
はてなキーワード:太宰治とは
太宰の小説は「こいつダメ人間だけど、でも自分にも通じるところがある」って読み方されてると思うけど、
三島の場合はなぜか「よく分からんけどなんかすげー」としか読まれてない。
たとえば『豊饒の海』だと、行為を全肯定する”天皇”と、行為をしらけさせる”唯識”や”虚無”が対立構造になっていて、
三島自身はインタビューでこれを「せり持ち(アーチ)構造」と呼んでるけど、
スイカに塩掛けるとめっちゃ甘くなるってのと同じで、たんにエモさを追求しているだけ。
それから三島の小説と政治的行動を比べて、小説はいいけど政治的行動は駄目って言う人がいるけど、
彼自身はエモさを追求してるわけで、当然命を賭けたほうがドキドキするわけだし、両者は一貫していると見るのが妥当。
三島の小説がいいと思う心は、人間がエモさに抗えないというところにあって、
昨日国宝を見てきた。
私は京都で「元芸者が経営する祇園のラウンジバーで4年間の勤務経験がある」現オタクです。
映画は1回観ただけ、原作小説は未読。感想をどこかに殴り書きしたいけどネタバレ考慮もしないとなので、ツイッターとは切り離されたここに置いておく。
映画の国宝は「龍が如くみたいな舞台で歌舞伎もドッキング」した感じのストーリーなのだと思った。
なんの予備知識も入れずに行ったので、「歌舞伎役者同士の派閥てか屋号…?の争いなのかなあ」と思っていたら、いい意味で裏切られたし、歌舞伎のことあんまりわからない私でもすんなりとストーリーが把握できた。
以下、思ったことを書きなぐるだけなのでネタバレあり。ストーリーの順番とかもぐちゃぐちゃです。
思ったことその1【登場する人全員終わっててマジで人間臭くていい】
御曹司俊坊(これ、しゅんぼうってあだ名よね?そう聞こえていたけど、違ってたらすみません)が生まれながらにしてボンボンとか、苦労を知らない血を持つ人間って捉えられがちだけど、主人公の顔面国宝吉沢亮さん演じるきくちゃんも、組の息子という点でボンボンなのでそれなりの行動しててなんか……めっちゃひやひやした。
もっと姐さん(寺島しのぶさんが演じる、俊坊のお母さん)に筋通しなよ!とか、挨拶ちょっと遅すぎない?とか、その服装(紫のシャツ)はど、どうなのかなあ?っていけずババアの気持ちになった。きくちゃんは桐生さんではなくて、錦の一面も持っている。結局歌舞伎に夢中になったためすんごい肝の据わった男になったけど、「すぐ人と喧嘩する」「いいなと思った女は全部手を出す」「家族よりも自分のやりたいこと優先」って時点できくちゃんも終わってた。
俊坊もまあまあ終わってる。まさにボンボン。私は歌舞伎に対して「俊坊みたいな人ばっかだろどうせ!」と偏見を持っていたが、その偏見ど真ん中ステレオタイプの歌舞伎っぽい人である俊坊がいてくれたから、この映画に没頭できた(のちに観たインタビューで寺島しのぶさんが「血筋だけじゃなくって、才のある外部の人も取り込めたら、歌舞伎界は変わるのになあ!」みたいなことをおっしゃっていたのでガチさがいよいよ増した)。
二代目半次郎さんも、すごくすごく終わってる。もうやりたいこと全部盛りの大御所だし、くたばる前に「世襲間に合わせたい!」みたいなの本当にいいな。そもそもきくちゃんのパパ立花組に「今後もどうぞごひいきに」って新年のご挨拶してるってことは、そ、そういうつながりがあるってことでしょ。原作未読だからわかんないけど、歌舞伎という伝統芸能とお背中お絵描き組のつながりは結構「なんかようわからんけど闇深そう」でいい演出だと思った。
半次郎さんの奥さん、俊坊ママも強い女で憧れはあるものの、それでも「母親」というのがものすごくわかるし、つらいよねえ…。もし俊坊ママが「丹波屋」のことしか考えていなかったなら、きっと早々に俊坊はダメになっていたのかもしれない。この映画に出てくる女性、みんなクソ強くて大好きだ。
思ったことその2【登場する女がめちゃくちゃ強い。あとあきこがマジでくだらねえ】
さっきも書いたけど、俊坊ママ(お名前忘れたので調べたらさちこさんだった)がくそ強い。あの演目始まる前のさ、ロビーみたいなところでご贔屓さんたちに声かけて頭下げてるあの立ち振る舞い、もうクラックラするほど強くて好き。私自身がそういう横のつながりに苦手意識のある性格だから、「面倒そうなのに毎回ちゃんとやるの、女将さん本当に強いわ」ってなった。
そして上京したきくちゃんにまずはいけずをかますやつね。これがないと、関西の強い女じゃないよなあ。でも結局「お腹空いたやろ。ご飯にしよ」って優しくするのよね。「ちゃんとしてる人」には情があって京都の姉さん(一緒に働く先輩のこと、ほんとにこう呼んでた)とお母さん(ラウンジバーのママ、元芸者)大好きだったよ。
春江もすごい。あの頃のホステスさんってなんか大変なんですよね?龍が如くで学びました。でも好きな男を追って(あの時点ではきくちゃんのこと好きだったと思う)つらい仕事も続けて一人暮らしして、春江ちょ~強いわ。高畑充希さん、マジでミュージカル好きだから半分「歌ってよ春江ちゃん!」って思ったもんね。
そのあときくちゃんとおそらく?付き合ってたけど、きくちゃんの稽古見てから「これは添い遂げたい人じゃない、推しだ」ってなってプロポーズかわすのも強すぎる。そうなんだよね、きくちゃんは誰のことも幸せにしてやれないし、自分だときくちゃんが欲しい「血」はあげられないから身を引くのだ、これでこそ最強の女春江だよ。推し活として美しい形すぎる。しかも、俊坊が弱ってるのを見て「この人を立てなおしたら結果きくちゃんも救える」って思ったのかどうかわかんないけど、筋の通った乗り換えをしてるのもすごい。
こんな強い女春江なら、さちこさんと同じ役割をきっと勤めあげられる。さらにさちこさんと違って「丹波屋」だけを見てる女だから、きっとこの先も安泰だ…とあの時点では安心した。しかも男を生む。もう春江一強になってしまった。誰も勝てない。強すぎる。
藤駒ちゃんも強すぎる。も~強い。きくちゃんとであったころのおぼこい藤駒ちゃんは、きっと舞妓さんだったと思うけど、あの時点でめっちゃ厳しい修行に耐えてる子なんだよね?置き屋によって全然違うけど、俊坊ときくちゃんが遊びに行くんなら多分祇園だと思うし、その宴席に付いている藤駒ちゃんもきっとエリートさん。その中で「この人は売れる!」って見抜いて、しかも「日本一になるなら別に家庭を捨てても構わない」ってきくちゃんと添い遂げることに覚悟の決まった子なんだよ。
藤駒ちゃんマジで……強い。そりゃきくちゃんも藤駒ちゃんとなら子ども作ってもいいなって思うわ。いい女すぎるよ。
あと、あきこね~~~。あきこだよね~~~もう。くだらね~~この女。本当にあきこのくだらなさが作中ずっと好きだったし(褒めてるよ)あきこが都合のいい女すぎる。太宰治の小説に出てきそうな何番目かの女ポジすぎる。
なんか……、きくちゃんと俊坊が殴り合いの喧嘩したとき、あきこがすげ~冷めた目で見てたのが印象的で。この時点で、もしかしてあきこ鼻血出して車に戻ってきたきくちゃんに対して「もういいや。ばいばい」って言い出すかと思ったら、それはしないんだよね。「それぐらいきくちゃんのこと好きだから」じゃなくって「ここまできたらもう元に戻れないし仕方ない」って感情があるでしょ、あきこには。
これまで女全員強いって言ってきたけど、唯一あきこにはそれが思えなかった。
そのあときくちゃんのどさ回りをずっとサポートするのは献身的と思う。でも、あきこお前死んだフナみてえな目してきくちゃんの舞台見ててさ、もうそれは義務になってますやん。「この芸をずっと支えたい」って思いもないし、「素晴らしい国宝級!」とも思えてないし、何も感じ取れてないでしょ。これ、実際にはどうなってたのかわかんないけど、あきこときくちゃんは結婚してないと思ってた。あきこ、きくちゃんがもし上り詰めて梨園の妻になったとしたら、さちこさんみたいに振るまえないでしょ。春江よりも絶対に弱い。そういうあきこ、、ああもう本当にくだらないな~って思った。きくちゃんが落ちぶれたそのときだったから傍にいれただけで、あきこにはなんの覚悟も魅力もないのはきくちゃんも見抜いてる。
もうあきこ……この子もまた、大御所の娘としてボンボン気質が終わってていい。ただ、このあきこを演じたのが森七菜さんだったのがまたよくて、もうちょうどいい塩梅の女の役がうますぎる。森七菜さんがこんなに演技お上手だって知らなかった。あきこのこと、まだ気になってるぐらいに印象に残ってるもん。「どこ見てるの?」って台詞もいいよね。これまで何もしなくてもあきこはお嬢様、みんなから愛してもらってる女、見どころを周囲が与えてくれる人だったけど、きくちゃんはそうじゃないんだよ。「どこ見てるの?私を見てよ」って訴えても「あきこには見るべきところがない」のが、深いなって思った。そして少しだけ切ない。
さらに、きくちゃんにとっては「何を見てたの、今まで」っていう台詞に受け止められているところが、まだ二人がすれ違っててすげ~シーンだった。
あきこ、はやくきくちゃんを捨てなってずっと思ってた。
竹野マジで好きだ……。竹野が忌み嫌うのは歌舞伎ではなくて、「血筋という最強カードがないとのし上がれない伝統そのもの」ってところに筋が通りまくってて最高。初めは単にいちゃもんつけただけの奴かな?って思ってたけど、そうじゃないところがまたいい。
きくちゃんと俊坊の関係性も好きだけど、竹野ときくちゃんもまたいいよね。
終盤ずっと「三代目」って呼ぶのも好きだし、万菊さんと会わせたのが竹野ってところが最強にエモい。なんか竹野と万菊さんに対しては、終わってる人間まみれの中の唯一の光すぎて、どう表現したらいいのかわかんない……。
いや、万菊さんももしかするとどえらいことしてたのかもしれないけど、あの俳優さん演技うまいな~!ああいうレジェンドいそうだもん。奥行がすごい。でも万菊さんなんできくちゃんのこと認めるタイミングがあんなに遅かったんだ?やっぱ役者が全部そろわないとって思ったからかな?半々コンビで沸き立つ女の感情がすご~~くよくわかる。私はオタクだからだ。
きくちゃんの娘さん、綾乃って名前だったらしいけど、ずっと「文乃であやのなのかな~?」って思ってた。藤駒ちゃんが芸妓さんになってすっぴん日常着物でお祭り行くシーン、芸妓さんの「なんでそんなすっぴんキレイなの?」ってぎょっとするほどの透明感が再現されててめっちゃよかった。
あやのが最後にきくちゃんと再会して思いのたけを吐くんだけどさ、あのシーンが本当に大好き。
あやのは多分、ずっと「父ちゃん帰ってこないし終わってんなア」って思ってるけど「お母さんを苦しめた最低な父親」とは思ってなさそう。藤駒ちゃんがあやのになんて言ってるかはわかんないけど、そもそも「父親がこの人よ」とは言い聞かせもしなかったかも。藤駒ちゃん最後まで映画では出てこなかったけど、元気にしているのでしょうか。。私が働いてたラウンジバーみたいなの運営してるのかな。とんでもなく金持ってる「お父さん」見つけて……。
きくちゃんが三代目襲名して、お披露目パレード的なところであやのを無視ったシーンは、私はめちゃくちゃ納得した。そりゃそうよね、藤駒ちゃんがあやのを止めるのも何も言わないのも、そりゃそうだと思った。もう人生のすべてを捨ててひとつのことに溺れる男に惚れて、それでもいいから隣にいたい女というのは、そんなもんだよ…。
だが、隣で見ていた旦那は「あのシーンで一気にきくちゃんに同情できなくなった。最低」って思ったらしいので、家族を捨てるシーンとか子どもよりも人生を優先させる親が大嫌いな人は、ここで国宝そのものの評価を下げてしまうかもしれない。
ただ、覚悟の決まっている最強女藤駒ちゃんと違って、娘のあやのは結構冷静なのがまたよかった。きくちゃんに「お前最低」って面と向かって言えるの、あやのだけだよな。実際こんな父親、本当になんだお前ってなるよ。
でも最後に救いがある。まず、きくちゃんはあやのと対面したとき「藤駒という芸妓を知っていますか?」と訊ねられて、「忘れたことはないよ、あやの」って答える。台詞うろ覚えだけど。最低なきくちゃんだけど、藤駒ちゃんとあやののことはずっと心に居続けたんだね、と救われた。
さらに、あやの砲が続く。「お前が舞台に立ってヘラヘラするために、どれだけ人が泣いて不幸になったと思ってんだよ。だいたい、家族でお祭り行ってさあ、神社で願掛けするのが自分のことってどういうこと?自己中すぎるだろ」みたいなことをガンガン刺す。あやの、いいぞもっと言え。
でも、あやのはそんな最低の父親でも、きくちゃんのことを父親と思っていなくても「父ちゃんの舞台を見ると素晴らしいと感じる」みたいなこと言って、唯一芸だけは認めるんだよね。
あのシーン、好きすぎる。危うく泣きかけたが、周囲でトイレが我慢できず立ちだす人も多かったため、意識が逸れて涙は出なかった。
そして芸を手に入れ国宝にはなったが、その後何にも残らなかったきくちゃん。お前はきっとひどい死に方をするんだろうし、地獄に落ちる。でも、その姿はめちゃくちゃ美しかった。
時間が許せばもう一度見に行きたいけど、およそ3時間もある映画だからちょっと厳しい。
本文
中3の公民、バカにしちゃいけない。ここには「社会のしくみ」が詰まっている。
憲法、税金、選挙、三権分立、社会保障…。大人になってからこそ、「あの制度ってそういう意味だったのか!」と膝を打つこと間違いなし。
特に「権利と義務」「民主主義」「国際社会」の章は、現代社会を生き抜くための教養の宝庫だ。
これを理解してない奴は中学卒業の資格なし。つまり義務教育を履修してないも同然。三流日本人だ。
ポイント:ニュースや政治に振り回されない“思考の土台”ができる。
DNA、細胞、免疫、代謝、進化…。日常の裏側にある“命の仕組み”を理解するだけで、自分と世界の見方がガラッと変わる。
コロナ禍でおきた様々な陰謀論、それによって生物学的な基礎知識の低さが明白になった。
お前ら勉強し直してください。マジであなた達の生物学教養は終わっておりました。マジで勉強しろ。
ポイント:哲学書よりも人間理解が深まる、究極のサイエンス読本。
小6国語には、名作・名文がズラリと並んでいる。太宰治、宮沢賢治、新美南吉、寺田寅彦…。文章を“読む力”と“感じる力”を育てるのは、この時期の国語に勝るものなし。
読解力、想像力、表現力…すべての土台はここにある。ビジネス書を100冊読むより、小6国語を読み返したほうが確実に賢くなる。
小5未満は簡単すぎる。中1以降は+αや落穂拾いの意識が強すぎる。
「小学校卒業までに絶対読んで欲しい!!!だけど子どもの読解力が育つまで待たなきゃ!!」というジレンマの果てに選ばれた名作が詰まっている。
ベスト3には入れなかったが、「地味すぎて誰も注目してないけど、読んでおくと人生が整う」そんな教材がある。
「いまさら足し算引き算?」「漢字の書き取りなんて小学生レベルでしょ?」と思ったあなた。甘い。
数字感覚の基礎中の基礎。「10のまとまり」「繰り上がり・繰り下がり」をナメていると、家計簿も確定申告も迷子になる。
出来て当たり前、じゃあ100マス計算何秒で出来ますか?そのスピードがそのまま計算力の土台になるし、そこでかましたミスがそのままミスの土台になる。
簡単なようでいて、実は現代人の語彙力の半分はこのあたりにある。「道」「早」「明」「会」…日常の言葉を“正しく書ける・読める”だけで、文章力と思考力が変わる。
簡単な漢字の書き順を間違えてるやつは全ての漢字の書き順を間違える。そして会議中に「クスクス……うちの子が出来ることも出来ないんだ……」と笑われるのだ。
走れメロスがまさにそれだと思うな~。
無銭飲食して名作を書くには、経験よりも経験を分解する力のほうが大事だよな。
創作の発端
檀一雄は、太宰の死後に発行された『小説太宰治』の中で、「おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と述べている[33]。その一方で、小野正文は、『走れメロス』の書かれた理由が熱海行なのかを檀に直接尋ねて「僕はそう思っている」と返事をもらった事があるが、そのような心証を檀が持っていても、太宰の発想の由来を確かめる方法がない、と述べている[34] 。
『小説太宰治』において熱海行について書かれた箇所[35]の概要を以下に記す。
熱海に行った太宰から金がないと連絡を受けた初代(太宰の内縁の妻)は、太宰の友人である檀一雄に金を渡して太宰を連れ帰るように頼んだ。
檀が熱海の太宰を訪ねて金を渡すと太宰は檀を引き止めた。檀は金が心配だったが、太宰に誘われ、酒を飲み、女遊びをして過ごしてしまう。
3日目の朝、太宰は菊池寛のところへ行くから待っていてくれと言って、檀を熱海に残して出ていく。それから数日たったが太宰から音沙汰がない。しびれを切らした飲み屋のおやじは太宰を探しに行くしかないと檀に迫る。檀は太宰が井伏鱒二のところへ行ったとあたりをつけ、飲み屋のおやじと一緒に向かう。
井伏の家に着くと、太宰は井伏と将棋を指していた。檀は太宰に激怒する。井伏は飲み屋のおやじから勘定書を受け取り明日熱海に行くからと言ってなだめる。太宰は檀に「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と言った。
井伏は檀を伴い佐藤春夫の家に行き、事情を話して金を出してもらう。足りない分は井伏のものや初代の衣類などを質入れして工面した。そして、檀と井伏の二人で熱海へと向かった。
4月3日生まれ、昔からどのコミュニティでも周囲に先駆けて誕生日が来た。
かつて誇らしく喜びに満ちていたその日を、26歳あたりから、一歩ずつ死刑台へ進んでいくような気持ちで迎えるようになった。
あれは私のように、「年月が奪えないものを何ひとつ持っていない人間」が捧げた悲痛な祈りではないのか。
それとも年月が奪えないもの、光り輝く自信や愛や信仰を持っているからこそ、年を取ることに固執せず、怯えずにいられる者の言葉だろうか。
29歳と30歳の間には、薄い膜のような隔たりが横たわっている。
私は今まさにその膜に身体を押しつけ、膜を突き抜けて進もうとしている。
膜の先には、随分前から漂っていた「いい年こいて」の濃度がいっそう濃い地が広がっている。
漫画や小説で慣れ親しんだキャラクター達は、今やほとんど年下だ。
30歳は少年漫画の主人公にはならない。主人公が憧れる、大人っぽいお姉さんにもならない。
親や師といった、自らの足でしっかりと立ち、主人公に生き方や在り方を示す存在として登場する。そういう役割を担いやすいと、少なくとも私は感じている。
私は独身で、守り教える子どもはいない。若い人に誇れるような知識や技術はもちろん、ろくな社会的経験も成功もない。年収も同世代の平均をずいぶん下回っている。
今まではそれでも問題はなかった。
若さと要領の良さをもってへらへらと許され、周囲に守られ助けられてきた。
でも若さを失って、代わりになる何も持たないままで、私はいつまで周囲に許される?守ってもらえる?
私は「いい年こいて」ありとあらゆる責任を恐れ、逃げ回り、常に両親や異性や誰かに守ってほしいと切望している。
何か始めてみようという勇気も、ここでもうひと踏ん張りしようという根性も持たないままここまで来た。
内面的には変化も成長も何ら見られないのに、年齢だけが立派に大仰になっていく。
老いた体の中に甘ったれた少女の精神が閉じ込められている。あまりにもおぞましい。
人生がひとつの縦穴だったとして、私の縦穴はずいぶん小さい。覗き込むと、意外なほど浅い。
周囲の穴と見比べて、広さも深さも明らかに足りないのは分かっている。
「まあまだ若いんだから」の言葉をいいことに、何年も何年も掘り進めることを怠ってきた。
汗を掻きたくないし、手が汚れるのがいやだったから。
今、私の縦穴がひどく浅く小さいことを、表向きには誰も咎めない。
しかしふとした拍子に穴を覗かれ、ひそかに呆れられ、そっと苦笑され、陰で嘲笑されている。
そう遠くない未来、私は、私よりずっと若い人たちに「えー、若く見えますね」と空虚な言葉を告げられるようになるだろう。
そのとき、私はどう感じるのだろう。
いよいよ駄目だと落胆するのか、お世辞と分かっていてつい嬉しがるのか。そして今度はその言葉に縋って、また穴を掘り進めることを怠るのか。
太宰治の『斜陽』を読んで、共感のあまり、かず子の言葉に涙したことがある。
『三十。女には、二十九までは乙女の匂が残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、
やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。
あの小説を読んだ時には、そりゃそうだろうと軽く肯定して澄ましていた。
三十歳までで、女の生活は、おしまいになると平気でそう思っていたあの頃がなつかしい。
腕輪、頸飾、ドレス、帯、ひとつひとつ私のからだの周囲から消えて無くなって行くに従って、
私のからだの乙女の匂いも次第に淡くうすれて行ったのでしょう。まずしい、中年の女。』
かず子はこのとき29歳。そして彼女は愛した人の子を身ごもり、加齢によって色褪せることのない、かけがえのないものを手に入れた。
わたしは、言葉を失いつつある。いや、正確には奪われつつある。なんとも情けない話だ。作家のはしくれとして生きてきたわたしが、今や何を書いても、何を言っても、非難の嵐にさらされる時代に生きている。
ポリティカル・コレクトネス。なんと美しい響きだろうか。まるで天使の囁きのような言葉だ。しかし、その実態は悪魔の鎖である。わたしのような取るに足らない人間でさえ、その重さに喘いでいる。
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昨日、編集者から電話があった。わたしの書いた小説の一節が「不適切」だというのだ。何が不適切なのか、と尋ねると、「現代の感覚からすると問題がある」との返事。わたしは笑ってしまった。現代の感覚とは何なのか。誰がそれを決めるのか。神か、仏か、それとも自称「正義の味方」たちか。
わたしは酒を飲み、煙草を吸い、そして考えた。この世界は、いつからこんなにも息苦しくなったのだろうか。
言葉狩りの時代。それがわたしたちの生きる現実だ。傷つく人がいるかもしれないという恐怖が、表現の自由を蝕んでいく。もちろん、人を傷つけることが良いとは思わない。わたしのような下らない人間でさえ、そのくらいの分別はある。しかし、あらゆる表現が誰かを傷つける可能性を持つ。そして、その可能性を恐れるあまり、わたしたちは自らの首に鎖をかけている。
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カフェで若者たちの会話を聞いていた。彼らは言葉を選び、慎重に話す。時折、「これは言っていいのかな」と互いの顔色を窺う。なんと痛ましい光景か。若さとは本来、無謀で、無遠慮で、時に残酷なものではなかったか。その荒々しさこそが、新しい世界を創り出す原動力だったはずだ。
しかし今、彼らは自らの言葉に恐怖している。正しくあろうとするあまり、魂の叫びを押し殺している。これもまた、ポリティカル・コレクトネスの名の下に行われる暴力ではないか。
わたしは彼らに同情する。いや、羨ましくもある。少なくとも彼らには、正しくあろうとする意志がある。わたしのような腐りきった人間には、もはやそれさえも失われている。
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ある作家が言っていた。「現代は、言葉のカロリーが計算される時代だ」と。なんと的確な表現だろう。かつて言葉は、魂の叫びであり、情熱の発露であった。しかし今、それは栄養成分表示のついた加工食品のようなものになってしまった。
脂肪分(攻撃性)ゼロ、糖分(皮肉)控えめ、添加物(偏見)不使用。そんな無味無臭の言葉に、いったい何の価値があるのだろうか。
太宰治や坂口安吾、中原中也が今の時代に生きていたら、おそらく一行も書けなかっただろう。彼らの言葉は、時に毒を含み、時に差別的で、時に自己憐憫に満ちていた。しかし、その不純物こそが、彼らの文学を人間臭いものにしていたのだ。
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わたしは先日、ある講演会に出席した。そこでは「包摂的な言語」について熱心に語られていた。確かに、その理念は美しい。誰も排除せず、誰もが尊重される世界。わたしのような醜い人間でさえ、その理想に心を動かされる。
しかし、その方法には首を傾げざるを得なかった。言葉の規制によって、心の自由を獲得できるのだろうか。表面的な言葉遣いを変えることで、本当の意味での尊重が生まれるのだろうか。
この問いに、わたしは答えを持ち合わせていない。ただ、言葉の海で溺れているような感覚がある。かつては自由に泳げた海が、今や無数の見えない境界線で区切られている。その境界を越えれば、即座に非難の嵐が吹き荒れる。
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自己検閲。それが現代人の宿命だ。書く前に、話す前に、考える前に、わたしたちは自らの内なる検閲官に従う。「これは言ってもいいだろうか」「これは書いてもいいだろうか」。この絶え間ない自問自答が、わたしたちの精神を疲弊させる。
ポリティカル・コレクトネスの最大の罪は、この自己検閲を内面化させたことだ。もはや外部からの規制すら必要ない。わたしたちは自らの思考を縛り、自らの言葉を奪う。なんと効率的な支配だろうか。
わたしは、自らの卑小さを嘆く。この時代に抗うこともできず、かといって従うこともできず、ただ酒に溺れ、無力感に打ちひしがれる。情けない男だ。本当に情けない。
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それは、決して「正しさ」ではない。むしろ、「間違いさえも包含する自由」ではないだろうか。太宰治も、芥川龍之介も、彼らは「正しく」なかった。時に差別的で、時に自己中心的で、時に残酷だった。しかし、その不完全さこそが、彼らの文学を人間的なものにしていた。
完璧に正しい言葉など、この世に存在しない。あるのは、ただ真実を求める不完全な魂の叫びだけだ。
ポリティカル・コレクトネスという名の牢獄に閉じ込められた今、わたしはその壁を叩き続ける。微かな音だ。誰にも届かないかもしれない。しかし、それでも叩き続ける。