
はてなキーワード:山田太一とは
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか?普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしまう自分がいる。
そりゃもう、アン・ルイスの「六本木心中」でしょ。おぎのめちゃん以前にアン・ルイス姐さんだよ。
大学の広告研究会がパー券売って、六本木のディスコでやるパーティーで一番盛り上がる曲。
頭数がそろわないときに、タダでいいから来てよって、パー券が回ってきてたから、よく知ってる。
そういうのと、ブルーハーツやナゴムレコード、トランスギャルなどが同時代ね。全くの異世界。
あたしは後者側で、友達の彼氏(KOか何かの広研の人)のつながりで
六本木のパーティーに頭数として動員されてた。というかタダ酒飲みに行ってた。
尾崎豊もチャゲアスなんかも同時代。あたしはどっちもろくに聞いたことない。ダサくって。
「若者の気分」として広く共有されてたのは、あとはサザンの「いとしのエリー」かな。
それまでふぞろいの林檎たちや岸辺のアルバムくらいしか知らなかった山田太一だが、
昨年、NHKで再放送されていた「男たちの旅路I~III」を初めてみて、山田太一の世界は奥深いと、認識を改めたのを覚えている。
ある種、衝撃を受けた。
「男たちの旅路I~III」は戦中派のイメージが強い鶴田浩二を山田太一が説得して、鶴田の初テレビドラマ出演となったいわくつきのドラマだった。
このドラマのすごさは、戦中派の鶴田あるいは特攻世代の鶴田の、ある種、ブレない、英霊に操を立てる保守の固まりみたいな偶像を粉々に砕いたところだ。
戦中派保守というと、三島由紀夫や吉田満といった1920年代半ば生まれで、10代の思春期に国家への忠誠を純粋培養で叩き込まれた世代。
その世代のブレなさに憧れて、保守を自認しているのが、昨今のなんちゃって感の強い保守たちだ。どんなに差別的な発言をしても非を認めず一貫している、みたいなアレも含めてね。
特攻で死んでいった仲間に義理立てして結婚も恋愛もしないという役柄(鶴田)だったが、死の病に直面した部下の女性(桃井かおり)に愛を告白され、戸惑いながらも、一線を越えようとしない。山田が脚本のなかでやってのけたのは、そうした戦中派世代のこだわりを、戦前派の世代(ドラマのなかでは上司として登場する池辺良)がなんで抱いてやらんのだ、お前は分別のかたまりだ、と一蹴するところだ。
池辺良の役柄には、戦争中、終戦直後に上官の立場として、清濁を飲み込みながら必死で生き延びてきた池辺自身経験が反映されている。
また大正昭和初期にモダンなカルチャーを受容する過程を経て、いつしか日本社会全体が国家主義へ傾倒してゆく日本の変遷をまざまざとみてきた世代でもある。その世代から下の世代としてみる、特攻世代というのは、若者の思い込みの強さを強く感じ取っていたに違いない。人の考えも社会も時が経てば変わる、それを知っているのが戦前世代。それに対して、敗戦後に変貌した日本社会を目の当たりにした戦中派は、国を信じて死んでいった仲間を忘れることはできない。
そうした世代間のギャップが、鶴田を悩みに悩ませる演出によって見事に表現されているのが、男たちの旅路第3部最終回だ。
このドラマを通じて、鶴田浩二に興味を持った俺は、八千草薫と共演した【シャツの店】もぜひ見てみたいと思った。
また、保守というのが、靖国神社に強いこだわりをもつ戦中派の前の世代として、戦前派の保守というものが存在していたことにも思い至り、改めて福田恆存なども読んだりしてみた。昔の保守を知れば知るほど今の保守がばかばかしくなった。
山田太一のものの考え方でいえば、第二部で描いた「シルバーシート」は圧巻だった。老人が都電車庫に立てこもり反乱を起こす。あえて社会に迷惑をかける意図的な行動に出た。
有形無形に、社会に迷惑をかけるな、と社会から言われ続ける老人の気持ちのやるせなさをここまで訴えかけるドラマはない。
誰しも、迷惑をかけずに老後を過ごせるなんて、誰にもわからない。認知症になるかもしれないし、長い闘病や介護で社会に負担をかけるかもしれない。
立てこもる老人たちを説得する役を演じた鶴田浩二に対して、笠智衆がいう。あんたには若いからわからないのだ、老人になったときはじめてわかるときがくる、と。
大人の分別という鶴田の説得が通用しなかったという、ここでも出てくる鶴田の敗北の演出もさることながら、老いて初めて分かる、というリアルなセリフが心に残った。
高倉健と大原麗子という因縁の二人(参考:居酒屋兆治)を軸に、やっぱり山田は高倉健の偶像を破壊するような脚本を書いている。
リゾート法によって急速に全国で展開されたテーマパーク開発はバブル経済の華だった。
炭鉱の閉山で疲弊する地域経済の起爆剤としてテーマパークを呼び込む北海道の炭鉱の町。
しかしバブル崩壊に伴い、計画が構想され、着工寸前まで来たものの撤退を迫られることになったのが90年代初頭の社会像だった。
町の期待をよそに、寡黙なキャラの高倉が現場担当として町にやってきたことから、開発会社の本社からは撤退の後始末を、という隠れた命題を高倉に任せたのではといぶかる町。そんななかでも、慣れないサービス業に苦心し、町を盛り上げようと市長を応援する高倉健の姿は、居酒屋兆治で演じた姿とはやはり違う。
阿部寛は、若い頃に、建設現場社員というチョイ役で出演したこのドラマから多くのことを学んだ、とどこかで言っていた気がする。
「ふぞろいの林檎たち」もすごいドラマだった。大学生役の中井貴一が初めての風俗でテコキで抜いてもらった挙句に、風俗嬢にこんな仕事やめなよと説教するシーン。リアルにおっぱい出しているのも80年代らしい。こういう演出はもう昨今のドラマではありえないだろう。
長くなった。
ともあれ、大きな存在が亡くなった。
ここ5年くらい、脚本を書いておらず、闘病を続けていたと聞く。
合掌。
なんだかんだいって結婚して子供育てて一人前、とかいう増田にどうしても引っかかった。
こういう差別ってここ40年くらいでかなり薄れてきた印象だったから。何を今さらというか。
40年前は確かにこういうのは、炎上すらしないほど当たり前の感覚だった。
自分がリアルタイムで思い起こせるのは80年代くらいまでだが、
病弱で子供を望めない長男の嫁を姑がイジメて追い出そうとするシーンが初回から最終回まで延々と続くんだよね。
一人前になれない嫁としかみられない姑。いたたまれなくなって家出する嫁。
必死に彼女の居場所を探して連れ戻した長男が、たまりかねて実の母親に言い放ったのは
この鬼姑を演じたのは数年前にお亡くなりになった佐々木すみ江だが、
最近、BSで「ひまわり」に松嶋菜々子のお祖母ちゃん役ででているので懐かしく思い出す。
結婚して子供育てて一人前、というのも視点を変えると、ただの視野狭窄だ。
だって、それをいうなら、バングラデシュで9歳だか10歳でいわゆる少女婚をさせられて
彼女たちが知っているのは「世の中そういうものだ、という地獄」で、その彼女たちの「人権が蹂躙されている」と知っているのはNGOだ。
そして私は、「少女婚の地獄から逃れるのを支援するために、縫製など手に職を付けさせ、経済的に自立させようとしているNGO」を知っている。
NGOは職業訓練を通じて「一人前」にしようとしているんだよ。一人前の価値観が違う。
こういうのは一例で、人生の9割以上は、自分の知らない世界の人々によって支えられているし、自分を取り巻く社会経済は、
見知らぬ人の努力、苦労そして犠牲によって成り立っているかもしれない。
でも、普通は、そういうことを知らなくても半人前だとはいわない。
また、明治から昭和を生きたおしんの世代が知っている母親のロールモデルは、現在とはかけ離れたものだし、それを今の世代が知らないからといって
一人前じゃない、とは誰もいわないだろう。
母だとか嫁だとか、ロールモデルにはまっているかどうかを無自覚に基準にしてしまうのは、
そういうイデオロギー的な主体構成の営みが、良きにつけ悪しきにつけ、婚姻文化を持続的たらしめている証左ではあるけれども
個人的には、ネット空間でいえば例えば、アメブロ的な空間が、あるべき家族像、母親像を再生産して、繰り返し繰り返し啓蒙する場になっていると感じている。
だから視野狭窄に陥らないためにも教養って必要なんだし、それに気づかせるためにも、社会には多様性が必要なんじゃないかね。ネット空間も含めて。
"少年時代 - Remastered 2018" from "ハンサムボーイ (Remastered 2018)" /井上陽水
https://open.spotify.com/track/66YLc8VbZSm4FH9uauxlrs
#スポチハイ
昨日、高級食パンを買いに、富山県は新潟にほど近い、入善町に行ってきた。焼き上がりのあいだまで近くの図書館で藤子不二雄Aの少年時代を読んでいた。
これは、柏原兵三氏の「長い道」という小説を原作としたマンガ。週刊少年マガジンで連載していました。
東京在住の少年が富山県入善町に疎開してて、そこでの地元民の少年との友情物語。
と、書くと、美しそうだけど内容はとってもエグい悪ガキの派閥争いです。
地元が舞台のマンガとはいえ、現地民のガキが本当にクソで醜くてエグい野蛮なやつらばかりなんだよね。
で、これが映画化されて主題歌が泣く子も別の意味で泣く井上陽水の同名曲ですね。
ここから本題ですが。
かように、映画化や原作を凌駕する主題歌でプレイリストを作ってみたいのですがなんかありませんかね?
(正直映画はみていませんが脚本は山田太一さんで監督は篠田正浩さんで名作だそうですが、現時点では明らかに知名度は歌のほうですよね)
映画 「少年時代」 予告編 -YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=01gKRpKLIOg
監督の北野武氏がスネて以降目立つ曲を書くなと注文をいれるようになったそうで。
"Summer" from "菊次郎の夏 (オリジナル・サウンドトラック)" /久石譲
https://open.spotify.com/track/23HUlzt20YuALl5Q2gWsKu
#スポチハイ
(sukekyo)
おっさんのオタク(40代〜50代くらい)ってやたらマナーとか良い生き方みたいなのにうるさくて、ちょっとでも漏れたやつには非常に排他的で高圧だなーって思ってたんだけど、別に年齢も性別も属性も関係なくそういう人が多数はなんだなって思いました まる 日本酒まる 飲んで飲まれて 飲み込まれて 悪魔シールを貼られたら天使シールを貼り替えそう そうして堕天した天使は 打点の高いスライス気味のボールを撃ち 太一はないてしまい 山田太一の栄光が始まってしまう ヘラクレスの栄光は終わる アキレス腱を切られたりして しょうがないのでボロ布をまとい ベイブレードバーストZアキレスが唸りを上げる 失敗に終わったシャンゼリオンのために 俺は戦う 人生と 日本にできた大麻特区を守るため ウィンザー卿に弟子入り 即破門 波紋で即ハメたまごっち 人間が出来ていないとよく言われるのだが、それは小学校2年生並のメンタルしか持ってないからで、銀河特急に乗ることを強要されたトラウマが卒業アルバムの中にまっきーで刻印されてさ それから俺はエビチリじゃなくてフグチリになったんだって。
日本のドラマで行くと、ドキュメンタリーは制作会社の色が強いけど
ドラマは制作会社じゃなくて、プロデューサー、監督、演出、脚本のほうが影響強いかな。
たとえば、よく言われるのはフジの「踊る大捜査線」のチームだよね。
P亀山千広さんの、脚本が君塚良一さん、演出は本広克行さんあたりの名前は聞いたことあるんでは。
演出が福澤克雄さん、Pの飯田和孝さんあたりが有名なのかな…。
同じチームで「流星ワゴン」、「下町ロケット」とかやってるよね。
フジだと、演出の宮本理江子さんが有名で、この人お父さんが山田太一なんだよね。
山田太一知ってるかな?
昔のドラマ全盛時代の有名な脚本家で、鬼のように名作作ってる。
この宮本さんがほんとすごくて、「101回目のプロポーズ」「ビーチボーイズ」とか手掛けてる人。
このチームが本当にすごいんだよね。おもしろいんだ。
年配世代に人気なのは「風のガーデン」っていって、北海道でロケ地巡りツアーとかあったりする。
テレビもやっぱりチームがあって、マニア的には「このチームがやるなら見る!」ってなるよね。
書き忘れたけど、日テレの遊川さんのチーム(家政婦のミタ)も有名だよね。
完全に固定メンバーじゃなくて、作品に合わせてちょっとずつメンツが入れ替わる。
ちなみに韓国ドラマは主流が脚本家で、脚本家によって見る見ないを決めてる人が多い。
好きじゃない人から見ればどれも同じなんだろうけど、脚本家によって全然面白さが違う。
ホン姉妹の「僕の彼女は九尾狐」「美男<イケメン>ですね」だとか、
意味を見出せない閉塞感が、自殺をはじめとした様々な問題の原因となっています。かつて、脚本家の山田太一さんと対談した際、彼は「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」といっていました。もはや自分の力だけでは閉塞感から脱することができない、という無意識の表れでしょう。実際には意味について考え続けること自体が大切な作業なのです。フランクルの言葉を借りれば、人生が常に私たちにそれを問うているのです。
この本が出たのが2003年。著者はこんな天変地異が現実に起きるとは思っていなかった。この文章を読むときに彼は『「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」といっていました。』に注目してしてしまうと、文章から汲み取るべき本意を誤ってしまう。
「実際には意味について考え続けること自体が大切な作業なのです。」に注目しないと、この著者がいいたかったことから離れてしまう。
誰かが、この文章の中の『「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」といっていました。』を引用して「つぶやく」というインターネットの使い方をしたら、どうだろう。
古本屋さんの105円コーナーに山積みになっている本を買って確かめることもせずに文章の一部分だけが一人歩きしていく。
最近の朝はテレビが点いていても起きる気にならない。朝の連続テレビ小説がやっているからだ。
「瞳」までは何とか起きられた(あれは後半の方が面白い。里子云々よりダンサー一直線で描いていたら良かった。)が、「だんだん」になってからはダメだ。
歌手になった途端に我が侭しか言わなくなった双子、ひたすら自分の価値観を押し付けるプロデューサー、他理不尽過ぎる人々。
彼らの理想過ぎる理想と、現実離れし過ぎた現実の展開を見ると具合が悪くなる。
もはやエゴ、エゴだよそれは。作り手の、現実を破ってでも理想を押し続ける邪悪さを垣間見たような気がした。
明日は録画した山田太一のドラマでも見よう。言いたくはないが、やっぱり昔のドラマはファンタジーであっても、エゴじゃないから良かった。
欲望じゃないよ、希望を見せてくれよう。