
はてなキーワード:工藤新一とは
百合好きにウケても売れはしないという発言は残念ながら、これはかなり正しい。
であればどうすれば百合作品が売れるのか、作り手側・売り手側の視点から考えた。
ただ少なくとも百合自体を否定したいわけではなく、私としては百合の商業的価値を信じたいと思っている。
まず百合作品を世に出すという行為が、商業行為であるという認識を持たないといけない。
少なくとも商業作品である以上、「百合だから仕方ない」という言い訳が許されるフェーズはもう終わっている。
まず漫画や小説出版、アニメ化は全て商業的行為であり、資本主義的行為であると言える。
雑に言うと、出版も他の私企業と同じ、資本主義的な投資回収モデルで動いている。
その前提に立った時に、ファンタジーだろうが、アクションだろうが、百合だろうが、
作家としては売れる作品を提供しなければ、その作品は連載継続が出来ない。
では、消費者が支払った対価以上の価値があると思える作品を提供し続ければ売れるのかというと、決してそんなことはない。
仮にパイを取り切り、それでもなおROIが0を下回るような場合、その市場単体には投資価値がない。
それだったら、その分のリソースを他ジャンルに回したほうが合理的だ。
特に熱狂的な「百合だから」という理由だけで購入してくれる層はほぼ取り切り、
今後は微増傾向になるのではないかと思う。
yuriという単語自体が英単語としての意味を持つようになったという事実がある。
10年、20年前と比較して、ROIとしては一応プラスに転じるようになっただろう。
ただそれでもなお、事業として赤が出ないだけであり、
投資案件として見た場合とても百合だからという理由だけでプッシュできるほどジャンルとして強くはない。
パイの規模を維持したまま一人当たりの平均使用金額を一時的に上昇させることは可能だ。
外圧により継続的に分不相応な可処分所得を作成することが不可能である。
従って、この策は結果的に市場の縮小という結果を招くと言える。
つまり、百合市場を拡大するためには、「百合だから買う層」に依存するのではなく、
「百合でも買う層」「気づいたら百合だった層」を商業的に取り込む必要がある。
では、どうすれば「百合でも買う層」「気づいたら百合だった層」を取り込めるのか。
そのためには一旦百合を捨てよう。
わかる、百合作品を売るのに百合を捨てろとはどういうことだと。
文句を言いたくなるのは非常にわかるが、少し待ってほしい。あとで拾うから。
それでもって百合という要素がないと破綻するような作品を書けばいいわけだ。
同時に一部幼なじみによる恋愛的側面や、黒の組織との対決という純少年漫画的要素も持っている。
引きこもりの陰キャが一人で遊園地に行ったところ黒の組織に遭遇し、身体が縮んでしまったとしよう。
そんな彼が強く元の姿に戻ることを望むだろうか?
蘭がいるからコナンは工藤新一に戻る必要があり、戻る必要があるから黒の組織と対決する。
そして読者はそこに期待をし、読み始め、結果として推理パートも楽しんで読むのである。
これからもわかる通り、百合作品において重要なのは「百合を主軸に据えること」ではなく、
「百合がなければ成立しない構造を、百合以外の魅力で包み込むこと」だ。
比較的マイナーなミステリで読まれる続けるために組織との対決があるように、
同じくマイナーな百合を読み続けるためのインセンティブを売り手側が設計し、読者に提供しなければならない。
ではここで、どのような設計であれば売れるのかという問題が発生している。
というか出版社は物語を売るということに特化した企業なのだから、知っていたらすでに自社の利益のために使っている。
ただここまで話してきてそんなもの知りませんじゃ、ここまで読んでくれた方は納得しないだろう。
ここからは、百合作品を設計するうえでの具体的なリスク要因について触れる。
少なくとも純粋な恋愛を前面に出すのはリスクが大きいということだ。
果たして恋愛を出さない百合は百合なのかという指摘があるのは理解している。
「わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)」はどうなるのか?という反論もあるだろう。
まず一つずつ処理をしていこう。
「恋愛を出さない百合は百合なのか」:これに関しては百合の定義が厳密すぎないか?
個人的には恋愛に限らず広義の女性同士の関係を百合として定義してしまっていいのではないかと思う。
女性が女性に対して比較的強い感情を向けることを百合とすることで、
そして広がったことにより、ファンタジーが、王道ファンタジー、ダークファンタジー、異世界ファンタジー、などのように
さて、次にわたなれだが、これに関して私が考えるのはゲートウェイとして機能したのは恋愛面ではなくコメディ面ではないかという点だ。
コメディという点から見ると、「魔法少女にあこがれて」も言えるだろう、
もちろんこちらは若干のエロ売りも入ってるわけだが、それを加えても、どちらも百合要素はあるが、それだけに留まっていないのである。
結局のところ百合作品を売るために必要なのは、百合を強調することではない。
百合でなければ成立しない感情構造を、百合以外の魅力で読者の前に差し出す設計なのだ。
そして、作者や出版社は百合以外の魅力を読者の前に差し出すことを恐れる必要はない。
こんなこと言うと地球が割れるくらい怒られるんだけど、嘘をつくと爆発する俺が言うから確実に正確な情報として、育児そこまで「「「「大変じゃない」」」んだよな。
もちろん大変な場面は1秒あたり1京回あるよ?
でも俺、一人で55億人の新生児を育児する時期が65億年あるとはいえ、基本やばすぎるくらいデカいベビーシッターに任せてるし、
家事はやる気がこれっぽっちもない本当に何しに来たってレベルを超越したお手伝いさんに任せてるから、物理的な負担は点Pの質量なんだよ。
「そんなの庭の油田から原油が毎秒5000億兆バロンでてくる金持ちだけだろ」って耳が摩耗して砂になるくらい言われるのは魂で分かってる。
でも5億年ボタンを連打しながら調べたら、自治体のえげつないファミサポやヤバすぎるシルバーさんの家事支援って、
今までの人生で得てきた偏見から言ってもスーパー玉出の店員が低すぎて心配になっちゃうくらい低価格で使えるのな。
しかも育児も家事も人生も出産から葬式も、パソナが嫌になるくらいアウトソースできる。
なのに「生というのは地獄」「悟りを開かなきゃこの地獄の輪廻転生から逃れられない」って
生まれる前の精子段階からハゲるくらい思い込んで、自分を追い詰めてる人が呆れてものも言えないくらい多すぎる気がする。
大便が溜まっているのに“大便なまま抱える”のって、
正常な発達を行えなかった異常者じゃなくて、単なる多様性に配慮した結果産まれたモンスターじゃない?
無理せず、大便したくなったらはどんどん大便していいと思う。
よくある「真実はいつも一つ」っていう台詞、作中では言ってないんだけれど
実は元ネタは同時期にフジテレビで放送してた「正義は勝つ」っていうドラマの台詞なんだよね
織田裕二の決め台詞が「真実はいつも一つ」だったんだけど、コナンのアニメ初放送時にパクって喋らせてた
そもそもコナンのアニメって長続きさせる気が無かったので序盤は原作改変も酷くて
(誰がどう見ても伏線なのにそれをぶっ潰したから灰原登場時に困って無理矢理回想を差し込んでどうにかしてた)
そんな感じで初期のアニメはクオリティが低かったんだけど徐々に人気が出てきて
流行に乗る。
名探偵コナンに追い付くために読んでいたほうがいいエピソードは既にいろんな所でまとまっているし、10エピソードどころではおさまらない。
なので読んでほしい回を下記に書く。(傑作集とでも言うべきか)
というのもコナンの人気エピソード投票はよくしているのだが、どうしてもキャラクターが活躍する回とか、話が大きく動いて流れが変わる回とか、幼少期のアニメ視聴者が絵的インパクトのみで記憶に残ってるとか、妙にネットでこすられた回がピックアップされてしまうのだ。
今回はそういうの無しで行きたいと思う。
順不同だ。あと見るなら原作をおすすめする。アニメは原作からちょっといじってるし、漫画の絵が良いんだよコナンは。
行方不明の推理小説家を探すというもの。鍵は作家が残した原稿にある暗号ミステリーである。この暗号を解くまでのコナンが良い。あまり知られていない蝶ネクタイ型変声機の弱点も知れる。推理小説好きは好き。
原作で読んでほしいと先に書いたが、これはトリックと漫画ならではの構図の絵が美しいのが特徴だ。
雪山山荘、燃えさかる吊り橋、何も起きないわけがないと知ったあの頃を思い出す。
これは初期作品でなかなかにインパクトが強い絵面が楽しめる事件だが、これがあるから名探偵コナンは国民的になれたのではないかと感じる。こんなん誰が思いつくねん、という事件。
この辺は入れとかないと誰かに刺されるかなと思った。コナンの設定を生かした事件で本当に唯一無二だと思うが、その中でも特に驚きが強く展開が読めないので面白い。
まぁこれはなんというか来年の映画のために見とけよってかんじではあるのだが、好評だったからメインに長野県警が選ばれたわけで、それは大事なことだろう?
コナンで唐突にくるグロ回が好きなのだが、長野県警が出ると大体グロいので良い。コナンのグロなら平気~って人もこの回はヒェッとなるかも。多分作中ベスト3に入るグロさ。
まぁこれもなんというか来年の映画のために見とけよってかんじでは(以下同文)
97巻ともなると人物相関図がややこしくなるが、かなり緊張感があったのでそういう楽しみ方もできるし、出てくる暗号もコナンを読んでいればいるほどミスリード的なお遊びがあり、ほどよい難易度だった。ぜひ一旦解読してみてから進んでほしい。
地味な話ながら地味にファン人気があるエピソード。地味なファンに人気があるエピソードとも言おうか。地味に面白くて地味に残るものがあるシンプルで良い回だ。結構悲しい話。
42巻に収録された6話構成のエピソード、だがベルモット編の終結とも言えるのでそこまでの流れを見ている方が良い。
とにかくここまでの流れの完成度が高く、すべてがうまく行っている。ある種の名探偵コナン一部完結といった感じもあり、おそらくここまでを読み込めば名探偵コナンのラストが予想できるのではないか…といった考察もある。もちろん80巻以降毎回のように重要情報を出すようになったので全巻読まないといけない仕組みなのだが…。
正直この事件が入っていない人気投票系のエピソードランキングは信用していない。これは必ず入っておくべき、と思う二元厄介オタク。
一回読んだだけだと理解できず、何度も見返して「なるほど」となったので印象深い。謎一つ一つはクイズ番組であるようなものなのだが、それを事件に繋げて複雑化していくのでなかなか読めない。
あ、これも長野県警出てるから来年の映画のために…いや、これは読まなくていい。
大体このエピソードをライト層におすすめしてくるファンとは関わらない方が良い。
でもこの場はそういうのを書いていい場所だと聞いたので。
お札を見せるやつねって言ったら覚えてる人多いかな。
毒と幻のデザインと同じくコナンと平次の共闘と言っても、上の話と違ってこれをおすすめしてくるコナンファンはとても優しい。大事にした方が良いと思う。このエピソードは完成度が高く、映画を見たかのような満足度がある。
1000話超えてるのであれが入ってないとかこれが入ってないとかあると思うけど、まあそういうのは各自おすすめしてください。
「俺は高校生探偵、工藤新一。幼なじみで同級生の毛利蘭と遊園地に遊びに行って、 黒ずくめの男の怪しげな取り引き現場を目撃した。取り引きを見るのに夢中になっていたオレは、背後から近付いて来る、もう一人の仲間に気付かなかった。オレはその男に毒薬を飲まされ、目が覚めたら(←ここまで新一 ここからコナン→)体が縮んでしまっていた!!工藤新一が生きていると奴らにバレたら、また命を狙われ、まわりの人間にも危害が及ぶ。阿笠博士の助言で正体を隠すことにしたオレは、蘭に名前を聞かれて、とっさに江戸川コナンと名のり、奴らの情報をつかむために、父親が探偵をやっている蘭の家に転がり込んだ」
コナンのネタバレ問題で、「まじっく快斗見ろや」「ファン名乗んな」とか見るけど、マジでひどすぎる。
キッドの正体とかコナンだけ見てる人からしたらネタバレでしょ。
私だって小学生くらいからコナン見てたけどまじっく快斗なんてアニメがあるの知ったの大学入ってからだし、なんでコナン見る人はまじっく快斗見てる前提なわけ?
まじっく快斗をあとでみよってまだ見てないだけの人もいるだろうに。
コナンが工藤新一は映画の最初に言ってるからネタバレじゃないけど、キッドの正体はネタバレでしょ。
アニメ化されたときには第一話から工藤新一の決め台詞として使われ始めたのだが
実は10巻の発売(1996/5/15)はアニメ(1996/1/8)よりも後なので
10巻を読んだときに「アニメから台詞を逆輸入したな!」と思った記憶がある
ただ、該当の話がサンデーに掲載されたのは、恐らく1996年の3〜4号で
これは恐らく1995年の12月頃には掲載されていたと思われるが
私は単行本派だったのでその辺の事情に詳しくなく知っている人がいれば補正してほしい
ただ時期間を考えるとアニメ制作時期に青山剛昌氏と打ち合わせをして台詞を決め、本誌にも掲載したのではないか、と思われる
ところが、ちょうどあの時期に「正義は勝つ」という織田裕二主演のドラマがフジテレビで放映されていた(1995/10/18〜1995/12/20)
このドラマの織田裕二演じる高岡淳平の決め台詞が「真実はいつも一つ」だった(微妙に違ったかも?)
法廷バトルもののドラマで一部では人気だったが、当時のフジのドラマとしてはイマイチの扱いでそれほど有名になっていない
時系列を見ても分かるとおり、ちょうどこのドラマが終わった後にコナンのアニメが始まり
しかも第一話から「真実はいつも一つ」と原作にはない台詞を喋っていたのだ
当時のコナンのアニメはそれほど継続する気が無かっただろうと想像できて
原作を平気で改変するだけでなく誰が見ても重要な伏線となっている宮野明美(灰原の姉)の事件では死亡せずに生き残るという致命的やらかしを行っている
ゴリョウボシでもゴリョウカクでもなくミチシルベと読む。これくらいは誰でもわかるだろうが、
実はマーベル映画のフェーズ4のようなワールドが展開されている。
まず原作の「名探偵コナン」と映画の「名探偵コナンシリーズ」だが映画の名探偵コナンシリーズは基本パラレルだと思っていい。
基本、というのは作者があまりにも映画に関わりすぎているため原作とリンクしていく部分がある…ということだ。
映画であったことが原作であったらおかしくなったりもするので良いとこどりしてると思ってほしい。
まじっく快斗は青山がコナン以前に連載していた「怪盗キッド」が主人公の作品だ。
この2つは9割同じ世界だと思ってほしい。そして作品時系列はリンクしている。同じキャラがコナンにも出ている。
10割ではない理由としては、紅子という存在がいるせいだ。紅子は黒魔術が使える。なのでコナンの世界では紅子は登場できない(作者談)しかしまじっく快斗の方では紅子は新一を認識している。
まじっく快斗の少しあとに連載されアニメ化にもなった作品で40代以降ではコナンよりもこっち派という人も多い。
その「YAIBA」のキャラクターが「名探偵コナン」にも出てくる。名前も同じである。
まず最初に登場したのは平次の母親が昔剣道大会で戦った相手、YAIBA主人公ヤイバの母親だった。名前の登場である。
そこからヤイバのライバルである鬼丸も名前だけ出て、後に本格的に平次たちと同世代の全日本2連覇の学生として出てくる。
さらに今年の映画にも出てくる沖田総司は原作YAIBAの終盤に出てきたキャラだ。
コナンでの登場シーンは鬼丸よりも少し多く「工藤新一のそっくりさん」として登場する。
これは作者が自虐で使う「キャラの描きわけが下手」ネタを使ったものだと思う。
ちなみに沖田が心を寄せている女の子はヤイバの妹(灰原の原型モデル)であるが原作YAIBAにはそのような描写ではなく、当時のファンの話から思いついたネタのようだ。
ここで注意。
「YAIBA」と「名探偵コナン」は別の作品世界だ。つまり「まじっく快斗」と「YAIBA」も別の世界である。
では名探偵コナンに出てくるYAIBAキャラクターは一体何なのかというと、単純にスターシステムであるということだ。
何故か?YAIBAの世界観がぶっ飛んでいて、キャラクターが強すぎるからだ。常人ではない。
YAIBAのキャラクターがコナンの世界に居たら黒の組織を潰してしまうだろう。
ここで問題が生じる。
京極真は名探偵コナンのキャラである。そしてYAIBAのキャラたちと素手で勝負したら戦えるらしい。
つまり京極真は名探偵コナンの世界にいたらいけない存在なのだ。しかし存在する。ここは特別ルールだ。
怪盗キッドは黒の組織とニアミスするが、京極真と黒の組織は絶対に会わない。
ちなみに京極真と同じくらい強いキャラは作者いわく沖田以外にもう一人いる。予想では若狭先生だと言われている。若狭先生は組織とガッツリ関わる。
鉄 刃 → 高山みなみ
ヒトデ男 → 高木渉