
はてなキーワード:専門学校とは
弟は「良い奴」だ。明朗快活で行動によどみが無く、それゆえ友好関係も広い。物怖じしない性格で、自分の望みを果たすためには投資をためらわない。中高で入っていたバスケットボール部ではキャプテンを務め、体育祭では応援団長の役目を買って出ていた。なんというか、いわゆるクラスの一軍である。
弟は専門学校を出たのちに、水産系の企業に就職した。船に乗って遠洋に出ていたこともあった。いまは別業界に転職しているが、話を聞く限りどうやら職場の人間関係は良好で、金払いも良かったようだ。僕は大学院生なので、弟に高い食事を奢られたことがある。
僕は弟のことが嫌いではない。それどころか、むしろ応援している。弟は、僕にできないことができる。まごうことなく「人間」をしている。僕は忙しそうにしている店員さんに遠慮なく自分の要望を伝えることができないし、友達を家にたくさん呼んで、楽しくお酒を飲んだり笑い話をするなんてこともできない。はっきりと言うが、なにかこの状況に不足があるとするならば、それは僕にあると思う。どちらかといえば僕がひとでなしなのだ。自己の土台があやふやで弱く、諸般の「実際」に関わる能力に劣っているのだ。
ところで僕は幼少のころ、弟にいじめられていた。兄にも関わらず。年子なので年齢差は小さかったし、弟の方が身体が大きく、力も強かった。下賤な言い方をすると、「オス」として優秀だった。
食卓で、弟の好きなものを先に食べたら、肩を箸で刺されたことがある。僕は、そこで泣いたりしたら負けたことを認めてしまうと思って、余裕を見せるアピールのつもりでへらへら笑っていたが、実際ものすごく痛かった。傷跡は25になった今でもはっきり残っている。ゴキブリ用の殺虫スプレーを顔面に散布されて、顔の筋肉が麻痺痙攣したこともある。母親が外出中でのことだったが、当時、母には打ち明けられなかった。中学生になっても弟が怖かった。共用のWiiUを占有されていた。弟が塾通いで不在の時にだけ、ひそひそ隠れてゲームをしていた。暴力や、人格の否定が怖かった。自分の弱さを突き付けられるのが怖かった。僕は勉強机に「死にたい」と書いた。希死念慮というほど固まった願望ではなく、本当に死にたかったわけではない。ただ、自分の弱さと、居場所の無さに情けなく、それら問題を誰かにどうにかしてもらいたかった。母にそれは見つかり、「命は大切にするもの」と叱られて終わった。ささやかでみじめな抵抗だった。
弟から結婚の報せを受けたその瞬間のこと、僕には目立った感情の動きがなかった。驚きがなかった。ただ、「まあ、だよな」との納得があった。嬉しさもなかった。「まあ、これは弟の話で、人生で、兄の自分のことではないからな」と、頭に自分と弟とを分別して考える壁が生えていた。置いていかれる悲しさもなかった。「まあ、自分が結婚できないのは当然だし、他人から愛を感じたこともないし、そういうものだろうな」と受け入れた。
僕は後付けで感動した。感動しておくことにした。こういうとき、兄ならば結婚を祝福するのが普通だろうと思って、「おめでとう」と言い、表面上喜んだ。
僕はひどく自己嫌悪した。僕はなんという砂漠で、渇いていて、不気味なんだろうと思った。弟の結婚ひとつも、心根から喜べないのか? どこまでも人間のロールプレイで、周りの真似事で、そして愛を受け取れないのか? 弟にいじめられていたからだろうか? もし弟に昔のことを誠心誠意謝られたら、僕の中に情動は沸き起こってくるのだろうか? こんなことを考えていては、慶事に対する何かしらの冒涜ではないだろうか?
これは嫉妬ではなかった。弟は僕にとって、嫉妬を抱く対象ではない。ステージが違いすぎる。比べても仕方が無い。だからこそ、余計に自分が目立つ。このステージにはもはや自分しかいなかった。横に並ぶものはほかにいなかった。
被害者意識にまみれた、この醜い自分をどうにかしたい。癒えない傷ばかり抱えてうじうじとしている自分を殺したい。もしかしてこれが希死念慮か? 僕は何年か越しに、また「死にたい」と書くことになるのか?
こんど両家の顔合わせがある。どんな面下げて僕は行けばいいのだろうか。少しでもマシな気分になれることを祈る。
俺とある医療系の専門学校に行ってたけど、生徒に下駄履かせて無能を進級させまくってたら現場(実習先)からクレーム来まくって厳しくなってたで。女子枠もそういう道を辿るやろ。
ダイバーシティとかインクルージョンとかまじでクソ喰らえだから。
最初で最後の定型発達と関われる場所だし!とダウン症や知的障害、発達障害の子を保育園に預けようとしないで欲しい。物凄く迷惑。
まず他害がエグい。ノーモーションで他児に噛みついたり髪を引っ張ったりする。水筒の蓋を開けた瞬間隣の子に殴りかかるみたいな。ただただ健常児の子供たちは我慢するだけ。
日々の活動の意味が理解出来ないし、周囲を見て模倣する事も出来ないから基本的にふらふら1人離れて活動の邪魔をしにくるので定型発達の子どもたちはあいつは何なんだ・自分はダメであいつは許されるのはどういう事なんだと不満が溜まる。
自由遊びなんか最悪で各々楽しく遊んでる最中におもちゃを盗ったり組み立てたおもちゃを壊したり。1.2歳児だから当然悲しくなって泣いたり怒ったりするんだけどその反応が楽しくて障害児はやってしまう。関わり方を知らないから。
勿論健常児の親には被害は言わない。まだうまく話せない1.2歳児の子たちは自分で親に説明も出来ず定型発達の子たちからはヘイトがひたすら溜まる。世の中の仕組みを理解しはじめた様な1.2歳児が障害者を理解するなんて到底無理な話。障害児がいるクラスといないクラスでは明らかに子どもの落ち着き方が違う。
障害児を見る為の加配の保育士が障害児1人に対して1人配置されるが焼け石に水。そもそも定型発達ですら圧倒的に人が足りない。兄弟や地域の子ども同士関わりのあった昔の子ならいざ知らず、子ども同士の関わりが極端に少ない一人っ子のイヤイヤ期の子ども6人を1人で見れる訳がない。そんな中に6人分以上に手のかかる子どもが入ってきて加配1人と言われても無理。
そもそも障害児専門の保育士ではないから障害児にとっても定型児にとっても利点はない。保育士にスキルはない。死なない様にする為の増員。園によっては定型児から距離をとって一歩でも近づこうとしたら拘束してる所もある。精神科の拘束具みたいなもんかな。
奇声をあげて気に入らなければ暴れてとコミュニケーションが一切取れないので保育者から可愛がって貰えずスルーされたり無視される子もいる。加害の時だけ腕を引っ張って怒鳴られるのでそれがコミュニケーションだと思って加害行動を繰り返す障害児も居る。
障害児教育に対しての専門職が1人もおらず、効果的な関わりも一切無くただただ時間ばかりが過ぎていくだけで障害児の子どもにとって一切の利点がない。正直、保育園に入れる親はそこを理解して無い気がする。
保育士は国家資格ではあるものの専門学校に金さえ払えば簡単に取れる資格だから他の専門職に比べて能力に疑問のある人が結構多い。よくニュースになってるけど極端な例ではなくてバレてないだけで割とそこそこ居る。
人格面だけでなく常用漢字が書けなかったり簡単な暗算が難しい、親とのコミュニケーションが難しかったり境界〜軽度知的だろと言いたくなる様な奴も結構いる。まともな人は辞めていくので蠱毒化してる感もある。
ごく稀によくこれだけまともな人間だけを集めたな?と言いたくなる様な園もあるが障害者には厳しい園ばかり。どちらにせよ障害者にとって良い環境ではないのは明白。
要は障害児にとっても定型発達にとっても育ちの機会を保証されていない最悪の環境なんだよ。全部がめちゃくちゃになる。
じゃあ障害者の親はどうすればいいんですか?!働くなとでも言うの??とヒスった声が聞こえてきそうなんだがそう言うわけでもない。保育園に来ないで欲しいだけで。
地域的な格差はあるものの、障害児の保育園として児童発達支援センターが機能している場所もある。障害児は絶対にこっちに入った方がいい。
PTやSTみたいな専門職が発達の具合を確認して一人ひとりの課題に応じた療育が受けられて伸びが全然違う。保育士の配置も子ども5人に保育士3人とかめちゃくちゃ手厚い。保育園じゃ着替えも1人でろくに出来ず暴れてるだけの子と同じ障害・知能指数でも1人で着替えて歯磨きもして椅子に座れる様になる。(最初は保育園の子と同じ様なもんだが)
問題はそう言った児童発達支援センターがめちゃくちゃ少ない。地域によっては0だったりする。
生産性がない・コストがかかる・無駄と切り捨てられてる結果、障害児・定型発達児共に発達の機会を奪われてんだよな。
・専門性の高い児童発達支援センターを増やし、障害児を保育園に入れさせない
・資格を筆記と面接の更新制にしてやばい奴を弾く仕組みに変える
・障害児対応ができる保育士を専門職を新たに国家資格を創設。(PT・ST・心理士の基本的知識を有する保育士)
みたいな事やってくんねぇかな。
昔は専業主婦が子育て→幼稚園コースで情緒の安定した子どもが多かったが今は共働き10時間預けコースが常態化してるから定型発達・障害児ともに疲労がピークなんだよな。少しでも子どもの負担を減らさないと将来まともに大人になる奴が居なくなる可能性が高い。
はてなブックマークですが、週末に見ることがあります。投稿させてください。
私は今、専門学校に通っています。高校生の頃から、近所のスーパーでアルバイトを続けています。
そのスーパーに気になっている男性がいます。いつも仕事帰りの夜に来る作業服の人です。けっこう年上だと思います。
初めて会ったのは高校生の頃です。その人はいつも優しくて、人懐っこい笑顔で話しかけてくれました。
髪型を少し変えただけでも、「雰囲気変わったね、似合ってる」と気が付いてくれます。そのたびに、胸が高鳴るのを感じていました。本気でした。
ある日、スーパーに買い物に来た私の高校の友人とお喋りしてると、彼がすぐ傍を通ったんです。その時に友人が「あの人、うちのお店によく来るよ」って。
それで、友人の子は彼に声をかけたんです。かなり親しげでした。
その時、「この2人は仲がいいんだな」「付き合ってるのかも」と悟り、想いは叶わないと諦めました。高校を卒業して専門学校に入ってからは、彼への気持ちに蓋をして、新しい環境での恋愛に進みました。今、私には同い年の優しい彼氏がいます。付き合ってもう2年になります。
作業服の人は今でもスーパーに来店します。そして、変わらず私に話しかけてくれるんです。「もうすぐ卒業だっけ?」とか。
彼氏ができて、もう過去の恋だと思っていたのに、胸の奥がきゅっと締め付けられます。
この気持ちは、どうしてなのでしょうか。今の彼氏との関係に問題があるのでしょうか?彼氏を裏切っているようで罪悪感があります。
私はこのまま。今の彼氏と付き合い続けてもいいのでしょうか?
頭が迷いでいっぱいで、答えが出せません。どなたでもいいです。目を覚まさせてください。
いわゆるJTCで管理職になったばかりだ。広告会社(代理店)で働いている。一応は業界大手。
大阪に北区というのがあって、繁華街なので当然飲み屋がある。たまに仕事帰りに居酒屋(レストラン)に寄ったり、会社仲間と飲んだりする。
その中で、大卒採用というものについて考えさせられることがあった。
私がよく行く夜の飲食店だが、居酒屋系である。いわゆる高卒とか、専門学校卒とか、そういう店員が多くいる。
例えば、パリピな感じはしつつも傾聴力がしっかりしてる男の子とか、過去に介護の仕事をしてた子で、どんなお客さんともニコニコ笑顔で接する女性とか、まだ若くて高校生なのだが、未完成ながらもハキハキとした接客でソツがない動きをするとか、面白い子が世の中にはたくさんいる。
彼ら彼女らを見ていると、うちの会社に入ってくる新卒の子と比べてしまう。
大体みんないい子である。一流大卒だし、人と仲良くしようという気があるし、恋人がいるようだし、ほうれんそうもちゃんとできる。しかし。
面白さというか、自分だけの尖がった感じがないのである。岡本太郎の書籍でいうと「自分の中に毒がない」若者たちである。
一度、うちの会社の上司数人とその居酒屋さんに行って、そこまで大きいカウンターではないのだが、座って歓談をしていた。歓談をしてるうちに、上に挙げたような若い子たちとトークになった。
みんな、すごく話が面白いし、こちらの話もしっかり聞いてくれる。頭の回転が早いし、打てば響くというコミュニケーションである。同じ北区にあるクラブ嬢と同等の接客力だった。
上司達も、「飲んで飲んで!」と彼ら店員にドリンクを奢っていた(※店員さんに500円などの飲み物を出せるサービス。スパチャみたいなもの)。
これでまだ20代とか、未成年だと言うのだから世の中は広い。私が彼ら彼女らほどの年齢だと、全然そういう力はなかった。いわゆる盆暗学生で、それなりの大学には入学できたけれども、基本は遊んでばかりの毎日だ。年を経るごとに頭が悪くなっていく自分を恨めしく思っていた。
その日、楽しく話をしている最中だった。背後の方で、テーブル席で団体客の人らが大きい声を出していた。何か注文のトラブルがあったようだ。
カウンター席に座ったまま後ろを振り返ると、男性3~4人客に、女性店員1人だった。話の感じからすると、飲み放題の適用時間に齟齬があった様子だ。(お客は90分のメニューだと思っていた?)
記憶の限りでは、こういう会話だった。
「飲み放題ラストオーダーってなんなん?60分で終わりって聞いてないで」
「これは、ここですね……」
「え、これなん?」
「こんなんわからんやん!」
「大変失礼いたしました」
「なあ、当てがはずれたやんけ!!」
「わかりにくい表示でした。店長と話して追加料金で変更ができるかを……」
「わかりにくいやんけ!」
※さっきの客。北区にはこういう輩がいる
「なー、お前。失礼やろ。もう黙れ」
※隣の連れがさっきの客を制して
「ねえねえ。ところでおねーさん。年いくつ?」
「15才です」
「えー、そうなんや!15才か。それは……若い方やん。なあ?」
「うん。世間一般の労働者の中じゃ……お姉さん、比較的に若い方やで。間違いない」
※ここで全員が笑い出した
その後、差額分の負担で飲み放題を30分延長できたという会話があって、15才の子は男性客らにオレンジジュースを奢ってもらっていた。最初とは打って変わって、和やかな雰囲気になっていた。
はてな民の方々も思うところがあったと思うが、一般的な会社がほしい人材というのは、上のような子である。人当たりが悪くなくて、不潔さがない外見で、言葉遣いが常識的で、態度や行動も常識的である。社会的に正しい答えを導き出して動ける。
うちの会社もそうである。そういう子がほしい。別に高卒でも専門卒でも何でもいいから、さっきのような子だったら是非採用したい。一緒に働きたいと思った。彼女だけじゃなく、ほかの若いスタッフだってそうだ。
あの子達は……全員が非大卒である。高校中退とか専門学校卒。しかしながら、うちの広告代理店に新卒で入った子達の平均を(コミュニケーション能力において)凌駕しているのは間違いない事実だ。
さっきの15才の子も、あの年で居酒屋アルバイトというからして、何か家庭に事情があるのかもしれない。
ただ、個人的にこういう経験をしてしまうと、世の中学歴ではない、そんなものは単なる一目安でしかない。そんな上っ面で人を判断してはならないのだと思い知らされる。
とりとめのない経験談ですまない。けど、もう40を過ぎた一増田ユーザーとしては、確かにこんなことを感じている。
かつて公立高校の教師をしていた。何年も前に辞めて、今は別の教育業に従事している。その頃の思い出が脳裏によぎることが最近よくある。どこかで書いたら心の整理がつくのではと思った。
なお、この日記は身バレ防止のために、ChatGPTにお願いして文体を変えている。鼻に付く文章があれば申し訳ない。
これから書くのは、最後に赴任した高等学校でのことだ。実は普通の高校ではない。訳アリの子が通うための高校だった。
いわゆる、事情がある子というのがいて、全日制の高校に進学するとか、通い続けるのが難しい。そういう子が通うための学校である。仮にポジティブ学園としよう。
3部制を採用していて、午前・日中・夕方以降の3つの中から、自分にとって都合のいい時間帯を選んで履修できる。早い子だと、普通の高校生のように3年で卒業する。
制服か私服か、自由に選ぶことができる。アルバイトができるし、メイクもピアスも全て大丈夫。髪染めもOKで、ピンクや青髪で学校に通う子もいる。
ここに来る前、私は全日制の高校にいた。地元では人気のあるところだった。毎年冬にある推薦入試の倍率は20倍を超える。そういう学校である。人口だと約40万人が在住する地域だったが、その中でもトップに近いところだった。
真面目な生徒たちに囲まれてたと思う。彼らは偏差値の話もしていたけど、それ以外にも部活動とか友達との交流とか、文化祭・体育祭など、とにかく人としての「生きる力」というか。そういうのに溢れていた。
当時の私は、まだ30代のヒラ教師だった。それが高校生のあるべき姿だと思っていた。学業が一番で、余った時間で部活動その他の自己を高める活動に取り組むのだ。
だが、ポジティブ学園に赴任して、現実を思い知らされた。自分がこれまでに教えてきた生徒らは、いわゆる上澄みというやつだった。毎日学校に通学して、学業や部活動や趣味に打ち込むことができる時点で、高校生としては相当できる方である。
今でも思い出す。ポジティブ学園に通う生徒らは……教室の隅でうつむく子や、理由をつけては学校を休む子。授業など聞く気すらない子、授業中に堂々を飲み食いする子。なんというか、彼らには当時の県教委が教育の柱としていた理念のひとつ、「生きる力の醸成」が通用しなかった。
そうした生徒たちに、私は何もしてやれなかった。何をしたらいいのか分からなかった。ただ毎日、教科書に従って授業を進めるだけ。彼らに対して指示や指導をすることはあったけど、そもそも内容を理解できてるかも怪しい。
一応、入学試験はあるのだが、実質的に全員合格させるスタイルだった。普通の高校に行けない子――そういう子のための最後の受け皿としての役割を、ポジティブ学園は担っていた。
最初に話したとおり、ここは「訳アリの子」が通う学校である。不登校経験者とか、昼間は家業を手伝う子とか、家計を支えるために夜働いている子。様々な事情を抱えて、全日制のレールから外れることになった生徒たちが、自分のペースで学び直す場所だ。
赴任の初日、当時の校長は私に言った。「ここは、生徒たちが『それでも学びたい、高校生をしたい』と選んでくれた場所です。先生の役目は、彼らの気持ちを全力で応援することです」ってさ。
さっきと矛盾するようだが、生徒たちはひたむきだった。普通の高校生と一緒で、やる気のある子はいるし、そうでない子もいる。昼間の授業中、うるさい教室の中でも真剣にノートをとる生徒とか。放課後になると、「じゃあ働いてくる~」といった感じでアルバイト先に向かう子もいた(ほぼ金髪の子だった)。
夜間部の教室だと、疲れ切った顔で教科書と向き合う生徒もいた。全日制の「普通」とは違うけれど、彼らには彼らの「普通」があった。
赴任してから次の年度、就職指導を担当することになった。人生初経験である。私は民間企業で被服の営業の仕事をしていた。泥臭い仕事を約十年やっていたということで、白羽の矢が立ったのだと思われる。
これまでの学校では就職する子や、専門学校に行く子は稀だった。仮にいたとして、実際なんの指導も必要なかった。受け入れ先の企業も「なんでこの学校の子が……」といった顔パスに近い扱いだった。
履歴書の書き方一つとってもそうだ。社会人でいうところの空白期間。不登校だったとか、全日制の高校を中途退学したとか、中学卒業してからフリーターだったとか、あるいは何もしてなかったとか。
そういう経歴を書く場面になると、彼ら彼女らは詰まってしまう。無理もない。これまで何度も、そのことで心を痛めてきたのだから。
私は履歴書を読み直す度に、「君の経験は無駄じゃない。乗り越えた証拠なんだ。学校、来てるじゃないか!」と声をかけた。最初は疑いの眼差しだった生徒たちも、次第に心を開いてくれるようになった。心を開いてくれない子もいたけど、それは致し方ないのだ。
私は教師だから、「いつかは通じるはず。別に今じゃなくても、数年後だっていい」と思って就職指導をした。
秋のある日。就職関係のイベントがあった。「○○圏域 企業と学校の交流会」みたいな名称だった。これは、企業と学校(大学、専門学校、高等学校、専修学校その他もろもろ)のそれぞれの担当者が各ブースで話し合いの場をもつというものだ。
企業からは採用担当者が、学校からは就職支援の担当者が出席する。参加団体は企業だけでも100社を超えていた。学校からは、その地域の学校という学校はほぼすべて出席していた。
ここに、私と校長の2人で出かけた。目的は、企業の方々にポジティブ学園を知ってもらうこと。うちの学校にはただでさえ偏見が多い。少しでも解きほぐす必要がある。
たくさんの企業ブースが立ち並ぶ中、それこそ時間が許す中、多くの企業ブースに足を運んだ。校長自らが話をしていた。約十分ごとに挨拶から始まって、学園の概要説明、どういう子がいるかや、これまでの就職実績など。
そして、いつも最後に、「わが校には、難しい状況にある子が通っています。それは事実です。そういう状況でも、彼らは自分の道を切り開く努力をしています。面接の際に見かけましたら、どうぞよろしくお願いします」と相手先企業に伝えるのだ。
企業の反応は……まあ、社交辞令みたいな感じだった。「わかりましたよ、でもうちの会社の採用対象かどうかはねぇ」という表情だった。
そういう反応になるのも無理はない。ポジティブ学園は、県道沿いの大きな平地にある。昔は地域の伝統校が鎮座していた。少子化で別の学校と合併になり、校舎が空いたところに県教委がポジティブ学園を創設した。
例えば、毎朝の登下校時、いや昼以降の登下校時でもそうなのだが……校舎前の県道には、ダボっとした私服で、髪を染色していて、ひと昔前の不良漫画(今時でいうと薫る花は凛と咲く)の雰囲気を漂わせた未成年が闊歩している。初めてその光景を見る人からすると、「そういう高校なんだ……」という感想になる。
だから、企業担当者がうちの学校に対してそういう態度になるのは、ある種の必然だと思っていた。偏見を持たれてもしょうがないって、当時30代半ばだった自分は感じ取っていた。
そうでない企業もあった。社交辞令とかじゃなくて、真剣にこちらの話を聞いてくれる。というか、むしろ聞きたいという恰好で話に臨んでくれる。
半導体装置を作っている会社がそうだった。その時も、校長は満面の笑みで相手方の採用担当者に熱心に話をしていた。
「○○さんは、福山を代表するハイテク企業でいらっしゃる。我が校にも理系の才能を持つ生徒がたくさんいるんです。どうか、偏見なく見てやってください」
そしたら採用担当者は、少し戸惑った表情になって、「私達を馬鹿にしないでください。もちろんですよ(^^)」と答えてくれた。
それから数年か後のこと。ポジティブ学園の進路実績だが、創立当初からずっと変化はなかった。大学進学者だと地元にある限りなくボーダーフリーに近いところか、地元の専門学校、地元の民間企業だった。そもそも、ここまでたどり着ける子自体が少ない。入学した子のうち1/3以上は中途退学してしまう。
その年のことはよく覚えている。3年生に1人の生徒がいた。名前は仮にケンタとする。プログラミングが好きな子だった。授業中も休み時間も、ずっとPCの画面とにらめっこしていた。授業中にも堂々と副業的なことをしていたが、単位は取っているので見逃していた。
ケンタは、数学や情報処理の成績が抜群だった。数学の問題でも、いつの間にか自分で勝手にアレンジして、勝手に問題を解くようなプログラムを組んだこともあった。
それを友人に共有しようとしたが、難しい様子だった。能力・興味的な部分もあるし、自分だけのノートPCを持ってる子が少ないのもある。
ケンタは中学校の時は不登校だったらしい。原因は、特定の誰かからいじめられたわけではなく、「教室という空間がなんか違うと思った」からだと言う。
大人だったら「息苦しい」ということになるのだろうか。全日制の高校には行きたくないと、自らこの学校を選んだ。
私は、彼の才能を埋もれさせてはいけないと思った。彼とは幾度となく話をしたけれども、ただ生きにくい性格であるだけで、才能はあるのだ。
私は就職戦線が始まる直前にケンタを呼んだ。「この会社を受けてみないか?」と誘ってみた。さっき上の方で話した半導体装置の会社である。半導体以外にも、ディスプレイや機械制御装置も手がけていた。
ケンタは驚いたような、呆れたような様子だった。「知らない会社ですけど、半導体には興味ありますけど、無理だと思います」と言ってた。
「お前はできる。この会社は理系の才能を求めてるし、才能を正当に評価してくれる」
と言うしかなかった。実際、私の出身地域では評判の高い企業だったし、2025年現在では全国的に知名度のある企業にまで成長している。
強引に進めるしかないと思った。何しろ、ケンタは卒業後の進路を決めてなかった。とりあえず先延ばしにしている印象だった。
そこで、ケンタをどうにか説得して、彼の履歴書を添削して、推薦状も書いた。履歴書には、不登校だった過去も、ポジティブ学園を選んだ理由も正直に書かせた。彼のプログラミングに対する情熱を備考欄にこれでもかというほど書き連ねるようにした。
面接練習のとき、ケンタは口ごもることが多かった。相手の目を見て話すことが苦手だった。コミュニケーションが苦手なタイプ。正直、公式な場での会話が難しい子だと思う。
けれど、たどたどしい感じになっても、自分の思いはちゃんと伝えてくる子だった。
「大丈夫だ。プログラミングの話になったら、お前はきっと大丈夫」
※AtCoderで最高位に近い色だった
私はそう言って、彼を送り出した。自分には確信があった。あの会社は、肩書きや学校名じゃなくて、実力で人を判断する会社だと。あのイベントの時、うちの校長の言葉に耳を傾けてくれたんだって。
約一か月後、職場に電話がかかってきた。あの会社の採用担当者からだった。胸がざわついた。
以下、話の内容である。言葉の感じも、当時の手帳を元に大体そのままにしてある。
「あの、ケンタ君の件で、社内で検討を重ねた結果、今回は採用を見送らせていただくことになりました」
「なぜですか?」
「プログラミングのスキルは、正直高いです。うちの主任技術者も高く評価しました。ただ……」
※この時私は、苛々とともにペンをカチカチしていた
「ただ、入社後のサポート体制を考えた際にですね。彼が当社の環境に馴染むことができるか、という点に懸念が残りました。不登校経験があるということも、正直に申しまして、入社後のメンタル面のリスクを拭い切れませんでした」
「それは、偏見ではないのですか?」
言ってしまった!と心の中で後悔した。先方の声が少しだけ硬くなった。
「そう言われても仕方ないかもしれません。しかし、会社の事情があります。我々もギリギリまで議論を重ねました。安易な気持ちで彼を採用して、もし彼が再び辛い思いをすることがあれば、それはお互いに不幸です。今回は本当に申し訳ありません」
電話が切れた後は、多分……しばらくボーっとして、職員室の椅子に座ったままだった。
あの時はこう思った。やっぱり、ポジティブ学園の子はそうなんだ。どんなに才能があっても、過去のレッテルから逃れられない。あの日イベントで抱いた期待を裏切られた気がした。
だが、その後の日々で、冷静になって考えてみた。
採用担当者の言葉に嘘はなかった。彼らは、私が抱えていた不安を彼らなりの言葉で伝えてくれただけだ。
採用すれば良いというわけじゃない。無理に引き受けて、彼の心の傷をさらに深くしてしまうかもしれない。
そう考えたとき、彼らの不採用という決断は、ある意味、生徒のことを真剣に考えてくれた結果なんだと思った。
むしろ、偏見だと決めつけて、彼らに向き合わなかった私の方が……傲慢だった。
ケンタに不採用の知らせを伝えると、しばらく沈黙が続いたっけ。
「そうですよね~僕みたいなのが、あんな会社は無理ですよね」ってケンタが言うと、心にグサッときた。
「ごめん」としか言えなかった。生徒に謝る事態なんて、教師として三流以下だと思った。
ここまでがポジティブ学園での思い出である。それからケンタは、遠方にあるコンピューターの専門学校に進学した。私が様々な方向性を提案して、ケンタと話をした結果、彼が自ら考えて決断したのだ。
ケンタが高校を卒業して、何年もの月日が経った。最初のうちは、メールで年に何度か近況報告をもらうこともあった。プログラミングがやっぱり楽しくて、大会にも出場しているといったことだった。
やがて、やり取りをすることもなくなった。それは彼がナニカに集中するようになったからでは、と心の中で期待していた。やがて、ケンタのことを思い出すこともなくなった。
ある日、一通のメールが届いたのだ。ケンタから。内容は、就職先の内定のことだった。「報告があるのですが、○○(※あの半導体の会社)に内定をもらいました」という端的な文章だった。
「うわっ!」と、思わず声を上げてしまった。その端的な文章の下に、いろいろと書き連ねてあった。彼らしく、無駄が一切ない文面だった。
要約すると、専門学校で就職インターンシップに申し込む際、事前説明会があったとのこと。参加した時、人事の方に「ケンタ君だよね?ポジティブ学園の」と声をかけられたという。
「あの時の採用担当者の方が僕のことを覚えてました。『あの時よりも自信に満ち溢れている』って言われました。」
「専門学校で、僕はプログラミングのスキルだけじゃなくて、コミュニケーション能力も、人との関わり方も学びました。飲食店でアルバイトもしました。おかげで、あの時よりも、面接で自分の言葉でしっかり話すことができたんです。あの時、もし会社に受かっていたら、僕は挫折していたかもしれません。…(中略)…でも、先生が僕の可能性を信じてくれたから、僕を諦めなかったから、頑張ることができた。本当に、ありがとうございました」
キーボードを触りながら、返信しようと思いつつも、手が震えてうまくできなかった。
私はあの時、半導体の会社を偏見で判断した。ポジティブ学園の子だから、そういう目で見たんだろうって。そして、生徒の可能性を信じきれず、不採用という結果に囚われた。
でも、本当にケンタに向き合ってくれたのは、彼らの方だった。再認識させられた。成長したケンタを、あの人達は今度もまたちゃんと見て、採用という判断をしてくれた。それだけだ。
ここで結びにする。
あの学園にいた時は、生徒たちの「訳アリ」の部分に目がいってしまうことがあった。でも「訳アリ」なのは、過去の物語によって起きた結果にすぎない。彼らは皆、自分の人生を懸命に生きている。できる子がいたし、できない子もいたけど、未来に向かって進もうとしていた。
私はもう学校教諭ではない。けど、あの頃は就職指導の先生としてだけじゃなく、人として彼らの未来を信じて背中を押し続けたつもりだ。
自分は応援団のひとりに過ぎないと思っていた。でも、応援された生徒は、やがて自分で未来のことを考えて、切り開こうとチャレンジする。そういう人になってほしいと願っていた。
今は、別の形ではあるけど、若い人にものを教えている。学校と違って、純粋に実務上の知識や技術を教える仕事である。
これからも、誰かの未来を応援し続けようと思っている。それが、訳アリの子の就職指導をしてきた、自分にできる使命なんだと思ってる。
私は今、専門学校に通っています。高校生の頃から、近所のスーパーでアルバイトを続けています。
そのスーパーに気になっている男性がいます。いつも仕事帰りの夜に来る作業服の人です。けっこう年上だと思います。
初めて会ったのは高校生の頃です。その人はいつも優しくて、人懐っこい笑顔で話しかけてくれました。
髪型を少し変えただけでも、「雰囲気変わったね、似合ってる」と気が付いてくれます。そのたびに、胸が高鳴るのを感じていました。本気でした。
ある日、スーパーに買い物に来た私の高校の友人とお喋りしてると、彼がすぐ傍を通ったんです。その時に友人が「あの人、うちのお店によく来るよ」って。
それで、友人の子は彼に声をかけたんです。かなり親しげでした。
その時、「この2人は仲がいいんだな」「付き合ってるのかも」と悟り、想いは叶わないと諦めました。高校を卒業して専門学校に入ってからは、彼への気持ちに蓋をして、新しい環境での恋愛に進みました。今、私には同い年の優しい彼氏がいます。付き合ってもう2年になります。
作業服の人は今でもスーパーに来店します。そして、変わらず私に話しかけてくれるんです。「もうすぐ卒業だっけ?」とか。
彼氏ができて、もう過去の恋だと思っていたのに、胸の奥がきゅっと締め付けられます。
この気持ちは、どうしてなのでしょうか。今の彼氏との関係に問題があるのでしょうか?彼氏を裏切っているようで罪悪感があります。
私はこのまま。今の彼氏と付き合い続けてもいいのでしょうか?
頭が迷いでいっぱいで、答えが出せません。どなたでもいいです。目を覚まさせてください。
明日、振られに行く。
非モテ喪女の拗らせ実体験というものをまずは説明しないとならないだろう。
高校を卒業した後、専門学校の認可を受けていないアカデミー的なスクールに通ったが、
そこでも恋が実る事は無かった。
私には無縁だった。
転機が訪れたのは20代後半、当時流行っていたSNSで良いなと思った男性が居たので、
その後、おそらく10代の男女がやるようにテンプレ的に夜景が綺麗な観覧車か何かに乗った後、
嬉しかった。
30近くして、初めて”彼氏”というやつが出来た。
肥満体型なのは過食症が原因で、食べて吐く事しか死にたい気持ちを紛らわせる事ができず、
しかし吐くのはかなりのテクニックが必要で、上手く吐けなかった私はただ太って行くだけだった。
なぜこんな肥満体型の私と付き合ってくれる男がこの世に居るのか疑問を拭えきれなかった私は、自分から彼と離れる事にした。
それから数年後、30代中盤くらいだっただろうか。
相変わらず不細工で肥満体型だったが、転職先にすごく魅力的な男性がいた。
彼は技術力も発想力も凄くて、私が引っ張っていたプロジェクトで大貢献をしてくれた。
しかし、立場的な問題もあり、彼が別プロジェクトにアサインされるのを待ってから、彼をデートに誘った。
彼から私をデートに誘ってくれる事は無かったが、私は執拗に誘い続け、
両親の挨拶も済ませ、同棲するマンションも探し、約1年同棲した。
実はこの間約7年、彼は一度も私と性的な接触を持ってはくれなかった。
同棲する前は「同棲したらそういうことも頑張るよ」と言ってくれたので、
しかし同棲1年経過しても、彼は私の身体に一切触れようとはしてくれなかった。
身体的接触が無いのであればせめて二人の時間を作りたいとあれこれ模索し提案したが、
ある時、転機というものが身に降りかかって来た。
同じプロジェクトの男性(独身)を”パワハラとかセクハラで訴えて良いから今夜だけ飲みに付き合ってくれよ〜〜”的に冗談まみれで言ってみたら、
なんと彼は私との飲みに付き合ってくれた。
終電があるから解散しよう、でも私はもうちょっと飲みたい、的な事を言ったら、
彼もそれに応じてくれた。
二人で適当に渋谷の道端で缶チューハイを飲んだりしていたら、強烈に尿意に襲われたので、
しかしお手洗いを貸してくれる店舗なんてそう簡単には見つからない。
仕方ないので私は「部屋が空いていたら宿泊するのでお手洗いを貸してほしい」と嘆願し、見事お手洗いを手にするに至った。
その晩、何がどう寄与したのかは不明だが、私はその男性と性行為をした。
嬉しかった。
長年思いを寄せて来て婚約指輪まで買ってくれた男性ですら女として見ては来れなかった私という醜い脂肪の塊に、
性的な欲求を向けてくれるような希少な男性がこの世に存在してくれた事のレア度みたいなものに思いを馳せると、なんとも言えない感情に包まれた。
それからは同棲相手との生活を整理し、単身で手狭なマンションを借り、婚約も解消し指輪も返却した。
たった一晩だけでも私を女として扱ってくれた男性社員に全力投球したいと思った。
仕事くらいしかやることがない私にとっては、彼に高級レストランで食事をご馳走することだけを生き甲斐にやってきた。
2021年は日本橋のフレンチ、2022年は銀座の蟹、2023年は西麻布の有名フレンチ、2024年は新進創作メキシカンだった。
2025年の明日、これまた知る人ぞ知るみたいなフレンチを予約した。
だが、先週末、彼とは別れ話をした。
1人は私が生まれた時からずっと一緒に実家で暮らしてる祖父。(じぃじと呼びます)
じぃじは祖母と文通を通して遠距離交際を始めて、父親の専門学校の学費を払ってくれたり生活の面倒を結婚する前から見てくれていたらしい。
父が高校卒業して親元を離れるまで結婚を待ってくれたり、生まれた血の繋がりのない孫の私にとても良くしてくれた。頭が上がらない程に。
私にとって祖父は生まれた時から一緒のじぃじだけだと思っている。
祖母や幼い父にDVを繰り返し離婚されてから養育費も払わずに逃げた人だと祖母から聞いてる。
父が幼い時の離婚なので祖母からしか話を聞いたことはないのでどこまで本当なのかは分からないが、じぃじが生活を助けたのは事実だし祖母を疑う理由がないので事実だと思う。
父が何故そんな人と関わりを再開したのかは分からないが、酷いやつでも実の親だから交流したいという気持ちはまぁ分かる。
親に孝行するのは当たり前という感情が強いので、孫に会いたい話したいという祖父の願いを叶えて親孝行してやりたい!と思っている節がある。
実家を出る前に父に九州に連れられて、何年かぶりに祖父に会わされた。
何年も会ってない18になった女の孫を抱きしめて手を繋ぎたがった。
とても気持ち悪かった。
そもそも父はそんなスキンシップを小学校3年生以降したことは1度もない。
でも嫌がったり素っ気ない態度は父に怒られるので仕方なくよそ行きの笑顔で対応した。
帰りに卒業祝いだからと袋いっぱいのお菓子と10万円をくれた。
有難いとは思ったけど、今更そんなことするならちゃんと養育費払えよと思った。
何度もかかる不在着信に罪悪感があったからタイミングがあった時にだけ。
家にあるギターを送るから住所を教えろと言われて置き場所がないからとやんわり断った。
そして、彼氏と住んでるなら望まぬ妊娠をしないよう気をつけろと言われた。キモかった。
私は子供は欲しくない。
継母からの虐待と守ってくれない父に心を病んで毎晩自分そっくりの子供を殴りまくる悪夢を見るようになって子供を諦めた。
最後に家にゴキブリやネズミが出るが餌をあげて子供のように可愛がってる話をされ電話は終わった。
血縁の祖父ながら気持ち悪いやらなんやらの感情でいっぱいになり、何十回かの着信を無視している。
父から時々、
「祖父が電話に出ないと心配している。不審者に襲われたのかもしれないからスタンガンを送った方がいいかと言っている。親孝行だと思って電話に出てやれ」と言われる。
その度に、電話来てないけどな〜と誤魔化しているが限界は近いだろうなと思う。
自分の話したいことだけ話して、余計な説教をして私に話したいことないかも聞かない人の電話に出るのは正直キツイ。あと訛りで聞き取りづらい。
あと何回電話がないで通せるかな。
祖父の無責任な行動やDVは心の底から軽蔑するし、その結果私が産まれて、継母から虐待された。
18年我慢してようやく逃げたのに、まだ苦しいのに子供を産めとか親に感謝とか、あんなクズに説教されて言い返せないのが辛い。
無視する度に罪悪感がある。
ブロックするのもバレたら怖いしで躊躇ってる。
優柔不断で嫌になる。
早く楽になりたい。
「で?」って感じ。
大学や専門学校入学前のポートレートでこれ作ってきたら「おー面白いじゃん」ってなるけど、卒業制作がこれだったら「ん?君はこれで何を表現したいの?」としかならんレベル。
現代的町並みの中に「古典的な神社仏閣の類」と「最新の巨大な科学施設」が同居してることの面白さがコンパクトに描かれているけどそれは実際に街を歩いて写真を取れば小学生でも表現できるでしょ?
一昔前風のちょっとローポリゴン気味な3Dにノスタルジックを感じるのだって、そんなのシェンムー発売から25年(!?←時間の流れは恐ろしいね)経ってることを考えれば当たり前だよ人間の人生はおおむね70年しかないんだもの。
操作性の悪さについては特に気にしても仕方がないから減点要素にはしないけど頑張ってたら加点要素になった気はする。
たかが無料ゲームと言ってしまえばそれまでだけど、これをプレイした人がこれに消費した時間に見合うものを与えられているのが最初の3分間ぐらいしかないのが気になるな。
そのあとはせっかく始めたからと惰性でやってるだけの作業だよね。全体的に。
個人的には操作することに気持ちよさがないのがやっぱ弱いかなと思う。
ソニックやマリオみたいな走り回ってパルクールするだけでクールになれる作りじゃないとゲームという表現技法としては拙い。
建物やその配置を裏側から見たときの意外性が欲しいんだよねー。どの建物も顔の向き毎の表情が乏しいよね。
ゲーム内で役割を持ってないってことが遠目に分かるのはある意味UIとして強みなんだけど、このゲームの場合にそれをやってしまうと奥行きが無くなるだけかな。
さっき来た道の横から戻った時に「ここに繋がるんだ」はないわけじゃないんだけど、それだけだと「えーそれなら直に行けるようにしてよ」という気持ちの方が強くなってプラスにはなりにくい。
頑張ったことが評価される時期評価して欲しい時期ならこれでいい。
自分は不登校で寮学校の時に増田のような家庭環境の人はそれなりにいっぱい居たからなんとなくわかる。
で、社会出てから辛い思いしながらもマイナスを0にするために頑張って、やっぱり増田みたいにとんでもないマイナスの負債を独力で返し終えた人もいっぱい居る。
もう比べなくて良いんじゃないかな。
増田は一般家庭の全員が順風満帆な人生を思い描いてるし、自分も不登校の学校出て普通目指して就職して色んな人生を見てきたけど
就職後から親とこじれて絶縁、未成年者に犯罪して捕まったやつ、専門学校飛んだやつ、酒によってホストに喧嘩売って監禁されたまで消息が掴めてるけどそこから行方不明のやつ
深夜バイトで金抜いて捕まったやつ、激務でメンタル崩して消息不明のやつ、若くして末期がんが分かったやつ。
まぁ、意外と親元から離れてからそれなりに積む奴多いし、賢い増田なら分かると思うけど本当に順風満帆の奴なんて上澄みだよ。上位30%とかだよ。
いまはイラストの仕事はほんのちょっと、違う仕事しつつやってる。
自分がうまいと勘違いしたまま専門行ってチョモランマになった鼻を根本からへし折られ、歪みまくった脳みそを毎日フルスイングで叩き潰されて再構築してもらいました!
.
イラスト系の専門がどこもそうなのかは知らないけど自分はadobe製品の使い方をみっちり教えてもらったことも今の仕事につながっている。
あとは後述する「おまけデッサン」の授業のおかげ。
とはいえ、ただの痛いオタクでちょっと絵が描けるだけでイラストレーターになれると息巻いていた自分は入学早々、仲良くなった友人のイラストを見て撃沈して鼻は根本から折れた。
場違いな存在であることを感じて足元ふらつくってほんとにあるんだと思ったね。
.
ありがたいことに友人には恵まれたおかげで、変に捻くれすぎずに努力してうまくなろうと思えた。
いまある程度イラストの仕事もできているのは、ある授業のおかげだったと言っても過言ではない。
私のいかれた脳みそをフルスイングでたたき潰してくれた授業だった。
デッサンをメインにしている先生で、その先生が空き時間にも違う課題を出して講評する授業というか授業っぽいサークルと言うか、
みたいなのがあるという話を先輩に聞き、友人数名と参加させてもらった。
自分たちはこの授業的なのを「おまけデッサン」て呼んでた。授業のおまけのデッサン。
.
ハチャメチャうまくて時代に乗れれば好きなものを描いてるだけで金入って生きていけるけどそんなのは一握りどころかひとつまみ以下。
だから求められているものを理解して、短い期間(短納期)で仕上げること、それから描けるものの幅を広げることが大事で、先生はそこに焦点をあててやってた。
.
先生がタウンワークかなにかから持ってきた求人広告の切り抜きのコピーで、この内容をイラストのポスターにして大々的に求人募集するならどんな人を描くか?だった。
ポスターをつくる必要はなくて、ポスターにする場合にどんな人物イラストがあると良いか、男女一人ずつ全身を描いてくる。
先生がいくつか求人持ってきてて、1求人に対して3人くらい充てがわれた。
.
で、このときの自分はチョモランマの鼻をへし折られただけのただの「痛いオタク」
作業着っぽい服(女性の方は可愛い色の作業着にしてたと思う…)にドリルかなにかそれっぽい器具を持って片足上げてかわいいポーズとる女の子と決めポーズしてる男子を描いた。
ラノベの表紙のようなね・・・。友だちにもかわいい~とか言ってもらって浮かれてたよ。へし折られた鼻からちょっと芽出てたと思う。
.
先生「増田さんはこのイラストのポーズを実際に取りましたか?やってない?じゃあみんなの前でやってみてください。増田さん、普段こんなポーズしますか?しませんね?じゃあきっと仕事をするときにもしないポーズですね?なんで描いたんですか?でも男性の方のポーズは取ることもありそうなポーズですね?この違いはなんですか?なんでこのポーズが求人に効果があると思ったんですか?」
何も言えなかった。
なぜなら求められてるもの一切理解してなかったし、なんか見たことあるポーズ(ラノベの表紙にありそうな)を描いてるだけだから。
デッサンの授業のはずがさ、その手前で終わってんの。デッサンが狂ってるんじゃなくてこっちの頭が狂ってたってわけ。
.
おなじ広告でイラストを描いてきてた先輩は30~40代くらいの女性と20~30代くらいのもう少し若そうな男性の全身作業着姿に加えて、実際に作業をしている様子のイラストをいくつか描いてきていた。
先輩はまず、この広告の会社のホームページを見て、仕事の内容と作業着を確認。求人欄に「女性活躍中!」とか「未経験者歓迎!」って描いてあるから女性や若手の転職する人を集めたいのだろうと考えて年齢を設定。ホームページの写真とか事業内容からどういうポーズを取るか調べて雰囲気掴んで実際に自分でポーズ取ったり誰かに取ってもらってデッサンしてイラストを仕上げていた。
先輩はなぜそのポーズ、年齢でイラストを仕上げたかをすべて説明できていた。
ここでまたへし折られた鼻から少し芽が出ていた部分も摘み取られて脳みそは破壊。
最初は自分の絵をコテンパンにぶっ叩かれて僻んだっていうか、酸っぱい葡萄的な愚痴も出たけど、先生は毎回毎回こういう
「現実で人に見てもらう絵の作り方」っていうのを徹底的に叩き込んでくれて、「なぜですか?」「どうしてですか?」を必ず聞かれるので自分も常になぜこの色?このポーズ?を自然と考えるようになった。
実際仕事で受けることになるイラストってそういうものなんだよな。
.
いま働いてんのは一般企業の広報関係(中小だからそれ以外の仕事もするけど)。
ゾーニングとか手癖でなんとなくそれっぽく済ませるとか、そういう視点にはすごい敏感になったし、
広告やアニメの演出の炎上見ると、「あ~何も考えてなくてなんかウケそうみたいな手癖で描いてて、先生に怒られるやつや」って思うことが多い。
その感覚はいまの仕事に生きてるし、会社の許可もらって副業でイラストの仕事を少し受けてるけどクライアントとやり取りするときにめちゃ役立ってる。
.
先週、副業の方と、本業の方とで褒めてもらえることがあって、それがどれも先生に教わったことだったからちょっと書きたくなった。
タイトルの通り。
ゲーム業界を目指す人はめちゃくちゃ多く、少なくとも新卒での入社は狭き門となっている。
業界の知り合いなどいれば現状や対策もわかりやすいが、そうではない人が入ろうとするには情報を集めにくい側面があると思う。(実際に自分の新卒就活時には情報が足りていなかった)
そのため、新卒では入れなかったもののゲーム業界の末席に籍を置く自分が、当時知りたかった情報を自己満足で記載していこうと思う。
一応記載しておくが、自己満足のためのものなので記載の内容をもとに行動してうまくいかなかったなどの責任は取らない。最終的には自分で判断してほしい。
【経歴】
こういった話はどういう人間が言ったかによって信憑性が変わると思うので、自分の経歴について先に話しておく。
念のため書いておくと、ゲーム業界に入れた自慢のつもりで書くつもりはないが、自慢だと受け止めてもらっても嬉しいだけなので構わない。(そもそも新卒では入れてる人を常時目の当たりにするので自慢に思えていないので)
特定は怖いのでフェイクを混ぜるが、おおよそ変わらないと思う。
自分は偏差値50程度の情報系大学の出身で、入学以前からゲーム業界(プログラマ)を志望していた。
入学難易度がたいしたことない大学だが、その分上位10%よりは上の成績だった。
就活の時期が来たので、一人で作った2Dゲームや、大学の講義でのグループ開発したWEBシステムなどをポートフォリオにして就活を行った。
その結果、ゲーム業界はどこにも引っかからず、IT企業で客先に常駐するいわゆるSESの会社に入社した。
最初は非ゲームのスマホアプリの開発に従事させられたが、営業の人にゲーム業界に行きたいと伝えてあったので、1年ほど経って契約終了のタイミングで小さなソシャゲ会社に移動した。
そこではUnityなどで開発の経験を積ませてもらった。裁量が割と雑な企業だったので広範な部分の技術を触れたのを覚えている。
2年強そこで働いたものの、サービス終了をきっかけに転職を試みようと思い退職。
その後ゲーム業界専門の大きなSES企業に入社し、運よく大手のソシャゲ開発案件に入れた。
そこで大手の分業の仕組みに慣れながら働いていたが、もともと志望していたコンシューマゲーム業界へのあこがれもあり、本社の営業チームに希望を出していたがタイミングが合わず案件がない時期が続いた。
2年ほど経って、プロジェクト単位での派遣という形だが、Unityなどソシャゲと共通の技術を使うためか、コンシューマゲームの開発経験が無くてもOKなコンシューマゲームの案件が出てきて、そこに転職した。
今は会社は小さめだが、IPはそこそこ強いコンシューマゲームの案件で、不安定な立場ながら従事している。(可能であれば正社員として登用してほしいが、今のところ何も話はない)
【本題】
ここからは実際にゲーム業界を目指す者についてのアドバイスだ。
まず第一に、有名なゲームディレクターの桜井さんの動画にもあったが、ゲームを作ることが重要。
企画職、プログラム職は言わずもながで、デザイン職やサウンド職の芸術系の人でも、そういった経験があると必要な素材の勘所がつかみやすくなるので、作っていた方がいい。
経験を積み上げるために1、2本ではなく何本か作っていてほしい。
可能であれば複数人のプロジェクトでゲームを作り上げているとなお良い。
目指す企業があるなら、その企業のジャンルに近いゲームの方がアピールになる。
なぜゲームを実際に作ることが重要なのかというと、企業が欲しいのは「良いゲームを作れる人材」だからだ。
良いゲームを作れるとアピールする最大の方法は、実際に良いゲームを作ったという経験を伝えることだからだ。
経験の量や質が良ければ、その分ポートフォリオや自己PRでも伝えられることが増えて、有利になるのは言うまでもないだろう。
なので時間をかけて1本や2本作るよりも、何本か完成させて経験として伝えられる方が基本的には有利。(その1本や2本が、それなりの売り上げを上げられるほど優れた作品なら話は変わるかもだが)
そして、入社後に実際に働く際には、当然複数人でその企業で開発されるジャンルのゲームを開発することになるので、入社後に働けるアピールをするためには、複数人でそのジャンル(例えば3Dのアクションとか、2Dのパズルとか)に近いゲームを作っておいた方が有利になる。
もちろん希望職種に合わせた経験を積んでいることが好ましいが、他職種の作業も軽く把握しているとやりとりがスムーズになることが多いので、こちらは参考程度にかじっておくとよいかもしれない。
では、どうして「入社時点で」ゲームを作れることが重要になってくるかというと、やや厳しい現実だが数か月の研修~最悪入社後いきなり業務に放り込んで、ゲーム作りに従事できるかを見られているからだ。
ゲーム業界に来る求人は、経験則でいえば小さな会社でも相当な数になる。その分優秀な人材、いわゆる即戦力が来る可能性も高くなっていく。
そんな状況で、ゲーム作りもそれに類する技術もなく、熱意だけあるというような人を採用して育てていくよりも、ある程度ゲーム作りの経験があって、その下地をもとに仕事を進められそうな人を採用してすぐに働いてもらった方が効率が良いのである。
小さい会社から大きい会社まで数々の新卒の人を見てきたが、どの人も下地としてゲーム開発の経験がそれなり以上にはある人ばかりであった。
それから、一般的な就活の対策と同じになるが、コミュニケーション能力は求められる。
ここでいうコミュニケーション能力とは、雑談などで盛り上がる力ではなく、業務の遂行に向けたやり取りを円滑に行う力である。
ゲーム開発は、言語化の難しいあいまいな感覚を伝えなければならないケースがままある。
それらを時に図持したり、時に実例を見せたりして、伝えなければならない。
この辺りは企画職の人に特に必要な技能かもしれないが、プログラマやデザイナも日々多くの人とやり取りをすることになるので、とにかく伝える・受け取る技能は必須だ。
そういった部分に難がないことを見るために面接などを行っていると思われるので、その点は意識しておいた方がいい。
意識するべきなのは、自分がその職に就いたとしてどのような業務を行うかということである。
企画職なら
レベルデザイン・ゲームデザイン・ディレクション・PM業務など
プログラマなら
インフラ・サーバーサイド・UIプログラム・キャラクタープログラム・CI系・グラフィックスプログラムなど
デザイナなら
キャラクターデザイン・背景デザイン・UIデザイン・モデリング・リギング・エフェクトなど
こういった中から、自分はどのポジションにいたいのか、あるいはすべてをこなせる万能手になりたいのかなど、戦略を考える必要がある。
基本的にはより詳細な募集になる中途採用の情報などから自分の志望するポジションを考えるのをおススメする。
ーー
さて、一通り記載したが、もちろん自分は上記のことをできていなかった。
シンプルにゲームの開発経験も足りなければ、自分のポジションの意識もふわふわしていた。できてた可能性があるのはコミュニケーション能力くらいである。
しかし、これまで見てきた新卒で入社する人は上記のことを努力も才能も偶然も含めて結果的にこなせている人材ばかりである。
はっきり言って一朝一夕で何とかなるようなものではないものもあり、すでに就活を行っている人などでは間に合わないようなケースもあるだろう。
そうなると選択肢は2つ。「ゲーム業界をあきらめる」か「なんとか中途でもぐりこむ」のどちらかである。
あえてはっきり伝えたいのだが、自分は「ゲーム業界をあきらめる」ことを悪いことだとは思っていない。
ゲーム業界に入ることが絶対的にエラいことなのかというととてもそうではなく、志望者が多いということはそれだけ入れない人が多いということになるので、切り替えて別の目標を探すということができるのも一つの能力だと思うからだ。
むしろ能力が足りずに経験も積めてないのに、あきらめることだけはできずにいる方が、よっぽと精神には悪い。一歩間違えると自分もそちら側になっていた(なんなら今も危うい)と思うと恐ろしさを感じてしまう。
挑戦してダメだったというのも、あきらめきれるきっかけにもなるかもしれないので、挑戦すること自体は良いことだとは思うが。
それでもあきらめられないのであれば、「なんとか中途でもぐりこむ」ことを選択することになる。
これに関しては様々なルートがある。第二新卒だったり、自分のように客先常駐や派遣で、何とか未経験でもOKのところを探す方法だったり、個人で開発経験を積んでから、中途採用に応募するケースだったり。
運について、そもそも新卒と違い、自分の入社できるポジションが企業に存在するかがわからないので、志望企業に応募すらできない可能性もある。(おそらく求人自体はあるだろうが、第二新卒以外は経験者限定でのものがかなり多いだろう)
仮に応募できたとしても、競争相手は少なくなるが、その分枠も少ないという戦いになる。
未経験である以上、ポテンシャルで採用してもらうしかないので、企業側がその気があるのかはどうしても運になる。
自分の場合は客先常駐で常駐先に同じ会社から出向している人がいたので、その抱き合わせみたいな形で入社できたところがあったので、運が良かったとしか言えない。(別プロジェクトだったので面倒は見てもらえてないが)
こればかりは巡りあわせなので、試行回数を増やして確立を上げるか、万一コネなどあれば、確率の高いルートを用意してもらうかするなどでしか対策はできない。
能力について、何をいまさらと思うかもだが、新卒の時よりも少しシビアになっている。
第二新卒なら新卒同様の扱いになるが、そうでなければ研修など1日程度で簡単に済ませての即戦力としての採用になるので、いきなり現場に出ることになる。
選考時には現場で戦えるかをみられることになり、採用されても即現場なので、使い物にならなければ、雇用形態によってはすぐに首を切られることになる。
なので、業務を遂行するだけの能力が必須になる。その重みは新卒時より重い。
こちらに関して自分については、正直に伝えると少なくともいきなり放り出されても業務を遂行する程度の能力はあったので何とかなっただけだ。(新卒入社の人もこなせていただろうが)
従事する業務に関してはより明確になっているはずなので、食らいついて最低限以上の仕事をしていく必要がある。
中途での現実はそんな感じだ。
競争相手は少なくなるので、単純な確率は上がるが、その分それ専用の武器を用意しなければならない。
一つだけお伝えすると、逆に一度潜り込んでしまえば、経験者の採用を受ける権利が得られるので、より世界は広がる。
ーー
以上がゲーム業界に遠回りして入った身からできるアドバイスだ。
この辺りの話を新卒のころに知りたかったので、これから就活をしようという人に伝わったら嬉しい。
ーーーーーーーー
【追記】
自己満足で書きなぐっただけなのになんかめちゃくちゃ反応ある。
文章が優れてるとは到底思えないので、ゲーム業界の注目度の高さを示しているのだろう。
ざっくり読んだが、結局のところ正解のある話ではないので、いろいろな意見があって当然だと思う。
みんな自分の経験なんかもあるだろうし、適当言ってるだけの可能性も自分含め全然あるだろうし、名前を出しているでもない限り参考程度で読むのがいいと思う。
学歴についての言及も多かったのでその点に触れようと思って追記したが、そりゃあ当然学歴があった方が良いだろう。
実際応募数の多い大企業では、足切りの条件の一つに使われるのも止む無しだと思うし、そうでなくても大体の高学歴の人はシンプルに優秀だ。
だけど高学歴なだけでは入れないのも事実だと思う。逆に偏差値が低かったりする場合でもそれだけで切られることはそんなに多くはない(ちゃんとしてれば書類は通る)。
実際、大企業なんかでも意外と専門学校の卒業生(たいていはトップ層だが)もいたりするのを結構見てきた。高学歴が入社しやすいのは、それだけ優秀な人が多いというだけの話だと自分は考えている。
高校生とかで有名なゲーム会社で働きたいなどのモチベーションから勉強を頑張るのは大いに問題ないかと思うが、専門学校で業務に使えるような技術を身に着けて、ゲームをたくさん作る経験を積んで一点突破の能力でゲーム業界に挑むのも本気であれば間違いではないと思う。
いろいろなことを選べる立場のうちは、自分がどうなりたいのかを考えて、いろんなパターンから自分に向いている道を選んでいくのが良いだろう。年を重ねるごとにだんだん選べる道は減っていくので、その時に後悔しない道を選ぶことができれば理想だ。
逆に年を重ねると道が狭まっていくことは多いが、年を重ねることで見えてくる抜け道のようなルートもあるので、悲観しすぎないことも重要だろう。
自分も今から進路を考える立場だったら、専門学校を選択していたかもしれないと思うことはある。
学歴は選べる立場なら真剣に考えるべきだが、そうでなければ囚われすぎないことも大事だというのが個人的な結論だ。
あとは、採用の人間でもないのに偉そうなことをというニュアンスのものがあったが、もとより自己満足のための記載なのと、偉そうな文章に関しては、文の書き方から特定されないようにしているために、普段しないような言葉遣いをしているのが原因なので、勘弁してほしい(意味があるかはわからないが)。
Permalink |記事への反応(14) | 23:29
例えば、長年知的障害や発達障害の当事者を診療し、成人後の経過も見てきた平岩幹男先生は、『知的障害を抱えた子どもたち 理解・支援・将来 』で以下のように述べている。長くなるが印象的なので引用する。
モラトリアム
たとえば10歳から特別支援学校高等部を卒業するまでは8年間ですが、知的障害を抱えた子どもたちは、そこで社会に出されてしまうこともあります。一方で障害を抱えていない子どもたちは専門学校や大学などを含めて社会に出るまでに10年以上の期間がある場合も少なくありません。
発達を含めて社会生活上の困難を抱えて、いわばそれまでは「ゆっくり」と言われてきた子どもたちがなぜ「困難」を抱えていない子どもよりも早く社会に出ざるを得ないのか。
もっとゆっくり趣味を見つけて磨いたり、いろいろな場所や人に触れ合うことで経験を増やしたりするモラトリアム(猶予期間)をもつことがなぜできないのか、長い間の疑問でした。モラトリアムをもつことにより、ひたすら就労を目指す場合よりも趣味や余暇活動につながるものを見つけたり、身につけられたりする可能性もあります。
著者は障害を抱えた子どもたちへ対応する生活を45年あまりしていますが、40年前には障害者就労や就労支援(移行支援も継続支援も)もありませんでした。ごく一部の企業が就労を受け入れていましたが、精神薄弱と呼ばれて社会から疎外される状況でした。
その後、児童福祉湖をはじめとする法令改正などもあり、生活介護などの整備がなされるようになってきましたが、そこではとにかく「就労できれば」「お金が稼げれば」いいという意識がとても強かったように感じています。
これまで知的障害を抱えている方々のサポートもしてきましたし、実際に生活介護を行っている作業所を訪問したり、お手伝いしたりしたこともあります。そこで出会った方は、40歳を過ぎても単純作業の毎日で、会話も2語文程度なのですが、ノートには出かけたときの道順などが車の中からの景色とともに書かれていたり、路線図の駅名がすべて漢字で書かれていたりしました。もし子ども時代に適切な教育を受けることができたら、現在の居場所はここではなかったのではないか、重度の知的障害と診断されることもなかったのではないかと感じたこともあります。
知的障害を抱えた方の就労がままならなかった時代も知っていますが、最近の20年間、特に10年間は、就労については十分とはいえないもののかなり展望が開けてきました。一度の就労で人生が決まるわけでもありませんし、障害を抱えている場合、初任給の額がそのあとも続く場合もあります。
著者は可能であればモラトリアムを使って世の中には楽しいこともいろいろあることを知り、趣味をもつことによってその後の生活を安定させてほしいと思います。そして、最終的には初任給ではなく、生涯賃金(所得)が多くなることを願っています。
(平岩幹男『知的障害を抱えた子どもたち 理解・支援・将来』図書文化. p.84-85)
本書でも述べているが、こうした問題意識から最近は「福祉型カレッジ」という自律支援と就労移行支援を組み合わせた大学のような事業所というのがあるらしい。
「福祉型カレッジ」とは、「自立訓練+就労移行支援」「自立訓練+就労継続支援B型」といった形態をとる多機能型事業所のことで、障害のある若者が社会で活躍するための力をつけるために、最長4年間学ぶことができます。
カリキュラムは、「日常生活を営むための基礎作り」(自立訓練)が2年間、「働くための訓練」(就労移行支援・就労継続支援B型)が2年間の計4年間という形が多く取られることが多く、青春を謳歌しながら、社会に出るための力をじっくりとつけていきます。
当事者の親はこうした性急な就労だけではない選択肢も視野に入れながら、子どもがより安定してひらけた生活を将来送れるように考えていく必要があるだろう。
(後で書き足すかもしれない)