
はてなキーワード:大きな物語とは
思考停止という名の麻酔を脳に打ち込みながら、無限に垂れ流される無意味な映像。
知らない誰かが知らない誰かの質問に答え、絵が踊り、猫が変な顔をする。
「動いてる何か」が次々に押し寄せてくる。
何かを得ようという欲すら奪われたこの快楽はもはや娯楽ですらない。
だがそもそも捨てる価値のある時間だったのか?と考えると自分の人生の無意味さを思い知らされる。
そのタイミングで次の動画が流れてくる。まるで監視されているみたいに完璧なタイミングで。
なんと巧妙な装置だろう。
思考を手放した人間を量産し、広告主の歓喜とともに世界は静かに回っていく。
中身のないものを見ているうちに、自分の中身も溶けてなくなっていく。
でも誰も困らない。むしろ誰かが儲かる。なんなら、ありがとうとさえ言われる。
もはやエンタメではなく、文明が産んだ合法的な知的安楽死装置だ。
バカバカしいほど中身がない。
でも見るしかない。
得体の知れないものがまとわりつき、他のことができなくなっている。
【特別対談】『Fate』奈須きのこ×『崩壊:スターレイル』シナリオライター焼鳥インタビュー:継承される人間讃歌と創作者の世代交代
電ファミって記事の下にはてブのブコメ一覧をずらーっと晒してるのか
個人的に印象的だったのは、那須きのこですら、この認識を持ってるってことだな
(前略)でも、それを『原神』はやってしまった。
それだけの規模で大きな物語や感動、充足感を与えるには、かなりの規模の人員と予算が必要です。現在では、一部のコンシューマーでさえ、それを達成するのは非常に難しい。
となると、とことんまでリッチなエンタメを見たかったらそれはAAAのソーシャルゲームでしか味わえなくなるのではないかと……まあ、もうみんな心のなかでは思ってるはずなんですけどね。それはハッキリ言うしかない。その世代交代がもう来ているんだと。
この「とことんまでリッチなエンタメを見たかったらそれはAAAのソーシャルゲームでしか味わえなくなる」というのは、当然「アニメ系カルチャーのエンタメ」に限った話ではあるよなと現状では思うけど
わたしも気持ち悪いなと思ったんだけど、それは元ネタになったのがアイドルだからではないんだ。
いや、ある意味ではアイドルだからなんだけど、おじさんが可愛い女の子に入れ込んでることそれ自体が気持ち悪いわけじゃない。
最近のアイドルの消費のされ方って、アイドルとファンの関係ありきで、外部に対して開かれたものではないし、それを志向してもいないでしょう。
言い換えれば、大きな物語の1ページに連なろうという意志に欠けている。
それが悪いことだと言うつもりはないし、アイドルに限らず現代社会はどんどんそっちの方向に向かっているけど、でも作品における参照先としてそういうプライベートなものを差し込んでほしくなかった、という気持ちになる。
せめて今まさに活動してるアイドルではなくて、活動停止して一定期間経って評価のある程度固まってるグループなんかにしてくれれば良かったんだけど。
だってガンダムって最初から割と群像劇じゃん?アムロの視点は多いけれど、作品そのものはホワイトベースクルーに時々当番回が回ってきて掘り下げられる作りで。
タイトルが機動戦士ガンダムじゃなくて機動戦艦ホワイトベースであったとしても大して違和感はないというか。
年長視聴者にはブライト、女性にはミライ、ちょっと捻くれたタイプにはカイ、自信の無い子にはハヤト、年少者にはカツレツキッカと、感情移入出来る対象を複数配置してるし。
別にアムロ一人が無双して済むような作風じゃないと思うので、ネットの風聞と実際に見た印象とにギャップがあった。
当のアムロ自身がニュータイプは戦争の道具じゃないと言っているのに、どうしてそうも道具としての適性を称揚するのだろうか。
最終回だって子供達の導きでホワイトベースに帰還して、アムロよりもさらに幼い子供達がニュータイプとしての高い能力を発揮する事を窺わせていると思う(Vのカルルマンも同様に赤子が強い理論)。
あと、アムロがどんなに強くても、大きな物語の中では一兵士にすぎない。
アムロを典型的な主人公として機能させるための導線としては、ガンダム開発者の息子である点と、プリンセス的な存在であるセイラとの関係があった。でもどちらも早期に打ち捨てられてしまう。
セイラをガンダムの手のひらに乗せた辺りでは、深く関わっていく予感もあったんだけどね。
セイラのお株を奪って割り込むのが、途中で出てくるララァというキャラクター。これって完成した物語に後からぶち込まれた異物に見える。ビジュアルも性格も浮いてて異様に強設定で、今だったらポリコレ対策で忖度したとかメアリー・スーとか騒がれてもおかしくない。
F91以降の後発作品ではプリンセス的なキャラを普通に主人公のヒロインに持ってきている例が多いから、そっちの方がやっぱり作りやすいんだろう。
まあとにかく群像劇だと思うんだよ。
それに対してシャアは敵地でたった一人、心を許せる者もなく孤軍奮闘している訳で。
必ずしも主人公贔屓ではない視聴者としてはついこっちに肩入れしたくなる。
シャアが素顔を見せたのが、2話のセイラ相手と最終話の死に行く兵士相手だけなのが良かったと思う。ネームドの誰かではなく無名の兵士。あの兵士の前で見せた表情は、これまでにも仮面の下で同じ表情をしていたのだろうと推察できる。
hib3 軽度のASDだけど、抽象的なことができないのにふわっとした羊羹投げられて具体化数値化する作業任されすぎてて鬱になった。仕事内容向いてなさすぎる
自分の場合、抽象的なことができないというわけじゃないと思う。
例えば、法律を調べるのは苦ではない。
その助成金の根拠法令の本文から施行令に飛ばされ、施行令から地方税法に飛ばされ、地方税法の本文から附則に飛ばされ、孫引きひ孫引きしながら、自分が助成金を貰えるかどうかを、源泉徴収票や証券会社からの年間取引報告書をもとに電卓を叩いたりした。
読み方がわからなかったら、それも調べて読む。
医師が予想したとおり、優秀に見られることが多いように思う。
(実際、自分でも平均以上だとは思っていた)
チームリーダーになって切り盛りしろとか、後輩の指導とか、そういうことができない。
いっそ、こっちが客とか、向こうが客というわかりやすい関係ならいいと思う。
こっちが客で要求する立場だったら、材料から方法からスケジュールまで全部指定して、できないところはできないといってくれればいい。
教える必要もない。わかるんだったら任せるし、わからないんだったら自分でやるだけだ。
向こうが客だったらその逆をすればいい。
指示にだけ従う。どんな難しい要求でも、個人の力量で出来ることだったら個人の力で解決する。
組織とは、1人1人の役割、1人1人の能力、1人1人の思いがつなぐ大きな物語なのだと思う。
有能な人はたくさんの仕事を、無能な人は無能なりの仕事をこなし、だからといって無能な人は無用化と言えば、そうではない。
1人1人の能力は数値化されていない。
また、あの人とこの人は不仲、あの部署とこの部署はライバル、競争や貸し借りがある。
無駄なように思えても、今に至る歴史があって、なるべくして今の形に落ち着いてる。
個々人の人間関係や組織の利害関係を考慮して仕事の再配分をすることができない。
刻一刻と変化する情報を汲み取り、柔軟に対応することができない。
いつも、自分にとってはベストを尽くしたつもりでいるが、おそらくいつも浮いているのだと思う。
犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走って、褒められると思ったところ、
「どうして犬を蹴飛ばした?」
「ちゃんと橋を渡れ」
「お前が走ってどうする」
「どうして裸なんだ?」
と叱られる。
(もちろん、これは誇張した例えではあるが、実際にそれに近い行動をしてとがめられている)
これまで、何度も転職したが、いつも突然にやめてしまっている。
今回は退職ではなく突然の休職ではあるけれども、似たような感じではある。
友人がいないわけではないが、友人とは結婚式などで会うだけで、交流は久しくない。
今回も、もう戻れないような気がする。
そして、40代の今、こんな形でやめたら、次は好待遇の仕事はない。
常に正社員だったのと、生来の倹約なのと、資産運用が上手くいったのとで、手取り年収の15倍くらいの蓄えがある。
運用が上手くいっても少し厳しいが、その前に親が死んで遺産が入るだろうし、近くのヤマトで仕分けのバイトでもすれば、無職でも生きていけないかなと目論んだりしてる。
「AKIRAの中身がない」と感じる理由についてもう少し考えてみよう
この肩透かし感はすごい
だが鉄雄と金田の物語としては普通に成り立っているし中身がないとはとても言えない
強いて言えば金田側の物語が足りない。これは漫画版も同じである。
金田にはなんの葛藤も成長もない。物語の主人公としては感情移入しにくい存在である。
それを持って中身がない、と感じることはあり得る。
金田のキャラクターを説明するには自分で言っている通り「健康優良不良少年」という言葉に尽きる。
この特異なキャラクター設定、不良のリーダーなのにお坊ちゃんヘアという奇妙なキャラクター造形
ができた時点で作者は満足し、それ以上金田を掘り下げるつもりがなかったのだろう。
漫画版の序盤で金田の幽霊みたいなものが突然現れる伏線らしき描写があるが、
この伏線回収が全くドラマに関わってこないことは大友がドラマを語る気が当初から全くなかった
なんか使えそうな伏線を配置しといたけど上手く活かせなかった、というだけの気もする。
だとするとやはり大きな物語を作る能力がそもそもないということになる。
しかしながら、漫画版はAKIRAが登場して東京をもう一度吹っ飛ばすシーンが白眉だ。
とんでもないカタストロフィを漫画の真ん中で起こす。カタストロフィ以前と以後の群像劇を同じだけのボリュームで描く。
たとえば、ロールプレイングゲームで、特定の村人NPCを殺したらアイテムを取得できると分かっている。そのアイテムはめんどくさいお使いクエストをやっても入手できる。RTA勢は手慣れた様子でそのNPCを殺している。
そんな時に、自分は物語内のルールに従って、または主人公の名誉のために、NPCを殺さない。
そんなことってあるだろ?
そういうプレイスタイル。誰も見てないけどそうする。二度目にやってもそうする。
誰にでもそういうのはある(たぶん)
確かに手持ちの株やビットコインは上がって儲かるけど、それよりも世界やアメリカ社会という大きな物語を信じて、ハリスに投票する。
そういう選択肢はあるし、それは偽善というのではなく、「そういうプレイスタイルだったから」。
たぶんそういうこと。
本当のオールタイムは選べなかったため平成に絞って俺もやる。テレビドラマは消えものでアーカイブされにくいジャンルで、時代をここ35年に絞ってみても網羅できないという問題はある。そのため、俺の観ていない重要作の話をどんどんしてほしい。1脚本家1作品に絞った。俺はテレビドラマは脚本家のものだと思っている。
トレンディドラマの代表作の1つにして、トレンディドラマの終末期の傑作。フジ「月9」枠の代表作でもある。「東京では誰もがラブストーリーの主人公になる」をキャッチコピーに掲げ、等身大の若者たちの姿を描き出した。2010年以降の坂元裕二の影響なども考えランクイン。
こちらもトレンディドラマの終末期の傑作であり、お世辞にも男前とは言えない武田鉄矢の叫びは、"トレンディ"の終わりを印象付けた。TBS『高校教師』でも、好きな野島作品に入れ替えてもらって構わない。90年代には確かに野島伸司の時代があった。
田村正和亡き今も、再放送され、パロディされ、やたら話題になる三谷幸喜のコメディ。ホームドラマや恋愛ドラマなど、会話による人間関係の機微などを守備範囲にしていたテレビドラマが、ストーリーのダイナミズムによる面白さにシフトしていったのは、アメリカのコメディから影響を受けた三谷幸喜の功績がある。個人的には『王様のレストラン』のほうが好み。
他のタイトルに合わせて脚本家をクレジットしたが、今作を選出したのは何といっても堤幸彦の出世作ということにすぎる。『ケイゾク』『池袋ウエストゲートパーク』につながる斬新な演出は一時代を築いた。「土曜グランド劇場」に旧ジャニーズの若手が主演していくのもこの頃からで、後の『透明人間』『ごくせん』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』などにつながっていく。
「テレビドラマ」というフォーマットを映画館に拡張した功罪ある作品。テレビドラマのメディアミックスの先駆けといえ、映画館はこれ以降テレビ局製作の作品であふれることとなった。『踊る大捜査線 THE MOVIE』は未だに実写の日本映画の歴代興行収入1位に燦然と輝いている。今秋新作が公開された。
21世紀最初の朝ドラ。シリーズ化され、現在も再放送されている。『ちゅらさん』が描いた疑似家族によるホームドラマはその後も『すいか』『11人もいる!』『逃げ恥』『カルテット』と平成ドラマの1つのパターンとなった。岡田惠和の功績は膨大な作品数の作品を書いていることで、彼がいなければこの時代のテレビドラマシーンは空洞化していたかもしれない。
クドカンは物語自体の面白さに注目されがちだが、彼の功績は、若者たちがダラダラ話すという「日常ドラマ」を描いて見せたことにある。彼の脚本は、小ネタやギャグがストーリーに連結してゆく。木更津という周縁の田舎の共同体の風景がドラマになるということは革命的出来事だった。大きな物語を失った後のゼロ年代的転換。
遊川が成し得た功績は『女王の教室』の真夜(天海祐希)のような強い、誇張されたキャラクターによるドラマを成立させたこと。それは後の『家政婦のミタ』の大ヒットにもつながった。彼の過剰な演出は賛否が分かれるが、常に時代と向きあい続けるための一つの方法論なのかもしれない。
2000年代後半に停滞していた朝ドラの復権は間違いなくこのドラマからで、この作品がなければ『あまちゃん』ブームもその後の『ごちそうさん』や『あさが来た』『ひよっこ』などの良作、令和の『カムカムエブリバディ』のヒットも存在していなかったと過言しておきたい。そういう意味でハッシュタグなどでのTwitterなどの賑わいにも一役買っている。朝ドラの復権は同時にその後のNHKドラマの復権を意味していた。
TBSドラマの復権ということでいうと後述の『JIN-仁-』を挙げてもよいのだが、その後池井戸潤ドラマの隆盛という意味でも半沢直樹を。いうまでもなく『VIVANT』へと繋がる日曜劇場の系譜である。主演の堺雅人は『リーガル・ハイ』や『真田丸』という傑作でも存在感を示した。
本当は問答無用に最重要作として今作を挙げたかったのだけど、視聴率や知名度を考えて日和ってしまった。今作は『ちゅらさん』で描かれた疑似家族によるドラマ、『木更津キャッツアイ』で書かれた日常のやり取りのドラマを深化させた。そこに大島弓子的ファンタジーをブレンドさせ、ドラマが物語る対象を変えてしまった傑作。
90年代と10年代の坂元裕二を別人とするなら10選にねじ込んでしまいたい。10年代の坂元裕二作品は、テレビドラマが扱えるダイアローグのレベルを一段上へと引き上げた。10話における瑛太と風間俊介の会話は他に代わるもののない名シーンだと思う。現在のドラマシーンは、坂元裕二のフォロワーで溢れている。
これだけトレンディドラマの話をしているのに、鎌田敏夫の名を漏らしてしまい、それは平成以前になってしまうので、それ以降から一作挙げるなら『29歳のクリスマス』を強く推したい。元祖『9ボーダー』。取り巻く環境は変わっても、年齢を巡る憂いは不変のものなんだと。
坂元裕二と並び、この時代の天才をもう1人挙げるなら、野沢尚を挙げてしまおう。野沢の深いキャラクター造形はその後の作品に影響を与えた。彼が存在し続けたら、この選も変わっていただろう。またキムタクドラマも1本を挙げていないというのも偏っている。それだけこの時代の彼の存在は異常だったのだ。挙げるならこの作品を挙げたい。
あるいは今作か。トレンディドラマと2000年代の間には間違いなく北川悦吏子の時代があった。北川悦吏子は近作が色々言われることもあるが、それは(例えばミスチルがそうであるように)強烈に時代と寝た人物にだけ得られる特権だ。そのため、俺は何があっても今後北川悦吏子を擁護し続けていきたいと思う。
この10選からは確実に存在していた深夜ドラマの文脈がごっそりと抜け落ちている。『孤独のグルメ』や『おっさんずラブ』に繋がっていくような深夜ドラマの系譜。『時効警察』はシティーボーイズの放送作家三木聡の最高傑作である。近年では主演だったオダギリジョーが謎の力でそのパロディをNHKドラマ⇒映画化までさせているが、盛大にスベっている。
一部では「朝ドラ史上最高傑作」の呼び声もある今作。戦争もの・女の一代記としての朝ドラ。岸和田の街に生まれ、生きて、老いて、死んでいく強いヒロイン。渡辺あやは強烈な作家性を朝ドラにおいて発揮させ、それはこれ以降の朝ドラの指針が転換される契機にもなったのかもしれない。(だからこそ『純と愛』などが生まれてしまったとも言える)
坂元裕二、岡田惠和、宮藤官九郎、遊川和彦、木皿泉、渡辺あやらの作品を挙げておいて、森下佳子の名前を出さないわけにはいかない。構成力という点で彼女の右に出る者はいないのではないだろうか。森下佳子の手にかかれば、物語における伏線は人生の因果に映り、プロットは運命へと変貌する。TBSドラマの復権のきっかけとしても、今作を挙げておきたい。
野木亜紀子を10選から漏らしてしまったのは痛恨の極みであるが、令和の選が今後もし出来るなら1番に入る人であるのでご容赦いただきたい。社会的テーマをポップにテレビドラマの次元で取り扱い、ヒットさせてしまったのは見事。野木亜紀子はもともと原作ものの実写化の手腕に定評があったが、『アンナチュラル』『MIU』とオリジナル作品もヒットさせている。
Permalink |記事への反応(20) | 09:34
大きな物語があれば、日常の小さな物語も何らかの意味を帯びてくるという、物語としてのありがちな構造が、人々に「大きな物語」を懇願させてしまっている。
つまり、ネットやら社会活動やらの大騒ぎは、物語(個別の物語でなく、物語という存在の全般だ)が扇動しているものだと言って良い。
日常のつまらない行動に意味を帯びさせるために、何らかの大きな行動に加わるというのは、物語による扇動効果でしかないのだと、いつ誰が気づくのだろうか。
そして、昔の物語は、そういった大きな行動はいつか破綻をきたすことを結末としてちゃんと提示していた。
現代の物語は、大きな物語と小さな物語という構造は維持しつつも、大きな物語の破綻が結末として描かれていない。
人々の、大きな物語に対する幻想を打ち砕かせていない。ただ、扇動するだけだ。
だから、現代の人々は大きな物語に耽溺し、その中で色々な過ちを犯し続けている。
つまり、インターネットやらに見られる大きな物語同士の抗争は、物語の構造改革によって抑制できるのではないか。
大きな物語を扇動した上で、その悲惨な結末を如実に感じさせる、そういった純粋な文学を描けば、抗争は治まるのではないか。
ある妄想を精緻に実現した上で、その論理の中で徹底的にダメ出しを行う、言うなら「行きて帰りし物語」的な構造の文学が求められているのではないのか。
人々を、日常の小さな物語を堅実に歩ませるために。突飛である大きな物語に、感染させないために。
最後の最後に「ここが俺のホームなんだよ」と紹介できるような場所。
もうどこにもない場所というわけでもなく、最初からどこにもないんだよ。
物心ついた辺りからずっとマンガとゲームばっかりでさ、リアルでの思い出が希薄なんだよ。
ふと思い出せる場所といえば、今はもう潰れたトイザらスのあったビルぐらいだ。
科学博物館みたいなのが併設されて、親がよく連れてってくれた。
コースの最後に食べるアイスが好きでさ、店の自家製だったのか外国から取り寄せてるのか、ちょっと変わった味がするんだ。
ある程度大きくなった後は一人でも行ったけど、下のゲームショップでデモ筐体を遊んでばかりいた気がする。
ビルは残ってるけどもうあの頃の店は全部潰れてる。
3階ぐらいの所に庭みたいな空間があってさ、実際には2階建て駐車場の屋上庭園なんだろうけど、そこにマックがあったんだけどさ、今そのビルに行くとポールだけが残っていて廃墟感が凄いんだわ。
まあそこも少しずつ店が戻ってきてるし、空いたスペースは都市開発失敗のケツモチなのか役所が事務所代わりに使ってるんだけどさ。
昔レストランがあった辺りに今はサバゲーショップが出来てたりして、なんかもう空気が違いすぎて行っても寂しくなるだけだからもうずっと行ってないし全然変わってるかも。
結構覚えてるじゃんって話なんだが、でも俺にとってここはホームって感じじゃないんだよ。
ホームにできそうだったけど寂れていくことを止められず、気づいたら思い出ごと追い出されてしまった場所なんだ。
新しい人生を再スタートするとき、最後の戦いを終えたあと、ここに帰ってきた所で俺はもう何も出来ないんだよ。
骨を埋める気にもなれないし、希望の未来に向かって階段を駆け上がろうとも思えない。
故郷の町のどこにもないんだな。
今日でプリパラ10周年らしいとXで知り、この10年間をプリパラに伴走してもらった元女児の一例として、振り返りを書き残したくなって、湯上がりにサーキューレーターにあたりながらしてみんとてするなり。
中くらいのお友だちだった放送開始当時、3DSのニコニコ動画で最新話無料配信をしていたプリパラを見ていた。その数年前にNHKで放送していたアニメ「日常」にハマったことをきっかけに、絵柄が好みな感じがするサムネのアニメをとりあえず片っ端から見るという数打ちゃ当たる戦法を取っていた中での出会いだった。
歌、ダンス、少し日常から離れた衣装(コーデ)、人と人の感情を描いた物語と、いろんな種類の好きなもの・関心が高いものがたくさん詰まっていて、週を追うごと目が離せなくなり、「来週のお話が楽しみ」な状態が続いた。
高校生になると買い与えられたスマホでニコニコを観るようになった。そして、Twitterに公式アカウントというものがあると知り、プリパラについての最新情報を得られるようになった。
ニコニコで視聴してるとライブ中のガヤみたいなのがいっぱいいてアニメを1.3倍くらい楽しめたし、Twitterで検索すると放送話の感想がたくさん見られた。でも現実の生活圏内にはプリパラを観ている人はおらず、「高校生から見てもこんなにおもしろいのにな〜」と自分だけが知る宝物を撫でながら、少し寂しく思っていた。
私が高校を卒業すると同時にプリパラは終わったが、家でも部活でもまあまあ大所帯の集団の中でいろんな人間とうまくやりながら生活していたので、中高の生活においてプリパラでの気づきが活かされることもあったし、反対にアニメに共感して悶えることや鼓舞されることも多々あった。元々の自分の思想に近い部分があったから、余計に沁みたということでもあるが、中でもプリパラが一貫して描いた「み〜んなトモダチ、み〜んなアイドル」「Ifriendyou」という心の持ち方は私の心に深く根付いたし、それを目指していいのだという励ましにもなった。そして、その心持ちのうえで、周りに迷惑をかけるようなことをするとシステムというなにやら大きな仕組みによってそれなりに罰されるのも好ましかったし、安心できた。
大学生になると、いろんな趣味の人がいた。これまで知らなかった世界に出会えておもしろかったし、手に入れた新しいメガネを通して再びプリパラを観るとまた違った見え方をするのもおもしろかった。
大学生は基本的に暇でおもしろいものに飢えているので、最近プリパラにハマったという人とも出会えた。3年目にコロナ禍となり人と会えない日々も続いたが、そのおかげでプリティーシリーズのライブが配信ライブになり、地方住みの交通費さえ惜しい貧乏大学生にもプリチケが届いた。近くのカラオケ店でパソコンが繋げられるらしいという話になり、プリパラを通して友達にもなれたトモダチと、一緒に配信ライブを観たり感想を話したり続編制作決定に泣いたりした。バイトしたお金で、幼い頃は指を咥えて眺めてるだけだったアーケードゲームもした。プリチャンのマイキャラはいつの間にか3人もいた。
高校も大学も学校選びはうまくいったので、非常に生きやすかった。それぞれが自分の中に大切なものを持っていて、他人に興味はあるが過度にありすぎず、どうしたら自分の人生がなるべくおもしろくなるか?に各々が向き合っていた。まるでプリパラみたいだった。
働き始めると、プリパラ的な心持ちが全く意味を持たない場面が増えた。私の人生に関係ある人の種類が一気に増え、へ〜この資本主義社会というやつは、いろんな気持ちで出勤してくる人がいるんだなと思った。
そんな中で、始まりそうで始まらないアドパラが少し始まり、プリパラについて考え直すきっかけができた。もう最後にアニメを観てから時間が経ってしまったので、細かいところは忘れてしまったけれど、プリパラの物語の大筋は4年間&アドパラのどれも、大きくてよくわからなくて理不尽なシステムに改善を求める物語だったように思う。
プリパラの登場人物に悪役はおらず、敵のように感じる人は、ただこちらとあちらで考え方が違うだけとして描かれていた。その違いで衝突が起きたり悲劇が起きたりもするが、それら含めた1年間の大きな物語は最終的に「でもこんなことが起きちゃうこの仕組みって、システムって、おかしいんじゃないか?」という気づきに繋がり、「え、やっぱおかしいよね」「変えた方がよくね?」とざわざわしだして、「みんなで変えちゃおうよ!」になる。これはちょうど今の、社会人ランクかけだし研究生の私に必要な励ましだった。
これから先、50年も100年も生きるかもしれないが、おかしいと思ったことにはおかしいだろと言い、1人でできないことは人を巻き込み、生きてる間はなるべく楽しく過ごす、そんな有象無象の中のある1人の"アイドル"に私はなりたい。森脇監督によると、プリパラは100年も1000年も続いてるらしいですからね。いつからでも目指せます。
きらら批判の常套句「中身がない」とは、「強い物語性ではない」ということであり、そのこと自体が作品として低劣ということにはならない。
ある作品で、登場人物が死ぬとすれば、制作者は悲劇として、感動的な演出を施すだろう。見る者は感動し、涙を流すかもしれない。
しかし、それはある意味では暴力を受けたことで流した涙ではないだろうか。
人が死ねば悲しいに決まっている。それが心からの感動と言えるだろうか。
感動とは、あからさまな演出によって生み出されるものとは限らない。
誰かが死ぬ必要もなく、あらゆる困難を必死で乗り越える必要もない。何らかの試合を勝ち上がる必要もない。
きらら作品は、何かを成し遂げなければ人間の価値はないという観念を否定した、真に人間を肯定した物語だった。
こうした物語を作るために、多くの漫画家は細心の注意を払ってキャラクターを創造する必要があった。
何気ない描写を気に入ることができれば、それだけできらら読者としての立派な作品鑑賞であり、感動だ。
確かにきらら作品に強い物語性のあるものは少なかった。しかしそれは悪ではない。単にそういう作品が好きか嫌いかという問題でしかない。
「中身がない」とは大味な物語に慣れた者の麻痺でしかないと言いたい。
ところで、近年のまんがタイムきららは組織レベルで、「中身がない」という意見を肯定し、批判を乗り越えたということを定説にしようとしている。
「「かわいい女の子が出てくるだけだ」「読めるレベルではない」などと、ネット上でたびたび批判されていた」
「そんなイメージを覆し、現在の「きらら」は読み応えのある漫画を連発するに至っている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/91bde76822f54bdad7f6fc68a5375aa384b2b494
漫画家・ヒロユキ、今だから話せる「きらら」黎明期と同人誌の制作秘話
――今では考えられないことですが、2010年前後までは「きらら」は漫画好きから蔑視されていた印象もありますよね
瀬古口:そうしたイメージを覆す作品を立ち上げたいと思っていました。
https://realsound.jp/book/2023/03/post-1277885.html
『ぼっち・ざ・ろっく!』担当編集・瀬古口拓也インタビュー 「4コマ雑誌「きらら」の固定観念を払拭する企画を出し続けてきた」
「中身がない」という固定観念を払拭した代表的作品として、公式が祭り上げたいのは『ぼっち・ざ・ろっく!』にほかならない。
『ぼっち・ざ・ろっく!』には確かに物語が(比較的)あるし、登場人物の成長だってある。それは確かに重要な要素だが、問題は他にもある。
『ぼっち・ざ・ろっく!』の作者・はまじあきと担当編集・瀬古口拓也は、近年インターネットにおいて当たり前の語彙となった、「陰キャ」という言葉を前面に押し出すことによって、多くの人の共感を集めることに成功したのだ。
何をもって「陽キャ」「陰キャ」であるかという議論を超えた、曖昧かつ乱暴な分類によって性格が評価されることに人は慣れすぎた。
今や「チー牛」「弱者男性」という言葉をいくらネット上で言い放っても、誰も怒らないし、誰にも怒られない。
これは「淫夢」や「ハセカラ」のような人権侵害コンテンツによって育まれた、感覚の麻痺と考えることができるが、ここではこれ以上語らない。
いついかなる局面においても物怖じすることなくいられる人間などまずいない。
誰もが自らの陰気な心を自覚しているために、「陰キャ」という言葉を捨て去ることができない。
こうしてインターネットを超えてメディアでも当たり前のように用いられるようになった「陰キャ」という語を、『ぼっち・ざ・ろっく!』は目ざとく早くに見つけた。
(もちろん「陰キャ」が純粋にネット由来の言葉であるとは言っていない。ただ十年前の「インターネッツ」において「陰キャ」という言葉が今ほどに使われていただろうか?)
まんがタイムきららは、確実に存在して容易に解消することのできない劣等感を獲得することで、「中身のある」ものになれた。
まんがタイムきららは「中身がない」から乗り越えたことを定説化しようとしている。それはかつてのきらら作品の否定だ。
現在のきららは、かつての遺産を裏返すことで生まれ変わろうとしている。
つまり「あのきららが今ではこんなに中身のあるものに変身している」ということだ。
ただしその手段が、「陰キャ」という借り物であり、上品とは言えないネットスラングの中から穏当なものを選んだに過ぎないものであることを忘れてはならない。
2010年代のきらら作品のアニメ化ラッシュは、いつしか昔のこととなっている。
もはやきららに中身がなかったという記憶すら、かつてのアニメ・漫画ファンにとっての認識として忘れ去られるのではないか。
例えば今(またはこれからの)中高生が、「昔のきららはつまらなかったが今では面白くなった」という認識を実感できる保証はあるだろうか。
まんがタイムきららは、雑誌という全体のレベルで大きな物語を作り上げていったわけではない。
あるいはこれからきららは新たな方向へ進み、さらなる成長を遂げることができるかもしれない。
ただしその体力はどれくらい残されているだろうか。
まんがタイムきららからアニメ化の発表が絶えてどれほどの時が経っているだろう。
今もまだアニメが放送されている『星屑テレパス』は、どれほどの脚光を浴びるだろう。
○ご飯
○調子
・はじめに
ダンガンロンパシリーズで有名な小高和剛さんが6年間作り続けてきたらしい完全新作ADV。
雨が降り止まない街カナイ区を舞台に、超常現象的な能力を持った超探偵達と様々な事件を解決していく。
ADVだがカロリーの高い作りになっていて、街を自由に歩き回ったり、3Dのキャラクタが演技をしたりと、ゲーム的な表現や映像的な表現も豊富に楽しめる。
あくまで主体は文章なので、じっくり文章を読みながら自分の中で咀嚼していくパートもしっかりある。
同社のAI:ソムニウムファイルシリーズでは3Dの演技が小慣れていないというか、演技で表現できないパートではカメラをキャラから外して文章に寄る表現で補足するような少し不自然なパートが多かったのだけど、レインコードは文章と演技をしっかり擦り合わせていて、そのような不自然なカットがなく、3Dのキャラクタの演技と文章の表現がしっかりと融合していた。
(念のため補足するとAI:ソムニウムファイルシリーズはライターの癖の強すぎるギャグパートがあまりにも多く、かつそれが本編といっさい関係がない上に、そのギャグシーン一回のためだけに3Dのモデルを作ったり、キャラに演技をさせるのがあまりにも大変すぎて、それが表現されたから別にプレイヤーが楽しめる訳でもないので、あれはあれで良いと思っています。Ever17から続くこめっちょパートのそもそもの是非は置いておくけども)
この文章と演技の融合はかなり力が入れられていて、2Dのイラストを豊富に使うのではなく、3Dのモデリングを豊富に使う方向へ進化したADVの形としてかなり満足度の高いボリュームもクオリティも抜群の素晴らしい出来だった。
・魅力的がすぎる超探偵達
ゲーム開始早々からこの贅沢なゲーム部分、それと超探偵達のキャラクタの魅力さが両輪となってレインコードは進んでいく。
超探偵とは現実離れした超常現象じみた能力を事件解決に活かす探偵たち。
主人公のユーマは彼らと協力しながら事件を解決していくのだけど、この超探偵たちが全員可愛いし格好いいしで最高。
この超探偵能力は事件を解決する前提として利用されるもので、それぞれの探偵達の能力はかなり早めに共有される。(公式サイトにも書いてある)
どのキャラもエピソードが進むごとに明らかになるネタバレ注意的な展開が多いため、あまり個々人の良かったシーンなどを詳細に感想を書くのはやめておく。
簡易に少しだけ紹介すると、時戻しという世界に干渉するチート級の能力者でありながら世間知らずで無知な様が可愛いフブキが僕は好きになった。
上述した通りカロリーの高い3Dモデルでの演技と、しっかり読み応えのある文章でキャラクタを本当に魅力的に表現してくれる。
捜査が本格的に始まるまでの僅かな時間でまずは超探偵との交流パートがあってから事件に挑むという構成になる。
この交流パート、それと捜査パートでの会話の応酬が短いながら過不足なくしっかりとキャラの魅力が伝わってくるものになっていて、この辺はダンガンロンパシリーズで出席簿会話のあの短さの中で瞬時にキャラを立てて、プレイヤーにキャラの魅力を伝えてきた小高さんらしさを強く感じた。
そこに加えて今作では3Dモデルの演技もキャラの魅力を引き立てていて、胸や太ももがムチムチな様が可愛いフブキが僕は好きになった。
この魅力的な超探偵達と力を合わせるからこそ、主人公二人も輝く良い循環が楽しめる。
記憶喪失で見習い探偵のユーマと、彼に取り憑いた人魂の幽霊死に神ちゃんのコンビが主人公となる。
超探偵達に負けない魅力があるのは勿論ながら、なんと言ってもこの二人の分かち難さが大好き。
ユーマは記憶喪失なため探偵としての能力は今ひとつ、死に神ちゃんは死神なので死体に関する捜査はお手のものながら探偵ではないので推理は苦手。
そんなわけで、凸凹というよりは凸凸とか凹凹のような割と似たもの同士のコンビ。
ユーマも突然人魂に取り憑かれているため彼女のことを信頼できるのか悩む上に、彼のことをご主人様と慕いつつも残酷に死神としての責務を真っ当する人間とは異なる倫理観の死に神ちゃんに振り回され続ける。
死に神ちゃんはユーマ以外とは会話もできないため、彼らのシーンは二人っきりが多いのだけど、本当に少しづつ距離が近づいていき、バディとして成長していく。
ミステリとは探偵役と助手役のイチャコラを楽しむ要素もあるけれど、この二人のそれは本当に分かち難く、二人が二人だからこそ、レインコードのオリジナリティを感じさせられるシーンがたくさんあった。
かなり複雑な設定なのでざっくり要してしまうと、発生した事件の謎を遊園地のようなアトラクション満載のミニゲーム集に具現化する能力。
容疑者や目撃者の証言を証拠を剣にして戦う推理デスマッチや、犯人の防衛する謎の城を巨大化した死に神ちゃんに乗って攻める大進撃死に神ちゃん、などかなり多くのミニゲームが遊べる。
正直、ここはかなり賛否が分かれると思う。
とても贅沢ななんだけど、ここのパートは正直その贅沢さが面白さに寄与していない。
それどころか、ロード時間が長すぎて不快に感じることも多かった。
おそらく遊んだ人誰もがツッコミを入れたくなる、謎迷宮という名の一本道をただ歩くパートはかなり虚無感がした。
事件の謎自体は魅力的だし、証拠や証言からトリックを暴いていく基礎の部分は面白いのだけれど、それをこうしてミニゲームで遊ぶのはちょっと違うかもだなあ。
ミニゲームが本当にミニゲームになっていて、謎解きやってる感が薄いシステムが多いのも、良くない点。
それぞれの事件の謎を解き明かす解決パートになるのだから、もう少し自分が謎を解いている感覚を楽しませて欲しかったなあ。
この謎迷宮でそれぞれの事件を解決しても、あくまで犯人とそのトリックを主人公のユーマが理解するだけで、死に神ちゃんと二人で議論していただけのように思えてしまうのもしっくりこなかった。
とはいえ、事件の謎を理解することで、もっと大きな物語が見えてくる構成は面白かった。
謎迷宮のその先にも謎がある。
・カナイ区の物語
幾つかの事件を解決していくと、徐々に縦の筋となる今作の舞台カナイ区に潜む謎が見えてくる。
街そのものに潜む特大の謎解きはかなり衝撃的で痺れる熱い展開が待っている。
その展開そのものについても感想を書きたいが、流石にまだ発売一週間でそこまでネタバレを書くのもどうかと思う。
なので、少し目線を変えて、何故僕がこの謎解きをこんなにも魅力的に感じられたのかを書きたい。
それはレインコードが3Dのマップを探索しながらお使いイベントをこなすサブストーリーも楽しめるゲームだったことが大きく寄与している。
舞台となるナカイ区はずっと雨が降り続けている奇妙な街で、そこを大企業のアマテラス社が一方的かつ暴力的に支配している。
アマテラス社に近しい人間は理想的な生活を送っているが、彼らに反抗的な態度をとっていると乱暴なことをされてしまう。
そんなカナイ区を自由に探索できるのだけど、ここの作り込むが本当にすごい。
ただ町並みが作り込まれているだけじゃなく、依頼というサブイベントを通じて、カナイ区とそこに住む無辜の人々を好きになっていく。
ここにも短いテキストでキャラの魅力を伝える小高さんの特徴が生かされている。
勿論、超探偵達とコンビを組んで挑む本丸のメインストーリーからもこのカナイ区のエピソードはいっぱいあるのだけれど、サブイベントを遊ぶことでより一層カナイ区を好きになれた。
僕は全てのサブイベントをこなしてからクリアしたのだけれど、これは大正解だったな。
クリア後にまとめて遊ぶとダレるし、何よりカナイ区にまつわる謎解きに際にきっと悩まなかったと思う。
今作のテーマを十分に楽しむためには、舞台となるカナイ区を好きになれた方が良かったんだろう。
そんなわけで、謎迷宮以外は褒め続けているレインコードの感想だけど、一番楽しめたのは今作のテーマ。
引用でなく自分の言葉で書くと「探偵が真実を暴くことの是非を問う」がテーマだと僕は感じた。
今作の事件はどれもトリックや犯人を暴いたその先にまだ物語が残っている。
動機と言ってしまうと十分じゃなくて、本格ミステリでいうホワッツダニットもののような展開だ。
この謎解きの先を用意している展開、そして探偵をもその謎解きに組み込むような自己言及的な自覚のある展開。
それを個々の事件を通じて学んでいく、最終的に大きな縦の線となって問いかけられる。
探偵が真実を暴いても良いのか? 真実にどれほどの意味があるのかを。
超探偵という超常現象を用いてまで謎を解かなければいけないのか、ユーマは何故記憶を失い死に神に取り憑かれているのか、謎迷宮では本当に謎を解けているのか、そもそもナカイ区の人々は真実を求めているのか。
今作の魅力的な部分が全てこの一点に集約されていく。
そして、ユーマと死に神ちゃんのバディが二人だからこそ辿り着ける結輪。
・さいごに
探偵とは? を問い続けることで、二人の主人公が出した結論を尊く思い、レインコード終わらないでくれ、もっと遊びたい、俺はカナイ区に住む、ユーマと死に神ちゃんをずっと見ていたい。
そんな読者として色々な気持ちをいっぱい感じることができた本当に楽しいゲームだった。
続編がもしあるなら、ユーマと死に神ちゃんとまた会える日を楽しみにしている。
私が読みたいのは、大きな物語というか、今までに見たことのない驚きのある結論を持つ物語であり、
SFというジャンルが好きなのも、物語のフレームとして、そうした驚きある結論へのシラバスとなりやすいからというだけ。
だから、そこに登場する仰々しいギミックには、そうした結論への素材以上の興味が持てない。
それは、大きな定理を導く一過程にしか過ぎず、その導出の自然さに納得したら、あとは忘れてしまうようなもの。
だから、数学書はなるべく短い方が読みやすいように、SFも「オッカムの剃刀」的に、ギミックは少ない方がむしろ好み。
同じ結論をもたらす物語なら、ギミックが少ない物語の方が読みやすいわけであり、個人的には素晴らしいSFだと感じる。
あと、キャラクターについてもそう。
大きな物語のためなら、別にキャラクターはどんな目に合っても構わないと思っている。
(それは逆に、物語にコミットしないキャラクターの悲哀は描かない方がよいと個人的には思っている、ということでもある。)
キャラクターは、驚きある結論に仕える舞台装置としか思えないので、先の仰々しいギミックと同じ意味で、興味が持てない。
ギミックもキャラクターも、面白い物語を成立させるための具材でしかないと、個人的には思ってしまう。
それゆえ、自分でもこうして、増田などに自分で考えた文章を多々投じているのだが、毎回、ギミックやキャラクターが無い文章を書いているなぁと思う。
ただ、それでもある程度はブックマークしてもらえるので、そこを見直そうという意欲は薄いのだが、
そこを押さえたら、もっと幅広い人に読んでもらえる文章になるんだろうなとは思う。
なので、今年はギミックやキャラクターに舞台装置以上の興味(好奇心や愛情というのか)を持って、文章を読んでいきたい今日このごろ。
いつかは、こういう散文でなく、流れある小説を書いてみたいと思うので、そういうところも押さえいくようにしたい。
んで、大抵の場合、【差別とは社会に存在する構造的なものを指す】と切断する
だから、オタクを偏見から犯罪者予備軍と切って捨てても、それは差別ではないし、悪い事でもないが
被差別者を偏見から犯罪者予備軍と切って捨てる事は許されざる巨悪となる、差別だからね
みたいな事を平気で言う
結果生み出されるのは
・ご飯論法
みたいな定義で
「僕の事は問題にするな、大きな物語を話しているのだ、話を逸らすな」と自分に目をつぶる
BLMともなれば、その暴動は抑圧の反動、致し方ない犠牲と被害報告した人を晒上げ
ルッキズムに反対し、女の若さやスタイル、胸の大きさで評価されることを唾棄しながら
イケメンを消費しキモオタが「外見によって」嫌われるのをヨシとし
好きに選べ