
はてなキーワード:家事労働とは
en-japan の調査(2024年、4800人対象)によると、家事分担は「女7:男3」が最多で21%。他に「女9:男1」が19%、「女8:男2」が18%。数字だけ見れば確かに女の方が多い。でも、それをそのまま「女は損してる」で終わらせてるのがネットの人たちって感じ。
総務省「社会生活基本調査」(2021年)によると、夫婦世帯(共働き)の家事労働時間の合計は 3.75時間/日。これを分担割合(en-japan調査 2024)に当てはめ、さらに有償労働(en-japan はフルタイムかそれに準じる勤務形態が多そうなので、男性8h、女性6hを仮定。かなり女性寄り)を足して「総労働時間(仕事+家事)」を算出した。
| 分担 | 回答割合(%) | 女総労働時間(h) | 男総労働時間(h) | 女総負担率(%) | 男総負担率(%) |
|---|---|---|---|---|---|
| 女10:男0 | 6 | 9.75 | 8.00 | 54.9 | 45.1 |
| 女9:男1 | 18 | 9.38 | 8.38 | 52.8 | 47.2 |
| 女8:男2 | 17 | 9.00 | 8.75 | 50.7 | 49.3 |
| 女7:男3 | 22 | 8.62 | 9.12 | 48.6 | 51.4 |
| 女6:男4 | 15 | 8.25 | 9.50 | 46.5 | 53.5 |
| 女5:男5 | 14 | 7.88 | 9.88 | 44.4 | 55.6 |
| 女4:男6 | 4 | 7.50 | 10.25 | 42.3 | 57.8 |
| 女3:男7 | 2 | 7.12 | 10.62 | 40.1 | 59.9 |
| 女2:男8 | 1 | 6.75 | 11.00 | 38.0 | 62.0 |
| 女1:男9 | 1 | 6.38 | 11.38 | 35.9 | 64.1 |
| 女0:男10 | 0 | 6.00 | 11.75 | 33.8 | 66.2 |
※総務省の統計と差異がありすぎたので外れ値としていた 0:10 /10:0のデータを加えた。突っ込みありがとう。
参考:
社会人4800人に聞いた「男女の家事・育児分担」調査 ー『エン転職』ユーザーアンケートー :https://corp.en-japan.com/newsrelease/2024/35802.html
総務省統計局「社会生活基本調査 2021 :https://www.stat.go.jp/data/shakai/2021/index.html
すると「女7:男3」では妻8.9時間/日、夫9.3時間/日でほぼトントン。さらに「女6:男4」以下では夫の負担の方が多くなる。
これをもとに負担率の偏りが発生してる家庭の割合を見てみると:
という結果になった。ネットでよく言われてる「家事の分担比率」だけを切り出して「女性の方が損してる」と言い切る論法はやっぱり雑すぎる。現実はもっと複雑で、労働と家事を合わせて考えれば男性も相当背負っている。
だからさ、「男がもっと家事をやれ!」っていう方向にばかり話を持っていくのは違うと思うんだよね。それよりも正しい結論はシンプルで、「男女ともに働きすぎなんだから、もっと休みを増やせ!」ってこと。仕事も家事も減らして余裕をつくる方が、よっぽど公平で健全な社会になるんじゃない?
なんか大学生一人暮らし男子が一人暮らしでやってる家事なんて楽勝あんなチョロいもんをタスクにカウントしないでくださいーと女を煽って反感を買ってるのを見たが、ネット男って家事はスイッチひとつで片付くつってた昔からそうなんだけど、楽勝だから家事は全部俺がやるつもりーとは続かないんだよな、楽勝だから女がやれってなんのよ。
あれ何なんだろうな。
楽勝なんだから結婚後は男が全部やってみればいいのに、世界屈指の共働きでも嫁さんに家事育児労働甘え倒す国で押し付けてる労働を馬鹿にすんのダサすぎん。
パスタ七分茹でるのが手抜き飯なのにそうめん2分茹でるだけで大変だと切れ散らかすと煽ってる男もいた。
旦那が作ってくれたのよ、旦那冷やし方知らなかったみたいで、ザルにあげて水軽くかけたそうめんと、めんつゆ薄めただけの出してきたのよ。
モッソモソやで!!!しかもめっちゃ熱いんや!!湯気の立つ熱いくっついてくるモソモソそうめん!!端っこくっついて固まってた!!めんつゆだけだとめっちゃ美味しくないんや!!!!2分茹でただけのそうめん食ってみろやカスが!!!ってなった。
昔むかし、あるところに――
この「昔むかし」という表現でありますが、まず、我々はそこを明確に認識をしていかねばならない、
すなわち、いつの時点を指して「昔」としているのか。それは、どういうことなのか――。
「記憶」を郷愁と置き換えての文脈であるということは常に意識していきたいと考えて、おります。
すなわち郷愁の彼方の、かつて、あるところに、
おじいさんとおばあさんがいたのであります。
では、なぜ「おじいさん」と「おばあさん」が存在したのか――
高齢化社会の進行と、家族形態の変容を踏まえ、強く意識するとともに、
「あるところ」とは果たしてどこなのか。
私たちはその地域性の問題をも直視しなければならないのであります。
さて、おじいさんは山へ柴刈り行かれた。
ここでも考えねばならないのは、「なぜ柴刈りに行ったのか」ということであります。
「家事と外仕事の分担」と一括りにしてしまうことの危険性について、
おばあさんが川で洗濯をしていると、
「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」と大きな桃が流れてきた――
では、この桃はなぜ流れてきたのか。
川の上流には何があり、誰がそこに関与したのか。
仮に後者であるとすれば、誰が、どのような意図で、それを川に流したのか。
ですが、ここでひとつ明確に意識した点をあえて述べるのであれば、
桃が川を流れている――、
つまり関税との兼ね合いを懸念せざるを得ない、ということであります。
おばあさんはこの桃を拾い上げ、持ち帰ったとされておりますが、
この時点で相続税も考慮せねばいけない事案である、とそのように
ひいては「公共財と私有財産の境界線」といった問題が内在しており、
つづく
なんで子供を産まないかなんか、最初から答えわかりきってて、そんなもん繁殖適齢期に繁殖以外のことに熱心だからでしょうが。
なんで、繁殖以外のことに熱心かっていうと、繁殖よりも仕事してたほうが豊かになれるからでしょ。
そりゃ、いくら専業主婦の家事労働はウンビャクマンの価値があるって宣伝したって、外に出たほうが稼げるのはあたりまえに決まってるじゃないですか。
で、なんで外にでたほうが稼げるかっていうと、そりゃヒトの労働力に需要があるからでしょ。
一億総活躍社会っていいましたっけ?子育てが一段落した女性は働け、老人も働け、それって、要するに労働力不足で、労働力不足は少子化のせいで、少子化は出産育児をそっちのけで働かせてるからなんだけど、まあ働けとおっしゃる。
子育てが一段落したら働けみたいにいうけど、そこでいう子育てが一段落っていうのがね、「子供が小学校に入学して手がかからなくなった、女性の40代はまだまだ働き盛り!」、みたいなイメージで語られてて、30年くらい現実認識がアップデートできてない印象。
今や20代前半のママから生まれる子供より40代前半で生まれる子供のほうが多いんで、子供が小学校に入って手がかからなくなったら、アラフィフですよ。
第一、子供が小学校に入ったらむしろ小1の壁とか言われてるくらい大変なわけなんですが。
そこはまあ、いいです。そこは譲って、40代で子供に手がかからなくなるとして、そこは働けじゃなくてもう一人お願いできますか?じゃないですかね。
老人も働けっていいますけど、50代と60代と70代がバリバリ働くから、20代から40代までは安心して産め!育てろ!って社会ですかね?辞めさせてくれないでしょ?
せいぜい、数年育休とか時短をくれる程度で。
つまるところ、人不足で猫の手も借りたいんでしょ?
パートタイマーや定年後のおじいちゃんも獲得競争してるわけで、使えない社員だってクビにしないでリスキリングとかで再利用をはかってるわけで。
少子化は社会を滅ぼすけど、個人レベルでいうと一番の勝ち筋は、みんなが産んでるなかで自分だけ産まないっていう戦略ですもの。
ローマ帝国とか古代ギリシャだって少子化が進行したわけだし、江戸時代だって江戸では少子化が進んだし。
生き物の究極の目標は自己複製なので、繁殖よりも優先することが存在してしまうっていうのが神様の設計ミスだと思うんだけど、これはもう設計でそうなってるので対処しようがないんじゃないかな。
子供を持ちたいというのは根源的な欲だと思うのだけど、欲というものはかなり回りくどい。
少し説明が要ると思うので補足すると、回りくどくない、直接的な生物の反応の例だと、嘔吐。
繁殖行動というものが、雄と雌が触れたら意思とは関係なく子作りして育児しちゃう、みたいにセットされてれば、なんも問題がなかった。
もう少し進んで、排便、これはある程度は我慢できるけど、そんなには我慢できるものではない。
神様は人間の子作りと育児をそのくらいにセットしておいてもよかった。
食欲、これは空腹を苦痛とセットに、塩、油、甘味、旨味を快楽とセットして、空腹では苦痛を、満腹で快楽を与える飴と鞭戦略。
これでもよかった。
空腹が耐えがたい苦痛であるように、性行為を長い時間しないと苦痛を生じるようにとか、妊娠や出産しないでいると苦痛を感じるように作っていたら、少子化なんか起きなかった。
性欲、これは、快楽はセットしてるけど、しないことによるペナルティがセットされてない。飴と鞭じゃなく、飴だけ。
繁殖の欲というのは、性欲と似てる。飴はあるけど、しないことによる鞭はない。
しかも、飴というのが、子供が笑ったときに嬉しいと感じるとか、そういうので、性欲の快感に比べると、ちょっと小さすぎる。
ある程度は出産や育児に幸福感を感じるんだろうけど、桁が二つくらい足りなくない?妊娠してる間は達しっぱなしとか、子供と目が合うだけ達するくらいの快楽を神様はセットすべきだったと思う。
「いやいや、子供の成長はセックスなんかよりずっと快感だよ!」
っていう人もいるかもしれないけど、なんにせよ遠いんだ。
将来のために勉強しろっていわれても、目の前の誘惑に敵わないように、子供が成長したときの嬉しさを味わうために、みたいなことのために今日を頑張るということにはならないわけ。
つうわけで、少子化は資本主義の宿命で、これはもう神様が人間をこう作っちゃったからどうしようもないというのが私のファイナルアンサー。
安心して産める社会を作ればどうこうとか的外れもいいとこで、ゴム無しでセックスするたびに1日分の覚せい剤を支給するくらいの飴でも用意するか、子無し夫婦は非国民っていう社会的に鞭を用意するかでもしないと、出生率は反転しないよ。
22世紀はこない。
このことは公言していて、妻も付き合う前から知っていたし、付き合ってからも結婚直前も結婚後も子供は要らないと伝え続けていた。
向こうもそれで良いと言っていたのに、結婚後しばらくしてから「やっぱり欲しい」「ここで作らないと一生後悔する」と言い出して、結局押し切られるように子供を作り、2年前に産まれた。
話は少し変わるが、自分は今年で30になる。年収はありがたいことに運やタイミングが味方して、額面で大体1000万くらいもらってる。実力には見合ってない収入だ。
仮に、定年までこの金額がもらえ続けるなら、65迄で750万×35年と考えてざっくり2億6000万が手取りで手に入ることになる。
老後資産の為に20%は投資運用にまわしてる。これで残り2億1000万、来年あたり住宅ローンを組んで家を買う。6000万でみて残り1億5000万、これが残りの35年間で使える金だ。家賃抜きで年430万程使える。
家賃を考えずに月30万使って、1年に現金で70万の貯金。投資あわせれば貯蓄は年200超え。
住んでるのは首都圏内ではなく、お互いの実家がある地方都市なので、それなりに金を使っても割と余裕がある方だと思っていた。
子供を現代日本で育て上げると、ざっくり3000万かかるらしい。いきなり生涯の可処分所得が2割削られる。しかも、これからの人生の前半で得る金からそれは全部持っていかれる。自分たちの生活グレードを落とし、貯金や投資運用に回す金を減らす必要がある。見込める運用益は当然減る。
子供が一定の年になれば働くというが、ろくな社会人経験もなく、そもそも働きたくない妻がもらえる給料なんでたかがしれているだろう。
そして子供が生まれてからは、当然のように家事育児に参画することを求められる。
一人でするにはキャパオーバーなのは分かっているが、家計を一身で支え毎日働いた挙げ句に、希望していなかった育児によって支出は増え家事労働の負担も増えるなんて、理不尽じゃないだろうか。
いっそ転職して給与を上げようかとも思ったが、地方都市在住で自分の職種で給与を上げれそうな求人がない。東京オフィスに通勤できるなら1.3倍出すよと言ってくれた会社もあったが、手取りで考えると増えるのは200万ほど。実家から離れて育児負担が増える上に、住む家もグレードを落とさないと家賃の差だけで増える収入の半分以上が消えてしまう。妻にも反対され結局断った。
自分の子供はある程度可愛くはある。けれど、趣味に費やす時間も金もほとんど失い、キャリアの道も狭まり、まだ子供のいない友人たちが仲良く遊ぶ様子をSNSで見ながら公園で子供といる自分の現状を補う程には思えない。
これは総務省の「社会生活基本調査」(2021年)にも明確に現れている事実だ。
フルタイム共働き世帯であっても、家事時間は女性が男性の2倍。
ではなぜ、意識の高いはずの我々の世代になっても、この構造は是正されないのか。
答えは明白だ。
もっと言えば、「女性が我慢すればうまくいく」と、社会全体が未だに信じているからだ。
SNSを開けば、「夫が皿を洗ってくれた」「子どもを一人で見てくれた」だけでイクメン扱いされる投稿がバズっている。
これは本来対等であるはずの家事育児に対し、未だに男性が関与すること=偉いことという前提が残っている証拠である。
つまり、男性が家庭に関与するだけで称賛される一方、女性は何をしても「して当然」と見なされる構造は一貫して変わっていない。
この構造的搾取は、法律でも制度でもなく、空気 によって支えられている。
空気は誰の責任にもならない。だからこそ、誰も責任を取らない。
その結果、女性は「ありがとう」と言いながら、今日も自分の時間を切り売りして家庭を回す。
しかも、それを指摘すると「でもうちはちゃんとやってるよ?」と返される。
個別事例で構造的問題が打ち消されるのは、フェミニズムに限らずあらゆる社会運動で繰り返されてきたパターンだ。
私の彼氏は優しいからで構造の話が終わらされる世界に、誰が変革を期待できるだろうか。
さらに言えば、この無償の気配りという形で搾取されているのは家事だけではない。
「怒らないように気をつける」「空気を読んで話を切り出す」「相手の疲れに配慮して自分の不満を飲み込む」
「そういうのは言えばいいじゃん」「我慢してる自分が悪いじゃん」
言った瞬間に関係性が壊れるかもしれないという恐怖を、経験したことがないから言えるセリフだ。
自己責任、甘え、被害者意識——すべては「不満を声に出す女」に貼られるレッテルだ。
それでも私たちは声をあげなければならない。
なぜなら、この社会にはまだ、あたりまえの搾取に気づいてすらいない人が多すぎるから。
「共感力が高い人が損をする」「察する能力が高い人間だけが動いてしまう」
そういう非対称な構造が、いまも家庭のなかに組み込まれているということ。
私たちは誰かの良識や善意に期待しているうちは、構造を変えられない。
女だから妊娠、出産は絶対自分がやらないといけないし子育てだって女主体でしょ?負担が全部こっちにくるんだわ。10月10日腹の中に悪阻や体調変化に耐えながら生命を宿して、最終的には股か腹をハサミでじょきじょき切って赤ちゃんを取り出す。無痛分娩は痛みが完全に無くなるわけではなく、自然分娩の半分程度に減るぐらい。
子育てだって、父親のはずの夫が赤ちゃん返りして全く子育てに協力しないエピソードを身の回りでも、SNSでも見てきた。統計でも『共働き夫婦』の家事労働時間比が男女で1:9なのが明らかになっている。
男性は仕事に行ってるから育児参加できないとかゴニョゴニョ言ってるやつも黙ってて欲しいわ。お前は子供を持つ前と後でなにも責任の重さが変わってないじゃん。仕事だけやってればいいからな。こっちはキャリアを諦めさせられて低賃金非正規雇用で働きながら家事育児ですわ
出すだけ出してあと何もしない、できない男が「赤ちゃん欲しいなー」とか言ってるの見ると腹立つわ、お前らは楽でいいよな
あー男が羨ましい
うるさいといっても、物理的に騒ぐわけじゃなく、声を上げたり台パンしたりはしない。
でも、夜になるとリビングの端っこでノートPCに張りついて、ずーっと何かしらタイムラインを見てる。
笑いながら「これは伸びる」とか言ってブコメ書いたり、急に「はてサってほんと面倒くさいよな」とか言ってきたりする。
話しかけてくるわけじゃないけど、気配がずっと気になる。
こちらが家事してても何かと小言を挟んでくるのも大体ネット経由で得た知識からで、
「最近の若者はさ」とか言いながら元ネタは全部ブクマコメントかtogetter。
そもそもそんなに真剣にやるもんか?と思って覗いてみたら、自分のアカウントで毎日何十件もブックマークつけてて、コメントも一丁前に書いてる。
スターの付き具合まで気にしてて、「このコメは刺さった」だの「ネタが滑った」だの反省してるのがちょっと怖い。
洗濯物は溜まるし、ゴミ出しも忘れるし、指摘すると「最近は家事労働も政治的テーマなんだよ」とか謎に話を広げて逃げる。何なんだよ、それ。
夜中にスマホで何か読んでるなと思ったら、寝ながらブクマ巡回してるし、
布団の中でも「また炎上してる」とかつぶやいてるのが聞こえてきて、もう頭痛がする。
正直、次に家事を放り出してブクマに夢中になってたら、勝手にPC立ち上げて
「私の本名は◯◯◯◯です」って自分のアカウントで投稿してやろうかと思ってる。
そのくらいの圧をかけないと、現実に戻ってこない気がしてる。
経済報道では、「輸入はGDPから差し引かれる」という根本的に誤った主張が頻繁に見られ、輸入が経済生産を減少させるかのような印象を与えている。この主張は、特にGDP統計発表時に繰り返されやすい。本稿では、国民経済計算の原則に基づき、この解釈が誤りである理由を解説する。
この誤解は根深く、繰り返し現れる。単なる計算式の誤読だけでなく、保護主義的な視点など根底にあるバイアスも影響している可能性がある。「輸入がGDPを減らす」という誤解が広まれば、不適切な輸入削減政策(例:誤った前提の関税)への支持につながる恐れがある。これは経済リテラシー普及の課題であり、専門家でさえこの誤解に陥ることがある。
本稿では、GDPの定義、支出アプローチ、計算式における輸入の正しい役割、会計調整と経済的影響の違いを解説し、具体例を示して正確な報道の重要性を強調する。
国内総生産(GDP)は、一定期間に一国内で生産されたすべての最終財・サービスの市場価値の合計と定義される。ここで「国内」が重要であり、生産活動が地理的に国内で行われたことを意味し、生産者の国籍は問わない。これは国民総生産(GNP)や国民総所得(GNI)とは異なる。
また、「最終」財・サービスである点も重要だ。これは二重計上を避けるためである。GDPは各生産段階の付加価値(Value Added)の合計であり、中間財は最終財価格に含まれるため除外される。GDPは生産・所得・支出の三側面から計算でき、理論的に等しくなる(三面等価の原則)。本稿は支出アプローチに焦点を当てる。
GDPは経済規模の指標だが、必ずしも国民福祉や国内留保価値を示すとは限らない。資本減耗(固定資本減耗)を考慮しておらず、非市場活動(家事労働等)や所得分配状況も含まない。GDPは国境内の経済フローの規模を示す指標であり、この限界の理解は、誤解を解く上で重要だ。
支出アプローチは、国内生産された最終財・サービスへの全支出合計でGDPを計算する。生産物は誰か(家計、企業、政府、外国人)によって購入される、というのが基本だ。
標準的な数式は以下で表される。
Y = C + I + G + (X - M)
または純輸出 (NX) を用いて、
Y = C + I + G +NX
ここでYはGDPを表す。
統計機関は速報値推計時、C, I, G をまず総額で捉えることが多い。原産地を即座に区別するより総額把握が容易なためだ。特に四半期速報(QE)では早期入手可能な基礎統計を使う。このため、当初 C, I, G には輸入品への支出が含まれ、後にMの控除が必要になる。
輸入は定義上、国外で生産された財・サービスであり、GDPの一部ではない。輸入は国内生産価値に直接影響しない。しかし前述の通り、C, I, G の測定値には輸入品への支出が含まれる。例えば自動車購入額は、国産・輸入品問わずまずCに計上される。
GDP過大評価を避けるため控除(- M)が必要となる。C, I, G に含まれた輸入品支出(=輸入総額M)を差し引くことで、GDPが国内生産のみを正確に反映するよう調整するためだ。
ノア・スミスの「靴を履いたまま体重を測る」例えが分かりやすい。C+I+G測定は靴を履いて体重を測るようなもの。真の体重(国内生産額)を知るには、靴の重さ(輸入額)を引く必要がある。靴の重さを引いても体重が減らないように、輸入額を引いても国内生産額は減らない。これは測定値を正す調整に過ぎない。
GDP = (C - Cimports) + (I - Iimports) + (G - Gimports) + X
Cimports等は各支出内の輸入品価値を示す。標準式 Y = C + I + G + X - M はこれと同じ結果をもたらす簡潔な表現であり、M = Cimports + Iimports + Gimports となる。ある資料の「国内生産されたC +国内生産されたI +国内生産されたG + X」という記述も本質は同じだ。
重要なのは、「- M」がGDP定義(国内生産)維持に必要な会計上の調整である点だ。輸入行為自体が国内経済を縮小させたり、国内生産価値を減らしたりすることを意味しない。この会計調整と経済的影響の混同が、誤解の根源だ。
「- M」の会計上の役割と、輸入の経済的影響を明確に区別すべきだ。計算式上は引かれるが、輸入自体が国内価値を破壊するわけではない。むしろ輸入動向は経済の別側面を反映することが多い。
例えば、輸入増は、しばしば国内需要の旺盛さを示す。C, I, G が活発なら輸入品購入も増える。この意味で、高い輸入額は、弱い経済ではなく強い経済と相関しうる。
さらに、輸入は重要な中間財・資本財でもある。効率的・安価な、または国内で入手不能な外国製部品・機械は、国内の生産性を高め、結果的に国内生産とGDPを増やす可能性がある。輸入制限は国内生産に損害を与える可能性もある。
(X - M) は純輸出または貿易収支を表す。貿易赤字(M > X)は、国が生産量以上に消費・投資していることを意味し、GDP会計上、本質的に悪くない。これは支出パターンや資本フローを反映するに過ぎない。(X - M) がマイナスでも、輸出額より輸入額が多かった事実を反映し、GDPが国内生産のみを示すよう保証している。
輸入の誤解は因果関係の罠に陥りがちだ。つまり、輸入増がGDP減を引き起こすと想定してしまう。実際には、C, I, G を押し上げる要因(堅調な消費等)が輸入品需要(M)も増やすことが多い。この場合、観察される相関(例:輸入増とGDP成長鈍化)が、「Mが成長鈍化を引き起こした」と誤解されることがある。また、輸入急増期の統計上のタイムラグで、一時的に輸入がGDPを押し下げるかのような見かけ上の現象が生じる可能性もある。
関係性は複雑だ。強い国内需要はC, I, G を増やし(GDPにプラス)、同時にMも増やす(GDP会計上中立)。M増加ペースが国内生産増ペースを上回れば、GDP成長率は鈍化しうる。だが、輸入自体が国内生産の水準を引き下げるわけではない。Mの控除は測定の正確性を保つ調整である。
表5.1:輸入の扱いに関する誤解と正しい解釈
| 特徴 | 誤った解釈(輸入はGDPから引かれる) | 正しい解釈(会計上の調整) |
|---|---|---|
| 「- M」の意味 | 輸入が国内生産価値を減少させる。 | C, I, G 内の輸入品支出を除去する調整。 |
| 輸入増加(↑M)の影響 | 直接的にGDPを減少させる。 | GDP価値に直接影響なし。C, I, G 内の輸入分を相殺。 |
| 焦点 | MをGDP減少要因とみなす。 | MをGDP測定値修正の変数と認識。 |
| 含意 | 輸入減=GDP増。 | GDPは国内生産を反映。輸入は需要等と関連。 |
具体例を見てみよう。
例3:誤った論理 - 輸入削減
これらの例のように、誤解は「他の条件が一定なら」という仮定の不適切適用から生じる。GDP計算式は会計恒等式であり、他の項目への影響を考えずにMだけを操作してGDPへの影響を論じると、現実を見誤る。経済要素は相互に関連しており、輸入変化の背景要因(需要変化等)の理解が重要だ。
GDPは、一国内で生産された最終財・サービスの価値を測る指標だ。支出アプローチ式 Y = C + I + G + X - M でMを引くのは、C, I, G に含まれる輸入品支出を控除し、GDPが純粋に国内生産のみを反映するための会計上の調整に過ぎない。
したがって、「輸入はGDPから引かれる」「輸入はGDPを減らす」という主張は誤りだ。計算上の「- M」は、輸入が国内生産価値を損なうことを意味しない。これは測定の正確性を保つ修正措置だ。
この基本的な誤解が経済報道で繰り返されるのは問題だ。報道関係者や教育者は、GDP会計のような基本概念を正確に伝え、精密な言葉遣いを心がける責任がある。不正確な情報は国民の理解を歪め、不適切な政策論争や選択につながる恐れがある。
GDP計算の正しい理解は、経済データ解釈や議論の基礎となる。特に輸入の扱いは、誤解されやすいがGDP理解に重要だ。この点の正確な理解が広まることが望まれる。
それは、「母親が家族のために払った犠牲を認めたくない」という心理についてだ。
この投稿によると、母親の犠牲を認めてしまうと、「母の無償の愛」という価値が揺らぎ、自分が完全な愛情を受けられなかった、損をした気分になるという。
傷つく、ではなくタダで貰えるはずのものを貰えなかったので損をした、という損得勘定を親の愛情に適用するのがすごいなと思うが、
母に対する息子特有の、あるいは女性に対する男性特有の感性かもしれない。
しかし、この場合、愛情の価値が下がるとは誰も感じないだろう。
一方で、母親が担う家事や育児、家族の衣食住マネジメントは無償労働と見なされがちだ。女性に求められがちな雑用、感情労働も同じである。
つまり、金銭労働の価値は目減りしない金勘定だが、母親の家庭内労働は愛ゆえ当然すべきでありそこに無償労働(unpaid work)=搾取と犠牲の構造を読み取ると価値が低くなるということだ。
父親の家事労働は“男なのに”という謎の犠牲を前提としていておそらく話が別、というのもポイント。
母親の労働を軽視し、女性を下に見る搾取意識がなければ、こうした感覚は生まれない。
そして残念ながら、一般的には美化されがちな「母親の息子への愛」も、実は無償の愛というより、「男好き」の表れだといえる。
「男好き」とは性的な意味だけではなく「男の権力が好き」という意味だ。
性欲ではなく権力欲と結びついていて、この点で男性の女好きが支配欲であることとは全く異なる。
多くの母親が、娘よりも息子を可愛がる傾向がある。
なぜか?
男社会では、男の価値が女の価値を圧倒的に上回るからだ。この内面化した女性蔑視をベースにした「男好き」の心理は、性欲なんかよりずっと根深い。
歴史的に被抑圧階級の女性にとって恋愛や結婚は「男の権力や価値を自分のものにする」という面があった。
だから嫁姑争いは「家父長制のわからせ構造として男の下で既得権益を得た女」と「新たに参戦してきた女」の権力争いで、ビジネスバトルと構造は同じだ。
女性一般が恋愛フィクションを好むのは恋愛が男性の権力を自分のバックにできる手段で、女性差別が蔓延した男互助会で労働するより手っ取り早く効率的に権力に到達できるからである。
かつてはその構造に押し込められた女性と男性の需要供給が釣り合わされていた。
しかし女性差別をベースにした家族集団が芯から順調で幸福だろうか? 答えは少子化に現れている。多くの女性はもうそこにいたくない。
「母親の無償の愛」という幻想に過剰な価値を置くことは、個人にとっても社会にとっても有害で不幸だ。
母親の権力欲と息子の女性蔑視が互いを補完しそこに家庭内で無能武器化した父親が混ざるとアットホームなブラック企業のような様相を呈する。
一方、男性の「女好き」もまた、娘を特別視したり妻を男社会の権力(=金、暴力)で支配する形で現れる。
男性の「女好き」は社会的に容認されるが、女性の「男好き」は批判されやすい。
しかし、どちらも本質的に問題をはらんでいる。特に親としては、子どもを社会から預かった命として、冷静に育てる姿勢が求められる。
恥ずかしい話だけど、夫を親のように感じている。
夫とは2年前に結婚した。出会いは自治体の婚活イベント的なやつで、知り合ってから結婚までは1年もかかっていない。
まず、経済面で依存していること。現状、家賃も光熱費も夫が払っているし、食費も半分以上夫持ちだ。私は持病のせいもあってフルタイム勤務が難しい。実家にいた頃も自分のためのお金(ガソリン代や医療費などを含む)を稼ぐので精一杯で、完全に親に養われている状態だった。気持ちとしては、養い主が親から夫に変わっただけという感じ。
次に、家事をやってもらっていること。夫は一人暮らし歴が長く、家事が得意だ。一方の私はとにかく掃除と洗い物と片付けが苦手で、夫に「食器が洗いきれていない」と指摘されることも多い。本来なら、経済面で貢献できていないぶん家事労働を負担するのが筋だと思うのだけど、現状ではむしろ夫の方がちゃんと家事をしているのでは?と思っている(し、夫もそう思っているだろう)。
そして何より、精神的に甘えていること。私は夫が相当好きだと自覚しているのだけど、その「好き」は夫婦の愛情というより「子供が親に甘える気持ち」に近い気がしている。
これは、私が子供の頃に親から「無条件の承認」をあまり受け取れなかった(これは親だけが悪いわけじゃなく、私が受け取るのが下手だったのも大きい)のを、今になって取り戻そうとしているんじゃないかと思っている。
私たちには子供がいない。夫婦ともに不妊体質のようで、しばらく前から不妊治療を受けている。夫は子供を欲しがっているけど、私は正直あまり乗り気ではない。私みたいな未熟な、図体だけ大きくなった子供のような生き物が果たして「子供」を育てられるか?という不安が一番大きいけれど、その陰に「まだ『夫の子』でいたい」という気持ちが潜んでいることを、自覚している。より露骨な言い方をするなら、(今はまだ)誰かに『夫の子』の座を明け渡したくない、という気持ちだ。
改めて文字にしてみると、自分がいかに幼稚で未熟かが浮き彫りになっていて、恥ずかしいし情けない。でも、現状として夫に親の役割をしてもらっているのは事実だ。だからこそ、私は、これから少しずつでも「妻」にならなければいけない。できるだけ対等な、夫と支えあえるような「大人」になれるよう努力しなければいけない。そしていつか「母」になったとき、「父」となった夫とともに「子供」を育てられるようにしたい。
[【追記】
色々反応ありがとう。気持ちが助かるブコメいっぱいでありがたい。
トップブコメの自己憐憫は当たってると思う。増田に書いてブコメという集合知に触れられるのはありがたいね。
頭で分かったからってどうにかできることじゃないからしんどいけど、ほかの人から見た視点は私には必要だと思うから大事に読み返すね。
大人になって今抱えてる苦しさは、「ああ~何もせずに受け入れられてえ~そのままニヤニヤしてるだけでチヤホヤされてえ~」というのではなく(私でなくても流石にそんな奴はそうそういないだろうが)、
何か役割を果たさないと居場所が無いように感じてしまう役割を求めてうろつくゾンビっていうか、「早く…早く、自分にもできる事を見つけなきゃ(どう思われるか怖い)!」みたいな焦燥感を抱えてるっていうかそういう苦しさ。
ずっとどのコミュニティへ行ってもその焦燥感や渇きがついてくるのかな、さすがにそろそろしんどいわいい歳してイタいしっていう苦しさ。
子供の頃の自分を慰めたくても、当時の自分には手が届かない。子供の頃の自分を憐れむ気持ちと、上に書いたような自分を憐れむ気持ちと。ここが正に自己憐憫だね。
【元の投稿】
ありのままを受け入れられたいって増田で思い出したんだけどさ。
このあいだ馴染みの店で閉店後の身内のまかない時間みたいなやつに混ざっていい事になったんだよ。
お店の人たちが食べるための食事が厨房でどんどん盛り付けられていくからそれをテーブルに運んで、ついでにお箸を並べるのも手伝った。
そしたらお店の人が「お客さんなんだから、何もしなくていいんだよ。座っててね」って言ってくれたんだけど、「いや、何かしてないと落ち着かなくって…長女だからかも~」「あー、僕も長男だから分かる~w」くらいの軽い雑談をして邪魔にならない程度に簡単なお手伝いを継続した。
私としては、お代を払わない食卓にお招きいただいたのだからできるお手伝いはして当然と思ってやってたんだけど、なぜかその時の雑談を数日間何度も反芻してた。
「ああ、私は家事労働という条件を満たさないと居場所がない、ありのままでは受け入れられない子供だったんだな」ってさ。
それで、なんだか今とても落ち込んでいる。
普通に食卓に着いても、自分は愛されている・ここにいて良いんだっていう自己肯定感を子供時代に育てることができたひともいるのに。
https://anond.hatelabo.jp/20250328115148
Permalink |記事への反応(13) | 21:13
就労を禁止抑制、職種制限をしたり教育を受けさせない、子育て家事労働を押し付けたりと女性の労働価値が上がらないようにすることで男性の性的価値を維持してきた。
それ故に男性は女性の労働的価値を上げる事に徹底して抵抗する。
ガス抜きの為に女性活躍だなんだと提案するが本質的には変わらない。
女性の名前の自己決定権を譲らないのもそれが女性の名前を男性のものに変える=男尊女卑の象徴だからである。
女性に気付かれると困るので必死で女性解放運動=フェミニズムを攻撃しあれは異常であると他の多くの女性を洗脳しようとする。
そうやって女性の労働価値を不当に貶める事で男性の性的価値を維持してきた。
今までは男尊女卑社会を維持する為のお見合いという制度(そこでは基本的に優劣は問われず女性を嫁に出す=家同士の話あいで決定した。)で能力は低くても仕事さえしていれば救済されてきた。
それは男性の価値優劣は基本的には労働価値で決まるという身も蓋もない現実である。(勿論最初から性的価値が高い男性はる。しかしそれは極少数で構造的にはノイズである。)
はっきり言えば金を稼げない男に性的価値はなく救済措置もないという事である。
マッチングアプリはスペック競争である。弱肉強食である。労働価値のない男性は勝てるわけがない。
以上のように所謂弱者男性は労働的価値による選択では勝てない事になった。
これは男性の労働価値と女性の性的価値を交換するという構造上不可避の事である。
女性が男尊女卑の抑圧の構造を知った以上女性から後戻りはしない。
解決するには男性の数を減らすか、女性から暴力的に仕事を奪うか。
あるいは「男性の労働価値と女性の性的価値を交換するという構造」を根本から変えるか。
弱者男性が救済されるのはどの道か。
結婚8年目
子供もいないし、夫は家事もやる方だと思う(日頃の料理も、おしゃれ着以外の洗濯もできる)
きっと家事労働としては楽なほうなんだろうけど、なんだか疲れてしまった
ゴミ箱の上に置かれた缶を片付けてたときにふと虚無感に襲われた
もちろん洗濯機のゴミとりも、洗面用品の補充もしたことがない(足りなくなったら詰め替え品の封を切って使い、詰め替えることなくそのまま放置する)
なんなら、資源ごみの分類も知らないだろう。不思議だね。前は1人暮らししていたはずなのに。
玄関を掃除したことなんてないし、そのような概念すらしらないかもしれない(一度も気付かれたことがない)
いつもあれがない、これがない、どこに置いたの?と聞いてくる
あなたが買い集めて、使うことも整理することもなく突っ込んだ、あの棚のどこかじゃない?
新しい趣味を始めるたびに物を買って、集めて、飽きたら放置する。
週に一度しかしないランニングのために、シューズや靴下やウェアをいくつも買う。それ、どこにしまうん?
飽きた趣味の用品、いつまで玄関や廊下に置いておくん?未開封のものまであるね。
手放し方も処分方法もきっと知らない。いや、きっとものの管理に責任感がない。
引っ越しの折に、家の荷物をまとめながら夫の整理整頓に付き合うのがせめてものチャンスだけどそんな機会そうそうない(しかも本人はとてつもなくめんどくさそうにする
週末、私は平日溜まった家事をする
罪悪感から?手土産のテイクアウトの夕食か、もしくは疲れた体に鞭打って料理を作ってくれる。
でもなんかもう嬉しくないし、楽しくない
はじめに
近年、日本社会において「ヤングケアラー」という言葉が徐々に注目を集めつつある。ヤングケアラーとは、家族の介護や世話を担う18歳未満の子どもたちを指す。この問題は長らく表面化していなかったが、社会構造の変化や高齢化の進行に伴い、今後10年のうちに大きな社会問題として顕在化する可能性が高い。本稿では、ヤングケアラー問題の現状と背景、そして今後の課題について考察する。
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ヤングケアラーは、家族の介護や看護、家事労働などを日常的に行う子どもたちである。彼らは親や祖父母、兄弟姉妹などの家族の支援を担い、大人が本来果たすべき役割を果たしている。しかし、その責任は子どもたちの成長や発達に深刻な影響を及ぼす可能性がある。
日本におけるヤングケアラーの正確な数は明らかになっていないが、2020年の政府調査によれば、中学・高校生の約5.7%が家族の世話を日常的に行っているとされる。この数字は約20万人に相当し、その多くが支援を受けられずに孤立している。
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日本は世界で最も高齢化が進んだ国の一つであり、65歳以上の高齢者が総人口の約28%を占めている。今後も高齢化は進行し、介護を必要とする高齢者が増加する。この状況下で、家族内での介護負担が増大し、子どもたちがその一端を担わざるを得ないケースが増えると予測される。
都市化の進展に伴い、核家族化が進行している。また、経済的な理由から共働き家庭も増加しているため、家族の中で介護を担う人手が不足しがちである。その結果、子どもたちが介護や家事を引き受ける状況が生じている。
2.3社会的認知の遅れ
ヤングケアラーの存在はまだ社会的に十分認識されていない。このため、支援制度の整備も遅れており、問題が潜在化している。子ども自身も自分の状況を「当たり前」と感じ、外部に助けを求めにくい傾向がある。
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3.1教育への影響
介護や家事に時間を割かれることで、学業に集中できない子どもが多い。遅刻や欠席が増え、成績の低下や進学の機会を失うリスクが高まる。また、進路選択においても家族の世話を優先せざるを得ず、将来の可能性を制限される場合がある。
3.2 心身の健康への影響
過度な責任とストレスは、子どもの心身の健康に深刻な影響を及ぼす。疲労や睡眠不足、精神的な不安や鬱症状など、健康問題を抱えるヤングケアラーは少なくない。また、友人との交流が減り、社会的な孤立感を深めることも懸念される。
3.3 将来への影響
幼少期や青年期に過度な負担を経験することは、人格形成や人生観に影響を及ぼす可能性がある。自己評価の低下や社会的不信感を抱くことで、将来的な社会参加や自立が困難になるケースもある。
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4.1労働力不足の深化
ヤングケアラーが適切な教育やキャリア形成の機会を失うと、将来的な労働力不足が深刻化する恐れがある。これは日本経済全体にとって大きな損失となり得る。
4.2社会保障費の増大
ヤングケアラー自身が心身の健康を損なうことで、医療費や福祉費用の増大につながる可能性がある。また、適切な支援が行われないまま高齢者の介護が進むと、社会保障制度への負担も増加する。
ヤングケアラーの増加は、地域社会における人間関係やコミュニティのつながりを弱める要因となる。子どもたちが地域活動や友人関係を築く機会を失うことで、社会全体の連帯感や協力体制が希薄化する懸念がある。
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5.1社会的認知度の向上
まず、ヤングケアラー問題の存在を社会全体に広めることが重要である。メディアや教育現場を通じて情報発信を強化し、理解と共感を促進する必要がある。
行政やNPO、地域社会が連携し、ヤングケアラーを支援する体制を整えることが求められる。具体的には、相談窓口の設置、経済的支援、介護サービスの拡充などが挙げられる。
学校はヤングケアラーを早期に発見し、適切なサポートを提供できる場である。教職員の研修を行い、子どもたちの状況を理解しやすくすることが重要である。また、学業と介護の両立を支援するための柔軟な教育体制の構築も必要である。
5.4法制度の整備
ヤングケアラーを保護・支援するための法制度の整備も検討すべきである。海外では、ヤングケアラーに対する支援を法律で定めている国もあり、日本も参考にすることで効果的な支援が可能となる。
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おわりに
ヤングケアラー問題は、今後10年のうちに日本社会で顕在化することが強く予想される。その影響は子どもたち個人の人生だけでなく、社会全体の持続可能性にも関わる重大な課題である。私たち一人ひとりがこの問題に関心を持ち、子どもたちが健やかに成長できる環境を整えるために努力することが求められる。未来を担う子どもたちのために、今こそ具体的な行動を起こす時である。