
はてなキーワード:問答無用とは
100社以上回って落ちてを繰り返し、やっと就職出来たカーディラーの会社
まず入社してから自分の営業車を用意して下さい、割引はしてあげるからって言って
車が無いと仕事が出来ないと言われて早速営業車をローン組んで買わされた
それが大体200万ぐらい
就職したてでローンとかいう借金を負わされたのもキツかったけど、当然すぐに車が売れる訳も無く
売れないのならどうにかしろと上司に詰められ、親に頭下げて頼み込んで、車買い替えのタイミングを相当早めて貰って買って貰った
それも200万ちょっとぐらい
6月になって「あなたはこの仕事に適正が無いから」と言われ、試用期間中に問答無用で首になった
残ったのは車のローンだけ
買った車も会社が他の社員に営業車として使わせる、名義はこちらになっているからって中々返して貰えず、
弁護士も挟んでやっと返して貰った時には、どこかにぶつけたのかボロボロになって返却された
見るのも嫌になったので、すぐに車は売ったが、ローンの足しにしかならなかった
自分の分と親の分、400万以上を会社に払って就職した様なものだった
給料なんてその1/10あるか無いかだったから、随分会社は儲けた事だろう
就職して残ったのは、車を買わせてしまった親からの信頼喪失と軋轢、そしてローンという名の借金だけだった
これでも自分はまだマシで、同期の人間は、自分・親・親族(兄と姉にそれぞれ買って貰ったらしい)で1000万近く会社に払い、
恐らく自分の様に家族関係も壊されただろうし、人生はより滅茶苦茶になっていただろう
自爆営業なんて自業自得だから諦めろと、相談に行った弁護士にも言われ、結局泣き寝入り
就職希望者なんていくらでもいるから、こんな就職詐欺みたいな悪質な商売してもやりたい放題だったんだと思う
昔、と言っても2010年代の話だけど、未だに忘れられないし悔しいしトラウマ
今はそんな事しないまともな会社で働けているけど、マイカーを持つ気はしない
たまに思い出したり、当時詰められた事とか夢に見てしまうんだけど、本当に辛い
いやー、あの原作もよかったけど、移植されるたび評価が下がる1&2を、良くぞここまで練り上げてリメイクしてくれた。
今まではドラクエランキングを見るたびに『最高は2なんだよ……(次点で7)』と心の中で呟くしかなかったのが、今作をプレイした後なら堂々と言える。最高は2なんだよ!(次点で7)
序盤で『ロンダルキア王国』とかいう名前が出てきた時には、また妙な新設定ぶちこんで来たもんだと思ったが、
終わってみると決戦に向かう終盤なんてロンダルキア王国物語だったな。
ネタバレは極力避けるが、原作でも最後のベースキャンプとなるロンダルキアの祠の神父の『光、あれ』という最初にしか聞けない渋いボイスが、本作のベストボイスで、なんかそれだけで泣けた。
話がそれたが、エンディングの慕われてるあの人でも泣けた。(ネタバレなので書かないが)
真エンディングについては、本当に書かないどこ。
それにしても、CMやら見てた時は、海底はお使いクエスト的に追加されたのかと思ったら、第2のワールドマップとして全世界が対象になってて大満足だった。ドラクエ2って、移動が不便なせいで、世界の広さを感じられたんだよね。昨今はルーラが便利になってしまったのであんまし苦労しなくなったけど。
サマルが、のんき者というより、どっかおかしいんじゃないかと思われる性格になっていた。
躁状態に近いというか、「いただきまーす」っておまえ、曲がりなりにも生命のやり取りだよね……?
あとムーンが原作より健気になってたな。原作では最初にパーティに加わる時以外に、エンディングで一度だけ会話する機会があり「こんな性格だったのか」と印象深いのだが、そこからは王子2人を相手に遠慮なくズケズケ行ってた明るい子なんだろーな、という雰囲気があり、ゲームブック版のムーンの性格などはそれに準拠してるのか、とても強気かつ強情(一部では酒豪)な性格付けがされてたのだが、本作では折り目正しいというかハーゴン相手でも『あなたの悪行もこれまでです』みたいな威厳を払っている様子だった。
俺の中では、ムーンがハーゴンにかける第一声なんて「アンタがハーゴン? ずいぶん奥に引きこもってくれたおかげで時間かかったけど、とうとう追い詰めたわよ。覚悟はいいわね?」くらいの勢いで、リーチに入ればいかずちの杖でボコ殴りにしてローレやサマルに羽交い締めで止められるキャラ付けだったのだがな。
さすがに原作の性格のまま全編フルボイスでは王子2人が気の毒過ぎたのか……。
■印象に残ったボスについて
本作は、中ボスが多いし強い。まあ、昨今のドラクエはボスが多いから、昨今並みに引き上げられたのだろう。
しかし、強い以上に、唐突に戦闘に入るのが苦労する理由。『これ以上進むとボス戦になるなー』というラインが明確ではない。
もちろん、『そろそろボス出そう』というのはあるのだが、最後の一線が見えない。扉開けたら問答無用で会話が始まってそのままボス戦になだれ込む展開やら、ボスのいる広間に足踏み入れると問答無用で(中略)ボス戦になだれ込む展開やら、『あと一歩進んだらボス戦だから準備しよー』というラインが見えないので、2度ほどMP枯渇状態でボス戦に突入して全滅した。
で、印象に残ったボスだが、
満月の塔のやつと、ムーンペタの水の紋章のやつと、幽霊船のやつ。
位置付け的にイキった雑魚みたいな出方したくせに、鬼のように強かった。いやー、マジで強かった。2度と戦いたくない。
もちろん、レベル80に到達した今となっては秒殺だろうけど……。
あと、アトラス・バズズ・ベリアルにもキャラ付けされてたの良かったな。
バズズは、典型的な『おちゃらけた性格と見せかけて本気出すと怖い』やくざみたいなキャラかと思ったのだが……。
■武器について
本作は武器が原作より遥かに充実してるので、原作で存在感が強かった武器が空気化している。
いかずちの杖とか、水のはごろもとか、原作と同じ方法で手に入るが、性能的にもっと良いの持ってるので結局一度も使わなかった。悪いなドン・モハメ。不思議なボレロの消費MP半減というメリットの前では、多少の防御力なんてどーでも良いんだわ。それに、原作では属性攻撃という概念が薄くて炎吐く敵がメッチャ強かったから、炎攻撃に強い水のはごろもに意味があったが、今は吹雪やら稲妻やら色々飛び交ってるからな……。
そして、1では大いに役に立ったメダル王だが、2ではろくなものくれない。
■とった戦法について
素直に戦うと負けるようなボス戦では、全ての実でドーピングしまくったローレが『におうだち』で攻撃を受け切り、その間にサマル兄妹とムーンが補助魔法で戦闘態勢を整え、3ターン目辺りから集中的にダメージを与える、という手段をよく使った。
無限の回廊を突破してHPとMPに余裕がでてからは、何があろうと1ターンやそこらで全滅することは無くベホマズンが間に合うので、1ターン目でローレは究極奥義準備、ムーンはやまびこの帽子でローレにバイキルト二重がけ、サマル妹はやまびこの帽子でボスにルカニ2重がけし、2ターン目以降はローレは特攻、サマル兄はベホマズンという基本戦法で大体4000位のダメージを与えられるようになった。
■総評
いやー、神リメイクだった。
2のファンならやって損はない。
ただ一点、今までは『ストーリーが空気ゆえに想像の余地が大きかった』事も魅力の一つだったドラクエ2も、これでストーリーや各キャラの性格が明確化してしまったので、想像で補う遊び方はできなくなったかな。
3人の関係性とかね。
最初からこの作品だったら、破壊神を破壊した男とか描かれなかっただろうね。
俺の中のドラクエ2の主人公たちは、少しだけ性格や関係性が本作とは違うんだわ。
とはいえ、今まで世に出された『ドラクエ2ストーリー』の中では文句無しに最高の1本であったと認定したい。
スタッフお見事でした。
自分にはこれといって帰依するところの思想とか宗教というものはない。手探りで効率悪かろうが車輪のなんちゃらだろうが気にせず、自分の中で確からしいものを大事にしたい。かと言って野狐禅で真理を得たとふんぞり返るほど自信家でもないのだが。
そういう自分の中で「現場で苦労した人には敬意を払う」というのはわりと強固なセオリーである。
もちろん右翼的価値観を奉ずるものでもないので、小野田寛郎氏のことを手放しで礼賛すべき人物とは思ってない。
でも生まれながらに平和を享受する我々が彼の人を懐手で断罪するなどとはとんでもないことだ。
ところが左翼は当たり前のように神様視点で好き放題言うよね。もとより左翼の中では問答無用の単なる悪者で片付けないとすわりが悪い存在だしね。
いや別に法の許す範囲で何言おうと勝手ではあるんだけど、すんげーのを見たので備忘までに記しておくのである。
って何?
俺こいつのこと人類の歴史のなかでいちばん軽蔑するかもしれん。
特攻機のマシントラブルで帰ってきた人をなんでもいいからさっさと再出撃してきれいに死んでくれってプレッシャーかける奴の思想だよね。
ただ生きることが困難な状況で必死で生き残ることは「汚い」んですってよ。
以前、下膨れみたいななまえのはてさが「とある死刑囚について強い処罰感情を表明した被害者遺族」のことを(死刑反対の左翼的教条に反するという理由で)口を極めて罵ってたのを見てう〜わ〜と思ったけどソレ以来だ。
究極的ミニマリズムは、単なる物理的な断捨離や、禁欲的な生活の切り詰めとは、本質的に次元が異なる。
それは、俺の精神領域を侵食し、思考の純度を低下させる、ありとあらゆる非自己のデータとノイズの自己放尿を、外科的な精度で排除する精神の最適化技術である。
具体的には、社会が恒常的に垂れ流す過剰な期待、他者が無責任に押し付けてくる不条理な常識、そして何よりも、自己の脳内に蔓延る不要な不安や妄念といった精神的な自己放尿を、容赦なく断ち切る行為に他ならない。
心の断捨離などという生ぬるい慰めではなく、不要な情報パッケージを発見した瞬間に、迷いなく切り落とす無慈悲な切除手術こそが、その核心である。
かつては「どうでもいい」という思考停止が、不要な刺激に対する最初の鎮静剤だった。
続く「社会への完全なる諦め」は、その鎮静期間を経て、社会という茶番劇から意識的な距離を置くための、準備段階に過ぎない。
そして、今回到達した極地とは、世界のノイズ総量を限りなくゼロに収束させ、生命維持に必要な最低限の思考コアだけを残すという、システム軽量化である。
世の中には、承認欲求という名の自己放尿を撒き散らし、その飛沫を他者に浴びせることでしか自己存在を証明できない人々が横行している。
さらに、嫉妬と劣等感というダブル放尿を振りまき、他者を精神的に引きずり降ろそうとする輩まで跋扈している。
こうした無価値なエンティティに関わることは、俺の脳のメモリを不意味に消費させ、思考のCPUを無駄な割り込み処理で酷使し、結果として人生のスループットをただ低下させる致命的なオーバーヘッドである。
ゆえに俺は、連中をメインプロセスに読み込む価値のない一時ファイルと定義し、問答無用でその存在を削除対象とすることを決断した。
この行為は、感情を切り捨てる冷酷さではない。むしろ、自身の本質的な感情と、集中すべき人生の目標を優先的に保護するために、外部から流れ込む不要な自己放尿を厳密にフィルタリングする、高次の自己防衛機構である。
社会の評価、見栄、世間体、そして普通はこうするべきといった根拠不明の標準仕様、これら全ては、俺自身のメインプロセスに読み込むに値しない、取るに足らない自己放尿データである。
価値の基準を外部に委ねることを完全に停止した時、人間は初めて、真の自由というOSを起動させる。
他者の失言、不機嫌、あるいは攻撃的な言動といった予測不可能な外部入力の自己放尿に対し、もはや感情的なバッファを割く必要はなくなる。
社会の失態や制度の不条理を目の当たりにしても、無為に感情を乱されることはない。
むしろ、世界がどれだけ無秩序に暴走しようとも、俺はその中心で完全なる無風状態を維持し続けることができる。
これは逃避や諦念ではなく、自身の精神領域を最大限に最適化した結果として得られる、硬質な静謐である。
究極的ミニマリズムとは、世界の喧騒を徹底的に切り捨てた後に残る、硬質で静かな思考の中核そのものである。
期待も怒りもなく、ただ淡々と、自分という存在のOSを最高効率でアップデートし続けるだけの生活。余計なものは排除し、必要なものを保存する。
俺の結論は揺るがない。
究極的ミニマリズムとは、精神の最終的な軽量化であり、社会がどれほど騒ごうが、他人がいかに自己放尿を撒き散らそうが、その全てが、俺自身の人生のコンテクストにおいては無意味であるという、冷徹な事実だけが静かに残る境地である。
問答無用で隔離なんてできるわけないだろ、現実的に考えてくれ・・・
これを言う人ってどういうイメージなんだろ、隣の家の子がよく泣いてるなんてちょっとした通報があった端から子供を確保していけばいいと思ってるんだろうか
TikTokのコメント欄にタイトルが書かれてあって、怖いもの見たさで調べてみたら、簡単に無断転載で観れてしまった (最低でごめん)
あのAV、あれ闇サイトとかで取引されててもおかしくないレベルでやばくないか?
AV女優に対して通常のAV撮影って嘘つきながら、いきなりレイプする、っていうコンセプトのAVだったらしい。
シークバーをガーッて雑に動かしながら適当に観たが、ま〇こに男の人3人で指突っ込んで「痛い…痛い…」って言ってたり、でかい漏斗みたいなやつで溺れそうなくらい喉に酒流し込んだりしてた。
後半らへんの憔悴しきった顔とか見ていられなくて動画閉じた。
トラウマになってしまって、観なければよかったと後悔している。
怖すぎだろ。
人のやることじゃねえよ。
田都の回送電車を免許を持たないひとがうごかしていることが話題になっていますが、
伝統的に操車場はそういったルール違反が横行する場所のようです。
機関車から切り離された車両を誰も乗らない状態で蛇行で走行させていたのです。これを「突放」といいます。
『機関車から突放された貨車は、その時点では「運転」を伴う行為とは見なされないため、運転免許(動力車操縦者免許)は不要』などと鉄道会社が手前勝手に独自ルールを決めて問答無用な行為をしていました。
貨車は惰性で移動している状態で動力を持たないため免許不要といいますが、貨車は数十キロで走行しており大変危険な状態です。いちおうは安全管理らしきものをしていたようではあります。
突放された貨車は無人ですが、その動きを管理するために、主に以下の作業と係員が関与します。
惰性で走行している貨車を停止させるために係員が走って追いかけ、貨車に飛び乗った係員が手ブレーキなどの操作を行います。この係員は「手制動員」や「制動掛(せいどうがかり)」などと呼ばれますが、当然のように事故が起きていました。
操車係(そうしゃがかり)や入換掛(いれかえがかり)などの係員が、旗や合図灯、無線などを使って入換機関車の運転士に指示を出すほか、ポイント(分岐器)を切り替えて、貨車を目的の線路(仕訳線)へ誘導します。
蛇行で進む貨車の位置をみながらポイントを操作するのでタイミングを誤ると脱線します。
消費する人の数だけ嗜好も指向もあって主体はする側にあるのに何でその被害性を対象のキャラ造形や描写で定義するのかどう理屈が通ってるのかわからない
それって性的興奮の責任を被害側に見出す蔑視的な視点での痴漢自衛論みたいなのと変わらないし本来は消費する側の主観的で自己完結的でしかないはずの行為に搾取としての能動的加害性を指摘するのは消費される対象への支配的強制力を併せて認めるものだしそれって言わば性的消費のエンパワーメントだし被害性を論うための相対的根拠として効果狙って用いられてるの普通に意味わかんないなって思う
男性の裸体表現が女性に向けた消費物であったとしてもある種のナルシシズムで受け取られるように本来公平には性的魅力は本人の自己愛の発露、生物的造形美としての意味性があって然るべきなのに消費被害の論において女性のそれは問答無用で男性のための性的消費物として扱われてるの本質的な女性差別蔑視的価値観の喧伝刷り込みでしかないからやめて欲しいなとも思う
所謂ノイズもそうやって消費する人達の好き"そうな"描写表現自体を加害性パッケージで定義したものであくまで被害を叫ぶ側のバイアスかかった漠然とした基準でしかないし
胸の揺れや女性的曲線美、クネクネしてるとかそれ自体は結局女性性を示す一表現もしくは性的魅力を伴うもの以上でも以下でもないのにそうやって「ノイズ」の定義に恣意的な個人のハードルでブチ込んで加害性をタグ付マーキングして流れ作業的にジャッジしてるのが最近の「フェミニズム」の傾向で、踝出してたら性的って時代から今変化してるみたいに性的忌避性はそのまま性的定義に繋がってて性的定義からの解放は対象の忌避性を意識させないまで日常化する事でしか得られないのに今やってる事と言えば真逆で女性の社会における性的受容性の観念的制限増と実を伴わない嫌悪感の生産なの地獄だなと思う
是非は別としても媒体によるターゲット層の違いなんかでゾーニングとしての表現変更はマーケティングとして真っ当だけど性的消費でノイズだから、は主観と客観区別つかなくなってるんだろうなって
消費物として用意された女性の描写が加害性を伴うって論についてもそれは元来のフェミニズムにおける性の消費問題であくまで男性への消費性に対して相対差による役割上のバイアス形成を前提にした「女性の性」を消費するから害なのでなく「女性」を性を消費するための存在として属性付ける観念傾向を害としたもので前時代の欧米の抗議性は相対バランス是正としてのアファーマティブアクションによるものだし欧米の場合は更にそこに宗教ラインの女性の性的魅力欲求を男性のためのものとした原理的観念がベースにあって女性性や女性の性=男性を性的に満たす役割って価値観そこからの脱却としてフェミニズム文脈での女性視点のセクシャルな表現解釈の自由獲得含めた性的解放に向かうわけで海外ではって言葉もよく聞くけど特にアメリカはコミックコードで元々開放的な表現を規制した結果女性の作家と読者が減って育たず男性に大きく偏った上での性的表現/男性に向けたマクロにおける相対的視点での性的表現性是正で女性作家の性的表現、女性向けの性的供給が男性向けに対して映像メディア含め欧米で進歩的に扱われて許容されるのもLGBTQ作品然りその偏りがまだまだ前提にあるからで、二次元表現における男女平等公平性、女性の性的能動性や創作における受容度からして進歩的な日本の状況でフェミニズム男女同権を謳って女性の性的な表現自体を厭うのはゾーニング論にしかなり得ず性的忌避的価値基準はそのまま双方へ働くわけでだからBLはどうだショタはどうだ女性向けのピンナップはって話になってしまう
保守的主張として性的に絶対的基準をって話ならまだしもそのゾーニングを個人的な快不快でフレキシブルに運用できると思ってるのは単純に考えなしで自分で首絞めてゲロ吐き散らかしてるみたいで迷惑だからやめてほしいと思う