
はてなキーワード:尊大とは
修辞学的言説と科学的言説はまったく違う。
アジテーションなどの修辞学的言説に対して、科学的な立場から批判しても噛み合わないのは当然で、
そもそも立っている地平が違うのだ。
ある政治的立場での正しさの絶対性を前提として、他人にその正しさを受け入れさせるのが修辞学的言説であり、
その言説は全方位からの反証に対して開かれている必要はない。単に「政敵」(あるいは仮想敵)が行いそうな反論を潰せる準備があればよい。
感情的であることはマイナスどころかプラスですらあり、修辞的装飾的で内容に乏しくてもそれが効果的であれば意味があり、論理的整合性などにさほど価値はない。
(閑話)
驚くべきことに、日本において評論家とされる人達は、どちらかというと「修辞学的言説」を得意とし、そのことで評価されていたりする。吉本隆明、柄谷行人、浅田彰、東浩紀…、感傷的な文章と、都合のいいチェリーピッキング引用、そして類稀なキャッチコピー能力だけで“批評”を行ってきた人々。
(閑話休題)
念のため言っておくが、これは修辞学的言説に対して、科学的言説のほうが優れている、という主張ではない。
それぞれは噛み合わないし、活躍するべき場所が違う、という話だ。
フェミニズムというのは科学的学問ではなく、政治的(修辞学的)学問であり、そこで客観的妥当性が軽視されるのはある意味仕方がないことなのだ。
上野千鶴子が草津町長に謝罪したのも、謝罪という形を取ることが、最も効果的に彼女の主張を敷衍させやすいと判断したからであり、今後彼女が客観的なデータなどに基づいてのみ発言するという“変節”ではないだろう。
アジテーションを客観的妥当性から批判しても意味はないし、アジテーターに科学的態度を求めることは尊大な間違いである。
そのことにやっと気づけた。
元ヒーロー戦隊のレッドはアル中で日雇い生活。ある日グリーンが死んだことを知り、俺たちも死ねるんだと他の戦隊メンバーへの贖罪(殺害)する旅に出るって話なんだけどさぁ!
監督本人が「ウォッチメンが好きでそういう映画日本にはないよね~ってところから始まった」的なこと言ってるから、そこをつついてもしょうがないんだけど、ぶっちゃけ感想としては何年遅れのウォッチメンやってんだよって感じ。イカ怪人出てきたところで逆に笑っちゃったわ。
しかもウォッチメンの後にはザ・ボーイズもやってるわけだしさ。
はいはい、ヒーローとして持ち上げられてる奴らの中にも人間性が未熟な奴らもそりゃいるよね。っていつの話しとるんや。
アメリカ作品と違って見るべき点があるとすれば、日本のヒーローってめっちゃ若い20そこそこの若造がなることが多いけど、じゃあそいつらが訓練を受けてるとしたら幼少期~少年期だよね。少年期のガキなんて尊大で傲慢だろうし、性欲猿だろうし思春期だろうし感情のコントロールもできないよね。
そんな奴らがヒーローパワー持ってるの怖くない?っていう日本特有の(まぁアメコミとかでもスパイディとかは若いけど)ヒーロー事情を汲んだ脚本になってること。まぁ怪人と戦ってる時に仲間同士で揉めて仲間(ブルー)に大けがを負わせて、ピンクをレイプするってそんなわけないやろ強引すぎんかって感じだけど。
結局「精神性が未熟なヒーローって怖くない?」「ヒーローのその後が落ちぶれてたら面白くない?」っていう、ウォッチメンの何番煎じorヒーローオタクが何億回妄想した同人誌だよって感じの作品で、これを今更映像化する意味って何なんだろうなって感じだった。
バズりそうなところを見事に狙っていく戦略的なところ(それでそこそこ反響も取れる)ところが好きやない
まあ2つめは完全に嫉妬やね
でも好きにはならへんわなんか人柄がいやや
なんでやろ
上品じゃないというか
謙虚さがないのかな?
あんたがいくら正しいのか知らんけど発言のどれもこれもが攻撃的というか
嫌か尖り方やねんな
料理は食やから、食を味方につけると強いよねそりゃその食の強さがあんたを尊大にさせてるんとちゃうか
揺らぐことのない地位、その力を誇示するかのように
キッツイ言葉を言い放ってな
そういうのがいややねんなあ
ま、こんな愚痴グチャグチャ言うたら私も私やけど
あーなんかわかったわ
人に嫌われてでも言いたいこと言う!
人に嫌われてもええ!って開き直って
すごいあけすけに言う、
そのあけすけ感がいやなんや
その人自身の本心、本当の姿、何も取り繕わないニュートラルな姿やと思うんよ
そのニュートラルが汚いのよ
そうではない!
そうや、これはリュウジに限った話ではない
ホンネすなわち悪罵 のような
その「キモアニメ」に相当するようなものは確かに今もあるが、それを見ていてこそ「オタク」のような時代ではなくなった。
そういうものだけ好んで見る人間は今やオタクの中でもかなりマイナーだ。
今の時代のオタクというのは、普通にメジャーなアニメを見るし、それ以上にSNSで流行ってるスマホゲームとかもやる。
どちらかというと乳揺れする系のものはゲームの方に多いが、男女両方をターゲットにしたゲームでも下品すぎない程度の多少の揺れ描写はアニメーション的なケレン味表現としてある。
それは当たり前にありふれた光景で、その類のフェティッシュ表現を目ざとくみつけてキャッキャと騒ぐことはあるが、今のオタクにとってそれは主眼ではない。それ以上に、エモい、メロいものをオタクは評価する。
今の時代のオタク像というのは、猥雑な表現を好む根暗バンダナ吃音パーソンではない。
ロボットものをメカ機構だけに注目して人間ドラマに唾を飛ばす人間や
電車のことだけ詳しくて一般常識的なマナーを知ろうとしない人間を軽蔑するのと同じような感覚で
ねっちょりと貪欲にエロのためにアニメを物色するキモオタクのような人物像の実在性を脳裏に焼き付けて都合のよいサンドバッグにしているのだろう。
それは自分の中で嫌悪感を増幅させていき、ついには現実と乖離した事実認識に至る、劇毒的思考回路だ。思い込みたいように現実を切り取る癖がついてしまう。
尊大な自己顕示欲を持つがゆえに、自分が属さない界隈の一部の醜悪な人間を見て、さも全体がそうかのように語りたい悪意に心が呑まれてしまっている。
ここ数回の『ブラタモリ』は江戸時代に盛んだった“大山参り”の道のりをたどるという企画で、都内から大山街道を巡り、昨日はいよいよ最終目的地、大山阿夫利神社を目指すという回だった。
江戸時代の浮世絵もみながら、いかに“大山参り”が盛り上がっていたか、なんて話もしながら、大山ケーブルに乗車。
途中、日本のケーブルカーでは唯一という“離合ポイント”(ケーブルの両端で繋がってる2台の車両が丁度すれ違うところ)に駅があるという“大山寺駅”で一旦降車。
車両のすれ違う様子をみたり、急斜面にある駅のベンチにすわってみたりして、そのまますぐまたケーブルカーで移動して、大山阿夫利神社の下社に参拝。
さらに登った山頂にある本社にはさすがにタモリを歩かせるわけにもいかず、スタッフと中継でつないでいた。
さて、なにがスルーされたのか。
タモリ一行が神社に参拝するシーンで、唐突に隅の方にテロップがでた。
日本の歴史ある寺社の多くがそうなのだが、大山というのも江戸時代までは神仏習合の山岳信仰の対象で、大山参りというのも、今でいう“神社にお参りする”という感覚とは少し違った。
現在、大山阿夫利神社の下社がある位置には、「石尊大権現・大山寺」があり、不動明王も祀られていたのである。
大山参りとは、仏教とも結びついた“権現さまとお不動さまへのお参り”だったのである。
だが、そんなことは全く触れないので、なんだか今も昔も神社へのお参りをしてたような印象になっていた。
明治の廃仏毀釈で、大山阿夫利神社と大山寺は完全に分離された。
“幕末の大火と廃仏毀釈により廃寺の危機に陥ります。神道による祭政一致の王政復古を目指す明治新政府にとっては、江戸幕府が保護した仏教寺院は旧体制の象徴にほかなりません”
”廃仏毀釈により数多くの寺宝が失われ、堂塔が破壊される中、ご本尊の鐵不動明王だけは地元住民の篤い信仰に守られ、山外退去を免れて現在地に本堂が再建の後、遷座しました”
と記されている。
タモリが途中下車した“大山寺駅”は、この寺の最寄り駅だったのだが、寺には寄らず。
江戸時代に賑わった大山も、神道を中心にした“祭政一致”を目指した明治政府のせいで、なかなかに激動の一時期があったはずなのだが、そのことはテロップ一行でスルーされたのである。
断片的な記憶だが、以前、高尾山にいったときには、神仏習合の名残が色濃く残る様子をみながら、“ここは廃仏毀釈を免れたんだねえ”なんて話をしてたように思う。
だからタモリも廃仏毀釈とか、そのへんの知識がないわけ無いし、番組としてそのへんの話を絶対にさけるとかいうことではないのだと思うが、ま、今回は案内役が大山阿夫利神社の権禰宜の方だったので、“実は、昔はここは神道の神社じゃなくて不動明王さまが祀ってあったんですよ”なんて話はするわけないか。
明治維新は、日本の伝統をいろいろ破壊したけっこう過激な運動だったはずなのだが、どうもそのへんはあんまり知られてないように思う。
せっかく大山いったんなら、そのへんももう少し突っ込んだ番組にしてほしかったけど、ま、紀行バラエティにそこまで求めるのは無理か。
やはり阿夫利神社の権禰宜の方に出ていただく手前、大山寺の不動明王と、阿夫利神社と、両方お参りするとかは無理?
ところで、さっきwikipediaを見たら、大山阿夫利神社、戦後、神社本庁の傘下(宗教法人法でいうところの被包括宗教団体)にはならず、単立でやってきたのが、今は神社本庁の下にあるという記述があった。
どういう経緯があったのだろう?
そこそこ参拝客いそうだし、単立でもやっていけそうだけど。
Permalink |記事への反応(19) | 15:33
グレアムは2008年のエッセイ「反論の方法」において「反論のヒエラルキー」を提唱した[13]。議論を7つのヒエラルキーに分類することで、読者は不誠実な議論を見抜きやすくなり、雄弁な話し手であるデマゴーグが単に強い言葉で相手を打ち負かしている印象を与えていることを見破る助けになると述べた。
このヒエラルキーに従えば、知的に見える悪口(例えば「筆者は尊大なディレッタントである」)は、粗野な侮辱と変わらないとグレアムは付記した。
グレアムはまた、「もし反論のヒエラルキーの上位に移ることで人が意地悪でなくなるなら、彼らの多くがより幸せになるだろう」と語った。
この分類に従えば、対人論法の「相手の属性や権威を攻撃し、主張の中身を論じない」という下から2番目のヒエラルキーかな、あるいは最も下の「罵倒」
なんとなーく
ジークアクス嫌う人の傾向が有る気がしてて
たぶん最後までエスコートしてくれる作品が好きなんだろうなぁと
もう好みの問題と言う他ないでしょうね—安藤正臣 (@miozin35)July 3, 2025
Switch2が当たらないから、当たったら買う予定のゲーム版シャインポストの予習として、ユーチューブの公式チャンネル(https://www.youtube.com/@SHINEPOST)で期間限定公開をされているTVアニメ版シャインポストの感想を書いていく。
3,4話の玉城の話に続いて、今度は TiNgS の残りの一人、ピッカピカに「光る」聖舞の憑き物落としの話。しかし……マネージャーくん京極堂ばりに憑き物落としするじゃん。あと、ツンデレさん(祇園寺)自分たちはライバルだって言ってるくせに、なんやかんやめっちゃ世話焼くやん。
TiNgS に案件が来たので、聖舞以外は一日店長、そして聖舞は先輩アイドルと一緒にテレビロケに出演して野菜採集。ナスやピーマンをもぎりもぎり。おっかなびっくりナスのヘタを園芸用のハサミで切ろうとしているのを見て、なにか隠喩があるのかと思ったけど特に何もなさそう。筆者から言えるのは一つだけ。新鮮なナスはヘタに鋭い棘があるから気をつけるんやで。
今回判明した聖舞の秘めた心とは、大方の視聴者が予想していたように他の二人に迷惑を掛けられないというもの。わざと尊大に振る舞っているが、彼女は人一倍周りに迷惑をかけることを気にしていたのである。ダンスが苦手だけど周囲に教えを乞うたら時間をとらせてしまって迷惑なので、誰にも相談せずに自分で独学して上達しようとする。うーん……まさに出来の悪い非効率なことしかしない新人くんや新入生くんのあるあるパターンだ。まあ、彼女の年齢を考えたらしかたがないか。
このエピソードで一番印象的だったのが、マネージャーくんの胡散臭さ。玉城の時は失意の彼女に長所がどこかはっきりと指摘して、説得力のある口説き方をしていたのに対して、聖舞の時は「なんにもないやつがアイドルになれるわけないだろ」とまさに因果関係を逆転させた詭弁のロジックを用いて説得していた。そしてその後のセリフも聖舞には何か絶対にいいところがあるから一緒に探しに行こうって言っているだけだしなあ。……これマネージャーが鏡で自分自身を見たら光ってね?
とは言うものの実際に聖舞に付いてくるファンもいるわけだし、色んな意味で目の離せない魅力的な子であることは確かだ(↓の実力を披露する前はファンからもポンコツ扱いされてたっぽいけど)。ならばやる気を出させるためにエンカレッジメントが必要となるわけか。
(推しから超絶ファンサをもらって幸せな顔で気絶中の TiNgSファンを眺め中……)
理王さまついに強がりを「光る」ことなく言い切った! そして花開く才能。まさかボーカリスト適正○だったとはね……。心の中でライオンズって呼んでてごめんね。
しかしライブシーンの表情とか手の動きとか細かくてすごいなー。全然アニメとか見ないから知らなかったけど、最近のアニメは細部にめちゃくちゃこだわって作っているんだな。
卑屈なのに 謎に自己評価が高すぎる人の扱いに困ってる
会話がまるで通じない
捨て台詞を言って逃げ出してTwitterでもネガティブなことをいうのに
とたんに尊大に振る舞い始めるやつ
これでこの人が私を恨んでて嫌がらせをしてるなら理解できるからまだ許せるんだが違うから困る。
なぜか私のことを助けて支援して、正しい道に導いてやってるつもりらしい。
何度も拒絶してるんだけれど
怒られたらすぐしょぼんとなるくせに何回拒絶しても拒絶されたことはすぐ忘れる。
しばらくしたら「私はあなたに必要な人間」と言ってすり寄ってくる。
ここから先は踏み入らないでと何度伝えてもすぐ忘れる。
こっちが注意したことは何一つ聞いてなくて
あんた一人がいるせいで、あんたの対処がしんどすぎて活動したくなくなる。
この軟体生物みたいな生き物だれか引き取ってくれ
この人がひとりいるだけで、今のアカウント全部捨てて0からやり直したくなってくる。
でもやり直してもつきまとってくるんだろうな。
反応してる増田にもはてブにも尊大型ASD多すぎて迷惑なので、似たようなことを言ったことがあったり相手に共感するなら診断してほしいわ。
「これは普通の範囲」とか言ってるけど本当に普通なら営業・デザイナーとは円滑円満にやり取りが出来てるのにエンジニア連中とだけ険悪になってる状況がおかしい。
エンジニア連中が自分のコミュニケーション能力が著しく低いのを普通って言い張ってるだけ。
チクチクするために言ってるから刺さったなら狙い通りとか言ってるのもただ幼稚。いい歳して中二。
自分がそれ以上にやり返されないのは主張が正しいからではなく、同じ知能を持つ人間ではない人型の虫みたいに思われてるからだと早く気付いたほうが良い。
社会の抑圧に抗い、既存の秩序に反発し、ルールを破ることで「自由」を叫んだ。
エルヴィス・プレスリーが腰を振れば、それは性的な解放のメッセージになり、ジョン・レノンが「Imagine」を歌えば、世界平和の象徴となった。
ロックスターは常に”支配者”に向けて中指を立てる存在であり、だからこそカウンターカルチャーの旗手として崇められた。
フェミニズムもまた、既存の価値観に対するカウンターであり、社会構造に挑戦し、女性の自由を求めてきた運動である。
それならばロックスターと同じく、フェミニストも社会の英雄になってしかるべきだったのではないか。
だが、実際にはそうならなかった。
ロックスターはカリスマとして崇められ、一方のフェミニストは”面倒くさい人”、”怒りっぽい人”、”被害者意識の塊”と揶揄されることも多い。
なぜ、このような違いが生じたのか?
なぜフェミニズムはロックのようにカウンターカルチャーとして熱狂的に支持されることがなかったのか?
ロックスターの反骨精神は、端的に言えば「Fuck you!」の精神である。
むしろ、「俺は俺の好きなように生きる、お前もそうすればいいじゃないか」と突き放す。
ロックは自由の音楽であり、全ての人に向けられたメッセージだった。
「性差別をなくせ」
「ミソジニーをやめろ」と訴える。
だが、残念ながら”要求する”という行為そのものが、しばしば”鬱陶しい”と受け取られてしまう。
カウンターカルチャーとして機能するためには、「俺たちの好きにやらせろ」というノリのほうが支持されやすい。
しかし、フェミニズムは「社会を変えろ」という主張を含むため、「他人の行動を制限するもの」として捉えられやすい。
この構造の違いが、ロックスターのようなカリスマ性を獲得できなかった一因である。
つまり、明確な「敵」がいたのだ。これは共感を生みやすい。人は、共通の敵がいると団結する。
性差別は国家や特定の組織の問題ではなく、社会のあらゆる場に根付いている。
つまり男性だけでなく、女性自身もその価値観の一部になっている場合がある。
敵が明確でない戦いは、支持を得にくい。
たとえば、パンクロッカーが「腐敗した政府をぶっ潰せ!」と叫べば、それは分かりやすく、共感を呼びやすい。
しかし、フェミニズムの主張は「社会のあり方を根本から変えなければならない」という構造的な批判になるため、「今の社会に適応している人々」からの抵抗が生まれてしまっているのだ。
”楽しさ”か”道徳”か
音楽を聴いて、踊って、叫んで、解放される。それがロックの魅力だ。
しかしフェミニズムの議論は基本的に「道徳的」な話になりがちである。
「これは間違っている」
「これを正さなければならない」
等といった倫理的な話になりやすく、どうしても説教くさいと思われてしまう。
人々は”楽しさ”には簡単に乗れるが、”道徳”にはなかなか従おうとしない。
環境問題がそうであるように、「正しいことをしよう」と言われると、人は逆に抵抗したくなる。
フェミニズムが求めているのは社会の進歩であり、それは間違いなく正しいのだが、”楽しい”という要素が欠けていたために、カウンターカルチャーになりにくかったのではないかと考えらえる。
カリスマの不在
エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノン、カート・コバーン、パティ・スミス……彼らは「個」でありながら、「運動」の象徴になった。彼らが歌うだけで、何かが変わるように思えた。
一方、フェミニズムは組織的な運動として発展し、多くの優れた論者や活動家を生み出してきたが、ロックスター的なカリスマには乏しかった。
個人の魅力で人々を熱狂させる存在が少なかったため、ムーブメントとしての盛り上がりに欠けた。
カリスマ的なアイコンの不在は、フェミニストを宗教的な尊大さを抱かせるための教示としての、大きな魅力の欠損へとつながったと言えるだろう。