
はてなキーワード:封建社会とは
「チ。」が15世紀の話だと分かってきたとのことですね。15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定について、史実を基に検討してみましょう。
### 「チ。」の設定と史実のズレ
###結論
15世紀を舞台に地動説を唱えることが異端審問で死刑につながるという設定は、史実を考えるとおかしいと感じるのは自然です。15世紀には地動説が議論の対象として浮上し始めたものの、教会がそれに対して死刑を科すほどの厳しさを持っていなかったためです。「チ。」がこのような劇的な展開を描いている場合、フィクションとしての誇張や、近世(特にガリレオ事件)の文脈を投影している可能性が高いです。科学史家の批判(投稿で指摘されている「近世」の文脈)も、この時代錯誤が背景にあると考えられます。もし作品が意図的に史実を逸脱しているのであれば、フィクションとしての自由度を享受しているとも言えますが、歴史的正確さを求める視点からは違和感が残るでしょう。
「私はあの人の名前を心のデスノートに書きました」という言葉は言い方がやや迂遠なのでそのハッキリとした意味を捉えきれなかった人が多いのではないだろうか?
シンプルに言えば「アイツ、死ねと思ってる。死んで欲しい。私を不快にする奴は死ね」ということだ。
人類の歴史上続く数々の刑罰の中で「人を不快にしたから死ね」という内容について書かれているものはほぼ存在しない。
殿様が「俺の前を横切るのはムカつくから死ね」と口にしたら近衛が飛んできてズバーっと切り裂いたみたいな話もあるが、これらは「不敬罪」に該当するものであって「不快罪」では断じて無い。
「不敬罪」は「封建社会における上下関係の絶対性を否定したことに対する罪」であることを、あえて注釈しておく。
もしかしたら、彼女の主張はある種の「不敬罪」に対してのものだったのかもしれない。
「私という稀代の天才に対して、そのような事を語るのは、私の掲げる実力主義的世界観においては、不敬罪に該当します」という発言なのだろうか?
「この国では肌の白い人にだけ人権があり、肌の黒い人には人権がない。肌の黒い人が白い人の人権を侵害するのは、社会の根底を揺さぶる不敬罪なので、不穏分子への見せしめとして殺しておく」という価値観のもとで行われた差別的懲罰が人類史には多く登場する。
これらが肯定されていたのは20世紀の前半までで、21世紀には「絶対に許されない人権意識に対する罪」として批難されていることを知らない人はいないだろう。
「心のデスノートに書きました」という発言を公の場ですることは許されてはならないと思う。
それはつまり「具体的に名前は言わないが、これだけは言わせて欲しい。死ねーーーーーー!!!」と叫ぶことと最終的には大差ないのだから。
人を指して死ねと口にすることは現代社会では厳しく批難される行為だ。
そんなことをしているような人間が、「これはある種の権利侵害ですよ」なんて語っているのをマジメに議論すること自体が馬鹿馬鹿しいと思う。
私の結論としては「名を伏せたとしても公の場で誰かに「死ね」と語るような人が口にする差別問題や権利意識なんて、そもそも議論の俎上に載せる価値もないものではないか?」ですね。
いや本当に、なんでみんな「ノイズ」のほうに注目するんだろう。
[ハルマゲドンの時代に『真・女神転生』をプレイする](https://blog.tinect.jp/?p=90178 )
を呼んだ感想。
発売直後ではないが、真・女神転生の1, 2, ifぐらいまではかなりやった。あと女神異聞録ペルソナ。
ドラクエ的な完全懲悪とは違う世界観。神、悪魔、そしてそれを使役するということ。世界崩壊。それらが中二病的な心にバチッとはまった。
人の見方とか宗教に対するスタンスとか、今に至るまでおそらく結構影響を受けていると思う。
そんなわけで俺は正義の心が燃え上がるときに「アクマをころしてへいきなの?」と囁いてクールダウンさせるネコマタを脳内に飼っている。うらやましいだろう。
余談はともかく冒頭の記事である。メガテンに絡めてシロクマ先生が当時の世相とか現代の世相とかに言及している。
だけどちょっと違うかなー、と思う部分もあって書きはじめてしまった。
当時の世相はまあそうだろう。そんな感じだった気がする。
俺はシロクマ先生より幾分か若く、オウム真理教に関してはリコーダーを吹く側の人間であったが、
当時の世相に世紀末というのは欠かせない要素であった。
シロクマ先生は既存の秩序とそれに対しての反発としてメシア教徒とガイア教徒を例に挙げ、
既存の秩序に多かれ少なかれ反抗心を持ち日本の伝統に親和的な陣営(ガイア教)
というような印象を語っている。
シロクマ先生がガイア教徒とみなすような勢力はおぼろげながら浮かんでくる。
確かにそのように表現したくなる気持ちもわからないではないが、よくよく考えてみると反移民であるとか、排外主義、伝統的な価値観を大事にしようみたいなのは、色違いのメシア教だ。
そう考えると、シロクマ先生の言うグローバル資本主義に根差した秩序というのはどうだろう。
秩序とは名のつくものの、資本こそが力であり、力のある者が偉く、競争は自由だ。というのがベースだ。
というようなところまでブコメで書いたのだが、その後に面白い考えが浮かんでしまった。
LGBTだとかフェミニズムだとか現代ではポリティカルコレクトネスと呼ばれているような思想。
『正しい』とされると、秩序のように思ってしまうが、しかし「ゲイだっていいじゃん、トランスだっていいじゃん。女だからって女らしくする必要ある?」
これらってカオス的な考え方だ。封建社会、奴隷制度、宗教。そういう既存の秩序と対決するものである。
翻ってガイア教であるが、力こそ全てであると共に、そもそもメシア教から悪魔として排斥された異教の神々とも共存しよう。というのが思想のベースになっている。
自由、平等、差別は良くない。現代思想の根幹である。つまり、現代はガイア教が勝った時代なんだなあ。
本来カオスであるはずの思想が『コレクト=正しい』というロウっぽい立場を得てしまったことで色々歪んでしまったのかもしれない。
論理的思考が身についてる。
バブルや氷河期って「偉い人がこう考えてるらしいですよ」で終わってるんだよね。
自分の頭で考えてない。
それを本人たちは「決裁権者の意向を反映している」と綺麗な言葉で着飾ってるけど、実際には「日頃からハンコ押す人に判断投げてるから、ハンコ押す側も自分の納得最優先するようになってる」というだけ。
つまる所、分業の仕方が歪んでるんだよね。
下の連中には事務作業と情報収集以外やらせなず、判断・決裁・組み立てを全て上がやっていくという仕組みになってる。
でも年功序列で下と上が切り替わるから、業務内容にある大きな断絶をまともに乗り越えられずに多くの人が「雰囲気で判断」という状態になり、下も「上は雰囲気で判断している!それが正しいんだ!」で突き進む。
歪なんだよね。
バブル・氷河期の連中はそれを上意下達の健全な封建社会だと思ってるけど、Zの連中はそれが単なる「分業に失敗した雰囲気社会」でしかないことを見抜いてる。
俺みたいにフリーランスで全部自分でやってる人間からすると、Zみたいな考えの方が結局は健全なんだってことがよく分かるよ。
若さゆえの過ちみたいのはチラホラ起こすけど、論理的に考えられるから「いや、それはAがBしてCがカッパでデルタだから」ってツラツラ説明すればすぐに理解してくれる。
これが氷河期より上の連中だと「そんなことはない!俺の考えは正しい!なぜなら1+1=100だからだ!俺の計算は正しいんだ!」みたいな感じで話を聞かないからな。
※ゆとり世代は中間世代なので氷河期よりとZよりがランダムに存在してるのでこの話題から除外しました。本当に半々ぐらいでいるから「コイツ・・・どっちのタイプだ?」って雌雄判別から始めることになるのがダルいなって感じる
本来は「古代から中世、現代と維持されてきた、男子相続父権型社会においては男性の権利が優遇されてきた(=強者男性)。しかしその優遇の対価として男性は社会的義務も慣習によってセットで請求されてきた(男性が金銭的に負担すべきという文化や家の存続の文化など)。これらの優遇と義務はセットだったのだが、現代的な価値観の発達で男性に対する優遇措置はなくなりつつある(財産相続など)、にもかかわらず義務だけは相変わらず男性長子に偏在して求められた結果(介護など)、権利なくして※義務ばかり要求される男性(=弱者男性)がうまれた」っていうのが本来の文脈だぞ。
恋愛云々ってのは「恋愛でも結婚でも男性優遇の文化なくなったのになんでデート代だけは男性って文化残ってんの?」ってあたりから始まった議論ででてきた枝葉末節だよ。
※そもそもの話として権利以前に相続するような大した地位も資産もない一般家庭のそこらの男性にまで、封建社会的な男性の甲斐性やリーダーシップを求める恋愛脳ヤメレって話でもある。
✔現代の格差拡大は、単なる「金持ちが得をする」話ではなく、「資本が新たな支配者階級となり、庶民から強制的に富を徴収するシステム」に近づいている。✔本来は国家が徴税し、社会のバランスを取る役割を持つが、資本がそれを肩代わりし、「庶民からの徴税」を独占しつつある。✔ これが続けば、実質的に「企業国家」「資本による封建社会」のような構造になる可能性がある。➡現代資本主義の行き着く先は、「民主的な国家」ではなく、「超巨大資本が実質的に国民を支配する世界」かもしれない。
この結論は俺が誘導したのか、ChatGPT君の妄想に俺が誘導されたのか
1.資本、富、貨幣、購買力、信用、信用創造について整理したい2.資本の価値は購買力によって決まると言えますか?株価などは、買い手がつかなければ紙屑ですよね?3. 誰も利用しない不動産、設備、特許は価値が無いと言えますか4.世界中の富が1つの資本に吸収された時、その資本に誰が値段をつけるのでしょうか?5. その資本からお金を借りることはできませんか?6.資本側はAIとロボットがあれば、人間の労働は不要かもしれませんね7. ただ一つの資本が生き残った時、世界は社会主義になるのでしょうか8.独占禁止法は全ての国にあるのでしょうか?国際企業はこれらの法律の影響を受けますか?9. 巨大資本に富の大半を持っていかれている状態で、自分自身が購買力をつける方法があるとすればなんでしょうか10.お金、は今住んでいる国、地域のお金を指していますか?その場合、他国の金は株券や証券のような扱いになるのでしょうか11.資本が通貨を独占している時、国が通貨を発行してインフレになるのはどういう意味だと言えますか?少数の資本による富の独占によって通貨の価値が下がる現象には、国が通貨を追加発行することも織り込まれている?12.格差拡大というのは、富裕層と庶民の富が100:1 だったものが、100兆:1 になるようなもの?13. "庶民は借金を抱えたまま資本に依存するしかなくなる。" これってまるで、資本が徴税権を持っているのと似てますね
https://anond.hatelabo.jp/20210822212233
改めて違和感覚えるほど、またより適する表現が求められるほど、家父長制という言葉がこんにち現役で使われてるかは疑問だが。
そういえば「それっぽいもの」はたくさんあって、普段はなんとなくそれらを一緒くたにしがち。
ざっと数え上げてみたらそんな感じかと思うが正確性は保証の限りではない。
うっかり家父長制って言いながら家制度の話してたこととか、自分もあるかもしれない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ところでいまWikipediaを見て明治憲法下の家制度の記述が面白かった。
家制度とは封建社会と近代国家を橋渡しするための暫定措置だったというのだ。
前近代における「家」は、あたかも莫大な権利義務を有する法人のようなものであった。家長個人は権利義務の主体ではなく、家の代表者として強大な権利を行使するかわりに、家産・家業・祭祀を維持する重い責務を負う存在にすぎなかった。ところが明治維新によって職業選択の自由が確保されると、このような生活モデルは崩壊する。諸外国の例を見ても、家族制度が徐々に崩壊して個人主義へ至ることが歴史の必然と思われたが、かといって未だ慣習として根付いている以上、法律をもって強引に無くすことも憚られた。そこで、近い将来の改正を前提とし、所有権と平仄を整え、戸主権の主体を家ではなく戸主個人としたうえで家産を否定し、戸主の権限を従前よりも大幅に縮小する過渡的な暫定規定を置くこととしたのである
【登場時のフェミニズムはラディカルな社会改造運動だったが、その運動は半ば成った。活動家の功績は大きいが、よりモデレートな内容に変化していくべきときだ】
まあ穏当な考えであり同じように考える人は多いだろう。しかし私のフェミニズム観は違う。
フェミニズムは単純な女権拡張論ではなく、既存の社会システムそのものを男性中心主義との複合体として疑い、新たに定義づけていこうとする革命思想であると考える。
あらゆるものに「フェミニズム的視点」というレンズを向けてみようという運動。
つまり「根源的問い直し」という意味において一貫してラディカルな思想なのだ。
しかし本質がそういう危険なものであるからこそ、使い方しだいで毒にも薬にもなる。刃物や武器と同じ。
例えば「人間みな平等」という思想は封建社会にとって爆弾だったが、なんやかやあって現行社会の欠くべからざる重要パーツになった。
フェミニズムも同じ道を辿っていると言える。
ただしその流れの主人公は先達フェミニストの活動家ではない。一言で言えば技術革新のおかげが大きい。家電の発達によって専業主婦が必須ではなくなった。戦争は体力勝負じゃなくコンピュータを駆使する作業になった。世の中はそのようにして変わる。思想だけでは変わらない。
まあもうちょっと丁寧にわかりやすく自分の考えを説明したほうがいいんだろうが、あれもこれもと長くなってもそれはそれで読みにくいので乱暴にまとめておくと、
武器とか暴力蔵置というアブねーもんこそ、みんなが「なかよくするため」「折り合いつけてやっていくため」に必要であり重要なのはその取り扱いであるという逆説がミソだ。
クラスでナルトが流行ってた頃、おれは家庭内でチャンネル選択権が無くてウチにあった白土三平の忍者漫画を読んでた。
武士はおおよそ搾取者のカス集団だし、忍者はその犬なんだなって思った。今でも割と思ってる。
戦国時代はよくフィクションの題材になってる。おれはその手のやつはほとんど見ないけど、大河ドラマとかじゃ内戦状態をまとめ上げる義務感とか、海の外からの対外侵略への憂慮とか、上に立つ者の苦悩とか、政治劇とか、時代を問わぬ普遍的なメロドラマとか、取り沙汰されるテーマはそういう感じだと思う。
そういう世の中を引っ張っていくようなカッコイイ一面だってあったのかもしれないし、エンタメとして別に全然それで良いと思う。今の価値観で過去を断罪するのは云々みたいな話もまあそうかなって思う。
それはそれとして、武士道だのなんだの言ってるけど結局封建社会に胡座をかいてる人殺し集団として描かれる作品ももっとあっていいと思う。
別に日本に限った話じゃないけど、今も労働者が大多数であるように中世だって大半が農民だったのだろうし。いわゆるニホンブンカ的なものは武士や町民から発するものが多かったかもしれないけど、人口比で言えばそういう人らって一握りだったんだろうし。
おれの目に入らないだけでそういう作品も沢山あるのかもしれんけど。
前に見た『いちげき』とかはちょっとそれっぽかったかもしれない。今度やるたけしの『首』もそんな感じらしいので楽しみ。
庶民にフォーカスするかどうかは知らんけど、刀に物言わせた支配者として描かれる武士。戦国時代版アウトレイジ。美化される事のない武士の乾いた暴力を早く見たいぜ。
近所の弁当屋が美味しいけどムカつく。
だけど、三世帯大家族で仲良く営業してるのを見るとモヤモヤするし腹が立つ。
私は地方で農業を営む三世帯家族で育った。兄弟も多く兄、姉、弟、妹と全てコンプリートしている。頑固でいつも不機嫌でクチャ食いの祖父、離乳食と粉ミルクを毒物のように扱い子供には意地でも咀嚼した煮物を食べさせようとする祖母(そのせいでピロリ菌もらった)、いつも無口で赤ら顔の父、隣の家に住む父の姉家族にいつも気を使うヒステリックな母、野球をやってる(即ちうるさくてうざくて汚い)兄弟と従兄弟、意地悪な姉妹、わがままな従姉妹。家族が全員大嫌いだった。
地元の高校を卒業した後、首都圏近郊の国立大学に進み家出同然で上京。その後都内で就職。地方出身で実家の兄弟は健在で都内に就職した夫と結婚した。
夫と子供と、お互いの実家に全く干渉されることのない幸せな東京核家族ライフを送っていた。
だから大家族でいつも仲良さそうに楽しそうに営む惣菜屋がムカつく。商品は好きだから買う。だけど見ていて腹が立つ。
高校生の男の子が店主らしきおじいさんと一緒に料理を作り、小中学生にしか見えない子供達がおばあちゃんと一緒に呼び込みしたり袋詰めしてるのを見ると反射的に嫌悪感が湧く。
「こいつらは柔和な笑顔を浮かべて児童労働をさせる極悪人だ。子供たちを自分たちの家業の要員にしか見ていない封建社会の遺物だ。」
そう心の中で思ってしまう。
閉店間際に女の子がおじいちゃんにおんぶを迫り、家族みんなでキャッキャしてる様子を見ると仄かな羨ましさと同時にそれを掻き消す嫌悪感が湧く。
子供は祖父母や親戚ではなく両親の愛だけを貰って過ごすべき。両親以外の家族の影響は子供を不幸にする。親戚や祖父母の影響が排除された都内の核家族こそ幸せのモデルケースなんだ。
何言いたいのかわかんなくなっちゃった。