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2026-01-24

【論考】歪なリヴァイアサン幕府明治米帝の「キメラ構造

【はじめに】

本稿は、現代日本政治を一つの均衡状態として捉え、その内的論理記述する試みに過ぎない。ここで描かれた「歪なリヴァイアサン」は、不正義でも愚鈍でもなく、ただ与えられた条件の下で最も合理的に振る舞っている存在である

しかし、合理性は永続性を保証しない。均衡とは、あくまで外乱が加わらない限りにおいて成立する一時的な静止点に過ぎない。経済の衰弱、国際秩序の変動、技術による媒介構造の変化——いずれも、このキメラの前提条件を静かにしかし確実に侵食している。

本稿の目的は、このシステム擁護することでも、告発することでもない。ただ一つ、「なぜ変わらないのか」という問いを、「変わらないこと自体合理的である状況」として再定義することである

もし将来、日本政治がこの枠組みから逸脱するとすれば、そのとき我々は初めて「変化が起きた」のではなく、「変化を許す条件が整った」のだと理解すべきだろう。

――現代日本政治における三層構造の解剖――

1.序論:日本政治という「奇妙な果実

日本政治を観察する際、我々は常に強烈な「違和感」に襲われる。

表面的には米国流の民主憲法を掲げながら、そのOS(オペレーティングシステム)はプロイセン流の官僚機構であり、さらにその深層では江戸時代の村落論理駆動しているからだ。

自民党一強」や「官僚内閣制」、「対米従属」といった既存単一的理論では、この怪物説明しきれない。

本稿では、現代日本という政治システムを、「幕府の遺風(骨格)」、「明治の遺老(神経)」、「米国遺産(皮膚)」という、本来互換性のない三つの要素が無理やり縫合され た「キメラ合成獣)」として定義し、その構造的欠陥と強靭さを分析する。

2.第一層:幕府の遺風――「藩閥」としての自民党

日本政治の基層にあるのは、民主主義ではなく「封建制である

自民党近代政党ではない。それは「現代大名連合体である

派閥という名の「藩」:政治家にとっての忠誠対象は、国家よりも党、党よりも「派閥オヤジ)」にある。

世襲という正統性地盤看板・鞄(カバン)の世襲は、まさに江戸時代家督相続のものであり、システム維持のコストを最小化するための合理的装置だ。

「根回し」の合意形成国会審議は儀式に過ぎない。真の意思決定は、料亭密室での「根回し」によって行われる。これは内戦を避けるための「封建的コンセンサス」の知恵である

この層は、システムにおける「利益配分」と「動員」を司っている。

3.第二層:明治の遺老――「神官」としての官僚

政治家が舞台上で演じる役者だとすれば、脚本を書き、演出するのは霞が関官僚である。彼らは明治維新以来の「指導行政」の継承者だ。

無責任の体系:大臣は頻繁に交代するが、次官局長は居座る。実質的立法権と、法の「解釈権」は彼らが独占している。

解釈権という主権:法文そのもの意味はない。内閣法制局がいかに「解釈」するかが全てだ。これは一種の「神学政治」であり、官僚は唯一の解釈権を持つ神官である

この層は、システムの「運用オペレーション)」と「リスク回避」を司っている。

4.第三層:米国遺産――「将軍」としての米国

戦後、外から移植されたこの異質な器官は、平和憲法日米安保として具現化している。

征夷大将軍としての米国構造的に見れば、ワシントン現代の「将軍である平時大名日本政府)の内政に干渉しないが、外交安保という存立に関わる部分では最終裁定権を持つ。

結界」としての憲法九条:保守派にとっての憲法は、足枷であると同時に、米国の過度な軍事冒険に巻き込まれないための「免罪符(盾)」としても機能してきた。

この層は、システムの「外部安全保障」と「国際的正統性」を保証している。

5.「免疫拒絶」の悲劇小泉旋風と民主党の敗走

この三層構造は、絶妙ナッシュ均衡によって維持されている。この均衡を無自覚破壊しようとした者がどうなるか。歴史証明している。

小泉純一郎:骨格を砕いた狂戦士

小泉氏は「自民党をぶっ壊す」と叫びポピュリズム米国層の力)を借りて、自らの足場である幕府層(派閥郵便土建)」を攻撃した。

結果、自民党という組織は「骨粗鬆症」に陥った。彼が去った後、求心力を失った自民党があっけなく下野したのは必然であった。

民主政権臓器移植拒絶反応

2009年政権交代は、システムに対する致命的な挑戦であった。民主党は「幕府明治米国」のすべてを同時に敵に回してしまったのだ。

対「明治層」戦争:「政治主導」を掲げ、官僚機構を敵視した結果、サボタージュに遭い、行政機能麻痺した。

対「米国層」戦争普天間基地問題で「将軍」の逆鱗に触れ、鳩山政権崩壊した。

対「幕府層」の欠如:ここで、毛沢東言葉引用したい。

「党内に派閥なければ千奇百怪、党外に党なければ帝王思想

(党内に派閥がなければ奇妙なことが起き、党外に野党がなければ独裁に陥る)。

自民党における派閥は、疑似的な政権交代機能(自浄作用)を果たしていた。しかし、「党内無派閥」を理想とした民主党は、内部対立を調整する「封建的知恵」を持たず、内ゲバで自壊した。

民主党の敗北は、無能だったからではない。日本の「国体システム)」に対する免疫拒絶反応だったのである

6.結論:第二次安倍政権という「キメラの完成形」

なぜ安倍晋三(第二次政権)は、憲政史上最長の安定政権を築くことができたのか。

それは彼が、小泉流の「破壊」も民主党流の「理想」も捨て、システム構造ハッキング成功たからだ。

彼は「三層の矛盾」を解消するのではなく、「三層すべてを掌握する」ことで、この奇妙なキメラを飼い慣らしたのである

明治層のハッキング内閣人事局による「馴致」

民主党は官僚と「闘った」が、安倍政権官僚を「飼い慣らした」。

その決定的な武器が、2014年に設置された「内閣人事局」である

霞が関エリートたちの人事権官邸が一元管理することで、官僚たちは「抵抗者」から官邸意向を過剰に読み取る(忖度する)「優秀な参謀」へと変質した。

これにより、明治以来の「官僚自律性」は去勢され、行政機構は完全に安倍一強体制の手足となった。

米国層への「貢物」:安保法制という忠誠

安倍氏は、対米自立を掲げるのではなく、逆説的に「対米従属を極める」ことで政権フリーハンドを得た。

2015年安保法制集団的自衛権行使容認)は、憲法解釈限界突破するものであったが、これは「将軍米国)」に対する最大の忠誠の証であった。

将軍の信任を得た大名は、国内で多少強引な振る舞いをしても、外圧によって倒されることはない。彼は「外堀」を米国に守らせることで、内政に専念したのである

幕府層の再構築:アベノミクスという「藩政改革

「機動的な財政出動」と称されたアベノミクスは、経済政策であると同時に、高度な「封建的再分配システム」であった。

異次元緩和によって溢れ出したマネーは、株高を演出し、企業経団連)を潤し、公共事業を通じて地方組織農村建設)を潤した。

かつて小泉氏が断ち切った「カネのパイプ」を復旧させることで、派閥政治の不満を封じ込め、党内の求心力を盤石なものにした。

安倍政権とは、近代的な改革政権ではない。

それは、人事権官僚を縛り(明治)、安保米国を縛り(米国)、カネで派閥を縛る(幕府)という、「三層の完全縫合」に成功した、極めて洗練された「復古政権」であった。

日本という「歪なリヴァイアサン」は、内部から革命では死なない。

「党外に党なし」――強力な野党存在しないのではなく、安倍政権が完成させたこシステムが、野党代替案)の存在必要としないほど強固な「安定」を提供してしまたかである

このキメラが倒れる時があるとすれば、それは内部崩壊ではなく、宿主である経済死ぬか、将軍米国)が去るか、そのどちらかであろう。

Permalink |記事への反応(0) | 11:33

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2026-01-15

立憲民主党を離党した

2022年から協力党員だったけど、今日公明党との合流決定のニュース確認してから夕方に総支部事務所に行って離党届を提出した。

旧立憲結党ときはまだ高校生だったし、政治にあまり強い関心はなかったけど、立憲民主党結党に、「政治が少し良くなるんじゃないか」と淡い期待をしたのを覚えている。その後、コロナから2021年総選挙までの間の流れで立憲民主党共感して、衆院選では陰ながら応援した。結果的に敗北したのは残念だったけど、自分自身が動かないといけないという一種の使命感を感じて、翌年のはじめに入党することにした。

それから私は、体調が悪かったりしてあまり思うように活動できなかったけど、いろいろな貴重な経験をした。電話かけをしたり、ポスターを貼ったり、ビラを配ったり、党本部での会合に出席したり、遠くまで行って選挙の手伝いをしたり、地元議員に会って裏話を拝聴したりした。選挙立会人も何度かやった。

けれど、2023年ごろから立憲民主党方向性への違和感が強くなってきた。まず、春先の入管法国会非正規移民本国に送り返して生命危険さら入管法改正」案に対して、米山隆一トロッコ問題的な論法で「妥協する」ことを主張した。それは、外国人事実上「殺す」法案に対して承認のハンコを押すようなものだと私は感じた。塩村あやか鈴木庸介もそれに乗っかり、私がそれまで信頼していた多くのネット支持者も同調した。幸い、鎌田さゆり山田勝彦石川大我石橋通宏らの努力もあり、立憲は最終的にハンコを押すことを拒否した。けれど、当事者生命無視した功利主義的な議論が支持者の間ではびこったことに対し、私はかなり居心地の悪さと憤りを感じた。

その後も、私の違和感は強まるばかりだった。2024年代表選では、枝野幸男投票した。結局野田佳彦勝利して、代表選中に自分陣営にいた人ばかりを執行部に起用する露骨なお友達人事を行った。私は、気分が悪くなった。サンクチュアリ近藤枝野派)、国のかたち研究会(菅派→西村派)、社会民主主義フォーラムなどの「左派」系党内グループ野田執行部の路線に対して何らかの抵抗を示してくれるかもしれないとのかすかな期待を抱いた。けれど、しまいには(私にはもはや迷走しているようにしか見えなくなった)枝野幸男、そして近藤昭一も、野田佳彦呼応して「中道」という空っぽ言葉連呼するようになった。

立憲民主党近いうちになくなるのではないか、「希望の党騒動が再び起きるのではないか、という懸念はしばらく前から抱いていた。けれど、それがここまではやく現実になるとは思っても見なかった。私は、心のなかの違和感をひた隠しにしながら、衆院選に、都議選に、参院選に奔走(というほどのことはしていないが)した。24衆院選で立憲が50議席増やして躍進し、私の選挙区の候補が久しぶりの小選挙区当選を勝ちとったときは、心の底からしかった。

けれど、それも全て無駄だった。「立憲」民主党は、立憲主義中道左派仮面も捨てて、「改革中道」という味のしないガムのようなくたびれた言葉で、つい数ヶ月前まで自民党ウンコみたいな政治翼賛しまくっていた公明党創価学会に擦り寄りはじめた。そして、数日前に統一名簿の話が出たかと思ったら、昨日の夜に新党結成の速報がいきなり出て、24時間もしないうちにそれは党の機関決定になった。1日もたたない間に決まったので、一般党員はもちろん、地方議員さえ意見を述べる猶予は一切なかった日本共産党ボルシェビキ組織論をもった社民主義者なら、立憲民主党選良の皮を被った前近代的地方大名連合体にすぎない、と私は感じた。立憲「民主」党のなかに、少なくともわれわれが一般理解している意味での党内民主主義は、存在しない。野党第一党政局のために一瞬で溶解した希望の党騒動反省は、「排除の論理をとらない」といううわべの口約束しか見られない。

私はそうした事実を突きつけられ、もはや言葉も出なかった。われわれ支持者は、野田佳彦枝野幸男安住淳小沢一郎重徳和彦泉健太にとってただの都合のいいコマにすぎない。そして政治が向き合う対象である大衆も、彼らがいったん権力を取れば、きっと似たような扱いを受けるだろう。その扱いは、確かに自民党よりはましになるかも知れない。けれども、奴隷労働のような低賃金に苦しみ、給与未払いが起きても泣き寝入りするしかない、労働組合にすらつながれないような末端の労働者、さまざまな種類の差別や抑圧に苦しんで、物理的あるいは精神的な死の危機と日夜戦っているマイノリティ、そして将来に対して漠然とした、しかし逃げ道のない不安にさいなまれている(そしてときには外国人高齢者障害者といった誤った敵にその怒りを誘導されてしまう)日本の多くの人々に、「ちょっとだけきれいな自民党」が提示しうる解決策は、一体何だろうか。

立公新党(こっちが気恥ずかしくなるような政党名になるらしい)は、もしかすると、連合+創価学会の圧倒的な組織力で、高支持率という幻像にはしゃぎまわって醜態さらしている高市政権を圧殺するかもしれない。けれど、「左派」どころか「リベラル」さえ言うのを躊躇するような、これまでの安保法制原発への態度をまともな説明もせずに180度転換することを厭わないような新党政権を握ったとしても、「もっと良い未来」が実現できるとは到底思えない。うまくいって、例えばAI粗製乱造された広告収入目的テンプレ記事とか、使い古されて擦り切れたネットミームのような、凡庸でつまらなくて、しか場合によっては有害ものしかまれてこないだろう。

2024年イギリス総選挙で大勝利を収めたスターマー政権現在記録的な低支持率で苦しんでいるように、現代社会根本矛盾への一応の対処策さえ示すことはできず、右派の主張に妥協に次ぐ妥協を重ねて、参政党や日本保守党のような右の極に早晩その座を譲ることになるのではないか

立憲民主党さようなら。40年後の私たちが、「立憲民主党のあった時代はまだマシな世の中だったなあ」と思っていないことを祈ります

Permalink |記事への反応(16) | 22:48

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天下統一を目指した信長秀吉家康の3人は別として

実は戦国武将というのは日本の歴史的にはさほど重要存在ではない

彼らは知名度の割には互いに近隣の大名との領地争いに明け暮れてただけで天下統一に向けた行動は起こしていない

たとえば武田上杉川中島の戦いは有名だけど

これも戦国時代に数多ある地方合戦(小競り合いのようなもの)の1つにすぎない

Permalink |記事への反応(0) | 21:47

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2026-01-02

anond:20251231135113

ふくちゃんラーメン安全食堂などがないので西の方に来とらんな

東は知らんけど名島亭(本店は2022火事の影響もあり閉店)で

修行した系列あり。MARKISデイトス店は行ったことない

無くなった名島亭は毎日食える系なので、ぱっとした評価が難しい

これは、飲みのシメに食う場合長浜も同じ

あ、ぎょらん亭は大名店についてじゃないのか?

北九州小倉北区市民球場横が本店

大名店なら大名店と書こう

3号線南北以外に、東西に行くと幅がひろがるよ

南の方に行って、卵が入ってきたら佐賀ラーメン勢力圏

美野島真鍋食品有限会社も暇があれば行くと面白いよ!

Permalink |記事への反応(0) | 21:40

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2025-12-28

江戸時代大名とかSNS管理が大変そう

江戸将軍とかが呟いたら、秒でいいね!つけないと駄目だったろうし、

イメージ戦略として定期的に発信して

国許(あるいは江戸)の家中の家臣の士気を高めないといけなかっただろう。

参勤交代の時とか、「箱根峠なう」とかやってたのかな?とか書くと、

「なう」かい言葉つの時代のことだよ?って思うかもしれないけど江戸時代なんだから仕方ないだろ。

Permalink |記事への反応(0) | 10:31

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2025-12-14

忍者就職にしたい

ライバル会社に忍び込んで、情報を盗みたい

忍者から、法的にもセーフ

嘘の情報を流して撹乱させたい

忍者なので、フェイクニュース流しても法的にセーフ

危険人物暗殺…は流石にやらない。令和だし。

ハロワで探してるけど、忍者募集って稀だから、難しい

転職エージェント経由でないと就職できないとも聞く

ネットで探すとこんなページもあった

忍者 になるには?資格年収仕事内容・大学をご紹介】

Step.1

伊賀甲賀忍者衆として鍛錬に励む

Step.2

忍具を使いこなし、忍術を会得する

Step.3

忍者として独り立ちする

Step.4

仕える大名領主の命を受けて暗躍する

https://passing-notes.com/job-list/travel/222170/

かなり厳しそう。

でも「あなたの”成りたい”を大成会応援します!」って書いてるから、まずここに入ることにしたよ。

Permalink |記事への反応(0) | 09:05

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2025-11-19

anond:20251119120327

台湾って日本だったんだよな

歴史的に見ると台湾ってずっと日本に属していたんだよね。

それこそ白村江の戦いとき日本軍の前線基地台湾だったし、豊臣秀吉が明に対する牽制として台湾大名派遣しているし。

台湾日本でなくなったのは戦後からせいぜい80年。

台湾人の親日度も高いのだから、再度日本台湾併合してもいいんじゃないかな?

>それこそ白村江の戦いとき日本軍の前線基地台湾だった

???

ちょwwwおまwwwホイ卒www義務教育受けてないwww

Permalink |記事への反応(0) | 12:04

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2025-11-17

鳴かぬなら〇〇ホトトギス←これ

鳴かぬなら殺してしまホトトギス織田信長

鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス豊臣秀吉

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス徳川家康

これ違うよな。愛を重んじた信長が有無を言わさずに殺したのなんて一向一揆生臭坊主相手にだけでしょ

それ以外は愛を以て接してたでしょ。三人の中で攻城戦など調略に一番時間かけてたし

なので鳴くまで待とうが信長実像に近いと思う。

次に鳴かせてみせようの豊臣秀吉はむしろ苛烈な人ですぐ殺して回ってた。それは天下統一後も同じで下剋上にならんように民草を弾圧してたのは有名だし秀次事件無関係の人を冤罪連座で殺しまくったのは秀吉その人

鳴かぬなら殺してしまえは秀吉のためにあるもの

最後に鳴くまで待とうの徳川家康信長義理を果たし続けて今川の遺児も保護してる。関ヶ原合戦では豊臣恩顧の筆頭大名となり東軍大将にこそなったけど石田三成論功行賞があまりにも酷過ぎると豊臣恩顧の大名(加藤清正福島正則など)らから苦情を受けて担ぎ上げられたに過ぎない。小早川秀秋らの裏切りにしても正に鳴かせてみせた結果。

従って鳴かせてみせようは徳川家康にこそ相応しいと考える。

Permalink |記事への反応(1) | 16:45

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2025-11-06

今、世界中政府借金まみれらしいのだが

思えば江戸時代大名借金まみれな印象があるので、およそ民とつくもの統治する者は借金まみれになるものなのかもしれない

Permalink |記事への反応(1) | 15:30

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2025-11-04

いろいろと押されている増田棲丸イテ玲竿とロイロイ回文

おはようございます

個人的怒濤連休が終わったんだけど

ドラゴンクエストI・IIの1の方は

メルキドゴーレムで止まっちゃって一旦休憩よ。

そこから先へ進めないわゴーレムが強過ぎてってところまで来てものたがり敵には中盤差し掛かっているのかしら?

どこまでがお話の終わりなのか分からないので現在地不明よ。

本を読んでいたら、

あともうちょっとで終わっちゃうんだーって残りページが減っていく様を見ていく様子が分かるから

この本ももう少しで読み終わっちゃうのねという一抹の寂しさを感じることができるけれど、

今これメルキドゴーレムがどのぐらいの物語場所なのか分かんないので、

もーゴーレム強すぎ!って手を焼いているのよね。

押されてるわー。

あとさ、

NIKKEなんだけど

3周年イベントストーリーが久しぶりにキツい内容でちょっと心落ち込んじゃうぐらいな泣かせっぷりよ。

うーん、

なくと言うよりは

ちょっと辛い辛すぎるの。

お話の核心に触れることなのでまあ楽しんでいる人には分かってもらえるんだけど

ノアって戻ってくるのかな?ってそれだけが気掛かりよ。

あの調子だとどうなるか分かんないわ。

ダニアは酷いことされたのに案外ケロッと回復してるし

こはちょっとホッとはしたけれど、

イベントストーリーイベント消化アイテムがあって普通にやるには1日5しか進められないところがあるし、

先に進めきってしまっても、

次日付の何日まで待ってねって解禁されるまで待たなければならないのよね。

ちょっとここに来てNIKKEの世界主人公たちが拠点とし地球地下に建設された人類がそこに逃げ込んで暮らしている「アーク」ってところがあるんだけど、

そことは別の地上に「エデン」ってところがあり、

そこが壊滅的なダメージを受けて破壊尽くされたの。

エデンの技術でエデンは安泰ね!なんてお話の中ではそうなり続ける場所なのかなーって思ったけど、

今回の3周年イベントストーリーちょっと絶望的な感じよ。

気持ち押されているわー。

あと、

今回のアップデートで新たに加わった「地上」コンテンツ物資が貯まらなさすぎて、

次の生産ノルマが達成出来てなくて先に進めない感じ。

これもめちゃ時間かかんのね!って

こっちも自動的時間物資が貯まっていくので放置していたら物資が過剰生産倉庫に入りきれない分が無駄なっちゃうので、

たこまめにこれもチェックしなくちゃいけない感じ。

ここまででボリュームいっぱいな感じ。

スプラトゥーン3も軽くプレイしつつの

シャインポストライブアーカイブ期間終わっちゃうので観なくちゃ!って思いつつ、

今後の動向が気になるNIKKEの開発者動画もチェックしておかなくちゃ!だし、

朝ドラ『ばけばけ』も追っかけないとだし、

いまやっとヘブン先生松江上陸したところまで追いついたわっ!

大河ドラマはとうの昔に離脱

なんか政治の話で大名とかのなんとかになるとよく分からなくて頭に入ってこないわ。

大河ドラマ離脱とはいえ

押されてるわー。

一番の気掛かりなのは

やっぱりドラゴンクエストI・IIの1なので、

ここ突破したいところなんだけれど、

なにしろゴーレムで足止め喰らっているので、

周辺で敵倒して強くなるしかないわ。

あとゲームの設定で、

宝箱の場所地図で示せる!って機能があるんだけど、

ええ?この機能ドラゴンクエストIIIとき呪文とか特技で分かるんじゃなかったっけ?って思いつつ、

なんかズルしている感じもするので、

ダンジョンの行き止まりに行ったときに、

ああ宝箱この道にはなかったのか!

ってあれを味わうこそがドラゴンクエストのなんか醍醐味だと思うので、

とはいえ

予め地図全部もう見えちゃってるじゃん!って時点でイージーなのよね。

あとやくそうを無限に持てるってこと自体もイージーだわ。

から見たらたぶん勇者って薬草どっさり抱えて冒険している、

さすらいの薬草売りにだって見えちゃいそうよ。

まあそれはなくて兜と鎧装備している格好だけど、

ゆっくり貯まった時間が掛け持ちで大変だったので、

逆に落ち着かない感じがしたわ。

にしても

メルキドゴーレムは早いところ倒してメルキドいかないとー!って始まらないので

そこ強化ポイントよ!

目標ゴーレムを押されないように倒すことね。

うふふ。


今日朝ご飯

バナナ豆乳飲んできたわ!

なんか健康的じゃない?

バナナ牛乳って。

別に意識しているわけではないけれど

それでも最近バナナ食べるの多くなったかもなそんなバナナよ。

デトックスウォーラー

朝は今日なんか特に寒かったので、

まずは湯を沸かせー!って感じの、

ホッツ白湯ストレートウォラーを飲みつつ

身体を中から温めて起きて行動開始よ!

うー、

本格的に寒くなってきたわよね。

風邪引かないように絶対に気を付けないと!


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

Permalink |記事への反応(0) | 09:01

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2025-10-20

弥助の剣技より斬れ味高い

曼珠沙華さん、あなた反論を拝見しました。Grokか私のどちらかが嘘をついているといいつつ、藤木先生議論にも反している私が嘘つきとの論陣を張っておられますね。ところでお聞きしたいのですが、あなたAIの回答が正しいと思って、ぶつけてこられたということでよろしいですね?では、私から疑問を提示させていただきますAIが論拠とする事項についての疑問を提起します。

黒田基樹戦国期の貨幣経済』(吉川弘文館2007年)なる著作実在しません。

永原慶二『近世武家経済史の研究』(有精堂、1969年)なる著作実在しません。

③『甲陽軍鑑』(天文・永禄期)家臣の禄高を石単位俸禄)で記すが、下級者には「扶持若干石」と明記とあるが、そのような記述存在しない。『甲陽軍鑑』には貫高で禄高を記すのが原則。いったい何巻に記述されているのかさっぱりわからない。見つからない。

藤木久志戦国社会史論』(東京大学出版会1975年)に「扶持を「俸禄現物化初期形態」とし、土地喪失時の代替として用いられたと指摘。総俸禄10-20%が扶持形式だったと推定される」との記述存在しない。この課題に最も近い「大名領国の経済構造」「知行制の形成守護職」にもこうした論述は見当たらない。念のため、この著書は1974年刊行である。いったい1975年刊とはどういうことか。曼珠沙華におたずねしたい。

佐藤信淵研究(『戦国大名軍事経済』、吉川弘文館1995年とあるが、そのような著作存在しない。そもそも佐藤信淵江戸時代後期の学者なのだが、なぜ1995年に著書が刊行されているのかさっぱり理解できない。ちなみに同姓同名戦国期の研究者がいるとは聞き及んでいない。

平井上総の『戦国領主層の研究』(高山寺書店1980年)だが、このような著作存在しない。そもそも私の知る平井上総氏は1980年まれのはず。生まれたばかりの新生児がこのような著書を書いたとはノーベル賞どころの話じゃないね曼珠沙華さん、この問題にどう回答するの?

五味文彦1947年まれ東京大学教授名誉教授)は、戦国期の民衆史・武士社会を専門とし、『もう一つの戦国史』(岩波新書2000年)や『戦国合戦社会学』(中公新書2015年)とあるけど、ぜんぶ実在しませんよ。このような著作があれば、私が知らないわけない。念のため、五味先生1946年まれですけど、別人なのですね?曼珠沙華さん、返答してくださいね

⑧「現代日本史学における定説と受容状況」に記述されているデータは、すべて根拠がないか実在しませんよ。曼珠沙華さん、あるというのなら、しっかりとその出典を明記して提示してください。

以上です。曼珠沙華さん、あなたはこんないい加減なもの鵜呑みにして、私をこきおろそうとしていたわけです。AIを丸投げして、私が間違っていると言った以上、この記述を信頼できると考えた根拠をすべて掲げ、私に提示してください。私はすべて提示しましたよ。あなたは自信満々で、誠実な人間なのでしょ?さぁ、私にしっかりと回答してもらいましょう。逃げるなよ。https://t.co/XDgKWKIIEP— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN)October 19, 2025

Permalink |記事への反応(0) | 16:09

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2025-10-07

わりと進次郎は今川義元に似てるよ

惨憺たる結果の小泉陣営、更に投開票前日にもかかわらず祝勝ムードだった「政界今川義元やんけ」「ドラマとかでやるフラグやないか...」

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2612271

mouseion

政界今川義元←そんなええもんちゃうやろ。

海道一の弓取り今川義元を知らんニワカかよ。こういうのは登山家馬謖とか生兵法の趙括やろ。

2025/10/07

はいはいはい

海道一の弓取り」。

 

今川義元は数度にわたる断続的な評価揺り戻しが起きてて

その最後のやつでも10年以上前だけど、そこからアップデートされてない感じね。

まあはてブ知識って何の分野でもこんな感じ。

   

 

今川義元ってこんな人

嫡男じゃなかったけど兄が消えたせいで今川家を継ぐ。

名門なので公家文化も取り入れてるし輿にも乗る。(文弱のデブ、みたいなイメージはここから

40過ぎで小勢力信長に敗れて戦場で散る。

(この規模の大大名なのに戦場で首取られるのは割と珍しい。あとは龍造寺隆信とか?)

  

でもでも、桶狭間最期のため・信長家康と対比でsageられたために必要以上に暗愚扱いにされてきたんじゃないか

だって義元の代に今川家は伸長してるじゃないか

当時は海道一の弓取り(東海道一の戦上手)と呼ばれて恐れられたんだ!

義元は有能!

……っていうのが今川義元評価論。

   

  

義元の合戦レコード実態

でもだんだんわかってきたこととして

今川家の合戦大将ってだいたい義元の師僧の太原崇孚(雪斎)がやってた。

小豆坂の戦いとか重要合戦はすべて雪斎というレベル

まり海道一の弓取り」今川義元そもそも出馬をしていない。

   

もちろん有能なスタッフ委任するのは当主の器だけど

内政雪斎、外交雪斎、合戦指揮雪斎は偏り過ぎだったし

なんか義元ってなんでも雪斎に相談して二人で物事進めてたのね。

子供の頃の出家時代からの師だからって。

     

雪斎は60歳ぐらいで亡くなるんだけど当時としては長生きの寿命

義元としても今川家としても当然「雪斎死後」の準備をしているべきだった。

でも雪斎亡き後、大きな合戦大将を任せられるスタッフは育ってなかった。

それは義元との関係性も含むよね。

   

 

義元の大きな合戦

それで雪斎はいなくなっちゃったけど

駿河三河遠江三州の太守として満を持して

充実した国力を背景に大軍団を自ら率いて尾張に侵攻したんだけど(上洛しようとしてた説もある)

桶狭間でのあっけない頓死を遂げる。

 

天下をうかがうほどの武将はほぼ例外なく

大将自分自身が泥にまみれるような危険な接戦や敗戦経験するけど

義元の場合は40過ぎてから初めてそれが来ちゃった。

   

おそらく自分前線指揮での危険察知とかが出来なかったのと

配下部将たちとの呼吸や連絡も上手く合わなかった。

 

沢山スタッフがいても誰が使えるか、誰が気が利くかは分からない。

妥当な指示を出しても頓馬なことして陣営を窮地に陥らせる者もいる。

いきなり大軍勢を率いていきなり決死突撃を受けたせいで今川軍はきちんと機能しなかった。

  

  

義元敗死後

義元は30後半の頃に雪斎に死なれて

そこから嫡男家督を譲って後事を託して

5年ぐらいのち尾張侵攻したけどダメだった。 

 

雪斎とばっかり相談してたか家老とか権限がなくて

雪斎死後国政整わずと評されてたぐらいで

惰性で拡大しながらもグズグズと崩壊兆しが見えていたのかもしれない。

 

内実の伴わない勢力拡大から初めての大勝負

勝利確信からまさかの敗北。 

  

全体的に進次郎は今川義元に似ている。

似てないのは死んでないこと。

あとこのまま既定路線に乗ってるだけでいつかはトップに立てそうなこと。

 

あとは党内または野党に、織田信長と言えるほどのライバルが現れるのか。

現れてくれなければ国の未来は暗そう。

Permalink |記事への反応(2) | 21:15

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2025-10-05

大名

我が闘争アドルフ・ヒトラー

『30歳のバースディ: その朝、おんなの何かが変わる』 高市早苗

マンガ 安倍晋三物語』 TEAMABE著

Permalink |記事への反応(0) | 20:35

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2025-09-27

合理的判断能力がある男さんpwwwwwww

東京都江東区インターネットセキュリティ会社に勤務する被害者A(以後A)は、「Hagex」というハンドルネームブログHagex-day info」を運営しており、インターネット上のトピックを拾い出して独自視点で伝えるスタイルで人気を博していた[2]。同名義でネットに関する著書も出版している[3]。

福岡県福岡市に住む無職犯人X(以後X)は、2016年からポータルサイトはてな運営するはてなブックマークやはてな匿名ダイアリーに出没し、複数ユーザー誹謗中傷コメントを送り、通報されてアカウントが凍結されても新規アカウントを再取得して同じ事を繰り返すという迷惑行為を行っていた。Xは中傷コメントに「低能」という表現を多用したため[4]、他ユーザーからは「低能先生」との呼び方が定着していた。

Xから中傷を受けていた一人であるAは、2018年5月上記のXの行動と「低能先生」と呼ばれていることを説明した上で、Xから被害を受けたら運営に対して「低能先生です」とだけ書けば迅速に対処アカウント凍結)される事を2018年5月ブログで紹介した[5][注 1]。

これに逆上したXは、6月24日にAが地元福岡市にある創業支援施設福岡グロースネクスト」(旧大名小学校跡地)で開催されるセミナー講師として来訪する事を知ると、当日現地に出向いて待ち伏せし、セミナーが終了した午後9時に1階トイレでAを襲撃。刃渡り16.5cmの包丁で何度も刺されたAはほぼ即死だった[2]。

Aの殺害後、Xは24日深夜になって凶器包丁を持って交番に出頭[2]。福岡県警は殺人容疑および銃刀法違反容疑で緊急逮捕した。

2019年11月20日福岡地裁は懲役18年の判決を下した[7]。検察、弁護側双方とも控訴期限の12月4日までに控訴せず、懲役18年の判決が確定した[8]。

とても合理的(笑)ですね

Permalink |記事への反応(0) | 19:47

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2025-07-20

anond:20250714201600

日本大名前がそのまま名称になったもの

 

沢庵

雪洲

あと一つは?

Permalink |記事への反応(1) | 01:14

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2025-07-14

大名前がそのまま名称になったもの

サンドイッチ伯爵サンドイッチ

カーディガン伯爵カーディガン

ベシャメル侯爵ベシャメルソース

なんか高貴な方が多いね

Permalink |記事への反応(14) | 20:16

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2025-07-12

日本大名

あき竹城

あと3つは?

Permalink |記事への反応(3) | 19:11

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2025-07-11

anond:20220928120841

そして、戦国時代へ。

各地の軍が軍閥みたいになり、大名になり、戦国の乱世が訪れる。

Permalink |記事への反応(0) | 18:39

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anond:20220928120841

そして、戦国時代へ。

各地の軍が軍閥みたいになり、大名になり、戦国の乱世が訪れる。

Permalink |記事への反応(0) | 18:39

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2025-06-25

大名アニメ監督決まったな

山本寛

中山

鶴巻和哉

Permalink |記事への反応(0) | 11:33

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2025-06-22

朝鮮の役、後

豊臣家の滅亡につながった関ヶ原前後の諸大名特に加藤清正黒田長政など)の動きと、それに対する家康戦略的な働きかけを詳しく解説します。

🔷 1. 【加藤清正黒田長政とは】

どちらも「文禄・慶長の役」の主力武将で、秀吉に重用された「豊臣恩顧の武将外様)」です。

武将出身 特徴

加藤清正尾張熊本石田三成と激しく対立朝鮮での実戦派。

黒田長政福岡黒田官兵衛の子家康に接近し、政治嗅覚に優れた動き。

🔶 2. 【彼らの“朝鮮帰還後”の立ち位置

朝鮮遠征の不満

• 清正・長政らは朝鮮で大損害を被る

指揮系統の混乱(特に石田三成の指示)により、前線で混乱

小西行長ら文治派(キリシタン+三成派)との対立が深刻化

これにより、彼らは帰国後、石田三成五奉行に強い不信感と怒りを持っていた。

🔷 3. 【家康の介入:巧妙な「抱き込み」】

家康はこの「内部不和」に目をつけ、以下のように動きました。

加藤清正に対して:

家康は清正と個人的に接近し、「三成に対抗するなら力を貸す」と暗に伝える。

• 清正の熊本築城や領国経営保証

• 清正は「豊臣家を守るために三成を排す」という大義を得て家康に傾斜。

黒田長政に対して:

• 父・官兵衛(如水)も含め、情報網として重用。

• 長政は諸大名に「家康に味方すべし」と外交工作を展開。

関ヶ原では福島正則細川忠興らとともに東軍の中核に。

🔶 4. 【関ヶ原の戦い:彼らの影響力】

武将関ヶ原での役割東軍への影響

加藤清正九州で三成派を牽制西日本西軍勃発を防止

黒田長政美濃にて主力として参戦福島正則と並び主戦力。敵陣突破に貢献

結果、家康は三成包囲網を“秀吉子飼い武将たち”で構築するという皮肉な構図を作り出しました。

🧠家康の「間接支配戦略

家康の狙いは単に勝利することではなく:

1. 豊臣恩顧の武将を自派に取り込む

2. その結果「秀頼=政治的に孤立」させる

3. 秀頼を“家康庇護下の存在”に変える(=政権実質移譲

💣 5. 【その後:大阪の陣へつながる】

黒田家は江戸方として大阪の陣で戦う

• 「豊臣恩顧大名」が次第に家康政権の柱となり、豊臣家が孤立していく

🔚結論

加藤清正黒田長政などの帰国組は、家康にとって「反三成の旗印」かつ「豊臣家を内部から解体する鍵」でした。

家康は彼らを恩と保証で懐柔し、味方に付けることで、政権簒奪を“合法的・段階的”に行ったのです。

Permalink |記事への反応(0) | 15:14

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秀吉の死で征明の野望は終わった

李舜臣(イ・スンシン)の水軍豊臣秀吉水軍(主に九州西日本の諸大名による水軍)を破った理由は、以下のような作戦上の優位性と戦略的判断によるものです。

✅ 1. 地形と地元海域の熟知

李舜臣朝鮮南部リアス式海岸多島海の複雑な地形を熟知しており、狭い海峡や浅瀬を巧みに利用しました。日本の大型船が動きにくい海域誘導し、機動力の高い朝鮮水軍の得意な戦いに持ち込みました。

✅ 2. 亀甲船(コブクソン)の活用

朝鮮水軍は装甲された亀甲船(鉄板や木で覆われ、敵の矢や火に強い)を運用しました。これは当時の日本水軍の主力である登り船(のぼりぶね)や大型輸送船に対して非常に有利でした。

✅ 3.遠距離攻撃主体の戦法

李舜臣は、火砲(火矢・大砲)による遠距離戦法を重視しました。日本水軍白兵戦(乗り移っての戦い)に長けていましたが、それをさせずに船を沈めたり炎上させる戦法で多くの損害を与えました。

✅ 4. 奇襲と奇策による戦術勝利

例えば:

• **閑山島海戦(1592年)**では、日本側が油断していたところを奇襲。

• **鳴梁海戦(1597年)**ではわずか13隻の兵力日本の約300隻の艦隊撃退奇跡的な戦術)。

✅ 5.朝鮮水軍の統率と士気

李舜臣指揮官として極めて優秀で、兵士たちからの信頼も厚く、統率のとれた水軍運用を実現していました。兵の士気が高く、緻密な訓練もなされていたとされています

✅ 6.日本水軍戦略的限界

豊臣秀吉の軍は主に陸戦主体で、水軍の質・連携では朝鮮側に劣りました。水軍間の連携不足や海戦経験の少なさも、敗因につながりました。

🏁結論

李舜臣の勝因は、地の利・優れた艦船戦術選択・兵の士気相手の弱点を突く指揮能力にあります。彼の戦法は、当時の東アジア海戦において非常に革新的で、世界的にも高く評価されています

以下の戦術図を使って、鳴梁海戦と閑山島海戦李舜臣がどのように戦術的に地形・敵を活かしたかを詳しく解説します。

🛡️ 閑山島海戦(1592年8月15日

• **戦術図(左上)**では、朝鮮艦隊がU字型の「鶴翼陣(hakikjin)」を展開。

日本艦が捨て船に誘われて鶴翼陣の中心部誘導されると、左右から包囲。

中央に配された**亀甲船(コブクソン)**が火砲を集中発射し、日本艦を破壊  。

• 結果、日本艦隊約100隻撃沈という大勝利

戦術ポイント

1. 捨て船で任意場所誘導

2. U字型で包囲・側面射撃

3. 亀甲船を中央に置き、火力の集中投射

🌊 鳴梁(ミョンニャン)海戦(1597年10月26日

• **戦術図(右下)**では、幅約300mの狭い鳴梁海峡舞台にした戦術

朝鮮艦は潮流と地形を背景に、北口わずか13隻を展開 。

日本艦約330隻が潮に押され狭所に突入すると、航行が乱れ、接舷を狙う前に混乱。

朝鮮軍は一列配置で火砲と矢を放ち、一隻ずつ沈めていきました 。

• 結果:30隻以上撃沈、日本艦大混乱。朝鮮艦は無傷 。

戦術ポイント

1. 狭水道+強潮流を「天然の防壁」に。

2. 敵を一点突破させ、流れで混乱・衝突誘発。

3. 長蛇陣(1列)で砲撃しながらじわじわ殲滅

🔑共通する戦術の核心

要素 閑山島海戦 鳴梁海戦

地形利用 開放海域+島で包囲 狭水道+潮流の罠

誘導 捨て船+鶴翼陣 急潮の海峡誘導

陣形 U字「鶴翼陣」 一列「長蛇陣」

兵器 亀甲船+火砲 パノクソン+火砲

戦術意図 包囲・包み込み 分断・一点集中

🎯 なぜ有効だったのか?

地理と潮流の徹底活用:どちらの海域李舜臣朝鮮軍が熟知し、敵は盲目的に罠へ誘導された。

陣形による戦力の最大化:少数艦でも高い火力を広い範囲へ展開。

兵器特性戦術に反映:亀甲船とパノクソンという砲艇戦優位の艦種を最も効果的に使える配置。

• 敵戦術無効化日本白兵戦志向砲撃戦で封じ、敵の強みをそぎ落とした。

🧭結論

戦術図を見ると、李舜臣地の利・地形・潮流・兵器性能を完全に掌握し、それらを誘導と配置という戦術に落とし込みました。形が異なる2つの海戦ではありますが、根底にある哲学は一貫しており、これこそが李舜臣戦術的卓越性を示しています

Permalink |記事への反応(0) | 14:58

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日野富子下剋上の道を開いた

応仁の乱後の日野富子による将軍並立と室町幕府の弱体化の経緯についてですね。

応仁の乱(1467年~1477年)は、足利将軍家後継者争いと有力守護大名対立が絡み合い、全国を巻き込む大乱となりました。この乱によって室町幕府権威は地に落ち、各地で下克上が進行する戦国時代へと突入していきます

日野富子は、8代将軍足利義政の正室であり、9代将軍足利義尚の生母です。彼女応仁の乱の勃発にも深く関与し、乱後もその政治的な影響力を持ち続けました。

富子が将軍を並立させ、幕府さらに弱体化させた経緯は以下の通りです。

1. **義尚の早世と後継者問題:**

応仁の乱終結後の1489年、富子の唯一の息子である9代将軍足利義尚が近江で陣没しました。これにより、将軍職の後継者問題が再び浮上します。

2. **義材の擁立と富子との対立:**

義尚には子がなかったため、義政の弟である足利義視の子足利義材(後の義稙)が将軍職を継承することになりました。しかし、義材は武力による秩序回復を目指し、富子やその近臣、有力寺社勢力など、これまでの幕府運営に深く関与してきた勢力との対立を深めていきます特に、富子が抱える多額の負債や、彼女権益に触れるような政策を義材が打ち出したことが、対立を激化させました。

3. **富子による細川政元への接近と明応の政変:**

義材との対立を深めた富子は、幕府の実力者である管領細川政元に接近します。政元は、将軍権力を弱め、自らの政治的影響力を強めることを企図していました。

そして1493年、義材が大内義興の討伐のために河内に出陣している隙を突き、富子と細川政元クーデターを起こします。これが「明応の政変」です。政元は兵を率いて京都制圧し、義材を廃して幽閉しました。

4. **足利義高(義澄)の擁立将軍の並立:**

義材を廃した富子と細川政元は、新たに足利義視のもう一人の子である足利義高(後に義澄と改名)を10代将軍として擁立します。

しかし、廃された義材はその後、越中、次いで周防へと逃れ、地方の有力大名特に周防大内義興)の支援を受けて、正統な将軍としての地位を主張し続けました。これにより、京都にいる義澄と、地方に逃れた義材という、二人の将軍が並立する異常事態が発生しました。

5. **幕府権威の決定的な失墜:**

富子によって引き起こされた明応の政変とそれに続く将軍の並立は、室町幕府権威を決定的に失墜させました。将軍自身意思ではなく、有力大名政治的勢力によって廃されたり、擁立されたりする状況は、幕府がもはや日本全国を統治する正当な権力であることを否定するものでした。

また、将軍が二人存在する状態は、各地の武士守護大名にとって、どちらに従うべきかの混乱を生み、さらなる地方勢力の自立と下克上を促す結果となりました。

日野富子の行動は、結果的将軍権威を著しく損ない、室町幕府支配力を根本から揺るがし、戦国時代の混乱をさらに深める要因となりました。彼女自身経済的権益政治的な影響力を保持しようとした結果、幕府統治能力を自ら破壊してしまったと言えるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 07:56

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2025-06-17

信長が天下を取れた(取りかけて死んだ)理由とは、革新性とかそういうことではない。

信長が天下を取れた理由それは、、、

足利将軍家権威権力がとりかえしがつかないほど弱体化していた。

信長本拠地京都から近いこと。

この2つが主な要素で、革新性がどうとかそういうのはオマケみたいもんだ。

天下を取った人がたまたまそういう気質の人だった、、、というだけの話だ。

極端に言えば武田信玄のような「世代ひとつ古い守護大名」、

みたいな人でももっと京都に近く、

そして京都進出して入れば

武田信玄が天下を取っていた。

革新性なんて大名性向関係がない。

あの頃、みんな京都進出するのを嫌がっていた。

世代守護大名京都政界に足を取られているうちに

本拠地

身内の謀反や、

あるいはもっと下の階層から下剋上でとられて没落していくのを間近に見ているからだ。

毛利などは、まさしくそうやって鬼の居ぬ間に、、、てきに勢力を広げていったのだから

子どもたちに

絶対京都なんかと関わるな」

と言い聞かせるのも当然と言える。

ただ、その感覚は最早古かった。

京都進出しても一過性の権勢で、天下を取れるわけでもない、というのは

足利家の権威権力があれば、、、

という話なのだ

どれだけ権力を握っても、足利家が健在である限り、結局はいいように使われて

気がついたら京都から追い出されていた、、、

というようなことが起こる。

から、こそ京都と関わっても損をするだけだったのだ。

ところが時代は最早変わっていた。

三好松永などが無茶苦茶やりすぎて、将軍権力というものを完全に傀儡としてしまった。

これにより、天下はとれるもの、となったのだ。

もしも、将軍権力が十分に強ければ、信長過去守護大名同様に一時的京都で権勢を誇った大名の一人、となった可能性が高い。

信長に時は味方したのだ。

また彼は地の利もあった。

とにかく京都に近い。

強行軍であれば本拠地岐阜から1日足らずやってこれるのだから、これは強い。

本拠地を長く留守にして家臣に乗っ取られるなんて心配もない。

そして何かあればすぐに京都へと進駐できる。

どうだろうか。

かなりの説明下手とは思うが、信長革新性なんてほとんど関係がないことが。

信長革新性があったとしても、もっと地方に生まれていれば天下取りなど不可能だし、

信長のような革新性がなくても、京都進出する度胸と地の利があれば、そいつが天下を取っていた。

という、かなり当たり前の話だ。

なんでわざわざこんなことを書くかと言えば、信長はその革新性で天下を取ったんだ、という思い込みをする人があまりに多すぎるからだ。

それはどっちかというと、かなり天下を取った理由としては下の方に来る事柄なんだよ。

ということを知っておいて欲しくて、かなり単純化して書いた。

ツッコミどころは満載だけど、まあそれはご容赦の程を。

ややこしいこと書いて意味が通じないよりも

かなり単純化して意味が通じるほうをこの場合選択した思っていただきたい。

Permalink |記事への反応(0) | 22:38

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2025-06-12

最終的に淀君家康に敗れた理由は?

淀君茶々)が徳川家康に敗れた主な理由は、複合的な要因が絡み合っています

1. **豊臣家の弱体化と求心力の低下:**

*豊臣秀吉の死後、幼い秀頼を抱える豊臣家は、内部の結束が弱まっていました。特に秀吉恩顧の大名たちが家康に味方する者が多く、豊臣家には浪人しかまらなかったため、組織的な統制が取りにくかったと言われています

*秀吉正室である北政所(ねね)との役割分担が明確でなかったことも、豊臣家の結束力を弱める一因となったという見方もあります

2. **淀君と秀頼の「母子密着」と家康要求拒否:**

*淀君は、息子である秀頼を深く溺愛していました。家康が秀頼に対し臣従を求め、江戸下向や淀君人質としての江戸在住などを要求した際、淀君はこれを屈辱的と感じ、すべて拒否しました。この母子の強い絆と、家康要求を一切受け入れない姿勢が、両者の対立を決定的なものにし、大坂の陣への道を開いたとされています

3. **政治手腕の限界情報戦での不利:**

*淀君は、向こう気が強く、豊臣家を守るために矢面に立っていましたが、政治家としての資質は不足していたという評価もあります。有能な家臣が不足していたため、自身政治の表舞台に出るしかなく、その重圧は大きかったとされています

* また、家康は豊臣家を滅ぼすための周到な準備を進めており、方広寺鐘銘事件のような言いがかりをつけて豊臣家を挑発するなど、情報戦心理戦でも優位に立っていました。

4. **圧倒的な武力大名の支持:**

*徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握しており、多くの有力大名たちが家康に味方していました。対する豊臣方は、寄せ集めの浪人衆が主体であり、軍としての組織力や統制力に劣っていました。大坂の陣では、徳川方が圧倒的な武力で豊臣方を包囲し、最終的に大坂城落城しました。

これらの要因が複合的に作用し、淀君と秀頼は徳川家康に敗れ、豊臣家は滅亡することになりました。淀君が「悪女」として描かれることもありますが、彼女は愛する息子と豊臣家を守るために必死に戦った悲劇のヒロインと見る向きもあります

Permalink |記事への反応(0) | 12:23

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