
はてなキーワード:善意とは
政府が「サプライチェーン強靭化」だの「経済安全保障」だのと称して市場に手を突っ込むのは、情報の分散性という資本主義の根幹を理解していない者が、価格メカニズムの神経系をハサミで切り刻む自己放尿に等しい。
政府が何かを守ると言い出した瞬間、それは必ず誰かの自由な選択を破壊し、価格シグナルを歪め、資源配分を政治的配給へ転落させる。
サプライチェーンとは本来、利潤動機と競争圧力により、コスト・品質・納期の制約下で最適化され続ける進化的システムであり、そこに官僚の机上の「望ましい産業地図」を持ち込むのは、動的効率性を犠牲にして静的な幻想を買うだけの政策自慰、つまり政府の自己放尿である。
中国との貿易を規制する?笑わせるな。貿易とは相互利益の交換であり、比較優位は道徳でも思想でもなく、ただの計算可能な現実だ。
中国が安く作れるものを中国から買い、こちらが相対的に強い分野に資本と労働を移す、そのプロセスこそが総余剰を最大化し、実質所得を引き上げ、消費者厚生を増大させる。
関税や輸出規制や補助金でこれを遮断するのは、消費者に対する隠れ増税であり、国内企業に対するモラルハザード供与であり、官僚機構に対するレントシーキングの自己放尿だ。
要するに、保護主義、産業政策、経済安保のトリプル放尿である。
しかもこの手の介入は、ルーカス批判の通り、民間の期待形成を変え、企業は政治リスクを織り込み、投資は歪み、ロビイングが利潤最大化の中心戦略になり、資本主義は市場競争から政治闘争へ堕落する。
政府が国益を掲げて市場を殴るほど、企業は技術ではなく補助金獲得能力で勝負し始める。
これがいわゆる政府失敗であり、規制の捕捉であり、官僚的計画経済への漸進的スライドだ。
国内生産回帰も同様に欺瞞である。サプライチェーンを国内に閉じ込めれば安全になるという発想は、分散の概念を逆さに理解している。
リスク分散とは供給源を多様化し、取引先を競争させ、価格と品質の淘汰を働かせることで実現されるのであって、国内に固定することは単なる集中リスクであり、コスト上昇と供給硬直化を招く。
さらに補助金で国内生産を誘導すれば、企業は効率ではなく政治意向に適応する。つまり、競争ではなく配給の世界だ。
ここで政府は戦略物資などという曖昧な言葉を振り回し始めるが、曖昧さは裁量の母であり、裁量は腐敗の父である。
結局、政治家は票田に資源を流し、官僚は天下り先に規制を設計し、企業は既得権を守るために市場参入障壁を要求する。
これが公共選択論の結論であり、理想の政府など最初から存在しない。政府が善意で動くという前提は、経済学的には分析不能な自己放尿でしかない。
自由貿易こそが正義だ。正義というのは感情の問題ではなく、制度としての優越性の問題である。
自由貿易は、消費者に選択の自由を与え、企業に競争を強制し、価格に情報を凝縮し、資源配分を最も生産的な用途へ押し流す。
そこでは国が決めるのではなく、分散した個人の知識と選好が価格を通じて集約される。
これが市場の計算能力であり、官僚の頭脳では代替不能な社会的情報処理装置だ。
政府が中国との取引を政治的に遮断するのは、その情報処理装置をわざわざ破壊し、国民の実質所得を削り、成長率を引き下げ、非効率企業を温存し、インフレ圧力を高める行為に他ならない。
しかもその負担は「国家のため」と言いながら、結局は消費者が物価として払い、労働者が実質賃金として払い、納税者が補助金として払う。
政府はそれを安全保障と呼ぶが、実態はただの政治的コスト転嫁であり、サプライチェーン自己放尿の芸術点を競っているだけだ。
自由貿易は短期的に産業の新陳代謝を要求するが、長期的には生産性を上げ、イノベーションを誘発し、社会を豊かにする。
介入は短期的に痛みを隠すが、長期的には歪みを蓄積し、停滞と腐敗を育てる。
だから結論は単純で、政府は余計なことをするな、価格に喋らせろ、貿易に壁を作るな。
中国と取引したくない企業は取引しなければいい、リスクを取りたい企業は取ればいい、その判断を官僚が一律に奪う必要はない。
自由を奪って安全を得ようとする国家は、結局、安全も成長も失う。自由貿易こそが正義であり、保護主義は自己放尿であり、裁量行政は市場への暴力である。
って言われてよく髪の毛抜かれてた(善意なんだろうけど)
染めればいいのはそうなんだけど、お金も時間もかかるし、なにより悲しい
すごく老けて見える
人より毛量が2倍くらいあるらしくて、そのせいかもしれない
伸びるスピードも異常
ほっとくと陰毛のようになる最悪な髪質でもあるので、定期的に縮毛矯正もしてるけどとにかく金が、金がかかる
いっそ全剃りしてウィッグ、って何度かよぎったけど、現実的じゃないよなぁ
鏡見る度、老婆みたいで悲しい
まだ若いはずなのに…
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
衆議院選挙が終わって数日が経った。
しかし同時に、「民主主義とは何か」を考え直させられる出来事でもあった。
今回、先の参議院選挙から心惹かれる候補者がおり、その方が衆院選でも立候補されることになったとみつけた。
何を行えばいいかわからない、なので決起集会から参加することにした。
ただ、私はこの政党の政策すべてに賛同しているわけではない。たとえば消費税ゼロを謳っているが、現実的な財源確保として不可能だろう。VAT対象品目の見直しや税率の段階的引き下げならまだしも、と思う部分は多々ある。それでも、この候補者個人の姿勢には共感していた。
会場には早めに到着した。主催者席に座る候補者は、ネットで見るより穏やかで、普通の人に見えた。もしかして別人では、と疑ったほどだ。
ところが決起集会が始まると、徐々にあの雰囲気が戻ってきた。明確な目的意識と、人を飽きさせない話術。理路整然とした言葉運び。ああ、本物だ、と少なからず感動した。
開始ギリギリに入場を諦めかけていた人々を掻き分け、個性的な格好の女性が入ってきた。顔見知りらしき女性と話した後、床に座り込んだ。満員のため床に座る人は他にもいたので、これ自体は仕方ない。冬の寒い日だったが室内は適温だった。
ところが彼女には暑かったらしい。会の進行も気にせずタンクトップ姿になり、ストレッチを始めた。候補者が演説している最中である。周囲の人々が一瞥し、見て見ぬふりをし始めるのが分かった。知り合いと見られる女性も、誰も諌めることはなかった。
これは私にとって異様な光景だった。国の立法府に人を送り出そうとしている場で、自分の快適さを優先する振る舞い。それを制止できない支援者たち。人は自由であるべきだが、この状況への違和感は拭えなかった。
候補者と支援者の話は感動的で思慮深く、ますます応援したくなった。だが同時に、この非社会的行動とそれを容認する雰囲気に、この集団に身を置くことへの躊躇も生まれた。候補者は心から応援するが、支援者の集まりには居心地の悪さを感じる。党内の年齢層が高いせいか、仕組みがアナログなことも気になった。
次に応援に訪れたのは、大きな駅前だった。党首と候補者が揃って演説するという。選挙戦も中盤、どんな話が聞けるか楽しみだった。
党首の主張は理解できる。税金の使途変更、防衛費拡大への反対、雇用の安定化。実現すれば社会的負担を減らせる政策だ。
しかし言葉選びが気になった。この街はかつて若者の街と呼ばれ、今も感度の高い人々が集まる場所だ。新しいものを好み、洗練された言葉を使う。
その駅前で「○○はいいでしょう、みなさん、どうですか?」という呼びかけ。若い世代なら思うだろう。質問形式で議論を誘導するのはレトリックとして不誠実ではないか、と。信念があるなら素直に政策を語ればいい。同意を求める言葉は、自信のなさに聞こえる。
耳を疑った。ガビーンとは何だろう。長年のキャリアを持つ政治家が、なぜこの場にいる人々に届く言葉を選べないのか。聴衆に訴えかけるのではなく、自分の話したい言葉だけを語っているように見えた。
この党首は東大を主席で出て司法試験に合格し、若くして党を任され、弱者の側に立って問題解決に取り組んできた人だ。テレビ討論でもしっかり話される。政治家として評価されるべき実績がある。
それなのに、この演説は何だろう。データの並べ方も、相手に噛んで含めるような話し方も、聴衆を低く見積もっているように感じられた。
この区は常に23区の平均給与トップ3に入る。日々プレゼンをし、人を説得して予算を獲得する訓練を受けた人々が多い。党首の話し方は、そうした聴衆には響かない。
後ろで候補者が不安そうに手を振っている。聴衆の半分は政党ではなく候補者目当てだろう。
党首がようやく話を終えたと思ったら、スタッフが「まだ話し足りない」とマイクを戻した。聴衆は候補者を見に来ているのだ。壇上の党首、スタッフ、候補者の間で意思疎通がうまくいっていない様子が見て取れた。
候補者の演説が始まったのは25分後だった。比例候補とはいえ、若者に届く言葉で話せる候補者の時間が、二世代上の党首の演説に削られたのは残念だった。
それでも、その足で区役所に向かい、候補者の政党名を書いて期日前投票した。
選挙運動平日最終日、金曜の夜に仕事が早く終わったため、もう一度候補者の演説を聞きに駅前へ向かった。
今回、リベラルな政党を心から応援したいと思った。ただ投票以外に何ができるか分からない。勤め人なのでポスティングの時間も取れない。せめて聴衆「モブ」の一人として場を盛り上げられればと足を運んだ。
だがその度に気になったのは、支援者の排他的とも見える行動だった。
この日、自治体の首長と候補者と同じ政策を掲げるNPO代表が応援演説に来ていた。聴衆は80人もいないように見えたが、特記すべきは15人前後が巨大なスローガン入りの旗を持っていたことだ。個性的な格好をした人が多い。
でもさあ、80人くらいだよ。ここにいるの。そこの20%が旗持っているわけ。
遠目から見て、異様な光景。デモ会場なら分かる。他党でも旗を持つ人はいる。ただ大抵は小さな応援旗だ。少ない人数に大漁旗並みの旗を持つ人が20%もいる状況は、書かれたスローガンが正しくても、外から見て近寄りがたい。
あの集団を見て、楽しそうだから仲間に入ろうと思う人がいるだろうか。むしろ威圧感を与えているのではないか。
遠目から候補者の演説を聞いた。掠れた声で、それでも変わらない人を惹きつける話し方。前議員時代に力を入れた戦時中の事故の問題、労働問題、あらゆる格差問題。それは意味のある言葉だった。一人でも多くの人に届いてほしいと願った。
大規模政党から見ればメジャーではない政党の些細な敗北かもしれない。しかし多様な問題提起をし、さまざまな状況に置かれた人々の声を国に届けられる人を、有権者の一人として国会に送れなかった。今、とても気持ちが沈んでいる。
全ての人に優しい社会という理念は大事だし、私もその一員でありたい。
直近の選挙でリベラル側に立つことで、リベラルが票を増やせない根本的な問題に気づいた。
理念は正しくても、それを広げる方法に課題がある。他党の主張を支持する人もいるだろう。だが節目の場では、協調と他者への尊重が必要ではないか。政党側にも支援者側にも。
共鳴する仲間を増やす必要がある時に、外から人が入りづらい雰囲気を作る古参の態度は何なのだろう。
学生時代、キャンペーンスタッフのバイトでチラシ配りをしていた。人の目を見て動きを少しシンクロさせると受け取ってもらえることを学んだ。この政党のスタッフは高齢の方が多く、ぶっきらぼうにチラシを押し付けるように渡していた。チラシに書かれた言葉を届けるというより、チラシ配りという役目だけをこなしている。相手の行動を見て判断し、関心のある素振りを見せなければ、誰もチラシを受け取らない。
視覚障害者用の誘導ブロックに立つ支援者もいた。「誰かが来たらどけばいい」ではない。そんな配慮もできない人が支持している、と候補者の評価まで下がることに思い至らないのだろうか。
若い有権者はチラシではなく、候補者のホームページを見る。だがそのホームページも、パワーポイントで作った画像を貼り付けた雑然とした作りで、政策の深掘りも整理もされていない。フォントサイズもバラバラでデザインに落ち着きがない。
候補者は最初の決起集会で、この政党だからこそ活動ができたと感謝を述べていた。その言葉は本心だろう。だが同時に、支援者たちの善意が、意図せず新しい人々を遠ざけている現実がある。
私自身は無党派層であるが、今回リベラルの候補者を追いかける中で、いくつかの問題が見えてきた。
理念を広げたいのであれば、まず支援者の側から、初めての人が入りにくい雰囲気を和らげる必要があるのではないだろうか。
掲げているスローガンは本来、社会全体に向けた言葉のはずだが、いつの間にか仲間同士の確認の言葉になっていないだろうか。
さまざまな立場や温度感の人が参加できる作法になっているのか、改めて考えてみる余地があるように思う。
どのような態度の人であれ、どの立場の人であれ、まず同じ社会の構成員として尊敬の態度を持って扱う姿勢が必要ではないだろうか。
自分たちの正しさを語るだけでなく、その正しさが現実の社会にどのように作用するのかを、現在の社会を前提に説明してほしいと感じた。
たとえ他党であっても、支持される理由があるはずであり、その点を理解しないまま批判すると、力強い、信頼できる言葉を届ける前に、結果として有権者を遠ざけてしまうのではないか。
このポスト自体は、左派やリベラルの思い上がりや押し付けがましさを自省する、とても良い内容だと思うんだけど
叩かれているのが謎過ぎるな。
どうも、「底辺」という言葉を使った事が挙げられているようだ。
まぁ確かに良い意味では使われない事が多い言葉だけど、何を意味するかは文脈によるよね。
多分だけど、発音が違うと思うよ。「てえへん」じゃなくて「ていへん」。
二等辺三角形の、唯一長さが違う辺を下に置いた時のその辺の事だよ。
見下し嘲る意味ではなく、客観的事実として社会の下部にいるという意味だと思う。
@levinassien
核心を衝いた分析だと思います。でも、たぶんそれやっても左派のメッセージは底辺には届かないと思います。動機が「善意」だから。この人たちを何とか救ってあげたいと思って「平易な言葉 子どもにもわかるロジック」を操るわけでしょう。それでは届きません。
「善意を否定したつもりで、実は議論そのものを破壊してる」です。
順にいきますね。
①「行間の共有の失敗から生じた反論は、そう判定されるべき?」
まずここ。
それを事後的に・発言者本人が判定し始めた瞬間、
なぜなら、
歪曲だったかどうか
有利な反論 → 正当
それ、藁人形論法を防ぐどころか
②「悪意ある人に対抗するすべがなくなる」←逆です
ここが一番ズレてます。
悪意ある人への対抗策は、
「それは私の意図ではない」
という具体的な訂正です。
一方あなたが言ってるのは、
=
これを許したら、
悪意ある人はむしろ大喜びですよ。
なぜなら、
わざと曖昧に書く
相手が突っ込む
ここ、かなり致命的です。
そう。分からない。
だからこそ、
書いてある文字
一般的な読み
公開された文面
「行間」は
性善説を否定した瞬間に真っ先に切り捨てるべき概念なんですよ。
なのにあなたは、
でも行間は読め
って言ってる。
これ、
④ まとめ(かなり辛口)
悪意への対抗策は
→行間ではなく、明示と訂正
要するに、
「行間を読めなかったお前が悪い」
議論は最も悪意に弱くなる。
ここまで来てる以上、
あなたはもう「分かってない側」じゃない。
ここを認められるかどうかが、
本当に最後の分かれ道ですね。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
規範と実証の分離。政策議論が壊れる典型例(善意で地獄、etc)。
「仮定が現実的か」ではなく「予測精度で裁け」という有名な話。
実物要因と貨幣要因の分離。
公共選択論の導入。
この教科書の特徴は、
あの文章、道徳的には気持ちいい。だが、善意の宣言がインセンティブ設計の分析を置き去りにしてないか?がまず疑われる。
人間が悪い選択をしたのではなく、その選択を合理的にしてしまう報酬構造があったのである。
Instagramが知人投稿を減らしたのも、Xが地獄みたいになったのも、経営者がサイコパスだからではなく、広告・滞在時間・炎上・依存が収益最大化の最短ルートだったからだ。
つまり「インターネットが悪くなったのは誰かの意思」という説明は半分しか当たってない。より正確には市場がそういう最適化を報酬として与えたので、企業は合理的に堕落した。
この前提を外すと、Blueskyの予測は「良い人が良い選択をするから良くなる」という倫理物語になってしまい、政策失敗の典型コースに入る。
これは当たる可能性が高い。理由は単純で、ライブイベントは同期性という希少資源を生むからだ。ライブ投稿は公共財というよりネットワーク外部性が極端に強い商品になる。人がいるほど価値が増える。
ただし問題は、ライブフィードが成功すると、プラットフォームは「滞在時間を増やす装置」を手に入れることになる点だ。
つまり彼らが批判していた無限スクロールと同じ誘惑に、自分から寄っていく。
ここでの問いは「ライブフィードは広告・政治・扇動の収益化と相性が良すぎないか?」だ。
ライブ実況は感情のボラティリティが高く、誤情報の拡散速度も上がる。モデレーションコストが跳ねる。
結局、収益モデルが広告である限り、ライブ強化は自己放尿の芽になりうる。
リンクを外に出す行為は、プラットフォームにとっては負の外部性だ。
滞在時間が減る。広告インプレッションが減る。アルゴリズムが外部サイトの価値を増やしてしまう。
Blueskyがリンクを推奨できるのは、現時点で広告依存が薄いからか、あるいは将来的に別のマネタイズ(課金、決済、マーケットプレイス等)を想定しているからだろう。
だがもしユーザー規模がさらに増え、投資家や運営が収益最大化の圧力を受ければ、リンク優遇は必ず揺らぐ。
リンク文化が根付くかは、運営の意思ではなく、リンクを推すことが利益になる制度設計を作れるかで決まる。
つまり予測というより、自己拘束コミットメント(将来リンクを殺さない仕組み)があるかどうかが本質。
ここはかなり怪しい。というか経済学的には逆を予測する方が自然だ。
なぜなら、SNSは注意を売買する市場であり、ユーザーの可処分時間を奪う方向に進化しやすい。
人間の意思が弱いからではなく、時間を奪う設計が競争優位になるからだ。
競争市場で「滞在時間を増やす設計」を自ら捨てるのは、利益最大化から外れる可能性が高い。
もしBlueskyが「滞在時間が減る」ことを本気で目指すなら、KPIを滞在時間ではなく、外部遷移数やリンククリック数、あるいはユーザー満足に置く必要がある。
つまりこの予測は「ユーザーが意識高くなる」前提に依存している。
投稿の質を決めるのは道徳心よりも、ペナルティと報酬の構造だ。
これは性格が悪いからではなく、合理的に注目を取りに行っているだけ。
実際に有害投稿が減ったのか、通報する人が疲れたのか、モデレーションの分類が変わったのか、単に可視性が下がって「見えなくなった」だけなのか。
ここでデータの定義を疑う。指標は操作される。グッドハートの法則(測定指標が目標になると指標が壊れる)が出る。
下書き機能は利便性としては良いが、投稿が熟考されるかどうかは別問題で、むしろ政治工作・プロパガンダ・炎上マーケティングには文章を練る時間が増えるだけの可能性もある。
Blueskyは「人間が悪い選択をした」と言うが「悪い選択が合理的になる価格体系・報酬体系があった」が正しい。
SNSの劣化は倫理の問題というより、広告モデルと注意経済の帰結である可能性が高い。
もし本当に違う未来を作りたいなら、必要なのは機能追加よりも収益モデルの設計だ。
広告依存である限り、いずれアルゴリズムは滞在時間を最大化し、怒り・恐怖・対立が最適解になっていく。これは思想では止められない。
だからこの未来予想の最大の弱点は、「我々は善いプラットフォームを作る」という宣言に対し、「善くあることが利益になる制度的保証」が提示されていないこと。
サプライサイド経済学というのは、表向きは「成長の源泉は供給能力だ」「税を下げて労働・投資のインセンティブを回復させろ」という、いかにも正しそうな顔をしている。
だが現実の政策運用では、これはしばしば理論の皮を被った政治的アリバイ装置に堕して自己放尿している。
つまり「減税したい」「規制緩和したい」という結論が先にあり、その正当化のために供給側という言葉が貼られているだけだ。
そしてこの手の政策がインフレ局面で何をするか。ここが本題だ。インフレを自分の責任として引き受けず、外部ショックに責任転嫁し、金融要因を直視せずに逃げる。
インフレの本質はきわめて単純だ。インフレとは「貨幣の購買力の低下」であり、長期的・持続的な物価上昇は、結局のところマネーサプライの過剰成長によってしか説明できない。
貨幣数量説を教科書の古典として片付けるのは簡単だが、現実は古典がしぶとい。
なぜなら貨幣は取引の潤滑油であり、供給を過剰にすれば、最終的に価格体系そのものを歪ませるからだ。
貨幣を増やして、物が増えないなら、価格が上がる。これを否定するのは、重力を否定するのと同じ種類の幼稚さだ。
サプライサイド経済学が問題なのは、「供給を増やす努力」それ自体ではない。
供給能力を拡張する政策は、本来は重要だ。資本蓄積、技術進歩、労働参加率、規制コスト、税制の歪み、こういう話は全部まともだ。
だが、インフレ局面でそれを万能薬のように唱え、金融的現実から逃げる瞬間に、理論は自己放尿へと変質する。
供給制約があるなら、供給を増やすべきだろう。しかしそれはインフレの主原因の説明ではなく、一部の緩和策でしかない。ここを混同するのは知的怠慢であり、政治的欺瞞だ。
しかも、連中がやる典型的なムーブがある。マネーサプライがインフレの原因であるのに、ウクライナだの、輸入物価だの、エネルギー価格だのに責任転嫁して自己放尿する。
もちろん戦争が供給ショックを起こすことはある。輸入物価が上がれば短期的に物価は上がる。
だがそれは「物価水準の一回限りのジャンプ」を説明するだけだ。持続的なインフレ率、つまり上がり続ける現象は、貨幣の過剰供給がなければ維持できない。
にもかかわらず、政治はこの混同を利用する。供給ショックを口実にすれば、中央銀行と政府の金融・財政の共同責任を曖昧化できる。
つまり「インフレは外生的だ」「我々は被害者だ」「戦争が悪い、国際情勢が悪い」と言いながら、裏では金融緩和と財政膨張を続けてダブル放尿する。
これは政策当局の典型的な責任回避ゲームだ。貨幣を増やしている側が、原因を外に投げる。
国民は複雑な説明を好む。「海外要因のせい」と言われたほうが納得しやすいからだ。
こうして、通貨価値の毀損は“不可抗力”として処理される。要するに、責任を取らずに済む。
善意だろうが悪意だろうが関係ない。貨幣を増やせば、遅れて物価が上がる。
しかも遅れて上がるから政治家は調子に乗る。短期では景気が良くなったように見える。
雇用が増えたように見える。資産価格が上がる。だから選挙に勝てる。
ここで政治が学習するのは、「貨幣を増やすと一時的に気持ちいい」という事実だ。
麻薬と同じだ。そして副作用としてインフレが来る頃には、原因は別の誰かに押し付ける。
これが政治経済学の基本構造だ。人間は合理的だが、責任を負うようには合理的ではない。
サプライサイドがこのゲームに加担するのは、「供給を増やせばインフレは起きない」という幼稚な物語を提供できるからだ。
減税して投資が増える、労働供給が増える、生産性が上がる、だから物価は上がらない。
これ自体は条件付きで一部正しい。だが、現実には供給の反応は遅い。
政治の時間軸と市場の時間軸は違う。設備投資には時間がかかる。労働参加率の変化も遅い。規制改革も遅い。技術進歩などもっと遅い。
にもかかわらず、貨幣供給の拡大は今すぐできる。財政赤字の拡大も今すぐできる。金融緩和も今すぐできる。といって自己放尿する。
つまり政策当局がやっているのは、遅い供給改善を口実にして、速い貨幣膨張を正当化することだ。これは構造的に詐欺的にならざるを得ない。
そして当然の帰結として、価格シグナルが壊れる。価格とは情報だ。価格は希少性を伝える信号であり、市場参加者の分散情報を統合する計算装置だ。
だがインフレが起きると、価格は「相対価格の変化」と「貨幣価値の変化」が混ざったノイズになる。
企業は需要増なのか通貨安なのか判別できない。労働者は実質賃金が上がったのか下がったのか分かりにくくなる。
こうして誤配分が起きる。ミスアロケーションだ。資本が生産的用途ではなく、インフレヘッジの投機に吸い込まれる。
住宅、土地、株式、あらゆるものが価値保存の器として買われる。市場は本来の機能を失い、ただのインフレ回転装置になる。
この状態で「減税すれば供給が増えて解決だ」と言うのは、火事の中でガソリンを撒きながら「いや、建物の耐火性能を上げれば大丈夫」と言っているようなものだ。
耐火性能の議論は重要だが、今燃えてる火を無視してる。燃料の供給を止めろ。貨幣の供給を止めろ。インフレ期待を潰せ。実質金利を正常化しろ。これが先だ。
順序を間違えるな。順序を間違えるのは無能か、あるいは意図的な詐欺だ。
ここでサプライサイド派がよく使う逃げ口上が「インフレは一時的だ」「供給制約が解消すれば下がる」だ。
これもまた、政治的に便利な麻酔薬だ。だがインフレ期待というのは、そんなに素直に消えない。
人々が「どうせまた通貨を薄める」と学習した瞬間、賃金交渉も価格設定も前倒しでインフレを織り込む。
これが自己実現的にインフレを固定化する。金融当局が信頼を失った経済では、インフレは単なる物価上昇ではなく、制度への不信の表現になる。つまり、通貨が信用を失う。
なぜなら改革をしているフリをしながら貨幣膨張を続ければ、改革への信頼まで毀損するからだ。
減税も規制緩和も、本来は市場メカニズムの復権のためにあるはずなのに、インフレを伴うと単なるポピュリズムに見える。
市場派が市場派であることをやめる瞬間だ。これが思想の腐敗でなくて何だ。
サプライサイド経済学が自己放尿する最大のポイントは、「供給能力を上げる」という正しいテーマを掲げながら、「貨幣供給の過剰」という不都合な真実を直視せず、外部要因に責任転嫁し、政治の短期利益に奉仕することだ。
ウクライナ、輸入物価、エネルギー価格のトリプル放尿で責任を散らし、マネーサプライの増加という核心から逃げる。
市場は強い。だが市場が強いのは、価格が情報として機能し、貨幣が安定している場合に限る。
通貨価値を政治が破壊すれば、市場は情報処理装置として壊れる。
貨幣をまともにできない政権が、供給改革などできるわけがない。できるのはスローガンの量産だけだ。
インフレは天災ではない。インフレは制度の失敗であり、政策の失敗であり、何より責任逃れの帰結だ。
サプライサイド経済学がもし本当に供給能力の拡張を語るなら、まず通貨の安定を前提条件として守れ。
この年になってやっとわかったことは、支持できる政党も政治家も一生現れないということだ。
そもそも政治家になろうなんて人のうちに私が支持できるような人がいるはずもない。
焼石に水だとしても、唯一、しかも確実に政治参加できる機会を逃したくないからだ。
普段は日常に追われてクソ忙しい自分にロビイングなんて無理だろうし。
支持できる政党はない。全部の政党の全部の政策を読み込んでる暇もない。
散々考えて悩んで選んだ政党に投票し、仮にその政党が力を持ったとしても自分がいいと思った政策を実現してくれるとは限らない。
だから自分の票は放棄しないけど、自分の労力や時間を過剰に捧げることもしない。
基準は、一番許せないのはどの政党か。力を持たれると将来自分が今よりも不幸になりそうなのはどこか。
要するにほぼ消去法だ。
どこかの政党や政治家に入れあげて、盲目的に支持する人の気持ちはよくわからない。
どいつもこいつもクソだ、いつか誰かいい人が現れたら自分も投票してやるよ、と待ち続ける人の気持ちもよくわからない。ファンタジー界のお姫様じゃないんだから、誰も現れないんじゃないだろうか、現実では。
ということを理解するのに随分な年数がかかってしまったけど、今回も苦々しい気持ちを抱えたまま期日前投票に行ってきた。
私は白馬の王子様を待たない。でも、このクソみたいに狂った世の中が少しでもマシになるように、できる範囲のことをやろうと思ってる。なんて言ってるこの行動が実は地獄への道を作る善意なんてものじゃないことを祈りながら。
外国人政策はまず道徳でも情緒でもなく、価格メカニズムとインセンティブ設計の問題だ。
日本の議論はここが弱い。人手不足だから入れる、かわいそうだから助ける、国際化だから歓迎する、治安が不安だから締める、こういう気分ベースの裁量行政は、典型的な政策の自己放尿だ。
善意で動いてるつもりが、結果として市場のシグナルを壊し、労働市場を歪め、納税と社会保障の収支を崩し、最後に政治コストとして自己放尿する。
つまり「移民を入れても入れなくても地獄」ではなく、「裁量でやると必ず地獄」って構造になっている。
国家がやるべきことは好きか嫌いかではなく、制度を通じて外部性を内部化することだ。
移民が増えると、賃金に下押し圧力が出る職種がある。住宅、医療、教育、治安、行政コストも増える。
逆に、生産性、起業、税収、人口構造の改善、介護労働供給といった便益も生まれる。
重要なのは、これらを空気で処理して自己放尿せず、価格と契約で処理すること。
政府が市場の代わりに配分を決めた瞬間に、情報の集約装置としての市場を破壊し、レントシーキングを誘発する。
移民政策はまさにレントの温床になりやすい。技能実習みたいな中途半端な制度が腐るのは、制度が労働市場を自由化するのではなく、政治的に管理して供給を割り当てているからだ。
ここで規制が厚いほど仲介業者と官僚機構が太り、移民本人は交渉力を失う。これは弱者保護の顔をした搾取装置で、規制が生んだ闇市場の自己放尿だ。
処方箋は冷たいくらい単純で、入国の条件と滞在の条件を市場互換のルールに変換することになる。
つまり、曖昧な情緒審査ではなく、労働契約・納税・保険加入・犯罪リスク・教育コスト負担などを定量的に制度化し、移民が生む外部性に対して事前に担保を取る。
これをやらずに「人手不足だから無制限に入れます」は、社会保障のフリーライドを誘発するし、逆に「怖いから締めます」は労働供給制約で国内産業の競争力を落とす。
どっちも非効率で、政治の人気取りが経済合理性を食い潰して自己放尿する。
ここで日本がやりがちな最悪手が、低賃金労働者を大量に入れる一方で、住宅・教育・医療・地域治安のキャパシティ制約を放置し、企業側には安い労働力の補助金を与え、自治体には現場丸投げをすることだ。
これはまさに、労働市場の自己放尿と社会保障の自己放尿のダブル放尿になる。
結果、住民は不満を持ち、移民は搾取され、企業は生産性向上をサボり、政治は分断される。
全員が損する、珍しいタイプの完全市場失敗を政府が手動で作る。
重要なのは移民が必要かではなく、国内企業が低生産性のまま生き残る仕組みを温存してないかだ。
移民受け入れを、単なる人手不足対策として使うと、企業は設備投資や自動化や賃上げを回避できる。
これは安い労働力による技術進歩の抑制で、長期的には国全体のTFP(全要素生産性)を殺す。
つまり移民政策は、労働市場の短期安定化と引き換えに、成長率を削る麻薬になり得る。
俺が嫌うのはこういう短期の政治的最適化が長期の市場秩序を破壊して自己放尿する構図だ。
日本の外国人政策は、感情で開けたり閉めたりする水門政治をやめて、ルールベースにするしかない。
ならば、政府は賃金・納税・保険・犯罪抑止の枠組みだけを整備し、あとは裁量を減らして透明に運用するべきだ。
問題は移民ではなく、移民を政治の玩具にする自己放尿制度そのものだ。
リフレ派の議論は、表向きは景気を回復させるための合理的金融政策を装っている。
しかし実態は、貨幣の価値という社会の基盤を削って短期の快楽を買う、典型的な自己放尿である。
フリードマンが繰り返し言ったのは、インフレとは道徳問題でも精神論でもなく、貨幣現象だということだ。
つまり物価が上がるかどうかは、根性でも国民性でもなく、制度設計とインセンティブ構造の帰結である。
ここを理解しない政策は、どれだけ善意で飾っても経済学的にはただのノイズであり、最終的には国民の購買力を破壊し自己放尿する。
日本がこれから直面しうるのは、「需要が足りないから財政で押し上げる」という単純化された世界観が、期待形成に殴られて崩壊する自己放尿だ。
インフレは静かに始まり、ある瞬間から臨界点を超えて、貨幣需要の崩壊とともに加速する。
そしてその時、リフレ派はいつものように言うだろう。「想定外だった」と。
問題の連鎖は単純だ。にもかかわらず、政治はこれを「景気刺激策」という包装紙で包み、国民に配布する。
減税する。税収が減る。だが歳出は減らない。むしろ選挙インセンティブのもとで増える。
そして次の段階に進む。
日銀が吸収する。つまり中央銀行が国債を買い取り、政府債務を事実上マネタイズする。
国債買い入れでベースマネーが増え、銀行システムを通じて信用創造が増幅され、結果としてマネーサプライ増加が起きる。
そしてフリードマン的には、ここから先はもはや議論ではない。恒等式と確率の世界だ。
貨幣価値が下がれば、同じ商品を買うのにより多くの円が必要になる。つまり物価増加が起きる。
この連鎖は、願望で止められない。
政治家がマイクで叫んでも止まらない。新聞が「インフレは一時的」と嘘を書いて自己放尿しても止まらない。
だが深刻なインフレの本体は、需要増ではない。貨幣需要の崩壊だ。
国民が円を持ちたがらなくなる。企業が円建て長期契約を嫌がる。労働者が賃上げ要求を強める。
輸入業者が先回りして価格を上げる。資産家が外貨や実物資産に逃げる。
このとき物価は上がるのではない。円の価値が下がるだけである。
インフレ期待がインフレを生み、そのインフレがさらに期待を押し上げる。
これは合理的行動だ。誰も損したくないから、先に値上げし、先に買い、先に逃げる。
この時点で政府ができるのは、金融引き締めか、歳出削減か、信用回復のための痛みを伴う制度改革しかない。
リフレ派がよく使う詭弁に、「日本は自国通貨建て国債だから財政破綻しない」というものがある。
この言い方は、形式的には正しい。日本政府は円を発行できる。だから名目上の債務不履行(デフォルト)は避けられるかもしれない。
しかしフリードマン的に重要なのは、デフォルトの形態は一種類ではないという点だ。
政府が返済不能になったとき、紙面上は返せる。なぜなら通貨発行で返済できるからだ。
だがその瞬間、実質的には国民の購買力が毀損される。つまりインフレ税という形で、国民から徴収する。
これは「破綻していない」のではなく、破綻を「通貨価値の下落」という形で実行しただけだ。
これが金融抑圧であり、インフレ課税であり、事実上の資産没収である。
破綻しない?
最大の問題はここにある。財政と金融の境界が溶けた瞬間、中央銀行は「物価安定の番人」ではなく「政府債務の処理係」になる。
「政府は歳出を削らない。日銀が支える。だから国債は安全だ。だがその安全性は貨幣価値を犠牲にしている。」
この理解が広まると、国債の信用は保たれるかもしれない。だが円の信用は落ちる。
そして本当に恐ろしいのは、インフレが進んだ後に引き締めをやろうとすると、国債金利が上がり、利払い費が増え、財政がさらに悪化する点だ。
つまり日銀は、インフレを止めるために金利を上げると政府を殺し、政府を救うために金利を抑えると通貨を殺す。
そしてこの状況は、政策の失敗ではなく、最初から制度設計の帰結である。
ここで多くの人が短絡的に言い出す。「じゃあ増税すればいい」と。
増税は、財政を健全化するどころか、政治経済学的には逆の方向へ向かう可能性が高い。
なぜなら増税とは、「政府がもっと使える余地」を与える行為だからだ。
「税を上げれば金が取れる。なら歳出を削る必要はない。」
すると歳出は固定化され、既得権益が制度として結晶化し、公共選択論が示す通り、予算は削れない構造になる。
さらに悪いことに、増税で景気が悪化すれば税収は伸びず、結局また国債発行に戻る。つまり、
増税 → 成長率低下 → 税収鈍化 →国債発行 →日銀吸収 →インフレ圧力
結局、政府債務を増やし続ける構造が変わらない限り、増税は「健全化」ではなく「延命治療」にしかならない。
延命治療は医療では尊いこともあるが、マクロ政策では単に時間を買うだけだ。そして買った時間で政治が改革する保証はない。むしろ改革しない確率が高い。
インフレを語るとき、リフレ派は「需要ギャップ」や「潜在GDP」を持ち出す。
だがそれらは観測不能であり、推計モデル依存の幻影でもある。そこに政策の正当性を置くのは危険だ。
重要なのは、政策当局がコントロールできる変数と、できない変数を区別することだ。
政府が確実に増やせるのは支出だ。日銀が確実に増やせるのはマネタリーベースだ。だが経済成長や生産性は、命令で増えない。
だから「金融緩和すれば成長する」という発想は、因果を逆に見ている可能性がある。
成長するから貨幣需要が増え、結果としてマネー供給が吸収され、インフレが抑制されるのであって、貨幣を増やせば成長するとは限らない。
貨幣供給を増やしても、資本蓄積と技術革新と労働供給が増えなければ、ただの通貨希薄化で終わる。
リフレ政策の本質は、短期的な快感のために長期の制度を犠牲にすることだ。
しかも犠牲になるのは抽象的な制度ではない。国民の生活そのものだ。
貨幣価値の放尿、財政規律の放尿、中央銀行独立性の放尿。つまり、「貨幣、財政、制度のトリプル放尿」である。
中央銀行の独立性が壊れれば、インフレを止める最後の手段が失われる。
この三つは別々の問題ではない。相互に補強し合う。悪い意味でのシナジーを持つ。
インフレが進むと、賃金は追いつかない。追いついたとしても遅れる。結果として実質賃金は落ちる。生活水準が落ちる。格差が広がる。
インフレは税制上、資産を持つ者に有利で、現金労働者に不利だ。インフレは見えない再分配装置であり、政治が選挙で決めたわけでもない所得移転を勝手に起こす。
長期雇用、年金、保険、貯蓄、国債、家計設計。これらはすべて「通貨が安定している」という前提で成立している。通貨の信認が揺らぐと、社会の基盤が揺らぐ。
そして一度壊れた信認は、戻らない。戻すには時間と痛みがいる。これは歴史が何度も証明している。
「減税して景気を良くする」「国債を出して支える」「日銀が買えば問題ない」
この一連のストーリーは、現実の制約を無視した願望のパッケージだ。
減税 →国債発行 →日銀が吸収 →マネーサプライ増加 →貨幣価値低下 →物価増加
だが同時に、「増税すればいい」という発想も救いにはならない。
歳出が固定化し、政治が改革を回避し、借金を借金で返す構造が温存される限り、結末は変わらない。
問題は税率ではない。
問題は「支出を削れない政治」と「貨幣発行でそれを隠蔽できる制度」だ。
リフレ派がやっているのは、景気刺激ではない。
励ましなのだろうとは思う。善意であることも、たぶん疑ってはいない。
それでも、その言葉が私の中にすんなりと落ちてきたことは、一度もない。
自分らしく。
その「自分」とは、いったいどこにいるのだろうか。
自分というものは、ひとりで完結して存在できるものではないのではないか、と私は考えてしまう。
人は誰かに呼びかけられ、視線を向けられ、何らかの感情を向けられることで、はじめて自分を自分として意識する。
誰かの世界の中に、無視できない存在として位置づけられたとき、ようやく<私>は輪郭を持つ。
誰のものでもない純粋な自己など、少なくとも社会の中では、ほとんど意味を持たない。
そう考えると、「自分らしさ」とは、きわめて不安定な概念である。
それは、自分がこうありたいと願う自己像と、他者の中で形作られている自己像とが、かろうじて重なっている状態に過ぎない。
自分らしくいられないと感じるとき、その二つの像はずれている。
そして多くの場合、そのズレは、自分一人の内側だけでは修正できない。
そのどちらを選んでも、傷つかずに済む道はない。
「自分らしく生きる」という言葉が、決して軽やかなものになりえない理由は、たぶんそこにある。
それは完成された状態を指す言葉ではなく、調整し続ける過程の名前なのだ。
何も考えず、与えられた役割をなぞるだけでも、生きていくことはできる。
むしろ現代社会では、その方が穏やかで、安全である場合すらある。
それでもなお「自分らしくありたい」と願うことは、自ら進んで複雑さを引き受けるという選択に近い。
「自分らしく生きればいい。」
もしそれが本当に可能だとしたら、それはきっと、誰かに軽々しく勧められるような生き方ではない。
少なくとも私には、そう思えてならない。