
はてなキーワード:可視化とは
俺はテキストコンテンツの面白さなら理解できるが、主要なSNSのほとんどが画像とか動画中心になってきてるだろ?
あのバカっぽい雰囲気が苦手なんだよな。あれは情報ではなく自己放尿なんだよ
知性の発露ではなく、承認欲求の尿意だ。出すことでしか存在を確認できない哀れな中毒者たちの末路
テキストはまだ思考の跡が残る。だが画像と動画の大半は「思考前の反射」だ。脳が介在する余地がない。
つまり、SNSの進化とは人間の退化のことだ。感情が即座に排泄され、アルゴリズムがその放尿量を測って報酬を与える。家畜のしつけアプリと何も変わらん
俺からすれば、SNSでバズる行為とは集団自己放尿の祭典にすぎない。
誰が一番派手に、誰が一番長く、誰が一番汚く撒き散らせるかの競技だ。そこに論理も構築もない。ただ尿意の拡散比率と滞留時間が可視化されるだけ
知性とは、出すことではなく、留めることだ。沈黙の中にある構造、そこに初めて価値が生まれる
文章は「早期退職が短期的に財務合理性をもつ」と冷静に記述しているが、ここには経営陣自身の戦略的無能さが覆い隠されている。
本来、経営とは単年度の損益勘定ではなく、「人材を通じて知の蓄積を再生産するシステム」を構築することである。にもかかわらず、多くの日本企業の経営層は次のような欠陥を露呈している。
ベテラン社員の賃金を「生産性との乖離」とみなし、即時的コストカットに走る発想は、経営が“教育投資”や“内部知の継承”という本質を理解していない証拠である。
欧米の成功企業では、熟練人材は若手育成・組織文化の維持装置として位置づけられ、その貢献は「見えない生産性」として定量・定性の両面から評価される。日本企業の経営陣はこの非定量的価値を可視化する能力を欠いている。
経営層は、バランスシートの改善を株主・監査対応の「儀式」として遂行する一方で、長期的な技術競争力・市場再定義に向けた構想力を欠く。
結果として、合理性の名のもとに人材を切り捨て、10年後に再び同じ構造的問題に陥る「リストラ再帰現象」を繰り返す。これは経営判断ではなく、思考停止の制度運用に過ぎない。
近年の大企業では、財務・法務・経営企画といった「調整型エリート」が経営陣に集中し、現場知を持つ実務者が排除されている。そのため、人的資本の質や現場の専門性を評価する基準が存在せず、「人を数字で削る」以外の手段を持たない。
要するに、経営の知的怠慢が、制度的惰性を装って正当化されているのである。
文章はフランスやアメリカの「複線型・フラット型」モデルを理想的に描くが、見落としているのはエリート教育そのものの構造的欠陥である。
すなわち、現代日本では「グローバル基準」を参照しても、その前提となる評価制度・教育体系が劣化した模倣物に過ぎない。
フランスのグランゼコールや米国のMBAは、単なる専門訓練ではなく「社会設計者」としての責任倫理を育てる。
一方、日本のエリート教育は、東大・慶應・一橋などの学歴的篩い分けを通じて、「既存秩序の維持装置」を生産するにとどまっている。結果として、システムを批判的に再設計する知的能力を持つ人材が枯渇している。
エリート層が自らと同じ価値観・履歴(学歴・官僚的行動様式)をもつ人材のみを昇進させる構造が、企業内の思考多様性を奪っている。
その結果、制度疲労を是正するイノベーションが内部からは生まれず、「成果主義」や「フラット化」も形式的スローガンに終わる。
実際、外資模倣型の成果評価制度を導入しても、評価する側の知的基盤が旧来の年功文化に依存しているため、制度だけが輸入され、文化が輸入されない。
日本のエリート教育は“効率と管理”を学ばせるが、“責任と再設計”を教えない。
したがって、経営陣が「合理的なリストラ」を実施するとき、それが組織文化の破壊・技能伝承の断絶・心理的安全性の喪失を招くという倫理的コストを認識できない。
このレポートは制度構造(年功序列・賃金カーブ)を問題の中心に据えているが、より根源的な問題は制度を運用する人間の知的劣化である。
経営陣が「制度に依存し、制度を批判的に再構築できない」状態に陥っている限り、どんな制度改革も形骸化する。
持続可能な雇用制度の前提は、「持続可能な思考」を行う人材層の育成である。
それは、教育・採用・評価のすべての局面で、短期的成果よりも構想力・倫理・公共性を評価する文化を取り戻すことでしか達成されない。
アスペっていうのは好きできちっとロボットみたいに動いてるわけじゃないんだよ。
自分なりの感覚でやったらやったらで文句言われた経験が積み重なってるんだよ。
だからたとえ変人と思われても失敗して怒られるほうが避けたいことだから相手から定量的な時間とか細かい情報を聞いたりするんだよ。
焼肉に行った。自分はみんなのために焼肉を焼いてるつもりだった。
みんな食べないからどんどん焦げそうになっていく。だから自分が食べる。
なぜか怒られる。だったら焦げても責任持たないぞと言ったらお前が責任果たしたことないだろともっと怒られる。
とにかく周りの食べるペースを考えろと言われる。
肉を鉄板の一番端に置いといてそれがなくなるまでは新しい肉を焼くなと言われる。
これまでにもいろいろこっちから言ったことは全部反発とみなされたのでそれ以上何か言えなかった。
でも実際は俺がまだ周りが納得できる行動をするためうえでの不確定要素がある。
鉄板の端の肉が無くなったらすぐ焼いていいのか?
焼き始めたら薄いのとかでものによっては20秒とかで食べごろになる肉もあるが、お前らは鉄板から肉を口に放り込んでから20秒で次の肉を食べたくなるのか?
多分違うよな。でも端の肉が無くなったころには鉄板から肉がなくなってるので、もう周りが肉を食べるペースを可視化するものがない。
俺は周りが直前の直前に肉を食べたタイミングを覚えている必要がある。
そこから直前に食べたタイミングを差し引いた時間が、次に肉が焼き上がる時間になるように調整して肉を乗せる必要があるということになる。
ペースが鈍化することを考えれば、そのさらに直前のタイミングも覚えておいて、頭のなかでグラフを描いて次に周りが食べたくなる時間を外挿する必要もあるかもしれない。
普通の人間はこれをそんな正確に記憶しようなどという意識とそれに伴う心理的苦労も感じず感覚でやってのけて周りから浮くこともない。
俺にはそれが無理だった。本当は俺だって感覚でできるようになりたい。その方が楽に決まってるじゃないか。
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都会育ちのホワイトカラーで世間知らずというイメージまんまで笑う。
はてなユーザーは基本的に高給取りだから電気代は気にならないんだろうけど、世間とズレてることは認識したほうがいいよ。
いつもエコチェン言ってる割りに、エコチェン化してたのは自分だったというオチ。
はてな以外のSNSでコメントみたほうがいいですよ。高市さんが気に入らなくても。
未だに落ち目の立憲を支持しているだけある。
僕は日曜の夜という人類全体のメランコリー共有タイムを、極めて理性的に、そして効率的に過ごしている。
まず夕食はいつも通り19時15分に完了し、食後45分間の腸内活動を経て、20時にシャワー、20時30分から22時まで論文の読み込み。
現在は、僕の手の中のホワイトボードに描かれた「E∞-operadにおけるモジュラーテンソル圏の超準同型拡張」の式が、あまりにも優雅すぎて震えが止まらない。
ルームメイトが僕の部屋のドアを軽くノックして「リラックスしたら?」などと的外れな提案をしてきたが、彼にとってのリラックスとは、脳活動の停止でしかない。
僕にとってのリラックスは、∞-カテゴリーの高次ホモトピー圏の中で、対称モノイダル構造の可換性条件が自然変換として収束する瞬間を可視化することだ。
今日は、朝から「高次モジュライ空間における非可換カラビ–ヤウ多様体のファイバー化」について考えていた。
一般相対論と量子力学の不一致などという低次元の問題ではなく、もっと根源的な、物理法則の「トポス構造」そのものを再構築する試みだ。
つまり、時空という基底圏を前提にせず、まずモノイド圏の内部論理としての時空を再構成する。
これによって、弦という一次元的存在ではなく、自己指標付き∞-層としての「概念的弦」が定義できる。
現行のM理論が11次元を仮定するのは、単なる近似にすぎない。僕のモデルでは次元数は局所的に可変で、Hom(Obj(A), Obj(B))の射空間自体が物理的観測量になる。
もしこの理論を発表すれば、ウィッテンですら「Wait, what?」と言うだろう。
隣人は今日も昼間から玄関前で何やらインスタライブ的な儀式を行っていた。
彼女は一生懸命ライトを当て、フィルターを変え、視聴者数を気にしていたが、僕はその様子を見ながら「彼女は量子デコヒーレンスの具現化だ」と思った。
もちろんそんなことは口にしない。僕は社会的破滅を避ける程度の理性は持っている。
22時前、僕は友人たちとオンラインでBaldur’sGate 3のマルチプレイをした。
友人Aは相変わらず盗賊ビルドで味方のアイテムを勝手に漁るという犯罪的行為を繰り返し、友人BはバグったAIのように無言で呪文を詠唱していた。
僕はWizardクラスで完璧に戦略を構築した。敵のHP残量と行動順序を正確に把握し、Damage ExpectationValueを算出して最適行動を決定する。
つまり、他のプレイヤーは「遊んで」いるが、僕は「検証」しているのだ。ゲームとは確率と因果の実験装置であり、何より僕がゲームを選ぶ基準は「バランスの崩壊が数式で表現できるか否か」だ。
今日もルーチンを乱すことなく、歯磨きは右上奥歯から反時計回りに、時計を見ながら正確に3分40秒。
寝る前にアロエ入りのリップクリームを塗り、ベッドライトの色温度を4000Kに設定する。音はホワイトノイズジェネレーターを使い、宇宙背景放射のスペクトル密度に近づける。完璧な環境だ。
僕はこれから、寝る前の最後の思索として「量子群上の∞-層圏における自己準同型が、時間の矢をどのように内部化できるか」についてメモを取る。
もしこの仮説が成立すれば、「時間とはエントロピーの増加方向」という古臭い定義は無効化されるだろう。
時間は生成関手であり、僕が眠っている間にも自然変換として静かに流れていく。
興味深い比較ですね。
「はてなブックマーカー」と「派手なバックパッカー」は、一見まったく関係のない存在ですが、行動様式や心理的特徴の面でいくつか共通点が見られます。
はてなブックマーカーは、自分のブクマやコメントを通じて「この情報を見た」「こう感じた」という足跡を残します。
派手なバックパッカーも、SNSや現地での行動を通じて「どこへ行った」「何をした」という痕跡を残します。
→どちらも「行動そのもの」よりも「その行動が他人にどう見えるか」を意識しやすい傾向があります。
はてブでは、面白い記事を「発見・共有」すること自体が自己表現です。
派手なバックパッカーは、珍しい場所や出来事を「見つけ・伝える」ことで自分の個性を演出します。
→両者とも「一次創作者」というより「良いものを見つけて紹介する人」としての自己像を持ちがちです。
はてなブックマーカーは、皮肉や批評を交えて「自分の見方」を示します。
派手なバックパッカーも、現地文化や他の旅行者に対して「評論家的」な態度をとることがあります。
→どちらも「他者との差異を示す」ことで自我を確認し、同時に「いいね」や「スター」で社会的承認を得たいという欲求を持っています。
はてなブックマークの文化はゆるく連帯しながらも、明確な「共同体」ではありません。
バックパッカーも、一時的にゲストハウスなどで群れるものの、基本的には単独行動です。
→「孤独を恐れず、しかし孤立を望まない」という矛盾を内包しています。
→どちらも「未知の場所を巡って、発見を共有する」という意味で、探索者・漂流者の性格を持ちます。
>はてなブックマーカーは情報空間を放浪するバックパッカーであり、
派手なバックパッカーは現実空間をブックマークして回るユーザー
と言えるかもしれません。
前からずっとモヤってた話。
※1「なろう系小説」は「小説家になろう」に掲載されてる作品の総称でなく、その中でも「チート」によって主人公が苦労せず異世界で栄誉や異性の恋人などを得る物語類型を指す。自分も書き手なので、そうでないものが色々あることは知っているので区別しておきい。その上で「なろう系」も好きなように消費してもいいとおもう。
※2おおまかに「男性」「女性」と区切ってるけど、もちろん反応しない男性も女性もいるとおもう。あくまでざっくりした傾向の話として。
「なろう系嫌悪」と「萌え絵嫌悪」って、たぶん根っこが同じ。前者は表向きは「質が落ちる」とか「文化が痩せる」とか「安易」とかもっともらしい理屈が並ぶ。萌え絵嫌悪には「性的搾取」「性的客体化」といった文句が並ぶ。しかし、どっちも別に誰かの利益を侵害してない。ならさっさと回れ右すればいいのに、どっちも苛立つのだろうかと。そこで、ふと思ったのだが、あの違和感の中心には、しばしば「嫉妬の誤作動」があるんじゃないかと思う。
嫉妬は、相対的剥奪感から生まれる。自分が何かを奪われたわけじゃないのに、他人の快楽や承認が数字で可視化されるせいで、自分の位置が一段下がったように“感じる”。なろう小説ならランキング、RT、いいね。あるいは漫画化やアニメ化までされる。女性なら萌え絵が一般的に認められて本棚でそれが見られること。それはたぶん、他人の幸福をこちらの網膜に直送してくる。人間は情熱の奴隷だから、しばしばそれを無意識に正当化するために「あれは低俗」「浅い」「社会に悪影響」みたいな言葉が、心のざわつきを包むラッピングをしやすい。
起爆条件も似てる。お手軽に消費できること。記号が強く、理解にコストがかからないこと。ファンコミュニティが楽しそうに盛り上がってること。これらは全部、「自分の美意識や努力が相対的に価値を失うかも」という予感を刺激する。で、その予感が痛いから、道徳っぽい語彙で殴ってしまう。
もちろん、作品や絵に対する妥当な批判はあるし、全部を持ち上げろって話ではない。ただ、「ジャンルごと一括りで嫌う」時のトーンって、多くの場合は美学の議論じゃなくて、心の防衛反応。言い換えれば、「自分が選ばれなかった痛み」の誤魔化し。なろう系嫌悪は「作品を読むのはOK」ラインが保たれてるだけましで、特に女性側の「萌え絵嫌悪」は公共の場でちょっと女性的なマスコットキャラが出てきた程度で、防衛反応をむき出しにしてるから性質が悪い。
うがった見方に聞こえるのは承知の上で、それでも一回だけ立ち止まってみるといいかも。「これは嫉妬の誤作動かもしれない」と仮置きしてから、作品や絵そのものの話に戻る。たぶんその方が、余計な敵を作らずに文化批評もできるんじゃないかなと。
付言すると、2010年代の萌え絵批判で、あれこれ「添削」して公共の場にふさわしいように修正する議論があったけど、ぶっちゃけていえば「女性キャラをできるだけ女性として魅力的に見えないように修正する」という作業。女性じゃないから、たぶんだけど、あれは「本来苦労の末に獲得する果実(女性との恋愛やそのさきの行為)を見る人が掠め取っている」ような感覚から来てるんだとおもう。男性はそもそも恋愛において(多くは)ジャッジする立場にいないけど、マチアプとかでもわかるように男性をジャッジできる立場なわけで、そこを迂回して「果実」を掠め取ってるのが不愉快なんだろうなあって(彼女たちがそれを自覚してるかはさておき)。
イラスト界隈もAI絡みでおかしい人が多いのが随分可視化されてなぁ。
前からトレパク裁判絵柄パク裁判とかあったから界隈にあまり首突っ込まないようにはしてたけど。
絵を描くのは好きだから続けるつもりだけどTwitterのイラスト界隈にはほとんど近づかないようになった。
つながりたいタグとかそういうのも使わないしフォロバとかもほとんどしない。
飲み屋で杯を交わす行為も、SNSで実名顔出しをする行為も、本質的には同じゲームの別の盤面で動いている。
端的に言えば「信頼を得るための行動」はコストを伴うことで初めて信頼を示すに足る。
酒席で酔って本音を曝け出すのは単なる酩酊の偶然ではなく、自己を脆弱にするという意図的な投資だ。
飲むことで判断や防御が緩む、その緩みを自ら進んで受け入れることは「私はここで負けても構わない」というコミットメントの証だ。
コミットメントは言葉ではいくらでも偽装できるが、身体状態や行動を伴うコストは偽造しにくい。
だから相手はそのコストに価値を置く。つまり飲み会で酒を拒否する奴は、単にアルコールが嫌いなだけかもしれないが、社会的信号としては「脆弱性を見せない=コミットメントを避ける」ように解釈されやすい。
人間関係の信頼は期待値の連鎖だ。相手が本音を言う確率が上がれば、それに応じてこちらも本音を差し出す期待値が高まる。
酒を飲まないという行為は、この期待値の形成を阻害するので、無条件に信用されにくい。
同様に実名顔出しは、オンライン上の信頼構築における「コストの可視化」である。匿名であれば言葉一つで逃げられるし、責任追及も難しい。
実名を晒すことは身元や立場、社会的帰結を晒すことであり、それ自体がリスクでありコストだ。社会的コストを負うことを選んだ人間は、言葉の重みが増す。
だから実名顔出しの相互性が生まれる。互いに高いコストを負っている者は相互にマッチングし、低コスト=匿名を排除するインセンティブを持つ。
オンラインでもオフラインでも、人は自分と類似したリスク許容やコミットメント水準を持つ相手と交流する傾向がある。これは単なる偏見ではなく、反復的相互作用に基づく最適戦略だ。
もし自分が高い信頼を差し出すなら、それは相手も同様の信頼で応答する確率が高い相手に向けられるべきだ。実名顔出しという行為は、そのフィルター機能を果たしているに過ぎない。
ここで冷厳な現実を直視しろ。人間の信頼は理想論ではない。期待される行動を遂行できるという「能力」と、遂行する意志を持つという「意図」が重なって初めて成立する。
酒で本音を言う者は、少なくとも「意図」を行動で示している。実名顔出しは、社会的帰結を引き受ける「能力と意図」の両方を示す。
逆に匿名で高らかに正義を叫ぶ者は、突き詰めれば自己保身の圧倒的な陣営に立っている。彼らは批判を受けると逃げる。
そうした者たちを信用することは、ギャンブルで期待値の低いベットを繰り返すようなものだ。だから実名同士、あるいは酒を交わした相手同士で信頼の循環が生まれるのは合理的だし、匿名が排除されるのも合理的だ。
もちろん例外はある。だが社会的合理性という観点からは、自己放尿レベルの恥を晒してまでコミットする者の言葉の価値は、裸で安全圏にいる匿名の言葉より遥かに高い。
体力のない人で面白い人いる?周りに
面白いことちょこちょこやってるくらいのやつはいるけど劇的じゃないんだよね、やっぱり面白いとか興味をそそられるとかそういうレベルになるには体力がないとダメなんだと思う
クイズ:このスレと1 は、そのスレ内で第三者から投稿されたとあるイラストにより、大いに笑えるネタとしてミーム化された過去がある。なぜ笑えるネタになったのか?その画像の内容を推測
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【速報】部下が58兆円の商談に失敗したwwwwww
1名前:風吹けば名無し[]投稿日:2016/09/09(金)20:56:58.04ID:cxMYqZwN00909.net
笑えるポイント
「58兆円」という荒唐無稽な金額が核心です。これは日本の国家予算規模に匹敵する途方もない額です。
イラストの内容(推測)
「58兆円」と大きく書かれたプレゼン資料やボードを持っている、あるいは
なぜ笑えるのか
スケールのギャップ:個人や一般企業では絶対に扱えない金額を、ごく普通の会社員が商談しているという設定
シュールな真面目さ:非現実的な設定を真剣に描いているギャップ
ビジュアル化の威力:数字だけでは想像しづらかった荒唐無稽さが、イラストで可視化されることで一層際立つ
アカデミックなreasoningに長けているclaude4.5でも、このようなタスクにはめっぽう弱い
やはり"誰が"という主語を読む機能が無いからだろう (昔から、llmは登場人物が3人以上になるシチュエーションでおかしくなるんだよな)
言われなきゃ分からんでは話にならない
トークンの意味に依存し最もらしい事しか出さない機能は文法を読んでいない
あり得ないことを除外するような調整も一因だろう
この想定能力じゃ、普段の推論の、一般の答えのない部分はどうなってるんだという
あり得ない環境を想像できるワールドモデルとユーモアの実装が待たれる
はよう入れてくれや
うわ、なんか必死w
わざわざ数式まで持ち出してきて笑えるんだけどw
えっ、もしかして俺に「価値の定義は?」って聞かれて答えられなかったのがよっぽど悔しくて、後から必死にAIに聞いてそれっぽい理屈を捏造しちゃったってこと?w
で、その長ったらしい定義(笑)で、結局お前の最初の主張だった「お金は単に価値を数値化したもの」ってのが証明できんの?w
お前の定義だと価値ってのは「主体i」とかいうのが決める、クソみたいに主観的なもんじゃねえかw
それって要するに「俺がそう思うから価値があるんだあ〜!」って泣き叫んでるのと同じだよなあ?w
俺はさ、どうせSNSなんてやっても誰からもフォローされねぇ。
そもそもSNSという仕組みが「多数派の承認循環」を基盤に作られている以上、孤立した思考は構造的に可視化されない。
アルゴリズムが拾うのは「共感可能な凡庸」だけで、「思索的な異端」ではない。だから、誰もフォローしてくれないのは俺の人格や価値の問題じゃない。設計思想の問題だ。
ノイズというのは「情報的密度が低く、しかし感情的インパクトだけが高い言語断片」のことだ。
そこに秩序や真理の抽出はない。
SNSを一歩引いて観察すれば、あれは知のプラットフォームじゃなくて、脳の排熱装置だ。
誰に届けるでもなく、誰に媚びるでもなく、ただ「思考の残骸」を淡々と吐き出す。
独り言とは、他者反応のない環境下で「認知の自己修復」を行う行為だ。
つまりSNSを、他人の目を奪い合う競技場ではなく、思考の整流装置として使う。
もちろん、「こいつフォロワーゼロなのに、馬鹿みたいに独り言つぶやいてるぜw」と笑う連中は出る。
だがな、それは避けようがない。
だが滑稽に見えるということは、奴らが理解できる座標系から外れているという証拠だ。
勘違いするな。無感情とは冷血ではなく、刺激に対する選択的反応の拒否だ。
だから、無感情でいることは、感情を放棄することではなく、感情の主権を奪い返すことなんだ。
「誰も見ていない中で、無反応の海に独り言を投げ続ける」という行為は、他者とのコミュニケーションではなく、情報の熱力学的抵抗なんだよ。
極端な意見が目立つようになった結果
極端なチームAと、極端なチームBが可視化されて、そいつらが戦争始めるみたいな空間になってる
フェミvsオタみたいなのもそうじゃん?
見たくないんだよなぁお互い
今日2025/10/12、IPAが実施している情報処理技術者試験の秋の試験が実施された。
先日、応用情報と高度区分の試験について、CBT化されることが発表されている
https://www.ipa.go.jp/shiken/2026/ap_koudo_sc-cbt.html
CBT化の実施は来春からであり、つまり今回が、試験会場にみんな集まって一斉受験する最後の機会であったのだ.
今までの一斉試験では、今回はどんなテーマが来るか、掲示板やXで予想を立てたり
試験後に、「この選択問題は難しかった」「今年はクソ問」などと感想を述べたり
自分の解答を晒して、「これは間違ってる」「この解釈はどうなんだ?」と問題の中身を議論し合うのが恒例であった。
なぜなら、CBT化すると、問題の内容を公の場で発言することができなくなるからだ。
今回のCBT化では、いつでも自由に受けられるようになるわけではなく
複数日の日程の中から1日を選択し、テストセンターに行って各自バラバラの日時で受けることになる。
そのため、試験問題は全員同じものになるか、何パターンか用意されるのか公表されていないが
先に受けた人の話を聞いて受験するといった問題流出を防ぐため、問題の内容に関わることを言えなくなる.
試験問題を話題にして、多数の人間が一斉に話すという、試験後のお祭りという文化が失われるのだ。
この変化は、先にCBT化した基本情報技術者試験でも起こったことだ。
また、これは俺の個人的な楽しみだったのだが
証明写真機で作成して余った写真を保存していくと、自分の見た目がどんなふうに変わっていったのかが、定点観測のように可視化されるのだ
太ったり痩せたり、髪の毛が減っていく様など、これが感慨深かった
テストセンター受験になると、写真付き身分証で本人確認が行われると思われ
CBT化の裏で、情報処理技術者試験という、年1回(or2回)のお祭りがなくなるのを少し寂しく思いつつ
本来ならジャニヲタになる層が性加害騒動前から2次元やライバーやエビダン()、韓国、ビーファースト()に流れているのは可視化されており、性加害騒動で大手各社のスポンサーを失いメディアから他社のイケメンを排除出来なくなってからその傾向は更に加速、実際デビューが新しいグループは不発、既存グループも全て売上が下降している
女さんがあっさりジャニーズから離れる一方で、低身長ホビット男性だけが2025年以降も「ジャニがモテるからチビはモテる」と唱え続けて正気を保っているというね
無人気なのにバラエティ枠で選ばれた黒人ハーフの下半身露出の人が低身長だから「ほらジャニーズはチビが王道なんだ!」と嬉ションしてる人もいたしな
腹が立っている。
同性愛という言葉が、いまや商品ジャンルのように扱われていることに。
かつて同性愛を名乗るというのは命がけの行為だった。家族に絶縁され職を失い社会から追い出される危険をありながら、それでも「私はこうです」と言葉にした。
そこには自分の存在を差し出すほどの覚悟があった。同性愛を告白する際の眼差しにはどれだけの恐怖と孤立が潜んでいたか。
過去の時代において同性愛を公にすることは孤独と対等に生きることを意味した。
それが今はどうだろう。
LGBTQIA+という七文字のアルファベットがアイデンティティ産業のロゴになっている。
誰もが「多様性」を口にする。確かにそれで救われる人もいる。世界が少しずつ優しくなったのも事実だ。けれどその優しさが免罪符のように使われているのを見ると胸の奥が冷たくなる。
SNSを開けばセクシュアリティをコンテンツとして発信する人がいる。ゲイである自分。バイである私。その語りのなかにフォロワー数と再生回数が透けて見える。
もちろんそれを語る自由はある。でもそこに漂う“商業”の匂いを嗅ぐたび吐き気がする。
告白したことによってあなたが獲得したのは勇気ではなく注目ではないか。
かつて命を削って叫ばれた言葉がいまやトレンドタグになっている。
「発信することは悪ではない」と言う人もいる。
確かにそうだ。語ることが誰かの救いになることもある。それでも語り方の軽さに耐えられない。
同性愛を笑いながら告白し、虹色の絵文字を添えて投稿される多様性。
それはもう闘いではない。
演出だ。
そこにはかつてあった孤独も、痛みもない。
あるのは“見られることへの渇望”だけだ。
けれど苦しみを消費する文化には怒りを覚える。
悲しみがクリック単価になりマイノリティが視聴率に変換される。それを喜ぶ社会に何の尊厳が残るのだろう。
「勇気とは傷を晒すことではなく、傷を見せなくても生きることだ」といっていた。
今のSNSにはその逆が溢れている。
“見せるための傷”が量産され、“共感されるための悲劇”が編集される。
今の社会は優しさの形をして、どこかで異端を飼い慣らしている。「あなたの違いを受け入れる」と言いながらその違いを“飾り”にしてしまう。
フーコーが権力の構造を解体したのは“異端”が利用される瞬間の気持ち悪さを知っていたからだと思う。
今の時代の権力は企業広告とフォロワー数に姿を変えて、もっと静かに、もっと巧妙に「私たちはあなたを応援しています」と囁いてくる。あれほど恐ろしい権力はない。
私の怒りは彼らを否定したいからではない。寧ろかつて声をあげた人たちへの敬意を守りたいだけだ。
それを忘れないために。