
はてなキーワード:善悪とは
タキシスが世界を完全に支配できなかった根本的な理由は、古い約束にあります。
第三次ドラゴン戦争(Age ofDreams)で、騎士フーマ・ドラゴンベイン(聖槍を持つ英雄)がタキシスに聖槍で傷を負わせました。
「二度とクリーン界に侵攻しないこと」
この誓約は、タキシス個人を直接拘束する、魔法的に強制力のある契約でした。
ここが重要です。タキシスは、誓約を「形式的に」守りながら、その「精神」を破ろうとしました。
具体的には:
直接的な「侵攻」ではなく、秘密裏の準備
タキシスは、世界に直接現れるのではなく、クレリックやドラゴンを通じて間接的に活動しました。
大厄災による「世界の変化」を利用
大厄災後、世界が混乱していた状況を利用して、タキシスは「技術的には侵攻ではない」方法で勢力を拡大しました。
善神たちの不在を最大限に活用
善神たちが世界を完全に離れている間に、タキシスは活動する「余裕」があったのです。
しかし、タキシスが完全に世界を支配できなかった最も重要な理由は、「神的バランス」という宇宙的法則にあります。
「Gods are bound to their natures, soshe's unable to see pasther ambition that the Highgod's decree of balance would meanshe's not going towin.」
つまり:
高神(ハイゴッド)が宇宙の基本法則として『善悪のバランス』を定めた
結果として、彼女が力を増せば増すほど、善側も必然的に力を増す(応答する)ようになっていた
善神たちが「応答せざるを得ない」状況
実は、善神たちは、タキシスが世界を支配しすぎると、高神の法則によって「対抗せざるを得ない」状況に追い込まれるのです。
言い換えれば:
タキシスが強くなりすぎる→ 高神の「バランスの法則」が働く → 善神たちが世界に戻らざるを得ない →ゴールドムーンの出現など、善側の起動も必然化する
野心が大きすぎた
タキシスの最大の弱点は、彼女が「完全な支配」を目指しすぎたことです。
タキシスの本質:支配欲、支配権への執着、「自分がすべてを支配したい」という執念
しかし、この本質が実は彼女を破滅に追い込む**:支配が強くなりすぎると、神的バランスが働いて、善側の対抗勢力が現れる
実は、タキシスが「善神たちが世界にいない間に、ゆっくり静かに支配を進める」戦略を取っていれば、バランスの法則に引っかからなかったかもしれません。
しかし、タキシスは「全部支配する」という欲望に駆られて、急速に征服を進めたため、バランスの法則が働いてしまったのです。
実は、善神たちは「完全には世界から消えていなかった」という説もあります。
ミシャカル女神は、秘かに信者たちに癒しの魔法を与えていました(タラダス地域での事例)
つまり、善神たちも「形式上は世界を離れた」が、「実際には秘かに接触していた」のです。
この秘密活動のため、タキシスが「完全に支配する」ことは難しかったのです。
圧倒的に不利な状況でも、人間は戦った
タキシスが世界を支配できなかった理由の一つは、人間たちの予期されない抵抗にあります。
最初の2年間、ドラゴン軍団は次々と領土を征服し、人間たちはほぼ防戦一方でした
しかし、やがて人間たちはホワイトストーン評議会を形成し、団結した抵抗を組織した
青い結晶の杖の発見により、善神たちが世界に戻ってくるという「希望」が生まれ、それが人間たちの士気を大きく高めた
つまり、タキシスが「勝つ瞬間」が訪れたはずなのに、その直前に善神たちが戻ってきたのです。
最終的に、タキシスが完全に世界を支配できなかった理由は、「高神が定めた宇宙的法則『バランス』が、タキシスの支配を自動的に阻止した」からです。
タキシスは、自らの力に自信を持っていました。彼女は、「善神たちが世界にいない間に、自分が全部支配すればいい」と考えていました。
しかし、彼女は「バランスの法則」という存在を過小評価していました。
タキシスが力を増せば増すほど、以下が起きました:
1. 高神の「バランス」が働く
2. 善神たちが応答する必要が生じる
4. 善神たちが世界に戻ってくる
タキシスが圧倒的に有利にもかかわらず、なぜ世界を完全に支配できなかったのか。
その答えは:
「タキシスの性質である『支配欲』が、実は彼女の最大の敵だったから」
野心が小さければ、秘かに活動を続けることができたかもしれません。しかし、タキシスは「すべてを支配したい」という本質から逃げられず、その結果、高神の「バランスの法則」を発動させてしまったのです。
「Good redeemsits own, andevil turns uponitself. Both good andevil must exist in contract.」
なあ、俺はね、人生ってのは「運」だと思うんだよ。
別に、哲学的な話じゃなくてね。マジでそう思うんだ。同じことをやっても、タイミングで全然違う結果になる。それが「運」なんだよ。
俺の話をしてみようか。
42歳の係長。そっちも想像つくと思うが、そういう男だ。会社では「さえない」。家に帰っても、家族がいない。友人もいない。趣味もない。毎日、同じ電車に乗って、同じデスクに座って、書類を扱う。そういう人間だ。
こういう人間ってのは、世の中にいっぱいいるんだと思う。で、そういう人間は、大抵、そのまま人生を終わるんだ。何も起きない。何も変わらない。それが普通だ。
ところがね。ところがですよ。
金曜日の飲み会で、部署の女の子が「家まで送ってもらえますか」と言ったわけ。その子は20歳。二年目。彼氏と別れたばっかり。
いや、待てよ。そっちが誤解するといけねえから、ここで正直に言っときますがね。俺は、その時点では、何も思ってなかったんだ。ホント。
彼女は、単に飲みすぎてるだけだと思った。父親に送ってもらうみたいな感覚でね、上司である俺に頼ったんだろうと。ね、純粋でしょ。俺、このとき、マジで純粋なんだよ。
駅から家までね、10分くらい歩いたんだ。その間、彼女は、俺にもたれかかってくる。
「大丈夫か」って聞いても、「ごめんなさい」って言うだけ。
俺は、「いいよ」って返す。
これが、全部、普通の会話だと思ってたんだ。上司と部下の。ね。
彼女の家の玄関に着いてね。俺は「気をつけてな」って言って、帰ろうとしたんだ。
ここで帰るべきだったんだ。マジで。
「水、飲みませんか。また気分が悪くなったら……」
ああ、この瞬間だ。俺の人生が変わった瞬間ってのは、多分ここなんだ。
俺は、「そっか。じゃあちょっと上がるか」って言った。
理由は?別に下心がねえから、だ。彼女が酔ってるし、一人にしておいて何か起きたら大変だから。上司として、責任感を持ってね。
部屋にね、上がったわけ。
彼女は、水を注いでくれた。旨い。飲みすぎた後の水はホント旨い。
そしてね。彼女が、急に何か言い始めたんだ。
「係長、実は……」
この瞬間。ここだ。俺は、何か異変を感じたんだ。
でもね。でもですよ。
俺は、何もしなかった。何も反応しなかった。
なぜって、俺はね。42歳で、さえない係長の俺は、自分に何かが起きるってことを、想像する能力を失ってたんだ。
人生半世紀、何も起きてねえ人間に対して、人生が「急に何か起こす」って想像することは、難しいんだよ。
で、朝だ。目が覚めたら、彼女が寝てた。隣に。
「あ、俺。何やってんだ」
その瞬間だな。その瞬間に、俺は理解した。
今、一週間経ってる。
彼女からはLINEが来てる。「係長のことが好きです」「付き合ってください」
でも、俺は返せない。
彼女は20歳だ。人生、これからだ。その人生のなかで、彼女は、もっと良い男に出会うだろう。
そういうことになる。俺には、それが分かってるんだ。
会社では、何事もないように、過ごしてる。
でも、彼女の目が、俺を探してる。
その目を見るたびに、俺は思うんだ。
「あ、これが『運』か」
俺は、彼女を家まで送るつもりだった。それだけだった。
でも、世の中は、そうした無垢を許してくれない。
女の子が自分から「家まで送って」なんて言ったら、結果は決まってるんだ。
それは、彼女の『運』でもあり、俺の『運』でもある。
悪い『運』。
で、俺は何もしてない。
臆病者だ。完全に臆病者だ。
でも、ね。ここが重要なんだが。
世の中の40代の男ってのは、ほぼみんな、こういう臆病者だと思うんだよ。
別に、俺が特別に悪い男じゃなくて、タイミングと『運』で、こうなっちゃったんだ。
彼女だって、本気じゃないかもしれん。彼氏と別れたばっかりで、頭がぐちゃぐちゃしてて、52歳のおじさんに優しくされたから、ちょっと恋愛感情だと勘違いしてるだけかもしれん。
それがね。人生ってもんなんだ。
みんな、ぼんやり生きてて、ある日、『運』がやってきて。
ぐちゃぐちゃになる。
「家まで送ってもらえますか」
その一言が、全部を変えた。
その結果が、これだ。
だからね。俺は言いたいんだ。
人生ってのは、『運』なんだ。
42歳の、さえない係長の俺は、何もしなかった。
ただ、「家まで送る」って言っただけ。
それが、全部を変えた。
それが人生だ。
で、これからどうすんのか。
俺は、彼女に「ごめんなさい」って言うんだと思う。
「全部、俺の責任だ」ってね。
そう言って、距離を置くんだと思う。
でも、その間、俺は何を考えるんだろう。
42歳の、さえない係長は、ずっと、あの朝のことを思い出すんだと思う。
「ああ、俺に、こういう『運』が来たんだ」
って。
それだけだ。
金曜夜の仕事帰りにレンタル屋に寄ってさ、そのとき見かけたんだよ。
赤ひげ。
いやいや長すぎwていうか昔の人って暇だったから観れた映画なんじゃないの?(笑)
なんて思いながらも、なんとなく借りてみた。
で帰宅してから「飽きたらそこまでいいや」ぐらいの感覚で、見始めたんだ。
最初は、若い医師である登が長崎から江戸に出てきて、小石川養生所という、いわば貧しい人のための施療院に配属されるところから始まる。
登はエリート意識が抜けきらない。
自分はもっと大きな仕事ができる人間だと思っているし、この場所にも、そこで働く人々にも、どこか距離を置いている。
そこにいるのが、赤ひげこと新出去定。
口数は少なく、ザンギにも見た目ちょっと似てて、それで無言なもんだから威圧感が凄い。
でも赤ひげは患者や人々の人生を一人ひとり背負うように生きていることが少しずつ、画面の端から滲み出てくる。
感動させようとする演出もない。
赤ひげは善を語らない。
その代わりに行動と、その大きな後ろ姿だけを見せ続ける。
印象的なのは、中盤で描かれるおとよという少女のエピソードだ。
おとよは売春の強要を拒否して虐待され、それによって心を閉ざし、誰に触れられることも拒んでいた。
登は医師として彼女に向き合おうとするが、最初はうまくいかない。
おとよの荒んだ心を治そうと登が懸命に治療しようとしても全てを拒む。
それでも登はめげない。
そんな態度をとってしまうほどに心を閉ざしてしまったのだと嘆き悲しみ、怒ることもなく、おとよの治療を続ける。
その場面に言葉はない。
ぎこちない手つきで、おとよが登の看病をする。
雨の日も風の日も、雑巾をぎゅっと手で絞って、登の頭に乗せる
次第に外は明るく晴れ上がり、おとよの表情に少しずつ変化が生まれる。
それ観たら……あれ?となった。
優しさを知らなかった少女が、優しさを知り、その優しさを返す。
おとよが言葉もなく少し照れるように微笑むその顔が、すべてを物語っていた。
それを目にした時、涙が止まらなかった。
ほんとうに涙が止まらなかった。
善悪を断じることもしない。
ただ起きていることを、そのまま映す。
その静けさが、胸に深く刺さる。
人はどれほど追い詰められても、ぎりぎりのところで気高さを失わない瞬間がある。
その姿は痛々しくて、だが美しい。
ただ、そこに置く。
現代の映画は、この時代の映画とは比べ物にならないほど迫力がある。
昔の映画は、そういったことができないからクオリティが低いものだと勝手に思い込んでいた。
名作といっても所詮は古い映画…等と侮っていた自分が馬鹿だった。
赤ひげは、昨今のアニメ映画にあるようなド派手で大きな戦闘シーンはない。
だがその分、観客の心が大きく動く。
映画の方が大きく動くんじゃない。観ている者の心を大きく動かしてくる。
それが映画の本質なんじゃないかということを、私はこの赤ひげを観て思い出すことが出来た。
3時間?長くない。
そんなことは、どうでもよくなる。
人の優しさ。気高さ。
Permalink |記事への反応(10) | 17:15
毎年クリスマスや正月のような宗教色の強い時期になると思い出すので備忘録として書いておこうと思う。
とても長くなるので読んでも読まなくても構わない。
粗はいくらでもあるが、当時小学生のお子ちゃまが頭を振り絞って考えたことだったので生暖かく見ていただければ幸いだ。
当時通っていた小学校はお受験が盛んで、クラスの半分以上が中学受験するような学校だった。中には体育や道徳など勉強に関係ない授業が多い日は学校を休み塾へ通うように親に指導される子供がいるような学校である。
そんな雰囲気の学校だったため増田も塾に通わされていたが、増田の親は仕事が忙しく放任主義だったため、どちらかというと自由に延長できる学童のような使い方をしていた。親が帰るまで子供1人は心配だから大人がいる塾で勉強して暇を潰しなさい、という発想かと思う。
朝から晩まで勉強で楽しくないし、学校の教師は子供達に学校で勉強させようと胡麻擂りに必死だし、塾ではライバルたちと比較される。お子様なりにフラストレーションが溜まっていた。
小賢しく、自尊心が高く、承認欲求が強く、何よりも勉強以外で暇を潰したかった増田はそこで考えた。
当時の増田の立ち位置は「1軍グループにいるけどちょっと浮いてる変なやつ」だった。友人Aと友人Bの親友というだけで残酷な子供達のカーストの中で辛うじてバラモンの仲間に入れてもらっていた。友人Aと友人Bの存在がなければきっとダリットだったと思う。
とにかく、増田には2人の親友がいた。勉強もスポーツもできて誰からも一目置かれる友人A、とにかく話がうまく誰とでも仲良くなれる才能がある友人B。
入学した時にたまたま席が横並びになったというだけの出会いだったが、それからこの2人はこちらが申し訳なるくらい良くしてくれ、そのおかげで陰キャで性格がドブカスだった増田も「みんな仲良し♪」の仲間に入れてもらうことができたのである。
表向き友人Aも友人Bもみんなの前では「気のいいやつ」だったが、実は2人とも性格にはかなり難があった。いや、だからこそ増田と仲良くなれたのかもしれないが。
友人Aはなんでもできるからこそ傲慢で、支配欲がある。少し早い厨二病であり、大きな声では言えないがナチに憧れていた。大きな声で言わないところが実に打算的であり、増田はそこが気に入っていた。
友人Bはとにかく人からの評判を気にしていて、いつも自分の悪口を言われていないか怯えていた。それと同時に人の内緒にしておきたい部分を暴くのが大好きで、いつか何かあった時に脅せるように、仲良くなって秘密を握ることで快感を感じる癖があった。
増田はといえば親友2人を自慢に思うとともに、増田の言うことを疑いもしない人気者2人を操る優越感に浸るクズだった。
そんな悪友2人に、こんな面白いことを共有しないわけにはいかないと増田は思った。
「いいね、やろう」と友人Aは言った。
増田は「こいつら話が早すぎるな」と思った。
そうして、宗教を作ることになった。
増田はキリスト教圏で育ったので神の存在に関しては割と思うところがあった。
思想と宗教の違いは難しいが、神の存在を論じられるほど増田の信仰は深くなかった。ただ、人間の熱狂は宗教になりうる、と子供心に感じていた。
小学生だった増田の狭い狭い世界の中で、唐突に宗教を作ろうと思ったわけではない。「これはいける」と思った出来事があった。
どの小学校でも道徳の授業があったと思う。お受験組の気を引こうと躍起になっていた当時の担任は、その道徳の授業で「いいこと投票」というものをしていた。
その名の通り単純で、「いいことをした人を匿名で投票して、得票数が高かった人を表彰する」という仕組みである。
これは単純だが、小学生の承認欲求をかなりくすぐった。なにしろ、いいことをするだけで教壇の上で褒められ、その上シール(子供にとってのシール!史上の喜び)を授与されるのである。名札の裏にいいこと投票のシールを貼るのがステータスになるのにそう時間はかからなかった。
増田はヒネた子供ではあったが、それでも投票されたら悪い気はしないし、いいこと投票が頭をよぎって人助けをすることもあった。
それと同時に、「これは使えるな」と思った。
増田が育ったキリスト教の教えでは、善行は死後の世界のために積むものとされていた(諸説ある)。だが、小学生にとって死後の世界など遠い存在である。「善行を積めば人々から尊敬されるという承認欲求」の方が何より魅力的なのではと思った。
3人の意見はまとまった。
その週末、3人で図書館に行った。親は大喜びでお駄賃までくれたが、目的は宗教について調べることであった。当時インターネットはかなり普及してきていたが、学校のコンピューター室で宗教のことを検索するのはかなり気が引けた。そこで図書館へ行くことにした。
一日中調べて回って、以下のことを決めた。
小学生なりに考え、実行に移せる最大限を考えた。
結成時に十数人を集めて行った友人Aの演説は素晴らしいものだった。増田が授業中書いた原稿と同じ文言とは思えないほど力に満ち溢れ、説得力があり、心に訴えかけるものがあった。その場にいた全員が信者になると誓い、お札を下駄箱に貼り付けた。
友人Bの勧誘も実に巧みだった。誰に話せば一番噂が広まりやすいかを友人Bは知り尽くしていた。すぐに手元にあったお札はなくなり、増刷をすることになった。学年のほとんどが入信し、シールは飛ぶようになくなった。匿名投票のための空き下駄箱は常に紙が入っている状態で、ランドセルの蓋にシールを貼るのが大流行した。
3人はそれで満足し、たかを括っていた。小学生の拡散力を舐めていたのである。
夏が来て塾の夏期講習が始まってから、他校の生徒に声をかけられることが多くなった。もちろん入信の申し出で、最初は喜んで案内をしていた。
だが、20人を超えたところで不安になり始めた。なにしろ、塾でしか会わない人間である。匿名投票の匿名性は失われ、よく知らない人間の善悪を判断しなければならない。
3人は作戦会議をし、組織化をしなければならない、と結論を出した。信者たちを支部に分け、各支部ごとに信者たちをよく知る支部長を置くことにしたのである。
それと同時に、今まで全て3人で行っていた運営にテコ入れをすることにした。
まず、専門のデザイナーを雇った。非受験組の絵が得意な信者にシールとお札のデザインを一新させた。毎月シールの図柄を変え、飽きの防止とインフレの防止を図った。
また、情報屋も雇った。告解で得た情報でさらに価値のある情報を交換するためである。これは画期的で、「この秘密を話すので誰々の好きな人を教えてください」とかが大変多くなった。
支部長の下に秘密で内部監査官も置いた。これは支部長の不正や信者との癒着を告発させるためである。
組織化したことにより、3人の地位は確固たるものになった。カリスマ的教祖の友人A、人に響く教えを説く友人B、善悪を裁き組織をまとめる増田。
夏休み中もムーブメントは衰えを知らず、信者は増え続けた。3人は有頂天になっていた。
そして学校が始まり、始業式の後、3人は応接室に呼び出されたのである。
〇〇〇〇教は教師陣の間にも知れ渡っていた。
一つの学校ではなく塾や習い事によりその地区の他校にも伝播した〇〇〇〇教の信者は把握できるだけで数百人を超えていた。
夏休み中、先生方は連携をとり、学校再開とともに終わらせようと話し合いがされていたらしい。
説教は3時間に及んだ。これは、先生方の話が長かったこともあるが、こまっしゃくれたクソガキだった我ら3人がいちいち反論を仕掛けたからである。
そもそも、我々は何も悪いことをしていなかった。ただ「いい人になろう」「いい行いをしよう」「いい人たちを尊敬しよう」と言って回っただけである。「ご利益がある」とお札を売りつけたり、告解で得た弱みを握って脅したりもしていない。ただ、善行を行わせて噂を流通させただけなのだ。
教師陣もそれがわかっていたのであまり強くは追及してこなかったのだが、我々があまりに舐め腐った態度をしていたのでだんだんヒートアップし、複数の教師が入れ替わり立ち替わり講釈を垂れ、最終的に「解散宣言をしなさい」と一方的に要求を押し付けてお開きになった。
応接室を出て、下駄箱に向かい、校門をくぐった瞬間、3人は爆笑しながらハイタッチをした。
「馬鹿め、もうそんな段階にないのだ!」と知っていたからだった。
子供と接しているのに大人である先生の皆皆様方は全くわかっていらっしゃらない。子供は禁止されたらもっともっとやりたくなるんだよ!
受験用に詰め込まれた知識であるキリシタンの気持ちがその時はよくわかった。抑圧された宗教は熱を増すのである。
隠語で呼ばれ、ミサと称した会合が秘密裏に行われ、塾に通うために学校を休んでいた層もせっせと体育館裏に足を運び秘密を囁くようになった。
教師陣は躍起になっていたが当時流行り始めた学校裏掲示板やmixiの日記などで〇〇〇〇教は着実に広まり、信者は増え、もはや我々3人の手に及ばないものになっていた。
知らないデザインのシールが増え、知らない告解が増え、知らない宗派ができていた。
秋が来て、塾で勉強している間に冬になった。
冬季講習の最終日、いつもの公園のジャングルジムの上に集まり、80円の缶ジュースで乾杯をした。
「そろそろやめよっか」と増田は言った。
「卒業、さみしいなぁ」と友人Bは言った。
正直、もうその段階ではないことはわかっていた。これはただの勝手な「一抜〜けた!」である。
教祖も司祭も裁判官も全てを誰かに押し付けて、こそこそと逃走するのだ。信者からすれば大きな裏切りであり、大罪だろう。
でもぶっちゃけ、飽きちゃったのだ。自分たちを置いて勝手に物事は進んでいくし、勝手に教祖を名乗るものも出てくるし、勝手に布教されているし、勝手に人が人を裁き始めるし。
だって子供だし、受験もあるし、そもそも進学したら続けられないし。
色んな言い訳をして、色んな人と話して、時にやり合って、押し付け合って、そうしている間に受験で学校に行かなくなって、ようやく卒業のために帰ってきたらどうやら全てが終わっていた。
あれだけ熱狂的だった信者たちは激減しており、卒業とともに誰かに譲られるためランドセルの蓋はシールなんてなかったように綺麗になり、空き下駄箱は使用禁止になっていた。
教室の後ろの「いいこと投票」の模造紙は取り払われ、「卒業おめでとう!」の垂れ幕に変わっていた。
友人Aは卒業と共に他県へ引っ越した。6年生になった時から決まっていて、増田たちと最後に何かしたい、と言っていたので「何か」は間違いなくできたと思う。
友人Bは志望校に落ちたので増田とは違う中学に進学した。あれだけ熱心に活動に勤しんでいたというのに引っかかったのは幸運だと自ら笑っていた。
増田は中学で若干いじめられそうになっていたが、入学した時に席が前後になった友人に助けられなんとかグループの輪に入れてもらい事なきを得た。教訓としては、コミュニティに入って一番初めにできた友人はなんとしてでも大事にした方がいいということだ。
それぞれ無事進学して、就職して、結婚して、最近はオンライン飲み会なるものを開催している。
この間、家族で親元へとUターン引っ越しをした友人Bが酔っ払いながら教えてくれた。
「最近、子供がランドセルの裏に変なシールをくっつけて帰ってきてさぁ」
友人Aはしばらく黙った後爆笑したが、増田は少し泣きそうになった。
この歳になると涙腺が緩くなって困る。
キリシタン、まだいるのかぁ。
――初代戦隊である「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年放送開始)から今年で戦隊は50周年。その記念作であるゴジュウジャーが来年で放送終了になることで、戦隊シリーズは終了してしまうのでしょうか。
いえ、戦隊シリーズとしては終了とは思っていません。休止です。戦隊の放送枠(テレビ朝日系、日曜朝9時半)は新たなものに変わりますが、戦隊作品そのものはいずれ復活する可能性があります。発表前の10月から「戦隊終了」の報道が出て、ここまで反響があるのは想定外でした。戦隊がここまで愛される存在だったのかと、ありがたい思いです。ただいずれ復活するにしても、10年は間を置いた方がいいと私は考えています。
――その理由は。
戦隊の限界が見えてきた。そこを打破すべくいろいろな工夫をしてきましたが、50周年という節目も迎え、根本的に考え直さないといけない場所にきたのは確かです。
一つはコロナ禍からの配信時代の到来です。配信では、特撮も新作と旧作が横並びで見られるようになりました。戦隊にとって、仮面ライダーだけじゃなく過去の戦隊作品もライバルになってきた。
戦隊は毎年毎年、世界観をリセットして新作を出してきました。作品につながりがなく、どこから見てもいいんですが、逆にどこから見たらいいのか分からない。一定の評価がある旧作に対して、よほどの特徴がない限り新作が勝てなくなってきた。
写真・図版
東映の白倉伸一郎さん。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」にちなんで、ナンバーワンポーズ
もう一つの黒船は、アメコミヒーローものの大攻勢です。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズは日本でも人気ですね。キャプテンアメリカにしろ、アイアンマンにしろ、もともと別の作品のキャラクターだったものを一つのパッケージにして届けている。
集団ヒーローでも、キャラクターの人格や戦闘能力など明確な設定が元々されている。一方で同じ集団ヒーローである戦隊は、毎年作品が変わりますし、キャラクターづけでは弱い面があった。
この二つの苦境を打破するべく、いろいろ工夫はしてきましたが、根本的に新たな挑戦をするべきだという結論に至りました。
――とはいえ戦隊もさまざまな新機軸を打ち出してきました。近年も、白倉さん自身がチーフプロデューサーとして入った「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年放送開始)では、戦隊5人のうち、人間が1人で4人は機械生命体というとんでもない内容です。戦隊とは数々の挑戦をしてきた歴史では。
もちろん様々なチャレンジをしてきました。それは戦隊という枠の中では新しい試みかもしれないけど、何が新しいのかを楽しむためには戦隊の「お約束」を知っているリテラシーがお客さんに必要になる。お約束を知った上での型破りを、どこまで分かってもらえるのか。
――戦隊といえば誰もが知っているはずなのに、内容は認知されていないと?
戦隊の根本的な課題だったのですが、50年続いただけあり、戦隊はあって当たり前のもの。ある種日本の文化になったと思うんですね。どれくらい見てきたかは人それぞれでも、戦隊と聞いたらカラースーツの5人のヒーローをイメージできる日本人の方が、多いのではないでしょうか。
それはそれだけ定着したという半面、「見なくてもいいもの」と思われる恐怖と隣り合わせです。
毎週その時間にテレビをつければ、変わらずやっている。現代風に変わった描写はあっても、話の大筋は変わらない。子どものときに見て一時卒業したけど、親になり自分の子どもと一緒に見たら、昔と変わっていない安心感がある。むしろ、変わってほしくない。
作品にとってこの状態に甘んじているのは危険で、変わらぬ良さは、見なくてもいいものと表裏一体なんです。どうせ話の筋は分かるし、毎週見なくてもいいやと。なんなら懐かしい旧作を見ればいいやと。新作はいらないと思われることは、作り手にとって常に恐怖です。
戦隊の「当たり前感」は制作陣にとっても危険です。大事なのは、戦隊という伝統の枠の中でどう目立つかではない。2025年の子どもたちに向けて、日本から世界に向けて、本当に必要な作品とは何かを考えることなんです。
東映には戦隊をつくるノウハウがあります。ただそのノウハウが、時に本当に新しいものを作ることを邪魔する。戦隊に慣れきった私たちの世代が抜けて、新たな世代が新たな戦隊を考えるべきだと思います。だから、10年は復活するべきではないと私は考えているのです。
――シリアスな仮面ライダーに対して、戦隊作品の明るさが好きだという視聴者も多いと思うのですが。
戦隊のお決まりですが、5人がスーツ姿に変身してポーズを取る。怪人を倒すと、後ろが爆発して炎が上がる。そして展開はむちゃくちゃだけど、巨大ロボットに乗って、巨大な敵と戦って毎度ビルを爆破する。くだらないと小バカにされるけど、とにかく明るい話。それがいいところなんですよ。
私が90年に東映に入社して「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(92年開始)の企画会議に参加したとき、プロデューサーの鈴木武幸が開口一番「今度の巨大化はどうしますか」と言って、脚本家がめちゃめちゃ怒ったんですね。「違うだろう。最初に話すべきは、どういう番組にしようかだろう」って。
鈴木はそれまで何作も戦隊を手がけたベテランですが、いろんな試行錯誤を重ねた結果、もう悟りの境地だったんだと思います。戦隊が成功するにはこういうフォーマットしかないと分かってしまい、その上で(キャラクターを)「どう巨大化するか」をまず考えようという恐ろしい境地に達していたんです。はたから見ると、そこかよって突っ込みたくなりますが。
――30年前にすでにやり尽くしたと制作陣では感じていたのですね。
当時すでに戦隊は風前のともしび。ジュウレンジャーは「もう最後の戦隊かもしれないと思ってやろう」と言っていた。若手がこれまでにないことをやりたいと結託し、6人目の戦士を物語の途中から出したんですね。
――6人目がレギュラーメンバーとして出るのはジュウレンジャーが最初。物語の途中から出るいわゆる「追加戦士」も、6人以上の戦隊も、今では当たり前ですね。
定番になりましたが、当時はそんな未来は考えず、そこから30年も続くとは思いもしませんでした。ジュウレンジャーをベースに米国で作られた「パワーレンジャー」がヒットするというまさかの神風が影響したんでしょうね。
――仮面ライダーにもウルトラマンにも中断期間があります。初期に少し中断はあるものの、ほぼ50年放送が続いてきた特撮ヒーローは、戦隊だけでした。なぜ戦隊は愛されてきたのでしょうか。
そもそも戦隊は事故から生まれたものなんです。仮面ライダーを5人集めて戦うという作品が企画されていたのが、事情があって頓挫した。それで急きょ石ノ森章太郎先生に考えてもらったのが初代の秘密戦隊ゴレンジャーだったんです。さらにその後、(70年代に人気だった)「超電磁ロボ コン・バトラーV」などのロボットアニメの放送が途切れるという事態があり、巨大ロボットの命脈が戦隊に流れ込んできた。
戦隊の草創期の作り手に、理想のヒーローを作ろうと理屈をこねている余裕はなかった。なんとか一つの作品を作らなければならないという試行錯誤の末に、結果として生まれた事象を集めたものが戦隊だった。
写真・図版
なんでいちいち5人で戦わないといけないのか。なんで巨大ロボットにいちいち乗って戦うのか。それはよく分からない。その理屈を超えたところに、人間の本質がある。なぜかかっこよくて人を引きつける。エンターテインメントとして面白いものの本質を、戦隊は露骨に表してきた作品だったと思います。
善と悪の対立を描きにくくなった
――長年にわたりテレビでヒーローの姿を届けてきた意義も大きいでしょう。
戦隊そのものが描く善悪も、初期からはかなり変遷がありました。東西冷戦が終わり仮想的な「絶対悪」を社会が想定しづらくなった。フィクションのヒーローものでも一面的な善悪を描くことが難しくなっていきます。その中でも工夫をしながら、キャラクターの人物像を大切にしながら、悪い敵を倒す姿を放送してきました。
こと戦隊でいうと、仮面ライダーのような単体ヒーローとは違う。5人で一つのチームで、結束して敵に立ち向かいました。
こうしたことは子どもさんにはすぐに分からないかもしれないけど、大人になった時に「戦隊って大事なことやっていたんだな」って少しでも思ってもらえるかもしれない。
戦隊は当たり前になったと先ほど言いましたが、私は日本人の心の中には、戦隊がいると思っていますし、少しでも戦隊が社会にいい影響を与えられていたならうれしいです。
――50年続いてきた戦隊の放送を終了することに、葛藤はなかったですか。
葛藤、それはないですね。
戦隊を愛してくださったファンの方には感謝します。しかし、次の世代のためにも、どこかで次の挑戦を始めるべきでした。今はヒーロー番組そのものの変革を考えるときです。それがゴジュウジャーの後番組として始まる「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」です。
だけどそれは、昔は(人間にも)そもそもなかったんじゃないかなと。組織を作って社会に存在するため、自分の身を守るために備わってきた能力で、そこに全ての善悪が存在する。蓮実はそこが欠落して生まれてしまっただけで、人に対する恨みとかはなく、より人間的で、動物的な存在なだけ。
通り一遍の毒親であるところの私の母親。ざっくり言うと兄の私への暴力暴言は囃し立てて、私の行動は母親の思い通りじゃないとヒステリーを起こす、1時間後には「暴力反対!悪口も駄目!ってずっと言ってる」ってキョトン顔で言う、そんなの。
判断基準が自分の愉快不愉快しかなく、それが善悪と100%一致してるかのような行動しかせんのに、「私のあの行動は間違ってなかったか?」「おかしなことしてなかったか?」「子育てを間違ったんじゃないか」「親として失格じゃないか」みたいなのを異常に気に病んで時折メンヘラ化してた。それに対して私が「どう考えてもおかしい」とかいうと「そんなのはどうでもいい」と呆れ顔で言う。
そんな薄っぺらい人間性で、他人に興味もないくせに、なんで自分の至らなさが気になるんだろう。自分が正義!正しさとは私のこと!って行動してるんだからそう思ってりゃいいじゃん。って考えてたんだけど、これTwitterによくいるメンヘラくねくね野郎じゃん、って最近説明をつけた。
これって、既存概念に押し込んだだけなのか?本当に説明がついたのか?他に押し込める概念いっぱいあるなって。
私の暴力暴言を許すことで「寛容な自分」を演出してたんだから、他人の財布に手突っ込んで奢りたがる、人の負担なら100年耐えられて自分の負担は1秒でも耐えられない太っ腹気取り、とか。
「兄が何かを増田に向けて言ったら、増田を黙らせる音を発生する」だけのオタクのテンプレ系鳴き声コミュニケーションしかできない人工無能、とか。
クネクネしてるのも「クネクネするのが正しい行動」って学習しただけの、言葉を理解しない魔族、とか。
「私が嫌われるのは私が正しい行動をしてるから!」っていう日蓮大畜生気取りの典型的カルト信者、とか。
押し込めるなぁ。
悲しいことに、当時より知識多く知恵は不変だから、罵倒する言葉と否定する言葉が溢れてくるぞ。昔見たく「あいつはクズ」で終わらせてたほうが、時間の無駄がなかったし、精神衛生的にも良かったかもしれない。
今はとりあえず「メンヘラくねくね自己中野郎が日蓮大畜生にハマって自分は正しいという意味の鳴き声を上げてた太っ腹気取りの魔族」って箱に突っ込んで寝ます。なんだこの箱。
漫画・ワンピースはずっと一貫して「構造そのものを疑え」という話をし続けているんだと思う。
世界政府は秩序のためだと言いながら、横暴な最高権力者集団の天竜人を守り、歴史を隠し、気に入らないものは海軍がバスターコールで消す。それを全部「正義」と呼んでしまう。これは現実の国家が「法の名のもとに暴力を正当化する」構図を批判している。
海賊は制度的に「悪」と決めつけられているけど、実際は住民を守ったり、奴隷を解放したり、抑圧に抵抗している側だったりもする。その時点でもう、善悪ってシンプルなものでは無くなっている。
魚人差別もかなり直球で、肌の違いを理由に奴隷にされ、暴力と制度で身分を固定されてきた歴史は、どう見ても現実の人種差別の比喩だし、「太陽のタトゥー」が焼き印を塗り替えるシンボルになるのも、「奪われたものを自分たちの誇りとして取り返す」っていう政治的な意味そのものだし。
ドレスローザでは、支配者が人々の「記憶」まで弄って抵抗できなくするし、ワノ国では労働と資源と物流を握って、武器工場に人を縛りつける。どれも単なる悪役じゃなくて、「階級と搾取の構造」をそのまま物語に落とし込んでいる感じがする。
象徴的なのは「空白の100年」の設定。世界政府が一番恐れているのが、武力でも思想でもなく「過去の記録」そのものだというのがもうすごく象徴的で、ロビンが歴史を読むって行為そのものが、「支配されないためには記憶にアクセスできなきゃいけない」というメッセージになっている。ポーネグリフは、権力に奪われた過去そのもので、学問とか言論の自由の象徴でもある。
革命軍が出てくる意味も、悪の親玉を倒すためじゃなくて、世界の仕組みそのものを変えるため。敵は海軍じゃなく、世界体制そのもの。ルフィが個人として自由を求める存在なら、父親のドラゴンは社会の構造ごと自由にしようとする存在で、この親子の違いがそのまま「自由にはミクロとマクロの両方がある」ってことを示している感がある。
おもしろいのは、作者がインタビューとかで、一切そういった表現の意図について話していないところ。これだけ明確かつ繰り返し色んなかたちで描かれる以上、確実に作者は意図して描いているんだけど、それを説明しようとしていない。おそらく、それを話してしまうと、漫画が説教くさく見られてしまうこと、陳腐に見えてしまうことが分かっているんだろうな。
以下は、タルムードの価値観と現実社会で広く認められている価値観を比較したもの。
タルムードはユダヤ教内部の法・倫理体系であり、現代社会は宗教や文化を横断した価値観を持つため、当然のことながら直交(衝突または独立)する部分がある。
が強調されるようになった。
現代社会では、
タルムード「人は共同体なしに生きることはできない(ピルケイ・アヴォット)」
タルムードでは、ツェダカ(慈善)は義務。貧者を助けるのは道徳ではなく法律。
一方、現代社会では
タルムードでは、重視されるのは行為。善悪は何をしたかで判断される。
現代社会では、
| テーマ | タルムードの価値観 | 現代社会の価値観 |
| 自由 vs義務 | 義務中心 | 自由中心 |
| 個人 vs共同体 | 共同体・家族 | 個人 |
| 慈善 | 法的義務 | 任意 |
| 社会の変化 | 伝統を維持 | 変化を歓迎 |
| 倫理の軸 | 行為中心 | 内面・意図中心 |
https://x.com/kurtz652/status/1989872628560269507
なぜビジネスでやってる動画の人気に反して、SNS石丸を妄信的に信じている人たちはフォロー数が100以下のカスばかりなのか
比較的大手の稲中ものという人物ですら5000フォロワー以下のゴミばかり。
これは本質が石丸支持ではなく石丸や立花を介してルサンチマンを発現したいからだ。
まともな人は、石丸や立花自身は全く信用していない。都合が悪くなったら切り捨ててよいものなのだ。
本当のバカにして最底辺のカスだけが本気で石丸や立花を信じている
現代のインターネット上で、特定の人物(石丸伸二氏や逮捕された立花氏など)を支持し、他人を攻撃したり引き摺り下ろしたりする行為を通して「権力体験」を味わう人々をニーチェ哲学の視点から解釈すると、「ルサンチマン(Ressentiment)」と「奴隷道徳(Sklavenmoral)」の概念が中心になります。
ルサンチマンとは、フランス語で「恨み、怨念、復讐心」を意味し、ニーチェはこれを道徳の根源の一つと見なしました。
根源的な感情:自分の力の弱さや無力感からくる不満や屈辱感を、外部の強者や成功者に対する否定的な感情として溜め込むことです。
力の裏返し:現実の世界で自分の力を発揮したり、望む地位や影響力を得たりできない人々が、その鬱積した感情を「攻撃」という形で発散させ、一時的な「権力」や「優越感」を得ようとしている状態です。
ネットでの増幅:インターネット匿名掲示板やSNSでは、集団的な攻撃によって個人の責任が薄れ、また、相手を簡単に貶めることができるため、ルサンチマンを最も手軽かつ安全に発散できる場として機能しています。
ルサンチマンが根源となり、「善悪」の価値基準を逆転させるのが奴隷道徳です。
価値の否定:奴隷道徳は、「強者」や「主人」が持つ「力強さ」「大胆さ」「自己肯定」といった価値を「悪」として否定することから始まります。
自己の正当化: そして、「弱者」自身の持つ「謙虚さ」「従順」「弱さ」といった性質を「善」として祭り上げます。
ネット社会での適用:ネットでの攻撃の場合、攻撃対象となる「強者」(権威者、成功者、既存の体制)の欠点や過失を徹底的に暴き出し、「正義」の名のもとに集団で引き摺り下ろす行為が「善」であると正当化されます。
彼らの目的は、より良い社会の創造ではなく、既存の強者を無力化し、その没落を見ることで、自分たちの立場が相対的に上がったかのような錯覚(権力体験)を得ることにある、と解釈できます。
この現象は、ニーチェが説く生の根源的な衝動としての「力への意志」が、創造的な方向ではなく、破壊的な方向へと歪んで発現している例とも言えます。
本来、力への意志は「自己克服」「自己創造」に向けられるべきものです。しかし、現実世界でこの創造的な力を発揮できない人々は、他者を破壊し、引き摺り下ろすという消極的で容易な手段を選び、そこから「力を行使した」という一時的な満足を得ている、と解釈されます。
(土竜の唄)登場人物たちが、警察だから”まとも”でヤクザだから”悪い”という職業における善悪の括りで分けられていないんです。ステータス関係無く、良いやつと悪いやつそれぞれが、全力で暴れまわる。そして、気がつけばみんなが心の中に抱いている夢を叶えてくれるんですよね。