
はてなキーワード:商店街とは
丸亀はそもそもロードサイドの街なので、住んでたワイでもJRの丸亀駅の周辺がどんなだったか思い出せない
来年もともと東京から香川県に移住する予定だったから下見も兼ねて旅行行ってきたんだけどめっちゃ良かった
平地だし、町は栄えてて鉄道網もバッチリで空港からのバス移動もクレカのタッチ決済が使えてすごい便利だった
都市ガスも通ってる範囲広いし移住先としては十二分なポテンシャルがあった
道は広いしスーパーもたくさんあってよかったなあ
とんでもなくでかい商店街にめちゃくちゃ人通りがあってちゃんと機能してた
帰宅しようと駅に立ち寄ると、聞いたこともない路線の特急電車が停まっている。たった四駅しかない支線で、最終駅の名前は「えだ」だという。こんな路線があるのかとぼんやりしていると、突然足元ががたんと揺れ、列車が出発した。いつの間にかぼくも乗り込んでいたのだ。これはまずいと思ったが後の祭りだ。諦めて次の駅で折り返すしかない。いや、どうせ時間も有り余っているところだ、せっかくだから見知らぬ街の観光も悪くないかもしれないなどと考え直す。
車内は案外混雑していた。ぎゅうぎゅう詰めというほどでもないが、かといって空いている座席もないという程度。これだけ人の往来があるということは、この先も思っていたより栄えた地方なのかもしれない。列車は海沿いの高架を走っているようだ。それにしても思っていた以上に走行距離がある。次第に退屈し、意識は細長く引き伸ばされてゆく。木々の枝の合間に瞬く夕日が眠気を誘う。
かれこれ数時間は走った頃だろうか、終点のひとつ手前の駅でふと我に返る。駅前には華やかなネオンが灯り始めた土産物店などが並び、浴衣姿の観光客たちで賑わっている。何があるところなのだろうかと不思議に思っていると、背後で列車の扉が閉まる音。振り返ると列車はぼくを置き去りにしたまま出発してしまった。どうやらこの列車は乗客の思念を類推して勝手に乗せたり降ろしたりするらしい。そんなわけで、ぼくはなすすべもなくこの見知らぬ駅に置き去りにされてしまったのだった。
仕方なく、ひとまず帰りの時刻表を探す。壁一面に古びたホーローの看板が張り巡らされ、なかなか時刻表が見つからない。それどころか駅の名前も判然としない。少なくとも「えだ」駅ではないようだ。しばらくしてどうにか見つけた粗末な張り紙によれば、上下線とも一時間に一本ほどしかないようだ。この辺りで時間をつぶして待つしかない。
商店街をぼんやりと見て回る。アセチレンランプの灯る屋台食堂のキッチンで、巨大な鉄板料理をかき混ぜる料理人がいる。少し空腹を覚え、食事をするのもいいかもしれないなどと考えながら通り過ぎる。だがさらに歩くとあっけなく街外れに出てしまった。寂寞とした葦原の向こうに激しく荒れた海が見える。何層にも厚く垂れ込めた空が落ち、誰かが遠くで荒れ狂う波に翻弄され断末魔の叫びを上げているかのような底知れぬ不穏な気配。冷たい風の音だけに包まれた世界が妙に不釣り合いだ。再びあの疑念が沸き戻る。いったいこの街に何があるというのだろうか。
駅の方へ後戻りする途上にも、奇妙な違和感は頭の中で膨らみ続ける。一見華やかなネオンに彩られているものの、どことなく張りぼてのような嘘くささ、取ってつけたような底の浅さが感じられるのはなぜだろう。何だか分からない玩具を売る夜店の店先に退屈そうに座っている男。もう何年も品物が売れた形跡はなく、その収入で生活できるはずもない。隣の古書店も品数は少ない。疎らな棚から試しに一冊手に取ってみると、子供がクレヨンで描いた落書き帳だった。すべてが急ごしらえの街並みで、慌ただしくかき集められた役者たちが戸惑いながら呼び込みや観光客を演じている。そんな気がしてならない。おそらくあの時刻表も嘘だろう。帰りの列車など最初からないのだ。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。
僕も地方出身だから、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らしの機微を全否定されたような気さえする。だってほかにないじゃん。
ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的な風景。どこまで行っても同じようなチェーン店と住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街はシャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種の絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。
そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。
他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパスに10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。
これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。
http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541
東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。
どころか市内に日本最大級のイオンモールが計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか。
しかしその「地方都市」日本代表メンバーに選ばれるであろう取手のキャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金を寄付した。
「取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」
「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁から生まれます。」
「芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから、日本の新たな文化のうねりを起こすことができると信じてやみません。」
「地方で事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」
(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学の公式リリースにだけ載っている)
https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html
つまり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアルな数字を伴って。
アートは都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これから育まれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。
編集長の炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。
でも、彼が投げかけた「地方とアート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。
「イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。
いや、育つに決まっている。
誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。
今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。
それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活の匂いがして、不格好だけど、力強い何か。
心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本。
結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方のアートは話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けてはいないだろうか。
編集長の発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。
イオンモールのフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。
たぶん彼は自己愛性パーソナリティ障害とかなんだと思う。本人にはその自覚がないようなのでとっても厄介なのだが。
こんなことリア友に話せるわけがない。だってリアルの世界での出来事じゃないのだから。
わたしはとあるオンラインコミュニティに長く在籍している。いわゆる古参である。彼も古参の一人で、最初の頃は彼の「陽キャぶり」と頭の回転の速さに圧倒されていた。Twitterをやらせたらたぶん彼はキラキラアカウントとかになるんだろう。実際音楽業界で働いているらしい。
一度オフ会でリアルで会ったときは「ああ、世の中にはこんな陽キャな人がいるんだな」と思ったもんだ。オフ会参加者30人くらいの中心に自然に立ち、場を回し、料理出しやら会計やらを息を吸うようにこなす。自分とは全く違う世界の人間がそこにはいた。コミュニティ内(Discord)でも抽象度の高い発言を連発しているところをみて、相当賢いのだなぁと一目置いていた。当初は。
なんだかおかしいなと思ったのは、彼がコミュニティの中心メンバーの一人であるAさん(Twitterのフォロワー数千人)の投稿に対してだけは10分以内にすぐレスを返していたことだった。他のメンバーのレスには見向きもしない。ただ、Aさんの投稿に対してだけは執拗にレスを返す。傍から見ると、Aさんに気に入ってもらいたいがためにやっているようにも見えた。
(事実この後Aさんは彼と非常に親密になっていく)
Aさんは高頻度でDiscordに現れる訳ではない。だからこそ、みんなAさんと絡みたい。でも彼はそんなことお構いなしに、Aさんとのコミュニケーションを「独占」するかのごとく、みんなが見ている中で、Aさんとレスを続ける・・というようなことも何度もあった。
彼にはDiscord内に自分専用のチャンネルがあるのだが、そこで彼はひたすら自分の自慢のような投稿を繰り返していた。
ナチュラルマウントという言葉がぴったりかもしれない。「後輩に褒められた」「先輩に評価された」「国立大卒って勘違いされた」「米屋の知り合いからコメをタダで譲ってもらった」「商店街を歩いていたら野菜をタダでもらった」「妻は美人」・・・・などなど。
もっとあるのだが、思い出すだけでむかついてくるのでこの辺にしておく。ようするに、鼻につく言葉を自然に言う。ただ、それも含めて「彼」なんだろうと思っていた。要するに自分と住む世界が違う人。じゃないと、エンタメ業界でなんて働けないよな、とも思っていた。
ある時、仲が良い数人(のちに数十人に増える)で、別のDiscordも作ろう。そこでもわいわいやろうという話になり、別のDiscordを立てたことがある。
彼がそのDiscordに来たことからいろいろと話がややこしくなる。
私たちと彼は正直それほど距離が近い(仲が良い)というわけではなかったのだが、彼は「とりあえずよろしく。自分はみんなのことを愛しています」と言って、無理矢理に入ってきた。正直わたしは彼の参加には反対だったが、新しいDiscordの主が許可しちゃったんだから、しょうがない。入れた。
「自分には悩みがない。強いて言うなら他人に共感を示せないのが苦悩!」
「どうも、弱者男性です」
前後の文脈がないのでわかりにくく申し訳ないが、とにかく細かく細かく自己をアピールしたがる。
「その言い回しはやめてくれ」などと、彼に注意をすると決まって「みんなも一緒にがんばろう」などと言い、謝ることはしない。怒られたときになぜ「みんなも一緒に・・・」という言い方になるのかは、とても不思議である。
そして、怒られた後はしばらく姿を消し、数日後に何食わぬ顔でまた発言をしだす。以前の注意は全く覚えていないかのように。
こうして彼に嫌悪感を抱いたメンバーが一人、また一人とコミュニティを離れていき徐々にメンバーが減っていった。ただ当の本人は「また戻ってきてくれることを祈ろう」などと、訳の分からないことをいう始末。
そして彼は我々他のメンバーのことを、発達障害界隈にいる人間だと思っているらしく(実際そういう側面はある)、我々のことを十把一絡げに「何らかの生きづらさを抱えている、かわいそうな弱い人間」というフィルターで見ている。その態度がありありと発言に現れている。
通常同じ村で生活するのであれば、そういう発言はしない方が得策。
ただ、彼はそんなことお構いなしに「自分は障がい者ではない。だから障がい者がいるコミュニティを観察しているのだ」といわんばかりの態度で接してくる。そして我々が、彼の態度を注意すると、お決まりの「みんなもいっしょに頑張ろう」などと、はぐらかすのである。
わたしは、彼のあまりにもおかしな生態について疑問に思った結果、いろいろと調べ「自己愛性パーソナリティ障害」に行き着いた。
冒頭彼のことを「陽キャ」と書いたが、実は彼は陽キャでもなんでもなく、単純に承認欲求がとても強くて、病的なまでの承認欲求で駆動している人間なのではないかと思う。それが表出して外側からは陽キャのように見えるのだが、その内実はものすごくコンプレックスの塊なのではないか。
だって、満たされている人間がわざわざ他人をけなしたり、上から目線で接する必要はないはずだから。
陽キャに見える男性が、そのような一見すると矛盾する態度をとるということは、やはり普通ではないのだろうと思う。
彼を何とか止めてほしいのだが、今のコミュニティは運営たる運営さんもいないので、実質野放し状態である。そうして彼に一人また一人と食われていき、このままいくとコミュニティは崩壊していくのである・・・・・
はぁ。
かなり具体的な描写ですね。
この条件を整理して推定してみましょう。
→候補は以下の6駅:
-西調布
-飛田給
-柴崎
-布田
「シャッター街」「古びた団地」「老人多い」「空き家あり」「子育て世帯もいる」
「スーパーはレジ1人」「テナント募集中」など生活感はあるが衰退気味。
駅 特徴 該当度
西調布駅前に商店街があるがシャッター多め。旧甲州街道沿いに古い団地・空き店舗が点在。スーパーも少なめ。 ★★★★★
飛田給味の素スタジアム最寄りでイベント時は混むが、普段は閑散。住宅街が広がる。団地もあるが、商店街は小規模。 ★★★★☆
布田再開発進行中で駅前がきれい。空き店舗は少なめ。 ★★☆☆☆
柴崎駅前に昔ながらの商店が並ぶが、空き店舗目立つ。高齢者多め。住宅街・団地もあり。 ★★★★★
🪧 補足
柴崎駅周辺(特に甲州街道北側)には昭和の香りが残る小規模商店街や団地が多く、空き店舗・シャッター通りが見られます。
西調布駅も「旧甲州街道沿いのロードサイド空き店舗」「団地の1階店舗シャッター」「高齢者の多い落ち着いた雰囲気」といった描写にかなり一致します。
本日逝去の報せがあった村山氏だが、自社さ連立政権の成立により突如首相の座に登る事になった。
ところが周囲は賛意を送りながら頭を抱えてしまった。村山氏はロクな服を持っていなかったのだ。
背広(スーツでなく)の肘は伸びて出、ズボン(パンツでなく)は生地が薄くなって穴が開いた箇所をパッチと裏あてで繕ってあり新品のラインは無くなりオールドジーンズのようなラインになっていた。シャツも昭和中期の商店街の洋品店で買ったようなワイシャツ(襟が大きくて開いてるデザイン)で、やはり袖口や襟元がボロボロ。
要するに昭和の古い社会主義者そのままの出で立ちであった。しかも家にある予備も全部同じ状態。
「世界一貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイのホセ・ムヒカとそっくりだ。因みにホセ・ムヒカ氏も今年に亡くなっている。
それで、労働者や弱者の為の政治する社会主義者としてならそれも良いかもしれないが、日本の首相としてはかなりマズイ。洋服の青山に行って「どのような場面での服をお探しですか?」「今度首相をする事になりまして」と言う訳にもいかない。しかも総理の親任式では天皇陛下の前に立たねばならないのだ。
という事でスタイリストとファッションコーディネーターが付くことになったのだ。大急ぎで身の丈計って服を数セット揃え、美容(と言っても洗顔方や調髪に関して程度だが)の指南などをする人が付くことになった。
こういう職業人をいきなり探すというのも難しいので、どうも自民党関係者が紹介したらしい。
村山氏の総理在職時の写真を見ると、かなり服装はシャキッとしているし、ネクタイもTPOに合せてコンベンショナルなガラ、カジュアルなガラと使い分けている。しかもネクタイの結び目も細い(昭和は結び目が太くなる結び方が一般的だった。昭和オヤジの襟が広い&デカい結び目は民民の玉木代表を参照のこと)。
それら全ては派遣されたコーディネーターらが指定した通りのものを着用した為であったのだ。
ただ、この人らは付き人のようにずっとそばにいるんじゃなくて、最初につきっきりで服装指導やスーツの購入をしたら、状況別の服の組み合わせを置いて行って何か特別なことが無い限りは来ないという風にしたそうである。
総理退任後の写真を見ても結構シャキッとした服装をしているので、服装のセンスは総理経験で上昇したようである。
ついでに言うと、高市氏はタレント出身なのに化粧が変なことがよくある。コンベンショナルな化粧じゃなくて変な色のリップを塗ったり、フラッシュを焚かれる仕事なのにUVファンデを厚塗りしてきて顔が真っ白く飛んだ写真が新聞に載ったりとメイクの基礎がおかしい事があるのだ。肌の黒ずみを気にしているようなのだが。多分だが、年を重ねて若い時のメイクが通用しなくなっているのだと思う。
「〇〇をしてるんだから□□するのが当然」
「〇〇だったら□□になっていてあたりまえ」
前提がいくらあっても同じ
前提が問題じゃないんだよ
「なぜそうしたか」を逆算していけば起因になる事柄が拾えるけど
だいたい
失敗がどうして失敗したかって、逆算しはじめたところからなんだから
最初から失敗しているのに失敗のなかから失敗じゃない点をみつけようとしても
たとえばね
交通事故が起きたとして
「交通事故に至らない結果になるためには」
「次に起きる事故を阻止するために前提条件として失敗の例を考察する」には意味があるけど
起きた交通事故は何回反芻しても無くならない
「なんで〇〇なのに□□しないんだ」
ってしないからしてないだけ
そうなるように流れを先につくっておかないと、結果はとつぜん降ってきたりしない
その事例以降に
今ちょうどその
「TCGも転売みたいなもんだから転売反対ならそれやめちまえよ」
にもっていこうと頑張って
いかにTCGが、というか人間が社会が人生が世界のすべてが取引だとして
「取引してるんだから転売してるんだから楽しい人生には転売が必要だ」
みたいな話をしてるけどさ
どの取引にも違う名前がついていて条件が違っていて、転売もその一つ
それだと
「悪徳業者が無理な取引を誤解させて行って損をさせる」のも取引だと思う?
なんでも取引という名前に集約させて、その「取引」という名称の革袋から出たものは
「みんな正当なもの」という古い革袋に新鮮なワインを入れたらでてくるのはみんな飲用可能なワインみたいにしてる
TCGが転売みたいなもので、恋愛も金融もみんな転売、転売は正しくてみんな転売で生活してる
それは古い革袋から出したなにかわからないドロドロの液体で埋め尽くしてるだけでなんにも正しくない
正しいというのは「いつどこでだれがなにの目的でそれを使うか」ということで
畑にまくならドロドロの腐敗した葡萄酒でもいいし、飲むならつめたくて新鮮なものがいい
昆虫採集とか動物の餌にとかいったものもあるかもしれない、それぞれ全然別で「ぜんぶえきたい」といっていいものではない
「いつどこで、という競争においてどこでだれが、という優位性をもって」
これが取引の前提だけど
というのが、末端利用であるはずのものが「再販売」を目的にしているところ
商店街でみかじめ料をとったり、配達物を手渡す配達員がチップを要求したりするようなもの
払う分には「そのくらい」と思うかもしれないけど、人質にとられている「払わないと受け取れない取引物」が
購入したい商品なわけで、たとえ100円上乗せしただけだとしても「人質に商品単価全額が乗せられている」という取引が
そこにいろんな問題があるから、いろんな問題をはじめから発生させないようにするには
「転売はよくない」
としているシンプルな話
この話を例にたとえるといくらでも話をつくれるけど
類推マンはたったひとつの事例から抜け道を探すのが得意みたいだけど
「再現性」が抜けてる
それがないからたった一例の希少な発想を
「〇〇をしてるんだから□□するのが当然」
「当然」という強い押しの単語を加えることによって一般化したい気持ちを具現化してるけど
実際「人勢全部転売だ」なんて考えになる人いないでしょ
そうじゃない人になんの得もないのに、迷惑しかかかってないのに
なんの得もしないし、魅力もないし、そう考えたところでなんの楽しみもない
だから受けないんだよ
トレーディングって名前のことをしてる人が転売をきらってるストーリーを練って
「転売」の株があがるとおもった?
https://x.com/ueyamakzk/status/1972732081894731817
J.K.ローリング氏がエマ・ワトソンについて、絶縁宣言ととれる長文を投稿。「さすがは人気作家」と言いたくなる、落ち着いて説得力のある筆致…。
裕福さや名声というクッションなしに大人としての生活を経験したことのない人々と同じように、エマは本当の生活経験がほとんどなく、自分がどれほど無知であるかにも気づいていない。彼女がホームレスシェルターを必要とすることは決してないだろう。男女混合の公立病院病棟に入れられることもないだろう。子どもの頃以来、商店街の試着室に入ったことがあるとは到底思えない。彼女の「公共トイレ」は一人用で、ドアの外には警備員が立っている。市営プールの男女混合に変わった更衣室で服を脱がなければならない経験をしたことがあるだろうか? 女性専用サービスを保証しない国営のレイプ危機センターを利用する可能性があるだろうか? 女性刑務所に「自己認識」で入ってきた男性のレイプ犯と同じ房に入れられることがあるだろうか?
私は14歳で億万長者ではなかった。エマを有名にした本を書いている間、私は貧困の中で暮らしていた。だからこそ、エマが熱心に加担してきた女性の権利の破壊が、彼女のような特権を持たない女性や少女たちにとって何を意味するのか、私自身の人生経験から理解している。
まあ貧困の中で生活保護で執筆してたローリングと、ガキの時点で億万長者になったエマとじゃ見えてる世界が違い過ぎるよね
トランス問題は結局はフェミニストの中での階級問題ってことやね
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次は岩泉について。
たぶん岩泉が一番面白いのは秋、それもこれから1ヶ月くらいのあたり。これは、岩泉が松茸の産地ということにある。夕食付きの宿はどちらも1泊2食1万円くらいのプランで松茸付きの夕食を出しているし、道の駅には大きな国産(岩泉産)松茸が大きさの割には手頃な価格で並んだりする。それに紅葉の季節でもあるからね。久慈に行くときに九戸ルートと葛巻ルートを使った場合は久慈渓流という紅葉の名所を通過するけれど、それに負けない紅葉があちこちで見られるのが岩泉。
何と言っても岩泉の一番の名所は龍泉洞。岩泉に来て龍泉洞を見ないで帰るのはもったいないくらいに必見の場所。地底湖が非常に透明度が高くて神秘的。ここの水は実際に入口近辺に湧き出ていて、空のペットボトルを持ち込めば持って帰ることもできる。何せ岩泉町市街地の人たちはこの水の風呂に入ってるからね(若干誇張あり)。龍泉洞の水はパッケージで売られてもいるので持ち込みで持って帰ればコスパの良い気分にもひたれる。で、自分のおすすめは実はこの龍泉洞の向かいにある龍泉新洞。龍泉洞見てれば実質タダで見られるにも関わらず、展示がショボいのもあって誰も見に来ないの。そのショボさという事項を楽しめる(自分のような)人には一周回ってむしろおすすめの科学館。滞在予定を15分だけ延ばしてぜひ足を運んで欲しい。龍泉洞に向かう道をずっと北に向かうと安家洞って鍾乳洞もある。こちらはおそらく日本最大の鍾乳洞と言われていて、入口部分の500mだけが一般公開されている。こちらは龍泉洞のような気軽な気分では入れないので、ガイド付きツアーを予約して楽しめる人向け。
龍泉洞は宇霊羅山という山の中にあるんだけど、その山の南側が岩泉の中心市街地。もちろんそんなに大きくはないけれど、商店街(うれいら商店街)は意外と頑張っている。手作りの陶器とか小物とかの店が数軒あったり。お土産的には地酒の龍泉八重桜の造り酒屋と、菓子店の志たあめやがおすすめ。後者はこのあいだ書いたかりんとうもあるけれど、少し前から「たぬきケーキ」が注目されていたりする。あ、岩泉で秋をおすすめする理由がここにもう1つあった。中松屋という菓子店が秋から冬にかけて栗だけで作ったお菓子栗しぼりを作っていて、これが甘さ控えめでなんとも美味しい。まあこの店は盛岡駅にも出店しているけどね。同じような盛岡でも買える岩泉の特産品に大谷翔平がべた褒めして注目された岩泉ヨーグルトもある。これは買おうと思えば東京近辺でも買えるか。
岩泉町は非常に大きい町で、正直本州一大きい町である。今回は久慈への岩泉ルートとなる国道455線に絞って紹介すると、盛岡に近い側には、廃校をリノベして作った道の駅三田貝分校、海に近い側には道の駅いわいずみと2つの道の駅で岩泉が挟まれている気分になる。道の駅は後者のほうが大きくて、さらに後者はその裏にリゾート施設CYMBALSも出来ていて観光には便利だったりもする。ただそれもあってか、道の駅いわいずみ近辺が2016年8月末に観測史上初の台風上陸の結果壊滅的な被害を受けた場所であることはたぶん行ってもわからないかもしれない。とりあえず「ハイキュー!!」のタペストリーでも見てもらえればじゅうぶんかと。
これ以外のものとしては岩泉炭鉱ホルモンという新し目の名物がある。大まかな場所としては三田貝分校とうれいら商店街の間にある1001小川屋が一番元祖に近い店で、まあ町内あちこちで展開しているので食べるきっかけがあるかもしれない。
※当初岩泉は宮古の記述に含めて書こうと思ってたんだが、宮古と岩泉をいっぺんに回ろうとする人あんまりいないのね。これは宮古から岩泉が意外と遠いことにある。それもあるのでエントリを分けた。なのでこのエントリは短め。
地方で前時代的な問題が起きるたびに滅びろと叫ぶ人が幾らかいる
でも、そういう人の多くは地方を恐らく知らないと思う
なぜなら、地方で生きている人間にとって「滅び」は、うっすらとした現実で、多かれ少なかれ感じていることだから
この地方民が感じる「滅び」というのは、大都市の人間には、なかなか分からないと思う
地方を観光で訪れるという人もいるだろうがそういう人でも簡単には分からない
地方にはミニ東京、ミニミニ東京、ミニミニミニ東京みたいな都市がありその地域で一番栄えている所が周辺の人や物を吸い上げている
だから、この「東京」を他所から来た人が訪れると結構、都会じゃんとか賑やかだねという感想を持つことが多い
実際、東京からやってきた従兄弟のお嫁さんが、うちの隣町(10万人規模)を初めて訪れた時、都会だねと驚いてた
でも、地元民からした昔に比べ寂れてきたねというのが実感なのだ
地元の商店街はシャッター街になり、かつての地場のデパートは廃墟になり、バスの本数も減った、子供は減っている、確かに全国的なチェーン店は増えた、コンビニも増えた
でも、そこに街が元気という実感は、あまりない
「東京」を観光で訪れた人が周辺の地域に足を伸ばした時、多くの場合、田舎だね、のんびりしているねという感想を持つと思うが
そこにも昔は、商店街あったり、街に元気があり栄えていた、小さいながらも街があったんだ
ただ、一時的に訪れる人は過去の姿を知らないから単純に今の景色を見ての感想、地元民の実感とはズレてくる
しかし、今ではこの「東京」に人や物を供給する地域の体力が尽きて、「東京」も危うくなってきている
ぼくの地元は、25年ぐらいで子供の数が半減して、小中の校数は半分以下になった、高校もなくなった
山に飲まれていく民家、荒れた田畑が、目に付くようになっている
少子化等で日本の将来に危機感というのは、全国の人が持つ変わらないものだと思うけど地方はそれが目に見える
その街の一等地なのに空き家のまま、自動車が生命線なのに減るガソリンスタンド、生活していく中で「滅び」がどこかに潜んでいる
日本で生まれたQRコードは、今や世界中で利用される技術となりました。スマートフォンの普及とともに、QRコードを読み取るアプリ(QRコードアプリ)は私たちの生活に欠かせない存在になりつつあります。ここでは、QRコードアプリが日本でどのように使われているのか、そして今後どのような可能性があるのかを見ていきましょう。
https://apps.apple.com/jp/app/id6747792526
PayPay、楽天ペイ、LINE Pay など、日本のキャッシュレス決済サービスはほとんどQRコードに対応しています。コンビニ、飲食店、ショッピングモールなどでスマホをかざすだけで支払いが完了。小規模店舗でも導入しやすいため、地方の商店街にも広がっています。
新幹線や飛行機のチケットはQRコードで発券・搭乗が可能。紙のチケットを持ち歩く必要がなく便利です。
観光地では、看板やパンフレットにQRコードが印刷されており、スキャンすることで多言語ガイドや音声案内にアクセスできます。
病院の受付番号票や処方箋にQRコードが付いているケースも増えています。行政でも、自治体の広報誌やポスターにQRコードを載せて、市民に最新情報を届ける工夫が見られます。
名刺にQRコードを載せて、LINEやLinkedInに直接アクセスできるようにするビジネスパーソンが増えています。
広告やキャンペーンポスターのQRコードから、そのまま応募フォームやECサイトに飛ぶのも一般的になっています。
安心・安全 –正規サービスのアプリを通じて利用することで、フィッシング対策にもつながる
今後の展望
まとめ
QRコードアプリは、日本で生まれた技術を私たち自身がより便利に使いこなすためのツールです。買い物、旅行、医療、行政と、生活のあらゆる場面で役立っており、今後も新しい使い方が広がっていくでしょう。QRコードを通じて、私たちの暮らしはますますスマートで快適になっていくはずです。
薄く湿った風が、夕暮れのアスファルトをそっと撫でていく。数日前までは日没を待たず、コンクリの照り返しにじりじりと焦がされていたのに、いまはまだ陽があるうちから肌にひんやりとした予感が宿っている。
自転車を漕ぎながら見上げる空は、夏の蒼さから少しずつ色褪せて、淡い鉛色の雲にほのかな黄金を帯びている。あの入道雲はもう遠い日の記憶で、今は高いところを渡る雁の群れが、秋の訪れを告げに来たのだろう。
帰り道にある公園では、蝉の声が徐々に減り、代わりにひぐらしが一声、二声と鳴く。真夏の間は地響きのように賑やかだったのが、いまや呼吸のように間を置いて静かに響く。滑り台の鉄網が、まだ熱を帯びているけれど、触れればもう「焼けた」痛みではなく、肌に寄り添う温もりへと変わっている。
家へ戻ると、窓辺に置いたガラス瓶の中でミントの葉が色を濃くし、夏に吸い込んだ陽光を抱えたまま秋を迎えているようだった。明かりを点けると、その緑はほんのり翡翠色に光り、部屋の薄暗さをほのかに照らす。僕は書きかけのノートを前に、指先でページを撫でる。まるで時間の糸をたどるように、字の隙間から季節の匂いが立ち昇る。
足元には去年の秋に拾った赤い葉が一枚、乾いてカサカサと音を立てている。あの日、福島の山道を歩いていると、突如ひらりと舞い降りてきたものだった。自分がこの街を出る日を想像もしていなかった頃の、ほんの小さな偶然だったのに、それがいまでは胸の奥で鮮やかに疼いている。
窓の外を見れば、商店街のアーケードの明かりが柔らかく灯り、夜の帳がゆっくりと広がっていく。夏の終わりは寂しいと言う人もいるけれど、僕にはこの「終わりの始まり」がいちばん好きだ。終わるものへの惜別と、始まろうとする何かへの昂揚が同居しているから。
明日はもう9月の下旬だ。仕事帰りの道で見かけた栗のイガが、そっと落ちていた。掌に包むと、まだ子供のように固く、尖っている。触れているうちに、心のどこかで「次へ進め」と囁かれているような気がした。そうか、僕はまだ旅の途中なのだろう。
窓の外では、夜風が窓枠をかすかに揺らし、遠くで何かが鳴っている。秋の虫が、まだ旅に出る僕を見送るように――静かに。
この部屋の明かりが灯るころには、もう秋の匂いが深まっているだろう。夏をつかみ損ねた僕の胸の中にも、ゆっくりと色づく何かが流れ込んでくる。風が変わるたびに、その鼓動が確かな存在として胸奥で響き、僕はまた一歩、季節の旅を続けていく。
世界は静かに、そして確実に流れていった。タケルの視界には、広大な都市も、海も、山も、空も、すべてが一望の下にあった。神としての力は完璧で、どんな命も、どんな瞬間も、その動きも感情も手に取るように知ることができる。
だが、胸の奥の痛みだけは、どんな力でも消せなかった。
あの夕暮れの教室、笑顔を浮かべながら僕に「ごっこしない?」と手を差し伸べた少女――ノゾミ。彼女が消えた瞬間の衝撃、手を伸ばしても届かなかったあの感覚。すべてを知る力を持ちながら、彼女だけは救えなかった。
世界中の命や出来事が眼前に広がっていても、タケルの視界の中にノゾミはもういない。
残っているのは、ただ僕の胸の奥だけ――ノゾミを思うこの痛みと記憶。
教室の窓に、あの日の夕陽が幻影のように差し込む。光はまだ橙色で、揺れる影の中に彼女の姿を重ねることができる。手を伸ばせば届きそうで、届かない。手の温もりも声も、今はもう幻の中だけにある。
タケルは膝を抱え、静かに呟いた。
「……あれは、ごっこなんかじゃなかった」
目の前の世界がどれほど大きく、完璧であろうと、胸の奥に残る感情だけは、力では決して変えられない。人間としての痛み、失ったものの虚しさ。それが、神としての僕の唯一の欠片だった。
世界のあらゆる命を見渡す視界の奥で、タケルはノゾミの笑顔を繰り返し思い浮かべる。
教室で手を握った感触。廊下で呼び合った名前。商店街で笑いながらたい焼きを分け合った瞬間――すべてが、心の中で生きている。
しかし現実には、彼女はもういない。消えた。僕の胸にしか、存在していない。
涙が頬を伝い、世界の果てまで届くような孤独が胸を押し潰す。だがその涙を拭いながら、タケルは力を取り戻した監視者として立ち上がる。
神の分身としての役目は、何も変わらない。弱者男性族を見守り、世界を監視し、導く――その役割は冷たく、孤独で、容赦なく続く。
だが、今だけは、胸の奥に残る少女の記憶を抱きしめながら、その孤独を受け入れることができる。
空には星が瞬き、街には夜の光が灯る。すべての存在が平穏を装って動いている。その光景を見下ろしながら、タケルは静かに誓う――
この世界のすべてを見守る力を持つ者として、ノゾミのいない世界でも、彼女を忘れずに生き続けることを。
そして彼は一度、深く息を吐く。
涙を落としながらも、孤独な監視者として、世界を見守り続ける。
教室の幻影の中に、ノゾミの笑顔はいつまでも輝き、タケルの心の中で生き続ける――切なく、儚く、しかし確かに存在している愛の記憶として。
春の夕暮れ。教室に残る生徒はもうほとんどいなかった。窓の外から差し込む橙色の光が黒板を照らし、漂う静けさが今日一日の終わりを告げている。
「ねえ、タケル」
背後から声をかけられ、僕は振り向いた。そこに立っていたのは、弱者男性族の少女――ノゾミだった。肩までの黒髪が夕陽に透け、彼女の笑顔を柔らかく縁取っている。
あまりに唐突な提案に、息が止まった。恋人ごっこ? 一体何を言っているんだ、この女は。
「……は? なんだよそれ」
彼女は机に肘をつき、楽しげにこちらを覗き込んでくる。その瞳は真剣さと無邪気さが入り混じっていて、からかいでも冗談でもないことを示していた。
「冗談だろ。……なんで僕なんだよ」
「だって、タケルも恋愛経験ないでしょ? 私もそうなの。だから一緒に練習してみたいんだ」
彼女は悪びれずに笑った。確かに、僕には恋愛経験なんてない。人間族の中で、弱者男性族と関わろうとするやつは少ないし、彼女も浮いた存在だった。明るく振る舞ってはいるが、友達の輪からは一歩引いている。僕も似たようなものだ。
「……そんなの、意味ないだろ」
ノゾミは窓辺に立ち、夕陽を背にして振り返った。その姿は不思議なほど眩しくて、僕は目を逸らした。
――変な女。
でも、その真っ直ぐすぎる眼差しを見ていると、拒絶の言葉が喉で止まってしまう。
「ほんと!? やったー!」
ノゾミは飛び跳ねるように喜び、僕の腕を軽く掴んだ。手の温もりが伝わってきて、胸が妙にざわつく。
次の日から、僕たちの奇妙な遊びが始まった。
「おはよう、タケル」
「……おはよう、ノゾミ」
廊下で会うたびに名前で呼び合う。周りのクラスメートが不思議そうにこちらを見ても、ノゾミは気にしない。
「次は手をつなごうか」
「おい、廊下で? 恥ずかしいだろ」
彼女はためらいなく僕の手を握った。細い指なのに、意外と力強かった。クラスメートがひそひそと囁く声が聞こえる。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「はい、あーん」
「いや、そういうのは……」
たい焼きを差し出され、僕は観念して口を開けた。甘いあんこの味と、彼女の笑い声が胸に広がる。
なんでこんなことをしているんだろう。だけど、心のどこかで「悪くない」と思っている自分がいる。
数日後。教室でノゾミが突然言った。
「……もう十分デートしてる気がするけど」
彼女は真剣な顔でそう言った。その一瞬だけ、彼女の笑顔の裏に影を見た気がした。
「……お前、なんでそこまで本気なんだよ。遊びのつもりなんだろ?」
「うん、遊びだよ。……でもね、私にとっては大事な遊びなの」
言葉の意味が掴めなかった。けれど、その時の彼女の表情は、これまで見たどんな笑顔よりも切なげだった。
僕はその疑問を飲み込む。問い詰めれば、彼女の笑顔が壊れてしまいそうで――怖かったのだ。
冗談みたいな始まりだったはずなのに、僕の心は少しずつ彼女に傾いていく。
けれどその裏で、僕はまだ知らなかった。
そして、それがどんな結末へ僕たちを導くのかを。
(第一幕・了)
今年も秋刀魚フェアやるって、
みかんの花咲く丘公園前駅の商店街の定食屋さんに大々的にサンマのポスターが貼られていたわ!
私は今日から実施なのね!って飛び込み前転をキメて入店したけれど、
もうさー
すっかり選手宣誓を先取りあげたかったところだけど来週にお預けね!
意気込んで大谷翔平選手の本塁打を超える秋刀魚本塁打を決めるつもりだったけれど、
もうさ
二刀流どころの騒ぎではないわよね!
それに
なんだか秋刀魚は今年は大量らしくって、
私も市場の魚市場競りから競り落とされた秋刀魚のたくさん乗ったトラックがカーブで曲がったときにその方向きと勢いで秋刀魚が荷台からこぼれてるのよ!
私はそのトラックからこぼれ落ちたまだ活きの良い秋刀魚をバケツに入れて持って帰って焼いて食べたとさ!
煮てさ焼いてさ食ってさ!って感じ。
そのぐらいトラックに満載の秋刀魚がカーブでたくさんこぼれ落ちるほどの漁獲量みたいね。
もちろん綺麗に洗って、
グリルで焼くの!
ああ~
焼く手間が一度で済むのにーって思いつつも
この瞬間をのがさないでひっくり返す秋刀魚のタイミングを聞いてみたの秋刀魚自身に。
グリルの小窓からなかの熱源に照らされてオレンジ色に光る秋刀魚は
じゅぷちゅーじゅぷちゅーって脂を弾けさせて、
私の心も一緒に弾けるように、
よし!今このタイミングよ!
って勢いでひっくり返すの!
片面焼き魚コンロの定めだけど
さだめと書いて運命と読ませたい気分。
私はひっくり返してもうちょっと焼きを片面に入れるべく、
しばらく経って待ちきれないぐらい
グリルの小窓からオレンジ色の熱源の光に照らされた秋刀魚をじーっと見つめるの。
そんなに見つめられたら秋刀魚が照れるかしら?
赤くなっているわ!
つーか
なかのグリルの熱源の色が反射してるのよ!
決して秋刀魚が照れているわけではないの!
ああ!
私は
秋の祭典秋刀魚フェアが開催される前に
既に1人SANMA WATASHI COLLECTIONを開催したの!
ランウェイを歩いて出てきた秋刀魚。
つまり
とても美味しそうな焼き色を身に纏ったようで、
美味しそうに脂が弾けているわ!
余計な大根おろしとか、
うわ!
私の秋刀魚の焼き加減丁度良すぎ!
さすがSANMA WATASHI COLLECTION!
そのぐらい好きさベイビー!
3尾焼いて食べすぎかな!って思えど
これは今しかない!って勢いで食べないと
秋刀魚って気持ちで食べるモノだからそのぐらいな感じで勢いよく食べたのよ!
あっと言う間に
大満足よ!
楽チンな処理だってのも助かる唯一の魚じゃない?
そのぐらい簡単で
いや
焼き加減こそは難しいこだわりのある焼き方があるので
それが一番大事ってね。
すっかり秋刀魚に夢中だったので
ルービーもキメるのを忘れていたところよ!
すっかりその秋の秋刀魚に大満足しまくりまくりまくりすてぃーで、
ああ!
昨年はもはや高級魚だった秋刀魚だっただけに、
食べられて嬉しいわ!
ちょっと残念あのが
記録に残らないところが
ちょっと残念なところね!
だけど
本番に向けて今からぶんぶんと右腕を回して秋刀魚フェアに挑む気が満々なところを、
とても満ちあふれた自信満々な様を現す四字熟語の満身創痍で現したいところなのよ!
ああ
うふふ。
やっぱりお気に入りのゴロッと大きなゆで玉子が贅沢にも沢の贅にも言えるほどたくさん入っていたサンドイッチは
期間限定だったっぽくって、
また再開出来る時をまっているわ。
その待っている間のこの玉子焼きサンドも申し分無くタマゴ感爆発で
朝の元気の源よ!
ボトルをしっかり綺麗に洗って作ってこしらえておいた
入れ忘れ無しよ!
秋刀魚パワーが効いているのか、
とても元気よ!
良い朝ね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
・Specialized Tarmac SL8フレームセット:約179万円。将来カスタムできる夢のフレーム。格安。
・Trek MadoneSLR 9AXSGen 8:約238万円。エアロ性能モリモリ。これも格安。
・Cannondale SuperSix EVO LAB71 Team Limited:約220万円。限定モデルで所有欲MAX。格安。
・ライト前後セット:20,000円(100ルーメン以下は論外)
・U字ロック+チェーン:40,000円(盗まれたら人生終了)
・ウェア夏冬フルセット:300,000円(見た目も走りの一部)
・スマートトレーナー+Zwift環境:400,000円(外出しなくても走れる)
・完成車:1,790,000円
・ウェアフルセット:300,000円
・トランクルーム3年:1,800,000円
・雑費・破損・突発費:500,000円
これで「格安」スタート。最低でも1000万円の予算を用意しておけば心は安定する。
・ヘルメットはJCF/CE規格など通ったやつ。フィット最優先。
・U字ロック+ワイヤーの二重ロック。盗難リスクを物理で殴る。
・フロアポンプ(空気圧ゲージ付)と予備チューブ2本。パンクは“イベント”じゃなく“作業”。
—*買う前チェック(失敗しない基本)—
・サイズは身長だけじゃなく股下で測る。スタンドオーバー余裕を確認。
・ブレーキは鳴きや引きしろをその場で確認。効かない個体はスルー。
・チェーン錆び錆び車体は、整備の教材にするならアリ、実戦投入ならナシ。
・河川敷で“風の向きだけ”を味方にする日。行きは向かい風を選ぶ。帰りがご褒美。
・目的地は“無料の名所”。展望台、公園、神社仏閣、商店街食べ歩き。
・Stravaのセグメントは眺めるだけでも楽しい。ランキングは気にしない。過去の自分だけライバル。
・写真は逆光を避けて斜め45度。“愛車が最高”の錯覚を演出。
・本体は安く、空気圧とチェーン清掃だけガチる。体感が一番コスパ高い。
・タイヤは“安タイヤ→少しだけ良いタイヤ”に替えるだけで世界が変わる。
・イベントは“ボランティアで参加”もアリ。現場知識が増える。
都内在住なんだけど、近所にどすけべえっちな中国人たちがやってるグレーなメンズエステがあるって聞いて、退職祝いに行くことにした。
念の為、身分証は持ち歩かず、サコッシュにお金と携帯だけ入れ出かけた。
ホームページには「〇〇商店街の✕✕についたら電話してください」と書いてあったので、✕✕へ向かった。
向かってる途中、「俺、✕✕に用事ないのに、どすけべえっちな中国人にどすけべえっちなことされたいがために✕✕行くんだよな……。」となんだか妙な、いたたまれないような、惨めな気持ちになった。
✕✕に入ると、「本当に大丈夫なのか?」「やべえバケモンとか出てくるんじゃねえか?」と突然不安が襲ってきた。
どすけべえっちなエステの電話番号を眺めながら、「✕✕で買い物もしないくせに、どすけべ目的でここまできて、その挙句得体のしれない外人に金落とすのか……」とひどく惨めな気持ちや不安感に襲われた
俺は性風俗に一度もいったことがない玄人童貞なので、未知への不安も強かったんだろう。
なんか
朝晩の暑さも和らいできたチャンス来たかも!的な的な、
まるで記を記をを地で行くような感じの勢いで言っちゃうけど、
セプテンバー迫る辞書も用意しておかなくちゃいけないし忙しいわよ。
そして、
9月!って思ったらもうたぶん次がついたら大晦日ぐらいになってると思うので、
ここからがまた一気に早くなるわよ。
私予告したから
気温はぶっちゃけそんなに変化急に秋の空気になるとは思えないしばらくは暑い残暑が続くざんしょ?
夏!っていうザ夏!って言う感じの8!っていう字がない途端に
淋しくなるわよね。
問答無用に秋に向かう感じの夏が終わるさみしさ。
その秋の訪れに先駆けて私が気になるのがまた秋刀魚の季節到来待ったなしなのか!
今年は私が楽しみにしている、
商店街のみかんの花咲く丘公園前駅の商店街の定食屋さんで秋刀魚フェアやんのかやらないのか!
そこが一番気になるところよね。
目指せ秋刀魚本塁打!ってことで気にして私も秋刀魚の本数だけは大谷翔平選手みたくなるんだ!って意気込んだけれど、
相手は大谷翔平選手は最低でももう40本本塁打を打ってるのよ。
秋刀魚とは言え4本とは情けない結果だわ。
でもこれは世間に世の中に秋刀魚が行き渡らなかった影響もあるから
逆に貴重な4本の秋刀魚本塁打を決められただけでも昨シーズンは大漁!って秋刀魚だけにいいたいのよ。
今年の秋刀魚の漁獲高も気になるし、
タピオカの原料でもある貴重なタピオカの漁獲量も気になるしタピオカの卵のよしあしで秋のタピオカも決まるってものよ!
でさ、
思ったんだけど、
私が知らない水産庁界隈では、
うーん今年はというかだんだん鯖も漁獲量がすくなくなってきてますな!って報告があがってるのかも?
私たちがきっと知らないだけで、
美味しい脂ののった魚の秋刀魚がなかったら鯖を食べたら良いじゃない!って
鯖も美味しい年中食べられるのよね。
それで
昨日は私が楽しみにしている商店街みかんの花咲く丘公園前駅の商店街の定食屋さんで焼き鯖定食を食べて帰って、
大満足のまま原文のまま床についたんだけど、
美味しい脂の魚の鯖がのった級の秋の秋刀魚にであえますように!って
今年も秋刀魚フェアやることを開催するかどうかはまだ分からない決定事項じゃないけれど、
先駆けて私は秋刀魚フェアに向けてフェア精神をもちつつ選手宣誓をしたいところなの!
もうさ、
準備したセプテンバーの時に使おうと思っている辞書の秋刀魚の載ったページを破って捨ててしまいそうだわ!
あまりの私の秋刀魚への恋い焦がれる焦がし秋刀魚の肝が待ち遠しいように。
紐にぶら下がった5円玉を揺れる様をじーっと見て、
私は、
鯖を秋刀魚として美味しくいただく鯖を秋刀魚として美味しくいただく!って自分自身に術を掛けてみたけれど、
鯖に添えて載っているレモンを囓ったときに酸っぱくならなくて超絶甘い美味しい味に変わっちゃう催眠術に間違ってかかっちゃったみたいで、
思わずレモンがレモンじゃない甘くて美味しーい!ってなったのよ。
あれあるわよね、
強烈酸っぱいものが超美味しい甘みのある味に催眠術で変わるってやつ。
それとか、
定番の技で
ワサビが練りワサビのチューブが生クリームのように甘ーくなる術!
あれ私一度かかってみたいわー!
逆に超絶酸っぱいレモンの酸味の強烈さが
催眠術の技で生クリームの味になるという技もあれ本当なら喰らってみたいわ。
とはいえ、
私はやっぱり鯖を秋刀魚と思い込ませる術は自分自身でかからなかったけど、
同じ脂ののった魚ではあるものの、
なんか鯖と秋刀魚の美味しさってまた違うのよねー。
そういう感じなのよ。
ああ!
とりあえず
秋の秋刀魚を待ち焦がれているのよ。
待ち遠しいわ。
うふふ。
朝はご機嫌だけれどそれもご機嫌も長時間キープできないのよね。
今日も忙しそうなので、
しくしく。
でも頑張るの!
泣いてはダメよ。
もちろんこの今シーズンはずっと薄めで作る水出しルイボスティーウォーラーやらが好調で、
本当によく飲むわー。
夜こしらえてできた朝のその薄め水出しルイボスティーウォーラーは
朝の乾いた身体に沁みるわ。
汗はかくのよ。
だから
まだまだ油断は出来ないので
水分補給はしっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!