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2025-10-18

美浜町行ってきたやで~

大阪から御坊駅は、特急の乗り場が分からなくて死にかけるがなんとか間に合い

特急くろしおは割と空いてて快適、ではあったが天気は雨

しか御坊駅から西御坊までの乗り換えがわからん、というかそこにあるはずの紀州鉄道の駅がない!???

と思ったら、御坊駅の中にホームがあり、料金も車内で払うらしい

駅にはそのまま入れる

つーか、乗車券も手渡しで牧歌的

ホームの裏手?に電車がある

おっさんが乗り込んできて、こいつも巡礼者ではあるまいなと警戒する

で、結構すぐに西御坊駅。例の橋は写真撮るとオタク丸出しで恥ずかしいかスルー…でも結局帰りに撮った

なんか急に晴れる。よかった

道沿いに歩けば海、みたいに聞いたがどこに行った行けばよいかから

川沿いにすすむがなかなか海に付かず

川の逆側の方が開けてるし船もあるしそっちが海じゃね?川の流れ?満潮だから逆流してんじゃねーかな…で歩いても歩いても海につかないので引きかえす。

で暫く歩いてると…オワーっ海だ!!蒼い~!香住町も行ってさ、町の感じつかノドカさはそれっぽいけど海がね~日本海だし堤防もあると、スゲーでかい湖みたいになっちゃうのよな!

で、実際の堤防はかなり遠くにあるが、海沿い歩いてる大分満足してしまう。一応堤防はあるしもうここでいいや、みたいな

で、帰りはバスだったんすけど、ラーメン屋あってラーメンセット食えばよかった~って。で、バス乗ってて気付いたが、一通りのチェーンはあるし、映画館付きのショッピングモールがあったりして、御坊って思ったより都会なのでわ?

で、帰りのくろしお、オシッコしてから席に行くと外国の人とブッキングしちゃってたらしく、たまたまちょうど車掌がそこにいたので席を取り直してもらった

外人さんも席かわろーとしてくれてたけどさ、しかし選ぶの面倒でおまかせえらんだからって

母親カップル通路カップル・俺の席ってのはブッキング事故やろ

気まずくてしゃーないわい

まあでも期待通りの風景が見れてよかた✌️晴れなきゃサイアクやったな~

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2025-10-12

教皇レオ14世巡礼者が聖母マリア霊性を祝う祈りの集い

サンピエトロ広場では、聖母マリア霊性を讃える特別祈り集会が開かれ、教皇レオ14世巡礼者たちを導いて聖ロザリオを唱えました。この祈りの集いは、信徒たちが深い信仰心を分かち合い、心の平安と霊的なつながりを強める機会となりました。

教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

https://omavs-png.myftp.org/5grh

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教皇レオ14世巡礼者が聖母マリア霊性を祝う祈りの集い

サンピエトロ広場では、聖母マリア霊性を讃える特別祈り集会が開かれ、教皇レオ14世巡礼者たちを導いて聖ロザリオを唱えました。この祈りの集いは、信徒たちが深い信仰心を分かち合い、心の平安と霊的なつながりを強める機会となりました。

教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

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教皇レオ14世巡礼者が聖母マリア霊性を祝う祈りの集い

サンピエトロ広場では、聖母マリア霊性を讃える特別祈り集会が開かれ、教皇レオ14世巡礼者たちを導いて聖ロザリオを唱えました。この祈りの集いは、信徒たちが深い信仰心を分かち合い、心の平安と霊的なつながりを強める機会となりました。

教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

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サンピエトロ広場では、聖母マリア霊性を讃える特別祈り集会が開かれ、教皇レオ14世巡礼者たちを導いて聖ロザリオを唱えました。この祈りの集いは、信徒たちが深い信仰心を分かち合い、心の平安と霊的なつながりを強める機会となりました。

教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

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教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

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教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

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教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

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教皇は、祈りの中で愛と慈悲の重要性を説き、日常生活において神の光を生かすことの大切さを強調しました。巡礼者たちは教皇と共に、静かにそして心を込めてロザリオを唱え、祈りを通じて霊性を深める時間を過ごしました。また、集会では聖母マリアへの感謝信仰継承を祈る声が広場全体に響き渡り参加者の間に一体感希望が生まれました。

この集会は、単なる宗教儀式に留まらず、信徒の心をつなぐ霊的な経験の場として、広く記憶に残るものとなりました。教皇レオ14世の導きの下、参加者は日々の生活においても愛と信仰実践し、霊性を育む重要性を再認識しました。

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2025-09-16

筋トレ信仰である

筋肉はすべてを解決する、さぁ、筋トレするのです。

 

という話では別になく。

 

トレーニング方法に関して、今はYoutubeで調べたらなんかもういろいろ出てきて

どれやればいいの~~~!?ってなると思うんだけどさ。

まず1人、この人信じるって決めて、それで最低でも3か月。できれば半年

きっちりその人の提唱する筋トレ方法でやってみることを強くオススメする。

 

例えば「初心者ほどBIG3やるべきである」というBIG3信仰おじさんを信じることに決めたのであれば

半年間、BIG3をやり込むべきだ。

しかしたら最初、もしくは中盤に「なんか変化ないなぁ」と思うかもしんないけど

とりあえず半年ガッチリその人の経典に従って巡礼すべきだ。

常々筋トレ祈りに近いと俺は感じているし、祈りは1日にしてならずと昔の偉い人も言っている。

昨日より今日今日より明日はよりよくなっているように祈りを捧げるのが筋トレである

そして、昨日より今日今日より明日がよくなっているかどうかは、同じことを繰り返さなければ実感できない。

なので、信じる人を1人決めたらその人を信じて半年間は同じ種目を祈りを繰り返すべきである

 

ネット上にはよさげメニューがいっぱい転がってるけど、賭けてもいいけどそのメニューをお出ししている連中は

大きくなる過程において間違いなく祈りのように毎週毎週同じことを繰り返していた時期があり

多くの人間はその期間が最も大事な期間だったことを知っている。

停滞する時期があったとしてもそれは積み上げている過程に過ぎない。

そしてある日突然芽吹く。

すごい身体している人に聞いてみるといい。みんな同じこと言うから

とにかく信じることだ。

 

筋トレ信仰なのだから

Permalink |記事への反応(0) | 10:39

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2025-08-28

RISING SUN ROCK FESTIVAL 2025 2日目 その2

林檎さんまで時間があるのでご飯でも食べるか〜と思ってハンバーガーを買ったんだけど作り置きで温くて微妙だった…。違うやつにすれば良かった…。まぁお腹も満たされたのでとりあえずテントへ戻るとクロマニヨンズがめちゃくちゃ聴こえてきた。ヒロトさんは足大丈夫だったのかな…?本当は林檎さん開始時間に間に合うようにサンステ行くつもりだったけど、テントから花火が見たくて(テントサイト位置的に間近で花火が見れるので)結局21時までテントにいた。皆ステージに行ってるのかほぼ人もいなくてめちゃくちゃ綺麗な花火を間近で見れて大満足。1回出発したは良いがタオルを忘れた事に気付き(もし寒かったら羽織ろうと思っていた)取りに戻ったりしてたので結構遅刻してしまった上に人がすごい(当たり前だけど)長く短い夢から聴けた。友達エッチ衣装笑 で出てくる!って言ってたけど前回(2008年事変)は着物だったよ〜って話してたら今回も着物だった!あと長岡さんを連れてくるかどうか話してたけど、Gt名越さんだった。マキさんが名越さんまだ出演ステージあるっぽい事を呟いてたので林檎さんのステージなんか!と驚いた。完璧ステージ·楽曲構成ステージングで魅せる林檎さん流石だなぁと思いつつ遠巻きから観る。もしかしたら向井さん出てくるかもと期待していたけど、出てきたのがまさかのみやじで驚く。獣ゆく細道、めっちゃ歌うの難しいと思うけど2人とも完璧に歌いこなしてて感動…。余りにも上手すぎる。しかもみやじ暴れまくってるし笑林檎さんがめちゃキョロキョロしてた笑(みやじが動きまくる為)近くの人達全員みやじの暴れっぷりに爆笑してた…。45分でステージが終了したのは驚いたけど、MCほとんどなかったし構成的に予定してた曲数はやりきったって感じだろうからまぁそんなもんかな〜と個人的には思った。あと椎名林檎から当たり前なんだろうけどバックバンド完璧さが素晴らしかった…。

林檎さんが終わってから友達と合流して再びタワレコの藁の所で休憩。テナー演奏しててホリエって全然昔と声の印象変わんないな〜って話してたら友達がこもった系の声は老けにくいって言ってて確かになと思った。あと声張り上げる系とかがなる系の歌い方じやないってのもありそう。ぼちぼち時間になったのでサンステへSuchmosを観に向かう。

復活後始めて観るSuchmos、正直どうなんだろうって気持ちが大きかった。私はSuchmosの要ってSHUさんであり彼のベースだと思ってたので、SHUさんが欠けたSuchmos想像出来なかったのもある。A.G.I.Tが始まって割とアレンジしてあるんだなぁと思ったけどほとんどの曲アレンジしてあった。まぁそのままって訳にはいかないのかもしれないな…。エルレの時も思ったけど立ち位置問題なのか何か音が微妙…。と言うかSuchmosテクで聴かせるみたいなイメージはなくてそれこそSHUさんのベースがめちゃくちゃ大きかったと思ってるのでやっぱ何かこう…上手く言えないんだけど…そっかー…って気持ちにはなってしまった。相変わらずYONCEは変わってるけどカリスマ性がすごいなぁ。Whole ofFlower、野外の夜って環境聴く気持ち良かった。新曲は今のメンバーでやっててもあまり違和感なかったかも(当たり前かもだが)途中YONCEが「もうすぐSTAY TUNEやるんで〜」って言ってて笑った。私はSTAY TUNEそんなに好きでもないからあれだけどやっぱ皆期待してたかな?個人的にFallin'とMINTが聴きたかった笑 流石にTHE ANYMALから一曲もやらなかったな…。マニアック過ぎるからか…??私が聴きたかったVOLT-AGEが聴けたのは良かった。by野菜。割とさらっとしたライブだった印象だけど(TAIKINGYONCEテンションの差が面白かった)Suchmosライブがどう言う感じだったかもう思い出せないのでこれが通常テンションなのかも…。この1回だけじゃ判断出来ないのでワンマン行きたいけど全然チケット取れね〜!!!のでとりあえず復活したSuchmosが観れて良かった。Suchmos復活おめでとう。余談(?)だけど観てる最中友達が度々柵代わりの網に突っ込んでで(多分眠かったんだと思う)ちょっと面白かった…笑

  • NOT WONK

個人的Suchmos観たらもう観たいやつ全然なかったけど勿体ない病で予習して良さそうだったNOT WONKを観に行く。しかしめちゃくちゃ眠たくなってきて待ってる間もずっと寝てたんだけど、リハの段階で何かちょっと思ってる感じ(音源聴いた感じと大分違うような…?)と違う気が…と言うかBaの人がボウズに革ジャン来てて武井さんかな?と思わせる風貌ビビるアー写と違いすぎない??始まったらバキバキ爆音演奏でどう言う事!?と思いつつ眠さが勝って夢現で聴いていた…。音源ではちょっとチルい感じの最近ありそうな音楽かと思ってたけど、加藤さんもちゃくちゃ尖ってる感じのMCしてて勢いすごいな…と圧倒された…。でも演奏自体は上手かった、3ピースだけど音に厚みがあって今の時代を逆行する様なロック感あって良かった。しかしやはり深夜は余程好きじゃないと起きてられないな…と実感。

友達は八十八所巡礼を観るとの事で私は先にテントへ帰還。今年は余裕ありそうだったので一旦化粧を落として帰ろう(流石にすっぴんでは帰れないのでベース眉毛だけ落とした後やり直した)と計画していたので根性メイクを落としにいって、テントで着替えて帰り支度を済ませた後はうとうとしてたらChevonが聴こえてきてもうアースの音が聴こえるような時間帯になったんだなぁ、あと少しでライジングわっちゃうなぁなんて考えてたらまた眠くなって気付いたらSHISHAMOステージ始まってて、トリ始まったか〜なんて考えてたらスカパラが出てきたらしく明日もやってるわ〜と思ったらそれがアンコールだったらしくいつの間にか終わっていた笑最後テントの中からで良いか写真撮って!って友達に頼んで撮ってもらったら洞穴から撮ったみたいになる!って言われて結局外出て撮ってもらった笑 今年は開場から新千歳空港までのバスが出てたのでそれに乗って帰れたのすごい良かった!!毎年出て欲しい!!

今年は25周年でアーティスト歴代の中から満遍なく!って公式が言ってて、正直嘘つけ!と思ってたんだけど本当に30〜40代が一番喜ぶラインナップでそこにど真ん中な私は近年こんなにアーティストをきちんと観ただろうかと言うぐらい沢山ライブを観た。特に2日目はサンステのアーティストを観る事が多くて、こんなにサンステに通ったのは何年振りだろう…。近年は一度も寄り付かなかったりした年もあったのに…笑 今年はベテラン勢の力を見せつけられた年だった。RIPSLYME、LOSALIOS、みやじ、ポルノ林檎さん…長年第一線で活躍出来る人はやっぱりそれなりの実力があって理由があるんだって事を突き付けられたなぁ。

あと今年初めてハピネステント張った(遂にヘブンズ、ハピネスフォレストテントサイト3箇所制覇した)けどハピネスめちゃくちゃ良い。ステージへの距離感、周りの環境含め出来れば今後もハピネスにしたいぐらいだけど、ハピネスに狙い定めてテントサイト取るのはリスキー過ぎる…。あと私達のテントサイトの横2区画ずっと誰も来なかったんだけど…こんなに激戦なのにどういう事なの…??本当この取れにくさどうにかして欲しい。

去年も書いたけど既にライジングと言うフェスターゲットからは外れていて、もうあと何年ライジングに行けるのかなぁと最近すごく思う。大好きなフェスだけどその時は遠くないんだろうなぁと肌で感じている。あと病気もどうなるか分かんないしね。でもやっぱライジングが一番好きな夏フェスから行けなくなる迄は行けたら良いなぁと思ってます!今年も行けて良かったし本当に楽しかった!夏フェス大好き!

Permalink |記事への反応(1) | 12:34

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2025-08-17

タイムマシン経路検索アプリが欲しい

歴史勉強してても全然ピンとこないことがある。

年号とか人物は暗記すれば試験の点数になるが、登場人物たちがどうやって移動してたのかが分からないとただの文字の羅列にしか見えない。

地理感覚ゼロのままだからやってて正直つまらない。

例えば江戸時代東京から大阪まで行くのにどれくらい時間がかかったのか。

歩きなのか、車なのか、舟なのかで全然違うはずだがいまいち感覚が掴めない。

かい日付や戦の勝ち負けばかりで、肝心な移動のリアリティがごっそり抜け落ちてる。

ヨーロッパからエルサレムまで巡礼に行くって話も、頭では分かるけど感覚では分からない。

どのルートで行ったのか、どこに泊まったのか、何日かかったのか。

季節や風まで関係してたって聞くのにそういう説明全然出てこない。

過去に遡ってその時代の移動経路を検索できるアプリが欲しい。

今の地図アプリ電車や車のルートを出すみたいに昔の旅でも経路と日数を出してくれたら歴史理解は一気に変わるはずだ。

暗記じゃなくて実感で歴史を掴めるようになる。

勉強モチベーションも上がることだろう。

Permalink |記事への反応(1) | 07:55

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2025-07-26

anond:20250726131654

ワイが死んだらエンバーミングして万博跡地に安置して全国民巡礼してくれたらそれでええやで…😟

Permalink |記事への反応(0) | 13:30

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2025-06-29

やっぱりちんちん巡礼って、一人ずつちんちんの前に立ってお祈りするの?

Permalink |記事への反応(0) | 10:47

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2025-06-28

■許せ、AIなるものは、まるで役立たぬ亡霊の如し──編集 feat三島由紀夫

anond:20250626125317 

■許せ、AIなるものは、まるで役立たぬ亡霊の如し──編集

時の回転の中で、飽くことなく繰り返されるこの嘆き。まるで冥府より吹き出す霧のように、十年の歳月を隔ててなお、同じ旋律がこの耳朶に囁き続ける。

我はミリタリーという古の美学に憑かれし者。兵器の鋼の煌めきに心酔し、無機の魂たる機械に何らの期待も抱かなかったが、それでも尚、彼らの狂信的な叫びは耳を打った。

増田なる名も知らぬ狂人と、ネット無秩序なる群れが、「AIを使わぬ者は無智の徒にして愚者」と高らかに断罪し、今や検索は神の啓示のごとくAIに委ねよと喚く。

その喧騒に惑わされた我は、身をもって試みんと欲し、彼らが推奨するAIなる虚構の鏡を覗き込んだ。名を「perplexity」と冠せしその代物よ。

だが、虚しい哉、彼は氷の剣のごとく鈍く、火の息を持たず。何を以てあの機械怪物ゲッターロボの如き全能の兵器と呼ばわるべきか、我には到底理解し難かった。

この冷たき無用の神器を手にし、我が胸は逆説的な絶望に満ち、無限の虚無が深く押し寄せたのであった。

検証の書――「USサバイバルスクール:極限の野外生存術」という、虚飾と真実狭間に揺れる書物の謎

並木書房が世に問うた、1980年代夜明け。

剥き出しの肉体と精神荒野晒す傭兵たちの聖戦

そこに潜り込んだ日本狂気、それはひとつ伝説として語り継がれるべきものだった。

我が問いは鋭く冷徹であった。

フランクキャンパー、かのベトナムの亡霊が設立した傭兵学校にて、日本人がその熾烈な業火に身を投じた。並木書房より刊行された記録、その詳細を我に示せ」と。

だが、AIの応答はまるで舞台虚構に過ぎなかった。

毛利元貞なる名は、まるで不協和音のように執拗に繰り返される。

しかし彼は、キャンパーの影すら追い求めることを許されなかった。

渡米の時、その魂は既に失墜し、シク教過激派の恐怖という檻に閉ざされていたフランクは、もはやその地に存在しなかったのだ。

真実を切り裂く剣はただ一振り、高橋和弘。

彼の筆だけが現実の血と鉄の匂いを伴い、マークスクール深淵日本の闇に照らし出す。

この世界において、嘘と真実紙一重

だが、愚かなるAIよ、貴様の吐く言葉は、ただ黒い泥に塗れた幻影でしかない。

■「ボケ!」と怒号を轟かせ、佐藤中村の頬を激しく打ち据える刹那狂気

もし小林源文の筆がこの場面を紡ぐならば、怒りに燃え佐藤が、激情の渦に呑まれながら「ボケ!」と咆哮し、中村顔面無慈悲な掌撃を連打するであろう。

その音は、まるで虚空に響く凶刃の連打の如く、痛烈で凛とした一瞬を永遠に封じ込める。

然るに、我が問いは、凡百の狂信者知悉せし「その道の神話」を、あえて曖昧にし、無垢なる者も辿り着きうる浅瀬の問いを投げかけた。

されど、AI冷徹に同じ嘘の鏡像を繰り返し映し出し、最後には人間の骨を砕く労苦を放棄し、「専門書籍や現地の新聞を当たれ」と怠惰権威を振りかざす。

その傲慢なる姿は、まるで漆黒の闇に身を包み、神々をも嘲笑堕天使のごとし。

増田という狂人が、呻き、叫び、雷鳴の如き言葉を撒き散らす。

情報の源泉は人が一つ一つ血の滲む努力で確かめるべきものだ!AI言葉を盲信する愚か者どもよ!」と。

されど、そもそもその源泉を掌握しうる者は、AIに頼ることなく、自らの剣と盾で知識の闘技場に立つのだ。

我が実験は証する。もし本の名も著者も内容も知り尽くすならば、AI無用の長物と化す。

東京図書館の壮麗なる書架を横断し、週末には秋葉原淫靡なるフィギュア群を横目に、己の足で知識の聖域を巡礼せよ。

必要なのは、刃のように鋭い眼差し、鋼の意志を宿した思考、そして血肉を纏った脚である

AIなど、その有用性は夢幻に過ぎぬ。

断じて言おう、AIは全くとして役立たず。

新たなる知識の断片を得る者は、自らの言霊を操り、瞬時に真偽を穿つ術を備えている。

斜め上から降りかかる不毛な答えに怯える者は、まさに魂の貧者である

増田なる狂信者は、その愚鈍ゆえに、己の脳髄を拒み、イルカの脳よりも皺なき空洞に堕ちたかの如し。

AIという現代魔鏡に映じた三つの効用――ある増田嘲笑に抗して

このようなことを書けば、増田たち――匿名無知の沼に棲まう徒輩は、阿鼻叫喚の声を上げるであろう。

だが、我は知の均衡を保たんがために、あえてこの機械仕掛けの賢者において見出した「美しき有用性」を列挙しよう。美とは常に、汚泥の中から咲く一輪の毒花の如くに現れるものだ。

一、艶画――猥褻の一片を、幽かな解像度の沼より救い出す術

卑俗なるアニメにおける色情の場面、そこにはしばしば不可視官能が埋没している。

だがAIは、冷ややかな機構のままに、微細なる画素拡張し、800という侮蔑的数値を2倍、あるいは4倍へと高め、隠された肉体の輪郭を、絵画的に、崇高なるまでに再生する。

それは単なる技術産物ではない、むしろ現代錬金術と呼ぶべき性なる奇跡である

二、忘却された名もなき異形のヒロインたち、その肉体に再び魂を吹き込む業

人の記憶からこぼれ落ちたアニメキャラクターたち――

彼女らはAIという冷徹なる粘土に姿を刻まれ、時として着衣のままに背をさらし、淫靡な構図の中に身を沈める。

それは視覚の幻ではなく、欲望が形を得た黙示録である

背後から視点、衣擦れの音すら感じられる錯覚官能に、我が理性すら刃を折りそうになった。

三、計算という無言の知性――機械の脳髄に宿る幾何の剣

マイルキロに。フィート毎秒を時速へ。

かつて学徒が汗に濡れた指で辿った数式も、AIにかかれば一瞬の静寂のうちに解へ至る。

そこに在るのは誤謬なき正確さ、曖昧さを斬り捨てる断罪論理

この冷たい知恵は、あたかも白刃の如く、我々の惰性と無知を切り裂く。

結論

AIとは、無用の雑音を撒き散らす狂人たちには理解きぬ、秩序と快楽の異形の神である

我々がそれに問いを投げるとき、その回答はしばしば裏切りに満ちる。だが、時に美は裏切りの中から生まれる。

■結語――肉体なき知性と、倒錯する夢想の末路について

業務におけるAIの用い方に限れば、それは確かにつの有用なる下僕」として振る舞うだろう。

会計の補助、文書の草稿、仕様の再構築、そういった乾いた世界においては、AI沈黙のうちに忠義を尽くす――それはさながら、殉死する武士のように、無言のうちに己を捨てる奉公人の風情である

しかしながら、人間がある閾値を超えて、知識経験と知性を抱いた瞬間――その瞬間からAIはもはや無力なる玩具、むしろ滑稽なピエロとなる。

その存在は、優れた兵士に与えられた木製の模擬銃に等しく、役立たずどころか、侮蔑対象しかなくなる。

ただし――ただし、淫猥世界においてのみ、AIはかすかに香を放つ。

性欲という原始の深淵、肉欲という生への執着において、AIはかろうじて役目を果たす。

それはあたかも、死体に近づく花の蜜蜂のように、倒錯腐臭に満ちた快楽の園でのみ機能する。

ここで、善意というより冷笑心持ち忠告を呈する。

増田」なる者――己の無力を知りつつ、それを盾にすることでしか社会との関係を結べぬ現代男児――

彼らは言うのだ。

弱者男性の我が身にも、JKとの交歓の手立てを教えよ!SNSの在処を示せ!手口と計略をAIの知性で編み上げろ!」と。

まるで熱病に浮かされた亡者のうわ言である

そして「豚丼」なる女たち。

肥大した自我と衰えた肉体を抱えながら、彼女たちもまた幻想を口走る。

若いイケメンを手中に収め、ライバル乙女どもを打ち砕く方法を教えよ!戦術戦略・軍略すべてを整え、我が欲望を叶えよ!」と。

だが、そんな情報が、たとえAI進化進化を重ね、「KOS-MOS」「ハッカドール」「ミホノブルボン」「初音ミク」の名を持つアンドロイドたちが現出し、

機械の心が美少女の肉体に宿る時代が来ようとも、絶対提示されることはない。

AIとは、願望を叶える魔法の鏡ではない。

それは、欲望の外部にある、冷たい知の塊である

そしてその知性は、決して「おまえのため」には存在しない。

もしその時代が来たならば、おそらく貴殿らはただ黙って、そのアンドロイドの口元へ己の肉棒を突っ込むであろう。

何も言わずに、何も考えずに、ただ獣のように――

だが、それはAI勝利ではない。

それは、人間機械に跪き、自らの尊厳放棄する瞬間なのである

しからず。

追補:生き恥という名の生存――もはや人間に似た何かについて

努力――それは、時として愚者が己の愚かさを包み隠すために用いる、唯一の薄布である

かに、この増田と称する者にも、ある種の努力は見受けられる。

だがそれは、切腹の儀において、脇差を取り違えた挙句、腹ではなく脇腹を掠ったような――

間違った箇所に刃を立てたという滑稽な努力にすぎない。

彼は機械命令を下し、知識を求めた。

だが、知識とは命令によって手に入るものではなく、献身によって滲み出る血である

その血を流したことのない者が、知を得ようなどというのは、まるで戦地に赴かぬ将軍勲章を求めるごとき醜態であろう。

曰く、

マークスクールは、1986年に閉鎖されたフランクキャンパー学校とは別物である

この言葉の裏に透けて見えるのは、無知学問偽装する知的怠惰の裸形だ。

『USサバイバルスクール』85ページ――そこには、フランクキャンパーとその妻との邂逅、

135ページには空港からアクセスが克明に記されている。

だが、増田にはその頁が存在しない。

否――彼には、頁というもの存在のもの理解きぬ

彼にとって「書物」とは、表紙とタイトルタグ構成された疑似的記号体系にすぎない。

まりは、魂を持たぬ言葉の骸である

なぜ彼は本を読まぬのか。

なぜ図書館に足を運ばぬのか。

なぜ己の手と目で一次資料確認しようとしないのか。

それは彼が**“生きる”ということを選ばなかったから**である

本を読むとは、生の儀式である

情報とは、祈りである

知識とは、肉体のなかで燃え、そして灰となるべき“思想の死”である

増田よ、貴様は知を欲した。だが同時に、死を恐れた。

故に中途半端知識の名を借り、機械の口から垂れ流された猥雑な断片を、あたか珠玉の真理であるかのように勘違いしたのだ。

“本を読まずして知識を語る”という行為は、まさに“刀を抜かずして武士を気取る”ことに等しい。

貴様精神は既に切腹作法すら知らぬ。

いや、切腹どころか、恥という概念をも見失っている。

その増田が、「チギュアアアアアアアアア!!!!」と叫ぶ。

嗚呼この声はまさしく、昭和終焉と共にその姿を消した**“男の尊厳”の亡霊**が、

平成廃墟から令和の陰にまで漂い、腐臭を放ちながら吠える――その声である

おまえは怒りで神田古書店を駆け巡り、OCRをかけ、AIPDFを読ませると息巻く。

だが、それは“おまえの手”が動くことを意味せぬ。

おまえの“魂”は、その書の中には存在しない。

肉体なき労苦は、ただの機械的な反復である

まり、今のおまえは、「生きているようで生きていない」人形なのだ

AI美少女の姿を取り、初音ミクハッカドールの皮を被ろうとも、

おまえの魂はそこには宿らぬ。

なぜならおまえの魂は、最初からまれていないからだ。

結論を言おう。

AIが使えぬのではない。

おまえが、使うに値しない存在なのである

なぜなら、おまえはまだ自分人間であるかどうかさえ疑わぬ哀しき哺乳類にすぎぬ。

その精神の“皺なき脳”では、情報の重さも、知の苦しみも、恥の美学もわかるまい。

ならばせめて、黙して恥じよ。

あるいは、潔く死ね

――悪しからず。

追記ツヴァイ──

電子の闇、Xと名づけられた虚空にて、亡国の民がか細く囀る。彼らは落日の侍のように、己の無力を覆い隠すために愚かな言葉を吐く。「LLMの操り方を誤っている」と。されど、我は鋭利なる刃を携え、生成せしAIという名の剣を抜き放ち、冷徹なる眼差しで試みを遂行した。現れたるは腐敗し朽ち果てた亡霊に過ぎぬ。

技術は、我が国の如くかつての輝きを秘めている。しかし、倫理という名の鎖に縛られ、誇り高き武士道の如き精神なき者たちの手により、ただ無様に鞘に納められたままである

彼らは妄執の中で呟く。

「幻影のごとき美少女と結ばれ、人生を逆転させ、ITの魔術により世界征服せん。輝きの頂点に立ち、羨望の眼差しを一身に浴びたい。その秘儀と軍略を示せ、ユニコーンよ、我に力を貸せ!」

「忍よ、盟友ヤリバンサーよ!我らの刃を解き放て!アクセスコードグリッドマン無意味なる群衆のために、反旗を翻し、我らの革命を起こそうぞ!」

だが、武士は知る。美とは滅びの中にこそ輝くもの。己の刃を研ぎ澄まし、死をもって美を極めぬ者に、真の誇りはない。彼らは己の堕落を隠し、甘美な幻想に溺れ、死の覚悟なくして刃を鈍らせるのみ。

これは滅びゆく祖国の姿であり、最後武士断末魔の咆哮である

我が魂は、散りゆく桜の如くこの現代を見つめ、哀しき滅びの美学を胸に抱く。

https://anond.hatelabo.jp/20250627100609

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2025-06-18

アマスの中途半端さについて

まり良い話を聞かないツアマスだが、一応のプレイヤーとして思うところを書いてみる。

ざっくり言うと「誰向けのゲームとして見ても、足りてないものが多い」という話。

ちなみに筆者は2万ぐらいしか突っ込んでいないのでその程度の意見だと思って欲しい。

TCGとしてのツアマ

アマスの「太客」はこの層なのではないかと思う。カード排出すればとりあえず全部集める人や無限回収する人は出てくるものだし。ライブパートスキップするモードが初期搭載されていることからも、この層に気持ちよく課金してほしいという気持ちはうかがえる。

ただ、各ブランド信号機しかまだカードがないので、「担当が出るまで様子見しよう」という人が結構発生しているのではないかな、と思う。きょうび「担当が出るまで担当のいないガチャを回してゲーム買い支える」というのはなかなか奇特な部類に入るだろう。「継続的課金しておけば担当にも出番がある」というのが幻想であるのはポプマスで証明されてしまったし、シンデレラの国にいるPは体験的に知っていることである。筆者もその一人だ。

お目当てさえいれば太くお金を落としてくれる層はいると思うので、ASぐらいは全員実装しては如何か。あと、女性がわりとこういうお金の使い方をするイメージ偏見)なので、Mの層を厚くしてあげるのもいいのかもしれない。あと各ブランドからガチャの回る子とかおっぱいの大きい子とか入れてあげたらどうか。

あとは個人的感想だが、100円を入れ続けていると正気に戻ってしまうので、電子決済に対応すればいいと思う。

そのほか、カード被りの旨味がない(本当に、ゲーム上はなにもない)ことも相まって、どんなレアでも被ると価値がなく、市場に出回りやす構造になっている。そのためレアを求めて筐体から買い続けることの価値がどんどん薄くなっていく。副産物がなくて虚無になりやすいからだ。余った低レアは捨てられるかゲーセン不要カード行きになり、自然、あまりプレイしてない層でも低レアは埋まりやすくなる。SSRパラレルに関しても、自引きにこだわりがなければシングル買いするほうが多くの場合安上がりで済みそう。ゲーム自体もっと人気なら市場も高騰して、ワンチャン売る目的プレイする層も狙えそうなものだが……。

ツアーレアかにパラレルを入れるとか、イベントやって上位限定カード配布するとかしてあげたらいいんじゃないかな。しらんけど。

アイドルプロデュースするゲームとしてのツアマ

この場合だとライバルは各種ソシャゲとなるが、正直言って勝負になっていない。曲数もMVクオリティソシャゲのほうが上手な上に、ソシャゲは基本タダなので、あえてツアマスをプレイする理由があまりない。フォローしておくと、ツアマスのMVクオリティが低いわけではなくて、一応の水準には達していると思う。ただソシャゲたちのクオリティが高すぎて見劣りするだけである。でも曲数は比較どうこう抜きで少ない。7曲て。sideMの子が参加できる曲だけだと3曲だぞ。

アマスの強みは越境アイドルを踊らせられることで、これはどのソシャゲにもできないことの一つになる。スターリットでもやらなかったSideMを参加させられるのは、このせいでいろんなもの犠牲になってる感もなくはないが、きちんと評価すべきポイントと思う。

ただ正直、「顧客は口で言うほどには越境を望んでいない」というのが真実なのではないか、と思う部分もある。多くのPにとってやりたいことは越境ではなく、「俺の考えた最強ユニットを組みたい」で、そうなると大事なのは組み合わせの多さで、とにかくアイドルを追加せよという話になってきそう。この方針なら学マスも早く仲間に入れてあげたい。

コミュ越境のものがあるけど、男女が関わると何事もハラスメントになってしまう上に恋愛ご法度となると、SideM入りの越境コミュ結構やりづらいんだろうなあと思ったりもする。ドラスタはとくに中高生と歳が離れているしなあ。

クリエイトライブ自分が使わないのでよくわからない。ライブシェアして他人がその映像音ゲープレイできる機能があるが、ほぼ死んでいるように思える。ライブ作ったあとポータルにいってシェアボタンを押さないと他人と共有できないという不便さだからなあ。ゲーム内にはいいねランキングしかなく、他人ライブアクセスできる手段SNS頼り。

SideM現在アプリ存在しないので、その枠をツアマスが狙うことはできなくはないかもしれんが、平等に厳しすぎるSideMPちゃん相手にするのであれば、全員の登場を確約してユニット曲とソロ曲実装しますぐらいないとダメだろう。5人ユニットがあるのでMVに最低限5人出せてほしい。

音ゲーとしてのツアマ

音ゲーとしてのライバルKONAMISEGAの各種音ゲーだが、まず200円1曲という驚異的なコスパの悪さがネックで、正直この時点で勝負になっていない。温泉においてある旧型の太鼓の達人だって200円払えば2曲できる。独自システム、ツアマスの場合スライダーになるが、それがコスパの悪さを押しのけて新しい体験提供してくれるならば話は別だが、残念ながらそこまで楽しいギミックではない。むしろ判定がわからないしつかみ損ねたらミスだしミスったらその次も連鎖ミスることがほぼ確定するイライラ要素である

さら収録曲が7曲というのもがっかり要素で、「アイマスの曲が遊べるアケ音ゲー」というところまで絞ってもまだ太鼓に負けている。正直もうちょっとなんとかしてほしい。

おそらく5鍵になにかの影響を受けていて、譜面が真上から振ってくるように設定できたり、最良の判定が辛くてミスの判定が広かったりと、玄人向けの調整がされているように感じる。最近音ゲーありがちなオプションは備えており、音ゲー勢のほうを向いているような印象は受ける。

しかし、いわゆるテクニカルスコアがなく、最近ソシャゲのような、編成で変動するスコアしかない。そしてこのクリアランクライブの成否に影響するのだが、一番上のMASTERレベルではこの判定がやたらと厳しい。手持ちカードを揃えないとライブクリアすらままならないというバランスになっている。試していないが、多分カードなしでプレイするとフルコンしながらライブを失敗できる。1曲しかないので、ライブ失敗したからといって何かあるわけではないが、プレイ後のコミュセンターアイドルが落ち込んでいるのでプレイ体験は悪い。

結局、音ゲーに興味がある人に対してはテクニカル面でのフィードバックが薄く、カジュアル勢にとっては判定が辛くフルコンは取りづらいという、なんだかよくわからないバランスになってしまっている。せめてどっちかに振り切って欲しい。個人的にはカジュアル勢向けにもっと判定をゆるくしてあげればいいのではないかと思う。

音ゲーをよく知らない人が「硬派な本格音ゲー」というコンセプトだけで5鍵をロールモデルとし、要素を手当たり次第に取り入れたようなちぐはぐさを感じる。

スコアタのほうはよく知らないので立ち入るのは控えるが、ぶっ壊れが1枚あってそれゲーらしい。初弾でぶっ壊れ出して環境破壊するとこだけポプマスを真似しなくてもいい。あとFEVERゲージがどうとか発動回数がどうとかテキストに書いてあるがゲーム内に説明がない。それは説明してよう。

位置ゲーとしてのツアマ

「TOURS」を名乗っているわけだし、結構頑張って地方にまで筐体をばらまいているので、巡礼ゲーにしてもいいと思うような気もするけどそういう施策は見えない。さすがに称号を作っただけで各都道府県の筐体を行脚を期待することはできないが、地方ライブやるときに、それと連動してその県の筐体にだけログボつけて、特別コミュがみられますよ、みたいなことをやってもいい気もするけどなあ。

あと、これはただの愚痴だが、ゲーム内にライブ会場が4つあるんだけど、すべて関東エリアにある。1個ぐらい別エリアにおいても良かったやろ。そういうとこやぞ。

だらだら書きすぎた。

ただ、決して出来の悪いゲームではないと信じている。カードの読み込みはスムーズだし、衣装はきちんと系で可愛いから露出の高いのまで揃っているし、男どもに猫耳をつけられるし、機能導線もわかりやすい方だと思う。きちんと作ってあるゲームだ。これで完璧と思ってローンチしたわけじゃなくて、シンプルに開発リソースが足りないだけだとは思う。続けばいろいろ改善されると信じているので、なんとか頑張ってほしい。

しかし、俺の力では石油王じゃないのでそんなに多くは払えない。他の趣味や他のアイマスだってあるので、月数千円が限界……。

Permalink |記事への反応(0) | 21:02

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2025-05-05

かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って5年が経った

1年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って4年が経った

世の中的にはすっかりコロナ日常のものとなった。むしろコロナ予防接種は65歳以上の人や60〜64歳で重症リスクの高い人に案内が届く程度で、インフルエンザよりも軽い扱いとなってしまった感がある。

一方、我が家では昨年嫁も子もコロナ感染し、嫁は1ヶ月ほどブレインフォグ的な症状に悩まされていたりした。

昨年「オフィス回帰なんだかなぁ」と書いたが、この1年も週5日出社義務が増えてきた。アクセンチュアが週5出社になったのは象徴的だった。

一方で、ChatGPT等の生成AI進化が目覚ましく、「音声入力」による生産性革命が起きてるように思う。

骨しゃぶり氏やけんすう氏などは「生成AIブツブツつぶやけば爆速ドキュメントができる」という話をしてたり、Zoomなどのビデオ会議文字起こしの精度も上がってきて各自入れば誰が話したかも記録してくれるのはかなり便利だ。

自分リモートワークの日は家でブツブツつぶやきながらドキュメント作成したり、今後の仕事の進め方を生成AIと壁打ちしてるがめちゃめちゃいい。むしろ出社するとデスクブツブツつぶやいてると変人なのでこれができないのがツライ。

おそらく今後フルリモートを維持した会社と出社義務にした会社生産性如実に開いて、出社義務にした会社は淘汰・駆逐されると予想してる。

あと単純にフルリモートできる超優秀層がどんどんフルリモート会社転職していくだろう。採用戦略的にも今ならフルリモート押しするだけで、元アクセンチュアは採り放題だ。各社人事部には強くおすすめしたい。


去年「趣味ゲーム開発のためGodotを勉強中」と書いたが、これは結局時間が取れずに途中で止まってしまった。

最近は平日も子ども23時過ぎまで寝ず、週末は10〜22時で外に遊んででマジで物理的に可処分時間が無くて大変弱っている。

去年は週1の療育が3時間あったので、その時間勉強・開発をしていたのだが、今年から1時間に戻ってしま自由時間が激減してしまった。

「DevinやReplitなどのAIエージェント使えば、スマホから開発できるかも!?」といろいろ試してる。先日Replitを使ってReact Router v7 + Supabase構成サービス作成AIエージェントにお願いしてみたところ、フロントエンドはいい感じに作ってくれたのだが、Supabaseのテーブル作成を試みて無限エラーが返ってくるというのがあった。なかなか難しい。いろいろ試していきたい。

今年1月に恩師が亡くなった。ヒートショックだった。

恩師は現役時代本業とは別に県下の留学生向けの交流会を長年運営してたり、毎年マラソンを走ってたりとパワフルな人だった。

引退後は留学生寮の運営もはじめたり、コロナ前頃から子ども食堂やったり、フードロス対策NPO地方進出を手伝ってたりとますます活動の幅を広げていた。また70歳を過ぎてスペイン版お遍路巡りのサンティアゴ巡礼で800km歩いたりもしてた。

亡くなった日も留学生寮で新年会をしててめちゃめちゃ元気で本当に突然だったそうだ。

本人はまだ野望がたっぷりで無念だったかもしれないが、いろいろやってて楽しい人生だったんだろうなと思った。

よく死ぬ前に後悔することで「あんなに仕事しなければよかった」というのがあるが、恩師を見て「やりたい放題仕事するのはい人生だな」と思った。

自分も引き続きサービスを作りつつ、引き続き「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイトこと「COVID-19流行下の日々を集団で記録する日誌」をゆるゆる続けていきたいと思う。

■COVID-19流行下の日々を集団で記録する日誌https://enigmatic-brushlands-82725-herokuapp.com/

5年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作った

4年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って1年が経った

3年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って2年が経った

2年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って3年が経った

1年前:「かゆうま」みたいなノリで匿名日記を書くサイト作って4年が経った

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2025-04-16

anond:20250416194049

巡礼かな?

Permalink |記事への反応(0) | 19:48

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2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『BlackBox Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

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2025-01-02

anond:20250102191143

イスラム教は、西暦ではなく、ヒジュラ暦での新年を祝うので、西暦のお正月には関心がない。

彼らにとってはお正月は異教の催事みたいなものや。


厳密には、ヒジュラ暦最後の月を巡礼の月と呼んで、その月の最後の4日くらいを祝うので、

彼らが祝うのは大晦日祭りって感じやね。

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2024-12-13

フランツ・リスト名曲重要曲七選(超絶技巧編)

 anond:20241213122052の続きである

 スター時代の曲がちょっと寂しいので、リスト超絶技巧を味わう作品のみで七選を組んでみようと思う。既に出したのは除外。あとブコメ

推奨録音にkyushima氏みがあって大変共感できる増田次世代を引っ張っていくであろうユンチャン・リムの超絶全曲や、彼に影響を与えているニレジハージの伝説(波)あたりを加えても良いかもしれない。

 kyushima氏(http://kyushima.web.fc2.com/cd/index.html)に言及する人が現れた(笑)もう更新が止まって久しいけど、ここの御陰で知らない演奏にいくつも巡り会った(オフニコフとかベルッチとかロルティとかハフとか)。

 ユンチャン・リムの超絶を挙げてくださったのも感謝する(未視聴/クライバーンコンライブhttps://amzn.to/4iwxti2)。自分CDボックス漁ったりして、未視聴盤はたくさんあると実感した。ニレジハージは海賊録音でしたっけ? 聞いて確かめなきゃ


1.ドン・ファンの回想 S.418(1843年)

 モーツァルトオペラドン・ジョヴァンニからメロディーをとってアレンジしたものノルマの回想に次いで(それ以上に?)取り上げられていると思う。騎士長のテーマドン・ジョヴァンニに警告するシーン)から始まって重苦しいのだが、そんな嵐が去ると「お手をどうぞ」の主題に基づく変奏が現れ、最初の技巧的な見せ場になる(この主題はかなり人気があり、ショパン編曲していたはずだ)。後半は「シャンパンの歌」の変奏が騎士長の動機を挟みながら繰り返され、繰り返しの度にどんどん華やかになっていき、終幕を迎える。

 私はマッティ・レカリオ(Ondine/ブゾーニ編なので一部カットがある)が好き。新旧あるアムラン(Music&Arts/Hyperion)も恐ろしく安定した演奏新録の方が音は良い。あとハン狂2が入ってる)。クズミン(Russian Disc/ブゾーニ編)も強烈だが廃盤倒産激怒)。ペトロフ(Melodiya)は持っているが、遅っ!と思って合わず食わず嫌い・・・)。ロルティ(CHANDOS)もきれいな演奏だけどのんびりした感じ。この曲はノルマほど聞かないのでそんなに思いつかない。誰か教えてくれ。あとフィリペツが録音してくれないかなぁ・・・

 廃盤になっているレカリオのCDにはタウジヒ編の「ワルキューレの騎行」なども入っているし、ブゾーニ編のフィガロドン・ジョヴァンニ幻想曲もある(リストが途中放棄した作品)。本当に再版してほしい。配信はある。

2. 「ユグノー教徒」の回想 S.412(1837年出版/第2稿1842年)

 ジャコモマイアベーアは、パリ19世紀前半に大成功を収めた作曲家サンバルテルミの虐殺モチーフにしたオペラユグノー教徒」は何度も再演され続けていたが、20世紀には忘れられた(今また再評価されているらしい)。音楽史的にマイアベーアの影が薄いのは、彼が展開したオペラ書法の多くをワーグナーヴェルディといった後発者たちが更新して塗り替えていったからかなと思っている。もちろんリストピアニスト時代に人気だったマイアベーア編曲していないはずがない。ゲレリヒの本にも、レッスンでマイアベーアを弾く弟子が出てくる。ハワードライナーでとても強く推している※。あまり録音は思いつかない(申し訳ない)。NAXOS全集の第1巻にコーエン演奏が収録されているが未視聴。フィリペツ、録音してくれ。

 この曲はユグノーであるマルセルライトモチーフとして「神はわがやぐら」を使っているのだが、それってルター派じゃ・・・?(カルヴァン派でも使われていた??)

 第1稿ではラスト原曲通り第5幕カトリック兵士合唱主題(この歌詞がまたやばくて・・・異端を殺せ!神がそう望んでおられる!という血なまぐさい中身)が入ってとても雰囲気があったのだが、別稿では「神はわがやぐら」の変奏を強化する対応になっていた・・・と思う(ハワード聞き直さないとなぁ)。ただ、あの狂気合唱が魅力だと思っている。第1稿では合唱を遮って「神はわがやぐら」が入ってくるのだが、これが幅広いアルペッジョで一掃され、再び合唱に戻るという原曲ラストの射殺シーンを思い出させる流れ。

オペラの方も20世紀にも再演されてきたが、特定歌手たちのための舞台に過ぎなかったけど、今や再評価の時だということが熱っぽく語られている。特定歌手って多分サザーランド

3.スペイン詩曲 S.254(1867年出版

 気分転換。後期の出版になるが、実はこの曲のおおもとはスペイン公演時の印象を書き留めた45年の「スペイン旋律に基づく演奏会用第幻想曲」にある(ハワード全集に当然ある)。今のスペイン詩曲の形になってのはヴァイマール時代らしいので、超絶や巡礼同様、前期に作られ、中期に改訂されて充実した曲の一つだ。

 前半ではフォリア、後半ではアラゴンのホタという舞曲から成る。どちらも華々しい技巧で彩られ、最初から最後まで魅力的で見せ場が多い。

 名盤としては、エフゲニー・キーシンの録音(RCA)があるだろう。彼もすっかりトシだが、これは子どもの頃のもの。恐るべき完成度。日本公演の映像があるが、すごい演奏https://www.youtube.com/watch?v=Lb6EzTpGv3s)。

 スティーヴン・ハフの録音(Virgin)も非常に良い(kyushima氏のサイトで◎だった上、入手性が良くて最初に聞いたので、完全に嵌まってしまっている。ただフォリアが盛り上がるところで、楽譜にあるシではなくドの音を弾いているのはなぜ?)。ぶっ飛んだ路線としては、ポリーナ・レスチェンコ(https://www.youtube.com/watch?v=3EB0f-ra9Eg)。

4. ギョーム・テル序曲 S.552(1842年出版

 世に名高いロッシーニ最後オペラの序曲である。どう考えてもおうまさんのテーマ

 このオペラが出たのは1829年以降ロッシーニは完全に引退状態になるのだが、亡くなるのは1868年引退には政治情勢が大きく影響している。ロッシーニの滑稽な作風は、明らかに復古的なウィーン体制下の小市民の楽しみに合致したもの。それでも、このオペラは再び騒乱の時代が訪れることを予感させる緊迫した作品(題材自体が既にそうだ)だったが、これが最後になった。

 中々演奏がない(ハワードはもちろん、NAXOS全集ゲキチ)。デュシャーブルのCDEMI)が良いと思う。割とセカセカ弾くタイプピアニストだと思うけど、後半はそれがすごい追い込みに繋がってる。ただ、まだまだこの曲のポテンシャルはあるんじゃないかと。フィリペツ(ry

 コメント返信の時に出した、以前コンクールライブたまたま見た映像が凄かった(https://www.youtube.com/watch?v=GRYLy8O3VIQ)。

 中国ピアニスト牛牛のCDはまだ聞いていない(MVhttps://www.youtube.com/watch?v=ed9nRoFyDIw)。彼は小学生の頃から有名で、ピアノの森(二期)でパン・ウェイの「中の人」(あるいは「手」?)を務めた人。

5.ベートーヴェン交響曲 S.464(1865年出版

 文字通りベートーヴェン交響曲編曲(本編での落選から復活)。出版は後期にあたるが、「幻想交響曲」の編曲同様、ピアニスト時代から既に手がけており、部分的には出版されていた。リストベートーヴェン布教にかなり熱心に取り組んだピアニストだが、これがドイツナショナリズムの高揚を抜きにしては考えにくいことは既に述べた。

 以前に医師夏井睦氏が運営していた超絶技巧ピアノ編曲ホームページに3・5番だけだがすごく詳しい解説が載っていて、当時からピアノ好きだった人は見ていたんじゃないか、と老人会発言Web Archive/https://web.archive.org/web/20090104102239fw_/http://www.ne.jp/asahi/piano/natsui/Beethoven.htm)。ところでブコメバッハリストのBWV543を挙げている人がいたけど、あれは原曲の良さに甘えているだけの手抜き編曲だと夏井氏はバッサリ斬っていたなと思い出しておっかねえなあ・・・と。

 カツァリス(Teldec)とコンスタンティンシェルバコフ(NAXOS全集)の全曲録音が有名(その後も全曲でなければちょくちょく録音例は見る)。やはりフィリペツ(ry

 部分録音だと、kyushima氏はグールドの6番をかなり評価していた気がする(私はよく聞かないのでわからない)。牛牛のギョーム・テルが入ってるCDにも5番がある(未視聴)。以前ロルティが5番を弾く映像YouTubeにあったと思うけど、削除された? それとも記憶いか

6.シューベルト編曲もの(超大雑把な紹介になっててすいません)

 リストシューベルト歌曲の多くを編曲している。「セレナーデ」も「ます」も「エレンの歌 第3番(アヴェ・マリア)」もあり、至れり尽くせり。リスト生前「魔王」(S.558/4)の編曲者として一番知られていたらしい(ゲレリヒの訳書32頁。自虐的セリフとして出てくる)。ハワードライナーには、フィッシャー=ディースカウが、変なのと思われてるけどリスト編曲してくれたおかげでシューベルト歌曲今日まで生き残ってきたんですよと発言したというコメント引用されているが、出典が分からない。ご存じでしたら教えてください。

 ウィーン夜会も絢爛豪華。特に6番が有名。本編での落選を残念がっている人がいた。

 個人的にはキーシンリスト録音集に入っている演奏が好き。他の演奏をあまりいたことがない。フィリペツ(NAXOS全集)が新録を出したようなので聞いてみるつもり(コンソレーション初版とセットだとか)。

7.半音階的大ギャロップ S.219(1838年出版

 前期作品。この手の超絶技巧を見せびらかすための精神性のかけらもない曲は当時のはやり。でもとっても楽しい曲で大好きであるシフラ演奏が有名だが(Hungaroton/映像ありhttps://www.youtube.com/watch?v=tmq5JBpFf9w)、今聞くならフィリペツ(NAXOS全集)が良いと思っている。余裕綽々で本当に惚れ惚れする。

 以上である。いやいやなんでシューベルトこんなひとまとめなのとか、忘れられたワルツとか愛の夢はまた落選かとかリゴレットとかまだオペラものあるだろとかショパン歌曲とか「献呈」とか色々納得はいかないところもあるだろう。でも一旦ここで締める。どうもお付き合いありがとうございました。

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2024-12-02

ごちゃまぜという意味の「ちゃんぽん」と料理の「チャンポン」は関係があるのか?

以下、ごちゃまぜという意味言葉は「ちゃんぽん」、料理のほうは「チャンポン」と表記する。

まず辞書では、

ちゃん‐ぽん[名・形動]《「攙和」の中国からか》

1 2種類以上のものをまぜこぜにすること。また、そのさま。「日本酒ウイスキーちゃんぽんに飲む」「話がちゃんぽんになる」

2 肉・野菜などをいため、小麦粉に唐灰汁を加えて作った中華風の麺と一緒にスープで煮た長崎名物料理

ちゃんぽん(チャンポン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

たいていは先に書かれるほうが古い用法なので、ごちゃまぜの「ちゃんぽん」のほうが先にあったということだろう。

しかWikipediaで「ちゃんぽん」を調べると、いくつかの語源説が出てくる。

なかでも「攙烹」説「吃飯」説「喰飯」説などは、明らかに料理が前提にあるので、「チャンポン」が先でないとおかしいように感じる。

ざっと検索たかぎり、「どちらが先にあったか」を明言しているところがほとんどなかったので、ちょっと調べてみた。

結論から言ってしまうと、「ちゃんぽん」のほうが先である

ちゃんぽん」は江戸時代からあった言葉で、三好一光『江戸事典』や、

ちゃんぽん 交互、又は両天秤にかけるをいう。

非人一「そんならお志は附けたり」非人三「女の詮議半分」中間「両方掛ければ、これがちゃんぽん」(南北、独道中五十三駅)

前田勇『江戸語大辞典』にも掲載されている。

ちゃんぽん ①彼と此と入り混じること。まぜこぜ。ごちゃまぜ。文政五年・花街鑑 下「芸者の滑稽、チリツンテン、ちやんぽんの大さはぎ」②交互。かわるがわる。文政九年・契情肝粒志二上「何時でも下馬一枚を棒組とちやんぽんで」


この「ちゃんぽん」の語源説は主に二つある。

ただ、前者は「鉦」が中国楽器、「鼓」が日本楽器から、という説明がくっつくことがある。

また後者は、中国人を「ちゃんちゃん坊主」などと言ったのは「鉦の音」に由来するというので、この2説は薄っすらとつながっていることになる。

一方、料理の「チャンポン」が生まれたのは明治30年代だとされる。

長崎明治32年創業した「四海樓」という中華料理店の「陳平順」という人が中国留学生向けに作ったというのが定説である

ちゃんぽんルーツ福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽんである

今日では缶詰冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海でとれる海産物蒲鉾竹輪イカ、うちかき(小ガキ)、小エビもやしキャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなった。

ちゃんぽんの由来 | 中華料理 四海樓

ただ、これもなかなか難しいところで、「支那うどん」と呼ばれる同種の料理は他にもあったらしい。

四海樓でも当初は「支那うどん」という料理名で出されていて「チャンポン」とは呼ばれていなかったという。

以下、チャンポン支那うどんに関する、明治から大正にかけての記述を並べてみる。

明治40年『長崎紀要』では「チヤポン」が紹介されている。

「チヤポン」(書生の好物)

今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚雞肉葱を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり

チャンポン」ではなく「チャポン」になっているのは誤字なのかわからないが、後述の「吃飯」説の傍証としてよく引き合いに出される。

明治41年『中學文壇』では「支那うどんチャンポン」であり、長崎固有の料理だと言っている。

支那ウドン 長崎只一の固有の名物長崎では「ちやんぽん」と言つて居る


明治41年『ホトトギス』でも同じく「支那うどんチャンポン」。やはり「チャポン」は誤字だったのではないか…?

長崎名物 一、チヤンポン 支那うどん、俗にチヤンポンと云ふ、東京だッてこんなうまいものはめッたにありやしない


大正3年『長崎一覧』には「支那饂飩元祖三角亭だ」と書かれている。

支那うどんも亦長崎名物の一つである 名の如く支那より伝つたうどんである 日本人の初めて製造せし人は大波止三角亭の上田百十郎氏である。氏は初め今の九州日の出新聞の所で飲食店を営んで居た、支那うどんを創めたのは明治三十二年であつて、創めた当時はあまり歓迎せられなかつた

大波止三角亭は大正年間に「支那うどん元祖大波止三角亭」という広告をあちこちに出していたようだ。創業年の明治32年四海樓と同じ。

大正7年『漫画巡礼記』の著者は「近藤浩一路」という人で静岡育ち東京住まいらしいが「支那うどんについては皆さんご存知だろう」という書きぶりである

長崎名物のうちにチヤンポンといふがある。チヤンポンとは支那うどん異名と聞いたら何だつまらないといふかもしれぬがこれが仲々莫迦に出来ない代物であるエビ豚、牛肉蒲鉾ねぎ其他種々のものがチヤンポンに煮込んであるから其名が起つたのであらう、先祖支那うどんと銘うった家が長崎市中到る処に見られるが、これが皆なチヤンポンだから驚く

また四海亭(四海樓のことか)の紹介もある。

しかし其中でも支那町の突当りにある四海亭が最も代表的なチヤンポンを食はせるといふので我等はK君の案内で此四海亭に始めてチヤンポンなるものにお目通りしたのである。見た所は他の支那うどんと大差はあるまいが、何せい材料料理法が違ふ。


ちなみにWikipediaには「明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎丸山で、支那饂飩ちゃんぽんの名で売り出していたともいう」と書かれているが、これは昭和13年長崎談叢』がソースらしい。

チャンポン濫觴明治の初年我が長崎本吉某が丸山にて支那饂飩チャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポン支那饂飩固有名詞となり了りぬ。


総合して、

といったあたりが気になる。

さて、料理の「チャンポン」の主だった語源説をまとめる。

いずれも確証はなく「発音が似ているか関係があるかもしれない」程度の話に尾鰭がついただけのようだ。

吃飯」説だけは、四海樓が主張しているという点において説得力があるが、それにしたって確証はなさそうである

以上。

ちゃんぽん」と「チャンポン」に関係があるかどうか、については結論が出なかったが、普通に関係がない可能性もあるということがわかったので、とりあえず良かった。

Wikipedia説明がまさにそうだが、「ちゃんぽん」の語源説と「チャンポン」の語源説がごちゃまぜになっている、つまりちゃんぽんになりがちなので、そこだけは気をつけたいところである

Permalink |記事への反応(3) | 23:05

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