
はてなキーワード:大隈重信とは
大隈重信🙁
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20250709173011# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaG4okgAKCRBwMdsubs4+SLodAP9rHcnyLtTPHan0zlOwoqNNDBPkBAep+g0qhddRnl6+9gD/dswjmERpmK9N/dpRahPb3453qtF5yG+LTtZQKF7nXAY==yyYd-----ENDPGP SIGNATURE-----
日本最古の盆栽は、徳川家光が愛培した五葉松の盆栽だといわれています。この盆栽は樹齢600年にもなり、毎年新芽が生まれています。
盆栽の起源は中国ですが、日本には平安時代に伝わり、独自の発展を遂げてきました。盆栽は日本の文化にまで発展し、徳川家光、伊藤博文や大隈重信など歴史に名を遺す名だたる偉人たちも盆栽を楽しんでいたようです。
現存する最古の盆栽は徳川家光が愛培していた五葉松の盆栽だといわれていますが、正確な年代は不明です。しかし、この盆栽は樹齢600年にもなり、毎年新芽が生まれていることから、日本の盆栽の歴史を語る上で非常に貴重な存在であることは間違いありません。
日本には他にも樹齢の古い盆栽がいくつか存在します。例えば、埼玉県さいたま市にある大宮盆栽美術館には、樹齢100年を超える盆栽が数多く展示されています。また、香川県高松市にある高松盆栽の里では、樹齢200年を超える盆栽を見ることができます。
これらの盆栽は、日本の盆栽文化の奥深さを物語っています。ぜひ一度、これらの盆栽をご覧になって、日本の盆栽の歴史と文化に触れてみてください。
首相演説会場で爆発、男を逮捕 和歌山(写真=共同) -日本経済新聞
world3 2023/04/15
この人は、あの爆弾男の事件を民主主義が破壊された、もう元に戻れないと深刻に受け止めてるらしい。
確かに持ってた爆弾が爆発してたら自爆テロっぽくなってたが、「民主主義が破壊された」って主張は素朴だなと思った。破壊された後はどうなるんだろう?権威主義や全体主義が台頭すんのかな?
この件に関してsnsで言われてたのが原敬暗殺とその直前の安田善次郎刺殺事件で、原敬を刺した国鉄職員は安田刺殺事件に影響されたと言われている。
100年前に似たような事件は起きていて、またかという感じだ。そういった政治家をターゲットにする頭のおかしな人は一定の確率で出現してしまうわけだが、戦後以降の頻度は激減した印象がある。(安田は実業家だけど)
爆弾で思い出したが、当時外相だった大隈重信は爆弾を投げつけられて片足を失くしてる。
安倍晋三が最後に読んでいた本が岡義武『山県有朋』だそうだが、
これが本当の話か、自分は疑っている。
64年前に出版された岩波文化人の古典を、安倍はきちんと読むような政治家だったか?
山口にゆかりがあることも、顔が長いことも同じだが、出来すぎた話である。
同書は山県に概ね批判的だった。
もし本当に読んでいたとしたら、どういう感想を持ったかは興味深い。
これだけ論議を呼んだ国葬のスピーチを、山県の話で締めくくる菅義偉も、
それを素直に感動する不勉強な国民も、ちょっとどうかと思うよ。
岡義武は山県の死について、こう書いている。
一方の安倍が、同様に忘れ去られるかは、これからのことである。
従って、彼の権力意思は支配機構を掌握することへと集中されたのであった。
彼から見捨てられていた民衆は、それ故、また彼を見捨てていた。
そして、彼の死に対しても冷かであり、無関心であったのである。
驚くべし、流し読みかも知れないが、どうも読んでいたらしい。
普通に読んだら、嫌われ者山県有朋、という印象が残るはずの本を何ゆえ…、
と思ったけれども、官僚掌握術の参考になる、なんて吹き込んだのじゃなかろうか。
伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』はずっと山県に同情的だが、
今日は官邸で開催された来年度予算についての政府与党政策懇談会に出席しましたが、
週末三連休、一昨日はゴルフ、昨日はお墓参り。河口湖の山荘でゆっくと過ごしました。
その間、読みかけの「岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴」 を読了しました。
知人から進められ手に取ったものです。明治の元勲で彼ほど嫌われ、
同時に自身に権力を集めた人物はいないでしょう。同じ長州人でありながら、
路線等の相違から権力闘争の敵対者となる伊藤博文とは対象的です。
伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、
「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」と詠み
あの本を読んで、ここをピックアップするか!?と思ったけれども、
社会に潰される吾々ゴマメのような人間の気持ちをわからなかったように、
100年後の権力者、安部にとって最も心打たれたところだったというのも納得できる。
人間は、一般人も学者も総理大臣も、自分の甲羅に似せて穴を掘る。
ついにわが「本心」を知る者あらわる、なんてところかもしれない。
だけれども、山県や安部のせいで、どれだけ人が死に、不幸になったのか、
ヘタクソな歌を書いて、それをわざわざ持ち上げやがって、というのが
地歴の先生をやっているから、歴史ジョークや歴史絡めた面白い(と思う)嘘は絶対に言わないようにしている。みんな普通に信じちゃうからだ。
昔、修学旅行で奈良の東大寺に行った時に「大仏は江戸時代の再建だけど、フラッシュ撮影すると塗装や螺髪っていうパンチパーマ部分がボロボロ取れる可能性があるから写真撮影は園内一律禁止されてるんだって」ってバスでみんなに嘘説明してみんなの思い出の一つを奪った経験があるから、歴史を教える立場になった以上絶対に冗談はダメだなと思う。
コツは、ちょっと本当のことを混ぜることだ。
この他に、板垣退助の弟は進助といい大隈重信のコックをやっていた話とか、今川義元の子息氏真が蹴鞠の名手だったため静岡県がサッカー王国になった話だとか、政所の読みを考えながら北条政子の読みを考える話とか。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1概要
1.2 書名の由来
2脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) -文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者。藩校弘道館の教諭。外務卿、内務大臣を務めた副島種臣は実弟。本名は経種。贈従四位。佐賀の尊皇派の中心的存在。
目次 [非表示]
1 経歴
2 影響
4 関連項目
5 参考資料
経歴[編集]
佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。
早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である『葉隠』をも否定したといわれる。
26歳で帰郷してからは弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟からは実弟の副島種臣のほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。
1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身も罹患し、死去。享年41。墓所は佐賀市本庄町の高伝寺。
影響[編集]
神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備に活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制は副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。