
はてなキーワード:実践とは
うちは柔道場を営んでいる。一応は家族経営という形だ。もうすぐ、この道場の正式な後継者になる。
一応は名門と言われてきた道場だ。平均的な広さの道場に比べれば畳数もある。学校の柔道場には及ばないが。
ただ、名門という看板は泥まみれに近い。少なくとも泥は被っている。
タイトルのとおりで、だいぶ昔のことだが教え子を死なせてしまった。遺族から訴訟を起こされてニュースにもなった。
厳密に言えば、元妻が死の原因を作り、俺はそれを傍で見ていただけだ。けれど、それは俺の責任でもある。
こんな自分が道場を継いでいいのか?そう自問すると心にくるものがある。
こんなことを書いても意味はないかもしれん。でも、増田で人生相談を投げて、素敵な人に回答をもらっているのを見たことはある。それに賭けてみたい。
個人的な希望としては、ピンク髪のアイコンの女性や、ジャックフロストの人、あるいは正面右向きの若い男性の人に回答いただけると嬉しいと思う。どのような方の意見でも嬉しいのだが、同じブクマカでもBOTはできればご遠慮いただければと存ずる。
pico-banana-appのファーストブクマを回避できることを祈ってる。FreeCatWorkは死んでほしい。ゲド戦記はクソ。
本当に信じられないかもしれないが、全て事実である。15年以上前のことだ。
あの頃は若かった。県内の名門高校を卒業した後、全国大会には行けなかったけれど、東京にある柔道が強い大学に進んで、実業団で働きながら柔道をやった。
そして、20代後半になって生まれ故郷に帰り、また柔道を教え始めた。
あの頃の俺は調子に乗っていた。慢心していた。「俺がここを継ぐんだ、伝統の一部になるんだ」という意識だった。ただの慢心である。
柔道界での実績がない俺と違い、父は本当に凄かった。父の指導を受けたいという入門希望者が毎年春になると何十人も来て、そのうちの数人だけを選んで入塾させるのである。今ではあり得ないほど贅沢な行為だ。
事件当時の話をしようと思う。20代後半の頃は、柔道の専門資格の勉強をしながら道場で教えていた。それで父から給料をもらっていた。柔道だけで生活ができる、いい時代だった。
特に、子供の指導には熱が入った。親父も俺も、5才になる前から柔道をしてきた。あの頃は、小学生の子どもらに対して、平気でこんなことを伝えていた。
「ここで泣いてるようじゃダメだ」
「もっと強くならないと」
「気を抜いてんじゃねえっ!!」
とか。今思えば完全に狂っていた。
あの日のすべては覚えていないが、事件のことははっきり覚えている。夕方の時間で、小学生~中学生の指導タイムだった。
その子は体が大きくて、将来が期待できる子だった。だから俺も、厳しくすればもっと伸びる、もっと追い込まないと本物にならないと信じきっていた。
その子への練習は、ひたすら大外刈りの打ち込みと、乱取りだった。
その子は、柔道自体のキャリアは長くなかった。乱取り中は何度も何度も、畳に投げつけられていた。特に中学生が相手になると厳しかった。
その子の息が上がって、顔が真っ赤になっても、俺は「まだいける!」「お前はこんなもんじゃないぞ」と叱咤していた。
ここまではよかったんだ。これくらい追い込まないと、本当の強さは手に入らない。どうせ柔道をやるなら、勝てた方がいいに決まっている。
でもここで、悪い方向への連鎖が起き始めていた。乱取り中に、その子がガクンと膝をついたのだ。
その隙を突いて、相手の子が大外刈りをかけた瞬間、受け身が取れず、畳の縁に近い場所で頭のあたりから落ちた。
一瞬、動きが止まった。俺はすぐに異変に気付いて駆け寄ろうとした。
だが、その時、隣にいたのが元妻だった。当時は、同年代になる妻がいた。俺と同じく指導者だった(今は離婚)。
というか、こいつと結婚をするから実業団を辞めて、こっちに帰ってきたのだ。
柔道の指導の話に戻るが、元妻はさ、俺が動こうとするのを遮って声を上げた。
「立って!ここで休んだら終わりだよ!そんなことで倒れてたら試合で勝てないよ」という趣旨だった。
元妻も柔道の名門公立高校の出身で、とてつもなくプライドが高い女だった。指導は情熱的で、厳しさでは俺以上だった。特に、女子への指導はトンデモない厳しさだった。
その時の俺は、元妻の言葉に圧倒されてはないけど、見に徹することにしてしまった。道場の角の方では、親父が年少の子ども相手に足技のデモをしていた。「頼むから、こっちに気付いてくれよ」と心の中で懇願した。
あの時、脳裏では「まずい、休ませろ」という声が響いていたのに、それを口にできなかった。元妻の暴走を止められなかったのだ。
元妻はその子に立ち上がるよう命じて、その子がフラフラしながら立ち上がると、元妻は「立てるじゃん」って、また練習を継続させた。
数分後、その子はもう一度、投げられた。今度は受け身も取らなかった。意識を失った。
救急車を呼んだが間に合わなかった。死因は脳の外傷に近いものだった。外傷性ショックというのか。または後頭部強打による脳の損傷。
原因は言うまでもない。元妻がオーバーワークに気が付かず、その子に無理をさせて練習を続行させた。それが致命傷になった。
でも、うちの道場でのことだ。妻のせいにするという逃げ口上は通用しない。
危険な判断を実行したのは元妻だ。でも、指導者としてその場にいながら傍観した俺の罪は、直接手を下した元妻と一緒だと思っている。
その後は地獄だった。書きたくないけれど、書かないとブクマカへの相談にならない。
・刑事事件には発展しなかった(柔道界からの社会的信用によるものか)
裁判は長期間に及んだ。本当に長い期間だった。控訴して粘ったけど、道場側の過失となった。当たり前か。
マジで後悔している。あの時の元妻の傲慢な指導と、俺の「見ていただけ」の怠慢が、あの小学生の未来を摘んだ。本当に、本当に申し訳ない(;_:)
最後は、親父が頭を下げて、資産も全部かき集めて、多額の賠償金を支払った。事件が起きてからは塾生もだいぶ減った。社会人は減らなかったが、小中学生の減少が生活レベルにまで響いていた。
ただ、俺らが不幸になっても、ご両親の怒りや悲しみが消えるわけがない。俺は傍観者という名の共犯者だ。
元妻とは、道場の未来に関する意見の相違で泥沼になり離婚した。あいつも指導者としてのキャリアを失った。当然の報いだ。
事件の後だが、道場は細々と再開し、必然的に俺が指導の中心になった。あれから親父は指導をしなくなった。
確か、事件から数年間は、講演会にも柔道指導の場にも呼ばれなくなった。広島県警の柔道場で親父が教えることも無くなった。柔道界から干されたのだ。目に見えて元気がなくなっていた。
でも、今では道場に通う門下生はだいぶ回復している。小学生から社会人まで幅広く揃っている。みんな真面目に柔道を愛してくれている。俺はもう、あの頃みたいに熱くなれない。
指導中、子供たちがちょっと息を切らしただけで、あの時の光景がフラッシュバックするのだ。特に、投げ込みや乱取りなどの実践練習の時は、酷く手が震える。
その……「大丈夫か?」「少し休むか?」って、過剰なほどに声をかけてしまうのだ。
子供たちは戸惑うだろう。俺というのは、ただの安全管理に怯える腰抜けである。自分でも滑稽だよ。
でも、道場の看板だけは守りたい。祖父の代から70年以上続いている道場を無くすことはできない。
今こうして書いていると、当時の俺の不甲斐なさが本当に許せないし、そういう兆候が出ていた元妻とどうしてもっと早く離婚しなかったんだろうって、後悔がある。
元妻は、階級意識っていうか、プライドというか。そういうのが根強い奴だった。
「名門道場の跡継ぎの妻」というステータスが、たまらなく気持ち良かったらしい。なんでわかるかというと、ブログである。あの当時はブログが全盛期だった。芸能人やプロスポーツ選手はみんなブログをやっていた(今でいうXとかインスタ、tiktokみたいなもの)。
それを活用して、うちの道場の宣伝とか、今の時代で言う児童生徒に対する「ハラスメント」とか「マウントを取る」という行為をしていた。
ひとつだけ、どうしても憤懣やるかたない記憶がある。胸糞かもしれないが、元妻との思い出を書かせてほしい。
中でも特に許せなかったのが「花嫁修業」である。そんなタイトルをブログ連載記事に付けていた。
阿保じゃないのかと。元妻は小学生~中学生の女子をメインに指導していた。
事故が起きる約一年前のことだ。うちの道場に通っている、近所の学校の女子生徒さん達がいた。少なくとも8人以上で、みんな熱心な子だった。
元妻はそれを口実に、「うちの道場では柔道だけじゃなく、将来の日本を支える女性も育成します」みたいなことを言って、女子生徒数人を家に泊まらせる。
※大げさかもしれんが、ブログで本当にそんなことを書いていた
そして練習が終わって、柔道着を脱いで体操服姿になった彼女たちに、夕食とか、翌日の朝食やお弁当を作らせる。
「一人前の女性なら、このくらいはできないとね♪」
「〇〇ちゃんは、お弁当の詰め方が雑。そんなんじゃ未来の家族に恥ずかしい」
「野菜を切るならその前に魚をオーブンに入れないと。なんで?要領が悪すぎる~<`ヘ´>」
みたいなことを、本当にマジでブログに書いていた。そのうえで、俺個人の名前まで出して、まるでうちの道場の指導方針の一部みたいにして書いている。
本当にマジで、女子中学生を相手にマウントを取ってるだけなんだよ。うちの道場の名前を使って。
さらに最悪なのは、花嫁修業(とブログにあった)中の写真を、元妻がブログにアップしていたことだ。
『今日の○○ちゃんの力作お弁当♡』みたいなタイトルで、日々そういう写真をブログに載せていた。さすがに女子生徒の顔までは載せてなかったけど。だが、後ろ姿は普通に映っていた。
あの子達の親は、どういう気持ちでブログを読んでいたのだろう。
繰り返すが、そのブログというのはマジで本当に、嫁の自慢話と、世間に対してマウントを取るためのものだった。生徒の親御さんには「道場での取り組みの一環です」と方便を使っていたのを、この耳で聞いている。
うちの道場は、一人の子供を死なせて、やっとの思いで今、信頼を取り戻そうとしている。そこまで来ているのだ。同じ市内の人だって、あの事件のことは忘れてくれている。このまま頑張れば、時間とともに事実は……と期待する。そういう感慨に浸ろうとしても、あの頃の記憶が蘇ってくる。元妻のマウント発言である。
「これは道場のためだから。増田くんのこともブログに書いてるから。本当に道場のためだから、安心して」
ってさ。そんなことを言っていた。俺はあの頃、黙って許していた。放任していた。それが、あの女の暴走を許す免罪符になっていた。
今現在でも「本当にごめんなさい、すいませんでした」というあの子への思いが込み上げている。
冒頭のとおり、もうすぐ正式に道場の跡を継ぐことになる。教え子を死なせた男が、この道場の責任者になる。
俺は、あの時の過ちを繰り返さないために指導を緩めるべきなのか。それとも、名門の看板を背負い続けるために、リスクを背負ってでも厳しい稽古を課すべきなのか。
指導を強くすればまた死なせてしまうかもしれない。指導を弱くすれば、実績が出せずに道場が潰れるかもしれない。潰れてしまえば、俺の罪は償えない。この道場を守ることが、親父とあの子にできる唯一の償いだと思っているから。
それに、父兄からの信頼だって失いたくない。今度こそは、子供の命を預かる仕事を貫徹させたい。
最後に、ここまで読んでくれた人に感謝したい。愚痴いっぱいで気持ちが沈んでしまったかもしれないが、マジの思いを書いたつもりである。もちろん、誹謗中傷も覚悟してる。それも俺への罰だ。
子連れの女性なんかでも、黒髪にするな、カラフルな派手髪にすると舐められない、といったアドバイスを目にする。自分も割と見た目がスモールサイズかつ童顔のため、特に高齢の男性などから横柄な態度で接される事が多くあった。
仕事をしてないのなら、派手髪にネイルなども検討できるのだが、私の場合にはスーツを身につける必要のある仕事であり、なかなかそうも行かない。
仕事においても不便を感じるタイミングが稀にあり、最初のうちは対応に困ることもあったが、TPOをわきまえた上である程度外見で舐められないコツを掴んできたので共有させていただきたい。
舐めた態度を取ってくる他人と関わって嫌な思いをするシチュエーションは、通り魔的にいきなり不躾な言葉を投げかけられるといったことが1番多い。
それ以外にも、取引先で若いというだけでクソデカ舌打ち喰らうとか、話聞きたくないとか、上のもん出せとか言うやつもいる。
奴らは咄嗟にこちらを見て、こいつならやっても大丈夫だと判断し、反射的に暴言などを吐いてくる。
ここで重要なのは、他人を舐める人はよく考えて舐めているのではなく、ほぼ反射的、自動的に舐めているということだ。舐めPower Automateを搭載した人間は迷惑だしシャクだが、対策する他ない。
⚪︎舐めPower Automate
Power AutomateとはMicrosoftの提供する自動化ツールであり、アクションを起こすためのきっかけとなる「トリガー」とそのトリガーによって分岐する「アクション」の組み合わせで様々な作業を自動的にこなしてもらえる非常に便利なツールである。
舐めPower Automateを搭載した人間も、このトリガーによって「舐める」「舐めない」というアクションを起こしている。
そのため、「舐めない」というアクションを起こさせるトリガーを我々が提供できれば舐めは発生しない。
わかりやすい例だけ挙げる。
・派手な髪色
・男性的
・マッチョ
・高身長
・目つきの悪さ
・整った顔立ち
・高い鼻筋
・日焼け
・派手なアクセサリー
・彩度の高い服
・開襟シャツ
・高いヒール
などなど。
ビジネスシーンかつ若い人間にはなかなかハードルの高いものも多く、中には先天的な要素もある。
ビジネスに馴染む部分を取り入れたい。
先程は舐めない分岐へ移行させるトリガー条件を紹介したが、この舐めフローにエラーを吐かせて舐めるというアクションを封じる手もある。
ではエラーをどう吐かせるか。
「一目みて判断できない」「一目みて違和感がある」格好をすれば良い。
女性で1番楽なのは髪型をベリーショートにしてパンツスーツにすることだ。黒髪でも新卒スタイルでもこれだけで結構エラーを吐かせられる。
まあ、そこまでするのはなかなか難しい。
そのため、先程の舐めないトリガー条件と組み合わせて活用したい。
女性では、「いかにも新卒というスタイルしかダメ」でなければ、なるべくトップスを白ブラウス白シャツ以外にするのが良い。1番いいのは、濃い色の襟付きブラウスや襟だけ柄や色の違うブラウス(シャツ)である。そして、舐められやすい若者はできれば第一ボタンは閉める。キッチリしてるのかしてないのかどっちなのかという迷いがエラーに繋がる。オリヒカとか東京シャツとかでよく売ってる。
とにかく青とか灰のストライプ柄とかでいいので、まっ白じゃないものを選びたい。
特に舐められやすい自覚のある人は胸元がV字になるトップス(スキッパーシャツ含む)は着ない方が良い。
ビジネスシーンで胸元を広く見せるのは強者オーラを出せるようになってから。最初は首元の露出が低いもののほうがいい。
⚪︎舐められない顔面
額は出せば出すだけ良い。
メイクはあまりよく分からないが、眉毛だけはちゃんと描くほうが良い。
まず本当のキングは麻生太郎。麻生このタイミングで何としても公明を地に落としたい。
このタイミングなら自民は浄化できる(宗教団体の支持を脱却できる)と考えた。
だから意見が合致する維新と組めた(自民は過半数が必要、維新は大阪都構想ができれば何でもいい)。
②比例議員の大幅削減(公明と選挙協力をする理由=比例制度があるから)
③(参政党を使うなどによって)国民民主党は公明と近いと吹聴して弱らせる
④予算成立のための最悪のケースを想定し、維新の自滅時のバックアップとして国民民主党は生かさず殺さずにする
⑤維新が言うことを聞かなくなると「国民民主党と組むぞ」と脅して言いなりにする
だからあれだけ「企業団体献金禁止」と言っていた維新が「議員定数の削減」などどというわけのわからないことを言い続けて、受け手規制を拒否している。
維新が「議員定数の削減を!」と言う=自民への忠誠を示す、ということなんだろうね。
京都大学の学生生活とは、常識を疑い、既存の枠組みを超越することの連続です。それは学問の世界に限らず、日々の生活、特に「食」の領域においても顕著に現れます。
私が提案するこの食べ方、「堅八ツ橋に明太マヨを載せて食べる」「堅八ツ橋にワサマヨを載せて食べる」という行為は、単なるゲテモノ食いや奇抜なアイデアではありません。これは、京都大学で培われた「既存の概念の解体と再構築」という、極めて京大的な知的好奇心の表れなのです。
堅八ツ橋は、古都京都の伝統を凝縮したお菓子であり、その香ばしさと固い食感は、ノスタルジーと品格を伴います。対するマヨネーズ、明太マヨ、ワサマヨは、現代のジャンクな感覚と、刺激的な味覚を象徴しています。
この二つの極端な要素を結びつける行為は、まるで西洋の論理学と東洋の仏教哲学を融合させようとする試み、あるいは古典文学と最先端のAI技術を掛け合わせる研究テーマのようなものです。伝統と現代、甘味と塩味、堅さとクリーミーさという、一見相容れない要素を対峙させ、その相互作用から生まれる新しい価値(すなわち「新しい美味しさ」)を探求する。これこそが、京都大学の学生が持つ、学際的かつ批判的な思考の真骨頂なのです。
まず、「堅八ツ橋に明太マヨを載せる」という行為を京大的に考察します。
堅八ツ橋のシナモンの香りと米粉の素朴な甘さは、その堅いテクスチャーと共に、過去への扉を開きます。そこに、明太マヨネーズの、魚卵のプチプチとした食感、唐辛子の情熱的な辛味、そしてマヨネーズの濃厚な酸味が加わる。
これは、京都という保守的な文化の中で、新しい風(現代の味覚)がどのように受け入れられ、融合していくかという、文化人類学的な実験でもあります。明太子の塩辛さと辛味は、八ツ橋の甘さを引き立て、マヨネーズのコクが全体を滑らかにまとめ上げます。この味覚のグラデーションは、京大での研究プロセス、すなわち、素朴な疑問(八ツ橋)から始まり、複雑なデータを処理(明太マヨ)し、最終的に予想外の結論(新しい美味しさ)に至るプロセスと酷似しています。
私はこの一口を食べるたびに、「伝統の上に現代の刺激をどう配置するか」という、京都市の都市計画にも似た「味覚の配置学」を無意識のうちに実践しているのです。この異端の組み合わせを「美味しい」と断言できるのは、既存の価値観に囚われない、自由な京大生の精神があるからに他なりません。
次に、「堅八ツ橋にワサマヨを載せる」という行為を分析します。
ワサビの持つツンとした刺激は、脳の奥深くまで響き渡る、理性と覚醒の象徴です。マヨネーズと混ざり合うことで、その刺激は緩和されつつも、堅八ツ橋の甘さと香ばしさを打ち破る、鋭いコントラストを生み出します。
この組み合わせは、「知的な刺激」を求めてやまない京大生の探求心そのものです。ワサビの辛さは、まるで難解な論文や、解き明かせない数学の問題のように、一瞬の苦痛と引き換えに、深い洞察と覚醒をもたらします。
この食べ方の本質は、「甘い(快適な)日常」の中に、自ら「辛い(知的な挑戦)」を導入し、その化学反応を楽しむことにあります。ワサマヨが舌の上で弾け、シナモンの甘さが追いかけてくる感覚は、まるで京大の図書館で哲学書を読み込み、ふと、その記述の裏にある真理に気づいた瞬間の、「甘美なひらめき」に酷似しています。
「なぜワサビなのか?」「なぜマヨネーズと組み合わせるのか?」という疑問こそ、京大生が常に自己に問いかける「なぜ、そうなのか?」という、根源的な問いなのです。この味覚の実験を通じて、私は自己の限界と、味覚の多様性という「人間の認知のフロンティア」を拡張しているのです。
私にとって、堅八ツ橋とマヨネーズ系の組み合わせは、単なるおやつではありません。それは、京大生としてのアイデンティティ、すなわち、「既成概念を打ち破り、異質なものを統合し、新しい価値を創造する」という精神を日常の中で具現化する「味覚の演習問題」なのです。
京都のお好み焼きにプラッシーという王道の組み合わせを愛する一方で、堅八ツ橋に明太マヨやワサマヨという異端を追求する。この二律背反こそが、私の持つ「京大的なるもの」の奥深さを示しています。伝統を尊重しつつも、伝統に縛られず、常に新しい知の地平を求める姿勢。
妻との会話が「京大的なるもの」として日常を再構成するように、この異端の食べ方もまた、私の食の風景を「京大的なるもの」として彩り、人生の歩みを、常に刺激的で、知的好奇心に満ちたものにしているのです。今日もまた、私は堅八ツ橋の袋を開け、マヨネーズのチューブを手に取るでしょう。京大生だから、私は食のタブーを破り、味覚の真理を探求し続けるのです。
最初に述べておくが旦那を貶めたいがために書いているわけではない。私は旦那が大好きだし旦那も私のことが大好きだ。
当方20代後半の女。旦那も同い年だ。旦那とは結婚して今年で6年目になった。
唐突だが、私は性欲が強いと昔から自負している。自慰を覚えたのは小学生高学年だった。
あらゆる玩具をこっそりと持っているし定期的に自分を慰めている。
しかし旦那は性欲がそこまで強い方ではない。あるにはあるが人並みより少ない方だと思う。
そして旦那は早漏であり体力があまりない。一時は早漏を気にしすぎてしまいEDになってしまった時期もあったがなんとか正常に戻った。
再度述べておくが私は旦那を貶めたいわけではない。大好きだ。
そんな旦那とは二ヶ月に1回くらいのペースでしている。しているというか私がしたいので子供が出かけたりしていない時に声をかけている。
内容は至ってシンプル。雑談から始まり軽くキスをし、軽く私が愛撫されて挿入。フィニッシュ。時間にして約15分。
前々から要望は伝えているがそれでも前戯は気持ちよくない。全く濡れない。挿入時だけが本当に気持ちいい。挿入されると私はすぐに濡れる。
私からお口でしたりすることはない。強いて言えば避妊具を装着している間に舐めたりするくらい。どうしてかって?本当はめちゃくちゃ舐めたいがやりすぎるとイってしまうからだ。
本当は胸だって舐めたい。胸と下同時に触ってあげたいしぐじゅぐじゅにしてあげたい。
でも残念ながら旦那は乳首を気持ちいいと感じないタイプの人間だ。くすぐったいらしく本気で嫌がられる。開発したいと思ったしそれを伝えたが、相手が嫌なことはしたくない。
ここで初めて述べるが私はMである。
恥を捨てて言えば耳元で言葉攻めしてほしいし後ろから弱いところ攻められまくって焦らされたいしいくのを寸止めとかされてみたい。
今まで付き合った男性全員が童貞だった。友達には笑いながら筆下ろしのプロじゃんとまで言われた。私の経験上、今まで教えてあげる側だったのだ。本当はリードされたいしなんなら2時間くらいセックスしていたい。
そんな私の夢みたいなM願望を旦那に伝えたことがある。ここはこうしてほしい、ああしてほしいと。
旦那はしっかり私の話を聞いてくれた。「分かった」と。
そして旦那はたどたどしくも実践してくれた。それだけでとてもありがたかった。
…が。とてもありがたかったが、旦那に元々Sっ気はない。そのようなセリフを『言わせている』だけ、になってしまった。そのような焦らしも『させているだけ』になってしまった。
率直に言えば全く興奮できなかった。全く濡れなかった。なぜか考えた結果、受動的だから興奮しないんだと気付いた。私は能動的なSが欲しいんだ、と。
結局そのようなS要望を何度かしたものの、全く興奮できなかったため諦めて今ではずっといつもの簡素なセックスしかしていない。
あるとき魔が差して女性用風俗に行こうかと考えたことがある。秘匿性が高く確実に避妊してくれて性病にもかかっていない男しかいないであろう女性用風俗。そこで私の求める行為をしてもらおうかと。でも旦那を悲しませたくないのでやめた。悲しませたくないのだ。大好きだから。それに一度経験してしまうとマジで戻れなくなる気がした。絶対に気持ちいい事が分かっているから。きっと私はそんな経験をしたら通い詰めてしまう。
旦那とのセックスに気持ちよさを求めることはもう諦めている。感じてるフリしていったフリして挿入を促す。挿入時だけは本当に気持ちいいのでそれがメインといっても過言ではない。
そんな私はDLsiteの音声かマンガでしか抜けないので今日も今日とてDLsiteで抜きます。いつもありがとうDLsite。DLsiteだけが私の身体の救いです。
なんで日本除くのか?
まず投資の基本なんだけど、自分の場合は「生活が破綻しないこと」。
大きく儲けて遊んで暮らすとかじゃない。
世の中が大変になっても、自分と家族が生きて行けるって事が一番にくる。
これをベースに話していくんだが、
この時、自分の働いている会社が潰れたり、収入が減ったりする可能性が高い。
これがダブルリスクということ。これを拒否するために、日本株式には投資しないわけだ。
では、逆の状況を考えてみる。日本経済がものすごく良くて日本株式が上昇し、インフレが起きるっていう状況。
日本経済がめちゃめちゃ良くなっても、賃金はそんなに上がらない。
日本経済が良くなる時、同時に世界経済も良くなる可能性が高い。こういう時には世界株式から利益が上がるので問題はない。
ただ、これが起きる可能性が非常に低いので、やはり日本株式に投資する必要はない。
景気が良すぎて、日本株がアホほど上昇してる時っていうのは自分の仕事だってまずまずうまくいく。
インフレに対する自分の給与の伸びはおそらく追いつかない。インフレにやや苦しむだろうが、おそらく生活はできるだろう。
ただ、これが成り立つのは45歳である俺とか、30歳である元増田の話。
もしも高齢者で働けないのなら、日本株にも少し入れといてもいいと思うよ。
でも、優秀な日本の年金が物価スライドっていう素晴らしい制度を用意しているし、日本株式にも投資してくれているからね。
個人で対応しなくても、国が最初から準備してくれてるんだ。すごいよね。
労働人口の減少と高齢化率の上昇は経済にとって圧倒的にマイナス。
移民受け入れも進んでおらず、将来的に労働人口の減少から日本経済は徐々に停滞する可能性が高い。
そもそも日本の経済成長に期待しにくいのだが、仮にものすごく経済成長した場合にはアメリカさんが文句言ってきて、日本経済を抑圧するからね。
実際にそれがあった。
1980年代にJapanasNo.1 な時代があったけれど、プラザ合意で円高。バブル崩壊。
これだって別にリーマンショックみたいなもんで。政府が適切に対処すりゃここまで傷は大きくならなかったと思うんだけど。土地バブルとか原野商法とか放置して現在までその傷が尾を引いてるわけだからね。親からの相続でよくわかんない北海道の山野とかが出てきて唖然とした人は結構いるんじゃない??
(参考:YouTube チャンネル 資産価値ゼロ 限界ニュータウン探訪記:)
1980年代後半、当時の公定歩合見ても、なんで日銀もっと早く利上げしなかったんだって本当イライラするよ。
今だって10月に利上げすべきだったと俺は思ってるんだが、まだ利上げしてないしね。
利上げをすれば多額の変動住宅ローン背負っている人とかが苦しむのはそうなんだけど、そういう失敗した人たちはある程度切り捨てていかないと、経済ってのは成長しないんだよ。
社会主義・弱者救済と経済成長とは両立しにくい。弱者切り捨てをしながら全力で経済成長に振り切った国家には経済成長で負けちゃうんだよね。
で、次に、日本のシルバー民主主義の話だが。日本は高齢者が多くて年金に頼って生活してる人が多い。
めちゃめちゃ株式が上がるときはインフレも起きるけど、年金生活者はインフレに耐えられないんで、インフレが起きないような政策的に揺り返しが起きる。
現在、高市政権でインフレが起きてるけど、高齢者から反発を食らって落ち着いてくると思いますね。
で、今書いたように政策的な部分でも日本っていうのは経済成長に全振りできない要素がある。
株が上がって経済成長したとしてもアメリカさんや高齢者さん達から物言いが入ってどこかでストップになる。
もう1つ、地政学的リスク。アメリカと中国の経済対立の最前線に立ってるっていうのもマイナス要因だよね。台湾有事とか。
安倍政権下でものすごい量的緩和をしてきたとか、日銀が日本株インデックスETF を相当買い入れて上がっているとかね。
たまに「日本は世界で最も成功した共産主義国家だ」なんて冗談も見ますが。あながち間違ってない。
理想的ポートフォリオみたいな話があって、時価総額通り均等に投資すればそれが一番良い。
リスク少なく大きなリターンを期待できるっていう理論があるけど、それって世界中の株式市場が理想的に運営されてる場合の話ね。
実際には各国に色んな規制があり、日銀による日本株ETF大量購入とかがあるわけで理想的な状況ではないのよ。
理想的ポートフォリオを達成するための理想的条件が現実世界には存在しないのよ。現実世界は理想からずれているわけ。
あとはテクニカルな面もある。
元の記事にも書いた通り、我々の年金っていうのは結構大きな部分が日本株に投資されている。
だから自己資金では日本株式を減らさないと理想的ポートフォリオからズレてしまう。
だから理想的ポートフォリオ追求しようとするならも、自分の年金額を考えて、日本株投資分を除いて投資しなきゃいけない。
やっぱり一定程度は日本株を除く投資をしなきゃいけないって話になる。
とはいえ、元記事も書いた通り、「日本株に含むか含まないか」っていうのは投資収益の大きな部分ではない。だから含んだって構わない。
これを書いたのは「日本株除く」に疑問が多く出ていたからで、別に「この投資が唯一絶対の正しい投資方針だ」なんて俺は思っていない。
自分がうまくいった方法だし、再現性高く、他の人も実践できると思っている。
だから、自分の妻の資金も子供たち(未成年)の資金もこの方針を運営していて、家族全体でも投資は成功している。
1000万円投資先が分からないニキのために書き、言葉足らずだった部分を補った。
> “日本経済がめちゃめちゃ良くなっても、賃金はそんなに上がらない。”いや、そこは上がれよ
このところ日本株式インデックスが過去最高値を更新していたね。
これが経済の仕組み。上がってほしいのはわかるが、昇給を勝ち取るのは大変だ。
>投資の原則である分散のために日本を除いた投資商品を持つのがセオリー(ただこの何年かは日本株は割安で買い時でしたね)
おおむね同意。
「この何年か」ではなくて、「30年ほど」だと思いますけど。いやいや、今となっては「ここ100年は」の間違いか。
でもねぇ、値動きが荒すぎて怖いよ。
>持ち株会にコツコツ積んでた父親の株式を相続して持ってるのが大きくて、これ以上は日本株は不要と考えてたから、旧NISAでは先進国株式が7割に新興国株式が3割くらいだった。新NISAは考えるの面倒でオルカン一本。
ええやん。
>拙者は…オルカン率高めな忍者だけど、日本を除いちゃうと銘柄選定に制限が出て最適なパフォーマンスが出ないのではと考えてるタイプの忍者。出口の瞬間も日本強ければ良し、弱ければ配分少ないから影響も少な(忍
そうでござるか。
それも1つの考え方でありましょうな。
>日本除くってのは自分自身が円資産だという考え。既に2~3億の円資産があるなら残りは海外で良いだろって考えだよ。
せやね
生涯年収を2億と仮定して、これが安定の円資産。だから海外中心に投資する方がバランスがとれるという意見ですね。
>持ち株会反対も同じで、自分が持ち株(ただし、弊社はファンドに買収されて株価10倍になって涙目)
そんなこともあるんだね。
でも自社株に fullbet なんてできないでしょ。
その儲けが100万なのか、1000万なのか知りませんが、長期投資で取り戻せる額だと思います。
そういうのって言い出したらきりがないよ。見逃してきた10倍株、100倍株。たくさんあるはず。iPhone を買う代わりにApple 株を買っておけばとか。Kindle 本を買う代わりにAmazon 株を買っておけばとかね。
仕事に精を出し、日々研鑽を積み重ね、投資は気にせず、じっくり豊かな人生を歩んでいきましょう!
そうだよ。それが安定を重視した場合の、基本の考え方。
会社が購入資金を補助してくれるなら話は変わってくる。その場合はリスク許容できる範囲で持ち株会に入るのがいいんでないかな。
持ち株が増えすぎてリスクが大きくなりすぎたら、持ち株分、自社を先物で売ってリスクヘッジすればいいんじゃない? ただ、リスクヘッジにもコストがかかるから状況によるよね。
>自分はリスク承知でS&P500を月5万継続中。20年後に答え合わせしようや増田よ。覚えてないだろうけど。というか、その時にははてなはもう存在してないだろうけど。
おれもSP500も持ってるよ。オルカンと大して変わんないよ。
>オルカンにおける日本の投資割合は所詮5%程度だからな。とはいえ世界第2位の投資比率だけどね。なお1位のアメリカは60%。
うむ。
そうそう。その通り。
俺は除くけど。
>日本で働いてる人は毎月日本円だけが増えてバランスを崩すから
そう。
んー・・・それは違うかな。
確かに価格的に為替リスクはない。だけど、日本の株式会社は海外にも事業を広げているので、間接的に為替の影響はあるよね。
>全体の成長は低いけど日経225の一部は成長が著しいこと。例えば2025年のS&P500のリターンは18%だが日経高配当50は30%。低リスク資産として分散するのは普通にありだと思う。
これは非常に危うい考え方。
日経225はリスク(上下の値動き)がかなり大きい。よく言われる通り、ファストリとか一部株式の比重が高すぎるんだよね。
「2025年のリターンは」って、1990年のリターンはどうでしたか?
長期投資をするなら、よかった1年だけを切り抜くべきではないよ。
日経高配当50については知らないけど、基本として高配当株はインカムゲインが高い分、キャピタルゲインが少なく、長期的には他の投資と大して変わらない。
投資のコツは価値のあるものを安く買うこと。値段が上がった後から買うのは、「それでもまだ安い」と思えるときだけ。
>まあ日本経済の調子はどっちみちACWIに反映されるんだけど、なんにせよ自分が納得するのが大事だね / ワイは何も考えず気絶するためオルカンにしたやで
せやね。
その通り
///////
自分の意見を言いたいだけのやつが増えてきたな、そいつらには答えない。求めてないアドバイスは迷惑って、教科書に書いてあったの読まなかった?
投資アドバイスはいらない。君ら人にアドバイスする暇があるんだったら、自分の人生頑張り!
海外に投資することを日本を捨てているとか。海外の発展のためにお金を使っているとか、誤解しているのかな? 違うよ。逆だよ。逆。
ちゃんと経済情報を読んでるやつならわかってると思うけど、今の日本の産業構造って昔とは変わっていて
バブル期までは工業製品を作って海外に輸出して儲けるっていう産業構造だったけど。
今は海外からの投資収益が多い。つまり俺のように海外の株とか会社に投資して、その儲けが日本に入ってきて、その代金で原油や天然ガス輸入するっていう、そういう産業構造に変わってきている。
だから「日本除く」で外国に投資するっていうのは「日本を捨ててる」わけじゃなくて、海外の投資の利益を日本に吸い上げてるんだよ。
「日本を除くなんていう日本人しか買わない投資商品笑」みたいな意見もあったけど、ヴァンガードの扱ってるアメリカ除いた商品、あれだって。アメリカ人しか買わんやろ。そりゃそうだよ。
俺はきちんと前提条件を示して、その前提のもとで自分の投資方針を書き、その投資方針を元増田にも薦めてる。
俺の意見に反発を覚えたのは、それはおそらく前提条件が違うんだろう。別にどっちが正しいとか言うんじゃなくて、何を有意にとっているか違ってるっていうこと。人はみんな違うから、前提条件もみんな違うのは当たり前。
単に反発するんじゃなくて、自分の考えを深掘りしてどういう前提条件を持っているのかを考えたら、自己理解も深まるんじゃないかな?
4日、超党派「動物福祉(AnimalWelfare)を考える議員連盟」(岩屋毅会長、小宮山泰子事務局長)の総会を開催。今回、アニマルウェルフェアを実践されている中洞(なかほら)牧場の創設者で、東京農業大学客員教授、中洞正(なかほらただし)先生をお迎えして講演いただきました。
(略)
中洞牧場の牛乳は、一般的に流通している牛乳と比べて、大幅に高価な値段で販売されていますが、今回総会には、中洞牧場の牛乳と、市販の一般的な牛乳(中洞さん曰く「白い水」)を飲み比べられるように用意しました。
ちなみに、中洞牧場の牛乳(500mlで1200円くらい)はジャージー牛(日産10リットル)で、一般的な乳牛(日産30リットル)とは大きく違うのでそれに寄せたら到底需要は賄えず価格は急騰する。
まぁ立憲民主党を支持してる高齢者なら牛乳500mlに1000円払うのも楽勝なんだろうけど。
まぁ何にブランドを感じるかは人それぞれで良いとしても、他の牛乳を「白い水」と貶めたり、それを紹介したりする必要はなかったんじゃねーの。何で結果売ったりするかね。
久しぶりにド田舎の実家に帰ったんだけどさ。地元のイオンモールで、中学時代の同級生たち(いわゆるマイルドヤンキー層)に遭遇したわけ。
EXILEみたいな髪型した旦那と、茶髪のプリンヘアの嫁が、子供3人連れてフードコートで丸亀製麺食ってギャハギャハ笑ってる。駐車場にはデカいアルファード。 正直、昔の自分なら「うわぁ…」って見下してたと思う。知性のかけらもない会話、洗練されていないファッション、閉じた世界。
でも今回、東京で消耗しきった頭で彼らを観察してたら、ある恐ろしい事実に気づいてしまった。
「生物としての幸福度」において、どう考えても俺(都内勤務・年収1000万超・独身)より彼らの方が圧勝してるんじゃないか? ということ。
悔しいから色々考えたんだけど、これ単なる「隣の芝生」じゃなくて、構造的な理由があるわ。言語化できたので書いておく。
東京のエリート(笑)である俺たちは、常に「最適解」を探し続けてる。もっといい会社、もっといい年収、もっといい住居、もっといいパートナー。選択肢が無限にあるから、「今の選択がベストなのか?」という疑念が一生消えない。 これを心理学で「マキシマイザー(最大化人間)」って言うらしいけど、まさにそれ。
一方で地元の彼らは「サティスファイサー(満足化人間)」だ。地元にはイオンとパチンコと数軒の居酒屋しかない。就職先も親のコネか地元の工場。結婚相手は中学の先輩か後輩。選択肢がないから、迷いようがない。 「ここで生きていく」という覚悟が強制的に決まってる。 「もっといい人生があったかも」というノイズがない分、彼らは目の前のうどんと家族に100%のリソース(関心)を投下できている。
2. 「相対的剥奪感」の欠如
東京は天井がない。年収1000万になれば2000万の奴が視界に入る。タワマンの低層階を買えば高層階の奴に見下ろされる。SNSを開けば、自分より若くて成功している起業家が流れてくる。 どれだけ努力しても、常に「敗北感」を味わわされる構造になってる。終わりのないラットレース。
でも地元は違う。アルファード乗って、持ち家(土地代タダみたいなもん)建てて、子供が3人いれば、その時点でもう「地域の王」だ。ゲームクリアの条件が明確で、しかも難易度が東京に比べてイージーモード。 一度クリアしたら、あとは余生としてマリオカートを楽しむだけ。 彼らはもう「足るを知る」状態に入ってるのに、俺だけがレベル99の上限解放待ちのクソゲーを必死にプレイしてる気分になった。
俺たち都会人が金で買っているものを、彼らは「人間関係」で無料調達している。 子守りは近くのジジババがやるから無料。 車が壊れたら先輩の整備工場で安く直す。野菜は近所から貰う。
俺たちは孤独を埋めるために高い家賃を払い、承認欲求を満たすために高い時計を買い、家事代行やシッターに金を払う。 彼らはそのコストが全部ゼロ。可処分所得で見たら俺の方が多いかもしれないけど、「精神的な可処分所得(安心感)」で言えば、地元のツレとの強固なネットワークを持つ彼らの方が圧倒的に富裕層なんじゃないか。
高学歴エリートが都会でやってるのは、 「無限に湧いてくる選択肢の中から、正解かどうかも分からない最適解を選び続ける」という、リソース消費が激しいだけの苦行だった。
マイルドヤンキーたちは、 「限られた選択肢を愛し、その中で最速で満点を取り、あとは仲間と笑って過ごす」という、コスパ最強の攻略法を実践している。
フードコートで笑う彼らを見て、俺は日能研に通ってた小学生の頃から、ずっと「幸せになるための競争」をしてきたつもりだったけど、実は「幸せを感じるセンサー」を鈍らせる訓練をしてただけなんじゃないかと絶望した。
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第10章は、『ジェネレーションP』のクライマックスおよび結末 であり、
ここで物語のテーマである 「消費・広告・権力・神話の相互作用」 が完結します。
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タタルスキーは、広告を通じて国家規模の神話を完全に操作 する段階に到達します。
•コピーや映像は、個人の購買意欲だけでなく、国民全体の意識に作用
•メディア、街頭広告、テレビ、SNS…すべてが統合された巨大キャンペーン
•虚構が現実より強い影響力を持ち、国民は意識せずに操作される
ここでタタルスキーは、広告魔術師としての力を完全に自覚する。
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2. 罪悪感の昇華
3. 完全覚醒
タタルスキーはもはや個人ではなく、虚構と現実の統合体として描かれる。
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ペレーヴィンはここで、広告が現代社会の宗教・魔術であること を最終的に象徴化する。
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◆ 5. 終章としての意味
項目 内容
主要イベント国家規模の広告キャンペーン完成、虚構と現実が融合
象徴広告=魔術/コピー=呪文/ブランド=神話/タタルスキー=虚構の支配者
物語的役割 タタルスキーが広告魔術師として完成し、物語の主題(消費・権力・神話)を最高潮で体現する章
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•広告と権力の関係性:広告は単なる商業ツールではなく、社会・国家を動かす魔術
•個人と社会の関係性:個人は操作されるが、魔術師(タタルスキー)は現実をデザインできる
•現代社会の寓話:消費、イメージ、権力、神話が不可分の関係にあることを示す
タタルスキーは、個人としては虚構に操られる側でもあるが、同時に虚構を現実化する側でもある、
現代社会における「詩人=魔術師」の究極像 として描かれています。
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第10章は、
虚構と現実、広告と権力、個人と国家の境界が完全に溶けるクライマックス章 です。
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第8章は、タタルスキーが広告の力を完全に社会・政治の舞台で実践する段階 です。
ここで、彼は単なるコピーライターから国家規模のイメージ操作を行う“魔術師” へと変貌します。
小説全体のテーマである 「言語・イメージ・権力の交差」 が最高潮に達する章です。
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「ここから先、広告は個人消費の手段ではなく、国家の魔術となる。」
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•言葉・映像・象徴・リズム・色彩が統合され、国民意識を形作る
• タタルスキーは広告の“儀式性”を理解し、国家的魔術として運用
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1.快楽と陶酔
3.覚醒と野望
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「人々は商品を買うのではない。
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•モスクワの街、テレビ、新聞、街頭広告…すべてが統合された魔術の舞台
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• 罪悪感はあるが、それを超える快感と達成感
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◆ 7. 第8章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術の究極形態を体験し、国家規模の魔術師として覚醒する章
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第8章は、
タタルスキーが広告の魔術性を国家レベルで実践し、完全に覚醒するクライマックス前の章
です。
ここで彼の物語は、
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第7章は、タタルスキーが広告の力を社会的・政治的レベルで試す段階に入る章 です。
ここで、彼は単なるコピーライターから “イメージを現実化する存在” へと変貌します。
広告と権力の境界が曖昧になり、物語のテーマである 「言語・イメージ・権力の融合」 が本格化します。
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タタルスキーは代理店の仕事を通じ、初めて政治家や国家関係者 と直接接触します。
• タタルスキーは「広告手法を国家規模に応用する」という構想を耳にする
彼は初めて、自分のコピーが個人消費ではなく社会全体に作用する可能性 を直感する。
⸻
•消費者心理は、もはや商品ではなく「イメージ」「物語」を購買する
• タタルスキーは、広告=現代の儀式・魔術であることを再確認する
「人々は商品を買うのではない。
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• タタルスキーは、広告が「現実を改変するツール」になることを実体験する
彼は自覚する。
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• 罪悪感と陶酔が交錯する
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タタルスキーは、自分のコピーが 単なる商業文章ではなく、現代の詩のように機能している ことに気づく。
• 語感の美しさ
これらが、政治的プロパガンダや社会的イメージ形成にも応用可能であることを悟る。
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◆ 6. タタルスキーの変貌
第7章での彼の変化:
2. 行動指針の確立
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◆ 7. 第7章の象徴的整理
項目 内容
物語的役割 タタルスキーが広告魔術を社会・政治レベルで初めて実践し、覚醒する章
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第7章は、
タタルスキーが広告の力を国家規模で実感し、政治的覚醒を遂げる決定的な章
です。
ハードSFとしての正統性を保ちながら、宇宙探査という壮大なテーマを描き切った力作だ。
「フェルミのパラドックス」を題材にした異文明との交流、メガストラクチャーなどの概念、主人公たちの旅を通じて、人類の未来像を投げかける。
理系の読者はもちろん、哲学的思考を求める人にもおすすめできる傑作。
習慣がいかに脳の構造を変えるのか、神経科学的アプローチで解説した一冊。
単なる「習慣を作ろう」という精神論ではなく、脳可塑性に基づいた実践的なアドバイスが詰まっている。
ポジティブシンキングの限界を指摘し、「不安」や「恐怖」をいかに使いこなすかを論じた意欲的な一冊。
ストレス社会を生きる私たちにとって、心理学的に根拠のある思考法は本当に貴重だ。
バッタを研究するためにアフリコに来たのにバッタがいないという自虐的な始まり方から、その後の現地での奮闘が描かれる。
「令和のファーブル昆虫記」と評されるほど、学問的知見とユーモアが融合した傑作。
動物たちがいかに協力し、社会を形成し、生存戦略を立てているのかを、最新の研究に基づいて解説したノンフィクション。
カラスという身近すぎる存在を改めて見つめ直すことで、生態系全体への理解が深まる。
『一番大切なのに誰も教えてくれないメンタルマネジメント大全』ジュリー・スミス
自己啓発系の中でも「実践的で医学的根拠がある」と高く評価された一冊。
感情管理というテーマは、今の時代、ビジネススキル以上に重要なリテラシーだと痛感させられる。
まず前提として、なぜこの施策が出てくるかというと、若年層や都市部での支持を拡大したい狙いはあるだろう。長期政権を維持するためには、この辺へのアピールも重要になる。
あと、文化外交を行うことで自身の「硬い」印象を和らげたい総理の意向もあるだろうし。自民党内でも派閥間の調整が不要で、反対も起こらない領域、かつ経済的なコスパが高いという点で上手な選択ということになるかもしれない。
この政策が本当にうまくいくかどうか。
「そこそこ期待はできるけど、何もしなければ普通に失速する」くらいのラインにあると思う。
方向性そのものは間違っていないと思われる。むしろ、音楽やコンテンツを国の戦略産業として扱う発想自体は、もう世界では当たり前の流れになっている。
韓国がK-POPでやったように、文化を外貨を稼ぐ装置として育てるのは、もう実験段階じゃなくて実践のフェーズに入っている。
ただ、日本の音楽業界は、構造そのものが「海外に出なくても食えてしまった国」仕様のまま止まっている。
国内市場が大きすぎたせいで、わざわざ外に出る必要がなかったし、CD文化が長く続いたぶんデジタルへの切り替えも遅れた。
権利関係もとにかく複雑で、海外配信ひとつ始めるにも手続きが多すぎる。気合や根性でどうこうなる話じゃなくて、単純に「輸出向きの構造になっていない」というだけの話でもある。
素材そのものはそんなに弱くない。(はず。)
アニメと結びついた音楽はすでに海外で普通に聴かれているし、YOASOBIやAdoみたいに、言語の壁を超えて届いている例もある。
シティポップやロックもニッチだけど確実な需要があるし、ボカロやDTMの裾野は異様なくらい広い。
たぶん問題は「才能がない」ことじゃなく、「運ぶ橋が細すぎる」こと。
ここで国がやろうとしているのは、その橋を少し太くしよう、という話なんだろうけど、やり方を間違えると、いつものパターンにすぐ落ちる。
大手プロダクションにだけお金が流れて、現場のクリエイターまでは届かず、海外向けを意識するあまり無理にK-POPっぽくなって、結果として誰にも刺さらないものが量産される、という流れ。
クールジャパンで見たやつ。
本当に意味のある支援になるのは、たぶんもっと地味なところで、海外でのプロモーションの実務を誰がどう回すのかとか、ツアーをやるときの物流と費用をどうするのかとか、翻訳やプレイリスト入りを誰がどう後押しするのかとか。
そういう一つひとつは派手じゃないけど、ここが詰まっている限り、どれだけ良い曲があっても外には出ていかない。
K-POPはこのあたりを、海外レーベル・配信会社との共同ファンドを設立してサポートしたことが成功の秘訣とも言われている。
文化輸出って基本的に成果が出るまでに何年も普通にかかる。短期の選挙サイクルと相性がめちゃくちゃ悪い。だから途中で「成果が見えない」と言って叩かれやすいし、続かなかったらそこで終わる。
そして「やってる感」ではなく、効果が出る施策設計になるのかどうか。
要チェックや。
37歳夫婦で持ち家あり、ローン無し、車一台で総資産4000万(現金と株で半々くらい)を達成できた。
その理由としては、いくつかあるけれど、
夫婦両方
ブランド品、車などに興味無し。生活必需品や家電なども、ニトリなど安いものでも使えれば十分と考える。スーパーも地域で安いところによく行く(特別無理はしていない)し、買う肉も一番安い鶏肉が多い。また、毎月の収支が黒字じゃないと強い違和感を感じる。
・田舎が好き
2人とも田舎出身で、土地代や物価が安く、生活コストが低い。また、そういう所の方が静かでむしろ好き。都心部は美味しい店や買い物できる所が多く、楽しいが出費が増える。
一番高い買い物だったが、土地込みで2200万ほどの建売(4LDKで4人暮らしには十分)にした。最初、注文住宅も検討したが、それだと合計4000万は超えたと思う。家は定期的に色々コストがかかる為、負債。そもそも2人とも家にこだわりはなく、建売でも満足出来ている。
・投資を始めた
主にNISAを使ってインデックス投資の積立を30歳くらいから続けていた。これが数百万の含み益が出ている。投資の知識はお金の大学(今のYouTubeリベラルアーツ大学)から学んだ。
私(夫)
・ビジネスが好き
過去にブログと、あとは中古せどり物販でスモールビジネスを2回当てている。スモビジでも軌道に乗ると年収1000万を超えてくる。
もともとビジネスに興味はなかったが、20代の時に会社が嫌すぎて、自分の力で稼ぐ必要性を感じ、実践してビジネスの世界にどハマりした。
ずっとサラリーマンだけを続けていれば、これだけ資産が増えるのは無理だろう。サラリーマンとしては大体平均年収位だったが、今は独立している。
ちなみに、スモールビジネスは色々挑戦しているが短期撤退も多く、自分に合ったものに集中する感じで選別している。
また、学歴だが、大学は2ヶ月の勉強で入った、いわゆるFラン大である(専門学校を10月で中退し、入れればどこでも良かった)。給料の高い大企業に入った事はない。(履歴書で面接が通らない、通りにくい)。
嫁
仕事は介護職で高収入ではないが、ずっと実家暮らしの為、ひたすら貯金できたとの事。
ちなみに介護職でも夜勤メインなら割と高収入になるっぽい。生理が止まったりと体調は悪化するので、結婚後は昼職メインに変更した。
まとめると、
・お金を使わない
「ユダヤ教は西洋なのか?東洋なのか?」 という二分法をそのまま受け取るのではなく、タルムード的に前提そのものを問い直す必要があります。
ユダヤ教は本来、地理的にも思想的にも「中間領域(ミドルワールド)」にある伝統です。
東洋哲学に「複雑を複雑のまま受け入れる」という傾向がある、という一般論があるのは確かです。
つまり「複雑 → 単純」の西洋とも違い、「複雑 → 受容」の東洋とも違う。
タルムードは明らかに複雑ですが、複雑を複雑のまま放置はしません。
複雑な議論を:
1.質問で切って
3. 前提を疑い
4. 答えが出なくても、その「未解決」までも体系化する
これは西洋の理性主義と似ているようで違い、東洋の受容とも違う。
ユダヤ思想の根本は質問 → 論争 → 多層解釈 →実践というサイクルで、どちらの文明圏にもない独自のスタイルです。
| 特徴 | 東洋 | 西洋 | ユダヤ |
| 複雑さへの態度 | 受容 | 整理・単純化 | 分解し議論し、複雑さも残す |
| 真理観 | 調和 | 一元 | 多元(エルーシュ:「両方とも神の言葉」) |
| 学問の基本 | 体験・直観 | 論理・体系 | 論争・質問・解釈 |
ムカっ腹の立つ人間に対して死ねとかなんとか言ったり思ったりした所で、まあ多分死ぬ訳はないし。
みたいな捨て台詞も、大抵は全く芯を食っていない。
多分相手も規範なんか理解はしたその上で、単に自分がナメられてるから無礼を働かれているんだろうし。
「本当に」理解しているというのは、その実践以外の形ではありえない。
みたいな無敵論法を繰り出すのも虚しい。
あるいは相手も故意でなかったとて、それならまずは抗議をすれば良い話だし。
そんなモヤつきを糧に、本当に相手に突き刺さるような言葉を見つけられたら、それはカッコいい。ラップバトルの才能ってそういう事なんだろうな。
チンケなマンガみたいに、相手が何も言い返せずぐぬぬとなってしまうような。
まあでもMCバトルだって、本当は自分で刺さってなくても野次が湧けば「効いた」ことにされてしまうかもしれないしな。
それにイラッときて弁明しようとした所で、「顔真っ赤」にされてしまうんだろうし。
レスバの陳腐なダブルバインドも結構強い。というか単に多勢に無勢というか。
まあ対人関係はラップバトルやレスバばかりでもないのだし、結局政治力を養うのが一番ストレスを溜めずに済むのかもしれない。
それこそ、いわゆるコミュニケーション能力とでも言うのか。
ナメられなさそうな武器を見繕うのもその一つかもしれない。
あるいは不快な気持ちからなるべく目を逸らして、「いやこれが賢さなんだ」とか自分に言い聞かせて溜飲を下げるのも、まあザコなりの生き方ではあるかもしれない。
でもやっぱり、そんなものを全てを脱ぎ捨て、グチグチと語るのをやめてブン殴れる人間のかっこよさ、輝かしさというのは何物にも代えがたいものがある。
だからこそ、せめてフィクションだけでもそういった姿を求めてしまうんだろうな。
打撃マンとか、まさに極限まで贅肉を削ぎ落としたそれそのものだったな。
まあそれにしたって、奇襲とはいえ腕っぷしで負けない保証はない訳だけど。
そういう考えで筋トレをしてるみたいな人はかっこいいかもしれない。
まさに打撃マンだな。
でもどうせ殴れやしないような心持ちじゃあ打撃マンにはなれないな。
ナメられ辛くはあるかもしれないけど、いざナメられてしまったら、手間のかかる贅肉が余計に虚しくなるかもしれない。
理不尽に抗うために、己のために人を殴れる人間ってマジでかっこいいな。人のために殴るよりかっこいい。
そういえば打撃マンは単に己の尊厳だけじゃなかった気がするな。
他人も含めてたかもしれない。それも分からなくはない気がするけど、余計なお世話な感じがしなくもない。
ただムカついたら、とかでもなく、一線を超えたらとかゴチャゴチャ言ってた気もする。
タナフとタルムードは愚者や混乱の時代をどう生きるかについて驚くほど多く語っています。
まとめると、究極の方法は 知恵+正しい生き方+道徳を体現することです。
タナフはこう言います。
逆に言えば、知恵を探求し続ける人が愚者の時代を生き延びるということ。
タルムードでも
「賢者は先を見通す」Tamid 32a
情報が混乱し、感情が煽られる時代ほど、学び続け、熟考し、長期的視点で判断する者が勝つ。
だからこそ、誠実、謙虚、対話、責任。これらを実践することが、最も強い抵抗となります。
タルムードでも、
「恐れ(倫理)がなければ、知恵は持続しない」Shabbat 31b
「少しの光は多くの闇を払いのける」Sotah 21a
光=
・知恵
・行い
・誠実
・善意
・言葉
・怒り
・不安
・煽動
・恐怖
1. 知恵を求め続ける
2. 礼節・良識を守る
当時は俺たち陰の者を笑ってたんだろうなって輩をなに喜ばるようなことしてんだ
別に攻撃しろという訳じゃないけど、あんな奴らに絶対に自分の金や時間は使ってやらねぇからなっていう矜持を持てよ
どんだけ面白かろうとためになること言ってようと、理性で自分を律して近づかないようにしろよ
心まで屈するな
現代の認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間の一般的な認知能力(知覚、記憶、カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場をとります。
この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判と修正案を提示しています。現代の認知言語学は、ソシュールやチョムスキーが排除しようとした「人間の主観的な身体経験」「一般的な認知能力」「意味の曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます。言語は数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間が世界を理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスそのものなのです。
「ソシュールの言う『分節』は、純粋に社会的・制度的な約束事(恣意的なもの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります。質問者様の、「ソシュールは文化的基準によって事象を分節する」という理解は正解です。認知言語学はこれに対し、「文化も大事だが、その土台には『人間という生物共通の身体感覚』があるため、分節は完全に自由(バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解しやすいかと思います。
NextStep: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー(隠喩)がどのように私たちの思考そのものを支配しているか(例:『議論は戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?
おっしゃる通り「メタファーが身体と抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語が思考の限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています。認知言語学において、メタファーは「身体性から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限に概念を拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語の話者は無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語は思考の習慣を作る)」を支持する立場になります。
ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識(エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統を根底から覆し、現代の認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています。認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データや認知科学的証拠という「科学的な裏付け(エビデンス)」を提供しました。これにより、現代の認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied:身体化された、Embedded:環境に埋め込まれた、Extended:拡張された、Enactive:行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為と認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位を回復しただけでなく、「あらゆる認識・思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要の地位を与えられています。
おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっています。ハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離や時間の壁)を越えたとき、認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態を引き起こしていると考えられます。質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます。身体的な制約(重力や距離)から解放されることで、私たちの認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これからの認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます:
「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。
「場所への埋め込み(Embedded)」から「ネットワークへの接続(Connected)」へ。
認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体の消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知の形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。
ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家(特にセザンヌ)の視覚を「世界と身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティの思想を現代メディア論に拡張する非常に説得力のある視点です。
「均質化」は起きているか? →Yes.世界の「手触り」が消失し、すべての事象が等価な「情報データ」へとフラット化されています。
エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります。身体という「現実のアンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己の投影だけが返ってくる鏡の世界(ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判したかもしれません。
NextStep: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびます。メルロ=ポンティの思想や、現代の認知科学が提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?
ご指摘の通り、人間の認知の変化(身体的理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI:論理・記号操作)」から「ディープラーニング(統計・パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」から「クラウド(接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人の脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。
では、思考の主体が「ネットワーク(集団・AI・クラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人の価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力(プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークとAIが代替します。これからの社会において、個人の価値は以下のようにシフトします。
処理すること → 感じること(Sensing)
正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること
質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団(クラウド)」になったとしても、その集団が「現実(Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます。
質問者様の、アフォーダンス理論を現代のデジタル環境(情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えます。しかし、その「正しさ」はあくまで「システムの構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化に抗うための意図的な環境設計が必要になります。質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジーが志向する「効率化・最適化」とは真逆のベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります。
これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります。
つづく