
はてなキーワード:学問の自由とは
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ2.0」(BE2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
•システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
•イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
「われわれには学問の自由がある」 ← その通り、
「政府は研究内容に口を出してはならない」 ← ま そうかな、
「口を出してはならないが、金は出せ」 ← は?
ならば、
「われわれには職業選択の自由がある」 ← その通り、
「オレはイラストレーターになる!」 ← どうぞ、
「食っていけない!!」 ← ま そうだね、
「政府はイラストレーターの収入を保障する義務がある」 ← は?、
「金をよこせ!!」 ← なに言ってんの、
あるいは
「港区に住みたい!」 ← そうだね、
「家賃が高くて住めない!」 ← その通り、
「希望する国民が、港区に住めないのは権利の侵害だ!!」 ← なに言ってんの、
と、いうことかな?
メディアも、政治家も、多くの学者たちさえも、問題の本質を見誤っている。
だが、はっきりさせておこう。
そこを直視しなければ、議論はいつまで経っても空回りするばかりだ。
すべての発端は、任命拒否だった。
その理由は明白だ。
一つには、その法的違法性がある。
学術会議法に照らしても、また法治主義の理念に照らしても、菅政権による任命拒否は明らかに違法だった。
法を正しく解釈し、学問の独立という原則を理解する者であれば、この点については疑いようがない。
だが、問題はそこで終わらない。
法学者のうち、彼を被任命者として「適当」だと本気で考える者が、はたしてどれほどいるだろうか。
ここで比較をしてみよう。
だが、同時に、彼らは圧倒的な学術的業績を有する、現代日本を代表する研究者たちであることもまた否定できない。
行政法を専門とする者で岡田を知らないなら、それは基本的な学問修養が欠けている証だ。
刑法を専門としながら松宮を知らぬ者は、当然、リサーチ不足を自覚すべきだろう。
では、小沢隆一はどうか。
憲法学を専攻する若手の院生たちの中には、そもそも彼の名前すら知らなかった者も少なくない。
それは無理もない。
若い頃に若干の著作があったことを除けば、彼はその後、学問的な貢献をほとんど果たしていない。
それにもかかわらず、彼が日本学術会議の会員に任命されようとしていたという事実。
これこそが、政権が批判する「学術会議の閉鎖性」「仲間内人事」「学問の政治化」の実例ではないか。
真に猛省せねばならないのは、政権ではなく、学問を預かる側であるはずの、学術会議自身なのではないか。
まさに、「学問の死」を招いたのは、外部の敵ではなく、内部の堕落ではなかったか。
「学者の国会」を自任するのであれば、小沢隆一が会員に選ばれるような事態はあり得ない。
この任命劇のあまりの愚劣さが、学術会議全体の信頼を地に落とした。
そして、それが許されてはならないのも確かである。
しかし、「違法だが理解できる」という感覚が社会に共有されたのだとすれば、それはもはや、政権批判だけでは済まされない問題だ。
この狂騒曲の結末がこうなったのは、当然ではないか。
人文系だろうが理数系だろうが研究者のくせに科学的根拠もない論説垂れ流して必要な時はダンマリでクソみたいな時だけ声のでかい組織
任命から外れた奴らも無駄に粘ってるけど金が欲しいだけだろアレ
学問のためとか叫ぶなら国の金じゃなくて自分達の金で組織作って機能させりゃ国に口出されることもなく自由に活動できるだろうに
何の研究成果も出さずにやれシンポジウムだやれデモだってお前らが一番研究の世界に無駄だわ
科研費からそんな支出ができる時点でおかしいんだが科研費は応募時の支出と実際の支出の名目が全く違っても理由が立てば問題ないっていうシステムが混ざってるからね
あんな連中と一緒にされたくないんだわ
っていう1人の研究者の呟き
この意見は近年の国際的な議論と乖離しており、妥当とは言えません。以下に問題点を指摘します。
「表現が穏やかでも、当事者にとって差別と感じられるならば、それは差別である」
→これは**「受け手の主観が絶対的に優先される」という危険な論理**であり、法治主義とは相容れません。
英国最高裁は「性別に関する言語や制度は、主観的な自己認識ではなく、**客観的な基準(=生物学的性別)**に基づいて運用されるべきだ」と明確に判断しました。
差別の有無は「誰かが傷ついたかどうか」ではなく、「合理的区別か、不当な排除か」によって判断されるべきです。
→これは極めて一面的な読みです。英国、フランス、北欧諸国などではすでに「女性専用空間の保護」と「性自認の自由」は調整可能な権利の競合とみなされています。
国際的な潮流においても、性自認の尊重は無制限ではなく、「他者の権利を侵害しない範囲で」保障されるものです(ECHR判例等)。
英国最高裁はまさに、**「性自認の主張が、女性の法的権利を侵食してはならない」**という基準を示しました。
「司会の発言や会場の雰囲気が悪かったので、反論の機会は保証されていなかった」
→これは実質的議論の内容から目を逸らす詭弁です。会場の雰囲気の問題と、報告書の内容そのものの正当性は明確に分けて議論されるべきです。
そもそも「開かれた議論」を否定しているのは、むしろトランス運動の側です。
Newsweekが指摘したように、
「トランス女性は女性である」というスローガンに例外も反論も議論も許されなかった
という状況が続き、異論を唱えた女性たちは「TERF」呼ばわりされ、人格否定や暴力的な攻撃を受けてきました。
これは真に「開かれた議論」でしょうか?
→これは、単なる学術的立場や政策的懸念の表明に対して「存在否定だ」と過剰に解釈し、封じ込めようとする検閲的態度です。
英国最高裁が示したのは、「女性とは誰か」という法的・社会的定義が現実的な影響を及ぼすため、曖昧な自己認識ではなく、安定した客観的基準に依拠すべきというごく理性的な立場です。
この判断を「差別」と見なすのであれば、それは女性学、法学、医学などあらゆる分野の自由な探究活動自体を萎縮させることになります。
本論者の主張は以下のような論理的な誤りと危険な傾向を孕んでいます:
合理的異論を「差別」と決めつけることによる学術・表現の自由の抑圧
したがって、「報告書は宣言違反ではない」という判断は妥当であり、むしろ生物学的性に基づく言論を抑圧しようとする風潮こそが、自由で公正な学術の敵であると結論づけられます。
この意見は近年の国際的な議論と乖離しており、妥当とは言えません。以下に問題点を指摘します。
「表現が穏やかでも、当事者にとって差別と感じられるならば、それは差別である」
→これは**「受け手の主観が絶対的に優先される」という危険な論理**であり、法治主義とは相容れません。
英国最高裁は「性別に関する言語や制度は、主観的な自己認識ではなく、**客観的な基準(=生物学的性別)**に基づいて運用されるべきだ」と明確に判断しました。
差別の有無は「誰かが傷ついたかどうか」ではなく、「合理的区別か、不当な排除か」によって判断されるべきです。
→これは極めて一面的な読みです。英国、フランス、北欧諸国などではすでに「女性専用空間の保護」と「性自認の自由」は調整可能な権利の競合とみなされています。
国際的な潮流においても、性自認の尊重は無制限ではなく、「他者の権利を侵害しない範囲で」保障されるものです(ECHR判例等)。
英国最高裁はまさに、**「性自認の主張が、女性の法的権利を侵食してはならない」**という基準を示しました。
「司会の発言や会場の雰囲気が悪かったので、反論の機会は保証されていなかった」
→これは実質的議論の内容から目を逸らす詭弁です。会場の雰囲気の問題と、報告書の内容そのものの正当性は明確に分けて議論されるべきです。
そもそも「開かれた議論」を否定しているのは、むしろトランス運動の側です。
Newsweekが指摘したように、
「トランス女性は女性である」というスローガンに例外も反論も議論も許されなかった
という状況が続き、異論を唱えた女性たちは「TERF」呼ばわりされ、人格否定や暴力的な攻撃を受けてきました。
これは真に「開かれた議論」でしょうか?
→これは、単なる学術的立場や政策的懸念の表明に対して「存在否定だ」と過剰に解釈し、封じ込めようとする検閲的態度です。
英国最高裁が示したのは、「女性とは誰か」という法的・社会的定義が現実的な影響を及ぼすため、曖昧な自己認識ではなく、安定した客観的基準に依拠すべきというごく理性的な立場です。
この判断を「差別」と見なすのであれば、それは女性学、法学、医学などあらゆる分野の自由な探究活動自体を萎縮させることになります。
本論者の主張は以下のような論理的な誤りと危険な傾向を孕んでいます:
合理的異論を「差別」と決めつけることによる学術・表現の自由の抑圧
したがって、「報告書は宣言違反ではない」という判断は妥当であり、むしろ生物学的性に基づく言論を抑圧しようとする風潮こそが、自由で公正な学術の敵であると結論づけられます。
悠仁さまがご入学されて以降、学問の自由と大学自治が危ういらしい。
https://note.com/kawakamikoyo/n/n7574a7ba2565
すでに卒業から5年以上経つものの筑波大学出身者として興味深く読んでみた。
1.建物の出入り口に警備員が配置され、入館に学生証の提示が必要となった。学生証を忘れたら別途入構許可を取らねばならない。
3.サークル施設の施錠後にたむろっていたら警備員に解散を促された。
妨げないでしょ。
図書館や研究棟のように学生証が必要な場所があるのは以前からなので、学生証を忘れたら云々のくだりはまったく共感できなかった。また、学生証の細則にも学生証は常に携帯することとの記載がある(これ自体気に食わない、という意見はあるだろう)。ちなみに、私は学生証と運転免許証を身分証として両方とも常に持ち歩いていた。
妨げないでしょ。
学外者って大学の授業がどの教室で行われるか知る必要ある?ないよね。私は元々ないと思ってました。とはいえ私が知らないだけで、世間には学外者だけど授業がどこの教室で行われるか知らないといけない人がいるのかもしれない。大学とは関係ないけどその人に教室情報が渡らないと学問の自由と大学自治が危うくなる、、、いるのか?てかいていいのか?
妨げないでしょ。
note筆者のサークル施設がどこかは知らないけど、場所によっては近隣住民や研究棟の学生から苦情が来ることもあるし安全管理上はさっさと帰ろと言われるのは当たり前だよね。私の時代にもあったし、むしろ警備員さんに迷惑かかるから解散後は速やかに移動というのはサークル内で暗黙のルールでした(新入生が最初に上級生から叱られる恒例行事のひとつ)。大学設備を使わせてもらってるしね、こういう持ちつ持たれつの関係を維持するのが「自治」ではないかと思うのだけど。note筆者には声高に注意してくるのはハズレの警備員だし集会の自由の権利侵害らしい。んなわけないだろ大学敷地内だぞ。てかそういうモラルの欠けたサークルがいるから利用時間が制限されて善良なサークルが割を食うんじゃ。
最後の方では監視社会の訪れを危惧することが書かれてるけど、個人的な意見としては「理由ちっちゃ」でした。上記3点は学生のモヤモヤとしては理解できる(私も経験してきた)けど、社会人で共感してくれる人は少ないんじゃないかな。筑波大学生であるならば「悪魔の詩翻訳者殺人事件」も「筑波大学女子大生殺人事件」も当然知っているはず。前者は大学助教授が、後者は入学したての新入生が犠牲になった。両事件とも未解決です。これらの事件と今回の話を、開かれた大学と学内の安全をどうバランス取るべきなのかという観点から展開していたら、筑波大学を知らない人にも広く考えさせる投稿になったのではないかと思います。
日本の大学で自民党の支持率99%の大学があったとして異常だとは思わないのか?
維新99%でもいい
政治的中立どこいったって話なんだよな
日本でもよく起こるけど、アメリカだと日本の100倍くらい起こってることです
ハーバードに保守的な主張の論客をいれてスピーチやディベートイベントしようとすると、学内の反対派につぶされます
こういうのアメリカじゃ常識だけど、日本じゃあんま話題になってないのかな
これは日本でもよく知られていると思うけど、政治的偏りの最たるものだね
ユダヤ系の学生への迫害とかも実際に起こって社会問題化してるしな
学生スピーチでいかにイスラエルがクソでパレスチナが被害者なのかイスラエル人の学生の方だけ向いて延々スピーチするのをニタニタ眺めてる教員とかの動画調べたらすぐ出てくるよ
1と重複するけど、これも調べたらすぐ分かるくらい偏ってる
政府から多大なる支援を受けて、民主党に寄付をする流れが完成されてる
マジ学問の自由への迫害だーってだけで思考停止して背景調べない人多すぎなんだよな
Permalink |記事への反応(13) | 23:25
Yoshihiro Mochizuki
Japanese Language Lecturer
Howdoesyour work engage with DEI topics? Couldyoushare a particularstory related toyour work in DEI?
As aJapanese language teacherat the University of Michigan, myjourney in DEIeducationhas been a profoundly enriching experience that reaches farbeyond the classroom. In 2023, I had privilege of speakingat various conferences and teacher training workshops, including delivering akeynoteaddressat the fourth Northwest ConferenceonJapanese Pedagogy hostedby the University of Washington. Thismilestone allowed me to advocate for the profound importance of DEI and socialjustice inJapanese languageeducation.
Through these experiences, I have come to a profound realization: while children and students often readily embrace DEI principles, having grown up in an era where these concepts aremore ingrained ineducation, our primaryfocus must beon theeducation of adults, particularly educators themselves.
During my presentations and workshops, I haveengaged with educators, many of whom have decades of experience. They raise questions that sometimes reveal unconscious biases or microaggressions. Yet, they openly admit feelingout of touchwith the ever-evolving landscape ofdiversity and inclusion. Theyexpress genuine concerns about their ability to relate to and support students from diverse backgrounds.
This interactionspotlights a substantial challenge facedby educatorstoday, a reminder thatthe worldis in constantflux, anditis ourshared responsibilityas educators to adapt alongsideit. These encounters are whatdrive mypassion for DEIeducation. My work extendsbeyond the classroom,aiming tobridge thegapbetweentheory and practice, guiding fellow educators toward inclusivity, understanding, and socialjustice.
As wemove forward,itis imperative to recognize that fosteringdiversity, equity, and inclusionis not solely the responsibility of students but a collectiveendeavor that starts with us, the educators.
In conclusion, myjourney inJapanese languageeducationhas taught me that thetruepower of DEIeducation lies inits ability to transform educators. This transformation, in turn, shapes amoreinclusive future for our students. Embracing DEI principles enriches notonly our teaching but also oursocietyas a whole.Together,as a community of educators dedicated todiversity, equity, and inclusion, wetake significant strides toward creating amore just andinclusive world,one classroomat atime.
あなたの仕事はDEIのテーマとどのように関わっていますか?DEIに関する具体的なエピソードがあれば教えていただけますか?
ミシガン大学で日本語教師としてDEI教育に携わってきた私の歩みは、教室の枠をはるかに超えた、非常に豊かな経験でした。2023年には、ワシントン大学主催の第4回北西日本語教育学会議での基調講演をはじめ、様々な会議や教師研修ワークショップで講演する機会に恵まれました。この節目を通して、日本語教育におけるDEIと社会正義の深遠な重要性を訴えることができました。
これらの経験を通じて、私は深い認識に達しました。それは、DEI の原則が教育に深く根ざした時代に育った子供や学生は、多くの場合、積極的に DEI の原則を受け入れますが、私たちが主に重点を置くべきは、大人、特に教育者自身の教育であるということです。
プレゼンテーションやワークショップを通して、私は教育者の方々と交流してきました。その多くは数十年の経験を持つ方々です。彼らは、時に無意識の偏見やマイクロアグレッションを露呈するような疑問を投げかけます。しかし同時に、彼らは常に進化を続ける多様性と包摂性という状況に疎外感を抱いていることを率直に認めています。多様な背景を持つ生徒たちと関わり、サポートしていく能力について、真摯な懸念を表明しています。
この交流は、今日の教育者が直面する重大な課題を浮き彫りにし、世界は常に変化し続けており、教育者としてそれに適応していくことが共通の責任であることを改めて認識させてくれます。こうした出会いが、DEI教育への私の情熱を駆り立てています。私の仕事は教室にとどまらず、理論と実践のギャップを埋め、他の教育者を包摂性、理解、そして社会正義へと導くことを目指しています。
今後、多様性、公平性、包括性を育むことは学生だけの責任ではなく、私たち教育者から始まる共同の取り組みであることを認識することが不可欠です。
最後に、日本語教育に携わってきた経験を通して、DEI教育の真の力は教育者を変革する力にあることを学びました。この変革は、ひいては生徒たちにとってよりインクルーシブな未来を形作ります。DEIの原則を受け入れることは、私たちの教育だけでなく、社会全体を豊かにします。多様性、公平性、そしてインクルージョンに献身する教育者のコミュニティとして、私たちは共に、一つ一つの教室から、より公正でインクルーシブな世界の創造に向けて大きく前進していきます。
もっちりんだ 🇺🇸 🇯🇵 🏳️🌈
@mochiey
学部からのお達しで、私のこのページ、もうすぐ消えることになったので、よかったら消える前に読んでくださ~い。
https://x.com/mochiey/status/1912156111953662160
もっちりんだ 🇺🇸 🇯🇵 🏳️🌈
@mochiey
Teaching Professor ofJapanese Language | University of Michigan 🇺🇸生活・Podcasts・日本語教育・人権 (LGBTQ+,フェミニズム),etc. Posts are my own. 他のSNSも 全て
@mochiey
でやってます。
すごく軽いね。もうすこしなんかないの?学問の自由とか言うことはないの?
大変申し訳ないのですが、これは消されて当然だし
6分
大学のサイトからDEIのページを消さないと、というより大学からDEIを排除しないと連邦政府からの支援金がもらえなくなるからね。
こういう報いを受けても仕方ないのでは。だって何一つ書いていないんだもの。
「profound importance」「profound realization」「shared responsibility」「transform educators」など、抽象度の高いフレーズばかりで、具体的な教育実践が見えません。
例:「どんな学生に、どのような教材を用いて、どういった変化が見られたのか」といった具体的な成果・実例が欠如。
「教育者と話して無意識のバイアスに気づいた」ことを語っていますが、どんな内容だったのか、どういう改善に繋がったのか、事例がないため説得力が弱い。
そもそもこの文章では、DEI(Diversity, Equity, Inclusion)を日本語教育の中でどう具体的に扱うのかが一切記述されていません。
たとえば「教材に出てくる名前や職業を見直した」「LGBTQの観点を授業で扱った」などの実施例が欠落。
トランプがカネを出さないというのは極めて至極まっとうで、この文章で人が感動することも共感することも同情することも理解することもない。
なに言ってるんだ。そのアカウント名もふざけている場合じゃないだろう。
あと大学もお金をもらわなくても大丈夫なんだから、大学にお金を出さなくてもいいのかも。
日本も見習うべきですね。
日本の大学よ、改革で強くなれ ゲスト:神田眞人氏 (財務省財務官)
https://kyoikutsushin.jp/webiken/webiken06-01.html
自主財源によるリソースを拡大する必要がある。学問の自由を守る経営の自律性向上のために研究と教育の質を高めていけば、外部資金や学納金、寄付、研究資金も集まるようになる。結果、その拡充された財源でさらに研究と教育が向上する。それが更なる資金流入を呼ぶ。好循環だ。私の院生時代の母校のオックスフォードがまさにそれをやった。国の補助金頼りから脱皮して、少しでもいい研究、いい教育をして、世界中から最も優れた学生と研究者を集めようとした結果、ご存じの通り七年連続で世界の大学ランキング一位です。そうなると、またお金が入ってきて、より高水準の教育研究環境づくりに投資できる。むろん、国からの補助金はどんどん減っています。それが好例です。他のトップ大学も、あてにならない国の交付金には依存せず、外部資金や事業収入、学納金等で安定した収入源を確保、拡充しています。
オックスフォードはもともと欧米エリートのコネクションのど真ん中やんか
そら金は勝手に集まるわな
あなたがたはご自分の人権が侵害される立場になっても反人権の信念を貫くのかな?
難病で働けなくなった時、まさか生活保護を申請したりしないよね?
反人権という立派な信念があるからには、福祉や人権に頼らず自殺するんだよね。エライねー。
濡れ衣を着せられて逮捕された時、まさか弁護士に泣きついて無実を主張したりしないよね?
反人権という立派な信念があるからには、検察や警察や裁判所にどんな拷問や人権侵害をされても抵抗せず我慢するんだよね。エライ、エラすぎる。
人間は小さなきっかけであっさり弱者に転落するものだということを、まさか知らずに反人権を唱えているわけじゃないよね?
かの戸塚宏のように、おのれが弱者になった途端に手のひらを返して「人権」を主張しはじめたりは、まさかしないよね?
反人権派の人たちは
・生存権
・勤労の権利
・人として大切にされながら働く権利
これらを全て放棄するんだね? スゴイねー。
特に、これらの活動が他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な対立や混乱をもたらしている点について、以下に説明します。
多くのトランス活動家は、トランスジェンダーの権利を擁護することを目的としていますが、その方法がしばしば過剰であり、他者の意見を抑圧する形で行われています。例えば、トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的に攻撃されることがあります。これは、言論の自由や学問の自由を脅かし、健全な社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくします。異なる視点や議論の余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会の多様性や寛容さを損なうものです。
トランス活動家の主張の中には、女性の権利や安全を直接的に脅かすものがあります。例えば、トランス女性が女性専用の空間にアクセスする権利を強く主張することが挙げられます。これは、生物学的な女性が安全な空間を求める権利と衝突する可能性があり、女性たちの不安や懸念を無視するものです。ジェンダーアイデンティティを尊重することは重要ですが、それが他者の安全や権利を犠牲にするものであってはなりません。このような活動が無批判に推進されることで、女性の権利が後退するリスクがあることは見過ごせません。
トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別は無意味である」といった主張は、多くの科学的研究によって否定されています。性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。科学的根拠に基づかない主張をもとに社会の規範を変更することは、無責任であり、長期的には多くの人々に悪影響を及ぼす可能性があることを認識すべきです。
一部のトランス活動家は、過激なレトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激なアプローチは、トランスジェンダーの権利の正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解や共感を得ることを困難にします。人々が互いに対立するのではなく、共通の理解に基づいて問題を解決するためには、対話と妥協が必要ですが、過激な活動家たちはその可能性を閉ざしています。
以上のように、トランス活動家の中には、他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な混乱や対立をもたらしている場合があります。トランスジェンダーの権利を擁護することは重要ですが、それが他者の権利や社会の安定を犠牲にするものであってはなりません。冷静で理性的な議論と、すべての人々の権利が尊重される社会の実現が求められています。
「トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的に攻撃されることがあります。これは、言論の自由や学問の自由を脅かし、健全な社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくします。異なる視点や議論の余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会の多様性や寛容さを損なうものです。」
→むしろミスジェンダリングなどのトランスジェンダーの存在や尊厳を無視するような内容を含む「議論」はトランスジェンダー当事者に対する排除的圧力として働き、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくする。これはあらゆるマイノリティに関して同様であり、同じ理由で「女性には理性が足りない可能性」「黒人は生物学的に知能が低い可能性」などは民主主義的な自由な言論における健全な意見とは見なされない。
「トランス女性が女性専用の空間にアクセスする権利を強く主張することが挙げられます。」
→基本的に主張していない。主張されているのは主に「これまで通りトランスジェンダーの人々が各々の移行状況やパス度に合わせて各種の設備を利用できる状況を維持するようにし、『トランスジェンダーの使用を禁じる』のような過剰反応による排除をしないこと」である。要するに、「いま使っていない者を入れろ」ではなく、「いま使っている者を追い出すな、攻撃するな」である。トランスの人権を求める側が望んでいるのは基本的に現状維持+ジェンダーレストイレの増設くらいのものだろう。
「トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別は無意味である」といった主張は、多くの科学的研究によって否定されています。性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。」
→もちろんひとによって意見は異なりうるが、大抵の場合そのような主張はしていない。生物学的な特徴も無意味ではない。そのことを誰よりわかっているからトランスはホルモン治療などを重視する(すなわち、生物学的、生理学的レベルでの介入を求めている)。ジェンダーが完全に社会的に構築されるという主張も、せいぜい少数派である。むしろマネーの実験の失敗や、割り当てられた性別への適合を望みながら失敗した過去から、「ジェンダーは社会からの要請によって決定されない」という主張をする者のほうが多いだろう。実際、トランス当事者にはホルモンシャワー説などを採用し、脳における生物学的基盤に自身の性自認の根拠を求める者も多い(それはそれである種の本質主義ではないかという批判はありうる)。
医学に関しては、トランスの人々が求めるのは自分の身体とメンタルに適した医療的ケアを受けることである。その際、ホルモン治療などにより典型的な男性でも典型的な女性でもない身体になっているトランスの場合には、その非典型的な身体状態に合わせたケアが必要になるが、生物学的決定論的な男女二元論の元では、そうした非典型的な身体に適したケアが難しいため、より繊細な扱いが必要となる。
また、科学的研究は多くのトランスが求めるところのものである。むしろジェンダー肯定医療などに関する査読付き医学論文や専門家によるレビューを無視し、手法に問題のある疑似科学的論文や非専門家によるセンセーショナルな問題含みの本ばかり取沙汰す非科学的な態度に批判的な者が多い。トランスの身体的、メンタル的ケアのために科学的/医学的なエビデンスに基づいた手順が求められている。
「一部のトランス活動家は、過激なレトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激なアプローチは、トランスジェンダーの権利の正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解や共感を得ることを困難にします。」
→これに関してはそういう人も中にはいるかもしれない。他方でトランスへの危惧を表明する側にも、「トランス女性は男性」などの攻撃的なレトリックを用いたり、トランスジェンダーを性的な加害者かそれに類似した存在のように語り社会の「敵」であるかのように扱うなど、分断を深める言説が多く見られる。両者がそうしたレトリックをやめ、トランスジェンダー当事者の実際のニーズを聞きながら、合理的な社会的調整を目指すべきだろう。
ところで、1点目で「意見の多様性」を語る一方で、こちらでは「過激なレトリック」の排除を求めるというのは、整合性が怪しいという点は意識すべきだ。トランス側にどうしても耳に入れたくないような意見も否定されず聞かせるようにしたいのであれば、自らも「過激なレトリック」と感じる言葉に耳を傾けるべきであるし、「過激なレトリック」が対話にとって問題だと考えるなら、相手が「過激なレトリック」と見なすような意見表明を控えるべきである。両者が思うがままに語ることを求めるか、両者が節度を持つことを求めるかのいずれかが合理的なのであり、そうでない立場はダブルスタンダードである。
これらに関して、「それはリベラルやフェミの特徴では」という疑問の声が上がるのは理に適っている。というのも、トランスに怯える者の「トランス活動家」への見方は、表現の自由が危ういと怯える者の「フェミ」や「リベラル」への、治安の悪化を恐れるものの移民やその権利をサポートする者への見方と相似形となるためだ。まさに、「フェミ」や「リベラル」のようなことを言うのが「トランス活動家」なのである。実際、トランスの権利を擁護する層とフェミニスト、リベラルは大きく重なっている。トランスの権利を擁護する者はほとんどフェミニストでリベラル、ないしは左翼である。またトランスの権利を擁護してきた主要な層のひとつはフェミニストである(むろん、フェミニスト内部でのトランス排除の問題はあったが)。
ところで、「トランス活動家」の運動に懸念を抱く者は、それが具体的に誰を指し、その人のどの記事、本を念頭に置いているのかを意識してみてもいいだろう。Xなどでは成りすましも含めた有象無象が好き勝手なことを語っているし、ウェブメディアは信頼性が担保できていないものも多い。率直に言って、実際のトランスのことも、アクティビストのことも、運動のことも、すでに一定の知識があるのでなければそれらで調べてもまずわからないだろう。基本的には社会的に信頼されている出版社からの書籍、査読付きで一定の評価のある学術ジャーナルを中心に、その中で言及されているアクティビストや運動に目を向けるべきだろう。
特に、これらの活動が他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な対立や混乱をもたらしている点について、以下に説明します。
多くのトランス活動家は、トランスジェンダーの権利を擁護することを目的としていますが、その方法がしばしば過剰であり、他者の意見を抑圧する形で行われています。例えば、トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的に攻撃されることがあります。これは、言論の自由や学問の自由を脅かし、健全な社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくします。異なる視点や議論の余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会の多様性や寛容さを損なうものです。
トランス活動家の主張の中には、女性の権利や安全を直接的に脅かすものがあります。例えば、トランス女性が女性専用の空間にアクセスする権利を強く主張することが挙げられます。これは、生物学的な女性が安全な空間を求める権利と衝突する可能性があり、女性たちの不安や懸念を無視するものです。ジェンダーアイデンティティを尊重することは重要ですが、それが他者の安全や権利を犠牲にするものであってはなりません。このような活動が無批判に推進されることで、女性の権利が後退するリスクがあることは見過ごせません。
トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別は無意味である」といった主張は、多くの科学的研究によって否定されています。性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。科学的根拠に基づかない主張をもとに社会の規範を変更することは、無責任であり、長期的には多くの人々に悪影響を及ぼす可能性があることを認識すべきです。
一部のトランス活動家は、過激なレトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激なアプローチは、トランスジェンダーの権利の正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解や共感を得ることを困難にします。人々が互いに対立するのではなく、共通の理解に基づいて問題を解決するためには、対話と妥協が必要ですが、過激な活動家たちはその可能性を閉ざしています。
以上のように、トランス活動家の中には、他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な混乱や対立をもたらしている場合があります。トランスジェンダーの権利を擁護することは重要ですが、それが他者の権利や社会の安定を犠牲にするものであってはなりません。冷静で理性的な議論と、すべての人々の権利が尊重される社会の実現が求められています。
トランス活動家がしばしば掲げる主張には、現実問題として、大きな問題があります。特に、これらの活動が他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な対立や混乱をもたらしている点について、以下に反論します。
多くのトランス活動家は、トランスジェンダーの権利を擁護することを目的としていますが、その方法がしばしば過剰であり、他者の意見を抑圧する形で行われています。例えば、トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的に攻撃されることがあります。これは、言論の自由や学問の自由を脅かし、健全な社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくします。異なる視点や議論の余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会の多様性や寛容さを損なうものです。
トランス活動家の主張の中には、女性の権利や安全を直接的に脅かすものがあります。例えば、トランス女性が女性専用の空間にアクセスする権利を強く主張することが挙げられます。これは、生物学的な女性が安全な空間を求める権利と衝突する可能性があり、女性たちの不安や懸念を無視するものです。ジェンダーアイデンティティを尊重することは重要ですが、それが他者の安全や権利を犠牲にするものであってはなりません。このような活動が無批判に推進されることで、女性の権利が後退するリスクがあることは見過ごせません。
トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別は無意味である」といった主張は、多くの科学的研究によって否定されています。性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。科学的根拠に基づかない主張をもとに社会の規範を変更することは、無責任であり、長期的には多くの人々に悪影響を及ぼす可能性があることを認識すべきです。
一部のトランス活動家は、過激なレトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激なアプローチは、トランスジェンダーの権利の正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解や共感を得ることを困難にします。人々が互いに対立するのではなく、共通の理解に基づいて問題を解決するためには、対話と妥協が必要ですが、過激な活動家たちはその可能性を閉ざしています。
以上のように、トランス活動家の中には、他者の権利や自由を侵害し、社会に不必要な混乱や対立をもたらしている場合があります。トランスジェンダーの権利を擁護することは重要ですが、それが他者の権利や社会の安定を犠牲にするものであってはなりません。冷静で理性的な議論と、すべての人々の権利が尊重される社会の実現が求められています。
追記をはじめに書くべきとのブコメがありましたので修正しました。
○増補新版にしか弥助の記載がないってコメントあるけどそうなの?そもそもロックリーの本の方が先にでているらしいし、頑張ってこんな微妙なウソつくのはどうなんだ。/そもそも記載は本当でも南蛮人から買うしかない
○弥助の事書かれて無い2017年版大航海時代の日本人奴隷持ってるけど、2021年発行増補新版の間で何かに目覚めたんかな?17年版は序章の改宗ユダヤ人が異端狩りを逃れて日本へ逃げ込む所なんか凄い面白い本なんだけど
そしたらロックリー先生初出、岡・ソウザ先生がそれを取り入れた可能性もあるのか
そしてそれを取り込んでしまったせいで目茶苦茶な記載になったのかも
(肥後に弥助の妻子がいたと読み取れる件について)
○その部分は、校正の最終段階で、段落を丸ごと削除した際に残ってしまったミスです。2021年の再版刊行時にすでに修正済みです。アカデミアの方であれば、そういったことが生じることはご存知ではないでしょうか?それに、弥介の話は前段落で終わっているのは、文章を読めば理解できるところです。
○なおkindleは初版以降の修正は反映されないことが確認されたため、本日中央公論新社と協議の上、Amazonに修正依頼しました。来週には修正される予定です。本日大規模重版かかりましたので、同じ頁の数字の誤字も修正されます。ご指摘、どうもありがとうございました。
(後掲岡先生のXより)
アカデミアでは段落丸々削除する程度のミスは当然に生じうるから問題なし、またこれを弥助の話と取るのは読解力の問題、とのようだ。
弥助の話をしている流れで肥後の妻子の話を続けているのだから、普通の読解力だと弥助の話と受け取ると思うのだが。アカデミアの方々の高度な読解力は凄いね。
また、私なら、まずミスしてしまった本を読んでしまった読者に謝罪するけどアカデミアの流儀は分かんないね
なお、「廿」については修正されていそうだが、「器量すくやか」の誤読(?)についてはコメントされていなかった。
「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない
かもしれない。
アサクリの弥助問題から派生して、日本大学准教授のロックリー先生が、「戦国大名は黒人奴隷を欲していた」とデマを流している、との言説がある。
しかし、これはロックリー先生のデマではないのではないか、との意見がX上で交わされているので、ロックリー先生の名誉のためにまとめておこうと思う。(リンクが多くなりすぎるのでリンクは省略)
東京大学史料編纂所の准教授の岡美穂子先生と、その配偶者であり東京外国語大学特任教授のルシオ・デ・ソウザ先生の共著である「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」(中公選書)という学術書がある。
屈強で珍しいカフル人を従者にすることは、日本人にとっては「富貴」や「威風」の象徴で、交易に関係する大名たちはこぞってその所有を望んだと思われる(215ページ)
また、ロックリー先生の著作の「信長と弥助」(太田出版)にはこうある。
ロックリー先生の著作が2019年出版、岡・ソウザ先生の著作が2017年であることから、ロックリー先生は岡・ソウザ先生の著作を参考に書かれた可能性がある。
つまり、岡・ソウザ先生は従者と記載しているのを、ロックリー先生が奴隷と言い換えてしまったようなのだ。母国語ではないせいで細かいニュアンスが変わってしまったのか、意図的なのかは不明だが。
ちなみに岡先生・ソウザ先生の著作に「「富貴」や「威風」の象徴…こぞってその所有を望んだと思われる」とあるが、その根拠は示されておらず、不明である。岡先生・ソウザ先生の博識にてらすと論ずるまでもないことなのかもしれない。
ただ、ロックリー先生の著作は英語版では内容が異なるという話もある。そこまで追えていないが。
商売上手の中央公論新社が、話題になったこの機会を捉えて「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」を増刷してくださるそうだ。(https://x.com/chukoshinsho/status/1815737944243573035)
せっかくの機会なので皆様も是非お読みいただきたい。
注目すべきページがある。(https://i.imgur.com/aQlemYT.jpeg)
書籍内では「16、7歳」(4行目)とあるが、実は信長公記では「廿六、七」と書いてある。もちろんこれは26、27歳のことであり、①単純なミスが発見できなかったか、②「廿」という文字が読めなかったか、ということになる。ケアレスミスだろうか。
書籍内では「穏やかな気性」(5行目)とある。これも信長公記にあたってみると、「器量すくやか(健やか)」とあるが、現代文に訳すのならば「立派な」や「頑丈な」、「才気にあふれた」といった意味となる。これもケアレスミスだろうか。
書籍内では肥後に妻子がいたとされている(後ろから2行目)。文脈上これは弥助のことだと思われるが、史料中で弥助に妻子がいたことを示すものはまったくない。何を根拠にしているのだろうか。
ルシオ・デ・ソウザ先生は、ロックリー先生の最新作「AGentleman fromJapan」の推薦を書いており、関係は良好だと思われる。
岡美穂子先生によると次の通りだ。
「ゲンダイ」系の媒体、上からの圧力にも曲げず、頑張ってらっしゃいます。どうせ競馬と女性の裸の写真しか載っていないんだろうから読者の質など知れていると、オカミはタカをくくっておられるのかもしれませんが、なかなかどうして、左翼系知識人から、かなり支持されておりますのですよ。私は左翼でも、知識人でもありませんけど。でも右翼は絶対嫌だ。
そんなこんなんで、お友達がいるわけでもない日刊ゲンダイで、本が紹介されました。とても嬉しいです。
https://web.archive.org/web/20201101144221/https://mdesousa.exblog.jp/m2017-06-01/
岡先生のブログによると、左翼系知識人は日刊ゲンダイをかなり支持しているとのこと、また、御本人は左翼でも知識人でもないけど、右翼は絶対嫌とのことだ。
ちなみにこのブログは、2024年5月16日まではウェブアーカイブにて確認できるが、岡先生が今回の弥助・黒人奴隷議論に御参加されるころには既に削除されてしまっている。
弥助・黒人奴隷議論に際し、岡先生のなされた御発言をまとめておこうと思う。
○これだけ「歴史修正主義」って叫ぶ人が出てきてるのに(笑)、右系論壇が沈黙しているのは、さすがにこの問題に関わったら、常識を疑われると認識できているのだろう。
○将来を嘱望されていた呉座さんがあんなことになってしまったのは、あなたたちのような人と不用意に繋がってしまったからでしょうね。
○「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
○私はロックリーさんの著作は、日本語も英語も「歴史読みもの」であり、学術研究であるとは考えておりません。しかしそれが書かれるにあたって、彼が様々な文献にあたり、想像を超える努力をしたことは存じております。
○彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
○に「裏で」繋がっていませんが。私が海外で出版した本のレビューを権威あるジャーナルで紹介してくれたのは彼ですし。面識のない人を「あんた」と呼ぶのは、いかがなものでしょう。おそらく、現在表に出ている人間で、彼を表舞台に連れてこれるのは私だけですが、こんな人のためにはできませんね。
ここから、①右翼・右派に対する敵対心がある、②ロックリー先生の著作は読み物だが、ロックリー先生の努力やそれを信じる人のためにも否定しない。(ロックリー先生は史実と主張しているが)、③政府から言われれば自身の著作を修正しても良い、④ロックリー先生とは夫婦揃ってかなり深いつながりがある、という御意見をお持ち・事実関係であるいうことが読み取れそうだ。
著名な学者であり、岡先生の同僚でもある隠岐さや香先生まで、岡先生擁護の論陣を張っていた。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみにオンラインハラスメントの日本での事例として、隠岐先生御紹介のページでは望月衣塑子さんの新聞記者が挙げられている。あれってフィクションじゃなかったっけ…?
Permalink |記事への反応(21) | 17:04
ロックリー氏へのキャンセル方向で話を進めようとしている人たちがいる。
あーあーあ、という感じ。戦い方間違えたな。まあ誰が戦い方決めているわけでもないので、こうなってしまった、という感じだが。
これやった瞬間、学問サイドは一気に、「不当な弾圧から学問を守らねば」っていう防御モードに入るんだよ。
「政治的に学問を利用しようとする側」がまるっと入れ替えられて、
「自由な学問=ロックリー側」VS「不当に弾圧をかけて歴史改変しようとするゲームオタのネトウヨ」という構図に「される」。
こうなるともう、あらゆる議論は受け付けなくなるし、政府が動こうもんなら「学問の自由への介入」とブチギレる。
反ロックリー的な議論も学問サイドでするのが難しくなる。「弾圧に加担するのか」つって。
つまり、負けです。
弥助は伝説の侍であることが確定したし、日本の侍には黒人の血がどうのこうのも今後も流布されます。
真面目にそれを学問的に反駁するという機運は失われました。あーあ。
誰のせいでもないです。
○日本の戦国時代では黒人奴隷が流行ってた、イエズス会は奴隷を禁止してたのに。
○真田広之のSHOGUNで黒人武士が出てこないのは差別と糾弾された。
こんなのが一般的になってんだぞ
ちなみに東大准教授の岡美穂子さんは誤りを正さないことに肯定的。
理由は「それを信じた彼らが可哀想だからじゃないか」という趣旨。しかも、外務省から言われたらやるという権威主義。
彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
ちなみに岡先生の配偶者のルシオ・デ・ソウザさんは、このデマの発信元のロックリーさんの著作の推薦文を書くなどの近い関係。
趣旨は「歴史学者へのオンラインハラスメントは言論弾圧だ!」とのこと。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみに隠岐さや香先生の例示した報告では、日本におけるオンラインハラスメントの事例として安倍晋三によるものを挙げている。なんとその出典は新聞記者(映画)。あれは望月衣塑子記者によるフィクションなんですが・・・隠岐さや香先生大丈夫?
Permalink |記事への反応(20) | 12:49