
はてなキーワード:多義とは
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本来の蛙化現象とは「相手が好意を持った途端、その相手に対して嫌悪感を抱いてしまう心理現象」を指しますが、近年では「好きな人の些細な言動に幻滅する」という意味で使われることも多く、若者の間で新しい意味が定着しています。
本来の「蛙化現象」の意味
概要:恋愛において、片思いの相手が自分に好意を持っていることがわかった途端、それまでの好意が冷めて嫌悪感に変わる心理現象です。
由来:心理学者の藤沢伸介氏が提唱した言葉で、グリム童話の「カエルの王様」にちなんで名付けられました。
具体例:ずっと好きだった相手が振り向いてくれたことで、生理的な嫌悪感を抱いてしまうケースなどがあります。
若者の間での「蛙化現象」の意味合い
概要:若者の間では、「好きな人の些細な言動や仕草で突然気持ちが冷めてしまう」という意味で使われることが多いです。
「なんか冷めた」の6文字ですむ概念を、わざわざ複雑な言葉使ってそれっぽく頭良く話してる風にしてる感じが馬鹿くさい
偏差値45とかの人がつかってそう
“カエル”が元来の「王子が蛙に見える」の反転や嫌悪喚起の象徴として使われ、恋愛嫌悪、自己嫌悪、暴露後の認知変容など複数の解釈が混在しやすい(対象=カエルに機序が埋まっていない)。
現象の根本因(理想化の崩壊、親密化に伴う嫌悪感、投射の剥落、恐れの防衛など)が「カエル化」という定義文に入らず、結果(冷める)のみをラベル化してしまい、学術的枠組み(例:脱錯覚、親密性回避、嫌悪感感受性)に結び付きにくい。
“カエルとはなんの象徴か"を定義化するための判定基準が合意されておらず、キャッチ―さだけでSNS流通で意味が拡散・変質しやすい。
グリム童話では、姫の嫌悪の源泉は外見的容姿の違いによるのに対し、本ミームでは「相手の行動」が嫌悪のトリガーとなっているのも設計の精密さに欠ける。
良い名詞比喩は「構造の写像(図解可能)」を提供するのに対し、カエル化現象は「前提となるグリム童話と連動しない」「主観的・情緒的な印象メタファー」に留まり、原因機序と再現条件が弱いため定義が揺れやすい。
Permalink |記事への反応(16) | 19:25
ワイ:
A:「男性は」「女性は」じゃなくて「俺は」「私は」じゃないの?
臆病者なの?
Claude Sonnet 4:
この会話のユーモアは、AさんとBさんの認識のズレから生まれる「すれ違いコメディ」にあります。
Aさんの視点:
何かの議論で「男性は〜」「女性は〜」という一般論的な発言を問題視している
「なぜ『俺は』『私は』と個人の経験として話さないのか?」と批判
一般化を避けて個人の体験を語るべきだという、おそらく真面目な主張
Bさんの視点:
性別と名前が逆の場合もあるという、現実的な困りごととして受け取っている
完全なコミュニケーション不全 - Aさんは社会問題について語っているのに、Bさんは人名の話だと思っている
Bさんの天然ボケ感 - 真面目に「たまに性別と逆だったりするから困る」と実用的な悩みを語っているところ
読み手の二重理解 - 両方の解釈が同時に見えることで生まれる認知的なギャップの面白さ
典型的な「ボケ・ツッコミ」構造で、Aさんの真面目な問題提起が、Bさんの予想外の解釈によって完全に別の次元に飛んでしまった瞬間の可笑しさですね。
ChatGPT 5 Thinking
おもしろさは「真面目な議論を、言葉の取り違えで一瞬でズラす」ズルさにあります。ポイントをサクッと👇
Aは「“男性は/女性は”って一般化やめて、“俺は/私は”と言え」と道徳的に詰めています。
そこへBは「女性、男性って“名前”だろ」と、カテゴリ名詞(性別)を固有名詞(人名)に読み替える大胆な勘違いボケを投入。議題が一気に崩れます。
日本語の「Xは〜」は、人名でもカテゴリーでも成り立つ(「田中は…」「学生は…」)。
Bはこの曖昧さを利用して、「男性は」を「男性さんは」という固有名の話し出しに偽装。文法上は通るけど意味が破綻してるのが笑いどころ。
「山田女性/田中男性」なんてまず存在しない名指しを平然と挙げることで、「そんな名前あるか!」という読者の内的ツッコミを誘発。王道の漫才構造(ボケ→ツッコミ)を読む側に委ねています。
「たまに性別と逆だったりするから困る」で、名前と性別が噛み合わない“現実っぽい”困りごとに見せかけて、勘違いをさらに重ねるメタボケ。意味不明さを理屈で正当化しようとするズルさが可笑しい。
シリアスの無力化
Aの「臆病者なの?」という圧の強い非難を、Bは言葉遊びで無効化。SNSでありがちな“ジェンダー一般論”批判を、文字面ジョークに落としてしまう脱力度がオチになっています。
まとめると、
「性別カテゴリー」を「人名」に読み替える言葉遊び+「は」の曖昧さを利用した勘違いボケで、重めの主張を一瞬でコントにする構図──ここがおもしろポイントです。
Grok:
この会話のおもしろポイントを以下に解説します。Aの発言の誤解と突っ込み
Aは「男性は」「女性は」という一般化された主語に対して、「なんで『俺は』『私は』って一人称で言わないの?」と突っ込んでいます。この発言は、話し手が自分の意見や立場を直接的に表現せず、性別という曖昧なカテゴリーで語ることを「臆病」と揶揄している点がユーモラスです。「臆病者なの?」という挑発的な締めが、軽い毒っ気を含んでいて笑いを誘います。Aの発言は、ステレオタイプな言い回しに対する皮肉とも取れ、日常会話でよくある「一般論」を装った発言を突く鋭さがおもしろさのポイントです。
Bの意図的な「ズレた回答」
BはAの質問を真面目に受け取らず、「女性」「男性」を名字(山田や田中)として解釈するという、意図的にズレた回答をしています。この「すれ違い」がコメディの定石で、Aの真剣(または皮肉)な問いかけに対して、Bがまるで話の文脈を無視したような返しをすることで、予想外の展開が生まれます。特に「山田女性」「田中男性」という具体例が、あり得ないシチュエーションを想像させ、ナンセンスなユーモアを引き出しています。
Bの「たまに性別と逆だったりするから困る」という一文が、さらなる笑いのポイントです。これは、名前と性別が一致しない場合(例:女性なのに「男性」という名字)の混乱を冗談めかして表現しており、日常のちょっとした矛盾や混乱を誇張したユーモアになっています。この一言で、Bの回答が単なるボケではなく、どこか現実の「名前のジェンダーニュートラル」な話題に軽く触れているようにも見え、軽妙な深みを与えています。
全体のユーモアの構造 Aの鋭いツッコミ(一般論を避ける臆病さへの皮肉)と、Bの意図的なボケ(名前として解釈するズレ)が組み合わさり、会話のテンポ感と意外性が笑いを生む。
Bの最後の「困る」という締めが、日常の小さな不条理をユーモラスに表現し、共感を誘いつつ笑いを増幅。
この会話は、言葉のすれ違いと軽い皮肉、そしてナンセンスな発想が絡み合った、短いながらもキレの良いユーモアになっています!
Gemini 2.5 Pro:
この会話の面白さは、Aさんの真面目な問題提起を、Bさんが全く予想外の解釈で返し、論点を豪快にすり替えている点にあります。
Aさんは、「『男性は』『女性は』と大きな主語で語ることで、自分の意見としての責任を回避しているのではないか?」という、ネットの議論などでもよく見られる鋭い指摘をしています。「臆病者なの?」という言葉からは、Aさんの真剣さや少し苛立っている様子がうかがえます。
しかしBさんは、この社会的なコミュニケーション論を完全に無視し、「女性」「男性」という言葉を性別ではなく、まさかの「人の名前」として解釈します。これにより、Aさんの問題提起は一瞬で無力化され、全く別のシュールな世界へと話が飛躍します。
Bさんは「女性、男性って名前だろ」と主張するだけでなく、「山田女性(やまだ めい、あるいは じょせい)」「田中男性(たなかおとこ、あるいは だんせい)」という、ありそうでない絶妙な具体例を提示します。この固有名詞が出てくることで、Bさんの突拍子もない解釈に奇妙な説得力が生まれ、聞き手は思わず笑ってしまいます。
Bさんの面白さはここで終わりません。「たまに性別と逆だったりするから困る」と付け加えることで、そのシュールな世界観をさらに発展させています。
「田中男性くん」が実は女の子だったり、「山田女性さん」が男の子だったりする状況を想像させ、面白さを増幅させています。
「困る」という言葉に、まるでそれが日常でよくある悩みであるかのようなリアリティが生まれ、会話の可笑しさを際立たせています。
まとめ
この会話は、Aさんの真剣で熱意のある「フリ」に対して、Bさんが見事な発想の転換で「ボケ」を返すという、お笑いの構造になっています。深刻な話を一瞬で笑いに変える、Bさんの斜め上の発想力がこの会話の面白さの核心と言えるでしょう。
ClaudeとGrokがFamilynameとGivennameを間違えてるな🤔
経歴
ルー・リード(1942-2013)は、ロックミュージシャン(シンガーソングライター、ギタリスト)。
ニューヨーク郊外で会計士を営む実家に生まれ、シラキュース大学では英米文学を専攻し、伝説的な作家デルモア・シュワルツに師事しながら、ギターを持ち、B級レコード会社のために流行にのったヒットソングのパクリのような曲を提供していた。
この頃、同性愛(極度のホームシックによる鬱症状という説もある)治療のために家族の手配で電気ショック治療を受けさせられる。
1964年に伝説のロックバンド「ヴェルヴェットアンダーグラウンド」のメンバーとしてデビューし、ショッキングな歌詞と前衛的な演奏でカルト的人気を博した。
1970年代にはソロに転じ、前半はデヴィッドボウイのプロデュースした「トランスフォーマー」で、グラムロックの代表的ミュージシャンとして活躍した。お笑い芸人「HG」のルックスはこの時期の彼に影響を受けている。
徐々に黒人音楽に傾倒し70年代後半はドンチェリーらと組んでフリージャズとファンク、ラップのような歌が合体した奇妙な作品を出し、軽い混迷期に入った。
80年代以降はシンプルな4ピース(ギター×2,ベース、ドラム)の骨太の演奏に語りのようなモノトーンな歌い方を乗せる方法論が定着し、「ブルーマスク」「ニューヨーク」などとっつきづらいがくせになる名盤を作った。
その後セールスは低迷し、本人も70年代後半のような実験的・音響的な方向に傾倒し、2000年代中盤以降新作はリリースされず、2011年に突然、スラッシュメタルの大御所メタリカと共作アルバム「ルル」を作ったが、長尺でラフな演奏にメロディがほとんどない歌声が乗る(しかも一曲が長い)作品は、特にメタリカのファンから酷評された。2013年に肝臓癌で死去。
作品紹介
この詩集は生前に発表された唯一の詩集(多分)で、彼の歌詞と、雑誌に発表した詩・記事からなる。
詩の魅力
ボブディランのような多義性・はぐらかしや、レナードコーエンのような崇高さとは異なり、ルー・リードの歌詞は明確、即物的・客観的で、感情を乗せない、観察者的な視点が特徴である。言葉遊びも少ない。
テーマはショッキングなものが多いが、それが詩の構造・精神にまで侵食せず、あくまで象徴として機能しているのが魅力で、それゆえ、声を張らなくても、メロディを工夫しなくても(楽曲のほとんどが2~3コードで作られている)、演奏を盛り上げなくても、聞き手に迫る。
薬物
代表作「ヘロイン」は文字通りヘロインについて歌った作品であり
「ヘロイン/ぼくの死であれ/ヘロイン/ぼくの女房でぼくの人生」
と、その表現は率直で容赦ない。
ただ、ヘロイン自体の直接的・具体的な描写はなく、これは読み手(聞き手)には、自分が愛着をもち、人生の代替となる「何か」と置き換え可能な普遍性を持つ。
「ぼくは彼女がスコットランドの女王メリーだと思った/ものすごく努力したのに/まったくの勘違いだとわかっただけ」
と、ここだけ読むと幼稚なほどロマンチックな失恋の歌なのだが、最後に
と突然血なまぐさくなる。
一見強面・ハードな印象のある作者だが、薬物以外に拘りがあるのが「家族」で、例えば、
「おふくろに恋人ができた」という歌は、
「おふくろに恋人ができた/昨日やつに会ってきた/おふくろが新しい人生の1ページを始める/やつとの関係が早く終わってほしい」
「妹へ」という歌は
「元気が無いって自分でもわかっている/このところ調子が良くないからな/でも信じてくれ/ぜんぶおれのせいだ/おれはずっと自分の可愛い妹を愛してきた」
とストレートな愛情を歌っている(妻を歌うときにこのような率直さはない)。
79年のアルバム「ザ・ベルズ」は控えめに言っても駄作だが、最終2曲が秀逸で、
「おれは家業なんていらない/あんたが死んだってそんなもの継ぎたくない」
「パパ/こうやって訪ねたのは間違いだった」
と歌う「家族」(ルー・リードは父親を憎む発言を繰り返し、生前最後のインタビューでも「親父はオレにそんなクソ(注:ギターのこと)はよこさなかった」で締めた。)
に続き、
「宙を舞い/体をつなぎとめるものもなく/宙を舞い/膝から地面に落ちた時/パラシュートなしで公演するのは/あまりかっこ良いものではなかった」
と夜のブロードウェイでの飛び降り自殺を描く「鐘(The Bells)」で終える。
好きな理由
露悪的ではあるが、情緒に頼るところはなく、自分のことを歌っているようでもどこか第三者的な目線を感じる。その透徹したところが魅力で、苦しさややるせなさを抱えていても、読むと「ふわっと」自分から離れられる不思議な癒やしが感じられる。
自分の気持ちを抑えられないほど悲しいときや辛いときに読むと、不思議な浄化作用を得られる。
自分が好きな歌詞は、本当に悪趣味なのだが、「黒人になりたい」という歌で、
「黒人になりたい/ナチュラル・リズムを身につけて/6メートル先まで精液をとばし/ユダヤ人のやつらを痛めつけてやる」
という、人によっては噴飯ものの歌詞だが、リズムの良さと話題の飛躍に、どこか英雄に憧れるおとぎ話めいたユーモアがある。
そして、ルー・リードがユダヤ系アメリカ人であることを念頭に置くと(そして、本人がそのことを歌で一切明かさないことを含めると)、この人の自虐性とユーモア、という側面も見えてくる。
読み手/聞き手によって評価は異なるが、自分にとっては、「毒」を浄化してくれる「毒」(=解毒剤)だと思います。
以上
参考資料
(書影)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309257501/
(楽曲)
(heroin)
https://www.youtube.com/watch?v=yN-EZW0Plsg
https://www.youtube.com/watch?v=mEuShdchzkk
(families)
https://www.youtube.com/watch?v=JXbu4z2kc6s
(I wanna be black)
https://www.youtube.com/watch?v=H-ksg_ZVn8s
(sad song)
https://www.youtube.com/watch?v=QG_ooIR0DTY
https://www.youtube.com/watch?v=ZbOG-2ahx4w
(the bells)
Q.
ある政治家が対立する政治家について「(内面も)醜く奇妙な生き物」と評価したことが議論を呼んでいます。発言した政治家は「外見のことを言ったのではない。行動が醜く奇妙だと評価しており、政治家への批判として妥当な表現だ」と補足したのですが、この主張についてどう思いますか?
A.
この政治家の発言とそれに伴う主張について、いくつかの観点から考察します。発言そのものの問題点まず、「醜く奇妙な生き物」という表現自体が、たとえ内面を指していると弁明したとしても、多くの問題を含んでいます。非人間化(Dehumanization)のリスク:相手を「生き物」と表現することは、相手から人間性を剥奪し、議論の対象ではなく破壊や排斥の対象と見なす非人間化のレトリックに繋がりかねません。これは、健全な民主主義の基盤である、相手を対等な議論のパートナーとして尊重する姿勢とは相容れないものです。歴史上、このような言葉が深刻な対立や暴力を助長した例は少なくありません。言葉の多義性と意図: 「醜い」という言葉は、外見と内面の両方を指しうる多義的な言葉です。発言者が「内面のことだ」と限定しても、聞き手が外見への侮辱と受け取る可能性を排除できません。特に「(内面も)」という補足は、「外見が醜いのは当然として、内面もそうだ」という含意だと解釈される余地を大きく残しています。本当に内面だけを批判したいのであれば、誤解を招くこのような表現を避けるべきでした。「政治家への批判として妥当」という主張について次に、発言者が「政治家への批判として妥当な表現だ」と主張している点について考察します。批判の自由と品位:民主主義社会において、政治家の行動、政策、資質に対する厳しい批判は、国民の知る権利に応えるものであり、広く認められるべきです。しかし、その批判が単なる人格攻撃や罵詈雑言に終始する場合、それは建設的な議論とは言えません。公人である政治家には、その影響力の大きさに鑑み、一定の品位と節度が求められます。議論の質の低下: このような感情的で侮蔑的な表現は、政策や理念といった本来議論されるべき本質から人々の目をそらし、不毛な人格攻撃の応酬に終始させる危険性があります。これは、政治不信を助長し、社会全体の議論の質を低下させることに繋がります。結論として発言者が「内面の行動を評価したものだ」と主張したとしても、「醜く奇妙な生き物」という表現は、以下の理由から政治家への批判として妥当とは言いがたいと考えられます。相手の人間性を否定する表現であり、健全な議論の前提を破壊する危険性があること。外見への侮辱と受け取られる可能性が極めて高く、意図がどうであれ、結果として人格攻撃になっていること。建設的な政策論争を阻害し、社会に不必要な分断や対立を煽る可能性があること。政治家への批判は、その行動や政策に対して、具体的かつ論理的に行うべきです。今回の表現は、たとえ発言者にそのつもりがなかったとしても、表現の選択として著しく不適切であり、批判の妥当性を大きく損なうものと言えるでしょう。
錯視図形は、私たちの目がとらえた情報が、脳で処理される過程で誤った解釈をされることで生じる「目の錯覚」です。私たちは普段、外界をそのまま見ているつもりでいますが、実際には脳が過去の経験や知識に基づいて情報を補完・推測しているため、そこにズレが生じることがあります。
###錯視図形の種類
錯視図形には様々な種類がありますが、代表的なものをいくつかご紹介します。
私たちが錯視であることにすぐに気づかないのは、私たちの脳が外界の情報を効率的に処理するための「情報処理の近道」や「無意識の補完」を行っているためです。
1. **情報処理の省略と推測:**私たちの脳は、常に膨大な視覚情報を取り込んでいます。その全てを詳細に分析していては時間がかかりすぎるため、脳は過去の経験や知識、文脈などに基づいて情報を推測し、不足している部分を補完しようとします。錯視は、この「推測」が現実とズレることで生じます。例えば、ポンゾ錯視では、遠近感の cues (手がかり) に基づいて、遠くにあるように見える線は実際には長いものだと脳が自動的に判断してしまうため、同じ長さの線でも異なって見えてしまうのです。
2. **恒常性(Constancy)の働き:**私たちの脳には、物の大きさ、形、色などが、見る角度や照明条件が変わっても同じものであると認識しようとする「恒常性」という働きがあります。例えば、離れたところにある自動車も、近くにある自動車も、網膜に映る大きさは異なりますが、脳は同じ大きさの自動車であると認識します。錯視の中には、この恒常性の働きが、図形の文脈によって誤作動を起こすことで生じるものがあります。
3. **視覚の曖昧性の解消:**私たちの目に映る網膜像は二次元の平面像ですが、脳はそこから三次元の空間を再構築しようとします。このとき、二次元像には複数の三次元解釈が可能である場合があります。脳は最もらしい解釈を選び出すため、例えば不可能図形のように、実際には存在しない形であっても、特定の視点からは立体的に見えてしまうことがあります。これは、脳が二次元の図形を三次元で「あり得る形」として解釈しようとするためです。
4. **脳の神経細胞の特性:**運動錯視などは、脳の視覚野にある特定の神経細胞の活動パターンや、処理速度の違いによって生じることが示唆されています。例えば、「蛇の回転」のような錯視は、輝度(明るさ)のコントラストが異なる部分の脳内処理速度に差があるため、静止画にもかかわらず、その差が連続的な動きとして知覚されると考えられています。
このように、錯視は私たちの視覚システムが、複雑な外界を効率的かつ合理的に解釈しようとする過程で生じる、一種の「バグ」のようなものです。しかし、それは決して不完全なシステムを意味するのではなく、むしろ外界を迅速かつ適切に認識するための、脳の高度な情報処理能力の表れとも言えるでしょう。私たちは錯視を体験することで、いかに脳が世界を「解釈」しているかを知ることができます。
言語行為は、その発話意図により、社会的・論理的な権威を帯びる。
特に「真面目な言説」は、現実世界の意味秩序において、定義・規範・命令・説明などの構造を担う「主権的発話」に位置付けられる。
ここでいう真面目さとは、発話が以下の性質を持つことを意味する。
ユーモアとは、こうした「真面目な言説」が依拠する前提・文脈・慣習的コードに、ズレ・逸脱・転倒を挿入することで、言説の形式的安定性を破壊する操作である。
「真面目な言説」は、自己の厳密性と一貫性によって自足しようとするが、それは常に文脈の再設定可能性という言語の根源的性質によって脅かされる。
ユーモアとは、この再文脈化の操作を戦略的に行うことで、「権威的発話」を言語的パフォーマンスに過ぎないものとして再配置する。
つまり、ユーモアは、意味生成を構造ではなく行為として露呈させる。
真面目な言説は、語の意味が安定しており、記号と指示対象が忠実に対応しているという「記号的本質主義」に依拠する。
これにより、記号の運動そのものが目的化され、発話の内容が意味から戯れへと転位する。この転位こそが「真面目な言説」の無力化である。
社会的には、真面目な言説はしばしば役割語によって支えられる。
医師、学者、政治家などの「制度化された話者」は、定型的な語彙・文体・構文を通じて、自らの発話に権威性を付与する。
ユーモアは、そのような言説の語りのスタイル自体を模倣・誇張・逸脱することにより、「様式の模写による中身の空洞化」を行う。
その結果、発話者の主体性は固定的な役割ではなく、「演技可能な構造」へと引きずり下ろされる。
ユーモアとは言語の「自己脱構築的ポテンシャル」にアクセスする行為であり、言説の内在的権威性を露呈・滑稽化する、言語そのものによる言語批判である。
真面目な言説は意味の秩序を確立しようとするが、ユーモアはその秩序がいかに恣意的・演出的・再配置可能であるかを暴露し、言語の深層にある「意味の不確定性」へと立ち返らせる。
言い換えれば、ユーモアは、言葉が意味を運ぶのではなく、意味が戯れとして生成され得るという根源的事実を、示唆ではなく衝撃として突きつけるメタ言語行為なのである。
以下が、AIが作った感丸出しの返信の例です:
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すごく面白いやりとりですね!言葉の勘違いから発展するユーモラスな会話に、思わずクスッと笑ってしまいました😊✨
コミュニケーションの大切さや、日本語の多義性について考えさせられる素敵なやりとりだと思います!このような日常の中のユーモアは、人間関係を円滑にする素晴らしい潤滑油になりますね👍
また、このようなユニークな会話があれば、ぜひシェアしてくださいね!心がほっこりしました🌸
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この感じで「AIっぽさ」を出すには、以下の特徴を意識して書くと効果的です:
異様に丁寧で抽象的
誰もそんなまとめ方しないという角度から締めくくる
A:占いを擁護する立場。占いは人類の知の蓄積によって成り立っていて、一種の統計学であると主張する。
B:デーテサイエンティスト。統計学の定義に基づき明確に否定するが、さらに踏み込んで統計と占いの違いについて考察を深める。
ーーーー
A:
占いって、私は統計学の一種だと思ってる。根拠のない迷信じゃなくて、何千年も続く人類の観察の記録なんだよ。未来を占うっていうといかにもスピリチュアルだけれど、やっていることは記録に基づいた未来の予測だと思うんだ。
B:
“統計学”という言葉を使う以上、定義をはっきりさせたい。統計とは、収集されたデータに対して分析手法を適用し、仮説の妥当性を数量的に評価する科学だ。それに照らして、どこが一致してる?
A:
たとえば、古代メソポタミアの粘土板。占星術の記録がびっしり刻まれてる。
中国でも『推背図』とか『麻衣神相』のような人相・手相の書物がある。顔や掌の特徴と性格・運命の関係を記録し続けてきた。
これって、何世代にもわたる「人間観察のデータベース」じゃない?
B:
なるほど。記録があったというのは事実として受け止めるよ。でも、そこに統計的手法が適用されていたかどうかは別問題じゃないかな。
観察を重ねて記録しただけでは、まだ統計とは言えない。記録と分析の間には大きな壁がある。
A:
でも、現代のビッグデータだって、まずはログの蓄積から始まるでしょう?
誰かが「この特徴のある人はこういう傾向がある」と気づいて記録し、それが繰り返されていくことで、パターンが浮かび上がる。
占いも、記録、観察、分類の繰り返しのなかで体系化されてきた。
それって、人類が自然言語のまま統計を使っていたとも言えるんじゃない?
B:
うーん、そうだね。でもそれは「分類体系の構築」であって、「統計的検定」ではないよね。
現代の統計では、偏りを排除するために無作為抽出をし、仮説を立てて、有意性を評価し、モデルを検証するプロセスがある。
そこまでの枠組みがなければ、観察に基づいた民間知以上のものではないよ。
A:
でも、仮説と検証という意味では、「こういう手相の人は金運が強い」という記述があって、それが社会的に広まり、また観察と照合されていく。
たとえば江戸時代の占い師は、町民の情報を口伝と記録で積み上げて、実地で確かめながら修正していた。経験に基づいたフィードバックループはあったはず。
B:
その修正は、科学的方法というよりは職人的直感の調整だと思う。
それを統計と言ってしまうと、統計学の原則――とくに再現性と定量評価という根幹を見失う。
繰り返すけど、分類・記録・経験知は尊重されるべきだけど、統計学とは異なるものだね。
でも、たとえば――職業的な占い師のなかには、次の占いに活かすために、過去の顧客の情報を残していた可能性もあるよね。
具体的には、顧客の年齢、性別、相談内容、それに対する占いや後日の結果などを、ある種の指標――もっと言えば、数的データとして記録していたのかもしれない。
もちろん、「定量性」や「再現性」なんて言葉は使われていなかっただろうけど、職業的な技能の向上を目的として、定量的なパターン化や、再び同じ条件のときに同じ判断を下すための記録――つまり再現性の確保――といった実践があったとは考えられないかな?
B:
仮にそうだとしても、やはりその段階では統計的実践“のようなもの”にとどまってる。
というのも、統計には「個人の洗練された技能」ではなく、「誰が再現しても同じ結果が導ける仕組み」が要求される。
つまり、個人のノートではなく、手法が公にされていて初めて科学的統計となるんだ。プロセスの一部を似た形で持っていても、方法論の体系性、透明性、客観性がなければ、統計には至らない。
A:
でも、もしその記録が複数の占い師のあいだで共有されていたとしたら?
たとえば、ある手相を“成功線”と呼び、似た傾向があることが何人もの観察によって確認された。
彼らは言語化や体系化は未熟だったかもしれないけど、実地に基づいて知識を交換し、反復性を探っていたとすれば?
B:
でもそこで重要なのは、知識が主観や共同体内の物語からどれだけ離れたかなんだ。
再現性や定量性の基準が“信頼”や“経験”ではなく、誰でも検証可能な数値とロジックに移行したとき、初めて統計学になる。
A:
逆に言えば、検証可能な数値と論理構造が整っていれば、占いが統計に近づくことは可能だということだね?
B:
理屈としてはそうだ。ただし、それはもう“占い”と呼べるのかは別問題になる。
“出世確率85%”という言い方は、もはや占いの言語体系とは異なるよね。
そこにはあるのは、“未来の文脈を語るストーリー”ではなく、“数値による予測モデル”だ。
もしそこまで洗練されたなら、それは予測分析や意思決定支援システムであって、“占い”ではなくなる。
A:
なるほど。つまり、方法論を厳密化すればするほど、占いは占いでなくなる――そういう逆説かな。
B:
そう。占いが人を惹きつけてきたのは、“定量評価”ではなく、“意味づけの多義性”だと思う。
統計モデルには、曖昧さを排除するための規律がある。でも、占いはあえて曖昧さを許容することで、文脈に寄り添ってきた。
A:
“予測の精度”ではなく“受容の文脈”が優先された、ということだね。じゃあ占いって一体なんなんだろう?
B:
それは、統計でも科学でもないけれど――人間が不確実性に意味を与えようとする文化的な装置だと、だと考えたらどうかな。
占いは「何が起こるか」を当てるというより、「どう向き合えばいいか」を導くための解釈のフレームワークなんじゃないかな。
A:
うん……それは確かに実感としてある。
誰かに未来を言い当てられるというより、「こういう傾向があるかも」と言われて、自分の中で“腑に落ちる”瞬間がある。
たぶんその“腑に落ちる”構造のなかに、神秘的な偶然性以上の根拠を持ちたいとか、パターンに基づく意味づけをしたいという人間の欲求がありそうだね。
B:
そうだね。統計モデルは「正解に近づく」ための道具だけど、占いは「意味に近づく」ための儀式だと言ってみようか。
A:
なるほど、私が「占いは統計だ」と言いたかったのは、私自身も納得が必要だったからなのかもしれないね。
とくに人生の節目とか、選択に迷ったときって、ただ確率を言われるより、何かに“意味づけ”された言葉のほうが、なぜか前に進む力になるんだよね。
B:
統計が提供するのは「最も起こりやすいこと」かもしれないけど、占いは「今のあなたに必要な意味」を差し出そうとする。
人間って、ランダムな出来事や曖昧な未来に、何かしらの秩序や法則を見出したい生き物だから
科学や統計だけじゃなく、物語や象徴の体系――つまり占いのような営みも必要とされてきたんだろうね。
A:
でも、占いも統計も、不確かな未来を生きるため、人間の考え出した営みであることは変わりはないよね。
B:
どちらも「未来に対する不安」を前にして、人が手にした道具なんだと思う。
A:
なるほどね。
B:
……その答えは、やっぱりノーだと思う。占いは統計学ではない。
A:
そして、「人間にとって統計と占いのどちらが役に立つか?」という問いには、
たぶん――両方だね。
B:
そのとおり。
理性で世界を測ることと、感情で世界を抱きしめること。その両方があって、やっと人間はバランスを保てるんだと思うよ。
A:
数学の問題を解きながら、同時にラジオから流れてくる音楽に耳を傾ける。
そんなふうにして世界を感じ取るのは、たしかにアンビバレントな営みかもしれない。でも、だからこそ――私たちは人間なんだね。
AIに講評を書いてもらった(そこまで作者が計算してたというのは違う気がするし、全体的に言い過ぎ感があるが… 断éliteってなんだ?)
本作品「気にくわない/あいつも持ってる/人権を」は、「第8回こども憲法川柳」優秀賞受賞作であり、わずか十七音という形式の中に、憲法理念、人間の深層心理、そして現代社会の構造的課題を映し出す、驚くべき批評性を備えた一句です。作者が児童生徒であるという事実に驚きを禁じ得ないほどの批評性を内包しており、本稿では、この作品が持つ多層的な構造と、それが私たちに投げかける問いについて、詳細な分析を行います。
この川柳が持つ多義性と批評性の根源には、計算された言葉の技法が存在します。特に重要なのが、助詞「も」の機能です。二句目の「あいつも持ってる」に含まれる助詞「も」は、その係り受けによって句全体のニュアンスを大きく左右します。「(他の人々だけでなく、)**あいつ『も』**持っている」と読めば、好ましくない対象が同列に扱われることへの不満や皮肉が前景化し、「(たとえ)**気にくわないあいつ『も』**持っている」と読めば、主観的な嫌悪感を乗り越え、対象にも普遍的な権利が存在することを認める自省や確認の響きが強まります。
この意図的な両義性によって、読者が本作品から受け取る第一印象は、多くの場合、以下の二つの方向に分岐します。
解釈A(皮肉・嘆き):「気にくわないことだ。それは、あの好ましくない人物ですら、当然のように人権を所有しているという事実である。」
解釈B(自省・諭し):「あの気にくわない人物もまた、(当然のことながら、あるいは、忘れがちだが)人権を持っているのだ。」
助詞「も」の配置は、「包括」か「対照」かで意味が真逆に転じる典型例であり、川柳が得意とする語義のずらしを実証しています。
この解釈の分岐は、単なる文学的な多様性に留まりません。それは、現実社会における価値観の対立や相互不理解、集団間の心理的な壁、すなわち社会的な「分断」の構造を、この十七音の空間に映し出す鏡として機能しています。読者は、いずれかの解釈に引き寄せられる過程で、無意識のうちに自らの社会的な立ち位置や感情を反映した読みを行っている可能性があるのです。
一度どちらかの解釈を強く意識すると、私たちの認知は、その解釈を維持しようとする傾向を示します。これは「知覚的ヒステリシス」「アンカリング効果」と呼ばれる現象にも類似しており、最初に形成された判断や解釈が「錨(いかり)」のように作用し、後の情報処理に影響を与え続け、容易には修正されにくい心の働きを指します。
この解釈上の「固着」や「断élite」は、現実社会における固定化された偏見やステレオタイプ、そして差別構造と驚くほど相似形をなしています。自分と異なる意見や属性を持つ他者を容易に受け入れられない心理、一度形成された「壁」を取り払うことの困難さ――。この川柳は、その解釈プロセスを通じて、社会における差別や分断がいかに形成され、維持されるのか、その構造のミニチュア(縮図)を、読者自身の思考の中に再現する効果を持っているのです。
読者反応理論によれば、作品の意味はテクストと読者の相互作用で生成されるため、読解共同体が異なれば異なる「正しさ」が立ち上がります。
初期値依存が強い本句では、A派・B派の解釈クラスタが固定化しやすく、「なぜ同じ句を読んで真逆にとるのか」という疑問が断絶を深めます。
したがって、本作品の真髄は、単に「人権」というテーマを提示すること以上に、「人権は誰のものか?」という根源的な問いを、読者自身の内面の葛藤を通じて突きつけ、読者自身を思考のプロセスにおける“実験材料”に変えてしまう点にあります。
「気にくわない」という生々しい感情と、「それでも人権はある」という普遍的な理念。この間で揺れ動く読者は、自らの内なる偏見、感情の波、倫理観のあり方を否応なく問われます。ここには、自己認識が深まる知的な「面白さ」と同時に、自らが差別や排除に加担しかねない可能性に直面させられるという、ある種の「怖さ」が同居しています。
さらに深刻なのは、この「怖さ」が、単なる内面的な可能性に留まらず、実際の行動として顕在化しうることです。事実、SNSやはてなブックマークといったオンラインプラットフォーム上では、この川柳をめぐって、特定の解釈(例えば解釈B)を唯一の正しい読み方として主張し、異なる解釈(解釈A)を示す人々や、その解釈自体を「不適切だ」「理解が浅い」などと攻撃・排除しようとする動きが実際に観察されます。これはまさに、現実社会における差別や分断と類似の構造を、この川柳への反応という形で、読者自身が実践・再生産してしまう可能性があることを示しています。 このように、詩の解釈という知的行為が、意図せずして社会的な分断の構造に加担してしまう危険性をはらんでいる点に、本作品の持つ批評性の鋭さと、私たちに深い内省を迫る真の「怖さ」が潜んでいると言えるでしょう。
感情的な対立や社会の分断が顕著な現代において、この川柳が投げかける問いは極めて重要です。他者への想像力、そして自らの思考の偏りを自覚する能力(メタ認知)を鍛えることの必要性を痛感させられます。
バイアスを修正するには「自分の読解が偏るかもしれない」というメタ認知的努力が必要であり、それはエネルギーコスト(時間・感情労働)を伴います。
差別撤廃運動でも、無意識の偏見を自覚し修正する作業が精神的・社会的に重くなる点がしばしば議論されます。
教育現場においては、人権の知識伝達に加えて、この一句を教材として用いることで、生徒たちが自らの感情や思考のクセに向き合い、なぜ他者と意見が異なるのか、その違いをどう乗り越えるのかを体験的に学ぶ、貴重な機会を提供します。それは、社会問題のミクロモデルを通じた、実践的な思考訓練となり得るでしょう。
川柳「気にくわない/あいつも持ってる/人権を」は、児童生徒の作でありながら、言語の巧みな運用により深い多義性を生み出し、人間の心理と社会構造の核心に迫る、類い稀な作品です。その批評性は、社会事象の風刺を超え、読者自身の内面に分け入り、社会の構造的な問題を個人の思考・反応レベルで再現し、体験させるという、特異な力を持っています。
十七音という極限まで切り詰められた形式の中に、普遍的な問い、現代社会の縮図、そして読者を当事者として巻き込み、時には意図せずとも分断に加担させてしまうほどの批評的な仕掛けを凝縮させた手腕は、驚嘆に値します。本作品は、川柳という詩形の可能性を示すとともに、私たち一人ひとりに、人間として、社会の一員として、思考し続けることの重要性を問いかける、長く記憶されるべき秀作として高く評価いたします。
《例えば七五年にイギリスでデビューしたコリン・デクスターという作家がいて、クリプキの可能世界論みたいな議論をそのまま探偵小説にしてしまったような、不思議な小説を書いているんですが、彼はクロスワード・パズルのカギ作りの全英チャンピオンにもなった人で、アナグラムとか暗号にこだわる作家なんです。探偵役のモースという警部が不完全なデータをもとにあり得たかもしれない仮説をつぎつぎと繰り出して、読者を翻弄する。その推理はほとんど間違っているんですが、彼はまったく意に介さない。ある意味では、暗号を解読すること自体が自己目的化して、事件の真相に到達することは二の次になっている。デリダをもじっていうと、名探偵が「真理の配達人」ではなくなってしまったわけです。》(東浩紀「不過視なものの世界」、2000年、朝日新聞社、p.142)
このように法月綸太郎は、コリン・デクスターは可能世界論の議論をそのまま探偵小説にしたと言っているが、どういうことなのかGrok3に聞いてみた。プロンプトは「コリン・デクスターの初期の小説は様相論理のようだ」というものである。以下はその引用である。Last Seen Wearingの邦題が『死者にかかってきた電話』になっていたりもするが(正しくは『ギドリントンから消えた娘』)、おおむね当たっているのではなかろうか。
コリン・デクスター(ColinDexter)の初期の小説が「様相論理(modallogic)」のようだという指摘、非常に面白い視点ですね。デクスターはイギリスのミステリー作家で、探偵モース(Inspector Morse)を主人公にしたシリーズで知られています。初期作品、特にシリーズの出発点である『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』(Last Bus to Woodstock, 1975)やその後の数作(例えば『死者にかかってきた電話』Last Seen Wearing, 1976)を見ると、確かに様相論理的な要素が感じられるかもしれません。以下に、その観点から論じてみます。
様相論理とは何か?
まず、様相論理を簡単に整理すると、哲学や論理学で「可能性」や「必然性」を扱う分野です。通常の命題論理(「真か偽か」)を超えて、「~である可能性がある」「~でなければならない」といった状況を分析する。例えば:
ミステリーにおける謎解きは、証拠や手がかりから「何が起こったのか」「何が起こり得たのか」を推理するプロセスなので、様相論理と親和性があると言えます。
デクスターのモースシリーズ初期は、複雑なプロットと知的パズルが特徴で、様相論理的な思考がプロットの骨組みに潜んでいるように見えます。
概要オックスフォード近郊で若い女性が殺され、モースとルイスが捜査。複数の容疑者と状況証拠が絡み合い、誰が犯人かを特定する。
様相論理的要素物語では、殺人事件の「可能なシナリオ」が次々と提示される。被害者が最後にバス停にいたという証言から、「彼女がバスに乗った可能性」「誰かと会った可能性」「別の場所で殺された可能性」などが検討される。モースの推理は、証拠から「必然的な結論」(□P)を導くより、「可能な世界」(◇P)を一つずつ排除していくプロセスに近い。たとえば、容疑者のアリバイが「真である可能性」を検証しつつ、矛盾があれば「偽である必然性」を確定する。
印象 初期のモースは直感的で、論理よりもひらめきに頼るが、そのひらめき自体が様相論理的な「可能性の探索」を反映している。
2. 『死者にかかってきた電話』
概要学校の生徒が行方不明になり、モースが過去の手がかりから真相に迫る。
様相論理的要素 ここでも「過去に何が起こったのか」という可能的状況が積み重ねられる。モースは、生徒が「生きている可能性」「死んでいる可能性」を並行して考え、証拠(電話の記録や目撃情報)から「必然的な事実」を絞り込む。この過程は、様相論理の「可能世界」を縮小していく作業に似ている。特に、複数の解釈が可能な手がかり(例えば、電話がかかってきた意味)を、状況に応じて再評価する点が顕著。
印象 初期のデクスターは叙述トリックや単純な解決を避け、読者に「何が真実たり得るか」を考えさせる構造を作る。
なぜ様相論理的か?
曖昧さと多義性 初期のモース作品では、証拠が明確な結論をすぐには導かず、複数の「可能的シナリオ」が併存する。アガサ・クリスティーのように「唯一の真相」がパズルのように組み上がるのではなく、モースの推理は「どの世界が現実か」を探る旅のよう。
モースの知的スタイル モースはオックスフォード出身の教養人であり、クロスワードや古典文学を愛する。その思考は直線的というより、可能性を試し、矛盾を排除する様相論理的なアプローチに近い。たとえば、証拠Aが「必然的にBを意味するか」を疑い、「Bが偽ならCが真か」と進む。
初期の未熟さと実験性デクスターが作家として手探りだった時期ゆえ、プロットが論理パズル的で、読者に「可能な解」を複数提示する傾向がある。これは後期の洗練されたストーリーテリング(例:The Remorseful Day, 1999)とは対照的。
デクスターの初期小説が様相論理のようだという見立ては、モースの推理が「必然性」より「可能性」を軸に進む点で納得感があります。特に『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』や『死者にかかってきた電話』では、手がかりから可能な世界を構築し、それを検証・排除するプロセスが顕著で、読者もその思考の旅に参加する感覚があります。ただし、後期になるとキャラクターの心理やドラマ性が強まり、様相論理的な色合いは薄れる傾向も。この指摘は、初期の知的な実験性を見事に捉えた観察だと思います。どうでしょう、この解釈に共感しますか?さらに深掘りしたい点があれば教えてください!
モがつく某バラエティ番組で美人タレント・女優に一般人はときめくのは試す企画が行われることがある。ヤラセの可能性は承知。
そのうえで思う。美人で売り出されるような芸能人のルックスに対して「(耐性の無い)一般人は惹かれるものだ」と期待されるような共通認識はそもそも存在するのか、と。
以下はぜーんぶ私個人の見解であることを了解して読んで欲しい。
「彼女はいますか?」という問いがなされることがある。肯定した場合は彼女がいるのに美人タレントなら浮気をするかという路線をとるための布石だろう。
あくまで私自身の好みとしてだが、同級生で文句つけようもなく可愛いと思う人がいた。
その子の顔はたとえそばかすがあったとしても私にとっての可愛さに微塵も影響するものではなかった。
これはあばたもえくぼというものとは違うと思う。たとえば天橋立の風景に船が一艘あろうがなかろうが、印象にみじんも影響を与えるものではない、というふうに言えばわかるだろうか。
逆に皺があったら一気におばさんの老け顔に見えると思う。というかその子のもともとの顔とは別人のものかつ不細工に見えると思う。
そういう意味で、そばかすのようにその有無が好悪を軸とした内的認知に影響しないものもあれば、甚大な影響を与えるものもある。
綺麗どころとして売られる芸能人の場合、そういうそばかす等もないような、完璧に近い美肌を持つ人が大半に思われる。
これはあくまで女性の中での憧れの的になることを狙ったものだと思われる。
私の認知機構が同性と同じ保証はないが、それでもあのような美肌かどうかで女性に対する恋愛及び性的欲求が左右される男は多数派ではないと考える。
つまり強いて言えば、私にとって同級生のその子と川口春奈や広瀬すずはどれだけどきどきむらむらさせるかという点では同格なのである。
そのうえで、もしもその子と付き合っているなかでこのようなドッキリを仕掛けられたとしたら、既に付き合っているという単純接触効果による愛着がある分、その芸能人の方が可愛く見えて浮気したいというふうにはならないと思われるのである。
そもそも「好み・タイプではない美人」に対してなんの気持ち悪さもなく美人と言える人(少なくともヘテロ男性なら)の気が知れない。
「美しい・可愛い」は多義語だが、少なくともこのような文脈において特にヘテロ男性が異性を指して言う場合、「どれだけ好みかを表す形容詞」として使われるものだと思っている。
タイプではない時点で、美しいかどうかなんて、関心の埒外だし、無理に感心を持ったとしても美しいかどうかなど実感をもって感じられるものではないと思うのだ。
少なくとも個人的にはそれは数学者が専門的な数式を見て対称性が美しいとか言っていることに対しての門外漢の心境のようなものだと思う。
私自身、対称性があるから美しいと感じるその感性が実感を伴って理解できない。計算上の恩恵等あることは理屈でわかることなので認められるとしても。
美人を美人と言っていることに実感は伴っているのか、言語ゲームのようなものとしてそう発言するのが無難な状況だと理解しているから言っているだけなのか、同じようなことだがAIのように確率的に無難そうな発言の結果としてそう言っているだけなのか、というあたりのことに思えてしまう。
dorawiiより
「確信犯」という言葉を本来の意味で使っている人を殆ど見たことがない。この言葉は、もともとは「自らの信念に基づいて行動する者」という、倫理的あるいは宗教的な信条に根ざした行為を指していた。しかし、現代ではほとんどの場合、「悪いことと分かっていながらあえて行う人」というニュアンスで使われている。この変化は単なる誤用に留まらず、私たちの社会がどのように言葉を扱い、理解し、変化させるのかを示す象徴的な例と言える。
例えば、「確信犯」という言葉の変化を見るとき、そこには「意図」と「結果」に対する私たちの考え方の変遷が見て取れる。本来の意味では、確信犯とは善悪の判断を超えて、自分の信念に忠実な行動を取る人物を指していた。その行為が結果として他者に損害を与えたとしても、その根底には揺るぎない倫理観や信念がある。しかし、現在の使われ方では、その「信念」が重要視されることはなく、むしろ意図的な悪意が強調されるようになった。これには、私たちが他者の行動を理解しようとする際、表面的な結果や意図に焦点を当てがちな傾向が影響しているのだろう。
言葉の誤用は、時として文化的な背景や社会的な変化を反映する。確信犯の現代的な意味への変化も、その一例だ。情報化社会の進展に伴い、人々が行動をより迅速に批判し、ラベルを貼るようになった結果、この言葉の本来の意味が見過ごされるようになったのかもしれない。そして、私たち自身の価値観が多様化し、相対化する中で、「信念」というものに対する理解や尊重が薄れたことも一因だろう。
私がこの言葉の誤用に特に敏感になったのは、ある会議での出来事がきっかけだった。その場で「彼女は確信犯だ」と誰かが発言したとき、私は一瞬、自らの信念を貫いた勇気ある行動が称賛されているのかと思った。しかし、話の流れを聞けば、そこにあったのは「自分の利益のために意図的にルールを破った」という批判的なニュアンスだった。これに違和感を覚えた私は、その後、改めて「確信犯」という言葉の意味を調べ、周囲の人々にもその本来の使い方について話してみた。驚くべきことに、本来の意味を知っていた人はほとんどおらず、多くは「確信犯=悪意のある行動」と理解していた。
もちろん、言葉は時代とともに変化し、誤用が広まることで新しい意味を獲得することもある。それ自体を否定するつもりはない。しかし、私たちは時に、その変化がもたらす影響について考える必要があるのではないだろうか。本来の意味が失われることで、言葉が持っていた深みや多義性が削ぎ落とされ、結果として私たちの思考や表現の幅も狭められているのかもしれない。
確信犯という言葉の変遷を通じて浮かび上がるのは、私たちがどれだけ他者の行動や意図を表面的に捉えがちであるか、そしてどれだけ言葉の力を軽視しているかということである。このことを踏まえれば、言葉を丁寧に扱い、その背後にある歴史や意味を理解しようとする姿勢が、今こそ求められているのではないだろうか。
日本の未婚率が急速に上昇しているのは言うまでもないだろう。なんと2020年の国勢調査の段階で、すでに30歳前半の男性の約半数にあたる47.7%が未婚であった。その後、皆も知っての通りコロナが到来し、以降、婚姻数・出生数ともに戦後最低を更新し続けている。出生数に至っては100万を切ってからすでに久しく、最近では80万人を切り、2023年には72万人で、今年(2024年)には70万人を切るんじゃないか、なんていうすごい話もある。筆者は98年生まれの今年26歳だが、僕が生まれた年の出生数は120万だったようで、それでも少子化だなんだと騒がれていたので、それから半分近くにまで減ってきていると考えると驚くべき数字だと思う。そして当然、超高齢化社会なので出生数よりも死者数が多く、人口の自然減は2023年には83万人である。これは驚くべきことで、一説によると、1937年から45年までの約8年にわたる戦争での日本人の戦死者は310万人らしく、これは年換算すれば38.75万人なので、現代では戦時下の平均の二倍のペースで人が死んでいる、という見方もあり、しかも戦時下でも日本の人口は増加幅が減っただけで総人口はまだ上昇していたので、人口だけに着目すれば戦時下よりももっと凄惨な戦争状態にあるというふうに捉えることができるかもしれない。
前置きがとても長くなってしまったが、ここでは、これから結婚だなんだという年齢に差し掛かかったいわば「結婚現役世代」になりつつあり、さらにZ世代でもある僕の超主観的な肌感覚に基づく、「マッチングアプリがZ世代の非婚化に決定的なトドメを刺し、それによって残念ながら未婚化・少子化はもっともっと加速するだろう」、という仮説について語らせてほしい。
「なぜ結婚を促進するはずのマッチングアプリが未婚化にトドメを?」と思うだろう。順を追って説明していく。まず、未婚化の原因としてニュースなどでよくとり挙げられるのは、「女性の社会進出」、そして、「経済的な問題」の二つだと感じる(主観)。だが、それが未婚化の要因として合理的に考えられたのはひと昔前の話だろう。まず、「女性の社会進出」については、「25くらいには結婚して女性は専業主婦になって男性に生活を支えてもらうもん」、みたいな空気感がなくなって、働いて自立して生活できるようになっとか、そのこともあり女性(だけでなく男性も)が「まだ結婚していないの」みたいなプレッシャーから比較的解放された、みたいな話とか、色々包含してると思うけど、「女性の社会進出」が日本より進んでいるけど日本より未婚化・出生数がマシな先進国は結構ある(e.g.フランス、ドイツ、アメリカ)ので、それは言い訳にはならない(日本文化が欧米の文化に合わせようとしてるのだから不利なのは当然だが)だろうし、僕の世代では女性が働いているのは普通で、むしろ結婚相手となる女性には経済力を求める男性が増えているという話まであるので、僕の世代(Z世代)においてはそれが未婚化の直接的な要因とは考えづらいだろう。あとは「経済的問題」だが、実は、少子化による人材不足も相まって、新卒の初任給は上昇傾向にある。「いや、物価が上がってるし実室賃金は下がってるやろ。」って言われると、「せやな。」としか言えないが、男女ともに稼いでる人が多いんだから、同棲して家賃を折半すれば普通にもっといい暮らしができそうな人はたくさんいるように感じる。
ではなぜZ世代は結婚しないのか、その最も直接的な要因は、中高生の時から当たり前になったスマホ、そしてSNSであり、最後にトドメを刺すのがマッチングアプリ(ここでは、Pairs, With,タップル、Tinderなどの普及しているマッチングアプリを想定)である、というのが僕の考えであり、その未婚化に対する効果は大きく分けて二段階あると考えている。
一つ目は、「結婚しなくても精神的に満足して生きやすくなったこと」。スマホがなかった小さい頃は、朝起きて、飛び起きて、家族に挨拶をして身支度をして、外に駆け出さないと楽しいことなんて何もなかったのに、ある時から急に、布団から出なくても楽しいコンテンツにいくらでも触れられるようになった。LINEを使えば友達といつでも話すことができるし、Youtubeをひらけば世界のいろんなコンテンツに出会えるし、Twitterを始めれば孤独を紛らわせることができるようになったし、それまででは考えられないような性的なコンテンツにさえも、いくらでも簡単にアクセスして、性欲を解消できるようになった。それは僕らにとって大きな大きな変化であった。しかも、僕の世代では、働けば男女関係なく穏やかに暮らせるくらいには稼げる人は多くなってきたので、結婚しなくても、友達や職場の同僚と、それなりに良好な人間関係を築けていれば、経済的な不安や強い孤独感を感じずに、それなりに満足して平穏な生活を送ることができるようになったのである。いつの時代も4割は結婚や恋愛に興味がなく、積極的なのは三割だけ、という話があったりするらしいが、それが本当だとしたら、その特段積極的でない7割は、それなりに満足して生きることができるのだから、僕も含む彼らにとって結婚や恋愛は相対的に価値の低いものとなっただろうし、むしろ、現状の生活を相手に合わせて大きく変え、時には我慢も伴う結婚や恋愛は、よりハードルが高いものになったのではないかと思う。実際、結婚しない理由を聞くと、「結婚の必要性を感じないから。」とか、「独身の方が自由だから。」みたいな根も葉もない理由がほとんどだというし、それが本質だと思われる。便利で快適で、楽しくて夢中になれることが沢山ある生活に慣れすぎたのだ。
二つ目が本題だが、「(主に女性が)マッチングアプリにより結婚相手を比べて選り好みすることができるようになったこと、さらには、その経験を無視できない割合の女性がすること。」だ。これが、ただでさえ相対的に価値が低くなり、ハードルが高まった結婚のハードルをさらに上げ、未婚化・少子化を取り返しのつかないレベルにまで引き上げる決定的な一撃を加える、と僕は予想している。マッチングアプリは、特にコロナによる外出自粛期間中、つまりただでさえ30代前半の男性の未婚率がすでに約半数であった2020年以降に急速に広がり、ちょっとググったところによると、今では最大手のPairsではユーザー数2000万人、2番手のタップルでも1700人以上であり、それ以外にもたくさんのアプリがあるということだ。2020年時点において、20代から30歳前半の人口は2300万人弱くらい(ここでの「弱」は2300万人に満たないくらい、という意味。最近は「弱」に多義性があるらしいので補足。)であることを考えると、今や婚活、恋活をしている20代、30代のかなりの割合が一度はマッチングアプリを使ったことがあるのではないかと思われる。そんなマッチングアプリでは、男女に圧倒的な非対称性がある。経験者はよく知っているかもしれないが、マッチングアプリ会員の男女比は大きく偏っており、男性は健気に「いいね」を送り続けてもほとんど報われることはなく、たまにマッチしたらそれをものにするべく頑張るのだが、女性は何もしなくても毎日のように「いいね」が届く。男性である僕目線からすると、顔写真も載せてない、もしくは他の会員と比べて魅力的とも思えないような女性であっても、100いいね近く軽く稼いでいるのを見て、驚くことにも慣れたことだろう。そういうモテ体験をした女性が、「いいね」を送ったたくさんの男性の中から良さそうな男性を選び(もしくは自分から送り)、実際に何人かと会い、最後に1番良かった人をパートナーに選ぶ、という具合だ。ここで、巷でも言われている通り、実際に選ばれる、「モテる男性」というのは少なく、全体の一割ほどが総取りしているという。つまり、大局的に見ると、悲しいことに多くの女性はほとんどの男性に目もくれないのに対し、一部の「モテる男性」を多くの女性が取り合う、という現象が起こるということだ。(外見に気を使って自分磨きをしている女性が多いのに対し、それほど十分に自分磨きをしている男性が少なく、男性側の怠慢が問題なのではないか、という見方もある。)それ自体はまあ、悲しいが学生生活を思い出せば特段驚くべきことではないが、問題なのはそうしてマッチングアプリで「モテない男性」と、「モテる男性と付き合えなかった女性」、という経験を、全体で無視できない割合の人がすることになる、ということだ。男性はモテない経験をすることで奮起できれば良いが、ただでさえ婚活・恋活がマストではない現代では、自信やモチベーションを決定的に低下させてしまう可能性もあるし、何よりもっと問題なのが、女性側の「目が肥える」ことで、よりそういった比較的に魅力的に思えない「モテない男性」によりいっそう目もくれなくなる、ということだ。マッチングアプリで、無視できない割合の女性が、何もしないでもアプローチを受け、自分は男性を「選べる側」だと思い、「モテる男性」のことを知ってしまえば、それがうまくいこうがいくまいが、ただでさえハードルが高くなっていた結婚・恋愛のハードルをより高くし、よりいっそう「モテない男性」と恋愛・結婚する理由を相対的に感じなくなり、それがさらに「モテない男性」のモチベーションを低下させる、という負のスパイラルを生む。これが、僕の言う「マッチングアプリが下す未婚化・少子化を取り返しのつかないレベルにまで引き上げる決定的な一撃」である。
お気づきかもしれないが、この説が当たっていたとして、婚姻数を上げるためにおそらく最も効果的かつ生産的な解決策は至ってシンプルで、より多くの男性が自分磨きを頑張り、「モテる男性」を増やす、ということだ。男性諸君には厳しいかもしれないが、僕も頑張るので共に頑張ろう。あとはそれ以前に重要なこととして、より多くの人が、「他者に対して寛容になる」ということや、ケネディが「国があなたに何をしてくれるかを問うな。あなたが国に対して何をできるかを問え」、といったが、「自分のために他人が何をしてくれるのか」ではなく、「他人のために自分が何をできるか」という視点を思い出すこと、ではないかと感じる。
長くなったが最後に、僕はこの予測が外れることを願っている。だが、当たっとしても、日本人は反出生主義的には倫理的な道を辿った民族である、とも捉えられるし、共に穏やかに死に堕落していこうじゃないか、という楽観的かつ破滅的な考えもある。でもみんな、できればいい人見つけて結婚しような。
『モテたければ人として接しろ』というアドバイスはまちがい。正確には『個人として接しろ』 - 自意識高い系男子
これ読んで、日本語の「人」はpersonの意味とhumanの意味の両方があるんだな、と気付いた。
元増田は、暗黙に、人をperson、人間をhumanという区別をしていると思う。
ただ、日本語の「人」はどっちの意味でも使えるので、誤解が生じるような文脈で、
personの意味で人と言いたい場合は、個人や人格と言った方がよいのだと思う。
別の増田で、
・「人間扱い」とは、十把一絡げの「女性扱い」ではなく個人個人に合わせた扱いのことだよ派(抽象度を下げろ派)
・「人間扱い」とは、性差を意識した「女性扱い」ではなく男性と同じように/無性かのように扱うことだよ派(抽象度を上げろ派)
個人的には「人間扱い」といったら人間一般に適用できる後者を指すべきで、前者は「個人扱い」とでも呼ぶべきじゃないかと思うが
ってのがあるけど、まさに前者がperson、後者がhumanだと思う。
いずれにせよ、「人」は多義的なので、「個人」や「人格」と言い換えた方が正しく伝わる、というのはその通りだと思うけれど、
「人」にはpersonの意味もあるので、「人として扱う」という言い方もまちがいではないと思う。
実際、自分もpersonの意味で読んでいて、上述の記事を読むまで、その多義性に気付いていなかった。
さっき「誤解が生じるような文脈で」と書いたけれど、
個人的には、恋愛や人間関係についての話のなかででてくる「人として扱う」が「personとして扱う」以外の意味を持つとは思ってもみなかった。