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「同窓会」を含む日記RSS

はてなキーワード:同窓会とは

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2025-10-23

MENSAの入会資格

前々から思ってたけどさ、

JAPAN MENSA|入会方法

https://mensa.jp/join.html

日本在住の15歳以上の方はJAPAN MENSA主催の入会テストを受けて、全人口の上位2パーセント以内のスコアであると認められれば会員となることが出来ます

クラスに1人いるかどうかくらい程度の連中が集まったところでなんもおもしろくなくないか…?

何かの足切りに使うならまだしも、せいぜい進学校同窓会かそれ以下じゃん。

会員規模を大きくしたいのか知らんけど、ウルトラメンサとかゴールドメンサとか作って上澄みが集まった方がまだ意義があるんじゃない?

(ChatGPTに聞いたらThe Mega Society なる別の団体世界人口の上位 0.0001% を掲げているらしいが)

via:anond:20251023170233

Permalink |記事への反応(0) | 20:37

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母親が止めて同窓会毒殺未遂で終わったやつ

そこは成就させてやれよ。イジメた奴らなんてアリンコ踏みつぶした位にしか思ってないし覚えて無いからな

Permalink |記事への反応(1) | 14:57

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2025-10-22

同窓会に行く人間バカにしていた

タイトルの通りだ。

察している人もいるだろうけど、私は学生時代、いわゆるカースト下位の人間だった。オタクだったし。

程度はゆるいけどなんとなくハブられる、存在感が薄い、そんな人間だったので、キラキラした学生時代を送る人間バカにすることで精神を保っていたと思う。

不定期にある同窓会や、成人式のあとの集まりに行ったことがない。だってそこには私のことを好きな人間なんていなかったし、私が好きだと思う人間もいないと思ってた。

友達は少なくたっていい、理解してくれる人だけがそばにいてくれれば楽しい

学生時代のやつらは私を理解できなかっただけ」

コンプレックスに押しつぶされそうなとき、こうやって自分を奮い立たせていた。

社会に出たあとは、学生時代人間関係をほぼリセットし、見た目を変え、言葉遣いを変え、昔の私をほぼ知らない人間と関わるようになったら不思議と広く浅い人間関係ができるようになった。

意図せず、私は「クラスの人気者」の擬態をしていたのだ。さも生まれてこの方この性格だというように明るく振る舞っていた。あんなにバカにしていた人間と同じように大人数の飲み会企画し、大騒ぎして、周りに迷惑をかけたり。

しかった。あんなにバカにしてたけど、楽しかったんだ。

楽しい

もっとみんなと会いたい、みんな大好き」

気付いたら、私はこんなことばっかり言っていた。

本当は友達の多い人間がとても羨ましくて、みんなの輪の中心にいる人の素直な感情表現だとかが好きで、私も同じようにみんなと仲良くしたかったのに、私はどうしても素直にそう言えなかったし、そう思えなかった。

どのタイミングかははっきりとはわからないけど、なんとなくコンプレックスを抱えた自分のことを許せた気がする。

から、私、今度同窓会に行くよ。

帰省したとき同級生にばったり道端で会って、声をかけてみたら普通にそのまま飲みに行ったし、ものすごく楽しくて後日同窓会やろうって話した。

ちなみに声かけとき無視されたらどうしようってめちゃくちゃ緊張した。全然普通だったし、なんならテンション高かった、お互い。

昔の私だったら絶対に言えなかった「誘ってくれて嬉しい!当日楽しみ!」って普通に言えた。人間って変わるものなんだなぁ。

Permalink |記事への反応(1) | 17:29

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2025-10-20

anond:20251020181827

同窓会とか行ってみ

当時魅力的だと思ってたような上位層も、だいたいおじさんおばさんに収まってる

中にはセックスアピールを維持してる人もいるけど、ほとんど脱落していくもんだよ

Permalink |記事への反応(0) | 18:22

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2025-10-17

かつてのヒーローがおじさんになってがんばるやつ

インディージョーンズとかトップガンマーヴェリックとか

どこに需要があるのか謎

見たくもない衰えた姿やかつての仲間たちの残念なその後を見せられて

同窓会みたいなお話をそこそこのアクションお茶を濁して

昔の面白さには遠く及ばず何も心に残らない虚無

あと男ばっかだね

Permalink |記事への反応(0) | 23:41

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2025-10-12

結婚ラッシュアラサーだけど

中学校時代同級生結婚してる人って自分の周りにだけど意外と多いんだなと思った

ずっと付き合ってたとか、東京仕事で再会したとか、成人式同窓会から付き合い出したとか

そんで結婚式で絶対卒アルでてくるのな

Permalink |記事への反応(1) | 01:21

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2025-10-09

高校同窓会に参加する夢を見た

実際にそんなものはない•̀.̫•́✧

開催しようとする動きすらない(๑•̀ㅁ•́๑)✧

から全部妄想

そんな妄想でも高校生とき勝手片思いしていた人は出てこなかった。

本当に縁がなかったんだね(´・ω・`)

Permalink |記事への反応(0) | 13:20

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2025-10-04

anond:20251004003924

高校同窓会どころか誰とも連絡とってないんだ(´・ω・`)

当時は友達はいたんだけど、私はmixiに招待もされなかったし、Facebook友達申請もほんの数人からしかされなかった(´・ω・`)

今どきFacebookなんてみんな休眠垢だよね。

Permalink |記事への反応(0) | 11:59

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anond:20251004003924

から大まで同窓会一度も行ったことないやで…😟<なお招待されたことすらない模様

Permalink |記事への反応(1) | 00:56

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anond:20251004003624

40後半だけど高校先生結構亡くなっているよ。

同窓会に顔を出していくことをお勧めするよ。

学園祭時に同時開催している簡易な卒業生交流会みたいなものもあったりするよ。

Permalink |記事への反応(2) | 00:39

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2025-10-01

anond:20250930113832

もはや忘れ去られてしまったデジスタ同窓会ことアニメポプテピピックさん……

Permalink |記事への反応(0) | 17:49

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2025-09-23

20年ぶりに中学同窓会に行ったら、地獄天国がそこにあった

先日、約20年ぶりに中学同窓会に行ってきた。

正直、めちゃくちゃ迷った。だって私にとって中学時代は、思い出したくもない黒歴史のものだったから。

私の通ってた中学は、いわゆる田舎公立校クラスヒエラルキーは、ヤンキーギャルが頂点に君臨し、私みたいな陰キャは最底辺スクールカーストって言葉流行るずっと前から、そこには明確な階級社会存在した。

当時の私のいじめられ方は、主に外見いじり。今思えば些細なことかもしれないけど、多感な時期の女子には一番きつい。

通りすがりに「ブス」、すれ違いざまに「うわ、ばい菌」。そんな毎日が、私の自己肯定感ゴリゴリに削っていった。鏡を見るたびに自分の顔が嫌いになり、人の視線が怖くなった。

すれ違うたびに「うわ、空気汚れた」と聞こえよがしに言われ、体育でペアを組む相手もいなくて、いつも先生と組まされてた。

リスカもしたし、毎日鏡を見ては本気で明日が来ませんようにと願いながら眠りにつく日々だった。

そのコンプレックスが、ある意味私を動かす原動力になった。

高校デビューなんて生易しいものじゃない。高校デビューなんかしていないしむしろ進学校に入ってから陰キャだった。

大学に入ってバイト代を貯めて、少し顔をいじった。そのあとも必死仕事した。怒りを燃やして、仕事して、年収上げて、また顔をいじって仕事した。

その結果、奇跡的に誰もが知ってる大手企業入社し、女性にしてはかなり頑張って稼いでるじゃんといわれるくらいになった。

夫も同じくらい稼いでいて、今の生活に不満はない。

それでも、心のどこかに中学時代トラウマが澱のように溜まっていた。今回の同窓会は、そんな過去と決着をつけるための、私なりの儀式だった。

会場に着くと、そこにいたのは「あの頃のあいつら」ではなく、「ただのおじさんおばさん」だった。

あれだけ怖かったヤンキー男子たちは、当時を回顧しながらあの時の俺自慢をしている。しかし意外なほど、みんなまともな社会人になっていた。

当時なかなか話せなかったヤンキー男子とも普通に話せるようになっていて感動した。

女子たちは、まるで授業参観日のお母さんのようだった。当時イケてたギャルは、面影を残したままのギャルか、見る影もなく恰幅のいいお母さんかの二択。不思議なことに、あれだけみんな必死に伸ばしていたロングヘアの女性が一人もいなかった。なぜだ。何か申し合わせでもあったのか。

私はというと、この日のためにルミネで奮発した小綺麗なワンピースを着ていった。それが悪目立ちしたのか、若干浮いていた気がする。当時の陰湿いじめっ子は「あら~増田ってば、セクシーじゃぁん」とか言ってきたがノースリーブワンピースなだけでどこがセクシーなのかわからなかった。ただただ嫌味なんだろうなとは思った。

一番会いたくなかった、私をいじめていた主犯格女子も来ていた。彼女舐めるように上から下まで私を見るなり、「えー!久しぶりー!全然変わらないね!」と馴れ馴れしく話しかけてきた。いや、変わっただろ。思わず「え、本当?!」と言ってしまった。お前が一番いじってた部分を、私は金と努力で変えたんだよ。その笑顔の下にある本心を思うと、背筋が寒くなった。

でも、嬉しい再会もあった。当時、唯一の心の支えだった親友は、昔と全く変わらず超絶優しかった。「会いたかったよ」と言ってくれた時、本当に涙が出そうになった。

当時ほとんど話さなかった男子とも、大人になった今なら普通に仕事家族の話ができた。これは新しい発見だった。

そして、一番印象的だったのが、いじめっ子グループにいた根暗な奴だ。

そいつは、私が整形したことに気づいたんだろう。でも、直接は何も言えない。チラチラと私を見ながら、隣の友人に「ねぇ、顔変わったよね?ちょっと聞いてきてよ」とコソコソ話しているのが聞こえてきた。他にも「お前、年収いくら子供は?どこで働いてんの、ベンチャーとか?」とニヤニヤ言ってきた男もいたが、正直にお伝えしてやった。マウントとりたいらしく、自分の周りには優秀な大学卒のやつがたくさんいるとか宣ってて、かなりどうでもよかった。

その瞬間、すべてを察した。

あぁ、こういう奴は一生このままなんだな、と。

人の容姿を笑いものにし、自分では何も言えないくせに、他者を焚きつけて安全場所から見物する。他人ふんどし相撲を取ろうとするし、自分を保つために他者を貶めようと必死になる。その陰湿根性は、20年経っても全く変わっていなかった。

同窓会に行って、過去との決着がついたかと言われれば、正直わからない。

でも、一つだけ確信したことがある。

人は変わる部分もあれば、絶対に変わらない部分もある。そして、私を苦しめたあの過去は、今の私を形成するための、必要不可欠なピースだったのかもしれない。

もう、あいつらのために心をすり減らすのはやめよう。

私は私の人生を、これからも胸を張って生きていくだけだ。

もし今、昔の私みたいにいじめられて苦しんでいるやつがこれを読んでいたら、言いたい。

世界学校だけじゃない。そこが地獄なら、逃げろ。死ぬな。

そして、勉強でもスポーツでも何でもいい、狂ったように努力しろ。力をつけろ。

20年後、最後に笑うのは絶対に君だ。

というわけで、明日からまた、資本主義の馬車馬としてバリバリ稼ぐ日常に戻るわ。

じゃあな。

Permalink |記事への反応(0) | 21:37

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SNS陰キャです。友達いません。ボッチです」←お、仲間か?

SNSで見かけた書き込み

「お、仲間だ!」って思ったんだよね。

でもよく見たら、実際は全然ボッチじゃなかった…

オフ会行きます!」

イベントのアフターで飲みに行きました!」

「週末はみんなでカラオケ!」

「久しぶりにみんなでボードゲーム!」

飲み会で盛り上がった~」

同窓会で〇〇さんに会った!」

今日フォロワーさんとゲーム通話!」

フォロワーさんが経営してるカフェにみんなで遊びに行ったよ!」

「みんなと旅行行ってきた!」

推しライブ、〇〇さんを誘って行ってきた!」

「みんなでスパ銭行ってきたよ!」

いや、どこがボッチなんだよ。

Permalink |記事への反応(3) | 20:33

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2025-09-19

anond:20250919152532

六番目の小夜子同窓会!21年ぶりに集結「好きだったのかもしれない」今だから話せるぶっちゃけトーク|「松本まりかクリスマス24時間テレビABE...https://youtu.be/qu85GqFVmiM?si=kCTUEvR2PQg5ZlQ3@YouTubeより

Permalink |記事への反応(1) | 15:32

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2025-09-18

anond:20250918144326

ガンダム作品としてはだいぶ下の方だろ

単体のストーリーで見ると面白くはなかったと思う

でも同窓会会場としては優秀

ひさしぶりに思い出話で会話が弾んでオールオタクもたのしかった

Permalink |記事への反応(0) | 14:54

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2025-09-17

若い頃、銀英伝を片手に「民主主義とは何ぞや」なんて語ってた俺も、今じゃ“手放しで銀英伝を絶賛!”なんてとてもじゃないが恥ずかしくてできないオッサンになってしまった。いや、誤解するなよ。未だに大好きだ。眠れない夜にラインハルト金髪ヤンコーヒーを思い出しては、むせび泣きたくなることも、ある。しか大人になればなるほど「こんなにすごい作品なんだよ!!」と部外者に熱弁するのが妙に照れ臭い。まるで昔の彼女の話を同窓会で嬉々として語るような、あの居心地の悪さときたら。

ロードス島戦記もそう。小学生の頃はあの“エルフ!”“魔法!”で本気で異世界転生した気になってたくせに、今は「ハイファンタジーとして素晴らしい!」なんて真顔で言う気にはなれない。いや、言ってもいいけど、隣の35歳会社員にウインクされそうでムズムズするのだ。スレイヤーズ十二国記アルスラーン…(このへん全部世代バレ)。当時は「自分人生観を変えた神作!」と思い込んでた。でも大人になった今、旧友が本気モードで語り始めるのを見ると、なぜか心臓がムズ痒くなる。これ、分かるやつは分かるはずだ。

多分、ブギーポップは笑わない、とか、マリみて灼眼のシャナとかも同罪だよ。当時は「俺だけの金字塔!」と信じ切ってて、少なくとも3回は全巻再読した。でも今になっても「やっぱ最高!」と連呼するのは、どうしても“青春遺産”棚に仕舞ちゃう。この感じ、青春小説は卒業して大人になったら“ちょっと一度距離を置く”のが暗黙ルールになってる気がする。そのまま本気で“文学作品”扱いしすぎると、「民主主義本質を学んだのは銀英伝!」なんて言い出す厨二オヤジになりそうで、やっぱ居たたまれなくなる。

結局、「銀英伝を全力で推すのはちょっと恥ずい」みたいに、自分なりの“古典的こっぱずかし名作”って誰にでもある。その象徴が俺にはロードスだったり、時代によってはスレイヤーズだったり。それを本気で讃えるとき、そこには青春の痛みと甘酸っぱさが混じる。

ところがどっこい、「指輪物語」だけは違う。あれも本来なら若者特有妄想爆発ファンタジーで片付けられてもおかしくなかったのに、全くそんな扱いにならなかった。なぜなら、トールキンが一人で神話歴史人工言語まで自作し、物語を“リアル伝承”に昇華させてしまったせいだ。本当、無駄な労力の天才。あの“どう考えても読み手を選ぶ重厚さ”で、読者の成長や再読に耐えるし、大人になってからも新しい角度でいくらでも味わい直せてしまう。ここが銀英伝と決定的に違う。

銀英伝は“時代熱狂”を体現した記号面白さがあり、キャラクター大河ドラマとして世代ごとにバズる。でも根本は「エンターテインメント」に収束やすい。片や指輪物語は読者に「現実のもの」くらい重い世界観を突きつけて、それが時代や歳を取ることさえ包み込むレベル。「若気の至りじゃない」からいつまでも堂々と褒められる。“文学に昇格できた稀有エンタメ”ここに極まれりだ。

まとめると、銀英伝俺たちの青春だけど、大人になると正面から全力で褒めるには「ちょっと気恥ずかしい古典」。指輪物語は、青春にとどまら歴史文化みたいに語り継がれていく化け物作品。その違いを感じる時、自分ひとつ「卒業」してしまったんだなと、ちょっとだけ切なくなるのだった。

Permalink |記事への反応(0) | 22:14

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2025-09-15

先日の同窓会でどうしても気になっていた事を聞いてみた

俺「東大数学科って学部卒論何するの?」

友人(東大数学科卒)「卒論は無い」

そうか……

Permalink |記事への反応(0) | 20:53

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2025-09-14

anond:20250914042558

国語試験だったら0点。

相手の言うことをよく聞け。

親友」というよりも、将棋界には「棋友」という言葉があるのですが、皆仲が良く、本当に「友達」という感じです。

将棋は、対面コミュニケーションゲームであり、将棋道場は社交場なので、友人ができやすいと思います

「僕には『本当の友達』と呼べる人は、いるのだろうか?」

会社にいると同僚や上司と話すことも多く、孤独を感じることは少ない。職場では定期的に集まる韓流好きの会もある。昔の勤務地の仲間との同窓会も時々ある。いずれもとても心安らぐ場なのだが、退職後もこれらが続くのか不安もある。

への答えになっていない。

Permalink |記事への反応(0) | 11:29

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2025-09-12

anond:20250912005148

計画段階で気分を害して抜ける位のつき合いなら、この先も続かないからやめとけ。

小規模な同窓会やったときに、せっかく幹事が用意してくれた店に後からケチつけたヤツがいたので、話し合って次から呼ばないようにしたら平和になった。

それくらいでいい。

Permalink |記事への反応(0) | 07:19

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2025-09-07

anond:20250907173418

手入れ次第でそこそこの線にはイケるってことで結論でてなかったか

40歳前後同窓会したとき、「生まれつき骨格がよくて子供とき可愛くてモテまくってたけど生活が荒れていた人」と、「子供とき目立たなかったけど、きちんと丁寧な暮らしを送っていて食事睡眠とか歯磨きとか洗顔とかの習慣がきちんとしていた人」は後者圧勝になるじゃん?

睡眠とか体重管理スキルと習慣で後からできるし、歯並びや着色とかも矯正とか修正方法あるじゃん

Permalink |記事への反応(0) | 17:39

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80代の叔母の孤独死について、顛末と後始末

身内の死比較漫画(1日限定公開全編公開)https://x.com/tokitadesu/status/1964290371191787825 が流れてきたのをきっかけに(今日コミティアから公開なのですね)。

昨年夏に母方叔母(母の妹)の孤独死がありました。本人80歳過ぎ、夫逝去済み、子なし、認知症入り始めてたと思うが診断降りておらず、ケアマネ地域医療もつながっておらずで死後1か月未満で発見

~発覚から葬儀まで~

・発覚=悪臭がたちこめ、管理会社警察に連絡。マンション(持ち家)の鍵が開かず、最終的にはしご車ベランダから立ち入り。一夜経ち、本人居住警察から親族経由で自分警察署に電話を折り返す。土曜日。※この時の消防車請求はきてません

・1時間後に警察署到着。本人確認できる状態ではないため、室内にあった写真で「あの住居に住んでいたのはこの人ですね?」と誰何され、まぁ確定

・「検死に回すので9万円必要になります葬儀会社が当座払うので後で精算してください(神奈川県なので)。葬儀会社には『警察案件なので』と伝えてください」と言われる

・「小さなお葬式」に電話して「警察案件なので、よろしくお願いします」と伝える。斎場が決まり一報。「検死の終わりがわからず、そちらへの到着が月曜以降になるかも」と前振り

・兄と合流して管理会社に向かう。ここではしご車の話、半年分滞納していた管理費の話(いまどき手渡しで、未納を指摘されても対応できなかったらしい)をされる。特殊清掃会社も紹介してもらう

特殊清掃会社担当者が1時間後に来てくれて内見。1KD50㎡の見積もりが2日間作業で133万円。相みつを取る余裕もなく(ご遺体はもうないがニオイがすごいので。虫もすごかったはず)、言い値で承諾、鍵を預ける。一連の費用は母が払うことに

自分とのやりとりで「匿名しますので会社宣伝作業の様子をYOUTUBEにアップするのOKしてくれたら3万円値引きします」と言われ、一瞬迷ったが断る。兄にバレたら面倒だったので

・土曜中に検死が終わりましたと日曜午前に警察から一報あり。時間を合わせ、母、兄と共に斎場にかけつけたが叔母は専用の袋に密封された状態納棺され、棺自体も蓋をしたまま。顔を見てお別れどころの騒ぎじゃない。泣き崩れる母。たしかここで死亡診断書をもらったような。

・命日は推定。死因は持病(がん)由来の炎症。この記述があって、がん保険が満額出た

・いわゆる「葬儀」はできません、「直葬」です、と斎場から念を押される。3日後の火葬までの間に、駆け付けられる親族を一堂に集めて、平服お別れの会20分設ける。線香をあげられるタイミングはここしかなかった

火葬の際にお坊さんに念仏を唱えてもらうことに決定。「小さなお葬式」に宗派をつたえて戒名をオーダー。位牌を作るつもりはなかったがプランの中に含まれていたのを見逃しており、後日突然宅急便で届いて慌てた(返品もできず)

火葬日当日、我が家斎場に向かい霊柩車に伴走する形で火葬場入り、他親族僧侶は直接火葬場集合。火葬炉に入る直前、お棺に花を入れさせてもらえることになったが、蓋を開けたら白い布団がかけてあり、ご遺体の様子はまったく見えず

・待つ間に通夜ぶるまい(のランチ)。食後、骨上げ。叔母の私物は、特殊清掃会社担当者内見の際にピックアップしてくれたスマホと、使っていない財布しかなかったので、自分が持っていた祖父形見(竹尺)を骨壺に入れる。

・使っていた財布やマイナンバーカードは見つからなかった。警察に「亡くなった時に着用していた衣服処分しますね」と言われたが。いや本人が外で落としたやもしれず、いずれにしろ口座は早くに止めたので特に問題なし

親族はここで解散我が家は、叔父が眠っている合葬墓に向かい、その足で納骨。葬儀関連はここで終了

~後始末~

・室内のもの衣服家具等すべて処分(くどいようだがニオイがすごいので)。作業終了後の立ち合い&鍵を引き取るために叔母宅へ。後日・通帳、保険証書、公正証書財産関連書類 ・アルバム手紙 ・アクセサリー が宅急便で送られてきた。段ボール2つ分

都市銀行地方銀行各1行ずつと、ゆうちょ銀行の通帳が見つかった。また、投資信託をしていることは聞いていたし、この世代の人なので生命保険にも入っているだろうとは思っていた。で、最終的に追加で都市銀行2行、金投資1社、生命保険2社が見つかった

・通帳があるものHPで専用連絡先(相続窓口)を調べ、封書が残っているものは「お客様番号」的なナンバーを探しつつ本人死亡を伝え、口座ストップ or 死亡保障受取の手配を行う。「すべての財産は姉(自分の母)に」と、生前公正証書を残してくれていたのが大変ありがたかった

とはいえ「その公正証書、最新のものですか?」を証明するために公証役場に行き、必要書類を提出した(手続きである自分と叔母とのつながりを証明するため、祖父母までさかのぼった戸籍を取り寄せた)。公正証書コピー提出を求めた企業は多かったが、「公正証書証明書」の提出まで必要だったのは金投資だけだった(確か。記憶曖昧)。

・母も80歳オーバー自力で解約手続きができず、「お電話相続人ご本人様から承ります」という企業ほとんどだったため、有休を取って実家に戻り、スピーカーにして電話連絡をする×手続き件数分。母はインターネッツをやっていないのでそもそも実家回線はなく、リモート云々は無理筋だった

銀行生命保険書類が残っていても問い合わせたら解約済みというケースが複数回あり。逆に書類が残っていなかったのに「マイナンバーのご提出をお願いします」「支店移転します」の通知で初めて存在を知ったパターンがあった。この連絡が来なければ、叔母が口座を持っていたこ自体知らないままだった。仮に取りこぼしがあっても借金と異なり、調べる手段がない(と思っている)。叔母の財政上、無借金はほぼ確なのでそこは心配していないがマイナンバー管理簡単になるとよいと思う

郵便物が残っていない各所引き落とし先を探すため、残高証明書と同時に過去3年分の出金記録を取り寄せて、片っ端から潰していった

相続税算出に当たり、命日時点の残高が必要だったが最新の残高を調べてしまったので、残高証明書については二度手間になった

郵便受けの鍵が見つからず、鍵屋を読んで錠前を壊してもらう。現場で「身分証明書と、故人とのつながりがわかるものを見せて」と言われ焦る(叔母あての郵便物たまたま持っていたのでギリセーフ)。鍵は後日、初期のうちに確認した印鑑群の中から見つかった

・昔の人らしく「通帳ごとに印鑑を変える」で印鑑複数あったが、手元に残っていたどの通帳とも合致するものがなかった。まぁもう印鑑なくても手続き進められましたが…

・長年通っていたカルチャーセンター挨拶に行き、同窓会差し入れお菓子を持参し、8通ほど届いていた年賀状訃報を返信。これでひととおり周知は終了(スマホ個人情報で開けられず退会のみ。紙の連絡帳は残っていなかった)

~本人について~

・靴のかかとを踏んだまま歩き、加齢臭が漂っていて、身だしなみが整えられなくなっており、認知症の前段として「ものわすれ外来」へ誘導するなどしてみた。が、CTスキャンで異常が出ず長谷川式もクリア。そうなると「私はまだ大丈夫」とケアマネ等の地域医療に繋がってくれなかった。もし繋がっていれば「死後しばらくしてから発見」にはならなかったのでは

・母と叔母、姉妹で同じ養護老人ホームに入るべく下見をスタートした2週間後の急逝だった。何度も何度も入居を勧めたため、一度「私の友達で、そんなとこ入っている人ひとりもいない!」と返された。「その人たちもひとり暮らしなんですか?」と喉まで出かかってやめたが、今となっては言っておいた方が自分の気は済んだと思う。何かあった時のために管理人の連絡先を教えてくれ、合鍵をくれetc.、何を頼んでも一顧だにされなかった。靴は一緒に買いに行った

半年ほど前からスマホがみつからない、どこかで落とした」。しかし実際は家の中の目につくところにあったらしく、特殊清掃の人が内見後に「とりあえずお手元にあった方がいいと思って」と渡してくれた。既にスマホ認識できなくなっていたのだ

・もう1人の兄弟と不仲だったせいで、公正証書作成していた(兄弟遺留分請求できないので、そのガードのため)。これがあって、もろもろの手続き我が家で一手に引き受けられたのは幸いだったし、なければ「相続人全員の同意」が必要だったため、ものすごく時間がかかったと思われる(代襲相続含め、対象者はあと4人いた)

自分フィードバック

銀行年金生命保険etc.書類はすべてまとめて1つのカバンに入れる。エンディングノートも書いた。サブスク関連もまとめて記入

銀行口座は2つに、生命保険は1つに絞った。印鑑も1つに。解約した銀行保険書類は捨てた

・家に入ってすぐの引き出しに現金10万円を入れた封筒を準備。家の鍵の予備、宅配ロッカー共通キーも封入し、封筒には郵便受けの開け方(右に2回、左に1回まわす的なやつ)を書いた

独身自分もこうなる可能性があるので、後に残る人が困らないようにせねばと強く思った。以上、お読みいただきありがとうございました。

Permalink |記事への反応(1) | 16:39

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2025-09-04

近江一郎氏についての記述

1931年植民』より、「帆船南洋慰問の旅」という記事

五十噸の補助機関つき帆船海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオインドに久しく滞留、仏教研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国事情を知りたいと希望している人々のためには最近東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。

『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。

南洋調査団(鎖国丸)長拓務省嘱託近江一郎氏一行十名ノ為ニ市公会堂ニテ送別会開催ニツキ山内校長出席

直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。

近江一郎氏の鎮国丸は最近琉球沖で難破し、船員一名死にました。詳細不明

1934年宗教文化誌 法華』より、音馬実蔵「看雲雑記」。

主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。

第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破体験を本として、其遭難顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物まこと稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである

『楚人冠全集』より、1937年杉村楚人冠バルサ」という記事

逓信省船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞主催団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。

1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音縁起について」という記事

昭和二十一から神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋貿易をしておったのでありますが、戦争たけなわになりますと、日本航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。

(中略)

はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。

これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。

(中略)

そういうものお土産にもって廻って、六年間というもの休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。

吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治発言

近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。

「いったい君はなにして歩いているんだ?」

「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房神戸区役所人夫をしている」女人夫ですね。「子ども小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。

『あすへの話題』より、1965年中村文夫のコラム

近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである

近江君と私は一年の時からの同級で、しかふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである

しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問精魂を打ち込んだのであった。

戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。

1974年川西実三の『感銘録』より。

私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこち設計を頼んだり資金相談にきたりした。

この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。


近江一郎の著書に『小舟を住家に南洋へ』『斜に視たる神戸一中』がある。『小舟を住家に南洋へ』は読めなかったが、大まかな内容は上記説明されている。『斜に視たる神戸一中』は、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉長崎京都東京知事歴任)」なども登場する。笑いあり涙ありの平和ものだが、支那事変日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸野田高等女学校入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。

Permalink |記事への反応(0) | 00:38

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2025-08-30

恋は呪い

大学生の頃にめっちゃ好きだった女の子がいて

完全脈ナシ片思いだったんだけど10年ぐらいずっと忘れられなかった

 

そいつ結婚したし、15年くらい会ってなかったから恋心も弱火になってたんだけど

この前あった同窓会ちょっと会話したらまた好きになってしまった

別にちょっと会話しただけで、脈ありと思ってないし、仲を深めていこうとは俺もそいつも思ってないのは明らか

でもそいつのことがまた頭から離れない

なにをするにしても「ああ、あいつと結婚してたらこんな会話してたかな」みたいな妄想が一生止まらない

 

なんか少し前にどっかの惚気増田

高校出会ったときから、俺の可愛い基準は妻」みたいなことを言っていて

その増田は無事に結婚できたからいいけど、うまくいかなかった俺は??

かわいい基準特定の女になって、でもそいつとは何もうまくいってない

そんな俺がどんな恋愛できるっていうんだよ

Permalink |記事への反応(2) | 17:09

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2025-08-29

10年後の8月だった

ZONEの「secretbase 〜君がくれたもの〜」を聴いてふと感傷に浸ったので書く。

先日地元中学校同窓会があった。10年どころか20年ぶりの旧友たちとの再会だった。参加前は正直顔を覚えてるか、名前を覚えてるか、当時のあだ名を覚えてるかなど心配だったが全く杞憂だった。20年ぶりというのに全然久しぶり感もなく、今の仕事や家庭の話、当時のゲームや拾ったエロ漫画の話や録画して観賞会ギルガメッシュないとの話などで大いに盛り上がった。

また帰省したということで連絡をし高校時代元カノに会った。彼女と付き合ったのは1年ほどだったが、別れた後も何だかんだで仲がよく、卒業後も年1くらいは食事に行く関係だった。ただここ数年はタイミングが合わなかったりコロナだったりで会えておらず気づいたら約10年ぶりの再会だった。彼女特に久しぶりという感じもなく、「10年経っても変わらないものだな」とお互い笑い合った。久しぶりに彼女の口癖を聞いて思わず心が微笑んだ。

子どもの頃に「secretbase 〜君がくれたもの〜」を聴いた時は歌詞に涙をして、いつか自分にも10年後の8月の再会を祈ることがあるのだろうかと思っていた。しか現実10年後どころか20年後の再会も、まるで1年ぶりの再会と同じようなあっけないものだった。振り返るとむしろ大学1年の年末高校時代の友人たちと1年ぶりに会った時の方が喜びや感動が大きかったように思う。人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する「ジャネーの法則」というのがあるがまさにそれなのかもしれない。一方で母数の大小関係なく、思春期の頃のような多感さは自分の中から失われているのだろうなと改めて気づかされた。高校時代元カノと別れた際、もちろん彼女と別れたこ自体も悲しかったが、それ以上に「彼女に抱いていた好きという感情自分の中から消えていってしまうこと」で泣いたりしていた。そして今ではすっかりその感情は失われてしまった。

10年後の8月が来ても、それを受けとめる感受性がなくなってしまっていて悲しい」というのを書きたかったのだが、いい感じのオチが思い浮かばないので終わり。

Permalink |記事への反応(3) | 23:33

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2025-08-24

好きだった女に会ってきたら男女論とかどうでもよくなった

俺は高齢独身未婚非モテ子無し低収入弱者男性からツイッターの男女論とか好きだったけど

この前、学生時代に好きだった女を交えた小規模同窓会飲み会に参加した

ちょっと会話した程度なので性的な便益は何も得ていないけど、彼女は相変わらず魅力的で知的で誠実な人だった

現実の女に真正から「人」として扱ってもらえると、なんか男女論とかどうでもよくなった

Permalink |記事への反応(0) | 23:12

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