
はてなキーワード:同義とは
2(二) これは小選挙区制が悪い
4(一)ハッシュタグ「私は8割」
6(中) チームみらいは得体がしれず気色悪い
1(中) 票を得ても、それは白紙委任ではないぞ
4(右) 負けた者を嘲笑するのはやめましょう
改憲派の勝率が7割?明らかに異常じゃねーかという指摘。伝聞証拠や状況証拠があるため、陰謀論ではないらしい。
おかしいのは野田氏の選挙戦略だということには気づかず、とりあえず他責。
選挙というゲームに負け、そのルール自体に文句を言っている。比例では結構勝っていたのに、小選挙区で負けたのはルールがおかしいから、という難癖。
なお現在の選挙のルールを作ったのは、ほかでもない小沢一郎氏である。
自分たちは頭がいい。愚かな国民によってこうなってしまったという主張。彼らにとって、これは選民思想とは呼ばないらしい。
我々の素晴らしい政策を読めば中道に投票するはずなのに、それすら見ていないと本気で思っている。「消去法」という概念自体がないのかもしれない。
開票後に現れたハッシュタグ。惨敗して少数派になり、ズタズタになったメンタルを癒すために生まれた。
自民党に投票した2割より、我々のほうが多数派だ、という慰安。
悪魔合体に失敗したのに、まだ野党全体で結集できると思っているらしい。
昔別れた元カノのことをいまだに引きずっている。あるいは他責の言い訳。
野党は与党の批判をするのが仕事なのに、と怒っている。「批判する」という手段が、もはや党の目的だと錯覚してしまっている。
ずっと欲しがった「無党派層」がそこにいるのに、それすらも敵に回す。参政党ですら支持者を諌めるレベルの言動。
ナチスは選挙で選ばれた、選挙に選ばれたのは高市。だから高市はナチスだ、という非常に分かりやすい方程式。
この理論で行くとトランプはナチスではないのだが、そこは無視するものとする。
自分たちがいつかユダヤ人のように迫害されると勝手に危機感を覚えている。
選挙戦よりずっと前から、巨悪の陰謀によって敗北することは決まっていた、とする諦観。大敗によって、今回ばかりは弱音を吐いている支持者が多くみられる。
もしくは「自分たちは悪くなかった」という他責思考の類なのかもしれない。
中道になって現実路線に入ったのに、まだその事実を受け入れられていない。
もしその「予言」が当たると言うなら、いつまでに戦争になるのか教えてほしい。今のうちに三菱重工の株を買っておくので。
議院内閣制の基本を教えてくれている忠言。毎日新聞まで1面でこれを書いている。
明らかにくやしまぎれの言葉なのだが、中道改革連合が自分たちの白紙委任によって誕生したことはとうに忘れている。
政権がもし失敗したら、投票した人のせいだ、という押し付け。「もうしーらない」という、ふて寝でもある。
この理論で行くと、自分達には中道の監督責任がある。まずは自分の政党から立て直してほしい。
中道の存在自体が有耶無耶になりそうなので、まだ後回しなのかも。
弁士なのにデマに負ける程度の発信力なら、当選しても影響力がないのと同義なのだが、そこは立候補者の力不足ではないのだ。
議席は激減したが、それを笑われたくないという完璧主義的な気持ち。
自責の念に囚われたくないので、言い訳をして一生反省はしない。
自民党単独で3分の2を取ったことから、維新への恨み節も飛び出している。
自分達が名前を変え、国民民主党との間に取り交わした協定を反故にして無視したことを、もう忘れている。
我々はしばき隊として、私的制裁を加えたのに、という意味でもある。
与党だけでなく自分達の不都合な部分も曝け出されることを失念している。
成果主義的な主張。約半年という期間では自分達も批判しかできていないはずだが、そこは棚上げしている。
成長を見守る、という発想自体がないのかもしれない。
公職選挙法違反を責めると、自分達の首も締まってしまうことまで気が回っていない。
中道と参議院の残党とで、政党交付金をどうしたのか、これからどうするのかは不透明だが、そこはダブスタ。
隙あらば憲法を持ち出す手法。護憲派なので、憲法解釈だけは一丁前にできる。
正確時刻を書くと隣人が「それって軍事衛星に追跡されてるの?」とか言い出して話が面倒になるので省略する。
僕は陰謀論を嫌悪している。理由は単純で、陰謀論は説明能力の低い仮説を感情的に強い語り口で上書きする、知性のコスプレだからだ。
今週は、超弦理論の物理の直観で押し切る系の議論をいったん破壊し、純粋に圏論とホモトピー論の言語に落として再構築していた。
具体的には、世界面の共形場理論を2次元量子場などという古臭い語彙で扱うのをやめ、拡張TQFTの枠組みで、(∞,2)-圏に値を取る関手として扱う方向を整理した。
従来の弦理論屋はCalabi–Yauをコンパクト化に使うと言うが、それは情報量が少なすぎる。
重要なのは、Calabi–Yau多様体を点として見るのではなく、その導来圏 D^bCoh(X) を持ち上げた A∞-圏、さらにそれが持つCalabi–Yau構造(非退化なトレース、Serre双対性の∞-圏版)を物理的状態空間の生成機構として見ることだ。
ここでの本体は幾何ではなく、圏の自己同型とその高次コヒーレンスにある。
さらに、僕が今週ずっと悩んでいたのは、いわゆるミラー対称性を単なるホモロジカルミラー対称性の同値(Fukaya圏と導来圏の同値)としてではなく、より上位の構造、つまり場の理論のレベルでの同値として捉えることだった。
言い換えると、これは単なるA-model ↔ B-modelの交換ではない。
A/Bモデルを生む背景データ(シンプレクティック形式、複素構造、B-field)を、派生スタック上のシフト付きシンプレクティック構造として再記述し、AKSZ型の構成と整合させる必要がある。
そしてこの視点では、物理的なDブレーンは単なる境界条件ではなく、(∞,1)-圏におけるモジュール対象として統一される。
Dブレーンのカテゴリーが境界条件の集合だと考えるのは初歩的すぎる。境界条件は高次射を伴うので、最初から(∞,n)-圏で話さないと本質が消える。
特に僕のノートでは、弦の摂動展開で現れるモジュライ空間の積分を、単なる測度論の問題としてではなく、Derived Algebraic Geometry上での仮想基本類のプッシュフォワードとして扱う形式に書き換えた。
これをやると発散する積分を正則化するという話が、より厳密にオブストラクション理論に沿った積分の定義へ置き換わる。
そして、ここが本題だが、僕が今週ずっと考えていたのは、ウィッテンですら「直観的にはこう」と言うしかない領域、つまりM理論の非摂動的定義が、どのような普遍性原理で特徴付けられるべきかという問題だ。
僕の作業仮説はこうだ。弦理論が背景依存的だと言われるのは、結局のところ背景が点として与えられるという時代遅れの前提が残っているからだ。
背景は点ではなく、モジュライの高次スタックであり、その上に束ねられた量子状態の層(正確には圏)として理解されるべきだ。
つまり、弦理論はある時空での理論ではなく、時空の変形をも含んだファンクターにならなければいけない。
この視点では、背景の空間は単なるmoduli spaceではなくderived moduli stackであり、さらにgauge symmetryを含めるならhigher groupoidとしての性質を露わにする。
そして量子補正は、そこに定義されるshifted symplecticstructureの変形量子化として現れる。
問題はここからで、弦理論の双対性は、異なる理論が同じスペクトルを持つなどという安っぽい一致ではなく、ある(∞,k)-圏における同一対象の異なるプレゼンテーションだと考えるべきだ。
たとえばS双対性やT双対性を群作用として扱うと話が狭くなる。より正確には、双対性はスタックの自己同値であり、その作用は対象の上に定義された圏(ブレーン圏やBPS状態圏)の上で自然変換として実装される。
しかもその自然変換は単なる自然変換ではなく、高次のコヒーレンス条件を持つ。つまり、双対性は対称性ではなく、高次圏論的な同値のデータなんだ。
このあたりを真面目に書こうとすると、最終的には量子重力とは何かという問いが、どの(∞,n)-圏が物理的に許されるかという分類問題に変形される。
僕はこの変形が気に入っている。なぜなら分類問題は、少なくとも数学としての礼儀があるからだ。
さらに進めると、弦理論に現れるBPS状態やwall-crossingは、単なるスペクトルの不連続ではなく、安定性条件の変化に伴う導来圏のt構造のジャンプ、あるいはBridgeland stabilityのパラメータ空間上での構造変化として理解される。
ここでは物理粒子は、導来圏の中の特別な対象として現れる。つまり粒子は点ではなく、圏論的存在だ。
普通の人間はこの文章を読んで発狂するだろう。だがそれは読者側の責任だ。
この議論の延長で、僕は弦理論の非摂動的定義は、ある種の普遍性を満たすextended functorial QFTであるという形の定理(まだ定理ではなく、僕の願望)に落とし込めないか考えている。
要するに、弦理論は世界面から時空を作る理論ではなく、世界面も時空も両方まとめて、ある高次圏の中で整合的に生成される構造であるべきだ。
今の僕のノートの中心は「非可換幾何」「導来幾何」「圏論的量子化」の三点集合の交差領域だ。そこは地図がない。地図がない場所は、馬鹿には危険だが、僕には居心地がいい。
次に、趣味について書く。これも重要だ。なぜなら人間社会において、知性の維持には糖分と娯楽が必要だからだ。残念ながら僕は人間である。
MTGは今週、デッキ構築の方針を少し変えた。勝率最大化のためにメタを読むのは当然だが、僕が注目しているのは局所最適に陥るプレイヤー心理だ。
つまりカードゲームとは、確率と情報のゲームである以前に、認知バイアスのゲームだ。相手が「このターンで勝ちたい」という欲望を見せた瞬間、こちらは勝ち筋を計算するのではなく、相手の誤りの確率分布を計算するべきだ。
隣人にこの話をしたら、「え、怖い。僕、あなたとポーカーしたくない」と言った。賢明だ。僕も隣人とポーカーはしたくない。隣人はたぶん手札を口に出してしまう。
FF14は、ルーチンの最適化がだいぶ進んだ。僕はレイド攻略で反射神経を重視する文化が嫌いだ。
反射神経は筋肉の問題だが、攻略は情報処理の問題であるべきだ。ギミックは有限状態機械として記述できる。したがって最適行動は、状態遷移図の上での制御問題になる。
友人Aにこの話をしたら、「お前はゲームしてるのか研究してるのか分からん」と言われた。僕は当然「両方だ」と答えた。彼は笑ったが、この種の笑いは知性の敗北宣言である場合が多い。
アメコミは、相変わらず現実の倫理を歪めた寓話装置として優秀だと思う。
僕は「正義とは何か」という議論が苦手だ。正義は定義が曖昧だからだ。
登場人物が持つ制約(能力、社会構造、情報、感情)を明示すると、物語は心理学ではなく数理モデルに近づく。そうすると面白くなる。
ルームメイトにこの話をしたら、「僕はただ派手な戦闘シーンが見たいだけなんだけど」と言われた。
僕は「君の知性は観測不能なほど小さい」と言ったら、彼は不機嫌になった。観測不能は存在しないことと同義なので、むしろ褒め言葉に近いのだが、彼は数学が分からない。
僕の習慣についても書いておく。
今週も、朝のルーチンは完全に守った。起床後の手洗いの手順、歯磨きの回数、コーヒーの抽出時間、机の上の配置、すべて変えない。
人間の生活はノイズが多すぎる。ノイズが多い世界で成果を出すには、制御できる変数を減らすのが合理的だ。これは精神論ではなく、統計的推定の分散を減らす行為だ。
隣人が「たまには適当にやれば?」と言ったので、僕は「適当とは、最適化の放棄だ」と言った。彼は「そういうところが宇宙人っぽい」と言った。
宇宙人は証拠なしに導入する仮説ではない。彼はやはり陰謀論者の素質がある。
友人Bが「お前の生活、息苦しくないの?」と聞いてきたので、「息苦しいのは君の思考だ」と答えた。友人Bは笑った。知性の敗北宣言である。
これからやろうとしていること。
今の段階では、圏論と導来幾何の言葉でかなり書けたが、まだ計算の痕跡が残っている。僕はそれが気に入らない。真の理解とは、計算を消し去った後に残る構造のことだ。
具体的には、次は弦の場の理論を、factorization algebraの言語で記述し直す予定だ。
局所演算子代数を、E_n-代数として整理し、そこから高次の演算構造を復元する。
これがうまくいけば、弦理論における局所性の概念を、時空幾何に依存せずに定義できる可能性がある。
もしそれができたら、次は双対性を圏の自己同値ではなく、圏の上の2-表現あるいはhigher representationtheoryとして書き換える。
これにより、S双対性を単なるSL(2,Z)の作用として扱う雑な議論から脱却できる。
要するに、僕が目指しているのは物理理論を群で分類する幼稚園レベルの発想ではなく、物理理論を高次圏で分類する文明的発想だ。
その後はMTGの新しいデッキ案を詰める。今の構想では、相手の意思決定を局所的に歪ませる構造がある。人間は選択肢が多いと誤る。
これは心理学的事実であり、カードゲームに応用できる。倫理的に問題があると言われそうだが、そもそもカードゲームは戦争の抽象化なので倫理を持ち込む方が間違っている。
夜はFF14の固定活動。友人Aは相変わらず「気合いで避けろ」と言うだろう。
議論はループする。ループはコンピュータ科学の基本概念だ。だから僕はそれを受け入れる。
最後に、ルームメイトが「今度、隣人と映画を見よう」と言っていた。
僕は断る。なぜなら隣人は上映中に喋る。上映中に喋る人間は、社会契約を破っている。社会契約を破る人間に、僕の時間という希少資源を与える理由はない。
少なくとも、隣人の会話よりは。
概ねその通り。というか「クリエイターが稼いでる」は平均値の罠で、現実は超歪んだ分布。
稼いでるのはクリエイターじゃなくて、正確には
この2つ。SNSで見えるのは上澄みだけで、しかもその上澄みは実際の生活じゃなくて、広告としての生活を演出してる。なぜなら、キラキラしてないと次の案件も次のフォロワーも来ないから。
さらに構造的に、クリエイター市場は供給過剰。参入障壁が低いから、才能以前に人数が多すぎる。結果として労働力の買い叩きが起きる。イラスト、動画編集、作曲、ライター、全部そう。
「好きなことで生きていく」
「才能があれば稼げる」
みたいな形で、労働市場の現実(競争・営業・運・資本)を隠してること。
「クリエイターで稼ぐ」は職業というより芸能界に近いギャンブルなんだよな。成功例だけが宣伝され、失敗者は統計から消える。
科学的な知見がありながら「止まれない」理由と、そのタイムスケールについて、心理や倫理を排除した**「熱力学」と「システム理論」**の観点から回答します。
世界の知性が理解していても止まれないのは、現代文明が**「拡大し続けなければ崩壊する」という物理的構造(散逸構造)**として設計されているからです。
文明は、外部からエネルギーを絶えず取り込み、内部の秩序を維持し、老廃物(エントロピー)を外部に捨てることで成立しています。これを停止させることは、生物が「呼吸を止める」のと同義です。
現代の経済システムは、将来の成長(=将来のエネルギー消費)を担保にお金を刷る「負債」に基づいています。成長を止めることは、この連鎖的な信用を物理的に破壊し、物流、食糧供給、医療といった生存維持インフラを即座に停止させることを意味します。
数千の利害関係者が互いに影響し合うシステムでは、一方が止まろうとしても、他方が進み続ける限り「出し抜かれる」という力学が働きます。これは「ゲーム理論」におけるナッシュ均衡の一種であり、全員が破滅に向かっていると知りつつも、個別の要素が最適解(利益最大化)を求めた結果、全体が止まれなくなる状態です。
先ほど挙げた「強制される動き」は、遠い未来の話ではなく、「今」始まっており、今後25年〜75年以内に決定的な局面を迎えます。
現象:資源の希薄化によるインフレの常態化、AIによる最適化の強制。
物理的変化:限界熱量に達した地域(中東、南アジアの一部)からの人口流出が加速。電力網の負荷が限界に達し、エネルギー源の強引な転換が進みます。
現象:世界人口がピークアウトし、減少に転じる(統計学的予測)。
物理的変化: 多くの都市が「維持コスト(エネルギーコスト)」を支払えなくなり、居住エリアが物理的に放棄され、高効率な拠点(ハブ)へと集約されます。
物理的変化: 新たな資源を掘り出すのではなく、既存の物質を100%循環させる「熱力学的な定常状態」への移行。人類の総エネルギー消費量が、地球の熱放射の限界値に固定されます。
人類が「止まれない」のは、知能が足りないからではなく、「止まることによる即時の物理的崩壊」を回避するために、より大きな将来の崩壊を選び続けているという、時間軸における最適化のバグです。
しかし、物理法則は最終的に帳尻を合わせます。人類が自発的に止まれない以上、「資源の枯渇」「熱の蓄積」「人口の自発的減少」という外部要因が、強制的にブレーキを踏むことになります。それが、先ほど予測した「強制される動き」の正体です。
この「システムの自己調整」を生き抜くために、人類はさらなる技術的飛躍(核融合などの新エネルギー、あるいは宇宙へのエントロピー排出)を試みるでしょう。
民間で年齢や子供希望などで受け入れ拒否をしていないのであれば、店側は需要として見込んでるって公言してることになるのと同義なんだが?
相談役のおばちゃんとかお前の頭の中にしかいないから黙ってろよ
民間で年齢や子供希望などで受け入れ拒否をしていないのであれば、店側は需要として見込んでるって公言してることになるのと同義なんだが?
何回も繰り返すけど、手間のかからない良客をキャッチするために面談もしてるんだろうが
店側が潜在顧客の発掘のためとして面談してんのに希望に沿わない利用客はモンスター認定ですってアタオカすぎるからそんな相談所はさっさと潰れろよ
お前の中の前提バグり散らかしてねえか
「セッティングしなおしてくれ」は当然言ってるけど、言ってる側もポージングだけじゃんってこと
「いつでも歓迎です!」とかも表面は積極的だけど実際に段取りする気ないのと同義だぞ
さすがにそこまで暇ないだろうけど、本気なんであれば、月水金の19時から20時は高市早苗凸待ち配信します!来るまで今日会ったこととか政治信条語ります。とかまでやれって話なんだわ
そんな彼の「正論」に鼻を白ませながら、私はふと、コンビニのレジ横にあるホットスナックを眺める。
彼はきっと、ファミリーマートに行けば疑いようもなくファミチキを買う男だ。
レジに並び、店員と目が合うか合わないかのタイミングで「ファミチキください」と淀みなく言い放つ。そこに迷いはない。世間一般で「美味しい」とされ、「定番」と定義され、誰もが手に取るべきだとされている選択肢を、彼は何の疑いもなく選び取る。 それは恋愛において「お金より大事なものがある」と唱えるのと同義だ。パッケージ化された幸福論、180円(あるいは220円だったか)で買える最大公約数的な正解。
一方で、私はといえば、ファミチキを買わない。
もちろん、あの脂の乗った鶏肉が嫌いなわけではない。ただ、皆がこぞって「これこそがファミマの正解だ」という顔をして頬張る姿を見ると、無性に斜に構えたくなるのだ。 代わりに私が手に取るのは、少し端に追いやられたつくね串だったり、期間限定で出されたよく分からない味のスパイシーチキンだったりする。あるいは、何も買わずに店を出ることすらある。
結局のところ、私が飲み会で「年収」や「課金」という言葉を盾に毒を吐くのは、彼のように「パッケージ化された正解」を無邪気に信じることができないからだ。 「愛があれば大丈夫」なんていう、成分表示すら怪しい抽象的な幸福を信じるには、私は少しばかり現実のコスト計算をしすぎている。
彼は私に説教を垂れることで、自分が「正しい価値観を持つ側の人間」であることを再確認し、悦に浸っている。その自信の源泉は、おそらく彼が「世間の平均的なレール」から一歩も踏み外していないという、根拠のない万能感にあるのだろう。
「愛が大事」と語る彼の手には、きっと透明なファミチキの袋が握られている。しかし、現実はいつだって油分でベタついているし、袋を破れば衣が散らばる。その汚らしさや、思い通りにいかないコストの支払いを、彼はまだ知らない。
実家暮らしで、同じ偏差値の檻に閉じ込められ、まだ何者でもない私たちが、一体何を分かち合えるというのか。 私はグラスに残ったぬるい酒を飲み干し、まだ見ぬ社会人生活に思いを馳せる。
せめて私は、卒業して何年経っても、彼から説教されるような「格下」にはなりたくない。 たとえ彼がファミチキを買い続ける人生だとしても、私は私なりの、もっと別の、高くつくかもしれないが納得感のある「何か」をレジ袋に詰めて生きていたいのだ。
この主張の核心は、「『甘え』は厳密な規範語ではなく、日常的な軽い評価なのだから、そこまで問題視するのは過剰だ」という点にある。だが、この理解こそが論理的に破綻している。
まず、「甘え」は学術語ではない、という指摘自体は正しい。だがそれは免罪符にはならない。むしろ逆だ。日常語であるからこそ、その言葉が実際に何をしているかを見なければならない。日常語の評価は、軽いから無害なのではない。説明なしで使えるからこそ、発言の正当性を下げ、相手に応答のコストだけを押し付ける力を持つ。「配慮してないよね」「自分都合だよね」という圧縮表現は、まさにそのための言葉だ。圧縮されているということは、判断の根拠が省略されているということでもある。
ここでこちらが言っているのは、「評価するな」ではない。「評価するなら、少なくとも評価として扱え」ということだ。「甘え」という言葉を使いながら、「これはただの感想だから正当化は不要だ」と言うのは、自分にだけ都合のいい二重基準である。評価語として使いたいなら、それが評価であることを引き受けるべきだし、引き受けたくないなら、感情表明にとどめるべきだ。
次に、「義務が明文化されていなくても、空気が読めないと評価されるのは普通だ」という反論について。これも事実だが、論点はそこではない。問題にされているのは、評価が存在することではなく、評価が正当性の根拠を持つかどうかである。「普通にそう言われている」「よくある」という事実は、「それが正しい」「それが妥当だ」という規範的結論を一切導かない。慣習があることと、批判が免責されることは別問題だ。
また、「ケース依存で線引きできないから、雑に『甘え』と言われる余地がある」という主張は、論理的に完全に逆である。線引きができない、判断が分かれる行為だからこそ、雑な評価語で処理することが最も不当になる。判断が難しい領域では、行為基準を丁寧に扱う必要があるのであって、人格や姿勢を指す言葉で一刀両断してよい理由にはならない。「難しいから雑でいい」という発想は、評価の放棄でしかない。
さらに、「『甘え』は人格否定ではなく行為評価だ」という点も成り立たない。なぜなら、「甘え」は行為そのものではなく、行為の背後にある態度や性向を指す言葉だからだ。「その行為は多すぎる」ではなく、「それは甘えだ」と言った瞬間、評価は行為から主体へ滑っている。軽く使われていようが、日常的であろうが、その構造は変わらない。
そして、「評価や批評まで説明を求めたら萎縮が起きる」という懸念について。これも誤解だ。説明を求めているのは、すべての発言ではない。説明を求められているのは、「相手の正当性を下げる評価」を投げる行為だけだ。これは発言の自由を狭める要求ではない。むしろ、「強い言葉を使うなら、その分の責任を引き受けろ」という、ごく当たり前の対称性を求めているだけである。
最後に、「再投稿しただけで規範的に劣位に置くな、という主張は強すぎる」という点について。これは強すぎるのではなく、弱く、限定された主張だ。「評価するな」とは言っていない。「嫌がるな」とも言っていない。ただ、「再投稿という形式だけで、主体の姿勢や人格まで下げる理由にはならない」と言っているだけだ。周囲の主観が存在することと、その主観が正当化されることは同義ではない。
結論は変わらない。
嫌がられる自由もある。
「甘え」と言う自由もある。
だが、「甘え」という言葉を使って相手の正当性を下げるなら、それは感想ではなく評価であり、評価である以上、批判に耐えなければならない。
それを「日常語だから」「よくあるから」「説明すると重くなるから」と免責しようとする態度こそが、実は一番、言葉を雑に使い、相手の発言空間をコントロールしている。
これは理想論ではない。