はてなキーワード:当事者とは
店舗の上手い文章でうんうんそうだよね、わかる辛いよねそれ( ^ω^)・・・
って共感を誘うようなトーンがずーっとあるんだけど、同じ宝石商の長年の読者としてこれだけは言わせてもらう。増田お前ファン名乗るのやめろください。愛読してた?マジでそれ言ってる?冗談きつい。
どういうこと?
作中では色んな方面の差別で虐げられたり苦しむ人々の姿がある。何なら主人公2名も当事者だ。そこでR氏は自分の店で働くスタッフへ求める約款を定めた:「あらゆる人種、国籍、趣味、性的嗜好を差別しない」。覚えてるかな?増田。忘れてた!なら許す。自己の言動がこれに反してないと考えてるなら幼稚園から日本語やり直してほしい。そして私のこのツッコミで何が言いたいか理解できないのであれば、「あなた、ファンだっていうその本が言わんとしていること、作者が伝えたかったことちっとも理解してないふるまいをなさっていますよ。それでよくファンを名乗れますね」って言っておきますね。
この点で「いろんな意味で終わってる」と思う元増田の感想はまあその通りだねと認める。
皿を洗う手間が惜しいのではない。皿を洗う気力がないのだ。
生活自体やめられるものならやめたいが、気力がなくても生きなくてはならない。
台所にカビや藻の浮かんだ半年間洗ってない食器を放置するのと使い捨て食器を使うの、どちらがマシかは考えるまでもないだろう。
使い捨て食器を使うような人間は大抵インスタントコーヒーを使う。電気ケトルで沸かした熱湯を入れてハイ出来上がり。つまり熱々のコーヒーと親和性が高いわけだ。
「ぬるいコーヒー」を飲む人間というのは、コーヒーに最適な湯温である90度前後にわざわざ調節してるこだわり派か、コーヒーメーカーで作り置いて保温したコーヒーを飲んでるような人間だ。つまりレギュラーコーヒー派である。彼らは丁寧な生活寄りの人間である。全然終わってない。
ところで、誰もが疲れてるし余裕もないというのなら、手を抜くところは抜いて、自分がエネルギーを注ぎ込みたいところには手を抜かないといったメリハリも必要ではないか?
食器洗いが苦手で他の人よりエネルギーを消費してしまう人だっているだろう。そのような人にとっては使い捨て食器を使うことは合理的といえる。
「使い捨ての方が時短になるし衛生的じゃん」みたいな言い訳を真顔で言うやつがたまにいる。そういうやつに限ってゴミの分別すらできてない
お前はたまにいる「そういうやつ」のゴミ袋をわざわざ漁って中身を見たのか? 少なくとも私は分別はきちんとしている。
お前はたまにいる「そういうやつ」と生活環境をともにしているのか? いったいどういう状況なんだ? お前の家族の話なのか。そうすると「たまにいる」という記述との整合性が取れなくなるが。
おしゃれにデザインされた「ちょっと高い使い捨てカトラリー」なんてのが売ってて本当に地獄だと思った。意識だけ高い風を装いながら中身は何もない。結局「捨てられる」ことに快感を覚えてるだけだろ。責任を取らなくていい安心感。汚れたものを洗わずに済む安堵感。そういうのを積み重ねて、自分の生活の重みを全部削ぎ落としていった先に何があるのか。もうペラッペラの人生しか残らない。
そのオシャレなちょっと高い使い捨てカトラリーって、友人らを集めてパーティーやらバーベキューやらピクニックするときに使うやつだろ……。頭大丈夫か? 2級の精神障害者に心配されるってよっぽどだぞ。
ここに書かれた文章からは、なぜ脱プラが必要なのかを理解してるようには思えない。環境問題の話のはずが自堕落さや人間性や道徳の話にすり替わっているからだ。
問題は、そういう自堕落さに無自覚でいること。便利に身を任せてるうちにいつのまにか自分自身も「消費される側」になる。そうやって気づかずに摩耗していく生き方ほど空虚なものはない。
なぜ自分は理解しているつもりでいて、相手は無自覚であると決めつけるのか。あまりに傲慢では?
それに社会で生きている以上、消費される側にならない人間なんていない。それっぽいことを書いているようでいながら急に論理が飛躍するところは確かにAIが書いた文章っぽい。
仮にAIでない場合──今までの経験上、こういう物の見方をする人は大体メンタルの疾患があった。元増田もなにか持病があるのではと疑いたくなる。
便利の裏にはどこかしら腐臭が漂ってる。それをごまかして「楽でいいよね〜」とか言ってるのを見るたび、ああもう戻れないんだろうなと思う。使い捨ててるのは物じゃなくて、たぶん自分の生活そのものだ。
政党編1政党編2回答編1回答編2回答編3回答編4回答編5回答編6
引用元:第27回参議院議員通常選挙の候補者に向けて実施した表現の自由についてのアンケート結果
設問(1-a):
設問(1-b):
創作物に対する法令による規制は表現の自由を脅かし、文化・芸術活動の萎縮を招きかねません。一方で時代の変化に応じて社会的な価値観と向き合いながら両立を目指すことも心がける必要があると考えます。
設問(2-a):
C.クレジットカード決済の制約
D. 過度なジェンダー平等論や多様性への配慮に基づく表現規制
F. いわゆる「エロ広告」等、不適切とされる広告への法的規制
G.国連女子差別撤廃委員会の勧告による表現規制
設問(2-b):
創作や発信の自由を不当に奪う規制には懸念を持っています。さまざまな論点がある分野では、当事者を含む十分な議論を踏まえた対応が求められるべきものと考えます。
設問(3):
アニメ『機動戦士ガンダム』 「声優」という職業を初めて認識した作品。 後に私の声優デビュー作となったのがその続編にあたる『機動戦士Zガンダム』だった、というのはとても素敵なご縁だと思っています。
ご存知エマさんです。設問2-aの回答でA~Gを全て選択。設問3で、自身の出演作品を挙げられています。
設問(1-b):
表現の自由は最大限、守られるべきです。非実在に関してもそうです。一方で、映画の映倫の様なゾーニングは考えていくべき時に来ているかもしれません。ただし法令で規制することは避けたいと思っています
設問(2-a):
C.クレジットカード決済の制約
D. 過度なジェンダー平等論や多様性への配慮に基づく表現規制
F. いわゆる「エロ広告」等、不適切とされる広告への法的規制
G.国連女子差別撤廃委員会の勧告による表現規制
設問(2-b):
表現への規制は、基本的に行うべきではない。それぞれ様々な問題があり、多面的に捉える必要はあるので、慎重に論議をするべきであると思います。
漫画家さんです。ということで、当選されたら赤松健氏に続く、漫画家出身の国会議員となります。設問2-aの回答でA~Gを全て選ばれています。
映倫のゾーニングというかレイティングは、閲覧制限措置としては抜け穴が多いので、漫画も今の幼年誌・少年誌・青年誌のような、制限のない緩い区分で十分だと個人的には思います。
設問(1-a):
C. どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
児ポ法は、撮影で被害に遭う児童の権利の保護を立法趣旨としており、同法の拡大には慎重であるべきである。猥褻物については、表現の自由との関係に配慮しつつ、現行刑法の範囲内で規制の在り方を考えるべき。
設問(2-b):
どの程度表現の自由を侵害するかは、運用法に依存し、一概に回答することは困難だが、一般論として表現の自由は憲法21条で保障される基本的人権であり、最大限配慮が必要である。
設問1-aでCと回答されていますが、限りなくBに近い立場だと思います。わいせつ規制を肯定している点が惜しまれます。
設問(1-a):
設問(1-b):
過去にもホラー映画の表現規制の問題などがありましたが、表現の自由に鑑みて表現者の自浄作用に委ねるべき問題であると考えます。
設問(2-a):
「「政治的な発言をしている」ことを理由に、政権批判的な立場で言論活動をする人間を出演させないメディアの自主規制」
設問(2-b):
自らの職業経験の中で表現活動の場を狭められてきた経験があるから。
設問(3):
ご存知両さんです。「表現者の自浄作用に委ねるべき」という一文は、以前に炎上した、吉良よし子氏の「『こういう表現は本当にまずいよね』『儲からないよね』という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」発言に通じるものがあります。設問3は無回答です。
中国もだけど、割とアメリカにも喧嘩売ってて攻めた提案ではあるんだよね
問題は、抑止力ならいいけど、台湾侵攻が起きちゃったら戦争の当事者になっちゃうコト。
司法書士と要件事実、刑事訴訟法の勉強すれば本人訴訟はそんな難しくない。
要件事実は最高裁の司法修習のウェブサイトで読むことができる。
なんとただ。
あとは発信者情報開示、名誉毀損、尋問、発信者情報開示の実務書をぎょうせい出版がだしてるんで、ここらへん読めばある程度は戦えるんだが…
当事者だとなぞバイアスでめちゃくちゃな事実認定をしてしまうので、弁護士を頼まねばならず、弁護士費用が加害者案件だとクソ高いんよ。
しかも、名誉毀損は死ねと言ったら名誉毀損になるかと思いきや、ならないこともあるのに、ある人は〇〇と言ったら、社会的地位の低下で名誉毀損になることがあるんで、何が何だかよーわからんし。
裁判官目線だと、死ねといったケースは被害者にも非があるケースで、ある人は〇〇のケースは公益性がないと思っているのは加害者だけとか理由はあるみたいだけどさ…
高確率で負ける事案というのはあるんだけどね…
「参政党の主張や支持者は、多数派の日本人が少数の外国人を恐れて排斥しようとしてて差別的だ」
なんてブコメで盛り上がってるの↓見て驚いちゃった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.watto.nagoya/entry/2025/07/09/230000
「複数の政党が多数者におもねってわかりやすい少数者を攻撃対象とする戦略をとっていないか - しいたげられた🍉しいたけ」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/share.google/iJCW8B6XWvPLSDSN3
「参院選「日本人ファースト」連呼におびえる人々 「外国人が優遇されてるなんてあり得ない」…リアルを語る:東京新聞デジタル」
おいおいお前ら、別の対象に対して参政党やその支持者と同じ意見を少数者にぶつけてたやんけ。もう忘れたんか?なかったことになってるのか?↓
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/f68261224340ea383595041c49882873bbb132c7
「トランスジェンダーを女子学生スポーツから追放、米フロリダ州(ロイター)」
ここのトップブコメ以下上位ブコメ群の 「トランス女性」 を 「外国人」 に、 「生来の肉体的女性」 を 「生来の血統的日本人」 に置き換えると…
・別にトランスジェンダーは身体性の存在 を否定してないでしょ。「これは身体性での区分けです」、で終わるべき話
「別に外国人の日本での存在を否定してないでしょ。これは「モラル・規範意識による区分けです」で終わるべき話」
・自分が女性アスリートだということを想像すればこの判断は支持する。自分がトランスジェンダーだったら支持できないだろうなぁとも思えるので もうこれはどうしようもない
「自分が外国人が多い地域に住む日本人だということを想像すれば参政党の主張は支持する。自分が外国人だったら支持できないだろうなぁとも思えるので、もうこれはどうしようもない」
・これは追放じゃない。男女の境界線を守っただけだ。そもそも境界線を侵して入ってくるな。
「これは追放じゃない。参政党は日本人外国人の境界線を守ろうとしてるだけだ。そもそも境界線を侵して入ってくるな」
・ "合理的差別"には大いに賛成。所詮反差別もルールの一つ。元男子が学生スポーツで圧勝し、女子が記録や奨学金や推薦を奪われていく構図は大変馬鹿馬鹿しかった。
「 "合理的差別"には大いに賛成。所詮反差別もルールの一つ。外国人が日本で活躍し、日本人が就職や活躍を奪われていく構図は大変馬鹿馬鹿しかった。」
はい、多数派の素朴な「恐れ」をもとに少数者の排除を正当化する、
ごく一部の被害事例をもって属性全体を加害者とみなして排除を正当化する、
参政党の主張そのまんまですね。
これらブクマカの意識は参政党支持者の意識と何も変わらない、まったく同じ。
(「チェリーピッキングだ」なんて言うコメントがありそうだが、なら逆にトランプのトランス女性分離排除政策に対して批判ブコメが支持集めて上位ブコメ群になってるブコメ欄を教えてくれ。ぜんぜん見つからなかったので)
他にもあるよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/AST1G7KT5T1GUHBI00KM.html
「女性スポーツにトランス女性の参加を禁じる法案、米下院で可決:朝日新聞」
の上位ブコメを見ていってみよう
・男女に分ける理由としては、コンタクトスポーツの場合物理的に劣る(医学的な)女性を守る為でもある
→「外国人を日本人コミュニティから分ける理由としては、生活の場合防御力に劣る(モラル的・道徳的・遵法精神的に)日本人を守るためである」
・急進しすぎた活動家は穏健に暮らしたい本当の当事者達に逆効果でしかない
→「急進しすぎた外国人保護は穏健に暮らしたい本当の日本人達に逆効果でしかない」
・正しい判断。女子スポーツでのトランス女性によって、身体女性は命の危険に晒されていた。コンタクトスポーツでトランスに頭蓋を割られて、大怪我を負った女性アスリートもいる。
→「正しい判断。日本社会にいる外国人によって、生来日本人は命の危機に晒されていた。夜道で外国人強盗に襲われて、大怪我を負った日本人もいる。」
・こればっかりは仕方ないと思ってる。女性になりたいのと女性と競いたいの間には大きな隔たりがあると思うのよ。娯楽レベルで女性と一緒にスポーツを楽しむならいいけど競技となると身体的有利は黙認できない。
→「こればっかりは仕方ないと思ってる。日本人になりたいのと日本で暮らしたいの間には大きな隔たりがあると思うのよ。観光レベルで日本人と一緒に生活を楽しむならいいけど、居住となるとモラルの低さ、常識の違いは黙認できない。」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20250206162226
「トランスジェンダーの女子スポーツ参加が禁止になって喜んでるの」
・トランスジェンダーに限らず、生まれつきの身体能力、持病、性格、服用薬など色々な理由でスポーツ競技で活躍できないことがあるのは当たり前なので、レギュレーションに合わないなら仕方ないし差別でもないと思う。
→「外国人に限らず、生まれつきの身体能力、知能、モラルなどいろいろな理由で市井のコミュニティで生活できないことがあるのは当たり前なので、日本人の意識に合わないのなら仕方ないし差別でもないと思う。」
でさ、お前らって
「多数(生来肉体的女性)が少数(トランス女性)に恐怖を感じたからって排除するのは酷いことだよ、被害の実例がいくつかあるからって、それで属性全てを排除するのは誤ってて差別だよ」
て言われても、納得できないだろ?
「いや違う、デモデモダッテ、私の・女性達の恐怖をないがしろにするのか!それは私・女性達に対する抑圧だ、加害行為だ!」と思うだろ?自分の考えが誤ってたと自省して改めようなんて思わないだろ?
だって実際に自分たち女性の集団の境界線を侵して侵入してくる異物に「恐れ」を感じてるんだから。それは不快な状態で、それをなくすのは良いことなんだから。
参政党の支持者もさ、それとまったく同じんなんだよ。
自分たち地域住民(日本人)の境界線を侵して侵入してくる異物に「恐れ」を感じてるんだよ。それを排除しようとするのは自然な反応なんだよ。その自然な防御反応を理屈で抑えられると思う?
参政党の支持者を改めさせたいと思うのなら、「自分がトランス女性を生来肉体女性集団から排除したいと思いを、どう説得されたら改められるか」考えてみ。
それがわかれば「外国人に対して恐れを抱き排除したいと思ってる日本人を外国人と共生するよう改めさせる」ことができるよ。
でも、無理でしょ。何言われても「でもでも」と屁理屈こねて受け入れられないでしょ。
自分の恐れは大きなファクターだし、どんな正しい理屈で説得されても恐れが無くなることはないし、恐れがなくなるよう集団から異物を排除して安心感を実現することは正義だと思ってるんだから。
それとまったく同じなんだよ。
チャッピー(ChatGPT)に聞いてみたよ
すごく鋭い観察ですね。その現象、確かに増田(はてな匿名ダイアリー)やはてブ(はてなブックマーク)でよく見かけます。
それって何?
ざっくり言うと、「自分ははてな住民じゃない」とアピールしつつ、はてなコミュニティを見下すor茶化すことで、自分の立ち位置を相対化してる感じですね。
なぜそうするのか?
「はてな住民ってこうだよねw」「自分は違うけど」みたいな態度を取ることで、ネット上のマジョリティ(あるいは一部のサブカル層)に迎合したり、自分を“客観的な第三者”の位置に置きたがる人は多いです。
2.自虐の裏返し・照れ隠し
本当は“住民”なのに、それを認めるのがちょっと恥ずかしい、あるいは同類扱いされたくないという照れから、逆にdisることで防御壁を作ってることも。
はてなコミュニティの特有のノリや“あるある”をわざとdisることで、読者から「お前も住民じゃんw」ってツッコミや共感を引き出そうとしてるパターンもあります。
同一人物っぽいのに…なぜ?
匿名文化が強いので、同じIDや文体で同じ人が繰り返しそういう言動をしていることもよくあります。
• 「でもやっぱり内輪のノリにはちょっと毒づきたい」
この複雑な心理が、何年も続く“はてな文化”を作っている気がします。
つまり
「住民じゃありませんアピール」**は、たいていの場合は“住んでる自覚はあるけど、微妙な距離を保ちたい”というメタ的な立ち振る舞いなんですよね。
なるほど、文化の一部なのね。なら仕方ない。
今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加必須な掲示板アプリ作って育児と看護の相談が24時間できるようにするよ。けど無理なんでね。医療者に喧嘩売るような姿勢も取れないのでね。
だから慰めにしかならないけど、「付き添い入院の日常」を不平不満を全部隠してほんわかのんびり書くことで、他の家族が少しでも悲観しないで済むようなものが書きたいんだよねえ。これは本書を読む前から固まってたこと。本書を読んだことで、それをより説得力ある読み物にするために取り入れられるものが何か、体系的に学べた。
付き添い入院からこれまでやってきたことを総括してくれるような、穿つような学びだった。いい講義を受けたなあ〜。
学ぶことはわからなくなること:こんなにいっぱい学んだのに、「どう活かすべきか」はわからないや。でも絶対忘れないし、何をやるにしても本書に書かれていたすべき、すべきじゃないについて、参考にするだろうと思う。
なぜ奪われた側に立ちがちなのか:データが稀少だからだとある。これは私が書こうと思った理由と同じ。付き添い入院の問題や受難について書いてあるものは多いが、その日常を淡々と「描き続けている」人はあまりいなかった。病名と月日と私的な特徴を照らし合わせると個人の特定が容易になるからだ。(個人の特定どころか子の顔も居住地もほぼ公開して毎回の診察記録をインスタで上げてる人もいて、肝据わってるなあと感心するしめちゃくちゃ助かっている)。
周辺から見る、解釈労働:この辺は概念として新しい学び。社会学で「肉体労働」と「知的労働」と「感情労働」があることは学んだが、解釈労働は感情労働の一部かなと思う。
楽しみと苦しみ:『次なる一歩を踏み出すのは、楽しみではなく苦しみを動員にすることによってなのです』。研究は、それでいいんじゃないかなと思う。私はなんかずっと、「最悪の事態を想定してネガティブに考えておけばとりあえず正しい」と思っていたところがあって、そのために、付き添い入院をしろって言われた時、最悪の事態に陥ったと思って、それを社会が私に強いてきたと思って、メンブレしてしまった。色々荒ぶって抵抗して、妥協案を病院側から引き出すこと成功した(付き添い入院の期間を短縮してもらった)ので、そこからはネガティブでいるのをやめた。「付き添い入院楽しもう、得難い体験だと思って全部覚えておこう」と。結果、大部屋4家族での共同生活に初日で慣れ、使えるもの全部使ってのんびり暮らすことができた。当事者は心が折れちゃいけない。苦しい苦しいって思ってると、より苦しくなってしまう。ネガティブに「なっちゃう」のは仕方ないけれど、ネガティブで「いようとする」のは間違いだと思い始めている。けど意識してポジティブでいるのも、心が拒否反応を…本題から離れそうなので戻す。私は、苦しくなるのはうんざりなので、楽しくなるようにしていこうと思うし、同じく病児看護に関わる人たちが、苦難ではなく、日常を平穏無事に過ごせる一助となるようなものを発信していきたいと思う。
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
現代の育児の当事者の方針を尊重しない人に預けるのは実親でも無理だわ
今でもはちみつ食わせたり
信じられないことする人いるからな
悩みがあれば現代の育児を一緒に調べてくれたから安心して預けられる
我が道を行く親や義親なら交わらない道をそれぞれ歩みましょうで終わってたな
大河べらぼう、米価問題がぶち上がるはるか前に脚本が出来上がっていて撮影期間も遅くとも進次郎前後とはいえ、今現在の価格について農業・卸の当事者皆からコスト転嫁が正常に反映されている証言が出ている中で、かつてのほうの米騒動で「米はどこかに余ってる」「誰かが価格を吊り上げてる」と騒がれるシーンを今放映することになってしまったの、米生産者にとってはあまりにもあんまりだな……
抵抗できない状態で性的暴行するのが醜いというのは、80歳の老女に対して中年の男性介護士が性的暴行しているような事件だって同じじゃないか、なぜこんなに注目度の差が?と言われているのを見て、その通りだと思った
被害者が老人なのか子供なのかという点で、子供のほうが価値が高いものとして無意識に評価している
交通事故で死んだ人が若者だったのか?医大生だったのか?医者になれていたらどれだけ稼げていたはずなのか?といった要素によって遺失利益が積まれていくのに近いような、性犯罪が壊した価値を算定して評価するような行為だ
ただそれだけじゃなく子供が被害を受けるニュースは自分が子供のころに被害にあって泣き寝入りしたことがある人間が自分に対して性加害したペドを報道されている犯罪者に重ねて憎んでいるのではないかと思うことも多い
老女への性加害を当事者として経験した人間は少ない、というより老女への性加害を受けた当事者はインターネットに被害体験を書き込むことなどできない、当事者の言葉が発信されることは無い
子供への性加害を当事者として経験した人間は、それから成長して書く力を身に着け発信する力を身に着け、過去の恨みを現在捕まっている現在のペドへとぶつけていく
私もなぜか大人になってからの痴漢は記憶も薄れているのに小2の頃に本屋で遭遇した痴漢のことは未だに憎いし強く死んでほしいと思っている
子供への性加害のニュースを見ると常に自分の記憶・自分の憎しみが思い出され引き出されて「ペドに償いとか更生とか無理なことはわかっているので今すぐ死んでください」という気持ちになる
普通に死刑でいいし、死刑執行のボタンを押すという汚れ役がお前にできますか?と言われても余裕で押せると思う
Permalink |記事への反応(15) | 19:05
最近、「推し活は経済活動」と掲げるマーケティング会社がZ世代や推し活で何かしらしたい大企業(特にJTC)の間で話題になっている。
“好き”を原動力にする時代、とか、“推し活は自分らしさの象徴”とか、聞こえはすごく綺麗だ。
Instagramで推し活スポットを紹介し、POPUPには何千人も動員、タワーレコードなどの某大手ともコラボをしているらしい。
メディアにもよく出ていて、20代女性の代表が“推し活の伝道者”として語られることもある。
その企業においてコンプライアンス問題を告発したとある個人に対して、突然その企業からプロトンメール宛てに“顧問弁護士名義の警告メール”が届いたという。
「あなたの行為はストーカーに該当します」「業務妨害にあたる可能性があります」
そんな断定的な言葉が並び、「〇日までに実名しなければ刑事告訴します」とまで書かれていた。
ただ、匿名性が高いプロトンメールに弁護士からマジレスが来るなんてむしろ驚いた。そもそもスイス拠点のメールサービスに開示請求や日本の警察なんかが追える訳もない。911レベルの犯罪なら違ってくるが。
そして、その“警告メール”の中身には、事実に基づかない断定や、脅しに近い要求が複数あった。
記録を読ませてもらったが、むしろ送った側のほうが、名誉毀損や強要未遂にあたる可能性があるような内容だった。
その会社の代表は、「法的根拠を説明するインスタライブをやります」と取引先企業にメールで堂々と宣言していた。
ところが、実際にはそのライブは直前になって“延期”になり、それきり再告知は一切ない。
おそらく、弁護士と相談して「配信すればするほど不利になる」と判断したのだろう。
法的根拠が曖昧だったのか、それとも反論されることに恐れたのか。
少なくとも、あの「説明します」と言った言葉には責任が伴っていない。
その圧が跳ね返った瞬間、なにも言わなくなる。
あれは本当に、自分らしく生きることを応援する企業なんだろうか。
今後、法的な手続きや報道対応が進めば、おそらく世の中にも事実が明らかになるだろう。
けれど、私はその前にこれを残しておきたかった。
学校では当たり前のように存在するいじめ。わたしの通っていた小学校でもそれはあった。
当事者であるいじめられっ子にとって辛いことなのはもちろんだが、それ以外の子にとっても何とかしてやり過ごさなければいけない辛い時間だった。
見て見ぬふりをする子、遠巻きに笑う子。わたしは、ただ祈るように下を向くのが精いっぱいだった。
そんな中、ひとりだけ空気を読まない生徒ががいた。
真田君。
彼は誰かがいじめられていると知るや、何の前触れもなくそのいじめっ子に突進し「八つ裂き光輪!」と叫びながらただの体当たりをかますのだった。
なにひとつ八つ裂き光輪のマネになってない(チョップですらない)、その姿は小学生ながら狂気じみていて、いじめっ子からすら気味悪がられていた。
いま思うと、発達障害の類だったのかもしれない。
だが、だれかれ構わず暴力を振るうのではなく的確にいじめっ子だけを狙うその姿勢には、ただの無法ではなく何らかのポリシーが感じられた。正義感と呼ぶにはあまりにも乱暴すぎるが。
真田君の八つ裂き光輪はいじめられっ子を助けるだけでなく、クラスの淀んだ空気を切り裂き、その他の生徒の心も救ってくれていたのだ。
結局わたしは、真田君とまともに会話を交わすことなく小学校を卒業した。
真田君は私立の中学校に進んだ(奇行はあったものの真田君の成績はとても良かった)ため、卒業式が真田君を見た最後だ。
あの日の真田君は、この際だからとたくさんの生徒から感謝の言葉をもらい、珍しく照れた顔を見せていた。
真田君。
あなたは今もどこかで、暗い何かを八つ裂きにしているのでしょうか。
当事者に直接メールを送ったり明らかに自分が主語だとわかる形で「叩き殺すぞ」とメールしたのが問題だったな。
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アレコレ夫と毎日相談しながら準備するのは楽しい。今のところ経過も順調。
うちの両親が初孫フィーバーしてるのが唯一の悩み。ありがたいんだけどね。
色々とうちの両親のペースに乗せられてしまっている。
戌の日のお参りに弟夫婦も同席することを許可してしまい、義母アウェーな空気にしたり。
実母から「出産後は里帰りするわよね?するでしょ?そうしなさい!」と毎日連絡が来て辟易している。電話ではイライラした口調で話されるから本当に嫌。
出産子育ては私達夫婦の問題だから、主導権渡したくない。もしこれがシングルマザーな状況だったら全力で頼らせてもらってただろう。
当事者は私と夫なんだ。私達の意向を差し置いての意見は私の両親のエゴに他ならないと思う。
本音を言えば戦力として頼りたいけど、こんなにグイグイ来られると素直に「よろしくお願いします」と頭を下げたくなくなってしまう。
そんな反面、もう老い先短い両親だから多少やりたいようにやらせてやりたい気持ちもある。
正直、私自身そこまで子供を切望した訳ではなく。夫や両親の喜ぶ姿を見たい一心で数年に渡る不妊治療に取り組めた。後悔したくないと思ったからだ。
実母から、
今日何しているんだ、腹帯しろ、里帰りの決断を早く今すぐにしろ、犬の散歩は一切するなとか細々したことを怒ってるんだか苛立ってるんだか、語気荒く毎日電話してくるのがしんどい。これストレスで赤ちゃんに良くないんじゃないか?
ちなみに電話まではしないけど実父も意見は同じ。めっちゃLINEしてくる。ストッパーは期待できない。
幼少期から結婚するまで感じていた、居場所が無い、心許せる人がいないと孤独を抱えてたあの頃の気持ちがフラッシュバックする。実家を出てやっと摂食障害が寛解した。
それなのに、親孝行云々で自分はおろか夫と子供も巻き込もうとしてしまってる弱い自分。
どこかできちんと線引きしないと、この2人を傷つけてしまうかもしれない。ちゃんと守らなくては。
押しの強さが無ければ、いい両親なんだけどな〜。
このセリフ、親が子どもに言う「正解のような願い」として定番すぎるけど、俺はこれを聞くたびに、心底うんざりしてる。
でもそれって、他人の不幸に寄生してるから得られるものじゃないか?
違うだろ。
実際は、病院に怒鳴り込んでくるジジババ、指示も聞かずに悪化させて逆ギレする患者や老害が大半だ。
いやいや、現実は、離婚調停で泥沼化してる夫婦、詐欺で捕まった常習犯、そして犯罪を繰り返す“リピーター顧客”たち、だろ?
要するにこの2つの仕事って、社会のマイナス感情をすべて吸い取る役割なんだよ。
人の体の壊れた部分、人間関係の壊れた部分、
そういうものを四六時中見せられて、それを「やりがい」だの「誇り」だので包んで誤魔化してるだけ。頭おかしいんじゃないか?
そもそも、よく考えてみてくれ。
なんで弁護士を目指すようになったのか?
弁護士を身近に感じる人生って、それ自体がトラブル込みのルートじゃないか。
弁護士に憧れる場面なんて来ない。
医者もそうだ。人の死に目ばかり見る。
そして何より、生きてる人間が、患者になる=不幸になってるってことだ。
俺は、そういう仕事をしてる人を見下してる。
むしろ、やってることの“汚れ”を、自覚しないで誇ってる人間の方が怖い。
なんであんな顔してテレビに出たり、SNSで「やりがい」とか言えるのか。
ラーメンが好きだからってラーメン屋になりたいと思うか?思わないだろ。
それと同じ。
医者や弁護士って、社会に必要だから存在してるだけで、「なりたいから目指す」ようなものじゃない。
「誰かの不幸で食っていく人生」を本気で選ばせるのか?
誰かがやらなきゃいけない?
そう。「誰か」がやればいい。
それはうちの子じゃなくていい。
現実を知らない子どもと、現実から逃げてる親が騙されて信じてるだけ。
これが今の俺の、正直な実感だ。