからだ。

結論から言うと、6回だか7回目の集会で、俺達は仏の彫像と変な健康食品セットを買う事になった。

値段は合わせて5万くらいだったと思う。なんというか、どういう売り文句で買う事になったのか、全く覚えていなくて恐ろしい。

ガリ眼鏡はともかく、宗教否定的だった同僚も、何やら買っていたので、俺も流されて買ったのだと思う。支払いは現金とローン、どちらでもよかった。

俺は嘘をついた。

「このくらいの値段なら余裕ですね」と。ちなみに当時の俺は貯金ゼロ。だが、まあ別に払えなくてもいいだろ、という気持ち12回払いのローンを組んだ。

普通に頭金の何千円かはその場で払ったのだが、その後のローンは余裕で無視した。

その次の次くらいの集会で、「あの、ローンってどうなっとる?」と聞かれたが、「すみません、すぐ払います」と言いながら誤魔化していたと思う。

10めだかそこらの集会で、俺達はビジネスとして健康食品仏教グッズを売る流れに参加させられることになった。

まあ、読んでる人はわかるとうから言っちゃうが、端的に言ってマルチだった。

「これって絶対もうかるじゃん」的なことを同僚は言っていたのを覚えている。俺も当時は「これって絶対もうかるじゃん」と思っていたので、頑張るぞ、という気持ちになった。

その時、マニュアルを渡された。要約すると、『プロ3人~4人で囲めば、絶対にモノは売れます』的なことが書いてあって、台詞だとかも全部用意されていた。

サクラを忍ばせて、疑問を投げかけさせます、そしてその人間を説得、納得させると周りも流されます」的なことも書いてあって、これはぜってー売れるな!と俺も安心したものだ。

次の集会で、俺は嘘をついた。

「もう3個契約取っちゃいました」と。正直、契約書の提出とかその辺がガバいのを俺は見抜いていたので、余裕で嘘をつけるなと思ったので嘘をついたのだ。

おじさんはものすごく褒めてくれて、集会が終わった後、こっそり俺にお茶を手渡しながら、言った。

「実は、この集会やるのも高齢化でさ、子供会とかもあんまり回らなくなってきたんだよね」と。かいつまんで言うと、俺になんとかという教団に入って欲しい、的な誘いだった。

俺は嘘をついた。

「ええ、勿論入りますよ」と。なんか当時はすでに俺に嘘をつかせまくるおじさん達に対してイライラする気持ちもあったので、「入るわけねーだろバーカ」と思いながらも、その場しのぎで嘘をついたのである

おじさんは嬉しそうで、「最近新興宗教とかみんな不安だと思うから、ご両親に挨拶させてくれ」と言ってきたので、

俺は嘘をついた。

普通に知らない適当な番号を書いて渡した。そもそも実家家電とか、両親の番号とか、携帯には入っていたが暗記はしてなかったのだが、それを言うのが恥ずかしかたからだ。

その次の集会

俺はおじさんとおばさん、それにガリ眼鏡と同僚に激ギレされた。

「なんで嘘ばっかつくの!?」と。

なんのことだ、と俺は心の底からビックリした。おばさんはヒステリックにキレていた。

電話番号も、住所も、全部嘘やん!!!」と。俺は本当に何のことだかわからなくて、興奮しながら置いてあった煎餅を齧った。

「あとさ、ローンも滞納してるし、もしかして前に健康食品売れたってのも嘘だと不安なっちゃうじゃん」と、おじさんは優しいながらもキレてきた。

まあ健康食品が売れたというのは嘘なので不安もクソもないのだが、俺は気が付くと涙を流していた。

「嘘をついたつもりはないんです。言い方が悪かったならごめんなさい」と。

煎餅をひたすら齧りながら、俺はひたすら泣いていた。同僚とガリ眼鏡は、やはりキレてきた。

「いや、伝え方悪いとかじゃなくてさ、お金の話だからさ、そういうの、全部自分に跳ね返って来るぞ」だとか、「自分輸入業始めた時に嘘つかれたらどう思う?」だとかだ。

ロジハラかましてきやがった2人に対して、俺はやはり泣くしかなかった。

おじさんは、「まあ、本当、お金だけね。お金の話だから、払うところだけ払ってもらって。そしたら、全部忘れるからさ」と言って、話は決着した。

普通にその後、集会に行くことはなかったし、職場の同僚は会うたびに「金払った?」と聞いて来てうざかったので、1年間俺はそいつとまともに会話をせず、工場を辞めてしまった。

金はないので払わなかった。仕方ないね

当時こそ、「俺が悪い」という気持ちだったのだが、今回の統一教会の話とかを見ていて、「ああ、俺って騙されかけてたんだな」とようやく感情の整理をすることができた。

冷静に考えると、同僚はその団体と元からグルだったのだと思う。

ガリ眼鏡も、同僚も初めから俺をハメるつもりだったのだ。「団体に疑問を投げかけるサクラ」そのものだったのだ。

俺は、運よくカルト、ないしはマルチだろうか。深みにハマる前に、先方がボロを出してきたので入らずに済んだ。

でも、アレはいかん。本当に騙される。人格教養関係なく、人と人が正しくコミュニケーションをしよう、と考える限り、絶対にハマる。

俺の経験がもし教訓になるとしたら、カルトにハマらない方法とは、

金を持たないこと、他人の話を聞かないこと、他人の話に真剣に答えないこと。相手に気を遣ったり、本当のことを言わない事だ。

みんなも気を付けて欲しい。

Permalink |記事への反応(16) | 02:15

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2022-07-10

anond:20220710211039

信者の共有財産って扱いだという話だよ

建造物や庭や彫像などが、公園とか公共施設みたいなものだって

それでもわからん

Permalink |記事への反応(1) | 21:14

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2022-02-06

anond:20220206053303

ワシラからしたらガラス彫像しか見えないし、向こうからたらこっちの動きは早すぎて認識できない。小指の先を少し曲げる間に勝手に1世代死んでしまうから。だから星間戦争は起きないけど誤って壊しちゃうことはあるかも

Permalink |記事への反応(0) | 05:38

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2021-11-06

「加工するのが芸術」という考え

https://togetter.com/li/1798597

あと芸術なら許容って言い分も嘘を以て芸術とする、なら解るけど芸術なら嘘でも許される、はまた違うのではないかと思う。個人的には。[..]少なくともこの場所まで単車を走らせてこの写真を撮って加工した身としては、2枚目の写真には現地の紅葉から感じた暖かみも寂寞も感じないか芸術としてもクソだと思ったな。

ツイート主への批判ではなく、主が批判している対象が思っているだろう事「加工するのが芸術」という考えについて。

前提として、写真自体芸術アウラからすると既に破綻しているのだけど、ベンヤミンはそれでも、写真を通して大衆芸術に参加する可能性を見いだしていた。「加工するのが芸術」という考えは、写真大衆化した80年代以降、様式歴史といった各要素の編集再構成がおこなわれるようなったリミックス文化が背景にあると思うのだが、ただ加工するから芸術とかそういうものではなく、芸術にはその時々の文脈近代以前の彫像作品で言うところの台座がそれたらしめているのだということは知っておいた方が良く、この場合は「何が台座で何が表現されているのか」考えた方が良い。

スマホが普及しさらに加工技術自体もすでに自動化されている世界にいる私たちとしては、リミックス文化の時にもてはやされた表現としての加工はもはや価値を持たなくなり、さら写真表現自体にもそれほどの価値は持たなくなった。写真価値事実のもので、その時その場所にそれがあるという証跡に価値を見いだすようになっており、加工は邪魔ものに過ぎないという考えが根底にできはじめているのだと思う。ただ、表現としての気持ちよさみたいなのはあるのでその折り合いをどうつけるのか判断に揺れている時期でもある。

スマホ間の写真加工技術競争が落ち着いたらベンヤミンが見いだした大衆芸術としての写真終焉を迎えるだろうし、その時、写真をつかった芸術がでたとしても「加工するのが芸術」という評価とは別の次元になるのだろう。というか、今までに加工で評価された写真家がいたかというと疑問ではあるけれど...

著名な写真

Permalink |記事への反応(1) | 21:44

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2021-10-21

anond:20211021220600

性自認が「彫像」なら良いのでは?

Permalink |記事への反応(0) | 22:28

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俺も彫像になったら、局部丸出しでも許されるのかな

ダビデ像見て思った。

彫像はなぜか丸出しでもいいんだよね。

俺も彫像ならセーフなんだろうな。

Permalink |記事への反応(7) | 22:06

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