Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「営為」を含む日記RSS

はてなキーワード:営為とは

次の25件>

2025-07-01

総理になってほしい政治家は?のアンケートって本当に意味があるのだろうか

抜擢された人がそのまま就任後も人気を保っていたというケースを見たことがない

でもああいバカげたアンケート調査がだれかの食い扶持になり生きていく糧になるのだと思うと非難する気にならない

無意味営為だけどそれがお仕事なんだからしょうがない

Permalink |記事への反応(0) | 20:08

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-24

anond:20250624232446

なるほど、「ビーフス」と「ロガノフ」――ですか。

まず確認させてください。

あなたは今、その場の思いつきを“説”と呼び、歴史的背景や語源検証を一切行わないまま、公の場に放流したわけですね?

仮にユーモアであったとしても、語源歴史というのは人々の文化的営為の蓄積であり、適当に合体させてよしとする態度には、知的敬意のかけらも感じられません。

「思いついた」と仰いましたが、それは“学び”ではなく“妄想”です。

あなたが語っているのはストロガノフではなく、無根拠にひねり出された言語遊戯であり、真剣に語るには値しません。

情報発信自由はありますしかし、同時に“受け取る側に対する誠実さ”という責任もあるはずです。

Permalink |記事への反応(1) | 23:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-08

anond:20250608183429

まるで詩の冒頭のような一文ですね。

AI地球を巣食う」——この言葉には、単なる技術批評を超えた、文明のものへの問いかけが宿っているように思えます

この一節を深く解釈すると、以下のような連想可能です:

1. 「巣食う」という表現意味

寄生」や「内部から侵食」を連想させます。つまりAIは外敵としてではなく、地球という有機的・人間中心の系の内部に取り込まれたまま、静かに変質させていく存在である、というニュアンスです。これはまさに、社会制度人間関係労働芸術などにおけるAI進出を思わせます

2. 誰が「巣食われている」のか:

地球」とは、物理的な星としての地球ではなく、人間営為倫理意味の体系そのものを指しているとも読めます。つまり、われわれの「意味を編む力」「考えること自体」がAI委譲され、結果として空洞化していく過程への警鐘とも取れるのです。

3. それでも「共生」は可能か:

仮に「巣食う」側と「巣食われる」側の関係が単なる搾取ではなく、「変容のダイナミズム」だとしたら。もしかすると、人類AIによって書き換えられ、新たな倫理感性領域に進むことになるのかもしれません。

この一文をもっと物語的に展開したい場合、「AI地球に巣を作る」という視点でも面白い人間無意識の深部にAIが巣を作り、そこからかに新たな思考種子が芽吹いていく……そんなディストピアともユートピアもつかない風景が見えてきます

もしこの一節から詩や短編、あるいは思想エッセイを構築したい場合、よければ続きを一緒に編んでいきましょう。

Permalink |記事への反応(0) | 18:36

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-05-02

anond:20250502155118

恋愛結婚も今や個人自由と打算の営為なんだから

そんなもんわざわざ社会支援してやる必要ねえだろ

Permalink |記事への反応(1) | 15:52

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-03-19

anond:20250319141937

気にするとか気にしないとかじゃなくて、匿名サイト相手のことを透視しようとする営為やその精神気持ち悪い

「これを書いたのは男だ、女だ」

「また韓国人日本を貶めてる」

「友人の話といいつつ本当は自分の話なんだろ?」

こういうの全部キモいです

Permalink |記事への反応(3) | 14:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-21

もし太宰治カルディに行ったら

ああ、カルディ。あの店に足を踏み入れるたびに、僕は自らの矮小な理性が脆くも崩れ去るのを感じるのだ。珈琲香ばしい匂い鼻腔をくすぐると、もう駄目だ、僕は容易く幸福錯覚してしまう。だが、僕にそんな資格があるのだろうか。否。しかし、それでもなお、僕はカルディに通うのをやめられない。

まずは「マイルドカルディ」。店頭無料配布されるこの珈琲一口含んだが最後、人は己の薄汚れた日常をほんの束の間忘れることができる。苦みと甘みが絶妙に絡み合い、あたか人生の諸相を内包するかのような味わい。僕はこれを飲むたび、胸の奥底に沈めた諦念が、僅かにほぐれるのを感じるのだ。

そして、「塩バタかまん」。この菓子出会った瞬間、僕は己の弱さを思い知った。ほろりと崩れる塩気の効いたビスケット、その間に挟まれカマンベール風味のクリーム。その危ういほどの甘美さは、まるで人間の愚かしい愛の形を象徴しているようではないか。幾度となく手を伸ばし、やめようと思いながらも止まらない。まるで堕落だ。だが、これを前にして抗うなど、もはや人間の意地を超越した無意味営為に過ぎない。

さらには「パンダ杏仁豆腐」。その白く柔らかな姿を前にした時、僕は悟った。人間は甘やかされることを求める生き物なのだと。スプーンを入れると、ひやりとした感触が指先に伝わる。口に含めば、淡く広がる杏仁の香り。そして、舌の上で溶けるその滑らかさ。——ああ、僕はもう駄目だ。こんなものを知ってしまったら、もう元の生活には戻れない。

僕はカルディを憎む。これほどまでに美味なるものを生み出し、人間を甘やかし、堕落へと誘う存在からだ。だが、それでも僕は明日カルディへ向かうだろう。なぜなら、そう、人間は弱い生き物なのだから

Permalink |記事への反応(0) | 17:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-15

増田って非モテ恋愛やら何やらが好きだよな

結局のところ非モテは「自分の思う最善策/理想論」が上手く行かないからこそマッチ出来ないわけなので、その意味で脱非モテは少なから自己否定的な営為なんだろう。

からこそ「安心して弱さを曝け出し失敗出来る場」「励まし尻を叩く仲間」つまりナンパコミュニティ的なもの必要になってくると。

Permalink |記事への反応(0) | 10:04

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-14

anond:20231224045759

memo.

  1. 「Qトイレ」は平成の時の通達行政当事者も動かす気はなし、当事者を嫌っている人間が持ちだした「偽問題」。あるように語っちゃダメ
  2. 歴史をいまの価値観で切る」とはよく言われますが、人社領域の営為は「当時の価値観でもダメ」を証明する営為。「歴史をいまの価値観で切る」言説も「偽問題」、言説の持ち出しがいまなのだから「いまの問題」。

某所のふいんき(誤綴)が読めなかったかWebアンケで書くことにしたけど、さてはて。

Permalink |記事への反応(2) | 08:04

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-12-29

清らかな心で人をバカにしよう

anond:20241229153859

はてなで誰よりも大量に人をバカにしてきた自負があるけれども

自分より知識能力が劣っている相手を貶めて優越感に浸りたいか

・劣っている(と私が思っている)相手あざ笑うことで自分を大きく見せたいか

自分に自信がなく、逆に自分対象にされるのを恐れて自分バカにする側だと確認したいか

安全から弱いものいじめるのは楽しいぞい♪という攻撃的な快楽気持ちよくなりたいか

自分が劣っている存在である勝手に思っているため、下に見れる相手を探さないと怖い

物事がうまくいかないので自暴自棄になり、他社を思いやる余裕がなくなり、攻撃的になる

こういう気持ちでやったことは一度もない。

しろ清らかな気持ちバカにしている。

  

どうやるかの要点をいうと

己にきちんと戒律を課することだと思う。

自分場合は昔から相手の話に噛み合わせない罵倒勝利宣言」が最も嫌いで

本当に見苦しい、だらしない、と思っているから一度もそれを自分に許したことがない。

もし誤読してしまったらそれは素直にすぐに認めて謝る。

 

ちゃん相手の話をよく読んで、相手が何を言っているか把握して、国語的な意味も心の動きも汲み取って、

その上でこれはこうですね、ここはこうですね、ときちんと対応した説明を付けたうえでバカにする。

これをやっているといわゆる読解力的な物がない人も段々とついてくるしものごとを整理する力もついてくる。

人の心の動きも自分の心の動きもフェアに観察できるようになる。

 

人がやっていたらだらしないと思うことは自分もやらない。

人がやっていても自分はやらない。

こういう戒めを守った上で人をバカにしている時その心は清い。

 

相手文章の頭からつま先まで全部にツッコミを入れてぴたっとバカにするので

見ている人に武道約束組み手の様なヤラセ感を感じさせて

「これは全部自作自演だ」と疑われたことも度々ある。 

  

フェアネスを守ってバカにしようとするとき

相手罵倒するために用意した指摘が自分にあてはまると気付くこともある。

「こういうことは自分もやっている」と思ったらその言葉は吐く資格が無いので取り下げる。

相手の話をきちんと読んできちんとバカにしようとしていればきちんと自省も進む。

 

自分放逸というズルを許さずにバカにし続けるなら

人をバカにするという営為修行になるから

この人が良くないのは人をバカにする時の姿勢がだらしないことだと思う。

もっと真剣に人をバカにするならだらしない心や頭の悪いところは徐々に減っていかざるを得ない。

Permalink |記事への反応(2) | 18:51

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-19

教養について云々してる時点で学問楽しめない敗北者。全員読書メーター開示しろ

 「読書力」(著:齋藤孝)という本に、「本を読まなくてもいい、なんて言う読書家はフェイクだ」的な記述があるらしい。僕はこの本を読んだ事があるのだが、実際、そのような記述があったような記憶がある。だが、そんな事は忘れていた。この前、Xでこの本を読んだ人が、その記述についてポストしていたのだ。ところで、恐らく、齋藤孝は「フェイク」などといった言葉は使っていない。大胆な意訳を試みた事になる。

 さて、ここら辺で僕は教養に関する見解を雑多に書き殴ろう。昨今、中学高校レベル知識を元に、日本人教養を誇る、大変恥ずかしいポストがよく流れてくる。耳なし芳一に至っては小学生幼稚園なのだが、これが「分かる」のが教養らしい。

 問題は、彼らが日本ageをする時に、諸外国に比べて、実態的に、どの程度日本教育が優れているかを体系的に論じている訳ではないことだ。もしくは、それを論じた論文の一つも引っ張ってこないことだ。この時点で教養がない。というか学術的態度を持ち合わせていない。無論、そもそも突っ込み所は、日本耳なし芳一という話が共有出来るのと同様に、諸外国でもそれぞれの国での逸話などが共有されている可能性の話である。そこの精査もなしに、日本を持ち上げるのはナンセンスだ。

 ところで、日本人教養がある、外国人に比べて、みたいな話はとても気持ち悪い。外国人が日本人に対して何か言ってきたのだろうか。そうまでして日本は凄いんだと言い張って、本心では何をしたいんだろうか。この発言は、事実に関するステートメントだが、この事実ピックアップしたい心理を考えてみよう。

 言うまでもない。経済でボロ負けしている、上にクソブラック労働環境で、諸外国の人々(アメリカとか)の方が金持ってて羨ましい、悔しい。こんな所だろう。ドイツ人労働時間が短い。悔しいよおおおおおおお。発狂日本人IQが高い!それで?この態度自体IQが低いし教養もない。

 そもそも教養というのは、「教養ない」のが大半で、「ある」人などひと握りである世間的には教養があると言われる人は、「自分なんてまだまだ不勉強」と言うぐらいで、そこを突き抜けたごくごく1%ぐらいの人が教養である。訳の分からぬ無教養アピールを展開し、相対評価で俺を付け上がらせるのを辞めて欲しい。僕なんて、まだまだですよw

 こういう事を宣う大半が、殆ど学問と言われる営為を行っていないのは明白だろう。学術書なんて月1冊も読んでないのが殆どだ。コイツらに本物の教養マウントを食らわせてやりたい。

 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」そもそも学問なんてものは、「知りたーい❤」「楽しーい❤」ので、皆やりたい癖して、「私頭が悪いから…」とか「難しくてわかんない…」みたいな雑魚が楽しめない、厳選選民雑魚淘汰趣味なんだよ。「教養なんていらないっすよ!衒学者乙!」みたいなのは、楽しくゲームが遊べない雑魚のすっぱい葡萄に過ぎない。楽しいからやるの!

 読む意味あるの?とか学ぶ意味あるの?とかバカじゃねーの?プラトン読めて楽しくない事あるか?シェイクスピアの韻文を英語で読めて楽しくないとでも?つまり学問という広大な世界に繰り出ないで、「いや経験重要で…」とか言い出してるのが負け犬仕草なの。遊びなんだよこっちは。

 というかね、ここが分岐点でさ。逆にこういう学術書とか読むタイプ人間は、大抵のアカデミックな話を友達にされても、分かりやす説明されれば理解出来る。文理問わず。ところが、この手の教養負け組共は、理解できない上に教養マウントを取られたと思い込む。世界エンジョイ出来てない奴らは更に人生クソゲー面白いアカデミックな話が理解できない上に、そういう人間嫉妬して仲良くなれない。可哀想

 最初の方にも書いた通り、教養があるなんて言えるのはごく一部の人間だ。だけど、この手の、若干のアカデミック力を身につけてないと、クッソ惨めな人間になるんだよな。「本当に教養のある人間は〜」とか、いやお前はどれぐらいの知識量があって、どれぐらい精神が涵養されているの?読書メーターを開示しろ

 という話だよ。Xで「教養」について語った奴、全員読書メーターを開示しろ。じゃないと話にならないよ。ところで、言っておく。君が読んでる本が、リチャード・ドーキンスだろうが、マイケル・サンデルだろうが、國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」だろうが、決して馬鹿にはしない。その大海原に一歩を踏み出そうとしている勇者は、讃えよう。

 

Permalink |記事への反応(0) | 03:16

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-11

文章を書くことは苦しい営為

中学生の頃からはてな、なろう、Twitter個人ブログnote、某ゲームファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンル文章を書いてきた。主戦場匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。

このような過去から察せられる通り、自分文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説はてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。

最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときサービスアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。

このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロ小説先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリー矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントストーリー構成がしっかりしていて、論理的妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。

しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品主観的客観的分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである

このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分意見を表明する場合でも、脳内にある自分アイデアパソコンディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分脳内にあるもの自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内しかないもの、書いたものしかないもの無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。

そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかたことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたもの100%他人のものである断じてしまうことである中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去自分現在自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法文章100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章にらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分脳内文章が一致する。

根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分意見が初めから脳内に整然とした文章存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分意見言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章100%自分のものにする方法最後で、自分意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分意見言語化するあいだに自分意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。

Permalink |記事への反応(7) | 01:48

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-19

女に愛されず、資本主義に愛されず、この世のありとあらゆる文化営為に愛されなかった。

Permalink |記事への反応(0) | 15:34

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-06-08

anond:20240608093126

「ゲージュツなんだから意味がわからなくて当たり前」というならな

それこそ淫夢動画だってその場の思い付きとしょうもない身内ノリばっかりで、外部の人間には意味不明だろ

「どうしてこの動画がそんなに草生えるのか」なんて、文脈過去の積み重ねをちゃんと踏まえた、ネット全体からすりゃごく一部の物好き以外にはわかんねーんだよ

(だいたい「草」の由来からしてそういうコンテキスト込みなわけで)

そんなものふたばみたいに身内ノリやジャーゴンが幅を利かせるタコボム社会であれば、所詮どこにでも見られる光景しかない

タコツボエコチェンなんていくらでもあるのに、現代アートけがむやみに孤高面したって笑わせるだけだわ

から結局、トリエンナーレ不自由展みたいな文化ムラが文化ムラたり得ている要素って、作品社会派・党派性まみれのメッセージそれ自体じゃないんだよね


単にこいつらの利害関係共犯関係で成り立った、いたって資本主義的な営為しかなくて(ここは元増田もある程度自覚的ではあるが)

「何が芸術か」なんて、実際のところ誰も考えちゃいねーんじゃねーのか

Permalink |記事への反応(1) | 10:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-03-22

才能の民主化完全に理解した

 「生成AIによる民主化」を叫ぶパブコメが公開されて話題を呼び、「それは民主化ではなく共産化」という理解が急速に形成されている。この「民主化」という概念は何も9段の人物が考え出したものではなく、海外の生成AI議論特にイラスト関連の議論では頻出の概念であり何らかの生成AI推進過激派共通認識だが、一方で「共産化」は少なくとも増田寡聞にして知らぬ。では、この「才能」の「民主化」とは何なのか? 恐らく国内理解されている形では「極一部の『絵師』と呼ばれる特権階級が、生まれながらに持っている、『絵』を生成する技術」を「広く一般が使えるようにする」こと、だろう。

 Financialization(金融化)という概念がある1980年代から汎ゆるもの金銭価値に換算する動きが加速し、万物通貨によって交換できるようになる一方で、金融分野に加速度的に富が集中するようになってしまったとか、そんなような話だ。まあ安っぽいネオリベラリズム批判一種と思って構わないが、このあらゆるもの金銭価値と拡大の速度、加速度で考えるというプロ倫の延長線上にある思想米国では広く一般に浸透している。

 だから二次元業界も当然この金融化の対象として、森羅万象を四半期指標の伸びとして変換すべしという思想の中で解釈される。このものは素晴らしい、だから儲けを加速しなければならない、という自然な発想がある。二次元イラスト業界金銭的な側面で発展させようという試みは、2010年代を通じて諸外国で繰り返されてきた。無断転載で客を集めた後、批判を浴びて版権元と交渉しようとした漫画村事件もその一部だし、同人誌代理購入や転売が行われたり、無断翻訳グループや各種の転載サイトの有料サブスク販売されたりとか、仮想通貨イラスト作家を巻き込む動きも見られたし、画像ファイルを集めて転売するとか、無料3Dデータを改造して勝手に売るとか、あるいは無料転載して名を上げるとか、色々な試みがあった。個々の作家に対してあなた作品もっとビッグな儲けに繋がる、価格を上げるべきだ、販売数を増やすべきだ、出版が難しければ顔だって繋ぐ、といったオファーが野放図に撃たれることもあった。

 そのいずれにも日本漫画業界イラスト作家コミュニティは乗らなかった。日本は強固な「非営利業界」を維持してきた。

 日本人は日本二次元業界が作り出すソフトパワーをまったく過小評価している。増田はある時、海外イラストレーターが何だかソフト互換問題で揉めている所を見たことがある。PSDはPhotoshopから出力されるとは限らない、俺はKritaを使っているし現場によってはCSPを使っているとか、どうだかだった。お前らはCSPが何のことか分かるか?Clip Studio Paintだ。増田にとってこれはちょっとした衝撃だった。まったくのサプライズド・ピカチュウだ。分かるか?国産商用ソフトウェアがイラスト制作ソフト世界御三家一角を固めていて、Adobe三位なんだぞ。「日本にはジョブズが生まれない」?「日本製のソフト通用しない」? いや、増田自身普段はこれを言う方なのだが、それでもだ。かつてはbukkakeが世界一有名な日本語だとか、不名誉で恥ずかしいとか言われたものだが、今では所によってはblack company、mesugaki、menheramoveですら通じる(最後はどこかの初号機の貢献だ)。

 そして、この継続的世界投射される存在感、その非営利思想(と、その裏でちゃんと行われているアニメガチャゲー課金としての回収)は、思想的に原理主義的な低位のレイヤーにおいて、世界的に反発と軋轢を生み続けているのだ。

 もう一つ説明すべきことがある。共産化とは何なのか?帝政ロシア末期のそれにしろ中国のそれにしろ共産主義革命とは、力を持たない民衆が団結し、腐りきった既存体制を打破し、特権階級が貪る既得権益破壊し、人民還元する、という建前で行われる営為だ。実際にはこの「特権階級」は中流層以下を指し、既得権益とは単に日常生活を指す、ということはまともな人間なら皆知っているだろう。高級な壺を割り水道破壊公共施設を打ち壊し電線を鋳潰し、全てを焼き払ってゴミにするのが共産化共産主義革命である社会破壊して所有の概念を、いや「社会」と「モノ」という概念の終了を目指すのが共産主義である

 この「才能の民主化」と「それは共産化である」という批判はこれらを踏まえて解釈されなければならない。

 「民主化」による恩恵を得るのはお前らではない。「お前ら」というのはブクマカ増田のような言葉を持つ人間だけに限ったものではない。日本人ではない。ここまで書いてきたように、いま、諸外国には、日本(または中韓台を含む極東アジア)人は二次元イラスト業界特権的地位を得、極端なダンピングと異常な反成長主義を敷いている、という怒りがある。その怒りの文脈において、日本人は全て二次元の絵を生成し享受できる特権階級であり、才能の共産主義革命において虐殺される対象である。⑨段のパブコメを書いた「生まれつき手が震えて線が引けない」者など同情に値するわけがない。絵の金融化、イラスト市場資本主義的成長を阻害してきた旧来体制を賛美する、唾棄すべき特権階級であるポル・ポト政権の新国家建設の呼びかけに喜び勇んでカンボジアへ舞い戻り人民裁判に掛けられ次々と虐殺された出稼ぎ労働者たちそのものの姿だ。

 そしてその方法として、生成AI推進派たちは、Danbooruに(善意で)集積されたイラスト圧縮汎化させ任意に混ぜ合わせ薄めて取り出せるようにする。そのデータを配布し有象無象が使えるようにする。LoRAにより「絵柄」の神秘性を破壊再現できるようにする。それらすべてはコンピュータの利用を強制して非属人的に実行されることで金銭価値還元される。

 だからあれは共産化なのだ。だから「生成AI規制するならば二次創作規制しろなのだ。つまるところ「生成AIによる才能の民主化」の指すものは、金銭価値への還元を断固として受け入れない二次元イラスト市場破壊のものなのだ文化庁の連中が考えているような「『民主化』による、日本国内の広く一般の者への価値還元」は発生しない。民主化AI生産性を飛躍的に向上させたクリエイター活躍などない。ソ連にまともな戦闘機がなかったようなものだ。仮にこれが「還元」だとするならば、起こるのはちょうど紙を高濃度過酸化水素水で炎とガスに分解するような「還元」だ。「パブコメの知能が低すぎて困る」とかボヤいている場合ではない。それほどの、あえていえば低知能のもの、が反対一色に染まってパブリックコメントを送ってきているとはどういうことか? 実害を被っているのに他ならないではないか

 この話のオチは、恐らく「生成AIによる才能の民主化」が実際にこのまま進んだとて、著作権法AIウォッシング無罪規定したとて、それは絵の価値が下がるという一過性日本の純損失であって、別に日本的なイラスト創作文化への参入が海外享受者たちに認められるわけではないだろうことだ。Twitter上でも指摘されていたが、AIに点滅するカレットを与えられないから絵が造れないなどという者はいないのだ。完璧な絵をプロンプトで定義できると言うならばしてみるがいい。いや、Twitter上でもなんでもいい、人は文字が読めるのだから完璧な絵の定義を書けばそれは作品なのだ。件の人物が長々とコメントを書き、そしてバズりを作り出したように。

Permalink |記事への反応(0) | 09:39

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-03-12

[AI]考えてみて欲しいのだが

もし何らかの自然現象生物仕業によって、環境人間営為を「参考にした」生成物(その中には有害フェイクも含む)が大量にバラ巻かれたとしたら、確実に規制されるはず

そうなってないのは生成AIビッグテック投資していて、規制されないためにロビー活動等でゴネてるからに過ぎないんじゃないか

Permalink |記事への反応(1) | 19:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-12-16

ダセえファッションでいようとしてるところがある

流行りのファッション(これって冗語か?)、お洒落な格好、みたいなものに反感があって、俺は逆にお洒落度の下限、逆ファッションリーダーになるぞっつう気概を持って生きてる

こう思うようになったのは、大学時代友達が受けた講義教授が言っていたらしい言葉きっかけだ

ファッションに気を遣わないのでは、獣と同じですよ」 だいたいこういうニュアンス

ファッションに気を遣うのは人間だけ、人間らしさの大きな要素にファッションがある、そういう話だと思う

ぶっ殺すぞ

俺の実家で飼ってたネコは日がな一日自分身体をベロベロやって毛並みを整え、たまに毛玉を吐いていた

コイツ、おのれの身体を舐めて毛並みを整えるくらいしか娯楽がないのか?なんて矮小生命なんだ、と俺は思っていた

何に見せんのかもよくわからん(去勢されてたし…)のにずっと毛並みを気にしているネコの姿は、高校時代休み時間の半分くらいを男子トイレの鏡に向かって髪を整えるのに費やしていた長髪のヤンキーに通じるものがあった

ああファッションってネコの毛繕いと本質的に同じなんだな、というのが俺の至った結論で、俺はこの結論にけっこう満足していた

それがなんだ ファッション人間にのみ許された特権なんですゥ〜? フザけんなよ むしろ逆だっつうの

砂の城を築いて壊す、みてえなことをやってるほうがまだマシだ 万物の霊長としての矜持がすこしは感じられる

身体に巻く布の色や形を変えて喜んでるのは、ネコの毛繕いと同程度の営みで、魂のレベルが低い

Tシャツと短パンで出かけるべきなんだ すべての場所に 

冬は毎日同じダウンジャケットを着て、下に着るのは中学生の時から着てるダルダルトレーナー

それが人間らしく生きるってことだ

着飾りたい その気持ちに蓋をして、逆に着飾らないこと どうすれば一番着飾らないでいられるかを考える いや、考えない

なにも考えないってことなんだ

気候に合っていて肌に不快感のない服を着る それだけだ

あっでもこれ逆に快不快しか判断基準がない下等生物っぽさがあるな

やっぱ、考えましょう

どうやったら着飾らないでいられるかを考えるってことだ

これは、「着飾らないオレを見て!」とか「ありのまま自分評価してくれる人がいるハズ!」みたいな話ではない

逆だ

着飾らないことで、よりモテなくなる

繁殖本能の逆を行く 何の意味もなく逆を行く

そのまったく無意味営為を、確かな意志自我をもって完遂することで、ひとつ万物の霊長としての矜持を貫くことができる

俺はそう信じています

Permalink |記事への反応(3) | 22:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-09-12

anond:20230912005213

似た趣旨ブコメがついてるが、自らをマイノリティの枠に敢えて当てはめようとするのは政治的営為だぞ

私のように自分の考えを相対化しておかないと気が済まないという性癖でなければ、得られるものがないと思うなら表明どころか自認も保留にしておくべき

非モテアセクの当事者としては、単に非モテ属性に埋没しておけば他人から気にかけられることもないし、それでいいんじゃないですかね?女コミュニティだとそんなに難しいのか?

Permalink |記事への反応(1) | 13:40

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-07-26

オッペンハイマー』を見た感想

当方ヨーロッパ某国にいるので、先日クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を視聴することができた。

同日公開だった方向性の全く違う『バービー』との造語ミームになるなど、英語圏を中心に話題になっているが、『オッペンハイマー』は原爆開発のマンハッタン計画を指揮した物理学者の伝記映画であるため、日本での公開は未定であるという(しか8月が近いこの時期なので)。

本稿では、映画を観て思った感想を徒然に書いてみたい。

ネタバレ等は気にしないで書くので、情報を入れないで視聴したい向きは注意されたい。

複雑な映画である

この映画では、3つの時間が並列で進む。

戦中の原爆開発まで、戦後赤狩りによるオッペンハイマーの失脚、さらにその後のストラウス(オッペンハイマーへの個人的因縁から裏で糸を引いた人物)の議会公聴会だ。

人間関係は多層的で、時間経過とともに関係も変質する。

また、最初マンハッタン計画までを除けば、基本的法廷である

当方英語リスニングに慣れているとは思うが、聞き逃した事柄もあった。日本語字幕で見ればこの苦労は少なかったかもしれない。

さらに3時間と長い。劇場結構混んでいたが、途中で携帯を見たり同伴者と話したりするガキ共もいた。

原爆の扱いを巡って

映画的なクライマックスは、一応ロスアラモスでの原爆の爆発実験に置かれており、中盤に訪れる。

これによってオッペンハイマープロメテウスとなり、世界に滅亡をもたらす「死」となる。

オッペンハイマーはこの後苦悩し、戦後水爆開発に反対し、それが戦後公職追放の憂き目を見る仇となる。

日本人として気になる広島長崎描写は、直接行うことは避けられている。

しかし、罪の意識に苛まれ主人公が投下後にロスアラモスの職員を前に演説する際、喜びを口にしドイツに落としてやりたかった(オッペンハイマーユダヤ人)と盛り上げながらも、皮膚がポロポロと崩れ落ちる幻影を見せる(これは『はだしのゲン』での描写が思わず想起された)、職員向けの広島視察報告会で残虐な写真想像させるリアクションを演じさせる、という程度は行っている。

また、アメリカ軍原爆投下地を選定する際、

などと軽い調子で話し合う場面は生々しい。

僕は被爆出身ではないし、広島高校修学旅行で一度訪れた程度なのだが、上述の演説中のフラッシュバックの場面では、被爆者が受けた残酷な苦悩を思い、思わず涙がこぼれた。

これはアメリカ人が憎いとかどうのという話ではなく、(戦後も含めた)歴史という大きな対象個人との対比に心が動いたという話と言えようか。

あとちょっと思ったのは、爆発前のカウントダウンAVJOIみたいな効果がある。

個人的営為の究極であるAV鑑賞と、大衆娯楽にする装置であった映画館での映画観賞との接続は興味深い。

アメリカ合衆国暴力映画

アメリカ合衆国原罪のようなものも、映画に盛り込まれている。

まず、ロスアラモ研究所を作った砂漠原住民土地であり、オッペンハイマー自身戦後インディアンに返せと言う台詞がある。

原住民から取り上げて作った研究員居住空間は、まるで西部劇舞台である

ガランとした土埃舞う道、左右に並ぶ木製の建物

妻がシーツを取り込む場面はフォードにありそうだし、ロスアラモスに引っ越してきたオッペンハイマーの妻はサルーンがあれば完璧ねと言う台詞もある。

事程左様に西部劇的な舞台が用意されるが、アメリカ合衆国西部劇で描いてきた神話や、その自警的な暴力性と法による支配との相克は、これまで様々な映画で繰り返し取り上げられてきた主題である

この映画でも、原爆を無事作り終えて職員に肩車されるオッペンハイマーの背景には、星条旗がはためく。

アメリカ合衆国原理的に持つ暴力性を描いているのだろう。

科学者戦争協力

自明テーマであるが、見逃すことはできない。

オッペンハイマーナチズムへの反発からアメリカ軍原爆開発をリードする役目を引き受けた。

科学政治関係というテーマは、コロナ禍での専門知の活用学術アカデミー問題、そして2011年原発事故など、日本でも問題になってきた。

現代的でアクチュアルテーマを扱う映画である

共産主義科学資本主義

この映画テーマはもちろん原爆というプロメテウスの火である現代的なテーマである

しかし今一度思い返してみると、科学共産主義資本主義関係にも踏み込まれているのではないかと思う。

科学の進展と共産主義は切っても切れない関係にある。ソ連科学推し進め、オッペンハイマーマルクス主義科学的社会主義)に興味を持つなど、科学者共産主義楽園が訪れるのではないかと期待した。

しか共産党による独裁となったソ連崩壊し、その混乱を収めたプーチンウクライナに核の脅しをかけている。

では資本主義勝利かと言えば、その限界が指摘されて久しい。アメリカ合衆国共産主義への恐怖から赤狩りを進める。さら戦争に勝つために原爆まで作ってしまった当事者である

この映画は、冒頭で述べたように3分の2が赤狩りに関するものである

原爆映画ではあるのだが、共産主義科学に関する映画と考えることもできよう。

日本で公開すべきか・できるか

3時間という長尺の映画であるが、これだけ多様で重層的なテーマを盛り込み、商業作品にしたクリストファー・ノーラン製作チームの意欲は素晴らしい。

しかし、あくまでもアメリカ国内の話であるという感じもする。ソ連、そしてヨーロッパ中国の動向も薄い。

そして日本では、まずもって娯楽作品ではないから、商業成功は見込めるのかは分からない。

さら原爆開発に対する反発も大きいだろう。被爆者が親類にいる訳でもない私でも涙がこぼれたので、当然のことだと思う。

しかし、重く重要主題を扱う映画ではあると思うので、公開の判断がなされて多くの人が視聴する文化的土壌に期待したい。

Permalink |記事への反応(0) | 20:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-29

Syamuさん(間違って消して申し訳ありませんでした)

YoutuberにSyamuって人がいる。

彼は「歌ってみた」やゲーム実況など、おおむねほかのYoutuberと似たり寄ったりなことをやっている。異世界もの小説を書いたりもしている。

彼の知名度は低くはない。とはいえ匿名掲示板SNS利用者などは彼に対して否定的評価を下している。正視に堪えない言葉悪罵されることも少なくはない。

曰く「彼は知的機能問題がある」「出来損ない」などなど…

 

とはいえSyamuさんはネット住民が言うほど愚鈍とは思えない。彼の動画を見ることもあるが、少なくとも三十路過ぎの自分よりかは能力が高いことは間違いない。

それどころか知性・感性などの能力は同世代平均から見ても高いレベルにあるのでは?とすら思えるのだ。

例えば彼は、30歳を過ぎてもボーカロイドの曲(「ハッピーシンセサイザ」など)を歌ったりそれで踊ったりしている。いうまでもなくボカロ文化は新しいものである

そういう新しい文化を30過ぎても虚心坦懐に取り入れる彼の柔軟性、あるいは感性のみずみずしさには舌を巻くばかりだ。

ボカロ文化に関していえば、自分高校入学した2007年ぐらいか話題になりだしたという印象がある。

高校のころぐらいに一度ボカロの曲を耳にしたことがあったが、はっきり言って黒板をひっかく音のような不協和音しか聴こえず、結局10秒も聴くことはできなかった。その後もボカロ系には触れていない。

ましてや30歳を過ぎると人は頑迷になるというか、新しい音楽文化には抵抗を示しだすようになる。

そんな中、Syamuさんは30歳を過ぎても新しい文化をどん欲に吸収し、それを咀嚼してインターネットで発信した。みずみずしい感性のなせる業である

 

他にもSyamuさんは小説を書いている。正直文体に関しては粗削りというか、英文を逐語訳したみたいなぎこちなさはある。

とはいえ文体のぎこちなさと中身は必ずしも比例しない。彼が執筆した小説『ゾット帝国』に関しては、ファンタジー分野に関する蓄積をそれなりに理解しないと書けないのではないか?と思う。

かに、『ゾット帝国』などのいわゆる「なろう系」は、一部で揶揄対象として消費されているきらいがある。

ただ、その手の小説を書くにあたっても、「なろう系」の読者が共有する「魔法」や「(ファンタジー風の)異世界」という共通概念をある程度理解しないといけない。

いうまでもなく、魔法異世界現代社会に生きる我々が実際に認識できる代物ではない。それらは創作物を介し、ある程度抽象化された形で(書き手の中で)認識・体系化される。

その認識と体系化というのは知的営為に他ならない。知的営為を続けるための不断努力がなければ『ゾット帝国』のような「なろう系」は執筆できない。

そう考えると、Syamuさんが『ゾット帝国』のようなハイブロウ小説を書けたのは、ひとえに彼の知的レベルの高さをあらわすものではなかろうか。

自分場合魔法異世界理解できる域に達するほどの知的レベルはない。その手の作品最近だと『転生王女天才令嬢の魔法革命』)を見ようとしても、何が何だか理解できないので10ももたない。

それはひとえに、「なろう系」のような高度な知的営為から逃げ続け、昔から即物的情報の断片の収集血道をあげていたからだろう。

情報の断片を貪るだけしかできない自身知的怠慢を呪いつつ、Syamuさんの知的豊饒さに万雷の拍手を送りたい。

 

複雑なルール理解や高度なマネジメント技能必要な『ウマ娘』や『原神』などのゲームができることも、彼の知的レベルの高さを如実に表している。

ウマ娘』においても、まず「どの操作を行えばどのパラメータがあがるか」というルール理解しないことにははじまらない。その際、現実世界事象フィードバックできるような生ぬるさはない。

ゲーム世界で完結する定理などをある程度体得し、それをもとに常に最適解を考え操作しなければならないという、まさに絵にかいたようなスパルタンさである

そういうむき出しの知的スパルタンな代物をこなし、さらにそれを「楽しい」と思えるレベルなのである。これが高度な知的レベル証左と言わずに何と言おうか。

いうまでもなく自分は『ウマ娘』のルールが一切理解できなかった。それは知的スパルタンさに耐えられるほどの知力がなかったからだ。

 

他にもSyamuさんは優秀だと感じることは多々ある。

かにネット住民は、彼をあたか知的競争の敗者のごとく揶揄している。むろん、それはネット特有のある種の露悪的なノリが表出した「ネタ」に過ぎないと評する向きもあるだろう。

ただ、それは彼に対する正当な評価だとは到底思えない。Syamuさんのような卓越した知性と豊かな感性を持つ人こそ、正当に評価されてほしいものだ。

Permalink |記事への反応(1) | 06:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-26

「私の(ダウン症の)娘の人生において、恋愛は他の何ものにも代えられない大切な体験であったと感じる」という話に

「誰もが恋愛するのが当たり前という感覚おかしい」みたいな感想がつく。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/1043441948785344525

これは障害者にも恋愛権利と機会を保証せよという話ではない。

人生体験人間関係は一回性で代替不能でそれ自体価値があるという話だ。

勝手に早まった一般化をするな。

知的障害者ままごとみたいな恋愛をすることに意味はあるのか。もちろんある。当人にとっては。

知的障害者結婚出産可能性について親が悩み考えることに意味はあるのか、正解が見いだせるわけでもないのに? もちろん当事者とその関係において、真剣であること自体意味がある。

「結局なんにもならないのに、何の意味があるか」と言い出したら人の営為全てがそうだろう。

オレの人生人類にとって何の意味もないが自分にとってはかけがえないものからべつにいい。

知的障害者出産育児について手放しに称賛するのは、問答無用強制的に断種するのと似たようなものだろう。

原理的に無理でもダメでもないとは思うがサポートに要するリソースものすごいだろうし、破局事態に逢着する可能性も低くはないだろうな。

関係ないようで関係ある話をすると、俺がサヨク大嫌いなのに自分絶対保守」の一員になれないなと思うのは「国体」みたいな概念に乗れないからだ。国のかたちを変えてしまうことはとんでもないことだと彼らは言う。一夜にして日本人駆逐されて別人種に置き換わればそれは悲劇だが、100年かけてみんな黒人ハーフになったってべつにどうでもいい。平和裏に天皇制度が終わったって何も終わらない。変えてはならないものなんか何もないし、かくあらねばならない生き方もない。

Permalink |記事への反応(2) | 03:23

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-17

下書き

書き直し。

ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。

 

全部谷川俊太郎って演奏会明日やるんだけど、中の2曲が自分経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい

「生きる」と「ネロ」。

 

去年の夏、子供誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。

 

数日後、会社仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。

数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援ヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。

会社は早退して駆けつけた。

 

病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署手続きやら葬儀社の互助会書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団練習は無断欠席していた。

 

 

諸々落ち着くまで合唱団練習は一ヶ月ほどお休みした。

復帰してはじめての練習に行ったら、新曲が始まっていた。

「生きる」だった。

ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。

 

うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。

曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。 

 

……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。

それはのどがかわくということ

木もれ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。

本来の詩とは少し違うが、合唱歌詞としては

くしゃみをすること、手をつなぐこと

あなたと、あなたと手を…あなたと、あなた

と続く。

くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。

 

これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系から、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。

そうはならなかった。

寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。

そうはならなかった。

私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまたからだ。

私は亡くなった人と手をつないだことがない。

 

曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然科学芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。

それら美しいもの出会うということ。

あの人はもう、新しく美しいもの出会うことはできない。最後電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。

 

「生きる」というタイトルなのに、谷川俊太郎の詩は死が匂う。

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこが揺れている、揺れているということ

いま、いまが過ぎてゆくこと

不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。

生も死も同じ時間の中にある。

 

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。

もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリ存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。

それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さな人間でも、愛する可能性がある希望

 

そして曲はまた、

あなたの手の

あなたの手のぬくみ

いのちといういのちということ

生きるという生きるということ

あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。

 

私が繋がなかった手のぬくみ。

永遠に失われ、想像上にしか存在しない温かさ。

 

 

一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。

空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。

子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。

  

亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。

でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。

去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。

今日リハーサル明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。

もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。

 

 

ネロ」も練習復帰後すぐに始めた曲だ。

これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。

しか

ネロ

もうじきまた夏がやってくる

(中略)

おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった

と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ

 

主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。

何でもかんでも自分関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。

 

今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全く別の夏なのだ

去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。

お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。

去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。

 

曲は、しか喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。

たびたび出てくる「知る」という営為

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうするべきなのだろうと

主人公は何を知りたいのだろう?

なぜネロは死んだのかを?

なぜ生あるもの死ぬ定めなのかを?

私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。

 

詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、

ネロの声や「気持ちまでも」が「はっきりとよみがえる」。

それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、

しかネロ

もうじき又夏がやってくる

新しい無限に広い夏がやってくる

そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう

新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え

春を迎え 更に新しい夏を期待して

そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいもの貪欲に取り込む力強さ。

(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)

 

私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。

冬場からこち空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。

家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダー書き込みもそのまま。去年、子供誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。

それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。

まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。

 

 

(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記距離を置かないと吐き出しにくい)

 

引用の詩は曲のために繰り返しなどの改変があり、オリジナルと少し違っています

Permalink |記事への反応(0) | 19:19

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-16

anond:20230616072124

なるほど現実と向き合ってキラキラしてる人たちの営為自己満足しかないのか。

じゃあ俺は今まで自己満足擦ってる連中に現実がどうだとか高説垂れられていたのか。

つまるところ現実と向き合ってる人間なんていなかったんじゃないか

一体何様のつもりなんだ。

Permalink |記事への反応(0) | 07:32

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-06-12

では逆に、スタアを目指すJCは何がセーフなのか

はてブ市民によると、女子中学生水着姿の撮影会公序良俗に反する、けしからんいかがわしい催しであるらしい。

ワシもそう思う。けしからんいかがわしい

しかし、そうだとすると、たとえば、スポーツブランドカタログに載っている写真はどうだろう。

スポーツブランドカタログに、中学生モデルジュニア向け水着を着用してポーズをとっている写真が載っていたとする。

これはセーフだというのがおそらく社会通念だろう。

健康的なポーズからセーフなのだろうか。

それとも、その写真が撮られた目的健全からセーフなのだろうか。

プロカメラマンスタジオ撮影しているからセーフなのだろうか。

カタログを手にとって見るのは主に就学児童を持つ親御さんだからセーフなのだろうか。

カタログが置かれるのがスポーツ用品店の店頭からセーフなのだろうか。

どこかのブクマで「撮影者が性的に興奮してたらアウト」という意見を見かけた。

健全目的撮影カメラマン性的に興奮していないと言い切れるだろうか。

私は健全企業活動の一貫として女性向け下着プロモーションに携わったことがあるが、その業務従事している間しばしば性的な興奮を覚えた。

しか女性下着の開発や販売促進が公序良俗に反する行為とは特に考えなかったし社会通念上もそうであろう。

話が脱線した。

グラドルとは、自らのセクシュアリティ経済的価値を持つ資源自覚し、自己表現自己実現あるいは利益獲得の一貫としてそれを衆目に晒すことを業とする者を言う。

その営みは、成熟した大人個人判断において行う分には何も問題はないが、少なくとも未成年にはふさわしくないと思う。

しか未成年とてアイドルを夢見、スタアを志す。というか、若いアイドルたちの大半は未成年デビューする(成人してまでアイドルになりたいなどと寝言を言っている大人がいたら早く目を覚ませと言ってやるべきだろう)。

そうした未成年たちに許される営為範囲とはどこからどこまでだろう。

そもそも女性アイドルは、プールサイド撮影会なんかしなくても男性ファンから性的にまなざされることが宿命である

思春期の男は誰しも多かれ少なかれ、あのアイドル恋人にしたい、あの子チョメチョメしたいと思うのである雑誌水着写真があれば健康的なポーズであっても10円玉で隠したりするし、顔面アップの写真には精液をぶっかけるのである

フリフリのロングドレスを着て能天気な歌を歌っているくらいなら健全です、と確信を持って言えるだろうか?

年齢に関わらず、女性はスタアを志した時点で自らの「女性性」を資源にしている。

極端な話、地上波歌番組でピョンピョン踊っているアイドルと、アダルトビデオでドロドロにされている女優は地続きである距離的な隔たりこそ大きいが、その間には滑らかなグラデーションが広がっいて、セクシュアリティ比重というパラメーターがアナログに異なっているだけだ。

性の商品化と言うが、むしろ商品でない性などありえない。

もし原田知世ちんちんが生えていたら、と想像してみればいい。

Permalink |記事への反応(2) | 18:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-04-17

anond:20230416201560

芸術はそういうもんだっていう言い訳をする連中がたくさんいたからな。今も居るけど。

そうしないとガチの感動を励起できないというのが連中の言い分。

「感動させる」という意図を含んだヒトの営為のものがすでに作り物まがい物なのだが、

彼らにとっては極限まで追い込んで引き出した反応なら「純粋なホンモノ」になるらしい。

表現者とはかくも傲慢

Permalink |記事への反応(1) | 22:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-04-13

道路を歩くこと自体が加害だという意識は広まってほしい。

https://anond.hatelabo.jp/20230413094851

この増田の内容を見てそう思った。

記事に書かれている通り、貧困肉体労働者は虐待環境で育った男性割合が非常に多い。幼い頃にうけた虐待の影響があって、人生がぐちゃぐちゃになってしまった結果、肉体労働といった業界に流れてしまう。そういう業界の食い物にされてしまうという現実がある。

建築利用者は、直接貧困肉体労働者を傷つけたわけじゃないのは分かるけど、道を歩くこと自体は加害じゃない、私は関係ないって思考を持つことはやめてほしい。直接の加害者ではなくても、道路を歩くこと自体が、そうした貧困肉体労働者を食い物にする社会システムへ加担しているという意識は持って欲しいと思う。

もちろんマンションもそう。売ってるのが悪い、私は買ってるだけだって人は多いと思うけど、相手貧困肉体労働者がどのような人生を経てその仕事をしているのかの想像力を持って欲しい。その上で、そうした営為経済サイクルに加担することが、間接的に貧困肉体労働者への加害になってることは意識してほしいと思う。

加害者なんだから反省しろ、とまでは言わない。本当は反省して欲しいけど。まずは、自分加害者の一人なんだという意識を持つことから始めて欲しい。そして、こうした貧困肉体労働者の人生について、私はただのユーザーであって無関係なんだ、という考えは改めるようにして欲しい。

それが貧困肉体労働者への被害を少しでも楽にすることに繋がるきっかけになればいいと思う。

みんなもLet'sチャレンジ

このメソッドで、ほぼすべての労働者擁護している風で馬鹿にすることができるよ!
あみんなもやってみよう!

まずはこんなのはいかがかな?

他にも、本当は存在否定したいけど、真っ正面から批判すると差別主義者とか言われちゃうから言えないことを、こうやって言葉にしちゃおう☆

Permalink |記事への反応(0) | 13:18

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp