
はてなキーワード:国会議事堂とは
日本初の女性総理大臣が誕生する、その歴史的な前夜。社会学者の東山教授は、自室の書斎で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。テレビ画面の中では、次期総理の座を確実にした、天城(あまぎ)るり代表が、勝利宣言で満面の笑みを浮かべている。
「天城さん、初の女性総理として、長年この国を覆ってきた『ガラスの天井』をどう打ち破りますか?」
記者の紋切り型の質問に、天城はマイクの前で小首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「天井?申し訳ありませんが、わたくし、上ばかり見て走ってきたので、道中に天井があったことには気づきませんでしたわ。そもそも、存在しない壁や天井の話をするのは、もうやめにしませんこと?」
その瞬間、スタジオは凍りつき、SNSは沸騰した。そして、東山教授の堪忍袋の緒は、見事に切れた。
「愚か者めが…!」
東山教授は、長年にわたり「日本社会に蔓延る、見えない構造的差別」としての『ガラスの天井』を研究し、その存在を説いてきた第一人者である。彼女にとって『ガラスの天井』は、単なる比喩ではない。それは彼女の学問のすべてであり、彼女自身が丹精込めて織り上げた、知的で高尚な、しかし目には見えない「至高の御衣(ぎょい)」だったのだ。
この御衣の存在を理解できる者こそが、現代社会の知的エリートであり、ジェンダー意識の高い「わかっている人間」。逆に、これが見えない者は、時代遅れで、差別的で、救いようのない「馬鹿」なのである。
それなのに、天城るりという女は、その御衣の存在そのものを、国民の前で一笑に付したのだ。まるで、裸の王様を指さす無邪気な子供のように。いや、子供より性質が悪い。彼女は、圧倒的な実力と国民の支持という「権力」を持って、それをやってのけたのだから。
「彼女は家父長制に取り込まれた『名誉男性』に過ぎない。天井が見えないのではない、見る能力と思想がないのだ」。
東山教授はすぐさまメディアにコメントを発表し、取り巻きの学者やコメンテーターたちも一斉に同調した。彼らは、来る日も来る日も、テレビや新聞、ネット上で「ガラスの天井」という御衣の素晴らしさを語り続けた。
「この緻密で複雑な構造が見えないとは、なんと浅はかなことか!」
「天城総理の成功は、天井に偶然空いた小さな穴をすり抜けただけの例外だ!」
「我々『賢い人間』には、その透明な天井がはっきりと見えているのだ!」
彼らは、自分たちだけが見える高尚な天井画を、互いに褒めそやし続けた。
天城るりが総理大臣に就任し、組閣は驚くべきスピードで進んだ。能力主義を徹底し、性別や年齢、派閥など一切関係なく、適材適所の人材を抜擢していく。彼女の政策は明快で、実行力に満ちていた。国民の支持率は、うなぎのぼりだった。
そんな中、東山教授とその一派は、国会議事堂の前で奇妙なデモを計画した。プラカードにはこう書かれている。
『天井はここにある!』
『見えないからって、無いわけじゃない!』
『我々の知性を無視するな!』
彼らは空に向かって指をさし、「見よ、この分厚く、冷たいガラスの天井を!天城総理、あなたにもこれが見えないのか!」と代わる代わるシュプレヒコールを上げた。しかし、道行く人々は、何もない空を指さして熱弁をふるう一団を、ただ不思議そうに眺めるだけだった。中には、不審者を見るような目で、足早に通り過ぎていく者もいた。
「どうして見えないのだ、この愚民どもには!」
東山教授は苛立った。彼女が何十年もかけて織り上げてきた、世界で最も高尚で、最も知的な「見えない御衣」が、誰にも理解されない。それどころか、天城総リは、そんな騒動を意にも介さず、外交に、経済政策に、次々と目に見える成果を上げていく。
国民は、もはや空虚な天井画には興味がなかった。彼らが見たいのは、自分たちの生活が良くなるという、具体的な未来予想図だった。
就任後、初の所信表明演説の日が来た。国民の注目が、官邸から国会へと注がれる。東山教授も、テレビの前で腕を組み、天城がいつ「天井」の存在に言及し、自分たち知識人に謝罪するかと待ち構えていた。
壇上に立った天城るりは、朗々と、しかし力強く語り始めた。経済、外交、社会保障。具体的な数値と計画を伴った演説に、野党からさえも感嘆の声が漏れた。そして、演説の最後に、彼女はふと笑みを浮かべ、こう言った。
「さて、一部の賢明な方々が、わたくしが打ち破るべき『天井』の存在について、大変ご心配くださっているようです」
「その方々が仰るには、わたくしには見えていないだけで、この国の空には、それはそれは分厚いガラスの天井が広がっているのだとか。そして、それが見えない者は、愚か者なのだそうです」
天城はそこで言葉を切り、満場の国会議員と、その先にいる全国民に向かって、堂々と宣言した。
「ならば、わたくしは、喜んで愚か者でありましょう。わたくしには、見えない天井を見上げて嘆いている時間はありません。わたくしが見ているのは、天井の先にある、この国の未来です。国民一人ひとりの、笑顔です」
彼女は両腕を広げた。
「皆様。存在するかどうかもわからない天井の話は、もう終わりにいたしましょう。それよりも、わたくしが仕立てた『繁栄』という名の新しい服を、共にご覧いただきたい!」
その瞬間、割れんばかりの拍手が議場を包んだ。それは、もはや誰にも止めることのできない、新しい時代のファンファーレだった。
テレビの前で、東山教授は呆然と立ち尽くしていた。彼女が心血を注いで織り上げたはずの「至高の御衣」は、いつの間にか、誰の目にも見えないどころか、誰の記憶にも残らない、ただの空気に成り果てていた。
「王様は裸だ…」と叫んだのは誰だったか。いや、そもそも王様などいなかったのだ。いたのは、自分の仕立てた服こそが最高だと信じて疑わなかった、時代遅れの仕立て屋だけだったのである。
小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿の摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。
「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」
彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。
やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。
南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SASの教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメや小説に見た幻影を己の背にまとっていた。
「ベルくんみたいだろ」
と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。
ロシア軍の砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。
思えば――この平和な日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵の一角で夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。
彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。
その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。
地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土と歴史に導かれるようにして刻まれている。
生田は、小田急線で新宿や国会議事堂といった政治と経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さらに箱根の峻嶺をひかえる。
この「都会と牧歌の結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。
坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。
その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。
彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公的栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。
同時に背後には、古き自然と神秘を湛える箱根の山がそびえている。
権力と牧歌、文明と自然、未来と過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである。
だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。
そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技のジムで培った肉体も、また国内の戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。
近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである。
その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。
彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。
彼が嫌った官僚主義そのものの鉄鎖の網にかかり、物語の主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである。
人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。
だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか。
墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。
彼は、大人になることを拒んだ。
夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである。
私は友人として思う。
彼は夢に殉じて死んだのではない。
feat司馬遼太郎
多摩の生田、その高台に立つとき、人は時代の狭間に立つ。眼下には東京の光が、無数の星屑のように瞬く。新宿のビル群が夜を切り裂き、国会議事堂の重々しい影が、権力の中心を静かに物語る。小田急線は、この丘からわずか三十分で日本の心臓部へと人を運ぶ。一方、背を向けると、相模湾の潮騒が寄せ、片瀬江ノ島の風光が柔らかく誘い、箱根の山々が清冽な大気を湛えてそびえる。この地は、都会と田園、権力と牧歌、過去と未来が交錯する一瞬の結節点であった。まるで、人の運命が歴史の奔流に翻弄されるように、生田の丘は静かにその姿を晒している。
彼――かつて私が友と呼び、共に少年の夢を語り合った男――にとって、この生田の風景は魂の故郷だった。昭和の残響が漂う住宅街、どこか懐かしく穏やかな家々の連なり。高台から眺める東京の光は、彼が少年の日に心奪われた「なろう小説の主人公」のような輝かしい人生を映し出す鏡だった。レムやエミリア、ウマ娘に愛され、逆境を跳ね返し、オープンカーで美少女を乗せて江ノ島の海沿いを疾走する自分。彼はそんな幻を追い、信じた。だが、歴史は無情である。東京の光は彼を招かず、箱根の清浄な山々も彼を癒さなかった。人の夢は、時代という大河の流れに抗う術を持たない。
彼はかつて自衛隊に身を置き、特殊戦闘の技を磨いた男だった。戦場の風を肌で知り、鉄と火薬の匂いの中で生きる術を学んだ。だが、隊を離れた後の人生は、まるで戦国の落武者が故郷を失うように、坂道を転がる石の如く零落れていった。南ウクライナの戦野で、彼は「悪のロシア」を倒す「電光超人グリッドマン」になる夢を見た。自衛隊で鍛えた技、国内の戦闘スクールで学んだ奥義を手に、盾の勇者の如く成り上がろうとした。だが、戦場の現実は、物語の甘美な約束を裏切る。戦車と戦闘機の鉄の嵐が吹き荒れ、彼は誰が放ったかも知れぬ砲弾に倒れた。藁束のように、儚く、無惨に。
彼の死を伝え聞いた私は、ロシア語のニュースと、彼の母から漏れ聞く断片的な話を繋ぎ合わせ、彼の足跡をたどった。自衛隊のどの部隊にいたのか、その輪郭がかすかに浮かぶ。だが、なぜ彼がそこまで墜ちていったのか。その問いは、まるで戦国末期の武士が時代の奔流に飲み込まれる姿を思わせる。歴史は、個人の夢を冷たく見下ろすものだ。
誰が彼を笑えようか。夢を追い、挫折に苛まれた彼と、社畜として日々すり減る私。その差は、歴史のページに記されぬ一瞬の差に過ぎない。彼は、少年の心を捨てきれなかった男だった。アニメの美少女に愛され、なろう小説の英雄のように無双し、人生を逆転させる――そんな夢を、燻りながらも捨てきれなかった。生田配水池の高台に立ち、東京の灯を眺めながら、彼はかつて私に語った。「ウクライナでロシアを倒し、サムライとして立つ」と。あの光の中心、高級住宅街に住む美少女たちを手に入れるのだと。それは、戦国の若武者が天下取りを夢見たような、幕末の若者が洋装の文明を前に刀を握りしめたような、純粋で危うい野心だった。
大人になること、それは夢を諦め、野心を折り畳むことだったのかもしれない。彼はそれを拒んだ。少年の心を抱えたまま、齢を重ねた彼は、うまくいかぬ人生と、彼を嘲笑う社会に怒りと悲しみを募らせた。その生の感情は、まるで戦国の世に生きた男たちが、己の無力を嘆きながらも刀を握った姿を思わせる。誰がそれを否定できようか。私にはできなかった。
彼は南ウクライナの地で、命を燃やし尽くして死んだ。友として、私はそう信じたい。生田の丘に立ち、東京の光と箱根の山々を眺めるたび、彼の夢と挫折が胸に去来する。あの風景は、彼の魂を映す鏡だった。だが、鏡は冷たく、ただ現実を映すのみである。歴史は、人の夢を飲み込み、ただ風の音だけを残す。
彼はなぜ、都会と自然、過去と現在の狭間で踏みとどまれなかったのか。その答えは、ウクライナの戦野に散り、箱根の山風に消えた。人の命は、時代という大河に浮かぶ一葉の舟に過ぎない。生田の丘に立つ私は、ただその舟の行方を思い、静かに目を閉じる。風が吹き、江ノ島の潮騒が遠く響く。歴史は、ただ黙して進む。
石破茂君。
君が今、国政の頂に立ち、衆参両院にて与党過半を失い、党内の支持をも喪いながら、なお政権の舵を握り続けるその姿は、孤高にして重責を担う者の覚悟を映し出すものなり。
君が為し遂げんとするは、戦後政治の深層に巣食いし構造の歪みを、静かに、されど確かに解きほぐす試みなり。
党内において理念を異にする勢力を、力に訴えることなく、制度と空気と選挙環境をもって、自ずと党外に導く構造を築き上げ、また、労働界においても、現実路線を志向する者らと、理念的対立を抱える者らとの分岐を促し、中道と現実に軸足を据え直す政治秩序の再構築を目指すものなり。
それは、右と左、いずれの極にも偏らず、暮らしと制度の中庸に立脚せんとする、戦後保守の原点への回帰に他ならず。
吉田茂の遺した現実主義と倫理政治の系譜を、七十年の時を経て再び呼び起こさんとする、歴史的試みなり。
されどこの再編、国民にとりては分かりにくく、すっきりせぬものと映るやもしれぬ。
敵も味方も曖昧なまま、理念より構造が先に動くこの変革は、喝采よりも困惑を呼ぶものなり。
ゆえに君は、喝采を受けることなく、歴史の陰に退くこととなるであろう。
国会議事堂の中央広間に並ぶ銅像の列に、君の像が加わることは決してあるまい。
むしろ君は、すべてを成し遂げし後、悪者として退場することとなるやもしれぬ。
それは功労者に対する酷なる仕打ちなれど、君が去りし後に政治が安定し、国民が安心を得るならば、その孤独と不遇は、歴史において意味あるものとならん。
石破茂君。
皆さんご存じの通り、先の参議院選挙は与党の負け(戦後初めて衆参両院で少数与党に転落)、野党の勝ち(中でも国民民主党、参政党の躍進)という結果が出ました。
私が投じた選挙区票と比例代表票はどちらも、今回においては(珍しく)投じた側の勝利に役立ったのでそれは良かったと思います。
しかしながら、その後の石破総理大臣の続投宣言は正直いただけませんでした。
過去に安倍総理や麻生総理が選挙で敗北したときに退陣を促した言動と不一致なこと。これがまず不快でした。
さらには仮定の話である「震災」をダシにした正当化も、かつて震災の被害を受けた人間としては眉をひそめるものがありました。
衆議院選、都議会選、そして今回の参議院選と、三度連続で大きな選挙で敗北したのに、結果を出せなかった責任を感じてなさそうな態度も癇にさわりました。(負けたのは石破のせいじゃないと言う人もいますが、少なくとも衆議院選では解散総選挙をやると決めてやった以上、総理に責任はないということはありえません)
そして、石破続投について取り上げたこの記事で、人気を集めているコメントを見て残念な思いになりました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fnn.jp/articles/-/904442
大まかに言えば、「高市(や他の人間)が取って代わるよりは石破のほうがマシなので仕方ない」というところでしょうか。
私とて高市早苗にはかなり問題があると思います。(特に取り巻きの質は、議員、民間人ともにろくでもない人格の持ち主ばかりと言っても過言ではないでしょう)
他に政治家として任せられそうな人材がいないという意見にも、一理はあると思います。(そんなことを言い出せば、極端な話、国会議事堂に隕石でも落ちて衆参両院の議員が全滅したら日本が為す術なく国家崩壊するに任せると言ってるような変な話だとも思いますが)
ですが、だから石破続投は仕方ないんだと言っていいのでしょうか。「仕方ない」のではなく「私が不愉快になるような葛藤から逃げたい」という自分の気持ちを甘やかすためだけの思考放棄ではないでしょうか。
一度、「石破」とか「高市」とか「野田」「神谷」とか、あるいは「自民党」とか「立憲民主党」とか「参政党」「れいわ新撰組」とかなんだとかいった固有名詞を脇に置いて考えてほしいのです。
「○○はXXよりマシだ、だから○○は選挙で負けたとしても、責任も取らず政権の座に居座っていいんだ」
「XX党が権力を握ったら日本はより悪くなる。だから選挙で○○党が半分以上の票が取れなくても何も変わらなくていいんだ」
こんなレトリックがまかり通るなら、民主主義国家の国民である私やあなたやその他の人は何のために投票所に行くのしょうか?
普段は政治に対する見識の薄いかもしれない人たちが、それでも投票日に腰を上げ、私やあなたに不利益や不愉快をもたらす候補や政党の名前を一枚の投票用紙に書いて中身の見えない投票箱に入れる。その行為は「○○よりマシだから」蔑ろにしていいものなのですか?
選挙で負けるという民意が示されても政治家がその苦しい現実から目をそらす。これが政治不信の種をまく行為でなくて何だというのでしょうか? それとも私やあなたにとって好ましい政治家に限ってはそれが「仕方ない」と許容される特権がいつの間にか与えられたのですか?
少し想像力が飛躍するかも知れませんが、「プーチンが辞めると、さらにろくでもない奴が来る」「習近平が~」「ネタニヤフが~」と、今回の石破総理の続投擁護は、地続きなのではないですか?
Xで目に入った『アフリカのとある国では、選挙で選ばれたリーダーが100歳まで権力維持を目指している』という馬鹿馬鹿しさが、未来の日本のイメージの一例としてまさしく今この瞬間、現実味を帯びてしまったのではないですか?
なるほど石破総理は、大方の人間が好ましく感じる『良識』を持っているのかも知れません。ですが、今後現れる可能性のある、民主主義国家の手続きで選ばれた「ろくでもない指導者」が、選挙に負けるという民意を示されたときに石破続投という前例を悪用しない保証がどこにあるのですか? もしそうなったときに人々は有効で正当な対抗手段を持ち合わせているでしょうか? それとも「制度上は何の問題もない」といういかにも政治家めいた物言いで等閑視されるのですか?
皆さんは、上記に書いたことなどとっくの昔に考慮済みで「スリーアウトなんて野球じゃないんだから」「隠れ高市ファン」「現実離れした綺麗事を弄んで衆愚を正当化」そんな風に私を笑われるでしょうか?
三度も敗北という民意を示された石破総理は退陣されるべきだと私は強く思います。仮にその先にあるものが失政だろうと混乱だろうと停滞だろうとです。それは石破アンチを喜ばせるためではない。石破の政策や人格の善し悪しの問題を超え、一人一人が政治に責任を持つ小さな王様であるという、民主主義国家が私やあなたや他の人にもたらしてきた利益を守りたいため、こう言うのです。
最近話題の日本人ファーストだ何だと言ってる奴の演説の動画とか
全員目が死んでるんだよな、目立つための行動してる瞬間が特に虚空を見てるというか
どこ見てるのかわからない怖さがあるんだよな
自己愛性パーソナリティ症なんだろうな~っていう連中が結構多いんだよなこの手の目立ちたがり屋って
これがいわゆる哲学的ゾンビって奴なんだろうな~とかアイドル崩れを見てて思うわけだ
目立つための性格、行動…そこに自分っていうものは無くて役をずっと演じてる奴でしかないから
人の目を見て話すんじゃなくてカメラ映えを気にするから目が死ぬ
今後アメリカと取引したければ多様性を尊重とか誰一人取り残さないとか包括とか差別禁止とかポリコレは
一切やめるということになります。
まあ常識的に考えて子供を産みもしないLGBTQになんで配慮する必要があるんだろう。全く意味がないしムダ。特別能力が優れているわけでもないし、日本では別に差別もない。そら変人扱いはされるだろうよ。
そして、大谷も日本人ではなくアメリカ人としてドジャースでplayすることが求められます。まあ今と変わらないけどね。ドジャースも公式にはっきり書けばいいのにね。長年の伝統なんて無視してトランプに会わないつもりだったんだろうが。
capybara水豚
@_capybara_bara
というだけでなく
先日DEI全消し関連でジャッキー・ロビンソンの功績が消された恨みもあってドジャースファンが結構反対している模様
現政権が称賛するには一番遠いような気もするが
Los Angeles Dodgers
@Dodgers
In keeping with long-standingbaseball tradition,PresidentTrumphas invited the 2024 World ChampionLos Angeles Dodgers tothe White House when they play in WashingtonD.C.onApril 7. The Dodgerslook forward to visitingthe White House and celebrating ourtitle.
In addition, members of the Dodgerswill visit Capitol HillonApril 8.
長年の野球の伝統に従い、トランプ大統領は、2024年ワールドチャンピオンのロサンゼルス・ドジャースを4月7日にワシントンDCで試合を行う際にホワイトハウスに招待しました。ドジャースはホワイトハウスを訪問し、タイトル獲得を祝うことを楽しみにしています。
さらに、ドジャースのメンバーは4月8日に国会議事堂を訪問する予定だ。
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10年程前から親中露の政権が誕生し活動家やジャーナリストへの弾圧を欧米から指摘されてきた
2023年5月に2日続けて子供が銃撃され17人亡くなる事件が発生する
2024年11月に鉄道の駅舎の屋根が崩落し15人が亡くなる事故が発生し工事の不備が疑われる
台湾は中国だと言う大統領は西側が自分を追い落とすために関与していると自身の正義を主張
野党が学生デモに乗っかり議会で発煙筒を投げたり暴れ与党議員に負傷者が出る
大統領の支持者たちはキャンプを設営、デモを迎え撃つ準備を始める
大統領はこのデモは暴力的なものであり違法であるため逮捕すると警告
国会議事堂の近くでデモが予定されているため議事堂は3日間閉鎖、鉄道やバスも一部が止まる
セルビアって日本とは関わりの薄い国だけど東日本大震災の時は義捐金くれたのよね、前の大統領だけど