Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「大夫」を含む日記RSS

はてなキーワード:大夫とは

2025-10-14

江戸時代、「藩」というもの公式には存在していない。

から時代劇でよく聞く「藩士」「藩主」「藩邸」「脱藩」なども当時使われてなかった。

公式にできたのは明治になってから

江戸時代領地組織は「藩」ではなく「家」を単位とするもので、

幕府から命令藩主でなく個人(例えば長州藩場合は「松平大膳大夫殿」)宛に出されており、

家臣も自藩、他藩でなく「当家」「他家」などの呼称で呼ばれていた。

藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「仙台藩士」であれば公的には「松平陸奥守家来」と称された。

家の領地から、お世継ぎがめっちゃ大事だったのね。

忠臣蔵も家と家との復讐劇だったと。

Permalink |記事への反応(0) | 04:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-31

姑息」の本来意味ってどんなんだろう

姑息」といえば「卑怯という意味で使うのは誤用」「本来は一時しのぎという意味」と説明されることが多い。

でも「一時しのぎ」の意味での姑息ってピンと来なくない?

資金繰りに行き詰まって姑息にも消費者金融借金をした」みたいな?

こういう使いかたで正しいのか?

辞書で調べると、「姑息」の初出は『礼記』だと出てくる。

曾子疾に寢ねて病なり。樂正子春牀下に坐し、曾元、曾申足に坐し、童子隅に坐して燭を執る。童子曰く、華にして睆なるは大夫の簀か。子春曰く、止めよ。曾子之を聞きて瞿然として曰く、呼。曰く華に睆なるは大夫の簀か。曾子曰く、然り、斯れ乃ち季孫の賜なり。我未だ之を易ふること能はざりしなり。元起ちて簀を易へよ。曾元曰く、夫子の病革まれり、以て變ずべからず。幸にして旦に至らば、請ふ敬みて之を易へん。曾子曰く、爾の我を愛するや彼に如かず。君子の人を愛するや徳を以てし、細人の人を 愛するや姑息を以てす。吾何をか求めんや、吾正を得て斃れなば斯に已まんと。擧げ扶けて之を易へたるに、席に反りて未だ安んせずして沒せり。

適当に訳すと、

曾子が死の床についているとき曾子の寝ているムシロは身分の高い人が使うものだと、童子が指摘した。曾子はムシロを取り替えるように息子に言ったが、息子は危篤の父を動かすことを恐れて「明日の朝になれば変えましょう」と断った。曾子が「立派な人間の愛は徳によるものであり、つまらない人間の愛は姑息によるものである」と言ったので、息子はムシロを取り替えたが、すぐに曾子は亡くなった。

みたいな話になるだろうか。

中国語辞典ではこのように説明されている。

姑息是汉语词语,拼音为gū xī,属动词,指无原则地宽容、迁就他人,或苟且求安,与“体谅”语义存在本质区别。该词包含双重内涵:一为消极妥协,如“姑息养奸”指无原则纵容恶行;二为迁就容忍,多出于维系表面和谐,核心在于缺乏原则性,既可批判过度宽容,也可指无奈的和缓策略。

やはり適当に訳す。

姑息は、原則のない寛容、他人への迎合、一時しのぎの平穏を指し、「思いやり」とは本質的に異なる。この言葉は二つの意味を含んでいる。一つは消極的妥協であり、たとえば「姑息養奸」は寛大さが悪を助長することを意味する。もう一つは表面的な調和維持を目的とした容忍で、その核心は「原則性の欠如」にある。これは過度な寛容や、無力な宥和策を批判するときに使われる。


まり前述の曾子さんは「危篤の父を安静にしたいという思いやり」のために「父を身分不相応なムシロに寝かせるという不徳」を許すことが「姑息なのだと言っているのだと思う。

なんだか儒教らしい理想主義というか「情に流されるな!妥協など許すな!徳に殉じて死ね!」みたいな印象を受けてしまうが。

ともあれ中国での「姑息」は単なる「一時しのぎ」という以上に「一時的には良くても長期的に見ると悪くなりそうな寛容・妥協迎合」という意味合いが強いようだ。

試しに中国語ニュース検索してみると「絶不姑息」というような言い回しが多く出てくる。

これは「(誹謗中傷は)絶対容認しない」や「(ストライキには)絶対に応じない」などの意味で使われているようだ。

日本だと、明治期に「因循姑息」という四字熟語流行ったという。

文明開化を背景に使われた言葉で「新しい文化に改めずにやりすごそうとする」という意味らしい。

半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする

総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする

散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする

という都々逸が有名である

中国語において同じ意味で使われるのは「因循苟且」である

「苟且」は「姑息」の説明でも使われていたがこちらも「一時しのぎ」という意味

ただ「一時しのぎで手抜きをして誤魔化す」のような意味合いがより強いようだ。

日本の「姑息」は、本来の「姑息」よりも「苟且」に近い形で運用されてきたのかもしれない。

Permalink |記事への反応(0) | 01:51

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-24

たすけて喉痛すぎ熱上がり過ぎつらい

一昨日から39℃まで上がってて死にそう

症状は咽頭炎でわかってるけど原因菌がわからなくて去年から3ヶ月ペースで3回目かかってる

一度かかると喉が口内炎みたいに痛くなって2日後から熱が出始めて40℃近くまで上がる

それが1週間続く

1回目はの耳鼻科は常在菌の溶連菌と言われて、

そっかーと何となく聞いていたけど、10月頃また発症した

2回目は原因菌が分かってるためか細菌採取はせずに解熱剤と抗生剤を処方してもらったんだけど、これが全然効いてる気がしない

受付の看護師に「熱があまり上がりすぎるようであれば電話してください」と言われて、今まで上がったことがない39℃台まで上がって不安になって電話したら「そうですかと」一言

辛い時に無下にされると非常に怨みを持つんだな

39℃のふらふらで助けを求めるように近くの別の耳鼻科に入った時は死ぬかと思った

予約していないとはいえ電話口でも一時間くらい待ちますよと言われたけど何も解決の手立てがないからお願いしますと言ったものの、数日横にならないとままならない状態だったのに座って待つことがこんなに苦しいとは思わなかった

それでようやく別の解熱剤を処方してもらって飲むと大夫楽になった

その病院でも細菌採取をしてもらったものの、1つ目の病院抗生剤が効いてるとかで真菌(常在菌?)しか取れずよくわからないと言われた

鼻と喉に内視鏡いきなり入れられたのに

ここまでが2回目

3回目の今回も何となく喉がいたくて(平熱)他の用事ついでに受診したんだけど、受診して2日後から熱が爆上がりで解熱剤のロキプロフェン飲んでも全然下がらん

解熱剤の問題じゃなかったのかよ

状況的に原因が考えられるのが2つで

丁度彼女と付き合い始めた時期と重なってる

言いづらいけどク〇ニし始めた時期と一致してて、何か悪い性病が移ったのかもしれない

それか、付き合ってしょっちゅう遊びに行くようになってからデートの度自分がずっと喋るようになって喉を酷使する頻度が増えた気がする

後者自己責任なので今度から喋る頻度を減らそうと思うけど、前者の場合どうすればいいんだ

保健所検査してって言うしかないのだろうか

妻は自分が倒れる度親身に介護してくれる手前非常に言いづらい

来週3回目の細菌採取の結果がわかるけど、もしこれで決定的な原因がわからなければどうしようかと寝ながら途方に暮れてる

まずは今の症状をひたすら寝てなんとかするしかないけど、次また1週間寝込むことになったら本当に不便で困るし恐ろしい

Permalink |記事への反応(1) | 19:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20250124120020

将軍三太夫、三大夫とはそちも入っておるのか?」

Permalink |記事への反応(0) | 12:02

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

大夫が姓を変えた有名人夫婦

内田也哉子本木雅弘

高田万由子葉加瀬太郎

高山一実・ふくらP

あと一つは?

Permalink |記事への反応(2) | 12:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-24

侍や武士定義wikipedia軽く見ただけでもけっこうややこしかった。

元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士意味になってる。

侍(さむらいサムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である

「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族官人)を意味した

武芸仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。

さらに、武士階層裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来百姓身分である地侍徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。

足軽も一応武士

足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代日本存在した歩兵一種

概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽正式登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである


弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。

足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉定義についてはっきりさせておく必要がある。

Permalink |記事への反応(0) | 10:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-04-23

anond:20240423121332

山椒大夫

猿丸大夫

吉野大夫

Permalink |記事への反応(0) | 16:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

世界大夫

凡夫

匹夫

あと一つは?

Permalink |記事への反応(10) | 12:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-12-23

anond:20231223205204

夫がペッちんっと大切なトど?

ちんながッ?ペとっト切ど大夫

Permalink |記事への反応(0) | 21:06

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-10-24

anond:20231024112440

BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。

後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。

経歴

出自は不詳である尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。

前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれさのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。

転生後

武将同士の一騎打ちとかスパチャしまくってよくBANになっている。

Permalink |記事への反応(1) | 14:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-03-20

信玄もさすがだが、綱成の死去3年後に北条が滅亡したとかんがえると、傑物ですなあ

北条綱成は北条家中随一の猛将として他国にも知られ、戦場において常に勇敢で、特に野戦では大将であるにも関わらずに常に先頭に立って「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したと言われる。

指物は朽葉色(黄色)の練の四隅にそれぞれ「八幡」と墨書きしたもので、その武勇高き北条綱成の姿は「地黄八幡」と呼ばれた。

この地黄八幡の旗指物現在長野市松代真田宝物館に現存する。

1571年、北条綱成が駿河深沢城を開城した際に城内に残されていたものだ。

武田の兵は置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、北条綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。

 

しか武田信玄は「左衛門大夫(北条綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。

あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。

旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田幸隆の子真田源次郎(真田昌輝)に「左衛門大夫(北条綱成)の武勇あやかるように」と旗を与えた。

のちにこの事を伝え聞いた北条綱成は「信玄言葉で、我が恥辱は雪がれた」と悦んだとされる。

Permalink |記事への反応(0) | 18:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-09-15

anond:20220915004050

何が言いたいのか全くわからなくてガチで草

おかしなるわ

ルー大芝がコウメ大夫と会話してるみたいな

Permalink |記事への反応(1) | 00:55

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-02-06

anond:20220204192223

一度トラバいれた相手のページは全部ブックマーク入れて巡回してるのかもな

トラバが増えるたびに一度の巡回量が増えていきいずれ一日とかじゃ見切れない量になっていくこと必至だが、そこはまあ命続くまで巡回を続けるという意気込みなのだろう。

1日→1日半→2日、ここまで4日半だが、この「ここまで○○」の○○が寿命までの期間と一致するまで続けるのみのことなのだ、彼にしてみれば。

記事への言及が変化していても見落とすという確率は増えていきそうだけどな。巡回を繰り返すつもりでもそこらへんの限界はあろう。いくら彼が粘着質だとしてもそもそも返信がついたことに気付けなければ、それまでだ。寿命の面でも認識可能性の面でも、彼はじわじわ負けている。(妓楼大夫パクリw)

Permalink |記事への反応(1) | 17:39

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-01-05

男性のみなさまも今一度、想像してみてください

局部から1週間くらい出血があるというつらさを。


女を何年もやってると、ある程度の時期など把握できることもあるが

不意にやってくることもある。

ストレスなどで前後したりすることもある。

なぜこのタイミング!? と思っても

一度来たら、止められない、終わるまで。


出血だけなら、1万歩譲って許せるかもしれない。

しかし、痛みをともなうことがほとんどで。

痛みは内側からも、外側からも。

肌が弱いと、や、弱くなくても

濡れると摩擦が大きくなるのはご存知でしょう。

それで、痛かったり、かゆかったり。

眠りをさまたげることもあるくらい。


対処するために必要な用品も買っておかなければいけない。

なるべく快適にすごしたいなら、だいたい相応の良い値段のものを使わなければいけない。

安心を得たいなら、それらを多めに確保しなければならない。

しかし、それがいつでも買えるとは限らない。

使い慣れたものお気に入りのものが、売り切れていることもしばしば。

薬局渡り歩くのもつらい。


深夜でコンビニしか営業してない場合もある。

コンビニには、目当てのものがあることは、あまりない。

代わりにしかたなく選ぶことが多い。

そしてレジ男性店員さんに差し出す申し訳なさ。

店員さんは、そんなん気にしてねえ、ってのも分かってる。

分かってるけど、こっちは恥ずかしいもんは恥ずかしいんだ。


そんな、いろいろの要因で、気分も落ち込む。


そして、行動も制限される。

当たり前だが、プール銭湯も行けない。

動いたら漏れ心配

運動しなくても、日常生活の動きでもその不安はつきまとう。

時間おきに取り替えないといけない。

仕事関係で、トイレに行けないこともよくある。

そんな時につの不安


動いてなくても、寝てる時に壮大に漏れていることもある。

起きた時に下半身の着衣が血塗れ、さらシーツなどにも被害が及んでいる時の絶望感。


そうなったら捨てちゃえばいいじゃん!

とも思う。できるなら、じゃんじゃん捨てたい。

でもそうもいかない。


血まみれの布を冷水で洗う。

洗濯には、お湯が有効だと思うだろ?

でも血はお湯だと固まって落ちにくくなるから、冷たい水じゃないとだめなんだ。


人に知られたくないから、こっそり寒い風呂場で冷たい水で手洗いする

寒いさみしいみじめさ。


つらい。


わーっと書き殴ってみたけど、誰も責めるつもりはないよ。

年末から生理きて、今まだ続いてて、つらいので

増田大夫として、「チッキショー!!」的に書いてみました。


生理つらいみなさま、おなか中心にあったかくして過ごしてくださいませ。

大事にです。


追記

薬も要ることあるの書き忘れてたー

ちんつう

とりま、寝ますおやすみなさい。

Permalink |記事への反応(9) | 23:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-09-23

anond:20210923180553

万乎(まんこ、生年不詳 - 1724年10月1日享保9年8月15日))は江戸時代前期から中期の俳人伊賀上野豪商屋号大坂屋通称は次郎大夫

Permalink |記事への反応(0) | 18:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2021-06-29

anond:20210629111110

大学生かな?w

この話をつきつめるとバベルの塔みたいな話になってくるからやめるけど、個人とか自宅とかに置き換えてみればいい。

自分の庭に隣人の柿の木の枝がのびてきたり、熟した柿が落ちてきたら抗議する、それがまあ「利害」という概念のプリミティブな例である

簡単にいうと「争いの火種」ってことかな。

企業活動通貨金融経済活動というルール指定されているのでそのルールを逸脱した利害行動はできない。

たとえば暴力だとか、不法占拠だとか。そのかわりに法律と金が動く。

いっぽう国家民族においては、その国家民族を「定義」した時点で利害が発生する、と考えている。

たとえばウイグル人東トルキスタンという国がもともとあったから、中国侵略されても、中の人間が「我々は東トルキスタン人だ」といえば、

その「利害」を消すことができない。だからそれを完全に消そうとして、100万人以上を奴隷労働させて臓器を抜いたりしている。

基本的人間である以上は利害が必ず発生するわけだが、それを国家レベルでやると、間違えた人間が王になると「暴力」「不法占拠」「弾圧」「虐殺」が発生する。

それがエスカレートした有名な例は、呉越戦争きっかけがわかりやすい。

けっきょく、サイズの違いはあれど「人間の争い」が利害であり、国家建国した人間や、その時点でのトップの「人間性」が利害の拡大縮小を左右させるのだと思う。

紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さないから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚に属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した[1]。

Permalink |記事への反応(1) | 12:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2019-05-21

ブログ界の三大夫

中国嫁日記ジンサンと月さん

フミコフミオ氏としのさん

あと1組は?

どちらも最初は仲良さそうだったのにどうして差がついてしまったのか。。。

Permalink |記事への反応(1) | 10:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2015-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20151120201456

でも真名序は、然猶有先師柿本大夫者、高振神妙之思、独歩古今之間。有山辺赤人者、並和歌になってるし。

Permalink |記事への反応(0) | 14:14

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2012-07-11

世界大夫

キュリー夫人

デヴィ夫人

お蝶夫人

Permalink |記事への反応(0) | 12:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

 
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp