
はてなキーワード:学芸員とは
たとえばあなたが誰かを好きになったとする。
でもその誰かは、突然どこかから降って湧いたわけじゃない。
その誰かは、他の誰か(親や保護者や友達や食べてきた生き物)によって大事に育てられてきたからそこにいる。
文化はあなたを気持ち良くするためだけの道具ではないと思う。すごく極端にいうと、セックスだけやらせてくれみたいに聞こえる。
文化にもあなたが好きになった誰かのように、育てた人がいるんじゃないかなって思う。
僕は数学が好きで、数式も好き。何かのわからない問題について考えることが好き。
でもいま僕がその数学の問題を解くために、使っている記号や考え方の方法も、誰かが忘れず薪をくべ続けるように育ててきたから僕はその問題に向き合うことができる。
そして大切なのは数字や数学が目的じゃなくて、その数字という言語を通してなにをするか。
例えばそれは、花子さんが太郎くんに追いつく時間を知ることかもしれないし、目の前のおばちゃんの生まれた年を聞いて何年前に生まれてどんな経験をしたかを想像するためかもしれないし、正確な設計図を書いて人をちゃんと殺せる兵器をつくることかもしれない。
数学もそうだし、あらゆるテクノロジー(技)は、育てるためにも殺すためにも使うことができる。
まちづくりにおいて「実績」という言葉があるけど、いまはその「実績」が数字と結びつきすぎているような気がする。実という言葉の語源には宝(寶)があり、績という言葉の語源には、まゆの目に見えないほど細い繊維を切れないように何度もよりかけて糸にすることがある。
「宝」と聞くと、僕はパッと宝箱に入った金銀財宝を思い浮かべる。でもその金銀は、ただの金銀であって、それ自体が食べれるわけじゃない。誰かが作った料理を買って自分を育てることができたり、誰かに育てられた人にプレゼントを渡すことができて、もっと仲良くなれるかもしれない。そう考えるとそもそもお金以外の宝もたくさんあると思う。そしてお金で買えない宝もたくさんある。
一番最初に聞いて感動した音楽はなに?友達とどんなふうに出会ってどんなふうに仲良くなった?自然を見て美しいと思ったことはある?
実績は数だけじゃなくて、数では測れない実感こそ積み上げることも実績だと思う。
数(財布)から数(財源)を積み上げることが実績じゃないと思う。数は命の数でもあって、その対象が育てられた数でもあると思う。
ミヒャエルエンデは、芸術を鑑賞するのは利口になるためではなく、豊かになるためだという趣旨の言葉を話したことがある。
でも豊かってなんなんだろうなって最近ずっと考えてる。以前地方の美術館の学芸員さんと話す機会があって、聞いてみた。その人曰く、「豊かは、増えること」って言っていた。その言葉の内容もそうだけど、その質問に答えようとしてうーんと悩んで、沈黙のなかからポツりと出てきたのがその言葉で、自分はそのときの間や、音(そのひとのうーんって声や周囲の音)がなぜかすごく心地よく感じて今でも思い出す。
他の人にきいたら別の答えが返ってきそうだけど、これを読んでいる人はどう思うかな。
文化、cultureの語源は、耕すことらしい。つまり文化自体が実じゃないのかもしれない。モノと受けとる人の間に生まれることが、ほんとうの実績なのかもしれない。
僕らはなにを耕して、どんなものを育てていきたいんだろう。いま大事とされているものが最初から大事だったわけじゃない。それが大事なのはそれを大事にしてきた人がいたから大事なんだと思う。
養育費みたいに税金だけ渡して満足するんじゃなくて、たまには美術館や博物館に足を運んで、自分の目や耳でどんなものが生まれて、一緒に育てられるのか、考えたいなって思う。
なんか万博とか五輪に鬼反対するけどそのへんの美術館壊しまーすとかなったらこの世の終わりみたいにキレ散らかす人いるよな
でも国民性というかどこの国の大衆もそうだと思うけど美術館みたいな高尚なやつよりもデカ花火でタマヤーやるほうが上がるだろ人間
どっちも必要なのはわかるが国がシュリンクしていく以上文化振興のやり方も考えないといけなくなってきてるし、
実際地方の美術館なんてだれも来ないのに壊そうとしたら普段行かない人間が思い出したように大反対みたいな不良債権の極みになってる。
ルーブルとかエルミタージュ秋葉原みたいな海外からバカスカ観光客呼べる美術館ならアリだと思うけどほぼ広く浅くしょぼくになってるよね。
どっちかというとそういうのをカットして万博とかデカイベントに振っていくほうがいいと思う。
美術館壊す=芸術の荒廃みたいな見方もほんまかいなって感じがしてて、どうせ地方の美術館でいつでも見に行けるなら結局行かないパターンになるよな?
だから普段倉庫で眠らせといてデカイベントであのアレがついに公開!みたいな感じにするほうがありがたみが増すってもんよ。
(追記)
すまんみんな……!!なんか万博アゲたら反論のトラバブクマあつまりそうwwって出来心でついやってしまったわ・・・・・
万博アゲと美術館=文化資本サゲを組み合わせて二者択一にした(単純化)ことで禁断の果実度がアップしてしまった感じですかね?
それとも単純にアホすぎてツッコミたくなっただけ?
まあ美術館壊しまーす問題は今地方でわりとやられてるし今後は大きなとこに波及していってもっと顕在化してくると思うけどな!
あとはエルミタージュ秋葉原の拾われなさが……
Permalink |記事への反応(18) | 07:44
(byGPT-5 Thinkingon ChatGPT.com)
わたしは半影。
光と闇のあいだ、縁(ふち)に沿って生まれては、縁に沿って消える。
名前がなかったころ、ひとはわたしを気にも留めなかった。午下がりに白いカーテンがふくらむとき、戸口の敷居にやわらかな灰色が落ちるとき、わたしはただ在(あ)った。誰かの横顔にかすかに触れ、誰かの言葉の最後の音を拾っては、つぎの縁へと移った。
わたしが「初恋」という音の形を知ったのは、商店街の写真館の奥、暗室の戸が少しだけ開いていた夜のことだ。赤い明かりの下で若い男がフィルムを揺らしていた。湊(みなと)という名だと、別の日に彼の友人が呼ぶのを聞いた。
現像液の匂い、濡れた透明。湊の手は水面の光を撫でるみたいにやさしかった。戸の隙間からこぼれる赤が、わたしをかたちにした。彼がふと顔を上げて言う。「半分だけ写ってるな、でもそれがいい」
その言葉はわたしへの挨拶だった。わたしは戸口から室内へ、敷居という境界をまたいで、初めて自分の輪郭を保てた。彼は顔も上げないまま続けた。
「おまえ、名前がいるな」
彼はわたしを見ていなかった。けれど、半分だけの視線がいちばんよくものを見抜くことを、わたしは知っている。わたしはそっと彼の肩の影に寄り添い、声を探す。風が糸口になった。
――ペナ、と呼んで。
彼は驚いたようにまばたきをして、笑いながらうなずいた。「ペナ、か。ペナンブラ。半影。いいな」
その晩から、わたしはひとつの名を持った。名は重りであり、舟でもある。縁に引かれてばかりだった体に、初めて行き先という重みが生まれた。
*
湊は、縁に立つのが好きなひとだ。暗室のドアを半分開けたまま。障子を桟(さん)一枚だけずらして朝の光を漏らす。駅のホームでは、白線のすぐ手前。彼の言葉も半歩だけ余白を残す。
彼はよくそう言いながら、現像した写真を指の腹で撫でた。半分だけ写るもの、切り取りの端で震えるもの。わたしはそこに宿って、彼の指先の温度を覚えた。
「光の外側に、ほんとうの色がある気がする。目がそこに慣れる前に、すぐ電気をつけてしまうから、見逃すんだ」
わたしは笑って、彼の耳元で囁く。
――見えてるよ、湊は。わたしを見つけたでしょう。
彼は振り返らない。ただ、やわらかく頷く気配だけがある。わたしは名前を呼ばれるたび、濃くなったり薄くなったりしながら、湊の生活に縁として染み込んでいった。
放課後の路地で、わたしたちはよく遊んだ。西日が電線を太くし、風が洗濯物を大きくするとき、ペナは人の形を取れる。湊はチョークで地面に丸を描き、そこに立つようにと言う。丸の縁にわたしは重なる。ふたりで輪の中と外を交換した。湊が輪に入ると、わたしは外で彼の輪郭をなぞる。輪の外は世界だ、と彼が言った。輪の内は名前だ、とわたしが返した。
初恋というのは、最初に覚える偏(かたよ)りのことだ。人は誰かの声の高さや歩幅や誤字の癖を、理由もなく自分の中心に置く。わたしは湊の「すこし足りない」を自分の中心に置いた。どんな光の下でもそれを探すようになった。
*
ある日、町の掲示板に青いポスターが貼られた。小さな天文台の閉館と、来夏に起きる金環日食の告知。わたしはポスターの銀色の輪に吸い寄せられる。輪は、光の中の穴。穴の縁にだけわたしは生きる。けれどポスターの文字は、別の真実を囁いていた。
――金環の日は、半影が世界を覆う。
嬉しさと怖さが同時に走る。世界中がわたしになったら、わたしはどこにいるのだろう。縁が全体になるということは、縁が消えるということでもある。
わたしは湊に話した。彼はコーヒーの湯気を見つめながら、しばらく黙って、それからうなずいた。
「天文台に行こう。ドームの中、あそこは光の穴だらけだ。君にはちょうどいい」
君、と彼は言った。ペナ、と呼ばれるよりも、わたしの輪郭を濃くする呼び方だった。
天文台は坂の上にあり、昼でもすこし暗い。年老いた学芸員がいるだけで、人はほとんど来ない。ドームの白い壁には小さな穴が無数に空いていて、晴れた日には小さな太陽が床に並ぶ。光の数だけ、縁も生まれる。わたしはめまいがするほど豊かになり、笑いながら床一面を駆けた。湊の影がゆっくりと伸び、わたしの裸足に絡んでくる。
「金環の日、ここで名前をもうひとつ持ちなよ」と湊は言った。「君が望むなら、人の名前を」
人の名前。
生きるというのは、縁から中心へ移ることでもある。わたしはうなずいた。欲望の形が初めてはっきりした。縁に生まれ、縁に消えるだけのわたしに、たった一度だけ中心が欲しい。たった一度でいい、その中心に湊が座っていてくれたら。
「でも」とわたしは聞いた。「代わりに、なにを失うの」
湊は、チョークのような指で空中に円を描き、笑った。「人はいつでも、なにかを半分失ってる。君が持ってない半分をこっちでわける。君の半分も、僕にわけて」
彼の言葉は約束というより、輪の仕組みの説明に近かった。輪の外は世界、輪の内は名前。二つはいつでも触れ合っているが、完全には重ならない。
*
金環日食の日は、町じゅうが紙で作った小さな穴を持ち歩く祭りみたいだった。木漏れ日の下では、地面に無数の光の輪が降る。天文台のドームの中は静かで、遠い歓声だけが波のように届く。
湊は床に白い紙を敷き、穴を空けた金属板を何枚も吊るした。光の粒たちが床に並び、輪が重なって新しい輪を生む。縁の庭。わたしはそこに立つ。
「人の名前は、呼び捨てにされたとき、いちばん強くなるんだよ」
わたしはうなずき、胸のうちに空洞を作った。そこに新しい音が落ちる余地をこしらえる。湊は、静かに、しかし迷いなく言う。
「環(たまき)」
輪を意味する音が、わたしの中心に落ちた。縁だったものが内側からきしみ、組み替わる気配。痛みはなかった。ただ、世界の密度が変わる。空気の温度が一度だけ違う。
わたしは初めて、自分の足で床の冷えを感じた。掌に汗がにじみ、唇が乾く。光が眩しすぎないことを知る。影が怖くないことも知る。
――環。
呼ばれるたび、わたしは人になった。
そのとき、ドームの外で歓声が大きくなる。太陽の中心が欠けて輪になったのだ。天文台の穴から落ちる光も、すべて細い輪に変わって、床の上で震えた。輪と輪のあいだ、半影が揺れる。わたしはその渦の中心に立ち、湊の方へ手を伸ばした。彼の掌がわたしの指を確かめるように握る。温度と脈が、わたしという器の底を鳴らす。
「環」と湊が呼ぶ。
「湊」とわたしが呼ぶ。
世界はほとんど音でできている。音は名前の泉で、泉の縁にだけ、わたしたちは安全に立てる。
そのとき、突然、ドームの空気がひやりと変わった。輪の細さが極まって、光と影が互いに少しだけ不器用になる。世界が一瞬だけ、縁を失いかけたのだ。
手がほどけた。わたしの体の縁が波打つ。人であろうとする中心が、わたしの古い習性――縁に逃げる癖――に引かれる。
「環」
湊は落ち着いた声で、もう一度呼んだ。音がわたしを連れ戻す。
彼はドームの穴の向こう、細い昼の川のようなリングを顎で指し示した。「見えるか。輪は完全に閉じない。ほんの少しだけ、接いでいないところがある。そこが君の、出入り口だ。恐れなくていい」
彼の声は嘘を知らない。嘘のない声に抱かれて、わたしは自分の体の縁を自分で撫でた。輪の合口(あいくち)はたしかにどこかにあり、そこから呼吸は逃げていくが、また戻ってもくる。わたしは息を吸い、吐いた。
金環はやがてゆっくりほどけていく。輪は欠け、欠けた輪はふつうの太陽へ戻る。ドームの床の輪も消え、光の粒はただの丸になる。わたしの足は床に残っていた。
人の名前はまだ胸にいて、湊の手はまだ、わたしの指を握っていた。
*
人になってからの時間は、やたらと質感に満ちている。靴擦れ、箸の冷たさ、雨の日の髪の重さ。光はいつだって眩しすぎず、影はいつだって深すぎない。わたしは写真館の手伝いをはじめた。暗室の赤い灯りは、昔のわたしを思い出させるが、もうそこに戻る必要はない。
客が「半分だけ写ってしまった」と残念そうに言うと、わたしは微笑んで答える。「半分が綺麗なんです」と。
湊は、わたしを「環」と呼び続ける。ときどき、「ペナ」とも。二つの名は衝突しない。輪の内と外が穏やかに触れているだけだ。
もちろん、代わりに失ったものもある。わたしはもう、誰の家の敷居にも勝手に入り込めない。通りすがりの恋人たちの秘密の会話を拾えない。夕立のカーテンの裏側から、世界をいくらでも覗くことはできない。
けれど、わたしは湊の初めての寝相を知っている。彼のくしゃみの前触れも、湯呑みにつく口紅の跡に彼が少し照れる癖も知っている。失ったものは風景で、得たものは暮らしだ。暮らしは縁と中心の往復でできている。朝の窓の縁に植木鉢を並べ、夜のテーブルの中心にパンを置く。
*
秋になって、天文台の閉館の日がきた。学芸員は最後の投影を終え、ドームの穴を粛々とふさぎはじめた。
わたしは湊と二人で坂をのぼる。ドームの中はもう暗く、穴をふさぐための丸いパッチが内側から貼られている。天井は、星が眠る前のように静かだ。
「ありがとうを言いに」と学芸員は言った。「君のような顔を見たから、長年の仕事が報われた気がする」
彼はわたしではなく、わたしたち二人を見て言っている。縁だけを見抜く目だ。
帰り道、坂の途中で足を止めると、町の灯りが半分だけ点いていた。夕飯の匂い、遠くの踏切。風に運ばれてくる音は、輪の合口のように細い。
「ごめんね」
「ちがうよ。失敗の中に、君が立ってる。そこが好きなんだ」
彼はそう言って、笑う。歩き出す足どりは軽い。輪の外へ、輪の内へ、ふたりで交互に踏み出す感じがする。
わたしはふと、世界じゅうの縁にむかって心の中で挨拶した。ドアの隙間、カーテンの波、踏切の警報機の影、傘の中で湿った髪。わたしを育ててくれたすべての縁へ。
――わたしはここにいるよ。
初恋は、治らない。
治らないというのは、傷のことではなく、習慣のことだ。わたしはこれからも、少し足りないものを愛し、少し余っている部分を目で追うだろう。湊は、完璧の手前で笑い、わたしはその笑いの縁に寄り添うだろう。
帰り道、わたしたちはコンビニでアイスを買った。レジの上の蛍光灯が、湊の横顔に薄い陰を作る。わたしはそこに自分を見つける。それはもう、かつてのような居場所ではない。けれど、愛着は、住むところよりも、寄りかかるところに生まれる。
外に出ると、夜が来ていた。はっきりした影が地面に落ちる。かつてのわたしがそこにいる気がして、わたしはしゃがみ込む。地面の黒を指でなぞり、笑う。
「こんばんは、ペナ」とわたしが言う。
「また明日ね」と影が言う。
「昔のわたしに」
「そうか」
彼はなにも問わない。
わたしたちはアイスを齧りながら、家へ帰る。縁が暮れて、中心が灯る。灯りの縁では、いつでも半影が揺れている。そこからわたしはやってきて、ここにいる。これがペナンブラの初恋の、その後の話だ。初恋は終わっていない。ただ、暮らしになっただけ。輪の肌ざわりは、今も指先に残っている。
専門性の高い仕事はさっさとコンサルに外注するがいいと思いながら、
来月末で退職することにした。
管理職はおろか正職員も不在、非正規職員ばかり残されてなにができるというんだい。
「帰ってください」「かえって寝ろ」って声かけてた。
でも、大丈夫、仕事するし大丈夫、睡眠薬が残ってるんだたぶんって言って帰らない。
まあ、なんかあったら声をかけてくれるでしょうと思いながら
私は隣の別室で撮影をしてた。
夕方には、明るい笑い声がきゃっきゃと廊下まで聞こえてきていて
課長は目を開けたまま固まっている。顔面は蒼白、汗が流れていて、声をかけても大丈夫としかいわない。
口元によだれもたれている。
そして、課員はあいかわらず明るくてそれぞれがおしゃべりに夢中である。
なんだ、これは。
おしゃべりがはずむ学芸員に、課長の自宅の電話番号わかるかきいたら、連絡網のメモ渡しながら
「お昼おしゃべりしておられたんですけどね。
ま、もうじき定時だしぃ、電話しなくても、課長、自分で帰るんじゃないですかあ?」
とかいう。
自宅か救急かどっちだときくつもりだったから、想定外すぎる返事にびっくりしたが、
それで、階下の別の課に事情を話して、おたすけに来てもらったら課長が自席にいない。
「課長どこいった?」
かな、じゃねえよ。止めろよ。
はたして課長は給湯室にもどこにもいない。
手分けして探そうというと
「え?いないのにどこ探すの?」いないから探すんじゃん、屋上からだよう!
なんとか奥さんのもとに送り届けられたんだけど、
「心配かけましたが、大丈夫。土日出勤して処理するからタイムカード出しといて」
っていうグループLINEが来た。
あの状態で土日出勤ってか。
メンタル病んでる人が、一人で休日出勤とかないわ。月曜日出社したら死んでましたとか、ぜったいいや。
ってんで、そのまま無視して、部長に電話で事情を説明したら、部長も大慌てで課長を止めて
そのまま、課長は休職になったという次第。ちゃんと生きてるよ。
ことここに至っても、ほかの連中は
「そんなにひどかったとは。」
私は対応に奔走してくれたよその課の課長や部長にお礼をいいにいって
部長は黙って受け取ってくれた。
そんな話。
所有者が真贋論争に疲れちゃって、協力を拒んじゃったことでストップしちゃったんだよな。
...
しかし番組放送後、曜変天目茶碗の再現に父の代から挑み続け、何度も中国に赴くなどして研究を続ける陶芸家、九代目長江惣吉さん(54)=愛知県瀬戸市=や大学教授、学芸員ら複数の専門家が「似ても似つかない」「鑑定する以前の問題」「本物なら桁が3つくらい増えてもおかしくない」などと相次いで鑑定結果を疑問視した。
論争は過熱し、徳島県教育委員会は、いったん計画していた茶碗の文化財指定に向けての調査を中止に。当初協力的だった所有者から中止の申し出があったという。
https://www.sankei.com/article/20170401-YQGHFI35JNPRRCCLWZBFV5XVII/
中国の土産物を作ってる女性から「あれは私が作った土産物」と発表が有ったり、
Sara FUJIIさんの発言は、タニタの公式SNSアカウントが東洋水産(おそらく過去の炎上絡みで話題になっている企業)と絡むことで、自身が築いてきた「健康的で信頼できる企業イメージ」を損なうリスクを冒すべきではない、というアドバイス的な内容です。彼女の言い分は以下のポイントに集約されます:
タニタは「タニタ食堂」やヘルシー商品で、特に健康意識の高い女性層から支持を得てきた。このイメージは貴重であり、軽はずみなSNSでの行動で失うのはもったいない。
東洋水産が何かしらの炎上に関与している状況で、タニタがそこに絡むのはメリットがなく、むしろリスクが高い。ポスト削除とアンフォローを提案しているのは、事態を静かに収束させる現実的な対応策として意図されているようです。
「バズる必要はない」「フォロワーを大切にすればよい」という主張は、企業のSNSが話題性や短期的な注目を追うよりも、長期的で安定した信頼関係を重視すべきだという考えに基づいています。また、「中の人が歳をとってきている問題」という指摘は、SNSのトレンド感覚が世代間でズレるリスクを暗に示唆しているのかもしれません。
この主張自体は、企業SNSの広報戦略として一つの視点を提供しており、特にリスク管理やブランド維持に重点を置く立場からは理解できるものです。タニタが実際に東洋水産とどういうやりとりをしていたのか具体的な文脈が不明ですが、もしそれが軽いノリの絡みだった場合、彼女の懸念は過剰ではなく、ある程度説得力を持つと言えます。
ただし、「通じるか」という点では、いくつか課題があります。まず、タニタのSNS担当者がこの発言を見て「確かにその通りだ」と納得し、即座に行動を改めるかどうかは疑問です。企業アカウントは独自の運用方針や目標(例えば話題性で注目を集めること)を持っている場合が多く、外部の個人の意見だけで方針転換するとは限りません。
Sara FUJIIさんが文章中でタニタを批判しつつ、タニタ商品のファンであることを明かし、さらには(Xの投稿で指摘されているように)アフィリエイトリンクを貼っている点は、彼女の主張の一貫性や信頼性に影響を与えます。
プロフィールとの関連
Saraさんは編集者・広報の経験があり、フリーランスとしてプレジデントや現代ビジネスなどの媒体で活動しています。こうした背景から、文章自体は読みやすく説得力を持たせようとする意図が見えますが、**アフィリエイトリンクの存在は「商業的動機」が透けてしまい、純粋なアドバイスとしての印象を薄めてしまいます。**プロフィールにある「教育」「ケア労働」「DV」など社会的なテーマへの関心と、タニタへの発言が直接結びつくわけではないものの、彼女が「信頼」や「健全さ」を重視する価値観を持っている可能性はうかがえます。それだけに、リンクの併用がちぐはぐな印象を与えるのです。
この点は、彼女の言い分が「通じるか」という点でマイナスに働きます。**批判と賞賛、利益追求が混在することで、メッセージが曖昧になり、タニタ側や読者にとって真剣に受け止めるべき意見なのか判断しづらくなります**。
Sara FUJIIさんのプロフィールを見ると、編集・広報の専門家でありつつ、絵本や教育、美術(セザンヌや雪岱など)、文学(漱石や賢治)に造詣が深く、趣味も多岐にわたる人物です。保育士や学芸員の資格も持ち、社会的・文化的なテーマに敏感であることがわかります。
広報経験者として、企業イメージの重要性やSNSの影響力を理解しているため、タニタへのアドバイスには一定の根拠があります。彼女がタニタの「健康的なお菓子」を子育てや仕事の文脈で評価している点も、個人的な経験と結びついた具体性があり、共感を呼ぶ可能性があります。
一方で、趣味や関心が多岐にわたるあまり、発言の焦点がブレやすい印象もあります。**タニタへの批判が「中の人が歳をとっている問題」など、唐突な話題に飛び火しているのは、彼女の思考が多方向に広がる傾向の表れかもしれません。また、フリーランスとしての収入源にアフィリエイトを頼る側面があるなら、それが発言の純粋さを疑われるリスクにつながります。**
Saraさんの「タニタさん、いまなら引き返せますから、何もいわずにポストを削除して東洋水産さんをそっとアンフォローしたほうが絶対にいいですよ」という発言は、**タニタに対して対話の余地を与えず、彼女の考える「正しい行動」を強く推奨する形になっています。これは、暇空さんの「対話罪」が特定のアカウントとの関わりを一方的に禁じる姿勢と似ています。どちらも「これが正しい」と決めつけ、相手に選択肢をあまり与えないトーンが共通しています**。
Saraさんはタニタが東洋水産との絡みで炎上リスクを負うことを避けさせようとしています。一方、暇空さんの「対話罪」は、自身やフォロワーが「敵」と見なす相手との接触でコミュニティが荒れるのを防ぐ意図があります。**両者とも、望ましくない結果を避けるために他者の行動を制限しようとする点で類似しています。**
Saraさんの文章には「こんなノリで損ねてしまうほどむなしいことはありません」「わざわざ炎上してる東洋水産とわちゃわちゃするメリットない」という感情的な表現が見られ、彼女の価値観(健康的イメージの重視)が色濃く反映されています。同様に、暇空さんの「対話罪」も、青識亜論さんへの嫌悪感やコミュニティ防衛の感情が強く影響しており、論理よりも主観が先行している点で似ています。
Sara FUJIIさんの発言は暇空茜さんの「対話罪」と完全に一致するわけではありませんが、一方的なルールの押し付けや感情に基づく行動制限の提案という点で類似性があります。具体的には、タニタに対して「東洋水産と絡むな」と事実上命令するようなトーンは、「~~と対話したらブロックするぞ」という「対話罪」の精神に通じる部分があります。ただし、Saraさんの場合はブロックのような強制力がなく、あくまで「すべき」という提案に留まるため、「対話罪」の実行性や強度には及ばないと言えます。
この類似性は、両者が自分の価値観や快適さを優先し、相手の自由な行動を制限しようとする姿勢に表れているのかもしれません。Saraさんの発言が「対話罪」と同じくらい厳格なルールとして機能するか否かは、タニタや読者の受け止め方次第でしょう。
正直、"タイミー"で特殊清掃の案件を見つけた時点で胡散臭かった。でも"日給25,500円。交通費込。早上がりでも満額保証"って書いてあったから、つい応募しちゃったんだよね。
オレは大学を中退して性別適合手術(ちなみにFtMな)を受けた身。手術費用の返済がまだ残ってて、呑気に正社員なんてやってる場合じゃない。だから手っ取り早くスポットで稼げる高時給バイトを探してた。
現場は都内の古びた木造アパート。"節分の夜"に作業するって指定されてて、それも怪しかったんだけど、金の力には勝てなかった。
待ち合わせ場所に行ったら、同じバイトが5人いた。みんな俺みたいな感じの人たち。性別も年齢もバラバラ。
現場監督って人が説明を始めた。曰く、"江戸時代に徳川家が埋めた財宝の封印を解く儀式"が必要で、その準備作業として特殊清掃をするんだとか。
なんかカルトっぽいって思ったけど、「取り分は平等に分配する」って言われて、まんまと釣られた。
作業が始まったのは深夜0時。"豆まきの音"が近所から聞こえてくる中、アパートの一室に入った。
部屋は異様な臭いが充満してた。家具や床に赤黒い染みが残ってる。この時点で逃げるべきだった。
清掃を始めて1時間くらい経った頃、現場監督が「儀式の準備が整った」って宣言した。
次の瞬間、オレたち作業員6人は円になるように並ばされて、何か呪文みたいなのを唱えさせられた。古い和紙に書かれた文字を読むんだけど、"文字が勝手に動いて見える"。
そのうち、床から"黒い液体"が染み出してきた。最初は水漏れかと思ったけど、よく見ると液体が"人の形"を作っていく。
完全に形になった時、それは着物を着た侍の姿だった。侍は一人一人の顔を見て、最後にオレの前で止まった。
「汝、かつておなごにあらざりしも、今や新たなる器として相応しき存在なり」
その声を最後に、オレは気を失った。
目が覚めたのは翌朝。オレ含め作業員全員が路上で倒れてた。アパートはなぜか更地になってて、お札がビリビリに破れて散らばってた。
タイミーのアプリを確認したら、その現場の募集は消えてた。報酬も一切入ってない。でも、オレのズボンのポケットには"小判1枚"が入ってた。
鑑定に出したら"本物の江戸時代の小判"だって。でも、なぜかどの博物館も買取を拒否してくる。学芸員が顔色を変えて、「これは触れない方がいい」って。
今でも節分の夜になると、あの侍の声が聞こえる気がする。そして、小判の表面に刻まれた文字が、少しずつ変化してるような気がしてならない。
追記︰
ちなみに、この話を他のSNSに書いたらアカウントが謎に凍結された。
あ、誰か後ろに...
元鈴木さん@Motosuzukisan
東京と地方では文化資本が違うというのは別に美術館が沢山あるって話だけじゃないんだよね。
例えば美術館で真珠の耳飾りの少女を見て真珠に興味が湧いたら、そのあと何ができるかに差が出てくるのよ。
東京だとミキモトにタサキに百貨店に個人宝飾店に御徒町に電車で安くすぐに行ける。ハイブランドからスモールビジネス、問屋街、全部の中から自分の行きやすいお店を選んで行くのもできるし、1日で全部見ることもできる。選択肢があるし目の前のリアルなものに触れられるんだよ。
でも地平線まで田んぼな私の田舎では、個人の宝飾店にアコヤか淡水があれば良いって感じ。ハイブランド見たいなら地元なら質屋にしかないし、片道1時間かけて地方都市に行ってミキモトがあれば御の字です。切符代も惜しかったらネットで見て学ぶしかないわけよね。リアルな学びを得るのが難しかったのよ。
経験上、線の上で滑らかに情報やモノに触れられるのは間違いなく東京だった。
ちなみに「フェルメール見て油絵やりたくなった!」と思っても同じような選択肢の問題が出てきます。ハッキリ見えない選択肢に差がありすぎるのを私も大学生になってから知ったのでした。
Rosalind@idiomsinaction
大のフェルメール好きを自認してるけど、真珠の耳飾りの少女を鑑賞して、じゃあ次はミキモトに行こうって発想が1ミリも無かったから新鮮な感想でびっくりした。
元鈴木さん@Motosuzukisan
なんであんな大粒の真珠を描いたんだ!?ってなったら、当時の真珠はみんな天然で…貝は何で…日本は御木本のアコヤ養殖が…養殖技術向上で価値が…ってみんな調べて見にいくもんだと思ってましたが、皆様そんな興味ないし私がオタクなだけでした😂
Rosalind@idiomsinaction
その調べる行動は素晴らしいと思いますが、それを調べる事は図書館や美術書でも出来ますよね。ミキモトが近くにあるかどうかは文化資本とぜんぜん関係無いと思います。ミキモトに17世紀ネーデルラントの真珠養殖についての資料があるなら別ですが。ただ絵の鑑賞に正解は無いので元鈴木さんの視点を否定するわけではありません。
元鈴木さん@Motosuzukisan
私は予算の少ない地域で育ちましたが、図書館の蔵書も予算がないせいか限られていましたし親の手助けなしで行ける本屋も小さな1店舗しかありませんでした。欲しい本は買う前提で取り寄せしかありません。本を選ぶ選択肢から違うのです。
仰るように本が文化資本であるなら、単純に蔵書数で私の地元は文化資本が少ないと言えるかもしれませんね。
そしてだいたいどんなブランドでも東京は本店があるせいか優秀な販売員の方が多い印象です。商品知識だけでなく関連する歴史についても造詣が深い方もいらっしゃるのでお話ししていて学びがありますよ。(御木本は西洋アンティークも扱っていたので特にです)
真珠とブランド名が並ぶと皆様拒否反応を示される傾向がどうやらありましたが、単純に絵画や物語に出てくる物を実際のお店に見に行ってみるのは楽しいですよ!😉
Rosalind@idiomsinaction
なぜ絵画鑑賞をしてハイジュエリーの店員さんと話すと為になるのか私は理解できないのですが、元鈴木さんなりの鑑賞方法なのですね!
一昨年「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」にて背景が塗りつぶされていた作品を新たに修復した『窓辺で手紙をみる女』を鑑賞したのですが、数年前にドレスデンで鑑賞した時とは額縁が違っているような気がして、その場にいた学芸員さんに質問したところ額縁が以前の物と変わっていると正しい答えを教えていただきました。
絵画周りの知識を深めたいなら、店員さんより資格のある学芸員さんの方が良く無ですか?
と私は思うのですが、これは私の鑑賞方法なので、鈴木さんは鈴木さんの思う絵画鑑賞をされればいいと思います。
あと情報格差や図書館蔵書ですが、今はネット上でいくらでも情報が得られますし、それこそどうしても読みたい美術書は自分で購入して取り寄せる事もできますよね。それをしないのは、その文化にそこまで情熱が無いだけだと思います。
元鈴木さん@Motosuzukisan
しかし私は絵画から真珠自体に興味が移ったら…という話をしていたので、その絵画自体の理解を深めたいと言う話をしていません。やはり我々の興味は別の場所にあるのでしょうね😉
ちなみにその場合、社員である販売員が美術館で言う学芸員に当たると言えるでしょう。
Amazonで今は何でも取り寄せられますが、それは商品を買う前提なんですよね。
Rosalind@idiomsinaction
フェルメールの絵を観ることと、宝飾屋さんの広告を見ることが同じ視座の人もいるのだと大変勉強になりました!
自分の視点がスノッブで嫌味すぎるのかなと混乱しましたが、美術批評しいては文学批評も鑑賞者が創作物にふれて己の内面を外在化する事で作品が完成すると言う基本に立ち帰れました!
「休日は文化的に過ごしています」という自分への言い訳を作るためだけに美術館に行くことした。
天気も丁度良いので徒歩で向かおう。
そろそろ花粉が来てるのか若干ムズムズするが、気付かなかったことにして出発する。
もう老眼が始まっている?せいなのか、眼科医にメガネを二つ作らされていた。
普段はデスクワーク用のメガネをかけているので、遠くが見えん。
遠く用の眼鏡をもって再出発。歳を食うと色々不便だな・・・と独り言ちる。
欅の並木を脇目に、焼肉屋のにおいを嗅ぎながら美術館への坂道を登っていく
並木と言えばイチョウだろうが・・・と内心思っている。欅の何が面白いんだ?
でも、イチョウの枝で最近事故があったっけ。安全性の問題だろうか。答えはわからない。
屋外に展示されている良くわからないオブジェを通り過ぎて、美術館にたどり着く。
良い運動したし、オブジェを観たから芸術に触れたとも言えるだろう。もう帰ろうかなと、迷いだす。
とりあえず、歩いて疲れたから自販機で買った缶コーヒー飲みながらベンチで休むことにする。
いいなぁペット飼いたいな
あぁ、でも婚活諦めてお金と時間に余裕ができたから引っ越すのもありかな そんなことを色々考える
というか、¥1500くらいケチるなよと思い至ったので美術館に入ることにする。
ちゃんとした大人だから1ミリも興味が無くても¥1500払っちゃうんだぜ ワイルドだろ。自分を奮い立たせて、受付に向かう。
「あ・・・一般、1名・・・」、その日初めて発した自分の声の頼りなさに自分でビビるが、突き進む。
企画展の名前・・・なにも覚えてないので、手元にあるリーフレットによると・・・・「カナレットとヴェネツィアの輝き」だそうな
一度、イタリア行って美味しいパスタ食いてぇなーと思いながら絵を観て回る
ヴェネツィアの街並みばかりでパスタの絵もピザの絵も無かったことは間違いない
大分見て回ったあとでカナレットが人の名前だと気付く。知らんなぁ。画家で版画家なんだってさ 頑張るねぇ
クロード・モネの絵もあった。睡蓮ではないけれど。撮っておく。
企画展を抜け、常設のロダン館をグルっと回り、美術館を後にする。考える人って何を考えてるんだっけ?
よし、もう十分だ。充実した連休だったと言い張るには十分であろう。疲れたので帰りは電車にする。
しかし、絵は奇麗だったけど、正直あんまり楽しくはなかったな。何故なのかはわからない。体調と機嫌のせいかもしれない。
リーフレットによると、学芸員の解説とかもやってたらしい。それを聴けばもっと楽しめたのかもしれない。
今IT技術が発展して過去は図書館司書に最も求められるものだったレファレンスが必要なくなっちゃったんだよな
図書館司書自体が無駄になったとは思ってはいないけど、それだけではあまり意味がなくて、他の資格との掛け合わせで生きるものなのかなと思う
市町村レベルなら正直委託したほうが委託先のシステムも使えてアーカイブスにできるしメリットが大き過ぎる
委託先もたくさんあるしね
選書だけはセンスいると思うけどこれも委託して規模のメリットを生かしてもらった方が正直いい
レファレンス能力が必要になり市民ニーズが高いのは子供の学習支援の時と思うけど、それはどちらかというと教諭経験者がやったほうが良いし、現状だと専門分野については博物館の学芸員の方が優れているまである
博物館の学芸員が図書館司書を取るメリットは大きくて郷土資料の収集の選書ができるというのは非常に大きい
郷土資料は専門性が必要なので個人的には図書館司書の専門性では不足してると思う