はてなキーワード:女形とは
女体の上位変換はないので射精産業は膨大な数が存在し、風俗レビューは常に盛り上がる一方で女は「イケメン男性同士のBLでのオナニー」だけで満足する
ファンが一人もいなかったジャニーズジュニアが某オーディション番組に出た途端に大量のファンを獲得した、ファンがいなかった一般人やロートルが地元やイベントと連動したアイドルグループや武将隊や劇団に入った途端にファンを獲得した、無名や女性に不人気な声優や俳優がアニメや2.5次元で人気キャラを演じたらファンを獲得した、博多のマイナーバンドの非モテメンバーがメジャーデビューして売り出された途端に女が寄って来るようになり、過去を取り戻すかのように女を食い散らかして、他のメンバーは制止に苦労した
男同士が集まり共闘や競争に切磋琢磨するエンタメなら芸能でもスポーツでも関係なく女のファンがつくし、そのエンタメの人気者ならチンポの立たない爺さんでもチンポのない宝塚や日韓女性アイドルグループ等の女でも構わないし実際に熱心な女性ファンに支えられている
なので芸能人や有名人と一緒に仕事してる男もおこぼれ目的の女にモテる
水原一平も人気あったし、バンドブームの頃はユニコーンのマネージャーの髭のおっさんやスタッフやローディまで若い女を食いまくっていた
だからモテる女のルックスは皆痩せた美人で統一されてるけど、モテる男はルックスにばらつきがあるだろ
女が自分の旦那と息子と推し以外の男に無関心なのは言うまでもないし、推し活も「有名人かつ特定の推し」にしか金を出さない
逆に男は女の地位や評価や経歴はどうでもいいから木嶋佳苗やりりちゃんみたいな経歴不明無職の不美人に大金を貢ぎ、貧困大家族の日本語を話せない外国人女性を嫁として斡旋するブローカーが存在する
エロ動画や風俗は言うに及ばず、自撮りや盗撮アカウントや無数のネットに転がっているエロ動画に至っては女の素性は勿論、顔すら分からないけどシコるだろ
ジャニヲタもプロ野球やバスケやバレーのプロリーグに流出し、前者はSnowMan以外の全グループの売り上げが下がってるが、後者の女性ファンや動員は爆増してる
近藤真彦〜忍者〜TOKIO〜関ジャニ∞と長年ジャニヲタやってた女性もラグビーに移行した
あと、男だけが身長や収入とマッチング率や既婚率が比例する統計がいくつもあるだろ?
日本人男性の6割が170cm以上、165cm以下は1割
https://toukei-labo.info/10_taikei/10_shincho.html
しかし風俗客、マッチングアプリ婚活市場で余剰在庫になる層は低身長男性に集中。始末に困った業者に「売れ残り婚活女性は余っている低身長男性で妥協して!」と訴えさせてしまう
「身長170cm以上の男性希望です」という婚活女性を見ると婚活業者や非モテ男性が脊髄反射で「高身長男性はすぐ売り切れて品切れするから高望み!婚活しないと相手が見つからないブスやおばさんは妥協しろ」の大合唱になるから、内心では女が顔より身長を重視するのを理解してるんだよ
しかし取り柄のないボンクラでも婚活やマチアプやれば売れて行く高身長男性と違い
芸能界一強の権力や知名度の事務所等の所属先や肩書が伴わないと低身長男性は見向きもされない
「男はコミュ力(とそれに伴う社会的評価)で選ばれるが、婚活や恋愛において低身長が余る理由はそれ
https://web.archive.org/web/20010303004351/http://www.baw.co.jp/gossip_97_3.html
テレビ局やスタジオに入れる身分も気持ちがいいけど、ジャニーズに入った途端に“ファン”がデキるというのも驚きだよね。だってさぁジャニーズじゃなかったら一般人じゃん。劇団に入っているカッコイイやつでもファンなんて一人もいないのに、ジャニーズに入っていればブサイクな顔でもファンやおっかけまでついてくるんだ。おおーこれこそアイドルじゃん! とは思ったけど、なんでついてくるんだろう? とは日々疑問であった。テレビ朝日の中にあるレッスン場にはいっつも出入り待ちのファンらがたむろっているし、おっかけはタクシーに乗ってまでついてくる。おまけに家に入るまでのお見送りつきというゴージャスな待遇である。歌手デビューしているとか、ドラマに出演しているとかだったらわかるけど、一般人が“ジャニーズ”というだけでその私生活まで大きく変化を遂げるほどの環境に変わってしまうのだ。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/2_4869.html
石原 (略)
女形が少年の役をやっててね。化粧とか照明の具合で、これがなかなかの美少年に見えるんです。そのせいか女性の観客が多かった。僕も何回か観たんですけど、ある日、舞台を観ていたら客席の方からピチャピチャという水の音が聞こえてきて、なんだろうと思った。
竹熊 なんですかその音は。
石原 昔の芝居小屋は無声映画もやっていましたから、舞台の前がオーケストラ・ボックスになっている。新派劇のときは楽隊がいないから、ボックスに腰を下ろして芝居見物するんです。一メートルくらい穴の開いた場所で、床の音がよく聞こえる。畳敷きなのにピチャピチャ音がするんです。
石原 ない。ところがね、食事は僕ら九人全員で一緒にすることになっていたんですが、明くる日になったら女の子が「あなたの部屋にいる居候を連れてきなさいよ。気の毒でしょう」って言うんですよ。その子が来たら、女どもがワーッと声を上げて取り囲んだ。
ホモなのに女にもてるんですよ。憎たらしい。両刀使いでもなくて、完全なホモです。女に取り囲まれてもまったくその気がない。美少年だからね、SMAPみたいなものですよ。女将さんは、てめえの亭主のホモ関係を邪魔するために、僕を居候の部屋に住まわせたんです。
石原 そうです。太宰府出身の二三歳。僕よりひとつ年下ですね。スマートでハンサムだった。僕なんか眉毛は太いし、目付きが鋭いでしょう。それでね、女どもがそのホモの男も日本に連れて帰ってくれ言い始めた。冗談じゃないと思って置いてきたんですけど。そのときですよ、ピチャピチャを急に思い出したのは。
竹熊 ピチャピチャ?
石原 例の『乃木大将と納豆売り』のピチャピチャですよ。あのときもそうだったんだけど、女はホモの美少年を見ると濡れるんです。女というのは、どんなに切羽詰まってもホモに味方するってわかって、貴重な体験でしたね。
性的に不能なヒトラーが若い女にモテて女性の支持が高かったのも、金髪碧眼のイケメン集団にスタイリッシュな服装を着せていたからだよな
〈ツーショット写真〉人間国宝・片岡仁左衛門78歳 “壇蜜似”41歳女性との2年不倫愛
https://bunshun.jp/articles/-/58481?page=1
A子さんは、18年春頃から、仁左衛門が出演する公演を全て観劇する“全通し”をすることが多くなるなど、仁左衛門ファンの間で、次第に目立つ存在になっていく。19年2月には楽屋口で入り待ちをしているA子さんを見つけ、他のファンもいる前で、「この前、手紙に書いてた質問のことやけどな……」と話しかけたこともあった。
その後、彼女は関係者だけが参加できる会にも参加するなど、さらに仁左衛門との距離は近づいていった。そして20年3月、コロナ禍で歌舞伎座公演も中止となったこの頃、遂に2人はプライベートで会うようになる。A子さんが仁左衛門の自宅に誕生日プレゼントを郵送すると、返事があったのだ。
人間国宝・片岡仁左衛門、不倫で〝噛む癖〟バレた! 壇蜜似の年下女性の首、二の腕に内出血のような跡 「週刊文春」報道
https://www.zakzak.co.jp/article/20221102-NPMREAYTV5LVXEMHB7ICS3DPEA/
知人の証言として、女性がウオーキングの最中にも首や二の腕を噛まれ、ホテルでも噛まれたと伝える。それは内出血のようになっていたというから、相当な力で噛んだものと思われる。
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「メスとして可愛がられたり、責められたりする音声を聴きながら乳首やアナル刺激だけで絶頂に至る」というメスイキ嗜好が、かつてはニッチな特殊フェチと見なされていたにもかかわらず、数多くの日本人男性に受け入れられている現象は、以下のような複合要因によって説明される。
-江戸期以前からの春画文化、男色・女形文化による“柔軟な性意識”
-戦後の二次元表現(漫画・アニメ・同人)の独自発展と、ファンタジーで過激表現を可能にするモザイク規制の裏事情
-長時間労働などで疲弊する男性にとって、被受動的立場は強いカタルシス
- 男らしさの呪縛から脱却したい(orそもそも求めない)草食系男子が仮想空間で自由な性を模索
- ASMR、バイノーラル録音、VRなどが「音声や視覚の没入度」を高め、“メス化”没入を容易にした
-DL販売や通販の匿名性が“恥ずかしいフェチ”を気軽に楽しめる環境を整備
-日本固有の「二次元=自由な欲望発散」「現実=建前を重視」の文化が、過激な倒錯表現を大衆に広める土壌を形成
-現実社会でのジェンダー問題解決とは直結しないが、男性の“自己開放”への潜在的欲求を刺激
こうしたマクロ要因が絡み合い、メスイキ嗜好やサキュバス責め・ふたなり支配などがもはや“スタンダード”の一つとなりつつある。その背後には、男性性の固定的あり方が崩れ、男女の役割分担が流動化している現代社会の姿が映し出されていると言えよう。
このような倒錯表現の流行が、男性性からの解放や女性上位のイメージを肯定的に扱っているからといって、直ちに現実の女性の権利向上に結びつくわけではない。むしろ男性中心のファンタジーとして再生産されている面もある。今後、社会的なジェンダー平等とどう折り合いをつけるのかが注目される。
表現の自由を最大限認める風潮と、フェミニズム・児童保護など公的利益を名目とする規制が対立する構図は今後も続く可能性が高い。二次元表現の規制に向かうのか、それとも創作と現実を明確に分離して許容するのか、社会的合意をどう形成するかが問われる。
日本発の「メス化」「ふたなり」などが海外でも一部マニア層に人気を博しているが、文化的差異や言語壁が大きい領域でもある。翻訳やローカライズが進めばさらに市場が拡大するかもしれないが、逆に海外規制や宗教的批判に直面する可能性もある。
男性が「メス」として扱われる性嗜好は、単なる“倒錯”という括りに収まりきらないほど大きな市場と支持層を得ており、そこで語られる「メスイキ」「乳首オナニー」「サキュバス責め」「ふたなり支配」などのキーワードは、現代日本社会のジェンダーと欲望のあり方を色濃く反映している。本来の男性性を脱ぎ捨て、女性的役割を演じて甘やかされたい、支配されたいと願う心理の広がりは、戦後日本が培ってきた“男はかくあるべし”の呪縛や、厳しい労働環境がもたらすストレスを映す鏡でもある。
現時点では、この“メス化”や“被受動的性快感”が社会全体のジェンダー観や性規範を大きく変革するかどうかは未知数である。しかし、男性性の揺らぎや多様化、そして二次元・音声メディアのさらなる発展を考慮すれば、今後もこの流れがより洗練化・拡大していくことは十分に予測される。そこには、単なるエロティックな消費だけでなく、日本人男性の深層に横たわる“自己解放”や“癒やし”の欲求が凝縮されているからこそ、多くのユーザーを惹きつけてやまないのである。
以上、本稿では、現代日本において急速に台頭した「男性のメス化(メスイキ)嗜好」をめぐる諸相を、歴史・社会・文化・メディア技術の多面的視点から検証した。今後の研究・議論を通じて、こうした男性性の再定義やファンタジーの実践が、どのように社会や個人を変えていくのかをさらに注視していく必要があるだろう。
近年、日本国内の一部男性のあいだで、「メスとして可愛がられたり、責められたりする音声を聴きながら、乳首オナニーで“メス”のように喘ぎ、ペニスに触れずに射精する」「サキュバスのペットとして甘サドな責めを受ける」「ふたなり女性にアナルを“オマンコ”として犯されながらエネマグラと乳首刺激だけで連続絶頂を味わう」など、男性側が“女性的役割”を演じて被受動的に快感を得る性表現が大きな注目を集め、数多くの関連コンテンツ(音声作品・同人誌・アダルトゲームなど)がヒットしている。本来はニッチな性的倒錯と思われていたこれらのシチュエーションが、いまや数万人〜数十万人規模の市場を形成し、日常的に消費されるまでに至っているのはなぜか。
本稿では、この現象を「メスイキ」というキーワードを軸に整理し、以下の諸点を検討する。
このアプローチを通じて、単なる「変わった性趣向の流行」で片付けるのではなく、現代日本社会が抱えるジェンダー観やストレス環境、表現文化の特性などを総合的に捉え、ひいてはその社会的・歴史的意義に迫ることを試みる。
「メスイキ」という言葉は元々BL(二次元のボーイズラブ)文脈などで使われ始めた俗称で、男性が女性的な快感を得る状況を指す。一例としては、アナルや乳首など“男性にとってはサブ性感帯”とみなされがちな部位のみで絶頂に至る、いわゆる“ドライオーガズム”や“ノーハンド射精”である。それ自体は医学的にも「前立腺オーガズム」という可能性が示唆されており、必ずしも架空の概念ではない。
しかし、単に身体的な前立腺や乳首への刺激以上に、“女性的役割を演じる”ファンタジーが欠かせない場合が多い。すなわち、「男性であるにもかかわらず、女性のように可愛がられたり、喘いだり、“メス”として扱われる」心理的興奮が「メスイキ」の本質に含まれる。作品中では、下記のような演出が典型的である。
こうした要素が組み合わさることで“男性性からの逸脱”がより鮮明となり、結果的に「普通のオナニーにはもう戻れない」「自分はメスとして淫らにイキたい」といった強度の快楽イメージを打ち出す。
具体的には、以下のような状況が作品やプレイ実例として語られる。
「サキュバスの甘い囁きで毎晩乳首オナニーをさせられ、ペニスは触っちゃダメと言われるまま禁欲→限界に達し“メスイキ”させられる」
「ふたなりの姉さんキャラがアナルを穿つ音声を聴きながら、エネマグラ・両手による乳首刺激だけで連続絶頂に至る」
「サキュバスが襲来し、男性を“メス奴隷”に仕立て上げるシチュエーションで、男性はひたすら甘サドな責めにより何度も射精するが、いずれ自我も奪われてしまう」
「ふたなりキャラを用いた逆アナルもの。男性は自分のアナルを‘オマンコ’として使われ、女のように喘ぎまくる」
かつてであれば「かなり特殊な倒錯」と見られたこうした表現が、音声DLや同人誌マーケットで1万〜数万ダウンロードを記録するヒット作を次々と生み、隠れた大衆的支持を獲得しているという現実は、今日の日本社会におけるジェンダー観・性表現観の変化を如実に示している。
江戸時代の春画には、男女の交合や同性愛、豊満な性描写などが豊富に描かれ、多くの庶民や武士に愛されていた。公序良俗の名目で厳しく取り締まられていた時期もあるものの、実際には十分に流通しており、“性”を愉快に捉える庶民文化が存在していた。
武家社会では年長の武士が若い少年(若衆)を愛する男色の慣習が知られ、文化的にも一定のステータスを備えていた(衆道)。この風習の中で、受け手となる若衆の“女性的役割”が一定の様式として認知されていた可能性がある。また寺院などでも同性間の関係が容認される余地があり、“男性が被受動的立場を担うこと”への抵抗感が、キリスト教文化圏ほど強固でなかったと指摘される。
歌舞伎の女形文化は、男性が女性のしぐさや姿態を美しく表現する芸能として発展した。「男性が女性を演じる」ことは芸術的に認められ、現代の“男の娘”や“女性役を演じる男性キャラ”の系譜と捉えられる面もある。これら江戸以前の文化からも、日本にはもともと「男性=常に支配/攻め」の固定観念が絶対視されず、多様な性表現を“芸能”や“風俗”として許容する土壌があったと推察される。
近代国家形成とともに、西洋の性道徳や刑法の導入により、一定の規制(わいせつ罪)が敷かれた。一方で戦後の復興期にかけてアンダーグラウンドなエロ文化やストリップ、ピンク映画などの分野は逞しく生き延びる。さらに、実写AVに対する“モザイク修正”が長年法制度上定着したことにより、直接的な生殖器描写の回避策として、触手や人外キャラ、ファンタジー設定が豊かに発展する下地を作った。
1970〜80年代以降のアニメ・漫画の隆盛、1980年代〜90年代の同人誌文化の爆発的成長が、二次元における極端な性表現を加速させた。
これらの歴史的・文化的脈絡が集約した結果、「男性がメスとして扱われる」コンテンツがファンタジーの枠内で多彩に展開され、自然と受容されていくという経路が形成されたとみなせる。
日本はOECD諸国の中でも長時間労働やサービス残業が常態化しており、過労死やメンタル不調が問題化している。そうした社会的圧力下で多くの男性が「仕事では常に責任を負わされ、強さを求められる」状態に置かれ、プライベートで“逃げ場”を欲する。被受動的な性的快感は、その逃げ場として大きな魅力をもつ。サキュバスやふたなりキャラの“圧倒的支配”を受けるファンタジーは、日常の疲れを洗い流すカタルシスを提供するのだ。
近年、恋愛や性行為に積極的でない「草食系男子」という現象が頻繁にメディアで取り上げられてきた。こうした男性たちは、そもそも“男性が攻める/リードする”という役割に強いモチベーションを感じていない。草食化は、男性性を誇示しなくてよい新しいライフスタイルを指向する動きとして捉えることができ、メスイキや被受動的性行為をファンタジーとして消費するのは、彼らの価値観と自然に合致する面がある。
逆に、依然として「強くあるべき」「稼ぎ・リーダーシップ」を社会・家庭から強要される男性も多い。その反動として、「せめてプライベートの性の場面くらいは、自分が支配される側になりたい」「女性的立場に没入したい」という欲求が生じるパターンも指摘される。“甘サドな責め”や“徹底的にメス扱いされる”シチュエーションは、過度な責任感から解放される手段として歓迎されやすい。
ここ数年、YouTubeやニコニコ動画を中心にASMRブームが起き、耳かき音や囁き声などの癒し系コンテンツが人気となった。この流れがアダルト方面に波及し、“サキュバス責めASMR”や“乳首オナニー誘導音声”などが同人販売プラットフォームで人気化する現象が起きている。
DLsite等の大手プラットフォームでは、同人音声・漫画・ゲームが簡単に購入でき、購入者はレビューやコメントで感想を共有する。こうしたコミュニティの存在が、「メス化するのは自分だけじゃない」と気づく機会を与え、“暗黙の同志”が多数いることを可視化する。結果として、さらに関連作品を漁るユーザーが増え、新たな作品が生み出されるという好循環が生まれる。
男性が実際にアナル開発を行い、“メスイキ”をリアル体験する人が増え、経験談をネットに投稿→さらに興味を持つ人が増える。
VR空間内で自分視点が女性化キャラになるものや、ふたなり相手にアナル責めされるシミュレーションなど、より没入度の高い次世代コンテンツの登場も指摘される。
メスイキ嗜好が大きく受け入れられている事実は、「男性は常に強く・攻める立場でなければならない」という従来のステレオタイプが揺らいでいることを示唆する。しかし、フィクション上で男性が“メス化”することと、現実社会で男性が女性的立場を尊重したりジェンダー平等を実践したりすることは必ずしも直結しない。
一見、サキュバスやふたなり女性による男性支配は“女性の主導権”を肯定しているようにも見えるが、実際は「男性にとって都合の良い女性上位ファンタジー」だという批判もあり得る。
日本では、歴史的に「創作と現実を分ける」風潮が強く、男性がメス化するような過激な二次元表現が広まっても、現実社会でジェンダー平等が急進するわけではない。この乖離が“自由な表現市場”を守ると同時に、“現実の制度や意識の変革”には直結しないというねじれを生んでいる。
欧米では実写ポルノ規制が緩やかな一方、コミックやアニメに対しては厳しい風潮があったり、宗教的道徳感から「悪魔・淫魔」要素が強く忌避されることもある。一方日本は、モザイク規制や現実の同意年齢の議論など、実写への規制は独特に厳しいが、二次元のファンタジー領域では極めて寛容である。この対照性が「サキュバス責め」「ふたなり」などを日本発で世界に広める要因になっていると見られる。
個別ユーザーの嗜好に合わせ、AIがリアルタイムでサキュバスやふたなりキャラを生成・ボイス指示するような“フルカスタム・メスイキ体験”が一般化するかもしれない。
日本の同人音声やアダルト漫画が海外にも翻訳され、海外ファンを取り込む動きが活発化。文化的差異を越えて受容されるか、あるいはローカルな好事例に留まるか注目される。
フェミニズム団体や保守団体による表現批判、あるいは国際的な法規制強化との軋轢が起こり、これまでのような自由度が維持できなくなる可能性もある。
歌舞伎役者とぼんちおさむは、日本の芸能界において異なる分野で活躍する存在であり、見た目や表現の面で共通する要素があるものの、その歴史的背景や芸のスタイル、活動の場には明確な違いがある。これらの違いを明らかにするために、それぞれの特徴を比較しながら考察する。
まず、歌舞伎役者とは、日本の伝統芸能である歌舞伎において役を演じる者を指す。歌舞伎は江戸時代初期に成立し、400年以上の歴史を持つ芸能である。歌舞伎役者は、代々の家系を継承する形で育成されることが多いが、近年では門下生として修行を積み、外部からも参入できるようになっている。彼らは特有の発声法や所作、立ち回りを習得し、舞台上で洗練された演技を披露する。また、女形と呼ばれる女性役専門の役者が存在し、優雅で美しい動きが求められる点も特徴の一つである。
一方で、ぼんちおさむは、日本のお笑い芸人であり、歌舞伎役者とは異なるジャンルの芸能活動を行っている。本名は長瀬修一で、吉本興業に所属し、漫才コンビ「ザ・ぼんち」のメンバーとして活躍した。特に1980年代の漫才ブームにおいて、「おさむちゃんで~す!」の決め台詞とともに人気を博し、テレビや劇場を中心に活躍した。ぼんちおさむの芸風は、テンポの良い掛け合いとユーモラスな動きが特徴であり、庶民に親しまれる笑いを提供することを目的としている。
このように、歌舞伎役者とぼんちおさむは、それぞれの分野で観客を楽しませるという共通点があるものの、その成り立ちや演技のスタイル、活動の場において大きな違いが見られる。歌舞伎役者は長い伝統の中で技を磨き、格式ある舞台芸術を継承する役割を担っているのに対し、ぼんちおさむは現代の大衆芸能としての漫才を通じて笑いを提供している。こうした違いを踏まえることで、それぞれの芸能文化が持つ独自の魅力を理解することができる。
夢の中で出会った知らない子に恋をする。
目が覚めた後も頭から離れなくて、素晴らしい時間だったと数秒前を懐かしむ。そしてすぐさま、ああ夢だったのか、と思う。それは決して空想の出来事に過ぎなかったという虚しさなどではなく、もう二度と彼女に会えない悲しさだ。
夢のような時間は夢そのものだから、すぐさま儚く散ってしまう。相手の顔も名前も思い出せないけれど、私達の過ごした思い出を書き留めずにはいられない。
フィクションのように劇的で、そして現実の恋と同じく主人公は私自身だった。不条理で突拍子もなく走るのもままならない夢の世界で、私達は懸命に生きていた。
昨晩の私は女形のスターだった。ファンや関係者とのしがらみを、何か支離滅裂な会話でやり過ごしていた。荒廃したタワーマンションが立ち並び、軍人や警察が闊歩する地元の駅前で、ドラえもんのタイムマシンのような車で恋人が待ちぼうけていた。大分待たせてしまったが、それでも彼女は私が来た事を喜んでくれた。
普段なら有り得ない状況なので言葉に起こすのも難しく、すぐさま散っていく記憶の一部しか書き留められない。それでも時々読み返してみる。すると頭の中で映像が浮かんできて、その時その瞬間に抱いた気持ちが蘇る。よく聴く音楽には、その時々のムードが鮮明に閉じ込められているように。
毎度別な子と会う私の頭の節操のなさを少し恥じながら、もう二度と会えない彼女達を想う。
夢を書き留めるのはあまり良くないという。こんな事をしていると統合失調症か何かに片足を突っ込みそうで不安もあるが、しかしそんな事より、あの素敵な時間を忘れてしまう事が怖い。
タイトルの通りです。
先日ちょっと考えるところありまして、V系のこの先ってあるのかな…あるよね!?バンギャでいられるよね!?となった2000年製の女です。
※歴浅い故におかしいところあっても優しく指摘いただけると幸いです。&長くなりました長文の上駄文、すみません
ちょいちょいライブに行くようになってから知り合った方に『なんでバンギャになったの?』というようなことを聞かれることが多いのがそもそもの発端です。
確実に周囲からの影響ではないです。バンギャになるまでの身内も友人も知人も全くそんな趣味なかったです。今時みんなジャニーズ俳優声優アイドル好きな子が多いイメージ。バンド好きでも洋楽とか邦ロックみたいな……。
きっかけで言うならYouTubeで再生回数多めで2010年代以降出てきたバンドのMVを見たことだと思います。それで少しライブに行ってみたりしました。去年のちょっとコロナの規制がゆるくなったかな?くらいのときから。
ただそれだけじゃハマってバンギャになる理由にならなくない?となると、しいていうなら私の場合は女装した成人男性が癖、なのが大きい気がします。変態です。女形バンザイ。
元々2次元オタクなのと線の細い人がタイプなのとメンヘラ気味だったのが合わさって上手い具合にハマった感じ…だと思います。
なかなかこうは答えにくいのでいつもどういう麺がタイプなのか聞かれたらかわいい人が好きですって言うようにしていますが……。今の本命も可愛いアー写をSNSで見かけて一目惚れしてライブに行ってみたところ、加工詐欺じゃなかったこともありバンギャを続けられてます笑
私がバンギャになったきっかけは以上の通りなのですが、何故それを聞かれるのか?というのを考えてみたとき、今のV系って若い子が聞いてハマってバンギャになってくれる感じじゃないよね、規模も縮小してきてるし……比較的若くて新規なの珍しいしちょっと聞いてみようかな、みたいな感覚が根底にあるんじゃないかと思ったからです。違うかな?違ったらすみません。
その上で、最初に聞いてきた方が言っていたことで記憶に残っているのは、最近はバンギャに会っても今度本命がzepp行くんです!とかじゃなくていつも同じ規模の低キャパのどこそこのライブハウスで〜の繰り返しなんだよね、という話です。
今時zeppをワンマンでソールドさせられるような若手も思いつかないし……というのも衝撃でした。
でも確かにキャパ1000以下のところでワンマンしてもソールドするようなところあまり沢山は思いつかない……。勢いのあるところは一応調べてはみてるはずなのに……。
でも、本命に関しては今度売れる感じはない(ごめんね)のだけれど、YouTube頑張ってるバンドだったり中堅とか大御所と絡みあるようなところは、私は今後売れる予兆はなくもないと思っています!甘い予想かな……。
けど、そうじゃないとバンギャ続けられないからそうであってほしい。盲目でもいいので。
はてなーにバンギャギャ男いるのかわからないけど、もしこれから確実に売れる!みたいなところとかバンギャギャ男になったきっかけとか聞けたらうれしいです。
全然関係ないけどもうちょい早く生まれてたら私はメジのメトギャか己龍の一色日和ギャだった気がします。可愛いは正義!そんな話も聞けたら楽しいな♪
女形やヅカってトランスジェンダーってわけじゃなく成り立ちからあくまで女優や男優の代わりで性自認は元々の性なのでトランス男性が芸能界にいない理由として弱い気がするんだ。
トランス女性の芸能界の立ち位置も単に女性の代用品じゃなく歌やモノマネやバラエティ的話術だったり「芸」で評価されてる面も大きい。
芸能人でトランスジェンダーっていうとトランス女性のカルーセル麻紀とかはるな愛とかIKKOとかいくらでも名前が挙がる。
寡聞にしてそういう例を見ない気がしたのでもしこの人トランス男性だよって人いたら教えて。
芸能人としてある程度成功してて看板としてトランス男性を背負ってるって人で頼む。(無名の劇団員とかじゃなく)
宝塚の中にはトランス男性って人もいる可能性もあるがトランスって点を売りにしてるわけでもないしジャンル的には歌舞伎の女形に近いと思ってる。
あくまで少女歌劇だし退団後に芸能活動続けても女優として活動してる人ばかりな気がする。
単なる男装の麗人ならいくらでもいるだろうが芸能界でトランス男性少ないなー、ってか存在するの?って思って。
女形の影響もあるのかもしれないが男装や女装で中性的というなら宝塚もあるのに片方に偏ってるのおかしくない?
ニューハーフブームの影響もあったかもだがブーム以前からトランス女性に偏ってた。
よくトランス女性は芸能やファッションなどの世界で才能認められ活躍してる人がいるイメージあるがトランス男性も才能ある人いるはずで同じ分野で活躍してる人たくさんいてもおかしくない気がするんだが。
芸能界にトランス女性偏重がある気がしたので根底に何らかの差別構造があるよな気もするんだよね。
悲しい生活をするOLのマンガがあるがそれの逆バージョンではないかと思う。男は悲しい生活をするOLの物語を見て男としての自分が登場人物より苦痛に強く男らしいことを再発見する。
件の作品では、女としての魅力がなくまた女のやりそうな事柄について技量の低い女形の男を取り上げることで、女としての魅力や技量の低い(と自分で思っている)女は安心できる。その人達にはその人達なりの救いが必要なので、男からすればなんじゃこりゃであっても、それを認めて欲しいという世界観。このタイプの物語に取り上げられる女形の男が認められることで、それよりもその事柄について魅力や技量の高い女形の女も認められ安心できる。男が男らしさから降りて良いというのは建前であってそのような男が登場することを求めている訳ではない。
エロスってさ、性的な美しさのことだと思うんだけど、そうであるなら中性的な人間にエロスを見出すって行為は矛盾するんじゃなかろうか。
男性的でも女性的でもないのに、エロスを覚えるって、なんか変。不自然だし、その感情はエロスじゃないはず。
宝塚の男役にエロスを感じ取ってしまうのは、女性が男性を演じているからであって、男性と女性の中間だからではないのだから。
そもそも、男性的でも女性的でもない人物なる存在が絵に描いた餅でしかないので不毛な考察ではあるんだけども。
ただ、男性的でも女性的でもない性の存在を認められるのならば、中性的な人物にもエロスが存在しうることになるのかもしれない。
つまりは、性が多様化することでエロスの表象も拡大するのかも。
分かんないなあ。