Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「張郃」を含む日記RSS

はてなキーワード:張郃とは

2025-05-16

三国志人物名の出し方

三国志人物名を記憶してないIMEを使うことを想定。

から基本的に1文字ずつ変換していくわけだが、変換はできるだけスムーズに行いたい。多くの候補から選ぶことは避けたい。

もし常用漢字でない場合ググることやウィキペディることも辞さない。

曹操 軍曹操る

劉備 玄米徳島から玄徳を抽出してググる。またはliu beiでググる

孫権 孫権利

諸葛亮 孔雀明るいか孔明抽出してググる。または諸君葛切り平均から諸葛均抽出してググると「諸葛亮の弟」と出る

司馬懿 仲良し達人から仲達を抽出してググる

周瑜 周囲太郎から周郎を抽出してググる

劉禅 劉備坐禅

劉封 劉備封印

関羽 関係羽毛

張飛 膨張飛

趙雲 子龍でググる

黄忠 黄色忠義

馬超 馬 超越

龐統 武士元気から士元を抽出してググる

徐庶 徐行庶民

馬良 馬が良い

馬謖 泣いて斬るでググる

魏延 魏志倭人伝延長

法正 法律正しい

伊籍 伊藤戸籍

厳顔 厳しい顔

尹黙 藤原行成Wikipediaで見つかる藤原伊尹もしくは近衛前久Wikipediaで見つかる近衛信尹+黙

関平 関係平和

関興 関係興味

曹丕 曹叡ググる。または曹 文帝でググる

曹叡 軍曹比叡山

曹植 軍曹植える

曹彰 軍曹表彰

曹仁 軍曹仁愛

荀彧 文若でググる

郭嘉 奉る親孝行から奉孝を抽出してググる

賈詡 膨張決済から張済を抽出してWikipediaを見ると張繡が見つかるのでそこからたどる

程昱 連立方程式から程立を抽出してググる

陳羣 陳列長文から陳長文を抽出してググる。または九品官人法のWikipediaを見る(学校世界史に登場する数少ない三国志人物)

夏侯淵 夏王侯貴族深淵。または妙才でググる

夏侯惇 夏侯淵ググる。または元気に譲るから元譲を抽出してググる

張遼 文遠でググる

許褚 許可儀式から許儀を抽出してググると「許褚の子」と出る

典韋 辞典満腹から典満抽出してググると「典韋の子」と出る

徐晃 徐行公明党から公明抽出してググる

張郃 張り合いbから張合bを抽出してググる(誤り)

楽進 楽に進む

李典 李白辞典

于禁 単于禁止

龐徳 令和明治から令明を抽出して馬超 令明でググる

文聘 文豪招聘

田疇 田んぼ範疇(田疇は普通に熟語らしい)

楊修 爪楊枝修行。楊脩の場合は楊修でググる

孔融 孔雀融合

何晏 何進Wikipediaで「孫は何晏」と出る。もしくは老荘思想Wikipediaで「何」で検索する

孫堅 孫 堅固

孫策 孫 策略

張昭 膨張昭和

張紘 膨張八紘一宇

魯粛 魯迅粛清

呂蒙 風呂蒙昧

陸遜 陸謙遜

黄蓋 黄色い天蓋

程普 程度普通

太史慈 太い歴史慈悲

周泰 周囲安泰

甘寧 甘くて丁寧

丁奉 丁寧に奉る

凌統 凌駕統一

徐盛 徐行盛岡

董卓 呂布Wikipediaから見つける。または童卓でググる(誤り)

呂布 風呂

陳宮 陳列宮殿

高順 高い順

袁紹 紹 本初でググる

田豊 田んぼ豊か

沮授 田豊Wikipediaで「授」で検索

辛評 辛口評価

郭図 郭(くるわ) 図

審配 審判心配

顔良 顔が良い

文醜 文が醜い

袁術 術 公路でググる

袁胤 袁術落胤

張勲 膨張勲

劉表 劉備

劉璋 劉備終焉から劉焉を抽出してググると「劉璋の父」と出る

張魯 膨張魯

馬騰 馬 沸騰

韓遂 韓国完遂

公孫瓚 公孫続でググると「公孫瓚の子」と出る

陶謙 陶芸謙遜

司馬昭 司令 馬昭和

姜維 生姜維新

鄧艾 姜維Wikipedia蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士掲載から士載を抽出してググる

鍾会 姜維Wikipedia蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士季節から士季を抽出してググる。もしくは鍾繇体(書道の分野に登場する三国志人物)から鍾繇抽出してググると「鍾会の父」と出る

陸抗 陸抵抗

羊祜 陸抗Wikipediaで「羊」で検索。または辛口憲法英語から辛憲英を抽出してググるWikipediaを見る

杜預 杜甫預金

王渾 王 渾身の一撃

毌丘倹 文+仮装大賞ググると出る欽で文欽を作り、文欽のWikipediaを見る

孫峻 孫峻別

王子服(おうしふく) 王子

吉本(きつほん) 吉本

Permalink |記事への反応(0) | 00:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-07-13

スト2バルログ三國無双張郃ドラクエ7オルゴデミーラ北斗の拳ユダ、あの手のナルシストオカマキャラ元祖って何なん?

Permalink |記事への反応(0) | 16:31

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典:フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2三国志演義

3脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

Permalink |記事への反応(0) | 11:18

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

 
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp