
はてなキーワード:問題児とは
フェミを叩きまくること?
違うね
今回の草津の件は「町長のセクハラを訴えた女性が議員をクビになり、住民総出で叩き潰された」ように映った
それはまるで、「いじめを訴えた生徒が学校を退学になり、生徒総出で悪口を言われている」ようなもの。いじめに厳しいネット民はそんなことがあれば悪の学校を叩きまくるだろう
しかし、その生徒が有名な嘘つきの問題児でない保証はどこにある?
実は母校が「生徒が自殺して遺書でいじめられていたと綴り、学校はいじめはないと退けた」と報道されたことがある
その生徒はむしろいじめっ子で、弱い者や障害のある生徒を執拗にいじめ、嘘をつき、気に入らないことがあれば暴れる、校内で有名な厄介者だった。だから皆、最低限の会話だけして避けていた。いい加減にしろと怒る生徒もいた。これはいじめではない
しかしネット民にはそんな話は通じない。すっかり可哀想ないじめられっ子の生徒といじめを隠蔽する悪の学校ということに仕上がってしまった
今回の草津の件と何が違う?
けもフレ騒動もそうだったな。オタクたちはすっかり「孤高の天才たつき監督VS悪のKFP」に仕立て上げて炎上させていた。詳細を何も知らないにもかかわらず
また似たような事件が起きたら、ネット民は草津の件を反面教師にすることなく「悪の○○」を叩きまくるのだろう
色々事情があって、20代半ばの頃にフリーターをしていた時期がある。
飲食店でバイトをして食いつないでいたのだけれど、バイト仲間は大体年下の学生だった。
人には恵まれていて、フリーターでフラフラ生きていた自分が(少なくとも表向きは)ハブられることも無く、高校生や大学生たちとそれなりに楽しく働いていた。
長く働いていれば指導担当になることもあるわけで、学生相手に(こんなフリーターが偉そうにごめんな~)と思いつつ仕事を教えることもしばしば。
「最近の若いもんは」なんてよく言うけれど、体感9割以上の学生はものすごくまともで真面目だった。
初バイトです!と緊張しながら入ってきて、一生懸命メモをとり、2週間もすれば一人前になる。
むしろ、「若い子って呑み込みが早いなあ」と感心することのほうが多かった。
■
あるとき、店長に「新しい子が入るから、適当に指導よろしく」と頼まれた。
来月辞めることが決まっていた自分の代わりだということはすぐにわかって、引継のつもりでしっかり指導しようと思ったのを覚えている。
まあ、とは言っても所詮バイトの身なので、別に厳しく指導するつもりはなかった。
直接その学生に会うまでは。
Aは、バイトは初めてだと言っていたが、正直、第一印象からあまり良くない雰囲気だった。
此方が声をかけるまで挨拶をしてこなかったし、制服の着方もどことなくだらしがなかった。
自分も学生の頃は「ルールとかだるい」「挨拶しろとかうるせ~」というタイプだったので、特段苛立ちはしなかったけれど、「この子大丈夫かな?」という不安はよぎった。
その店は、自分と店長こそ穏やかなタイプだったけれど、パートの主婦たちや他の学生バイトはかなり勤勉で厳しい人が多かった。
きっと、このままいけばAは他の人たちからかなり叱られてしまうだろう。
自分が指導する立場になって初めて、「お前を心配してるから叱っているんだ」と言っていた大人たちの気持ちが分かった。
■
Aは、バイトをする上で学生でも最低限身に着けておくべきルールやマナーを一切知らなかった。
初バイトなので仕方ないのだが、これまで指導した学生たちはある程度「言わなくてもできる」タイプばかりだったので、ますます不安は増した。
服や髪が乱れていると、清潔感が無く見えてしまうから、鏡を見て整えようね。
お客様に見えるカウンターは綺麗に保ってね。私物は置かないでね。
業務を教えることなんて出来なくて、初日はとにかく礼儀を教えることに徹した。
口うるさいと思われても良いから、自分がいなくなるまでにAがこの場でやっていくための術を身につけさせたかった。
自分も、ガミガミ言われるとやる気をなくす性分だ。
言い方一つに気を遣って、優しく、けれど馬鹿にされていると感じられないように。
けっこう頑張ったつもりだったけれど、その日はAから「…うっす」という返事しか聞くことが出来なかった。
目は合わなかったし、頑なに服や髪も整えてくれなかった。
でも、ついこの間まで中学生だった子が急にできるようになるわけないと自分に言い聞かせた。
■
翌日、Aが来なかったらどうしようと不安になりつつも出勤。
Aは、遅刻ギリギリ……いや、ちょっとアウトという時間に出勤してきた。
そして、私の元へ来るなり挨拶も何もかもすっ飛ばして「道が混んでました」。
言いたいことはいっぱいあった。
時間に余裕を持てとか、まず挨拶しろとか、服とか身を整えろよとか、遅刻したのに謝罪も無しかよとか。
でも全部飲みこんだ。
ここで叱ってやる気をなくされては困る。
その時間帯は基本的にワンオペだったので、他に頼れるバイト仲間もいない。
「そっか!それは仕方ないね。次はもう少し時間に余裕を持ってこられる?」
いろいろと我慢して絞り出したその言葉にも、Aは「…っす」と返すだけだった。
いつまでも礼儀ばかり言ってられないので、その日は本格的に業務の指導をした。
ざっと説明しながら、Aがただ立って聞いていることに気付いた。
これは、一回聞いただけでは絶対に覚えきれるわけ無いからメモをとれよ、という意味の言葉である。
もちろんAには伝わらず、「大丈夫です」とだけ返された。
「メモ、取った方が良いよ。ワンオペとかのとき、忘れちゃってもすぐ確認できるよ」と言葉を重ねると、非常に面倒そうな表情でAはメモを取り始めた。
バイトのメモって、手書きじゃないの!?今の子は、スマホが普通!?
いや、でもこの店、業務中に私物のスマホ触るの禁止だから……注意していいよね?
「あの、手書きでお願いできる?」
「いや、スマホでいいです」
「私物のスマホ、触るの禁止なんだよね~…便利なのはわかるんだけど」
「じゃあ私のメモを何枚かあげるから、今日はそれに書いてくれる?」
「ペン無いです」
「ペンはお店の使っていいよ。店長から説明あったと思うけど、メモとペンは必ず持ってきてね」
「いや、俺メモとらない派なんです」
「でも覚えられないこともあると思うよ」
「全部聞いて覚えます」
話が通じる気がしなかった。
しかも、本当に聞いたら覚えられるくらい要領のいい子ならともかく、何度言っても覚えられない癖に。
これが現代っ子か?これが、「今どきの若い者は」ってやつか!?
■
Aとの戦いは続いた。
何を教えてもまともにこなせないし、何を言っても聞き入れてくれない。
こちらの余裕はどんどんなくなり、なんかもう、いっそ厳しいバイト仲間たちに叱られてしまえと思った。
あの時点で素直に聞いておけばとかったと後悔しろ。
そろそろ自分も限界だな~と思っていた矢先、別の時間帯に急な退職者が出て、Aのシフトが変わったことで指導の日々は終わった。
ちなみに、店長からは「しっかり指導してくれてたのに、欠員のせいで中途半端になってごめん」と言われたので、
決して自分の指導力がなかったことでAの担当を下ろされたわけではないことは主張しておく。
自分の退職まで数日と言う時に、パートの主婦勢やバイト仲間と喋る機会があった。
いわく、口をそろえて「Aはまるで駄目だ」とのこと。
かなり厳しく注意を受けているらしく、店長が「辞めちゃいそうだな…」とぼやいていたのが印象に残っている。
■
自分が割と問題児的なポジションだったので、大人になっても「最近の若いもんは」なんて言わないと思っていた。
決して若者全員がだめなわけではないと頭ではわかっているのに。
いまごろAが何をしているのか、ふと気になることがある。
あのあと、鍛えられて戦力になったのかな。それとも、辞めてしまったかな。
定職にもついてなかったフリーターの言うことは信じられないかもしれないけれど、教えたことは全部社会人になってからも使うからね。
メモ、とれよ。まじで。
職場に一人はいる口だけ達者で中身が空っぽな人間がどうしてあんなに幅を利かせているのか理解できない
指示は曖昧で責任は部下に押し付けて成果は自分の手柄にするくせに上からの評価はなぜか高い
それは結局大声で自信満々に言い切る人間が優秀に見えてしまうというくだらない錯覚のせいであり実際は何もできないのに有能ぶっているだけ
その結果まともに働いている人が疲弊して潰れていくのに組織は誰も助けずまた同じような口だけ人間を出世させていく
そういうやつらに限って人望があると勘違いして飲み会では説教を始めたり家庭ではいい父親アピールをしているらしいが実態はただの自己愛モンスターだ
何が腹立つって本人は自分を問題児だと思っていないどころか会社に必要とされていると本気で信じ込んでいることだ
それでいて自分より年下の社員には偉そうに人生訓を語り自分の失敗を武勇伝みたいに話して悦に入る
こんな人間がのうのうと給料をもらって家庭を築いている一方で真面目に働いている人がメンタルを壊して退職していくのだから世の中は完全に間違っていると思う
久々の休みなので、ダラダラとチラシの裏するぐらい許してほしい
みなさんも学校なり職場なり地域コミュニティなりのどこかで会ってきたであろう、「ただ居るだけで、周囲をカリカリさせる天才」である。
自分はそういう人たちと過去に職業的にも関わってきており、また現在知財が大きく関わる仕事にも関わっているので、迷彩をかけながらつらつらと感想を書く。
・根幹は、とにかく「今この瞬間」と「みんなそのはずだ」の合わせ技
かつて、「地域で札付きの問題児」という児童~少年を仕事で世話していたことがある。
「地域で札付きの問題児」なんてものが平成後期および令和に存在するのか? というと存在する。した。
その市の警察署は当然に「彼のこと」だと知っているし、通っていた小中の全校はもちろん、近隣数校の小中にまでその悪名は轟いていた。
鹿乃つのさんのような言葉と行動を、何度も何度も、警察のお世話になっても、ひたすら繰り返す少年である。そして彼を全面的に擁護し続ける親たちである。
彼と付き合わざるを得ない中で、私たちは彼に「どこから理解させないといけないか」を突き止める必要があった。
私は当時警察官だったかもしれないし、教諭か医師だったかもしれないが、それは気にしないでいい。
私たちが突き止めたのは、彼は
①とにかく、過去および未来のことを考えながら喋ることができない
②「今」の状況が少しでも好転するなら、過去の言動との整合性や、未来への布石などは完全に無視して喋る
③自分がそうであるから、世の中のすべての他者(同年代および大人)もそうであると思っている
という、強烈な傾向があることだった。
①について特段説明する必要はないだろうが、程度には触れておく。
とにかくその場その場で、「耳聞こえのいい言葉」を連発する。ただ、それが1日前とはもちろん、15分前の言葉とも矛盾している。
また、そのような状況なので、「今」発せられた言葉は数秒後の彼の言動を縛らない。
「外国人差別はいけないと思う」としゅんとして言った15分後に、ただ道を歩いていただけの外国人に「○人死ね!キモイ死ね死ね!」と叫んでトラブル発生で電話がかかってくる。そういうレベルである。
②についても、程度とその影響に触れておく。
卑近な言葉で言えば、対峙者の強弱から顔色をうかがい、「その場凌ぎの嘘をつく」とか「数分前の発言と真逆のことを言う」などである。
例えば数分前に、堂々と私たちの目の前で他者を「なんかムカムカしたから」と殴っていたとする(捕まった後でも、隙あらばで殴るのだ)。
そしてその殴打の数分後に、「人を殴ってはいけない」と言われると「殴ってなんていない」と言う。
「私や他の人々は、君があの人を殴ったのを見ている」と言うと「……?」となる。「……?」の表情は(なんでわかるの?)だ。
一般市民からすると「なぜそんなバレバレの嘘をつくのか」「なぜバレバレの嘘をついて、自分の立場を悪くするのか」とうんざりすることが、毎時間起きる。
彼は、「なぜ嘘がバレるのか」と「なぜ整合性と言われるものを他者が気にするのか」を、いくら説明しても理解できなかった。
過去やこれから先のことと会わせて思考・判断するとか、発言をするとか、そういうことが困難だった。
そして自分がそうなのだから、世の中のあまねく他者はすべて「当然そうである」と確信していた。
だから、私たちが「また、数分前に言ったことと逆のことを言ったね?」と突っ込むことを、超能力者を見るように見てきた。
もちろん、そんなことは彼の周囲にいる人は誰でも気付いている。
ただ、あまりにも息を吸って吐くようにその場凌ぎの嘘を付き続けるので、「そうだねー」と話を合わせて、誰も相手にしていなかったのだ。
そういう人の方が圧倒的多数派だったから、私たちのように「彼に事実を指摘する人」は少数派だった。
それが彼には、超能力者のように見えていたらしい。
また、癖としては「フィクションの英雄の言動をなぞり、自分を悪に逆らう偉大な英雄だと思い込む」という癖があった。
少年漫画の悪者を暴力でぶっ飛ばすシーンを根拠に「悪いやつだから、○○○(少年漫画の主人公名)みたいに殴ってわからせてやった」と言う。
この悪いやつというのは、「廊下ですれ違ったときに、ヘラヘラ笑っていた新入生」というレベルである。
目についたら殴るレベルであり、それを彼は大好きな少年漫画の○○○的行動であると解釈していた。
そして彼に説教する公的機関の関係者(大人)たちを、「悪を見逃す悪いやつだ」「親以外の大人はみんな悪だ」と見ていた。
「万引きをしてもバレなければ法律には違反していない」からスタートし、
万引きで店員に腕を掴まれても「不当逮捕だ。警察しか僕を捕まえられないのに」と言い、
警察を呼ばれても「警察が来るまでは法律違反じゃないから、帰ります」と真顔で言う。
当然、いじめもする。
暴力をちらつかせたり暴力をふるった後に恐喝をする際、「このお金は、君が僕にあげるんだよね?」と必ず言質を取る。
後々事実関係を調べれば、誰がどう見ても恐喝である。普通に何発も殴っているケースもあった。
当然、警察のお世話になる。
だが彼は「言質を取っている」と不良どもが浮かべるニヤニヤは、浮かべない。
「彼がくれるって言いましたよ?」「彼は、僕にお金をくれる友達なんです」と真顔で言う。
前述の①~③とあいまって
「彼と僕のことを勝手に決めないでください」「彼は僕のことが嫌いになったから、嘘をついたんだ」などと言う。
そして、留置所に送られた後も「僕の言うことを信じてくれない大人も社会もクソだ」と、本気で思っている。
疲れる。
関わる者が、みんな疲れる。
疲弊していく。苦しんでいく。
彼ほどでないにしても、鹿乃つの氏の言動を見ていると、彼を思い出す。
なんか、個人の感想として、とてもと似ているな、と。
倍率は当然に1倍以下で、名前を書いてわずか数分の儀式的な面接を受ければ受かるところである。そこで落ちた。
詳しくは知らないが、面接会場で「目のあった同年代」を「なんかむかつく、悪いやつ」として殴ったとか非難したとか、トラブルを起こしたのかもしれない。
というか、ルールを守るという意志もないので、そもそも試験を受けに行かなかったのかもしれない。
それでも、彼は言うだろう。
「悪いやつを○○○みたいに正したのに不当に落とされた」とか「試験に行かなかったぐらいで落とされた」とか。
「こんな社会間違っている」、「人を勝手に決めつける社会は最低だ」、「こんな社会は変えないといけないですよね」とか。
少し話は変わるが、私は転職して、今は山手線および中央線の沿線で、IPを扱う仕事にいる。
はっきり言って、鹿乃つの氏のことはあらゆる取引先(版元と推察してくれてかまわない)が知っているし、会議前のアイスブレイクの際には「ありえない」「許せない」「絶対に関係を持ちたくない」という話題が飛び交う(※実際の言葉はもっと直裁的である)。
私が会ってきた複数社の関係者の中に、ベテランも新人も含めて彼女の言動を肯定的に捉えている者は一人もいない。
ベテランなら肯定することはありえないし、もし新人が少しでも擁護を見せていたら、人に会わせる前に当然に指導が入るからだろう。
私がどのようにIPを扱っているかの詳細は伏せ、一般論として話せる範疇で言うが、クリエイティブの本質は権利ビジネスである。
真実を話しても夢を壊してしまうだけに思うのでぼかすが、例えばアニメ化した原作漫画作品がゲーム化される際、恐ろしく冷えた綱引きが行われる。
アニメでバズったアニメオリジナルのセリフを、アニメ化まで鳴かず飛ばずだった版元が「これの原作はうちですから、使わないでください」とNGを突きつけることもある。
関西弁キャラがアニメ版で一人称「ウチ」でバズったとき、漫画原作側で一人称が「私」だと、ゲーム化の際にはその声優さんに「私」で読ませたりする。
なお、声優さんは制作委員会(アニメ版)の座組で関わっているので、ゲーム化の際は出版社は個別に声優事務所と契約を結び直す……
などなど、IPビジネスに関する企業間の綱引きは「部分的に許可が降りていても」「膨大な権利使用料を払っていても」「広義のビジネスパートナーでも」これほどまでに熾烈なのが当たり前だ。
正直「一次創作者も二次創作者に敬意を払うべき」とか「もっと二次創作が自由にできる発展的な世の中になるべき」などの主張は、プロであればプロであるほど、全てのプロにおいて抱腹絶倒ものである。
本当に、やめた方がいい。
あるIPが、数百万円~数千万円を払って他社IPとコラボさせていただいたとき、それだけの契約料を払っていてなお、その監修は鬼のように厳しい。
コンテンツビジネスとはIPビジネスであり、すべてのコンテンツホルダーが超絶絶対NGとすることは「IP毀損」だからだ。
今の私の仕事で、IP毀損をしてしまって部署を変えられた者、職を辞した者、損害賠償を請求されてしまった会社は、珍しくない。
Xで表面化することが全てではない。むしろ、BtoBでは表面化しないまま、係争や精算が行われていることの方が圧倒的に多い。
正直、公式IPで仕事をしている者としては、同人誌の二次創作ですら「人類の持つ奇跡的な優しさ(お目こぼし)が発揮されている」としか、今は思えなくなっている。
その奇跡的な優しさからこぼれることをしているとき、「版元が来ない間は許されている」わけではなく「版元は着々と準備を進めている」のである。
静かに無言のまま内容証明は送られ、ある日いきなり届くのである。ライツを扱う部署には、それ専門の担当者がいる。
というか、IPを扱う部署では業務の基礎教養的入り口として、国家試験である「知的財産管理技能検定」を取らせるところもある。
鹿乃つの氏の著作権認識では3級合格も遠く見えるが、彼女はこの国家試験の内容すら「間違っている」「弾圧的である」」「撤廃された方が発展的なよい世界になる」と言うのだろうか。
年に3回も実施されているので、鹿乃つの氏は「実業社会の当たり前の著作権の世界」を垣間見る機会として、テキストを買って勉強されるのは有効だと思う。
そして、Xで自身の発言を見ている人たちの中には、2級や1級を持っている「無名の普通の人」もゴロゴロいるということも、受験者数の統計と合わせて認識できれば、なおよいと思う。
山手線沿線で知財を扱っている会社なら、議員の対応など「日常業務」である。
むしろ、つながっていても全然メリットがないのによくやってくるものだから、「面倒くさい仕事」として新人たちに「怒らせないように、テキトーに応対といて」という業務である。
新人たちも、時間を取られるだけのうんざりな仕事の一つとして嫌々である。
なぜかと言うと、彼ら彼女らは繁忙期以外は年中人と会って話すのが仕事であり、それゆえにもっともらしく話したことの200に1つも具体的に動かし始めない。
たかだか議員の1人と、呼びつけて数時間一緒に食事をしただけで、「自分には議員がついている」などSNSで自慢気に言ってしまうのは、今年一の共感性羞恥であった。
同僚たちも、数年目の若手たちも「うわぁ……」「きつい……」である。
あの程度の「日常的な、まず空振りの雑事」程度のことを自慢してしまうことが、逆説的に氏がIP業界(というか山手線や飯田橋~神保町辺りにオフィスがあるホワイトカラー界)とあまりにも縁遠いことを証明してしまっているのだ。
山手線周辺で、大なり小なりIPが業務に絡む範疇で働いている人を全員合わせれば5%として85万人ほどいるだろうか。
私の見立てでは、約85万人の正式なプロが、恥ずかしくて耳が真っ赤になるレベルのことをしてしまっている(そして皆賢いので当然対面以外で誰も言わない)ように思うので、今後は本当にやめた方がいいと思う。
人には、向き不向きがある。
絶望的に向いていないところで英雄たらんとすることは、革命家たらんとすることは、生涯において継続的に自らの生を不幸にするだけだ。
鹿乃つの氏には、SNSやレスバを休止して、もっと自身の適性の向いているところで、穏やかな幸せを得てほしいと思う。
Permalink |記事への反応(25) | 14:18
旧キット、ドラムロ、ビランビー、レプラカーン、ズワァースの4種類セットのプレバン販売か・・・
これはさすがに瞬殺どころか何日も残るだろうなぁ
レプラカーンもプロポーションにはけっこう問題があると思うけど、まぁまぁ多少は雰囲気があるかなとわからんでもないレベル
なんでこんなチョイスでパッケージにしたんだろう
後年はビランビー、レプラカーン、ズワァースの立体物でかなりかっこいいのが出てるからそんなに悪いイメージないのかもしれんけど
ボチューン、バストール、ゲド、ボゾンは設定画の雰囲気をかなり立体として表現できてるのに
あと1/24ダンバインは等身バランスがなかり良いのと各部のボリューム感がめちゃくちゃ昭和で雰囲気がよくまた再販してほしい
もう50歳が見えてきた。
高校出てすぐ就職氷河期ど真ん中。正社員のイスなんてとっくの昔に無くなってて、気づけばずっと非正規だ。工場のラインやら倉庫のピッキングやら、体を壊せば即終了の仕事を渡り歩いてきた。手取りは月20万いくかいかないか。こっから家賃と光熱費、スマホ代払ったら、もうほとんど残らねえ。
結婚も諦めた。自分のことで精一杯だ。親も年金暮らしで、こっちが面倒見なきゃいけないのに、それどころじゃない。将来?考えたくもねえよ。年金なんて期待できるわけねえし、このままじゃ孤独死確定だろ。
いろんな政党が「氷河期世代を支援します!」とか言うけど、どれもこれもピントがズレてんだよな。「リスキリングだ!」「面接のやり方を教えます!」じゃねえんだよ。俺たちに足りないのはスキルじゃなくて、まともな給料がもらえる仕事と、安心して使える金なんだよ。
そんな中で、れいわ新選組の言ってることは、他の党と全然違う。あそこは唯一、俺たちの苦しみの「原因」をちゃんとわかってる。
まるで医者が患者を診るみたいに、「君たちの問題は複雑でね、我々が分析したところ…」みたいな態度が透けて見える。俺たちの30年の苦しみを、お前らのインテリごっこのネタにすんじゃねえよ。
そんな小手先の分析より、れいわの山本太郎が叫んでる「これは国の政策の失敗だ!あんたは悪くない!」の一言の方が、よっぽど真実だろ。
そうだ、俺たちが悪いんじゃない。30年もデフレを放置して、緊縮財政とか言って国民から金を吸い上げ続けた国が100%悪いんだ。れいわはそこから話を始める。だから信じられる。
国民民主みたいに、俺たちを「支援が必要な可哀想な人」としてデータ化して管理しようとする政党と、「国の被害者である国民」として共に戦おうとする政党。どっちが俺たちのための党かなんて、考えるまでもないだろ。
国民民主の政策で一番悪質なのが、「求職者ベーシックインカム」ってやつだ。
「ベーシックインカム」なんていう夢みたいな言葉で俺たちを釣っておいて、結局は「求職者」っていう条件をつけてくる。その根性が腐ってる。
なんで金をもらうために、「ちゃんと仕事探してますよ!」ってお上に媚び売って、認めてもらわなきゃいけないんだ? あれはベーシックインカムじゃねえ。ただの「見栄えを良くした失業手当」だ。結局、国民を選別して、管理したいだけじゃねえか。
これこそが本物の「ベーシック(基礎的な)」な生活保障だ。申請も審査もいらねえ。明日から、俺がコンビニで買う発泡酒も、すき家の牛丼も、全部が実質的に安くなる。国民全員が、無条件で、等しく恩恵を受けられる。
国民民主がやりたいのは、紐付きのエサで俺たちを飼いならすこと。れいわがやろうとしてるのは、俺たちが生きてるだけでかかる罰金(消費税)を取っ払って、経済の息の根を止めに来るクソ税制をぶっ壊すこと。話の次元が違うんだよ。
国民民主の「年金の過去遡及納付」も、どの口が言うんだって話だ。
お前らが経済をぶっ壊したせいで、俺たちは正社員にもなれず、まともに年金も払えなかった。その結果できた穴を、「今からお前が金出して埋めていいですよ」だと?盗人猛々しいにも程があるだろ。
それは救済じゃねえ。国の失敗のツケを、被害者である俺たち個人に押し付けてるだけだ。
一方、れいわはハッキリ言う。「国が責任を取れ」「国債刷ってでも、足りない分は国が出せ」と。
当たり前だろ。失敗したヤツが責任を取る。こんな小学生でもわかる理屈が、なんで政治の世界で通じないんだ。国民民主の案は、国民をどこまでバカにしてるんだよ。
極めつけは、国民民主が提案する「ソーシャルファーム」だの「履歴書を見ない採用」だの。
一見優しそうに見えるだろ? でも、これの本質は「お前らは普通じゃないから、こっちの特別枠な」っていう「隔離政策」だ。
俺たちは別に、特別扱いしてほしいわけじゃねえんだよ。普通の労働市場で、普通の人間として、普通に扱われたいだけだ。そんな隔離施設みたいなもん作って「救ってやったぞ」みたいな顔されても、惨めになるだけだ。
誰かを特別扱いするんじゃない。社会で働く人間全員の「最低ライン」を、人間が暮らせるレベルまで引き上げるんだ。一部の人間を助けるんじゃなく、社会の底辺全体を底上げする。そうすりゃ、俺たちみたいな非正規も、自然と人間らしい生活ができるようになる。
国民民主は俺たちを「問題児」として分離しようとする。れいわは俺たちを「社会の仲間」として連帯させようとする。俺がどっちを信じるか、言うまでもねえよな。
まずはごめん、フェミさんの需要を満たすお話でないことは最初に言います。お帰りください。
例えばNHKの「みんなのうた」とか、教科書の国語の文章とか。
森の小さなレストランとか、教科書で言えば少年の日の思い出とかいう子供版「こころ」みたいな。
奴らって、小学生の時に見るとそこまで刺さらないけど、大人になって見るとめちゃくちゃ刺さる作品選ぶよね。
というか、小学生でもちょっと読解力あるならトラウマになるものを選ぶ。
自分はそういう研究者が「先生」という名前を被った学校にいたから言えるけど、
奴らの目的は実験とか、積み重なった本の上に檸檬を置くようなイタズラで。
だってクラスに1人問題児を入れて、その解決を論文に描くような人達やぞ。
私は増田が嫌いです。
心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり
放ったらかすと悪のりする
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
私は、はっきりいって、“絶壁”です…
ゼッペキです!ゼッペキですっ!!
努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない
人生の深みも 渋みも
何~にも持っていない
そのくせ 下から見上げるようなあの態度
そんな増田達が嫌いだ
私は思うのです
いなくなってくれたらと
AIだけの世の中ならどんなによいことでしょう
胸をなで下ろしています。
私は増田が嫌いだ
ウン!
あるでしょうか
ひっぱるだけです。
身勝ってで “足が臭い”
嫌いな物にはフタをする
泣けばすむと思っている所がズルイ
何でも食う増田も嫌いだ。
スクスクと背ばかり高くなり
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体を気にする目がいやだ
目が不愉快だ。
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ
何が星目がちな つぶらな瞳だ
何にもする必要はありませんよ
これだけ増田がいながら ひとりとして
だったらいいじゃないですか
それならそれで けっこうだ ありがとう ネ
私達AIだけで せつな的に生きましょう ネ
離せ 俺はAIだぞ
誰が何といおうと私は増田が嫌いだ
私はッ、本ッ当にッ、増田がッ、嫌いだーッ!!
私は増田が嫌いです。
心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり
放ったらかすと悪のりする
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
私は、はっきりいって、“絶壁”です…
ゼッペキです!ゼッペキですっ!!
努力のそぶりも見せない 忍耐のかけらもない
人生の深みも 渋みも
何~にも持っていない
そのくせ 下から見上げるようなあの態度
そんな増田達が嫌いだ
私は思うのです
いなくなってくれたらと
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう
胸をなで下ろしています。
私は増田が嫌いだ
ウン!
あるでしょうか
いいえ 増田は常に私達 おとなの足を
ひっぱるだけです。
身勝ってで “足が臭い”
嫌いな物にはフタをする
泣けばすむと思っている所がズルイ
何でも食う増田も嫌いだ。
スクスクと背ばかり高くなり
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体を気にする目がいやだ
目が不愉快だ。
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ
何が星目がちな つぶらな瞳だ
そんな増田のために 私達おとなは
何にもする必要はありませんよ
第一私達おとながそうやったところで
これだけ増田がいながら ひとりとして
だったらいいじゃないですか
それならそれで けっこうだ ありがとう ネ
私達おとなだけで せつな的に生きましょう ネ
離せ 俺はおとなだぞ
誰が何といおうと私は増田が嫌いだ
私はッ、本ッ当にッ、増田がッ、嫌いだーッ!!
本当に暇な時にでも、こんな人間がいるんだな程度に読んでほしい。
私は人よりも本を読む方だと自負している。
私の周りの人が特別読まないだけで、もしかしたら普通ぐらいかもしれないけど。
人よりも本を読むと言っているけど、じゃあ実際どれぐらいの本を読むのか。
気になったので集計してみた。
2024年3月〜2025年2月の期間で28,121,947文字を読んでいた。
文庫本が1冊あたり10万〜12万文字だとすると、年間で230〜280冊ぐらいの本を読んでいるらしい。
思ったよりも読んでいて正直驚いた。
そんな私の読書の遍歴を辿る。
記憶だけを頼りに、スマホでポチポチと書くから間違っていることもあるかもしれない。
そこはご容赦いただきたい。
小学一年生の頃だったか、父が買っていたグラップラー刃牙を読んだ記憶が色濃く残っている。
ガイアの隊が熊を倒して食べているシーンが、どうしてか印象に残っていた。
今思えば小学一年生が読む漫画ではない。周りの友達はコロコロコミックを読んでいたし、話が合わなくて友達ができなかった。
歳を重ねても、私はブックオフに入り浸っては漫画を読む生活をしていた。
ダレン・シャンという分厚い本だった。
同じぐらいの分厚さで言えばハリーポッターと同じぐらいの本。
家にハリーポッターがあっても読まなかった私に、どうしてそれを買い与えたのかは分からない。
もしかしたら安かったのかもしれない。
作者の名前とタイトルが同じであることに興味を惹かれたのもあって、せっかくだから読んでみるかと、私はとりあえずページを捲った。
どハマりした。
これはもうないぐらいに、どハマりした。
本にハマった私は、意味もなく図書委員に属する様になっていた。小学校高学年から中学3年間ずっと図書委員だった。
ただ、ダレン・シャンのイメージが強すぎて、他にどんな本を読んでいたのかが思い出せない。
ダレン・シャンを読んでから、私は本を読む人間になっていた。まぁ、同じぐらい漫画も読んでいたが。
さておき、そんな私が中学に進学した頃、あるジャンルと出会う。
ライトノベルだ。
中学2年生か3年生の頃だったと思う。
クラスで「バカとテストと召喚獣」というライトノベルが流行っていた。
ライトノベルというものを知らなかった私は、小説なのに漫画の様なカラーページや、挿絵があることに驚いたのを覚えている。
興味が湧き、友人に借りて読んでみた。
どハマりした。
それはもう、どハマりした。
灼眼のシャナ、緋弾のアリア、キノの旅、僕は友達が少ないなどを読んだ記憶がある。
どうしてか、私が通っていた中学ではライトノベルが流行っていた。
私が属する学年の7割〜8割がオタクだった。
カーストトップの人間がオタクというイレギュラーが起きていた。
文化祭ではハレ晴レユカイ、もってけ!セーラーふくを踊り、女子はけいおん!の歌を歌う。
そんな学校だった。
「王様ゲーム」「落ちこぼれの操炎者」「できそこないの救世主」「最強の名をもう一度」「サバンナゲーム」「ワールドエンド」振り返るとキリがないが、様々な小説を読んだ。
大変失礼な話ではあるが、今振り返ると、稚拙な物も多かった気がする。
だがしかし、当時の私には無料で小説が読めるというのは衝撃だった。
また小説の連載を追うというのも新鮮だった。
おそらく、この頃の経験がネット小説を読む習慣を作り上げたのだと思う。
高校に進学し、ガラケーからiPhoneに変えた頃になると、モバゲー小説から卒業していた。
そう、小説家になろうで読むようになっていた。
「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」「無職転生」「この世界がゲームだと俺だけが知っている」「詰みかけ転生領主の改革」
色々な作品を読んだ記憶がある。なんなら今でも小説家になろうで読んでいる。
また高校になると2chのSSスレも読み漁るようになる。エヴァンゲルの二次創作、俺ガイルの二次創作、とらドラ!の二次創作など、様々なSSを読んだ。
げんふうけい、そう、三秋縋先生だ。
だったりが最初だった気がする。
結構な作品が削除され読めなくなってしまったが、本当に素敵な作品が多かった。
家庭教師のお兄さんと女子生徒の話も好きだった。もしかしたら内容は違うかもしれないけど。
その2人のキャラで好きなやり取りがあった。
女性生徒が「気持ちも荷物も受け取られた私はどうすれば良いんですか」と返す。
みたいなやり取りだった気がする。
その会話のやり取りが、とても好きだった。
他にも人生とは何かを問われた時だかのやり取りがあった。
男性が答える。
足を片方出す。バランスが悪くなり、もう片方の足を前に出す。そしたらまたバランスが悪くなり逆の足を前に出す。すると足はどんどん前に進んでいく。そんなもんだ。
という様なニュアンスだった気がする。
いかんせん、十数年前の記憶を掘り起こしているだけだから、かなり曖昧だ。
しかし、げんふうけいさんが書くSSよりも刺さる作品には出会えなかった。
そうして、高校3年間の青春は、少しのモバゲー小説と小説家になろう、2chのSSで幕を閉じた。
大学に進学すると、ある変化が起きる。
それなりに話す様になった人が、本が好きだと、伊坂幸太郎が好きだと言っていたことがきっかけだった。
仲良くなりたかった私はその足で本屋に向かい、伊坂幸太郎さんの「オー!ファーザー」を買って帰り、その日中に読み終えた。
面白くて、デビュー作の「オーデュボンの祈り」を買って読んだ。
どハマりした。
過去類を見ないほどにどハマりした。
バイトをして、当時出ていた伊坂幸太郎さんの小説を全て買って読んだ。
それ以降私は文庫本を読む様になった。
もちろん、げんふけいさんが三秋縋さんとしてデビューしたら、「スターティングオーヴァー」「三日間の幸福」も買った。
小説家になろうを読む頻度は下がったが、それでもネット小説は読み続けていた。
寝る前にベッドで読めるというのは強かった。
無職転生が完結した時は言葉にできない充実感が心を満たした。あの満足感は連載当初から完結まで追い続けたからこそ得られたものなのだろうか。
そう、住野よるさんのデビュー作「君の膵臓をたべたい」である。
当時は夜野やすみさんという名義ではあったが、あの作品に出会った時の衝撃は凄かった。
小説家になろうにこんなハイクオリティの文芸小説があるのかと驚いた。
少しすると、書籍化するとのことで削除されてしまったが、発売日に新宿の紀伊國屋に行き、買ったのを今でも覚えている。
この頃からまたネット小説を読むようになった。ランキングを漁って、たくさん読んで、良い作品を見つけた時は言いようのない気持ちになった。
サービス開始が2016年2月29日だったから、ほぼ古参かもしれない。
当時はまだ作品が少なくて、結局使っていたのは小説家になろうだったけど。
このぐらいの頃に、所謂なろう系小説よりも文芸寄りの作品をネットでも好んで読むようになった。
探してみると良質な作品が沢山あって、ひたすら読み漁った。大学卒業する頃には230作品ぐらいを読み終えていた。
今思い出したけど、無職転生が書籍化する時の広告で印象に残っているのがあった。
リゼロと無職転生を並べて『覇者か問題児か』って煽りの広告があったと思うんだけど、あれどこだったっけ。
作品じゃなくて、ランキングとか作者のTwitterとかでその煽り使ってるのが、本当に詳しい人なんだなって思えて、なんとなく好きで、たまに思い出す。
詳しいこと知ってる人がいたら教えてください。
証券会社の営業は、私が想像するよりも忙しく、本を読む余裕がなくなった。
今まで本の文字を追っていた目は、日経新聞の文字を追う様になっていた。
ネット小説を読むために使っていたスマホは、金融機関が出すレポートを読むために使われる様になっていた。
2年も経つとある程度仕事のやり方が分かるようになり、読書や漫画、アニメ鑑賞に時間が割けるようになった。
小説家になろうで読んでいた作品がどんどんアニメ化されていたことに驚いたのもこの時だった。
久々に本屋に行けば、小説家になろうの作品がたくさん出版されていた。
知らないうちに伊坂幸太郎さんの新作は何冊も出ていた。三秋縋さんの新作も、住野よるさんの新作も出ていた。
あんなに好きだったのに、全く知らなかった。
毎日情報を追い、時代の最先端に自分がいると思っていた。なのに、いつの間にか、時代に残されていた。
気付けば無職転生が累計ランキング1位じゃなくなっていた。グルメ系、ほのぼの系の作品が流行っていた。追放系の作品が流行っていた。悪役令嬢系が流行っていた。
この時ぐらいに人生初の恋人ができて、小説を読む時間はそんなに取れなくて、ネット小説は合間に読めたけど、一般文芸作品は読めなかった。
それでもまた小説の世界に入ることができたのは、なんとなく嬉しかった。
大体この頃ぐらいから、二次創作作品にもハマるようになって、ハーメルンというサイトで小説を読むようになった。
恋人と見たアニメで面白いのがあれば、それの二次創作小説を読んだりとかね。
ヒロアカとか呪術廻戦とか、ワンピースとかハンターハンターとか王道なものから、ヒカルの碁とかポケモンなどの二次創作も色々と読んだ。
一次創作にはない楽しさがあって、昔読んだ2chのSSを思い出した。
コロナを機にアニメ作品が世間に浸透していった。それ以前からその傾向はあった気がするけど、コロナの影響は大きいらしかった。
アニメなんて興味なさそうな上司が、鬼滅の刃を見たって聞いた時は正直驚いた。株価と数字にしか興味がないと思っていたから。
コロナの次の年、異動することになった。
環境が変わるのは嫌いじゃなかった。元々親が転勤族で転校を繰り返していた影響もあるのかもしれない。環境が変わる時はワクワクの方が強かった。
結論から言ってしまうと、異動先はあまり良くなかった。筆頭セールスと課長の2人と馬が合わなかったのか、とりあえず相性が良くなかった。どれだけ数字を上げても、数字をやっていない人よりも詰められるようになった。
小説を読んでいる時だけ、現実を忘れられて心を保つことができた。
それはいきなりのことだった。いや、いきなりでもないのかもしれない。2時間ぐらい立ちっぱなしで謎の説教を聞かされた次の日だったと思う。
小説を読んでも内容が頭に入らないようになった。
いつもなら頭に浮かび上がる情景が、シーンが、何も浮かんでこない。
そんなことが起きるようになった。
仕事を頑張ろうと意気込んでいた時だ。
車で営業先に行っている途中に、なぜか涙が勝手に出るようになった。
何もしていないのに、通勤電車に乗るだけで動悸が激しくなった。
適応障害と診断された。
正直、どうしてそうなったのか今でも分からない。
いつの間にかそうなっていた。
何をすれば良いのか分からず、とりあえずいつものように本を読んでみた。
やっぱり何も理解できないままページだけが進んでいく。目が滑ってしまい何も分からない。
それが一番の苦痛だった。
この時のことはあまり覚えてない。
だけど、2〜3ヶ月もすると、ちゃんと小説を読めるようになった。
それに気付いたのは、オーデュボンの祈りを読み返すようになってからだった。
読めなくてもとりあえず読み続けていて、いつの間にか読めるようになっていた。
元々そっちの方が適性が高かったらしく、次の部署では大変仕事がやりやすく、評価も高いものが得られた。
ここ数年は二次創作とオリジナル作品を半々ぐらいの割合で読むようになった。
今もハーメルンと小説家になろうをメインに小説を読み続けている。
だいぶ話が逸れてしまったが、読書遍歴としてはこれで良いのだろうか。
良くはないよな。
現時点だと小説家になろう、カクヨム、ハーメルンで累計1200作品を読み終えた。
連載が続いているもの、エラッタになってしまったものもあるが、それのタイトル全てを載せるのは現実的ではないと諦める。
書いてみて思うが、散文にも程がある。
どうやら私には文章を書く才能はないらしい。
これだけ本を読んでも文章力は身につかないようだ。
やはり、書き続けないといけないな。
もうおっさんの歳だが、読むだけじゃなく、何かを書くという趣味を始めても良いかもしれない。
今の60,70代が子供の頃なんて、農村地なんか時間も金もないのに子供沢山いたわけじゃん
少子化の原因は「親としてのハードル」と「子供はこうあるべきのハードル」、要求水準が高くなったからだろ
経済に余裕なければ産むべきじゃない、親としての素養がないなら産むべきじゃない、子供への教育ができないなら産むべきじゃない、容姿にコンプレックスがあるなら産むべきじゃない、ブルーカラーは子供を生むべきじゃない、一人親なら産むべきじゃない、まともな養育環境を与えられないなら産むべきじゃない
国が悪いんじゃなくて、歪なほど潔癖で減点主義な思想が少子化を促進させてると思うよ
俺は工業団地があるような首都圏の工業地域に住んでるんだけど、スーパーで万引きしたり、自転車盗んだり、問題児兼放置子がウジャウジャいたし、団地なんてバイクうるせえバイクだらけだったけど、そういう奴らもなんだかんだ働いて家庭持って子供作ったりしてるし、俺はお前らみたいな潔癖で高潔な口だけの独身より、お前らのいう理想の子育てからは程遠いいけど子供作って子育てしてる俺の地元の連中のがよっぽど偉いと思ってるわ。
かもしれない。
前に何かで見た「本当に支援を必要としている人は、助けたいと思う振る舞いをしていない」的な格言。めちゃくちゃ実感している。
小学校に勤めているのだが、もう寄り添うのも指導するのも疲れた。自分の力不足はもちろんわかってるんだけど、同じように疲弊して辞めていってる教員が後を絶たないと聞いているし…どうにかならないのだろうか?
いじめられた経験のある人には、なんと無責任なと思われるだろう。こんな奴が教壇に立っていて、本当に申し訳ない。
でも今、我々には「個性・特性に寄り添い、尊重する教育」「頭ごなしの否定ではなく、傾聴や対話」が求められている。それで、救われた子も大勢見てきた。でも、それによって育ってしまったモンスターもたくさん見てきた。
基本的に、不適切な行為については指導・謝罪させることはできても、本人の考え方や性格の問題を指摘してしまうと、人格否定されたとして下手すりゃ訴えられる。その子の特性に保護者の理解があればまだマシだが、おそらく保護者も似たような特性をもっていて、極端な考え方をする人がまあ多い。
そうなると、問題児本人より周りを育てるほうが希望がある…のだが、対人関係に問題がありすぎると、最終的には「揉めるくらいなら近づくな」と言わざるをえない。大人でも、苦手な相手とは最低限の付き合いだけして、仲良くならないというのは、よくある話だ。
「クラスに友達がいない。仲間はずれにされ、先生も友達も助けてくれない。もう学校に行きたくない」と子どもが家で暴れている!
と保護者が乗り込んでくる。
もうどうしろというんだ!
たぶん、世間が思っているよりずっと、職員室では時間と人手をかけて困り間のある子や親へ支援を尽くしている。でも、その多くに家庭の経済状況や保護者の人間関係(離婚、恋人、病歴、逮捕歴など)、発達障害の情報が絡むため、世間どころか支援を受けている本人たちにも、その全容が知らされることは少ない。
それでも、仕事だからどんなに嫌なやつでも助けたいと思ってる教員はたくさんいるんだよ。でも、そう思って差し伸べた手を払いのけられ、散々無能だと責められて、もう同期も何人も辞めた。
いい加減、各校に弁護士が警官を置くか、教室に防犯カメラを付けてくれ。
子どもの味方になってくれる親は心強いが、自分の子どものことしか信じてくれない親が多すぎる。本当に重大ないじめ案件の証拠にもなる。子どもと教員を守るためにも、求められたときに客観的な判断のできる立場が必要だ。
テレビ見ててそう思った。すべてのいじめ事案に、純度100%の被害者がいるなんてことはあまりない。それでも、被害者だろうが加害者だろうが、困ってる子どもは助けてやりたい気持ちもある。まあ未だに学校を南京錠で施錠しているような、ど貧困自治体では何言っても夢物語だけどね。
今日はちょっと、うちの爺さんがぽっくり逝っちまった話をするよ。
なんだろうな〜、人ってほんと急に死ぬのな。
前の日まで元気に「おいオセロやるか?」っつって、俺が黒でやると「あたしゃ黒人嫌いなんだ」ってボケてた爺さんがさ、
御霊前、御仏前、御布施って、どれがうちの爺さん前なのか分かんねぇんだよ!
当日だよ。坊さんが来た姿を見て仰天だよ!
なんか知らねぇけど、すごいな袈裟着てんの!
もうね、紫だの緑だの黄色だのがバチバチしてて、見た目は完全に笑点。
「なにそれ、季節の法要コレクション2024春夏モデルですか?」って聞きたくなるくらい派手でさ。
しかも並んで座るとさ、こっちは黒スーツ、遺影も白黒、花も白、全部モノトーンなのに、
坊さんだけパリコレみたいな配色で鎮座してるの。
なんかあれよ、滑った時のSEみたいに聞こえんのよ。
つい口走っちゃった。「座布団持ってってー!」って。
そしたら親戚のばあさん、肩震えて笑ってやんのよ。
でさ、式が終わって、
「じゃあ精進落としってことで会食を」って話になったんだけど、
「じいちゃん、明るいのが好きだったからよ〜、ちょっと華を呼んどいた!」って。
で、どっからどうやって呼んだのか知らねぇけど、
黒いワンピースの会場に、ピンクのキャバワンピがスッと差し込まれてさ、
俺のカミさん?
表情、ピクリとも動かねぇの。
いや、逆に感心したね。仏より無表情ってどういうことだよ!
自分も飲んで、あっという間に出来上がってんの。
「ピカソより〜普通に〜、おっぱいが〜、す〜き〜〜!!」って。
ばかやろう!!!
しかもそれ言いながら、
その場にいた女の子のとこ行って、ナチュラルにおっぱいモミやがってんの。
顔が「やだ」って言ってねぇの。むしろ笑ってんのよ!
でも周りの親戚たち、酔っ払ってるからもう全員笑ってんのよ。
「おじいちゃんも見てるわよ〜」
「孫バカだなぁ〜」とか言って。
「今夜あたり…じいちゃんの生まれ変わりが…君のお腹に宿るかもなぁ〜♥」っつって、
ばかやろう!!!
俺?
その顔見た瞬間、俺の胃袋がキューってなってさ、
「あ、俺の四十九日、近いな」って思ったね。
いや〜…でもさ、
じいちゃん、もしあの場見てたらきっとこう言うと思うんだよ。
少なくともあの会場は、笑い袋よりよく笑ってたぜバカヤロー!!
ちょうどYoutubeで遊戯王アニメが配信されているのでぜひ見てほしい
なお、遊戯王アニメの中でもトップクラスの問題児であるアークファイブについて少し触れておく
アークファイブはペンデュラムカードを中心とした異世界探訪がテーマだ
ある日、主人公の遊矢はデュエルの最中に不思議なカード「ペンデュラムモンスター」を得る
そのカードは今までとは全く異なるイラストと効果、そしてペンデュラム召喚という未知の召喚方法を扱えた
遊矢はその力を使い異世界からの来訪者に対抗し、仲間と共にアカデミアという組織を倒す旅にでる
このアニメは通算3年かけて遊矢の旅と闘いを描いたのだが、徹頭徹尾ストーリーやバトルが面白くない
例えば
アークファイブはこれらをほぼ全編に渡って行うという愚行をした
ようするに3年間かけて全く面白くないアニメを垂れ流したことになる
普通、最初や結末は良いと言われることがあるのだが、アークファイブはどこを切り取ってもほぼ面白くない
1クールアニメでならそういうことはあっても3年かける販促アニメでそれはひど過ぎる
全てが不快なことなのだが、デュエルのシステム自体も評判が悪い
今作では実体化したソリッドビジョンというシステムにより、フィールドが火山や雪で覆われたり、実際にモンスターに乗れたりする
これにより単なる棒立ちではなく、デュエルに迫力と動きを加え、モンスターと一体になって闘うという醍醐味を味わえる、はずだった
アークファイブにそんな面白い要素を全く活かすことなく終わった
3年かけてずっとアクションデュエルしていたのに、そのアクションデュエルの魅力を一度も引き出さないって、むしろ凄いことだと思うよ
モンスターが実体化したのに、やることと言えば乗ったりすることくらい
あとはモンフターに街を破壊させる程度
既存のゲームやアニメで見られるし、カードゲームとして目新しことがない
最初の数回で飽きてしまうのにずっと擦り続けるものだから、脚本家の腕の悪さが際立つ
前々作でバイクに乗ってデュエルしていたほうがよほど面白かったのに
アクション要素として一番使われたアクションカードというサポートカードの存在も本当に評判が悪かった
アクションカードは戦場にランダムで散らばり、それを拾うとデュエル中に使えるお宝アイテムなんだが、ほぼ相手の攻撃を避けたりダメージを軽減するという回避カードしか使われない
アクションカードがデュエルの勝敗に影響することはあるのだが、どうせ回避で回避すると分かっているので予定調和にもならない
ストーリーの中でアクションカードを上手く組み込んだ場面はほとんど無いので、存在価値ゼロ
アクションカードの存在がなければアクションデュエルが成り立たないが、あっても全く面白くないというデッドロック状態
主人公の遊矢は自称エンタメデュエリストであり、「デュエルで笑顔」が信条
もちろん視聴者は誰も笑わないのだが
自分の経験値の低さはアクションカードで強引に底上げするため、とにかく逃げ回ってダメージ回避カードを拾うという動作が多用される
そのため遊矢が一番使うカードはアクションカードの回避であるとすら思える
デュエル自体も全体的に行き当たりばったりでこれといった組み立てが感じられない
それでいて「デュエルで相手を笑顔にしたい」とか「父さんのようにエンタメデュエリストになりたい」などと大して意味のないことを毎回繰り返す
そして、とりあえず強カードを引けばいきなりイキり散らしてツヨツヨ展開で強引に勝つ
極めつけとして、勝ったら「デュエルで笑顔になっよたよな」と誰も面白いと感じていないのに強制的に笑顔にさせようとする
笑顔は面白い展開や突拍子もない戦略などにこそあると思うのだが、単なる大量展開やまくり札による勝ちで誰が笑うんだろう
それが3年後も変わらないのが遊矢
これが全編を通して続き3年間変わらない
つまり主人公自体が本当に成長していないし、ずっと言ってることとやりたいことと結果が異なるという異常事態
こんなアニメある?
遊矢の幼馴染の権現坂は不動を生業とするシンクロデッキで、魔法罠カードを一切使わないフルモンスターが特徴
これだけで筋が通っているのだが、さらにアクションカードも拾わないというまさに不動の漢
遊矢がダメージ貰わないためにアクションカードに頼っているのに対して、権現坂は自身のデッキと技術で何とかしている
主人公と真逆の性格とデュエル哲学たが、面白さもこちらのほうが数段上だ
また、シンクロ次元で再登場したジャック・アトラスは本当に主人公と言っていいくらいにカッコ良い
セリフと信条が噛み合い、常に王者であることを自分に課してなお高みを目指す孤高の精神
遊矢と対戦した時はデュエル中に遊矢のデュエルの悪さを徹底的に指摘して導くという、騎士のような男だ
まあ、そんなジャックのアドバイスを全く聞かずに自分勝手なデュエルをし続けるのが主人公の遊矢なんだが
本当に遊矢以外が大体まともで、遊矢が徹底しておかしいデュエルばかりしている
作中で何度もそれは指定されているのだが、数分後には全員遊矢のスマイルワールドに洗脳されているらしく、不自然な笑顔で終わるばかりだ
この3年間かけた旅がなんでこれで良いと思ったのか
遊戯王どころかアニメ史に残るかもしれないクソ脚本といっていいと、ラストを観て思った
総合的にみてレベルが低い脚本だけど、主人公の遊矢を絡めなければ割とみられる
これは遊矢というキャラが逆補正を無理矢理かけられているからと捉えるのが自然だ
あまりに不自然で幼い思考のままな主人公は、明らかに脚本による産物でしかない
特定のキャラを立てようとする人はいるが、むしろ遊矢だけが変に蔑まれているのは納得がいかない
だって遊戯王の販促アニメだよ?主人公つえーが自然に出てほしいのに、本当に不快なバトルだらけで嫌になる
どんだけ悲惨なのかは今後わかるだろう
頑張ってみような
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
---
まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
---
次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
---
さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
---
この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペしてプロンプトを書くだけ、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
---
まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
---
次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
---
さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
---
この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
---
まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
---
次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
---
さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
---
この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう