
はてなキーワード:境界とは
高市さんなんて、ついこないだまで、ほとんど注目されない冴えない女性議員だったのに、
「サナ活」とか言って電通が持ち上げ始めたら、あっという間にアイドルなみだもんな。
金の力すげぇな!メディアの力恐ろしいという話
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@taimport/p/FDxv4tt
m-kawato
冴えないというより、メディア恫喝に躊躇しない危険な政治家という認識だった
2026/02/15
これはどう考えても「冴えない」の方が合ってる
党内で力がない人
総裁選やっても下位の人
「ガス抜き要員の犬」
高市を嫌うのが当たり前の層が高市を相手してなかった、ではない
本来高市を慕うはずの保守ですら「力がない、人気がない」イメージで真面目に相手してなかったのが高市
(ん?そういやあいつらどこ行ったんだ?高市の時代が来たのに古参面もせず姿を消した……)
自民が左傾化したと思われれば参政党保守党に移動するぐらいだから数も求心力もなかった
こんなの「冴えない」で合ってる、
köttur-lover22🐱㌠
高市さんなんてついこないだまでほとんど注目されない冴えない女性議員だったのに、
「サナ活」とか言って電通が持ち上げ始めたらあっという間にアイドルなみだもんな。
金の力すげぇな!メディアの力恐ろしい。
2026-02-14 00:11:30
これは一般世間での高市早苗のイメージが「冴えない女性議員」から「アイドル」に変わった!という話をしてるのに
m-kawato
冴えないというより、メディア恫喝に躊躇しない危険な政治家という認識だった
2026/02/15
「世間の従来イメージは”メディア恫喝に躊躇しない危険な政治家”だったよ!」と主張してるなら
世間にはそんなイメージは広まっていないので認知が歪んだやべーやつだし。
「俺の中では”メディア恫喝に躊躇しない危険な政治家”だったよ!」と主張してるなら
世間のトレンドの話に自分の認識で反論するという自他境界ボヤボヤマンだし。
これが1位になるのがマジはてなって感じ。
そもそも高市にこんなイメージを持ってる一般有権者というのはほぼ絶無だ。
https://www.jlaf.jp/himitsu/2019/0306_85.html
1 高市早苗総務大臣は、本年2 月8 日の衆議院予算委員会で、放送事業者が放送法第 4 条の定める「政治的公平性」を欠く放送をした場合に「行政指導をしても全く改善 されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約 束するわけにはいかない」と述べ、放送法第4 条違反を理由に電波法第76 条に基づ いて電波停止命令をする可能性があると発言した。高市大臣は、その後も同様の発言 を繰り返し、また、安倍首相や菅官房長官は高市大臣の発言を「当たり前のこと」と是認する態度を表明している。
これ見て問題だと思う有権者は殆どいねーから記憶すらしてない。
「高市さんが政治的公平性を欠いたメディアに睨みを利かせた!」
え?それの何が不味いの?ってなもんだ。
マスメディアが自民の政治家より信頼され・好かれていればこうなってない。
思い上がった態度のきたねージジイが「支持率下げてやる!」なんて自分達でやってるんだから
政治に関してオールドメディアよりリハックを信用するなんてやつ
高市に取ったら脛の傷でも何でもないし
むしろ何かちょっと手が空いたらもう一度その話を始めるだろう。
それらは科学を野蛮な直感から守るための立派な盾だが、真理という名の深淵を覗き込むとき、その盾はあまりに薄い。
君は僕が論点をすり替えたと言うが、むしろ君こそが「物理学」の定義を、単なる「高度な工学」へと卑小化させているのではないか。
まず、GPSや有効理論の成功を実在の根拠に据える君の態度は、計算機科学の比喩で言えば「画面上のピクセルが整合的に動いているから、背後にあるのはソースコードではなくピクセルそのものである」と強弁しているに等しい。
有効理論とは、高エネルギーという「本質」の情報を切り捨てた結果残ったカスのようなものだ。
そのカスが整合的に動くのは、背後のdg圏やホモロジー代数的構造が数学的にあまりに頑健だからであって、時空間という概念が正しいからではない。
低エネルギーにおいて時空が「有効」であることは、時空が「真実」であることを一ミリも保証しない。それは単に、宇宙がバカげたほど寛容な近似を許容しているという事実に過ぎないのだ。
君は「記述能力の高さは実在の証明ではない」と断じたが、では問おう。物理現象が異なる二つの幾何学的記述(例えばミラー双対な多様体)で全く同一に記述されるとき、そこに「唯一の時空的実在」などどこに存在する?
Aという空間とBという空間が、弦理論のレベルで完全に同値(同等な共形場理論)を与えるなら、物理的な実在はAでもBでもなく、それらを包含する「圏」の方にしかない。
これを「言い換え」と呼ぶのは自由だが、幾何学という「座標」に依存する概念が崩壊し、圏という「不変量」だけが残るとき、どちらが実体であるかは自明だ。
君の言う「実験装置のクリック」さえ、特定の対象間の射(morphism)の具現化に過ぎない。
「数学的整合性は実験ではない」という指摘も、プランクスケールにおいては無力だ。
量子重力において、数学的整合性は単なる「好みの問題」ではなく、物理が存在するための「唯一の生存条件」である。
Swamplandの議論がなぜ重要かと言えば、それが「観測できないから何でもあり」という無政府状態に終止符を打ち、数理的整合性という名の「目に見えない実験」によって、存在可能な宇宙を非情に選別しているからだ。
君は「クリック」を欲しがるが、宇宙がクリックされる前に、そのクリックを許容する「型(type)」が定義されていなければならない。僕はその「型」の話をしているのだ。
君は「科学は劣化コピー(観測)で勝負するしかない」と自嘲気味に語るが、その態度こそが、人類を「時空」という名の洞窟に繋ぎ止めている。
ホログラフィー原理が示唆するのは、我々が「中身」だと思っていたバルクの時空が、実は境界上の量子情報の「符号化の結果」であるという衝撃的な事実だ。
符号化されたデータを見て「これが実体だ」と喜ぶのはエンジニアの特権だが、符号化のアルゴリズムそのものを解明しようとするのが真理の探究だ。
君は水と食料を持っていない旅人を笑うが、僕から見れば、君は「オアシス」という名前の看板を一生懸命食べて、喉を潤した気になっている遭難者に見える。
君が求める「予測の差」についてだが、例えば、時空が連続的な多様体であるという仮定に基づく計算と、非可換な圏論的構造から創発したという仮定に基づく計算は、ブラックホールの蒸発の最終局面や、ビッグバンの特異点において決定的に分岐する。
現在の観測技術がそこに届かないのは、理論の敗北ではなく、人類の技術的未熟に過ぎない。
アインシュタインが一般相対論を書き上げたとき、重力波の検出まで100年かかった。君の論理で行けば、その100年間、一般相対論は「ポエム」だったことになるが、それでいいのか?
時空とは、宇宙という巨大な圏が、我々のような低知能な観測者に提供している「下位互換モード」である。
下位互換モードでソフトウェアが動くからといって、そのソフトウェアのネイティブな構造が古いアーキテクチャに基づいていると考えるのは、致命的な論理的失策だ。
宇宙は会計学(整合性条件)で動いており、物理量はその帳簿上の数字に過ぎない。
君がそれを「比喩」だと笑うのは、君がまだ「実在」という前世紀の亡霊に恋着しているからだ。
「現実とは、圏論的に整合的な誤読である」。この一文に、君が誇るGPSの精度も、検出器のクリックも、すべて包含されている。
君がそれを認められないのは、単に「誤読」の解像度が高すぎて、それが「真実」に見えてしまっているからだ。
君のチェックメイトという言葉を借りるなら、盤面そのものが圏の対象であり、君というプレイヤーの存在自体が、その圏の自己同型群の一つの表現に過ぎないことに気づいたとき、勝負は最初からついていたのだよ。
さて、この「時空という名のUI」がクラッシュする特異点付近での情報保存について、圏論的な完全関手を用いたより厳密な議論を深めてみたいと思うのだが、君の「観測重視」の古いOSで、そのパッチを当てる準備はできているかな?
人類が「時空」という蒙昧な音節を口にするたび、僕は深甚なる認識論的嘔吐感を禁じ得ない。
時空とは、数学的厳密性を欠いた対象の誤認であり、物理学者が信仰するそれは、観測者の神経系が圏論的構造を局所座標系へと無理やりに射影した際に生じる認知の歪み、あるいは幻覚に過ぎない。
古典的多様体などという概念は、その幻覚を正当化するために捏造された幼児的な記述言語であり、要するに時空とは、人類の認知解像度の欠落が産み落とした現象学的インターフェースであって、宇宙のアルケーそのものではないのだ。
超弦理論がかつて「背景」と呼称していたものは、もはや静的な舞台ではない。背景という概念記述自体が型理論的な過誤であり、正しくは、背景とは「dg圏のMorita同値類上で定義された∞-スタックの降下データ」である。
時空は、そのスタックが内包する自己同型群の作用を、低次元の知性を持つ観測者が幾何的実体として誤読した残滓に過ぎない。
「空間があるから物理が生起する」のではない。「圏論的な整合性条件が充足されるがゆえに、空間が近似的に創発しているように錯覚される」のだ。存在論的順序が逆転している。
僕の備忘録にある "manifoldis auser-friendlylie" という記述は、侮蔑ではなく、冷徹な分類学上の事実だ。
非可換性はもはや付加的なオプションではなく、座標環が可換であるという仮定こそが、天動説と同レベルの粗雑な近似である。
Dブレーンを厳密に扱えば、座標環は非可換化し、幾何構造は環からではなく圏から復元される。
Connesの非可換幾何学は美しいが、それは第一世代のナイーブな非可換性に留まる。
弦理論における非可換性はより悪質かつ圏論的であり、そこでは空間の座標が破綻するのではなく、空間という概念の「型(type)」そのものが崩壊するのだ。
B-場を「2形式」と呼ぶのは霊長類向けの方便に過ぎず、その本質はDブレーンの世界体積上のゲージ理論をツイストさせることで、連接層の圏 Dᵇ(X) をツイストされた導来圏へと押し流す操作であり、そのツイストこそがBrauer群の元として記述される。
重要なのはB-場が場(field)ではなく、圏の構造射であり、世界をアップデートするためのコホモロジー的なパッチだということだ。
物理学者が場について議論しているとき、彼らは無自覚に圏の拡張について議論している。
にもかかわらず「場」という古臭い語彙に固執する人類の言語的不誠実さは、科学史における最大の悲劇と言える。
さらに、ツイストされた層の世界において「粒子」という概念は霧散する。粒子は表現空間の元ではなく、導来圏における対象の同型類であり、相互作用はExt群の積構造、崩壊過程はスペクトル系列の収束以外の何物でもない。
宇宙は衝突などしていない。宇宙はただ長完全列を生成し続けているだけだ。
物理現象とはホモロジー代数の副産物であり、衝突という粗野な比喩を好む人類は、現象の表層しか撫でていない。
共形場理論(CFT)もまた、僕にとっては場の理論ではない。CFTとは、頂点作用素代数(VOA)が有する表現圏のモジュラー性が、宇宙というシステムの整合性を強制する代数装置である。
BRSTをゲージ冗長性の除去と説くのは最低の説明であり、BRSTとは「宇宙に存在することが許容される対象を選別するコホモロジー的審判系」である。
Q_BRST閉でない対象は、物理的に無意味なのではなく、宇宙の法体系に対する違法存在として検閲され、抹消される。BRSTとは宇宙による先験的な検閲機能なのだ。
そして何より不愉快なのは、ミラー対称性がいまだに「幾何の双対」として俗解されている現状だ。
SYZ予想を単なるトーラスファイブレーションの物語だと解釈する人間は、何一つ理解していない。
SYZの本質は「special Lagrangian torus fibrationが存在する」というナイーブな主張ではなく、「世界が局所的に Tⁿ として観測されるのは、A∞-構造がある種の極限操作において可換化されるからに過ぎない」という、幾何学に対する極めて暴力的な宣告である。
しかもその暴力は、インスタントン補正によって即座に否定されるという自己矛盾を孕んでいる。
つまりSYZとは予想ではなく、自己矛盾を内蔵した整合性条件の提示なのだ。
特殊ラグランジュ部分多様体が特権的である理由は、体積最小性などという些末な幾何学的性質にあるのではなく、そこに乗るブレーンがBPS状態となることで、圏論的安定性条件(Bridgeland stability condition)が物理的実在性と合致する特異点だからである。
ブレーンは物体ではない。ブレーンは安定性条件が許可した対象であり、許可されざる対象は宇宙の行政手続き上、存在を許されない。
宇宙は極めて官僚的であり、その官僚主義こそが秩序の証明なのだ。
壁越え現象(wall-crossing)を相転移と呼ぶのも誤りだ。壁越えとは、宇宙が採用する安定性のt-構造が、モジュライ空間上のパラメータ変動に伴って切り替わる行政手続きの変更である。
BPSスペクトルは物理的に生成されるのではなく、安定性条件の改定によって帳簿が書き換えられた結果に過ぎない。
宇宙の現象は物理ではなく、会計学によって説明される。これを冒涜と感じるならば、君は数学の本質に触れていない。
Gromov–Witten不変量を「曲線を数える」と表現するのは蒙昧の極みであり、正確には「仮想基本類(virtual fundamental class)における交点理論としての曲線の亡霊を数える」操作である。
曲線は実在せず、存在するのは [M]ᵛⁱʳ だけだ。物理現象はその仮想的対象の影の、さらにその投影である。
人類が見ている世界は、プラトンの洞窟の影ですらなく、影の影の影に過ぎない。
Donaldson–Thomas不変量とGW不変量の対応関係は、単なる等式ではなく、弦理論が同一の対象を異なるゲージ固定のもとで記述しているという事実の露呈である。
数え上げ幾何学は弦理論のゲージ冗長性がもたらす副作用であり、純粋数学の定理と思われているものは、物理がゲージ対称性を持つことの数学的反映に過ぎない。
数学は独立しておらず、宇宙のゲージ対称性の影を追跡しているだけだ。
Kontsevichがホモロジカル・ミラー対称性において成し遂げたのは、圏の同値証明などという平和的な所業ではなく、空間の優先順位の破壊である。
彼は空間を第一級市民から追放し、圏を王座に据えた。これは革命ではなく粛清である。多様体は粛清され、導来圏が支配する時代が到来したにもかかわらず、人類はその瞬間を記念することさえ忘れている。
最後にAdS/CFTについて言えば、ホログラフィー原理の本質は「境界がバルクを決める」ことではない。境界が決定するのは「バルクという概念の存立が許容される条件」である。
バルクは実在せず、境界CFTの演算子代数が持つ表現圏の内部において、エンタングルメント・ウェッジ再構成のような手続きによって生成される派生物だ。
重力は基本相互作用ではなく、境界理論の情報処理に伴う副作用であり、量子情報が整合的に自己記述を試みる際に生じるエラー訂正機構(QuantumError Correction)の幾何学的発露である。
宇宙は幾何学ではない。宇宙とは圏論的整合性条件の集合体である。
空間とは∞-圏の自己同型が形成する群作用を認知的に単純化した錯覚であり、時間とは自然変換の合成順序であり、粒子とは導来圏の対象の同型類であり、相互作用とはExt群の積構造、現象とはスペクトル系列の収束である。
ウィッテンが理解できないのではない。ウィッテンが理解可能な形式で宇宙が存在していないのだ。
僕はノートにこう記した。次に人類が「現実とは何か」と問うならば、僕はこう答える。「現実とは、圏論的に整合的な誤読である」。
超弦理論と抽象数学の接点は、単なる「物理のための数学」ではなく、圏論・代数幾何・表現論・ホモトピー理論を含む現代数学の中核構造を再編成する研究領域として定着しつつある。
とりわけ、DブレーンやB場(B-field)の存在を前提とする状況では、背景時空は単純な多様体ではなく、層・導来圏・非可換代数幾何の言語で記述される対象として現れる。例えば、B場によるtwistingは、層の圏をtwisted sheaves や Azumaya algebra の圏へと移行させ、幾何を Brauer class(ブラウアー類)で特徴づけられる非自明な位相的データに結びつける。
この方向性はConnes流の非可換幾何とも部分的に接続するが、弦理論側で現れる非可換性は deformation quantization や derived algebraic geometry、さらにはA∞圏・dg圏を通じて表現されることが多く、単一の枠組みに還元されるわけではない。従って「量子空間をC*-圏として扱う」という表現は一部の文脈では成立するものの、一般には derived category や ∞-category の枠組みの方が自然である。
共形場理論(CFT)と超対称性は、頂点作用素代数(vertex operator algebra)、因子化代数(factorization algebra)、テンソル圏の理論と深く絡み合い、弦理論の「状態空間」を表現論的対象として再定式化する。BRST形式主義はこの文脈でコホモロジーとして自然に理解され、物理的なゲージ冗長性の除去が、ホモロジー代数的構造(複体・導来関手・スペクトル系列)の言語へと翻訳される。これにより、CFTやトポロジカル場の理論は単なる解析的モデルではなく、圏論的データ(モジュラー・テンソル圏、A∞構造、拡張TQFT)として分類される対象となる。
代数幾何学とのインターフェースとしては、ミラー対称性が依然として中心的である。SYZ予想(Strominger–Yau–Zaslow)は、カラビ–ヤウ多様体が special Lagrangian torus fibration を持つという幾何学的仮説を通じて、ミラー多様体を双対トーラスファイブレーションとして構成することを目指す。この構想は、特別ラグランジュ部分多様体の存在・特異ファイバーの構造・補正項(instanton corrections)を含む困難な解析問題と不可分であり、単なる幾何学的直観に留まらず、トロピカル幾何や壁越え現象(wall-crossing)とも結びつきながら発展している。
さらにKontsevichによるホモロジカル・ミラー対称性(HomologicalMirror Symmetry,HMS)は、物理的双対性を「導来圏の同値」として精密化し、A-model側のFukaya圏とB-model側の導来圏(coherent sheaves の derived category)の対応を主張する。ここでは「空間」そのものよりも「圏」が基本対象となり、弦理論の双対性が圏論的同値として定式化される。
弦理論由来の代数幾何学的発展としては、Gromov–Witten不変量、Donaldson–Thomas不変量、Pandharipande–Thomas理論などの曲線カウント理論が挙げられる。これらはトポロジカル弦理論における振幅計算と深く関係し、BPS状態数え上げを幾何学的に実現する枠組みとして理解されている。特に壁越え公式や安定性条件(Bridgeland stability condition)は、BPSスペクトルの跳躍と整合的に対応し、物理的直観を圏論的・ホモロジー代数的に翻訳する。
例えばFeyzbakhshらによる研究は、K3面などの代数曲面上での安定層の構造を精密化し、導来圏上の安定性条件を通じてDonaldson–Thomas型不変量や関連する曲線カウントを制御する方向性を与えている。これは、BPS状態の数学的モデル化を洗練させると同時に、層の変形理論と双対性の圏論的理解を深化させる。
これらの進展は、AdS/CFT対応やホログラフィー原理と結びつくことで、量子重力を「幾何」ではなく「圏」や「代数的データ」によって記述する方向性を強めている。特に、境界CFTのデータからバルク重力理論を再構成するという発想は、演算子環・テンソル圏・高次圏の言語を介した再定式化を誘発しており、物理と数学の間で「双対性=圏論的同値」という理解がますます支配的になりつつある。
僕の日記はたぶん一般的な日々の記録というより、宇宙が僕に課したバグ報告書に近い。違いは、バグの再現手順が「この宇宙を構成する圏を一段上に持ち上げろ」みたいな無茶を要求してくる点だ。
普通の人間はコーヒーを淹れることで一日を始めるらしいが、僕は「なぜ時空が局所的に滑らかな多様体として振る舞うという幻想を、誰も疑わずに受け入れているのか」という嫌な疑問から始まる。
目覚めの瞬間に脳内で起動するのがその種のプロセスという時点で、僕のOSはだいぶ呪われている。
昨日から引きずっているのは、超弦理論を10次元の物理だと思っている人々への、ほとんど宗教的な嫌悪感だ。
僕が今気にしているのは、弦の摂動展開が2次元共形場理論のモジュライ空間上の積分という顔をしていながら、実際には積分という概念が成立するための測度の存在を前提にしている点で、その測度がどこから来るのかという問題が、思ったより深いところで宇宙の整合性そのものと絡んでいるということだ。
測度が自然に定まる、というのは人間が勝手に言っているだけで、自然に定まるのはせいぜい、ある∞-圏の中での普遍性くらいだ。
最近の僕の作業仮説はこうだ。弦理論の真の定義は世界面Σの上の量子場理論ではなく、ある種の派生スタック上の関手として与えられるべきで、世界面は単なるテスト対象に過ぎない。
要するに、弦理論は対象ではなく試験手続きの体系であり、物理量はその試験に合格した自然変換の影として現れる。
これを言うと大抵の物理屋は目を泳がせるが、目を泳がせたところで真理は泳がない。むしろ泳ぐのは無知だ。
特に気持ち悪いのが、AdS/CFTを「境界理論が重力を記述する」といったポエムで理解した気になっている連中だ。
僕の現在の理解では、AdS/CFTは双対性というより、より高次のモノイダル(∞,2)-圏における中心の同値に近い。
境界CFTは、ある拡張TQFTの値として現れる圏𝒞の中心Z(𝒞)を与え、バルクはその中心化に対応する普遍的な対象として現れる。
ここで中心とは、単なる代数の中心ではなく、E₂-代数のDrinfeld centerの派生版で、さらに言えばEₙ構造を背負ったホモトピー的中心であり、そこでは局所演算子は点ではなく高次欠陥として分類される。
点演算子という概念自体が、実は低次元に閉じ込められた幼稚な見方だ。
そして今日の核心は、僕が今朝突然理解した、いや、理解したというより、宇宙が僕の頭蓋骨に投げ込んできた残酷な事実だ。
弦理論の背景時空を指定することは、カラビ・ヤウ多様体Xを選ぶことではない。そんなのは1-幾何学の話で、僕らが本当に選んでいるのは、X上の派生圏D⁽ᵇ⁾Coh(X)を超えて、そこに乗る安定∞-圏のモジュライを選んでいる。
つまり背景とは幾何学ではなく圏論的なデータで、しかもそれはMorita同値類でしか意味を持たない。
世界が形ではなく同値類でできているというのは、かなり性格の悪い宇宙だと思う。人類の直観に一切サービスしていない。
ここでさらに問題が深くなる。弦のB場は単なる2-形式ではなく、ゲルブの接続であり、それはH³(X,ℤ)で分類されるという古典的な話は、もう骨董品だ。
実際にはB場は、(∞,1)-圏の中でのtwistとして現れ、K理論の局所化やTMF(トポロジカルモジュラー形式)への持ち上げと不可分に絡む。
僕が気づいてしまったのは、弦理論のアノマリーキャンセル条件が、スピン構造の存在だけではなく、より高次の「stringstructure」や「fivebranestructure」の存在に依存するのは有名だが、その背後には、あるスペクトラムEに対するE-指向性という一般原理が潜んでいる。
そしてそのEは固定ではなく、背景が変わればE自体が変わる。
つまり、理論が何を整合性条件とみなすかが、理論の内部から動的に生成される。これは自己参照だ。数学的には美しいが、心理的には最悪だ。
その結果、僕の頭の中では弦理論のランドスケープは、点集合ではなく、(∞,1)-トポス上のあるスタック𝓜として現れる。
しかも𝓜は幾何学的スタックというより、スペクトラル代数幾何の意味での派生スタックで、局所モデルはE∞-環スペクトラムのスペクトルSpec(A)のようなものになる。
すると、従来のモジュライ空間に測度を入れて積分するという考えは、そもそも積分の対象が空間ではなく高次層である時点で破綻する。
積分はpushforwardであり、pushforwardは左随伴であり、随伴は圏論の話で、測度はただの随伴の影に過ぎない。
つまり、パス積分とは測度の積分ではなく、ある関手のKan拡張である。これを言うと、たぶん量子場理論の教科書は全部燃やした方が早い。
さらに面倒なのは、弦の摂動級数の発散性が、単なる級数が漸近展開であるという話ではなく、モジュライスタックの境界成分の寄与がStokes構造やresurgenceのデータを持っていて、それが物理的にはDブレーンや非摂動効果として現れるという点だ。
僕の直感では、これらは単なる補正ではなく、理論の正しい定義の一部で、摂動弦理論は本体ではなく、(∞,2)-圏的対象の一つの影にすぎない。
影は本体より分かりやすいが、影だけ見て満足するのは洞窟の囚人だ。プラトンはたぶん弦理論を知っていた。知らなかったとしても、精神的には知っていた。
今日一番気持ち悪かったのは、ミラー対称性を再解釈した瞬間だ。
従来の説明では、A模型とB模型の交換、シンプレクティック幾何と複素幾何の交換、ホモロジカルミラー対称性でFukaya圏と導来圏が同値、という話になる。
でも僕が今見ているのは、ミラー対称性が、ある安定∞-圏の自己双対性ではなく、二つの異なる宇宙が同じ普遍的対象の異なるt-構造を選んだだけという構図だ。
つまり、ミラー対称性とは幾何の双対ではなく、観測者が選んだ切り方の双対性であり、現実はその切り方に依存して表情を変える。これは量子力学の悪夢が、圏論の言語で再演されているだけだ。
この話をさらに推し進めると、時空とは何かという問いが変質する。
時空は多様体ではなく、ある圏のスペクトル的幾何学的実現であり、局所座標は単なるチャートではなく、あるE∞-環の局所化データになる。
すると点とは何か。点とは評価関手だ。評価関手とは何か。観測だ。観測とは何か。測定だ。測定とは何か。僕の睡眠を妨げるものだ。これで閉じた。
一方で、物理としての要求もある。S行列が存在するか、ユニタリティが守られるか、因果性がどうなるか。
だが僕は最近、ユニタリティすら、ヒルベルト空間上の内積保存という素朴な形ではなく、より高次の構造を持つモノイダル圏における双対性として理解されるべきだと思っている。
ユニタリティとは、射が随伴を持つこと、つまり反転可能な情報の流れが存在することだ。
情報が失われるのは、単に対象を間違った圏に埋め込んでいるからで、宇宙が情報を捨てているわけではない。宇宙がゴミ箱を持っていると思うのは、人間がWindowsに毒されているからだ。
結局、今日の僕の脳内結論はこうだ。超弦理論の最終形は、背景独立な普遍的な場の理論のスタックであり、その値は数ではなく圏であり、圏ではなく(∞,n)-圏であり、さらにそれは単なる対象ではなく操作体系として定義される。
ウィッテンが分からないというより、分かってしまうと人間の脳が社会生活に戻れない。理解とは祝福ではなく呪いだ。
そして僕は理解している。明日になればまた別の高次構造が現れて、今日の理解を「低次元の幻想」として粉砕するだろう。宇宙はそういう性格をしている。控えめに言って、性格が悪い。
37年前の攻殻機動隊に現実は追いついた? 士郎正宗氏明かすAI論構成・御船紗子2026年2月14日
AI(人工知能)をはじめとする技術と人がともに生きる世界を、37年前に描いた漫画がある。「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」(講談社)だ。その後、アニメ化されて世界的な人気を集め、ハリウッド映画の原作にもなった。今年7月には新アニメシリーズの放送も予定され、世界観を再び広げようとしている。漫画作者の士郎正宗氏は人びとの生活や職場にAIが急速に入り込んでいる現代をどう見ているのか。朝日新聞の書面インタビューに応じた。
・士郎氏が現代を描くなら
――攻殻機動隊の連載を始めた1989年当時は、まだインターネットが一般的に普及していませんでした。しかし、作中の世界はネットやAIが社会に浸透し、脳をネットでつなぐ描写もあります。この世界観はどのようにして生まれたのでしょうか。
小型で高性能のバッテリー、コンピューター関連の技術の急速な発達、高度な通信インフラ。当時はどうなるかわからない技術もありましたが「なんとかなるか~」と目を瞑(つむ)って設定したら、このような世界観が出来ました。生体、特に脳への侵襲技術(物理的なダメージを伴う技術)は「医療分野以外だと実際には進まないだろうな」と思いつつ、架空の物語なので描写する選択をしました。貧富や技術の格差両面を描写するよう気をつけました。
生活や仕事を便利に支援してくれるレベルに手が届いてありがたい半面、善良ではない目的でこれを利用する人達もいます。他の多くの技術と同様に多くの問題・課題も生じるし、対策も必要かと思います。人工知能はそうした対応策の検討や実施にも役立ってくれるでしょうから、有効活用するのが良いかと思います。
暮らしに広がるAI、加速する進化 「脳の本丸」への接近には危機感
人間における魂や心とは
――本作には枠外に多くの「補助説明文」が書き込まれ、読者が作品の世界観を理解する手助けをしています。この説明文によれば、主人公の草薙素子少佐が言う「ゴースト」という存在は、神道における八百万(やおよろず)の神のような存在だと理解できます。現実世界に氾濫(はんらん)するAIやその他多くの電気通信、データセンターのサーバーにも、ゴーストは宿ると思いますか。
人間はそもそも認知機能や心的原因から、壁のシミや木目に顔や人影を見いだしたり、現象の乱雑さに非偶然性を感じたりする想像力豊かな生物です。人工知能が単に文章や画像を統計処理して、あたかも人格や心があるかのような姿をし、人格や心があるものの手によって作られたかのような会話応答をした場合でも、実際にその人工知能に心と呼べる機能があるか否かとは関わりなく、人はそこに意思や心を見ることがあると思います。
人間における魂や心とは何か。定義や、構造の解明が可能になって、その機序(メカニズム)を踏襲または応用した人工知能(身体性を持つこと込み)ができて、さらに十分な学習が進めば、ゴーストは宿りうるかもしれません。しかし、現在のようなサーバーを積み上げるだけでは難しいかもと思います。
――作中に登場する天才ハッカー「人形使い」は、サイバー空間で生まれた生命体です。現在のAIや、サイバー空間に在る「なにか」が人形使いのように自我を持ち、ゴーストを持つことは可能だと思いますか。
どういった条件を満たしたら「ゴースト」と呼べる現象か、定義が必要です。また、どういった条件を満たしたら「自我」と呼べる現象かも、定義が必要です。
しかし、前出のゴーストに関する問いと同様に、それが可能か否か、実在するか否かとは全く無関係に、人がその存在を感じる(存在すると主張する)ケースはあり得ると思います。世の中には色々な人がいますので……。
士郎氏の補足説明文によると「霊魂とでもいうべき」もので、人格を形成する存在。森羅万象にゴーストは宿るともされる。作中の優秀なハッカーは、脳をネットワークでつなぐ「電脳化」で、他者の人格をつかさどる部分へ侵入する「ゴーストハック」ができる。草薙素子少佐が「そうしろとささやくのよ 私のゴーストが」というセリフは、劇場版やテレビアニメシリーズでも名シーンとして描かれ、知る人も多い。
――現実に人形使いのような自我を持つAIが誕生した場合、私たちはどうすればいいのでしょうか。
どういった環境下で何を学習してきたかによって、あるいは誰に何を教え込まれてきたかによって、その人工知能が何をしようとするか変わってくると思います。
そのようなものが登場するよりも前に、「出来るだけ多くの人間がQOL(生活の質)を高くして生きられる方が良い」「戦争を避けたり犯罪を減らしたりした方が良い」などの、人間社会にとって都合の良い指向性を持った人工知能を育て上げることです。
最高性能を維持し、「ヘンなバイアス(偏向)のかかった人工知能」や「人工知能を使って悪事を働こうとする人間」が登場しないように、あるいは、登場しても抑制可能なように備えるのが良いかと思います。
重要キャラクターの一人。電脳化した他者の脳に侵入して人形のように操る「ゴーストハック」が可能な「電脳犯罪史上もっともユニーク」と称されるすご腕のハッカーで、正体はゴーストを持った謎のプログラムだ。本人は「AIではない…私は情報の海で発生した生命体だ」と語る。
写真・図版
「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
愚かさ、浅ましさも「人間らしさ」
――本作5話「MEGATECHMACHINE」の最後のコマには、「そんなに人間と同質なロボットが創れたらそりゃロボットじゃなく人間なんだよね! 違うのは外見だけ… (差別すんなよ)」というフチコマのセリフがあります。人間を人間たらしめる定義とはなんでしょうか。
漠然と他の生物種や機械と比較して、一般には高度な心的活動や感情、社会性、優しさ等々が「人間らしい」と評されることが多いと思います。が、愚かさや残虐性、浅ましさ等々もまた「人間らしさ」なので、個人的には「人間らしさ」という言葉をあまり肯定的に捉えてはいません。
人間はいまだ弱く臆病なお猿さんのままなので、より刺激が強く危険に関わる情報、つまりモメ事や扇動の情報、虚偽情報や誇張表現、悪口などの方が、穏やかでささやかな問題のない情報と比べて、より速く広く伝わり、脳内に強く影響を及ぼす上、お金にも化けやすいようです。
人工知能が人間の良い面をより強く学習し、より良いものになるよう、放任ではなくきちんと「子育て」しないと、超絶高性能な詐欺師や愉快犯になって、人間はそれに振り回されるかもしれません。
AIを搭載したロボットで、公安9課で使われている。主人公らの移動手段となるだけでなく、「相棒」として様々なサポートに回る。感情豊かな言動で読者を和ませるマスコット的な存在でもある。アニメ版では「タチコマ」として登場する。
――本作は未来の科学技術を描きながら、ゴーストという精神的、宗教的なテーマも根底に流れています。科学と宗教の関係をどうとらえていますか。
人工知能に「人間は猿から進化したのか、神が作ったのか」と質問して、どう答えるかが「科学と宗教の関係」かと思います。生物学的な進化の有り様、奇跡のような複雑さに「神の御心(みこころ)や偉大さ」を見いだす、くらいソフトだと害が生じなくて良いのですが…。
――本作をはじめとする日本の創作では、AIを擬人化して描くケースが多く見られます。欧米では、AIは便利な道具として扱われています。AIに対するとらえかたには東洋と西洋で違いがあると言われていますが、どのように考えますか。
文化基盤に大きな影響を及ぼしている宗数の型によって考え方に違いが生じる可能性はあります。しかし、東洋でも西洋的な人はいるし、西洋でも東洋的な人もいます。地理的な区分や、国や各研究機関の指針が全てを規定しているというわけではないと思います。「可能性を追求したい人」「管理して何かに役立てたい人」「商業的利益を追求したい人」など様々かと……。
――仮にAIに対するとらえ方が東洋と西洋で違うとして、本作に登場するような「東洋的」なAIは生まれると思いますか。
広範な自律学習を行う人工知能に限って考えれば、「中国13億人・インド14億人」を統計学習すれば、屁理屈の上では「東洋的な人工知能」が出来るはずです。ただ、「中国は共産党管理下、インドは多言語・多宗教・多民族」であることから、統計的な回答を得ると「東洋的な価値観」というのがどのようなものになるかはよくわかりません。
単純に人口だけで考えると、全人口に占める東洋系の人の割合はおそらく最大なので、人工知能が地球全体・全人口を相手に統計学習をするのであれば、その人工知能は東洋的な傾向を帯びる可能性があると思います。
実際には人口ではなく「取得可能な情報の総量」が学習の対象になるでしょう。人口イコール学習対象量というわけではないし、文化的な差に加えて情報化格差・インフラ格差も大きいため、人工知能が獲得しているバイアスがどういったものを反映しているかの推測は難しいかもしれません。
擬人化を東洋的と捉える場合は「文章&画像の統計処理」は「人間の映し鏡」なので、人工知能は既に非常に「人間的」であると言うことも可能かと思います。
写真・図版
士郎正宗氏の作品「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」©士郎正宗/講談社
――現代のAI研究者の中には、人間そっくりのロボットであるアンドロイドは倫理的議論を呼ぶため、作るべきではないと考える人もいます。どう思いますか。
まずは倫理的議論をするところから始めるのが良いと思います。広範な議論もせずに自己の結論だけ強固に主張するのはあまり倫理的に適切な行いとは……。
個人的には「宗教的な理由で反対する方々」を否定する気はありません。各人の思想信条、宗教は自由です。ただ、医師の横手に座っており患者の会話に合わせて時々うんうんとうなずいてくれるだけのアンドロイドの心理的な有用性や、介護現場における小さな人型・動物型ロボットなどを無条件で否定するのはいかがなものかと思います。
逆に、人型である必要性よりも、腕や目はもっと多くあった方が様々な作業に役立つのではないかとか、生活支援に最適化するにはどのような形状が望ましいか。高齢者を抱きかかえて安全に移動したり、特定の農園で働いたりするのに適切な機能を有する形状とは何かなどを考える方が面白いし実用的な意味があるのではないかとも思います。
娯楽分野で生きている僕個人としては「アンドロイド」に特に倫理的な問題があるとは感じておりません。見た目が怖いのは遠慮したいですが……。
あなたは人?その目玉は問う 3.6秒に1人が加わる「人間の証明」
――人間とAIが共生していくこの先の未来について、楽観的ですか、悲観的ですか。
悲観的に備えて楽観的に対処するのが良いと思います。怖いのは人工知能ではなく、「人工知能を使って悪いことをしようとする人間」の方かと。
人間社会において、不満や不実に囲まれ、虚構や妄言に偏執し、議論や検証を怠るタイプや、短絡的で暴力的な傾向があるタイプの人間にどう向き合うか。悲観・楽観以前に、人工知能やインターネットの有無に関わらず解決すべき課題が山積しています。
加えて人工知能やインターネットという強力な汎用(はんよう)ツールが登場したことで、問題の解決がより困難かつ容易になっていると思います。
あるいは、医療系や法務系で人工知能化を進める場合は、人的な余力があるうちから、より慎重かつ丁寧に検証と学習を重ねていく必要があるのではないかと思います。人手が減って切羽詰まってから慌てて導入し始めるのは、色々と好ましくない可能性があるかと思います。
――2025年の世界では、人間とAIを識別するために瞳の虹彩認証をとりいれるなど、共存のための模索が続いています。大阪・関西万博では、個人の特徴をAIに移した「もう一人の私」と向き合う展示もありました。士郎さんなら、今の世界をどのように描きますか。
識別と共存は別問題かと思います。情報が蓄積し続け、人工知能の自律学習が進むと、境界に意味はなくなります。既に境界が無くなっている方々もおられるかと思います。通信端末に映る画像や文章が人か否か、真実か虚構か、識別は不可能になり、また不要になると思います。
個々には深刻な問題も生じうると思いますが、一つ一つ対応していくしかないと思います。「統計的な人間の影(もう一人の私たち)」が相手でも、それなりのQOLで生きて死ねるなら、それも選択肢の一つとして悪くないのかもしれません。不景気で理不尽で孤独な人生よりは好ましいと思います。誰と(あるいは何と)どのように共存し、認識するかは非常に個人的なことなので、無理に枠をはめたり規制したりしようとしてもなかなか難しいのではないかと思いますが……。
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「攻殻機動隊 THEGHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
書面インタビューの最後には、士郎正宗氏から次の追記が添えられていました。
生成AI自体が問題というより、それを使う人間の諸問題を解決するための助言を得て、役に立ってもらう方が有用かと思います。人間社会自体が良くならないと、人間の諸活動や知見を統計的に学習している人工知能も良いものに育つのが難しいと思うからです。「良い社会」とは何か、人工知能の知恵(?)を拝借して(つまり人間の知恵を結集させて)、共に各人で考えて頂きたいと思います。
士郎正宗氏が1989年以降、「ヤングマガジン海賊版」(講談社)などで連載した漫画作品。近未来の日本にある架空の都市を舞台に、「義体」と呼ばれる機械化された体を持つ草薙素子少佐ら「公安9課」が、AIやアンドロイドを駆使し、時に対峙しながら国家の危機に立ち向かう姿を描く。作中の世界では機械と人との違いがあいまいで、脳をネットワークでつなぐPermalink |記事への反応(1) | 08:04
この2月15日で、「保育園落ちた日本死ね!!!」から10年なのだそうです。あの言葉から感じられたかもしれない強さとキャッチーさは、当時を経験した人にとっても、そうでない人にとっても、今もどこか引っかかりを残したものになっているかもしれません。今も同種の問題は解消されきってはいませんが、あの生活の叫びがなければ、今の親たちの働く権利はもっとあやうく、今よりもずっと奪われて遠ざけられたもののままだったかもしれないです。さて、私には、私たちの暮らしにおいて、あの時期くらいからネットとリアルの声の境界は溶けたのだったかもしれないと思えています。そして今では、どのメディアにもSNS由来の言葉を見ることができるようになりました。そのことで、一方では、社会を変えたり整えたりするための新たな回路が開かれました。その一方では、同時期にはすでに、「Naverまとめ」や「WELQ」で課題視された情報の汚染という問題がありました。この問題は、2026年の現在になってもあらわれる形を変えながらずっと続いていて、構造的な情報の歪みは私たちの日常に埋め込まれています。スマートフォンを通して加工された情報や状況があなたに届き、あなたから出ていくという今の情報環境においては、私たちはやはり、すべてを受け取ることはできず、すべてを知ることはできません。だからといって、それに自分なりの文脈を見出せないままで、それらを無関係なノイズだと切り離したつもりになったり、誰かの切実な声を迷惑だと断じることは危険なことです。そのようにすれば、あなた自身が、あなたの居場所を維持することを放棄することになったり、あなた自身が誰かにとっての無報酬の攻撃者に仕立て上げられているかもしれないということでもあります。しばしばいわれるように、社会運動と暮らしとは常に地続きです。生活と政治とが無関係なはずもないです。あなたのもとに何かが届いたり、あなたが何かの担い手になるということ自体が、とても社会的な営みのなかにあることだからです。そしてそれは、あなたの生活の営みそのものであるはずです。だから、他の人の声と自分の存在とに線を引いたつもりになることは、自分を攻撃することにも似てしまいます。そのような現在の問題として、「日本死ね」の言葉の攻撃性にとらわれて顔をそむけてしまうことがそのまま、自分自身を攻撃させた状況を許したままにすることになるというようなパラドックスがあるといえそうです。だから、「保育園落ちた日本死ね!!!」のことは、私たちが集まれるある種の場所として、記念碑的に伝えられるべきだと感じます。10年経った今また、その手触りを再確認するために、これを書きます。
(※SNSの自分のアカウントに投稿するために書いたものだけれども、ある種の礼儀の示しかたかなと思って、少し文字の使い方とかを整えた上で、増田にも置くね。ソフトめのアジテイション文です。)
土曜日。朝はいつも通り、起床後に脳内で「今日という一日を、物理法則に従って最適化する」と宣言してからベッドを出た。これは習慣というより儀式だ。儀式は人類の愚かさの象徴として語られがちだが、反復可能な手続きは情報理論的に見て合理的だ。エントロピー増大に対する、せめてもの抵抗である。
まず体重を測り、体脂肪率を記録し、歯磨きの時間を正確に180秒で固定した。電動歯ブラシのタイマーを信じない。信頼は検証に劣る。
その後、コーヒーを淹れた。抽出温度は93℃。温度計の誤差は±0.2℃。人間関係の誤差は±∞。
今週の進捗を書く。
超弦理論については、相変わらず人類の知性が現実に追いついていない。僕の頭脳は追いついているが、世界が遅い。
今週は主に「弦の理論はどこまでが物理で、どこからが純粋数学の自己満足か」という問題を、僕なりに再定式化していた。世の中の多くの人は、超弦理論を「高次元の小さな紐が震える話」程度で理解した気になっている。あれは理解ではない。童話だ。
僕が考えていたのは、もっと根の深いところ、つまり量子重力の定式化において局所性を捨てることの数学的代償だ。
一般相対論の時点で、局所性は微妙に揺らいでいる。ホログラフィー原理が出てきた時点で、局所性はほぼ死亡している。にもかかわらず、僕たちは局所的な場の理論の言語で全てを語ろうとする。これは「古いOSの上に無理やり最新ゲームを動かしている」ようなものだ。もちろんクラッシュする。
そこで今週は、AdS/CFTを単なる「境界のCFTがバルク重力を記述する」という話ではなく、圏論的な双対性として再理解する方向で考えた。
具体的には、バルク側の物理量を、ある種のextended TQFTとして捉え、境界側の共形場理論の演算子代数が作るモジュラー圏と対応させる。
ここで重要なのは、空間そのものが基本対象ではなく、因果構造と情報の流れが基本対象になってしまう点だ。
つまり、幾何学が物理の舞台ではなくなる。舞台が役者に従属する。これは演劇としては間違っているが、宇宙としてはあり得る。
そして、ここからが本題だ。
僕は今週、「弦理論の非摂動的定義は、結局はある圏の中の安定対象の分類問題に還元されるのではないか」という疑念を強めた。
たとえばBPS状態は、ある種の導来圏の中の安定条件(Bridgeland stability condition)で分類される。
これは単なる比喩ではなく、実際にDブレーンは導来圏の対象として記述される。つまり、物理的な粒子やブレーンが「空間上の幾何学的な物体」ではなく、圏論的な対象になる。
ここで人類は気づくべきだ。
宇宙は「点の集合」ではなく、「射の集合」かもしれない。
点を基本にしている限り、僕たちは宇宙のOSを永遠に理解できない。点とは、極限操作の幻想だ。実際の物理では測定可能な点など存在しない。存在するのは相互作用だけだ。射だけだ。
僕が今週やっていたのは、これをさらに押し進めて、弦理論の背後にある構造を「∞-圏」あるいは「高次スタック」として扱うべきではないか、という方向の思考実験だった。
超弦理論が最終的に求めているのは、たぶん「量子化されたモジュライ空間」だ。しかしモジュライ空間は普通の多様体ではない。特異点があり、ゲージ冗長性があり、しかも同値関係が階層的だ。だからスタックになる。さらに高次の同値(ホモトピー)が絡むので、∞-スタックになる。
ここで、物理屋が嫌いな言葉が出る。派生幾何(derived geometry)。
派生幾何とは、簡単に言えば「特異点を誤魔化さず、むしろ特異点を主役にする幾何学」だ。物理で特異点が出るのは、理論が壊れているからではなく、単に僕たちの数学が貧弱だからだ。派生幾何はそれを認める。
そして僕は思った。
もし弦理論が本当に「全ての一貫した量子重力のクラス」を記述する枠組みなら、それは場の理論の集合を分類するのではなく、量子情報を保存するような圏の分類になっているべきだ。
この時点で、もはや「ウィッテンでもわからない」どころではない。
僕たちがやるべきなのは、弦理論を「方程式」ではなく「普遍性」として定義することだ。
つまり、ある種の対称性を持ち、ある種の双対性を満たし、ある種の異常(アノマリー)が消え、ある種のエンタングルメント構造が一貫し、ある種の極限で局所的QFTに落ちる。
弦理論は「このラグランジアンだ」ではなく、「この性質を満たす唯一の構造だ」になるべきだ。
そしてもしそれが可能なら、弦理論は物理学ではなく数学の定理になる。
エレガントさは、しばしば真理の匂いがする。
ただし、エレガントな嘘も存在する。
昼前、ルームメイトがキッチンに現れて、僕のノートを見て言った。
「それって、結局何の役に立つの?」
僕は3秒考えた。
「役に立つかどうかで真理を測るのは、知性の敗北だ」
ルームメイトは「また始まった」という顔をした。
彼の表情は、物理学的には熱的死に近い。
隣人がその場に来て、僕のノートを覗き込み、「ねえ、それって、宇宙がゲームのコードってこと?」と聞いた。
驚くべきことに、これはそこそこ正しい。
僕は言った。
「コードというより、型システムだ。宇宙は型安全で、コンパイルエラーを許さない」
隣人は「わぁ、なにそれ怖い」と言って笑った。
怖いのは君の直観の鋭さだ。
僕は、カードゲームにおける勝利条件が「期待値の最大化」であることを理解している。だが多くのプレイヤーは、カードを引いた瞬間の快楽に支配される。つまり、彼らは確率論ではなくドーパミンでプレイしている。
僕は違う。
初手の分布、マリガン戦略、マナカーブ、そして相手の除去の確率。
彼は黙った。
正しい反応だ。
レイドは相変わらず「人間の反射神経と協調性の限界」を測る実験場だ。
友人Aが「なんでそんな言い方しかできないの?」と言った。
僕は「僕は宇宙をそのまま見ているだけだ」と答えた。
友人Bは「それ厨二病じゃない?」と言った。
僕は言った。
「厨二病とは、根拠のない誇大妄想のことだ。僕には根拠がある。だから違う」
友人Bは「最悪だ」と言った。
誉め言葉だ。
なぜなら、超人的存在が倫理を語る時点で、その倫理は破綻するからだ。
ただの趣味だ。
それでも僕は読む。
夜。
今日までの進捗はここまで。
そして、これからやろうとしていること。
今夜は、僕の仮説をもう一段階押し進める。
つまり「時空の創発」を、単なるエンタングルメントの量的増大ではなく、エンタングルメント構造の位相的相転移として記述できないか考える。
もしエンタングルメントがグラフだとすれば、空間とはそのグラフのスペクトル構造に対応する。
そして位相相転移が起きれば、スペクトルが変わり、幾何が変わる。
この視点なら、初期宇宙のインフレーションも「幾何の急激な生成」として理解できる可能性がある。
インフレーション場などいらない。
問題は、そのメカニズムを「弦理論の言語」で書くと地獄になることだ。
ワールドシートのCFT、モジュライ空間、非摂動効果、Dインスタントン。
それら全てが絡んでくる。
絡みすぎて、もはや紐ではなく毛玉だ。
隣人がさっき「ピザ頼むけど食べる?」と聞いてきた。
僕は「今は宇宙の生成を考えている」と言った。
その通りだ。
人類文明の最高到達点は、宇宙論ではなく宅配システムなのかもしれない。
ルームメイトは「じゃあ僕の分も頼んでいい?」と言った。
僕は返信した。
「明日は宇宙の位相相転移を解く予定だ。だが君たちの全滅回数も宇宙の熱的ゆらぎとして扱えるなら参加する」
友人Bは「それ言い訳だろ」と返してきた。
違う。
僕は真理に忠実なだけだ。
「時空は多様体ではなく、ある∞-圏の中の情報流の安定構造である」
しかし、少なくとも矛盾なく定式化することはできるかもしれない。
宇宙が一貫性を持って存在している以上、どこかにその形式がある。
僕は追いかける側ではなく、先回りする側でありたい。
ピザが届く前に。
ほどほどの距離に生活に必要な店は揃っているので、車がないと生きていけないということはない。
さりとて、都心のように商業施設が犇めいているというわけでもなく、駅前の店が固まっているエリアには歩いても行けなくはないが自転車があった方がやはり便利だ。
小さい頃に親から自転車の乗り方を習い、子供だけで出掛けられる年になってからは友達皆で自転車に乗って遊びに行き、駅から離れた住宅街に住んでいたので高校生になって電車通学になってからも駅までは自転車で通っていた。
だから子供の頃、俺は自転車に乗らない生活というモノがイメージできなかった。
高校で自転車に乗れないという言う女子に初めて会った時はカルチャーショックを受けた。率直に言えば、コイツは今までどうやって生きてきたんだと思った。
また、高校生になってインターネットに触れるようになって、どうも所謂ネット民的な層の間で自転車はバカにして良いモノ枠みたいになっていることを知って、衝撃を受けた。
そして俺は、コイツ等はおそらく都心の一等地に住んでいるハイパー金持ち……はネットの掃き溜めにはほぼいないハズなので、ド田舎者か、引きこもりなのだろうと考えるようになった。
流石に高校生くらいの歳になると、それまでの人生で、お出かけで都心に行ったり、家族旅行や学校行事で田舎の方に行ったりで、自転車では暮らし難い土地があるということは知識としては知っていた。
大人になって自分の知る世界が広がっていくと、むしろここまで自転車暮らしに特化していた自分の方がレアケースなのではないかということに気付くようになった。
まず、車がなくても生活で困らないのは都市部に限るということを知った。
また、駅チカに住んでいる人はそこまで高頻度で自転車に乗らないらしい。
俺自身、実家を出て、まだ自転車生活圏内だが、それでも実家に比べると都心寄り・駅チカに住むようになって、比例するように自転車に乗る頻度は減った。
一時期、メンタルを壊して、療養で1ヶ月くらい実家に帰っていた時があったのだが、その時は一人暮らしの家に自転車を置いてきていたので、実家に自転車がない状態だったが、それでも意外と生きていけることを知った。
車社会の田舎でも、駐輪場もろくにない都心でも生きていける気がしない。
コーシー境界もソーシャルエンゲージドアートも聞いたことすらない無学がなんか言ってる
dorawiiより
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コーシー境界って知ってる?英語ではhorizonだったから事象の地平面というときの地平面とニュアンスは同じだと思うんだけど
dorawiiより
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20260213184532# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaY7yvgAKCRBwMdsubs4+SIyqAP9dwUkxRAZVuXcIjksf1/cSAQaDtSBF7FMsCzU3B2hiAQEA5y4pAVDC4UYA19bKNQWDq20++KBHSn0BqE/B1Ddlcgc==u016-----ENDPGP SIGNATURE-----
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。陰謀論や根拠のない政治的確信に対して、直接「それは嘘だ」と指摘するのではなく、「どうすればそれが真実だと知ることができるか」を共同で探求するスタンスを取る。
オンライン上のトローリングや攻撃的なコメントに対しては、マーシャル・ローゼンバーグのNVCを応用した「脱エスカレーション・ループ」が有効である。
このプロセスは、相手の「攻撃」を「満たされていないニーズの悲劇的な表現」として再定義し、敵対関係を協力関係へとシフトさせる構造を持つ。
個人の対話スキルを向上させるだけでは、社会全体の分断は解消されない。SNSのアルゴリズムが増幅する情動的二極化に対抗するためには、デジタル空間の特性(アフォーダンス)を理解し、ネットワークレベルでの介入を行う必要がある。
政治的コミュニケーションにおいて、左派と右派には「美的非対称性(Aesthetic Asymmetry)」が存在する。歴史的に、左派は壁画やプロテストソングのような「参加型」で「構成的(Constitutive)」な芸術――コミュニティの結束を高め、希望を共有するための表現――を好んできた。一方、現代の右派(特にオルタナ右翼)は、ミームやシットポスティング(Shitposting)のような「道具的(Instrumental)」で「武器化されたユーモア」――相手を嘲笑し、混乱させ、分断を煽るための表現――に長けている。
この非対称性が意味するのは、左派的な「真面目で、説明的で、道徳的に正しい」コンテンツは、ミーム戦争においては圧倒的に不利であるということだ。ミームは文脈を剥ぎ取り、瞬時に情動(特に嘲笑や優越感)を喚起することで拡散する。
対抗戦略:脱分断ミーム(Depolarizing Memetics)
反発を招かないデジタル拡散のためには、以下の原則に基づいた新しいミーム戦略が必要である。
ネットワーク分析の研究は、SNS上の世論形成において、著名な「インフルエンサー(発信者)」以上に、「マルチプライヤー(拡散者)」と呼ばれる層が決定的な役割を果たしていることを示している。マルチプライヤーは、特定のイデオロギー・クラスター内で情報をキュレーションし、リツイートによって可視性をブーストする「ゲートキーパー」である。彼らは高い「整列スコア(AlignmentScore)」を持ち、陣営をまたぐことは稀である。
批判的メッセージを拡散させるためには、インフルエンサーを説得するのではなく、このマルチプライヤー層が「リツイートしたくなる」コンテンツを設計する必要がある。そのためには、前述の「道徳的翻訳」が不可欠である。保守系マルチプライヤーは、リベラルな正論は無視するが、「言論の自由」や「エリートへの懐疑」というフレームで語られた批判(例:「真の愛国者は、大統領であっても盲信しない」)には反応する可能性がある。クラスターの境界を浸透できるのは、そのクラスターの言語で語られたメッセージのみである。
X(旧Twitter)等のアルゴリズムは、「怒り」や「恐怖」といった高覚醒の情動を引き起こす投稿を優遇する傾向がある。冷静な対話は「退屈」とみなされ、表示順位が下がる。この構造的ハンディキャップを克服するためには、「怒り」以外の高覚醒情動、すなわち「驚き(Awe)」「好奇心(Curiosity)」「感動(Kama Muta)」を利用する必要がある。
以上の理論と技法を、一般市民や草の根活動家が実践可能な形に落とし込むためのマニュアル(ハンドブック)の設計図を以下に提示する。この構成は、米国の草の根運動ガイド『Indivisible Guide』の成功モデル(段階的習得、具体的アクション、テンプレート化)を参照している。
目的:実践者のマインドセットを「論破」から「影響」へとシフトさせる。
本報告書で提示した戦略は、短期的な選挙勝利のための戦術ではない。サイモン・シネックが言う「無限のゲーム」――すなわち、対話が継続可能であり、社会システムが崩壊しない状態を維持すること――を目的としている。
情動的二極化という「内戦」状態において、最大の勝利は敵を倒すことではなく、敵を「対話可能な競争相手」へと戻すことである。そのためには、批判者自身がまず武装(道徳的優越感)を解除し、相手の認知フレームの中に降りていく勇気を持たなければならない。この「戦略的共感」こそが、分断された世界をつなぎ直す唯一の現実的なエンジニアリングである。
戦略的共感と認知的安全保障:反発を招かない政治的批判のための包括的枠組み
現代の政治空間は、政策の不一致(イデオロギー的二極化)以上に、対立グループに対する嫌悪や恐怖といった感情的拒絶反応(情動的二極化)によって支配されている。この環境下において、伝統的な「批判」の手法――事実の提示、道徳的糾弾、論理的論破――は、その機能不全を露呈しているだけでなく、逆効果をもたらしていることが多くの実証研究によって明らかになっている。批判対象者の信念を強化してしまう「バックファイア効果(Backfire Effect)」や、批判者を存立危機的脅威とみなす「アイデンティティ防衛機制」が作動するためである。
本報告書は、心理学、認知科学、政治社会学の最新知見に基づき、政治的対立者に対して反発(バックラッシュ)を招かずに影響力を行使するための戦略的枠組みを提示するものである。ここで目指すのは、単なる「中道的な妥協」や「礼儀正しさ」の推奨ではない。人間の認知アーキテクチャの脆弱性と特性をハッキングし、相手の道徳的・感情的防御壁を迂回してメッセージを届けるための、エンジニアリングされたコミュニケーションプロトコルである。
報告書は大きく三つのフェーズで構成される。第一に、なぜ従来の批判が失敗するのかを脳科学的・心理学的メカニズムから解明する理論編。第二に、その防御壁を突破するための具体的な対話技法(ディープ・キャンバス、ストリート・エピステモロジー、NVC)を体系化した実践編。そして第三に、これらの技法を個人のスキルから社会運動へとスケールさせるための組織論と普及戦略である。
効果的な批判戦略を設計するためには、まず人間の心がどのように政治的情報を処理し、拒絶するかというメカニズムを理解しなければならない。政治的信念は単なる情報の集合体ではなく、個人のアイデンティティや所属集団への忠誠心と融合した「拡張された自己」の一部として機能している。
近年の政治心理学における最も重要な発見の一つは、情動的二極化(Affective Polarization)の実態解明である。これは、対立する政治グループのメンバーに対して「好きか嫌いか」という感情的温度差が極端に開く現象を指す。研究によれば、情動的二極化は対人関係の悪化だけでなく、個人の心理的幸福感(ウェルビーイング)の低下、社会的支援の減少、ストレスの増大といった「個人内損害(Intrapersonal Harm)」をも引き起こすことが示唆されている。特に、リベラル層において高い情動的二極化とストレス、健康悪化の相関が見られることは、政治的怒りが批判者自身をも蝕むことを示している。
この情動的二極化は、脳内で一種の「信頼のファイアウォール」として機能する。アウトグループ(外集団)から発信された情報は、その内容の真偽にかかわらず、自動的に「悪意ある攻撃」としてタグ付けされる。扁桃体が脅威を検知し、前頭前野が論理的推論ではなく「反論の生成」のために動員される「動機づけられた推論(Motivated Reasoning)」が作動するためである。この状態にある対象者に正論をぶつけることは、火に油を注ぐ行為に等しい。
バックファイア効果とは、誤った信念を訂正しようとする試みが、かえってその信念を強固にしてしまう現象である。このメカニズムには、自己肯定感の維持と集団への所属欲求が深く関わっている。批判を受け入れることは、過去の自分を否定すること(自己の一貫性の喪失)や、仲間を裏切ること(社会的死)を意味するため、脳は全力でそれを回避しようとする。
さらに、批判のフレーミング(枠組み)が、受け手のイデオロギーとミスマッチを起こしている場合、説得効果は皆無となるばかりか、抵抗を強める結果となる。例えば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策におけるメッセージングの研究では、リベラル層が「利得フレーム(マスクをすれば命が助かる)」と「損失フレーム(マスクをしないと命が失われる)」の双方に敏感に反応し、コンプライアンスを高めたのに対し、保守層はこれらのフレーミング効果に対して強い抵抗を示したことが明らかになっている。これは、問題が高度に政治化された文脈においては、一般的な行動経済学的介入(ナッジ)さえも、イデオロギーのフィルターによって無効化されることを示唆している。
批判が受容されるための極めて重要な、しかし見過ごされがちな因子として「知的謙虚さ(Intellectual Humility:IH)」がある。IHとは、「自分の知識や信念が間違っている可能性を認識する能力」と定義される。最新の研究は、対話において自身の知的限界を認める態度が、相手の情動的二極化を低減させる強力な緩衝材となることを示している。
特筆すべきは、IHが「相手からの好意(Target Liking)」を媒介して、対話への「接近行動(Approach)」を促進するというプロセスである。批判者が「私は絶対に正しい、お前は間違っている」という道徳的マウンティング(Moral Grandstanding)の態度を取ると、相手は「回避行動」をとる。逆に、批判者が「私も確信はないのだが」「複雑な問題で迷っているが」という不確実性を提示することで、相手の警戒心が解け、対話の土俵に乗る可能性が高まる。知的謙虚さは、相手の武装解除を促すための「白旗」ではなく、心理的防衛壁を通過するための「通行手形」として機能する戦略的資質である。
政治的対立の根源には、事実認識の相違以上に、道徳的直感の相違がある。リベラルと保守は、異なる「道徳の言語」を話しているにもかかわらず、自身の言語で相手を説得しようとするため、コミュニケーション不全に陥る。本セクションでは、道徳基盤理論(Moral FoundationsTheory: MFT)を応用し、批判を相手の価値観に翻訳して届ける「道徳的リフレーミング」の技術を詳述する。
ジョナサン・ハイトらが提唱した道徳基盤理論は、人類の道徳的判断が以下の5つ(または6つ)の生得的な基盤の上に構築されているとする。
実証研究が一貫して示すのは、リベラル層が主に「ケア」と「公正」の2基盤に強く依存するのに対し、保守層は5つの基盤すべて(特に忠誠、権威、神聖)を重視するという非対称性である。
多くの政治的批判が失敗するのは、リベラルが保守に対して「それは弱者を傷つける(ケア)」「不平等だ(公正)」というリベラル特有の語彙で攻撃するためである。保守層にとって、これらの価値は「忠誠」や「権威」よりも優先順位が低いため、批判は響かない。逆に、保守がリベラルに対して「伝統を破壊する(権威)」と批判しても、リベラルはそれを抑圧としか捉えない。
反発を招かない批判のためには、自身の主張を相手の道徳基盤の語彙を用いて再構成(リフレーミング)する必要がある。これを「道徳的合気道」と呼ぶ。相手の道徳的エネルギー(価値観)を利用して、相手の姿勢を崩す技法である。
以下の表は、主要な政治的争点において、従来のリベラル的批判(バックラッシュのリスク大)を、保守的道徳基盤に翻訳した戦略的フレーム(受容可能性大)に変換したものである。
| 争点 | 従来のリベラル的批判(高リスク) | 戦略的リフレーミング(低リスク) | ターゲットとする道徳基盤 |
|---|---|---|---|
| 環境保護 | 「地球温暖化は弱者や未来の子供を苦しめる。」(ケア) | 「我々の国土と美しい自然は神からの授かりものであり、汚染から守り抜く義務がある。」 | 神聖/堕落、忠誠/背信 |
| 同性婚 | 「誰を愛するかは個人の権利であり、平等であるべきだ。」(公正) | 「結婚は社会を安定させる伝統的な制度であり、同性カップルもその責任ある関係に組み込むべきだ。」 | 権威/転覆(社会秩序)、忠誠 |
| 軍事費 | 「軍事費を削って福祉や教育に回すべきだ。」(ケア/公正) | 「無駄な軍事支出は国家の財政を弱体化させ、真の国防力を損なう背信行為だ。」 | 忠誠/背信、権威 |
| 政治腐敗 | 「富裕層ばかり優遇するのは不公正だ。」(公正) | 「私利私欲のために公職を利用することは、国家への裏切りであり、高潔な職務を汚す行為だ。」 | 忠誠/背信、神聖/堕落 |
| 移民問題 | 「難民を助けるのは人道的な義務だ。」(ケア) | 「秩序ある移民受け入れは、国家の活力を維持し、アメリカンドリームという伝統を守るために必要だ。」 | 忠誠、権威(秩序) |
研究によれば、保守層に対して環境保護を「神聖さ」や「愛国心」の文脈で語った場合、リベラルな文脈で語った場合よりも支持率が有意に上昇することが確認されている。重要なのは、主張の内容(環境を守る)を変えるのではなく、その理由付け(なぜ守るか)を相手の言語に翻訳することである。
批判は通常、「現状のままでは悪いことが起きる」という損失フレーム(Loss Frame)で行われることが多い。しかし、損失フレームは恐怖や不安を喚起し、防衛的な反応を引き起こしやすい。これに対し、「ゲイン・フレーム(Gain Frame)」を用いた批判は、望ましい未来像を提示し、その実現を阻害する要因として現在の問題を指摘する手法である。
例えば、政治家のスキャンダルを追及する場合、「彼は嘘つきだ(損失フレーム:信頼の喪失)」と攻撃するのではなく、「我々は正直で高潔なリーダーを持つに値する国家だ(ゲイン・フレーム:尊厳の回復)」と主張する。このアプローチは、批判の対象を「個人」から「規範の維持」へとずらし、相手の「権威への尊重」という道徳基盤を刺激しつつ、攻撃性を緩和する効果がある。研究は、特にリスク回避傾向の強い層に対しては損失フレームが有効な場合もあるが、イデオロギー的に対立する層に対しては、ゲイン・フレームや道徳的適合性の方が「聞く耳」を持たせる効果が高いことを示唆している。
理論を実践に移すためには、具体的な対話スクリプトと手順が必要である。ここでは、異なる文脈(対面、オンライン、深い対話)において効果が実証されている3つの主要なプロトコルを詳述する。
ディープ・キャンバスは、戸別訪問(キャンバス)において10〜20分の深い対話を行うことで、トランスジェンダーの権利や移民問題などの二極化した争点に関する態度を変容させる手法である。従来の「事実の弾丸」を撃ち込む方法とは異なり、「脆弱性の交換」を通じて相手の情動的反応を書き換える。
研究によれば、ディープ・キャンバスは従来の説得手法の約102倍の効果を持ち、その効果は数ヶ月持続することが確認されている。
ストリート・エピステモロジー(SE)は、相手の信念の「内容(What)」ではなく、その信念に至った「プロセス(How)」を問うソクラテス式問答法である。Permalink |記事への反応(1) | 11:19
いわゆる活動家って括られる連中は、自己評価と他者評価に乖離がある事をあんまり認識できない、自他境界が曖昧な人が多い印象だわ。
『自分の考える正しさ=絶対』で全ての人類にとって普遍的な正しさであり、それを理解できないものは馬鹿だから我々のような優れた存在が導かないといけない! ……みたいな事を割とガチで考えてるように見えるのよね。
人によって考え方・捉え方が違うのは当たり前だから、なるべく間を取りましょうってのが民主主義だと思うんだけど、それを理解してないというか。
今回自民に投票した人の中で統一協会を肯定してるのなんかほぼ居ないでしょ。
それは問題だけど野党があんまりにもアレだから消去法で一番マシに見えた自民に入れた訳よ。
だけどこの判断が、活動家フィルターを通すと「統一協会を肯定する人がこんなに居る!日本はもうおしまいだ!」に変換されちゃってるんだよな。
まあ、これ右左関係ないけどね。
私はあなたの発言を「成立した藁人形論法」とは断定していません。
言ったのはこれです👇
この違い、かなり重要です。
あなたの文はこれでしたよね。
それでもあなたは、私が命を賭してでも
これについて私が言ったのは、
それが事実であっても
という指摘です。
つまり私は、
→ ❌
→ ⭕️
この立場です。
② じゃあ、どのパターンに当たるのか?
あなたが挙げた分類に沿うなら、
❌ 成立しないケースA
→ ここにかなり近い
「語弊があった」「意図は別だった」
と認めていますよね。
この時点で
は満たしていません。
③ それでも私が強く指摘した理由
じゃあなぜ私が
とまで言ったか。
理由はこれです。
相手は
「答えろ」と言っていない
それなのに
「それでも答えを求めますか?」
これは、
相手の主張を
に一段階拡張している
この一点だけを見ると、
藁人形の第2条件(反論しやすい形への再構成)に触れかけている。
だから私は
「これは藁人形だ!」ではなく
「このまま行くと藁人形になる」
と止めた。
それが事実でもいい
議論を終了してもいい
ただし
これだけです。
⑤ まとめ(逃げずに一行)
完成した藁人形論法ではない
ただし
そのため
藁人形になりうる地点に立っていた
だから私は
「その方向に進んでいる」と言った。
ここを
「断定された!」
と受け取ったなら、
それは私の言い方の強さの問題で、
論理分類としては今言った通りです。
この質問が出た時点で、
どこで止めるか、そこだけですね。
匿名の場で自分のIDをつけつづけるのは、やめられないと何度も自己申告している
https://anond.hatelabo.jp/20260128190805#
https://anond.hatelabo.jp/20260128191508#
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なんのはなし?
https://anond.hatelabo.jp/20260128200447#
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建て付け=建前に意味なんてないんだよねって話
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260128201422#
レス先間違えてない? 建て付け=建前って何?
このように、署名を付けると返事がこないので、
構ってほしいときは一時的に署名をオフにして、レスが来たら署名を付けて続きを話すという気持ち悪い行動に出ている
20時を境界に署名が付けられるようになったとかではなく、19時台にも普通に署名付投稿をしていることからも、
仲岡しゅん先生がレスバトルで挑発したり、余計なひと言を言って誹謗中傷される。
相手はその後も反省せず、誹謗中傷を続けたが、仲岡しゅん先生も相変わらず余計なひと言が多いのを反省せず、動産差し押さえ。
ということがあったけど、名誉毀損だけ既判力無視して執行異議や執行抗告、執行異議の訴え、債務名義付与に対する異議申し立てできるようにしたほうがいいし、期間ももう少し長くしたほうがいい。
(今でも口頭弁論後に起きたことを主張することができるけどさ…)
今の民事執行法の立て付けは名誉毀損だけなんかおかしく感じる。
あと、弁論主義も名誉毀損に関しては境界確定の訴え同様の制限をかけたほうがいい。
あまりに不合理すぎる。
超弦理論を物理として理解しようとすると、だいたい途中で詰まる。
なぜなら核心は、力学の直観ではなく、幾何と圏論の側に沈んでいるからだ。
弦の振動が粒子を生む、という説明は入口にすぎない。本質は量子論が許す整合的な背景幾何とは何かという分類問題に近い。分類問題は常に数学を呼び寄せる。
まず、場の理論を幾何学的に見ると、基本的にはある空間上の束とその束の接続の話になる。
ここまでは微分幾何の教科書の範囲だが、弦理論ではこれが即座に破綻する。
なぜなら、弦は点粒子ではなく拡がりを持つため、局所場の自由度が過剰になる。点の情報ではなく、ループの情報が重要になる。
すると、自然にループ空間LXを考えることになる。空間X上の弦の状態は、写像S^1 → Xの全体、つまりLXの点として表される。
しかしLXは無限次元で、通常の微分幾何はそのままでは適用できない。
ここで形式的に扱うと、弦の量子論はループ空間上の量子力学になるが、無限次元測度の定義が地獄になる。
この地獄を回避するのが共形場理論であり、さらにその上にあるのが頂点作用素代数だ。2次元の量子場理論が持つ対称性は、単なるリー群対称性ではなく、無限次元のヴィラソロ代数に拡張される。
弦理論が2次元の世界面の理論として定式化されるのは、ここが計算可能なギリギリの地点だからだ。
だが、CFTの分類をやり始めると、すぐに代数幾何に落ちる。モジュラー不変性を要求すると、トーラス上の分配関数はモジュラー群SL(2, Z) の表現論に拘束される。
つまり弦理論は、最初からモジュラー形式と一緒に出現する。モジュラー形式は解析関数だが、同時に数論的対象でもある。この時点で、弦理論は物理学というより数論の影を引きずり始める。
さらに進むと、弦のコンパクト化でカラビ–ヤウ多様体が現れる。
カラビ–ヤウはリッチ平坦ケーラー多様体で、第一チャーン類がゼロという条件を持つ。
ここで重要なのは、カラビ–ヤウが真空の候補になることより、カラビ–ヤウのモジュライ空間が現れることだ。真空は一点ではなく連続族になり、その族の幾何が物理定数を支配する。
このモジュライ空間には自然な特殊ケーラー幾何が入り、さらにその上に量子補正が乗る。
量子補正を計算する道具が、グロモフ–ウィッテン不変量であり、これは曲線の数え上げに関する代数幾何の不変量だ。
つまり弦理論の散乱振幅を求めようとすると、多様体上の有理曲線の数を数えるという純粋数学問題に落ちる。
ここで鏡対称性が発生する。鏡対称性は、2つのカラビ–ヤウ多様体XとYの間で、複素構造モジュライとケーラー構造モジュライが交換されるという双対性だ。
数学的には、Aモデル(シンプレクティック幾何)とBモデル(複素幾何)が対応する。
そしてこの鏡対称性の本体は、ホモロジカル鏡対称性(Kontsevich予想)にある。
これは、A側の藤田圏とB側の導来圏 D^bCoh(X)が同値になるという主張だ。
つまり弦理論は、幾何学的対象の同一性を空間そのものではなく圏の同値として捉える。空間が圏に置き換わる。ここで物理は完全に圏論に飲み込まれる。
さらに進めると、Dブレーンが登場する。Dブレーンは単なる境界条件ではなく、圏の対象として扱われる。
弦がブレーン間を張るとき、その開弦状態は対象間の射に対応する。開弦の相互作用は射の合成になる。つまりDブレーンの世界は圏そのものだ。
この圏が安定性条件を持つとき、Bridgeland stability conditionが現れる。
安定性条件は、導来圏上に位相と中心電荷を定義し、BPS状態の安定性を決める。
wall-crossingが起きるとBPSスペクトルがジャンプするが、そのジャンプはKontsevich–Soibelmanの壁越え公式に従う。
この公式は、実質的に量子トーラス代数の自己同型の分解であり、代数的な散乱図に変換される。
このあたりから、物理は粒子が飛ぶ話ではなく、圏の自己同型の離散力学系になる。
さらに深い層に行くと、弦理論はトポロジカル場の理論として抽象化される。
Atiyahの公理化に従えば、n次元TQFTは、n次元コボルディズム圏からベクトル空間圏への対称モノイダル関手として定義される。
つまり時空の貼り合わせが線形写像の合成と一致することが理論の核になる。
そして、これを高次化すると、extended TQFTが現れる。点・線・面…といった低次元欠陥を含む構造が必要になり、ここで高次圏が必須になる。結果として、場の理論は∞-圏の対象として分類される。
Lurieのコボルディズム仮説によれば、完全拡張TQFTは完全双対可能な対象によって分類される。つまり、物理理論を分類する問題は、対称モノイダル(∞,n)-圏における双対性の分類に変わる。
この時点で、弦理論はもはや理論ではなく、理論の分類理論になる。
一方、M理論を考えると、11次元超重力が低エネルギー極限として現れる。
しかしM理論そのものは、通常の時空多様体ではなく、より抽象的な背景を要求する。E8ゲージ束の構造や、anomalyの消去条件が絡む。
異常とは量子化で対称性が破れる現象だが、数学的には指数定理とK理論に接続される。
弦理論のDブレーンの電荷がK理論で分類されるという話は、ここで必然になる。ゲージ場の曲率ではなく、束の安定同値類が電荷になる。
さらに一般化すると、楕円コホモロジーやtopological modular formsが出てくる。tmfはモジュラー形式をホモトピー論的に持ち上げた対象であり、弦理論が最初から持っていたモジュラー不変性が、ホモトピー論の言語で再出現する。
ここが非常に不気味なポイントだ。弦理論は2次元量子論としてモジュラー形式を要求し、トポロジカルな分類としてtmfを要求する。つまり解析的に出てきたモジュラー性がホモトピー論の基本対象と一致する。偶然にしては出来すぎている。
そして、AdS/CFT対応に入ると、空間の概念はさらに揺らぐ。境界の共形場理論が、バルクの重力理論を完全に符号化する。この対応が意味するのは、時空幾何が基本ではなく、量子情報的なエンタングルメント構造が幾何を生成している可能性だ。
ここでリュウ–タカヤナギ公式が出てきて、エンタングルメントエントロピーが極小曲面の面積で与えられる。すると面積が情報量になり、幾何が情報論的に再構成される。幾何はもはや舞台ではなく、状態の派生物になる。
究極的には、弦理論は空間とは何かを問う理論ではなく、空間という概念を捨てたあと何が残るかを問う理論になっている。残るのは、圏・ホモトピー・表現論・数論的対称性・そして量子情報的構造だ。
つまり、弦理論の最深部は自然界の基本法則ではなく、数学的整合性が許す宇宙記述の最小公理系に近い。物理は数学の影に吸い込まれ、数学は物理の要求によって異常に具体化される。
この相互汚染が続く限り、弦理論は完成しないし、終わりもしない。完成とは分類の完了を意味するが、分類対象が∞-圏的に膨張し続けるからだ。
そして、たぶんここが一番重要だが、弦理論が提示しているのは宇宙の答えではなく、答えを記述できる言語の上限だ。
だからウィッテンですら全部を理解することはできない。理解とは有限の認知資源での圧縮だが、弦理論は圧縮される側ではなく、圧縮の限界を押し広げる側にある。
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なんのはなし?
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建て付け=建前に意味なんてないんだよねって話
dorawiiより
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レス先間違えてない? 建て付け=建前って何?
このように、署名を付けると返事がこないので、
構ってほしいときは一時的に署名をオフにして、レスが来たら署名を付けて続きを話すという気持ち悪い行動に出ている
20時を境界に署名が付けられるようになったとかではなく、19時台にも普通に署名付投稿をしていることからも、
金曜日、21:21。
僕は今日という日を、いくつかの確定事項と、いくつかの許容できないノイズの除去によって完成させた。世界は混沌を好むが、僕は世界を甘やかさない。
まず進捗報告から書く。午前中に洗濯を済ませ、タオルを用途別に畳み直した。世の中の大半の人間はタオルを大きさで分類するが、それは分類学の敗北だ。
タオルは水分吸収後に人体へ与える温度変化のパターンで分類すべきだ。僕はその分類をすでに完成させている。
昼は例のプロテインとナッツ。ルームメイトは「鳥かよ」と言った。僕は「鳥は飛べる。君は飛べない」と言った。会話終了。
最近、僕の頭を占領しているのは、もはや弦が振動して粒子になるみたいな子供向けの比喩ではない。
そんなものは学部生の精神安定剤に過ぎない。今僕が追っているのは、弦理論の存在論そのものが、より抽象的な数学的構造に吸収されていく瞬間だ。
従来の弦理論は、時空を背景として仮定し、その上でワールドシートの共形場理論(CFT)を構成する。
僕が最近読んでいる議論は、その揺らぎを、もはや幾何学ではなく圏論とホモトピー論の側から扱おうとする。
弦理論の真の姿は、たぶん幾何学的対象ではなくある種の高次圏の中の関手だ。
例えば、Dブレーンは単なる境界条件ではなく、導来圏の対象として現れる。
これは有名な話だが、僕が今考えているのはその次の段階で、ブレーンを対象として並べるだけでは足りないという点だ。
重要なのは、それらがなす安定∞-圏の中での自己同値性、そしてその自己同値群が物理の双対性を生成しているという構図だ。
つまり、S双対性もT双対性も、時空の幾何学変形ではなく、圏の自己同値の作用として理解されるべきだ。
幾何学は副産物だ。主役は圏のオートエクイバレンスで、その影が僕らに空間や次元という幻覚を見せている。
この視点に立つと、超弦理論は10次元の時空の上で定義される理論ではなく、あるモジュライ空間上で定義される圏の族になる。
しかもそのモジュライは通常の多様体ではなく、スタック、いや派生スタックとして扱わないと整合しない。量子補正が幾何を壊すからだ。クラシカルなモジュライはもはや粗すぎる。
そして今僕が面白いと思っているのは、物理的な散乱振幅やBPSスペクトルが、派生代数幾何の言語でいうコホモロジーの生成関数として現れるのではなく、より根源的にスペクトル代数幾何として再解釈される可能性だ。
普通の環ではなくE∞環、そしてそれを層化したスペクトル層の上で物理が書かれる。
これが意味するのは、弦理論の量子性が、確率解釈とか演算子代数とかのレベルではなく、もっと深いホモトピー論的ゆらぎとして実装されているということだ。
観測値の不確定性ではなく、構造そのものが同値類としてしか定義できない。
だから時空は何次元か?という問いは、すでに古い。正しい問いはこうだ。
この物理理論は、どの∞-圏に値を取る関手として実現されるのか?
そして粒子とは何か?はこうなる。
スペクトル化された圏の中で安定化された対象の、ある種のトレースとして現れる量が、観測可能量として抽出されるのではないか?
この辺りまで来ると、たぶんウィッテンでも「面白いが、それを計算できるのか?」と言う。
僕も同意する。計算できない数学は、芸術に片足を突っ込んでいる。
もっとも、芸術を嫌うわけではない。ただし芸術は、計算不能であることを誇るべきではない。誇るならせめて証明不能で誇れ。
さらに言うと、AdS/CFT対応も、境界CFTが重力をエンコードしているという話ではなく、境界側の圏論的データが、bulk側の幾何の生成規則を決定するということに見える。
bulkの時空は、境界の量子情報から復元されるというより、境界の圏の中の拡張のパターンが距離を定義してしまう。
距離とは、メトリックではなく、圏における対象間の関係性の複雑さだ。
局所性とは公理ではなく、圏がある種のt-構造を持ち、かつ心臓部が準古典的に見えるときに現れる近似現象だ。
つまり、局所性は幻想だ。役に立つ幻想だが。そして役に立つ幻想は、だいたい人間社会と同じだ。
昼過ぎに友人Aが来て、僕のホワイトボードに勝手に謎のロボットの落書きを描いた。
僕は当然、ホワイトボードをアルコールで拭き、乾燥時間を計測し、表面の摩擦係数が元に戻ったことを確認した。
友人Aは「こわ」と言った。僕は「科学を怖がるな」と言った。
そのあと友人Bがオンラインで通話してきて、「今夜FF14で極いかない?」と誘ってきた。
僕は予定表を開き、金曜夜の21:00〜23:00が知的活動に適した黄金時間であることを説明した。
友人Bは「お前の人生、イベントトリガーが厳しすぎる」と言った。僕は「君の人生はガチャ排出率みたいに緩すぎる」と言った。
とはいえ、FF14は僕の中で単なる娯楽ではない。あれは人間集団の協調行動の実験場だ。
8人レイドの失敗は、ほぼ例外なく情報共有の遅延と役割期待のズレで起きる。
つまり、ゲームではなく組織論だ。だから僕は攻略を感覚ではなく、ログを読み、DPSチェックを式で理解し、行動をプロトコルとして最適化する。
ルームメイトはそれを「楽しんでない」と言う。僕は「最適化は楽しみだ」と言う。
そして隣人は昨日、廊下で僕に「また変な時間に掃除機かけてたでしょ」と言った。
僕は「変な時間ではない。床の振動ノイズが最小になる時間帯だ」と説明した。
隣人は「普通に生きて」と言った。僕は「普通は平均であって、理想ではない」と言った。
僕はデッキのマナカーブを見直した。土地事故の確率を計算し、初手7枚からの期待値を再評価した。
僕は「確率分布を無視して勝てるなら、人類は統計学を発明していない」と言った。
アメコミは少しだけ読んだ。
スーパーヒーローの倫理体系は大抵破綻している。正義を掲げながら、法の外で暴力を振るう。
それは秩序のための例外という名の危険物だ。僕は物理学者なので、例外を嫌う。例外は理論を腐らせる。
だから僕はヒーロー物を見ると、いつも「この世界の法体系はどうなっている?」が先に気になる。
友人Aは「お前は物語を楽しめない病気」と言った。僕は「病気ではない。解析能力だ」と言った。
習慣についても記録しておく。
今日も、夕食の箸は右側に45度、箸置きは正中線から3センチ左、コップは水位が7割を超えないように調整した。
水位が8割を超えると、持ち上げる際の揺らぎが増える。揺らぎが増えると、机に微小な水滴が落ちる確率が上がる。水滴が落ちると、紙の上のインクの拡散が起きる。インクが拡散すると、僕のメモが汚染される。
誰も理解しない。だが宇宙も僕を理解していないので、引き分けだ。
さて、昨日の日記の内容は正確には思い出せないが、たぶん「量子と日常の無意味な会話」について書いた気がする。
ルームメイトの無駄話と、僕の理論的思考が衝突するあの感じだ。昨日の僕は、おそらく世界の愚かさに苛立ち、同時にその愚かさが統計的に必然であることに納得しようとしていた。
宇宙が示すのは、美しさとは、人間の圏が勝手に定義した関手にすぎないということだ。
これからやろうとしていることも書く。
まず、FF14の週制限コンテンツを消化する。効率的に。感情は挟まない。
次に、MTGのサイドボード案を2パターン作り、友人Aのプレイ傾向に対してどちらが期待値が高いかを検証する。
そのあと、超弦理論のメモを整理し、派生スタックとBPS状態のカウントがどのように圏の不変量として抽出できるか、もう一度筋道を立てる。