はてなキーワード:受験シーズンとは
動画もゲームもちゃんと探せば時間のほうが全然足りない状態だったと思う。
漫画に関しはもはやヤケクソかってぐらいの量だった。
そもそも普段の土日でも全然読み切れない量が投下されているわけであり今が過渡期なのか単なるピーク期なのか、もはや漫画は基本無料娯楽の一種にさえなりつつあるだろう。
一ヶ月無料娯楽生活を続けてきたことで大まかな型が出来てきた。
漫画 → キャンペーンで一気読みしつつ気になる作品はチケット読みを続ける形。
ゲーム → 貰ったゲームを溜め込んでおきつつも普段はソシャゲを無課金(スタレ・ゼンゼロをメインでやりつつ、気が向いたときに学マスか新作に手を出していく感じ)。
音楽 → Spotifyで完結している。公式のMVとかも見に行きたいんだけどちょっと時間が足りない。
アニメ・ドラマ → Tverやニコニコで追いかける。名作のリバイバルは追う余裕がない。
映画 → Abema。毎週無料の玉石混交が凄いが「べいびーわるきゅーれ」や「きっとうまくいく」なんかが見れることがある。
キャンペーン+普段からの無料を組み合わせていけば、いくらでもタダで遊べてしまえているように感じる。
フルタイムで働いてるサラリーマンとしては、無料で貰える娯楽の中から特に味わいたいものを選んでいっても全然時間が足りないように感じてしまう。
この気持ちが12月まで続くのか、「選択肢が狭すぎる……」と嘆き出すのか、それを確かめるのがこの『無料で味わえる娯楽だけで1年過ごしてみよう』ってチャレンジなわけだな。
ラーメン発見伝シリーズの無料とかあったけど手を出す時間がない。
ひとまず楽しめる範囲で楽しんで手に入らなかったものは忘れることにする。どうせ無料だから何も損してないんだ!
・二月の勝者
受験シーズンいよいよ最終決戦というタイミングで全話無料は受験生に読ませる気無さすぎで笑ってしまう。まあこれ読んでる受験生がどれぐらいいるのかって話だが。世の中には頑張って勉強してるような小学生もいるのに、休みの日は家事や雑事を追えたらひたすら漫画読んでゲームやってるだけの人生ってのもなんなんかなって気がする。現実から離れる時間がないとやってられないんだから仕方ないとも思うし、そうやって離れたくて仕方ない現実を抜け出すためにもっと頑張っておくべきだったのかなとも思う。
ガイジンの勘違い日本っぽいアトモスフィアを再現するというカルトなコンセプトだったのに気づいたら設定がそこそこちゃんとしてきている。話が空中分解しない程度に世界観を構築していくうちに単なるおふざけからそれっぽい独自の世界が完成してしまっているようだ。漫画版は女の子がカワイイでヤッターなのが実際いい。
ビッコミ
・二月の勝者(全話無料)
郵便局の窓口で郵便物を出すときあるじゃん。郵便局員さんってどれくらい個人情報見てるのか気になった。
もし自分が郵便局員さんだったら、受験シーズンに「〇〇大学」とか書かれた封筒を持ってきた若めの人間が来たら、「〇〇大学受けるのかー頑張れー」って思いそう。
他にも、辺鄙な郵便局なのに「東京大学」みたいな頭いい学校宛に書類送ってる子がいたら「すげー」って思うだろうし。
なんで大学ばっかなのかというと、大学宛の書類を窓口で送らなければならない用事ができたので、郵便局員さんに「こいつって××大学なのかw」って思われるとちょっと恥ずかしいなぁーって思ったからです。
彼女とは幼稚園から小中学校も一緒で、高校は別の学校だったが、大学でまた同じ学校に通うことになった。
高校時代、特に受験シーズンになってからは忙しくあまり連絡を取っていなかったのでお互いの志望校すら知らなかったが、受験会場でたまたま出会った時は本当にびっくりした。
他にも受ける大学が被っていたので試験会場まで一緒に行ったら受験番号が前後だったこともあった。
大学時代は学科は違ったものの、同じ授業を取ったり空きコマを一緒にして遊びに行ったりもした。
授業が厳しくお互い留年と隣り合わせな危機もあったけど、何とか乗り越えて無事に卒業出来たのは彼女がいたからだと思う。戦友のようだった。
社会人になって私が一人暮らしを始めると、彼女はその3年後に私の隣駅で一人暮らしを始めた。
「私が近くにいるから」という理由でその周辺で家を探したいと話してくれた時、私はとても嬉しかった。
でも家が近いからといって頻繁に会うわけでもなく、それはそれで私たちらしい距離感でいる。
私は彼女のことを自分の一番の理解者だと思っているし、彼女からも昔同じようなことを言われたことがある。
私達は歳を重ねていって、周りは結婚したり、子供を産んでいたりもする。
お互いに彼氏が出来たり別れたりで、将来を見据えた付き合いをするような相手はなかなかできない。
私はそれでも良かった。結婚願望も子供が欲しい気持ちもないから。
でも彼女はきっとそうじゃない。
彼女の恋愛相談を聞いていると、「あなたのこと大切にしねえ男なら必要なし!!!!!!何なら私の方があなたを幸せにできる自信が大いにある!!!!」と思うことがある。
恋愛で上手くいかず心に傷を負い、自己肯定感がどんどん下がっていく彼女をそばで見ているのはとても辛い気持ちになった。
「もう良いじゃん、もしこのまま良い人が現れなかったらマンションでも買って一緒に住まない?」
彼女が求めているのは、やっぱり自分を幸せにしてくれる「異性」なんだと思う。
「自分のことを好きだと言ってくれる人がいればいい。こちらが相手に求める条件とか言ってられない」ということをポロッと口にしたことがあった。
そんな自分に自信がないような発言すんな!!と思いつつ、それでも、傷ついて「私が相手に条件を求めるなんて烏滸がましいのかもしれない」という気持ちにまでなっていても、彼女の心の隙間を埋められるのは「異性の誰か」なんだと思う。
だけど、私が埋められる隙間はないのかもしれないと思うと、やっぱりどこか寂しい気持ちになる。
特定の誰かを非難したくないからちょっと落ち着いたタイミングで書くんだけど、遅刻癖って物事の捉え方の問題で、小手先のテクニックじゃ改善しないんだよね。
ぶっちゃけ、「まだ家を出るには早いかな」と思うタイプって、時刻を"点"で捉えてるんだよね。実際は"崖"なのに。
イメージしやすいように言えば、"ダーツのど真ん中"を到着時刻だって考えてるタイプ。
そのど真ん中ピッタリに着くのが良いことだと思ってて、それより前に着いても後に着いても、同じく中心から逸れた、損だ、くらいでイメージしてる。
だから、早く出すぎたらど真ん中より前に到着してダメだし、遅く出たら遅れちゃった、くらいな感じになる。
前に着いても後に着いても、予定時刻より逸れたという点で同じだとイメージしてるから、そうなる。
実際には、日本語話者にとっての日本社会での待ち合わせとか時刻に対する感じって、チキンレースなんだよね。
断崖絶壁に向かってバイクで全力疾走して、ギリギリでブレーキを踏んで、より崖に近い方が度胸があるって言うアレ。
俺が高校受験生とかにアドバイスしてたのは、近所の交通量の多い国道とかの信号に全力疾走の自転車でブレーキかけるなら?ってやつ。
ブレーキが遅れたらさ、ガンガン車が行きかう国道に突っ込むわけで、まず間違いなく死ぬじゃん。
(もしかしたら運よくトラックとかが超絶テクニックで避けてくれるかもしれないけどさ。まあ死ぬよね)
普通に考えたら、全力疾走状態の自転車は、かなり前からブレーキをかけて、ちょっと前で止まるじゃん。
なんだったら、どの辺からブレーキ掛けたら良いか、普通の運転で何度も練習するよね。
大学受験会場に向かうのは、まさにコレなんだよね。
だから、行ったこともない会場へのやったこともない乗り換えで時間ちょっと前に着くように考えて行動するとか、自殺行為なわけ。
知らん国道の手前まで、地図確認しながら自転車で全力疾走して突っ込むの?ブレーキミスったら死ぬのに?
到着時刻は断崖絶壁で、そこを1秒でも越えたら崖の下に落ちて死ぬの。
今日初めて乗るバイクでブレーキの利き具合も判らず、路面が湿ってるか乾いてるかもわからず、なんだったら崖へのルートが下ってるのか登ってるのかもわかんないんだよ。
それでさ、いやー、ギリギリ攻めるっしょみたいなの、正気の沙汰じゃないわけ。(だからチキンレースなんだけど)
これは、物事への捉え方の問題だから、到着時刻がダーツのど真ん中だと思ってる間は、5分前に到着しようとか余裕をもって行動しようとか改善にならないの。
だって、5分前っていう点に向かってピッタリを狙おうとする限り、やっぱズレるんだもん。
常に、チキンレースに参加すると思って行動すれば、どうしたら良いかわかる。
天気予報で雨の予報が10%でもあったら、10%の確率で死んでも良いって思えるかってことだよ。
もっと言えばさ、冬の受験シーズンなんか、長期天気予報に頼らなくても雪になる可能性が数%でもあるなら準備しとかないと。
大げさだと思うじゃん。でもさ、新幹線で間に合うと思っても大事な商談だったら現地には前日入りするもんなんだよ。
だから、遅刻癖がある場合、やるべきことは「家を出るのに良いタイミングを計る」じゃなくて、「現地の周辺で時間を潰せる場所を探す」なの。
大事な待ち合わせだったら、複数ルートでの行き方を計画しておくの。バスは遅れるし電車は止まるし、天気は崩れるしタクシーは捕まらないの。
崖から落ちるくらいなら1時間だろうが2時間だろうが、早めに行動するはずなんだよ。
そして、何度も何度も練習して慣れてきてやっと、もっと攻めても良いかな?ちょっとチキンが過ぎたかな?とかになるの。
まあ、とはいえ遅刻癖はわかりやすいから話題になるだけで、濃淡あれど誰でもこういう考え方をしていることはある。
天気が崩れそうなのに富士山登っちゃったり、体調悪いのにテーマパーク行っちゃったり、連休最終日の遅い時間に長距離移動入れちゃったり。
こういう時に、切り替えて温泉と博物館めぐりにできるかとか、素直に延期できるかとか、有給の連絡入れてホテルに泊まれるかとか、どれだけ手札を揃えられているか次第なところはある。
あとはまあ、実は時刻に厳格な国ばっかりじゃないし、そういうもんだと割り切って生きていくのもアリではある。
世界には、午前9時オープンのお店が開いてねえなと近所に聞いたら、さあ午前中には開くと思うけど、店主次第かな、みたいなのがデフォルトの国もある。
あれ?ココって21時までじゃないの?オマエが飲んでる間はうちの店は21時にはならないんだよ、みたいのとか。
遅刻癖の治し方については、集合時間を13時とかにしてもらって、集合場所の近所で朝飯を食べるようにする、とアドバイスすることにしてる。
昼飯じゃない。朝飯ね。午前中のうちに集合場所の近所について、モーニング食べてゆっくりするの。
それでもなお最初のうちは(驚くことに)遅刻すると思う。これの良いところは、うっかり友達から連絡が入って気が付いてから動き出しても遅刻時間が短くて済むところ。
ただまあ、日本社会が急に大きく変わらない限り、遅刻癖は治しておいた方が生きやすいよね。
「家を出るのに早すぎるなあ」とか使わない方が良いよ。「家を出るには早かったな」なら使っても良い。
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なんか思ったよりブクマされててビビったわ。読んでくれてありがとう。
誤解があるようだから追記するけど、社会人でも『別に遅刻ぐらい』って人は思ったより多くいるよ。
また、余裕はその分無駄が増えるとも言えるので、分刻みのスケジュール管理する人もあんま関係ない。
社会人として常識以前の大前提だろみたいな人もいるにはいるけど、まあ仕事ができるとか愛嬌がある方がよっぽど重要だよね。
5分10分の遅刻癖は考え方次第で治せるから、治しといた方が今後楽だよって話なだけで、別にホントに致命的なのってタマにしかないから。
友人付き合いだって、仕事だって、なんなら受験や役所への届け出だって、多少の遅刻は大目に見てもらえる。
(大目に見てもらえなくても、別に人生が終わるわけじゃなくて嫌われたり浪人するだけだったりするし、そういう生き方もアリでしょ)
普段1時間の道路が事故渋滞で2時間になっちゃって遅れましたスミマセン、で頭下げたら問題ないとか、まあ良くあるよね。
ただねー、世の中には「遅刻なぞあり得ない」という人も一定数居て、そういう人の地雷を踏みぬくと二度と信用してもらえないこともあるの。
そして、1時間早く着く分にはリカバリーは効く(1時間他の事すれば良い)けど、1時間遅く着いたら取り返しはつかないの。
お前がどう思うかは一ミリも関係無くて、相手がどう思うかが全てなの。これをわかってもらえないことがあって、シンドイなって愚痴よ。
繰り返しになるけど、世の中思った以上に寛容だし、杓子定規の代名詞たるお役所だって人間が運営してるんだから多少の抜け道はあったりするよ。
ただ、開始時刻とか締め切り時刻とか、遅刻した側が何を言っても受けてもらえるかは相手次第だから……守る方で慣れておくのが良いと思うよ。
(遅刻に寛容か否かは相手依存だから、常に相手側に寛容を求めることになっちゃうので、そうでない人やイベントに当たったときにキツイよ、日本はそういうこと多いよ、というだけの話ね)
Permalink |記事への反応(42) | 19:05
幼稚園の頃から父親や同級生に殴られてて常に痣があった。わたしはコミュニケーションが不得意でブス。他人から嫌われたり疎まれる要素しか無かった
小学校も中学校の時も先生や親から理不尽に毎日怒られる生活。 親はともかく先生はきっと理不尽に怒っているつもりは無いのかもしれないが出来ないことに怒ってくるので理不尽だと思っている
生活がガラッと変わったと思ったのは中学2年生の頃私にスマホという名の黒船が到来した。
深夜にネットサーフィンをして病み垢と言うものの存在を知った。知った瞬間からTwitterのアカウントを作ったと思う。病み垢のお姉さんから夜の仕事(所謂デリヘル)の存在を教えて貰って、どんなクズ人間でも高給を貰える仕事を知ってから密かな将来の夢がデリヘル嬢になった。
年も開けて中学3年生、受験シーズンになると担任の先生からどんな馬鹿でも入れる女子校を勧められ勉強できる頭も器量も環境も無かったのでそこにした
これが私の間違いだったと思う。
私は病み垢のキラキラした女の子達を見て重大な欠陥を忘れていた。ブスという事である
女子校においてブス、コミュ力なし=人権なしなので私は1軍と呼ばれるキラキラグループからは離され所謂普通の女の子である二軍の女子からは陰口を言われ同類と思っていたチー牛女オタクからはTwitterで悪口を書き込まれていた。
遂に精神を来たし始めた私は担任の勧めでメンタルクリニックを受診しはじめるようになる。
全ての落ち着きのなさ、コミュニケーションの取れなさに病名がつきほっとしたような気持ちになった。
これが高校2年生までの話。この頃にはデリヘル嬢になりたいなんて馬鹿な夢は消えていたと思う。
高校3年生の確か夏、担任の先生からは推薦での進学を勧められていたが名前の知らない九州と北海道のFラン大学だったため就職コースに乗った。
最初は製造系の面接を受けてその次はショップ系その次はスーパー。最終的に5つくらい受けた。高校の就活は1人1社なので普通2つ受けたら受かる筈なのに何故か全て落ちた。おかしいと思い5社目に落ちた理由を聞いたら障害がある事が理由だった。
私は障害がある事を先方に伝えていなかったのに担任が勝手に障害がある事を伝えたらしい。
だから勉強の出来ない私に大学を進めていたのかと思うと妙な納得感が出てきた。
結局1社も受かること無かった私は4月1日30万円の入った封筒を父親に投げられ家を追い出されることとなった。
30万円を持ち私が向かったのは東京だった。
昔見たインターネットカフェ難民の動画を見て下手な知識をつけた私は下町の激安ネットカフェを拠点に生活していくこととなる。
だがこれが間違いの元だった。基本的に住所のない人間はどこも雇ってくれないことを私は知らなかった
激安ネットカフェでコンビニの飯を食べながら東京生活を満喫していた頃には渡された30万は残り5万程度になっていた。
ある日、東京の街を徘徊していると「求人、高収入」と歌いながら走っているトラックを耳にした。
急いで拠点に戻りそのサイトを見てみると風俗の情報がいっぱいあった。
職業が決まった私は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
サイトに貼られた時給は顔がいい女の時給で私の給料は8時間で6回して9000円。
しかも私は上手いこと乗せられて知らないおじさんの客に初めてを捧げてしまった。
惨めで死にたくなってしまいそうな時もあったがそこしか私の居場所は無かった。死ぬ度胸も無かったし
退勤している時ホストに声をかけられホイホイついて行った。そして売掛という形で借金を作った
なんで私の人生はこんなにダメなんだろうか。発達障害だから?馬鹿だから?計算がまるでダメだから?
話は変わるが男女論を見る度に女は股を開けばお金が稼げるという煽りを見るが股を開いてもブスだと二束三文にしかならない。なぜ自分が股を開けば稼げる美人に産まれると勘違いしているんだろう。
もう書きたいこと思いつかないのでやめる
大学の行財政関係科目の教員をやっているのですが、民青が受験シーズンに合わせて受験生を大学近くで勧誘しててモヤモヤしています
というのも、
①自分が見たときは通行できなくはなく、通行はスムーズだったもののの、道路を占有して椅子と机、看板・のぼりを広げて活動していて、ただ単に立って勧誘をしている予備校関係者や不動産屋に比べて明らかに邪魔、
②大学の学費について該当の人にシールを貼ってもらって意見を聞くボードをもっていたのですが、日本とは大学の位置付けが異なる国(フランス)の話をして『そこだけ切り取っても、、、』と純粋に自分の専門の観点から思った
③制服姿の受験生が(まんまと?)勧誘されて、入会届的なものを書いているところで、大学に受かってからサークル活動やゼミがあったり、授業で色々なことを学ぶ機会があったりするのに、そういう機会に出会う前に特定の政党の指導を受ける団体に入ってしまうことが残念
ということをそれぞれ感じたからです。
民青の指導団体の主張についてはさておき、こういう形で受験生を勧誘してメンバーにしていくのはちょっと頂けないなあと思ってしまいました。
色々と選択肢がある中でアピールをして民青に興味のある方から選んでもらえる組織なのであれば、健全だと思うのですが、まだ合格かわからない学生をデフォルメした主張をしつつ道を占有して勧誘しているのはどうなのかなあと思ったり。
とは言え、別に高校生を勧誘するのは高校生活で色々な選択肢を見てきた高校生にアピールして選ばれたということでもあるのだから問題ないとと思うし、受験生は大抵成人しているのだから、成人しているのであれば勧誘に乗るのは自己責任でもあるし。
ちゃんと自分の力を出し切った上で、理想通りの自分になれずに絶望する。
その顛末こそが最高だろうがよ。
その状態の自暴自棄になっている受験生を食い物にするとかなら、まだ変態として理解できるんだよな。
チャチな理不尽で人生を台無しにするだけじゃ、破壊の芸術としても未熟というか、何も分かってないと思うんだよね。
喩えるなら、全く熟してもないな果実を盗んでいくような無能な泥棒でしょ。
せめて収穫出来るタイミングで盗みに来いよ。
捕まりにくいかどうかじゃなくて、捕まるリスクを犯してでも得るべきものがあるかを大事にしろって。
変態ってさ、高レベルだからこの世界に存在が許されてるんだよね。
本当受験生狙うなって思う。
同じような「痴漢になんて構ってられないような時期」を狙うにしても、憧れの学校に入ってウキウキ気分で真新しい制服に袖を通して入学式に向かうその電車で精液をぶっかけるとかがあるじゃん。
こっちだったら相手の人生に最悪の汚点を残すっていう高度な芸術性が産まれるんだけどね。
そういうのってさ、痴漢にメンタル乱されたせいで本来合格するべき娘が消えれば消えるほど、落差を稼げなくなると思うんだよね。
たどり着くべくしてたどり着いたゴールなのに、そこで最悪のスタートを切るってのがやっぱ大事なわけよ。
もしもその娘が既に受験時に痴漢された上で合格したとしてもさ、それだと身構えることが出来るから落としきれないしね。
はーほんま、熟すタイミングも理解できないまま果実を盗んでいくバカな泥棒は消えてほしいね。
殺処分でいいよ。
今は個人情報の問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任の先生から必ず年賀状が来ていた。
よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。
そんなふうに、プライベートな費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。
その点ではむしろ、教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。
さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任の先生に返信していた。
そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状は自分から出すようになった。
すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合は大学生になってようやく辞めた。
逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。
初めてもらった年賀状は幼稚園の先生からだった。なので、一番長い先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。
そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって?
なぜなら、担任の先生が年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、
担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、
こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。
年賀状でしか接点の無い単なる一生徒から、10年以上も年賀状を送り続けられて、果たして嬉しかったのだろうか。
「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。
そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。
それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。
大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。
他人と年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。
具体的には、「担任だった先生に年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。
担任の先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。
先生も年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休みが憂鬱になるほど面倒な作業だった。
30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。
そのため、自分で干支のイラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、
ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり、無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。
そんな、夏休みの工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。
高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、
干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園のときの先生に送っていたのだ。
こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。
高校生になっただろう相手(男性)が、小学生みたいな干支のイラストで毎年年賀状を送りつけてくる。
きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。
などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付けて叫びたくなるほど後悔する。
受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描きを10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。
そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分のことながら意味がわからない。
どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。
12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状を10枚渡されて、
それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。
本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。
まあそれでも、大学生のときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。
大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。
当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状は自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。
そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。
まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。
それまで、イラストと挨拶が書かれた年賀状は、大人が業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。
それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。
そんなの、コンビニやスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。
しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。
その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭は必要なときに必要なだけもらえる)というのが大きい。
学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。
スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。
まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニもスーパーも無かったわけだが。
話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状に稚拙なイラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。
そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状に意味はあるのかということだ。
それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。
(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)
大学では、自分の知識は多くの教員がバラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在に依存する必要が無い。
(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)
そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。
そういうわけで結局、大学一年生のときに年賀状は完全に取り止めた。
ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分が年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。
正月以降に、毎年来るはずの担任の先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。
しかし、親には怒られなかった。
今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。
まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分の妄想であることに気づくようになり、
前述のとおり、これまで稚拙な年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。
結局、自分の妄想で他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。
そして何より、自分自身も稚拙なイラストを書いたり本当に苦痛だった。
そんなお互いに苦痛な習慣を、自身の勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。
リアルな相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃんと客観視しないと、
いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。
あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。
ちなみに、年賀状はトラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…
となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校のときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。
大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。
現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。
携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。
って、やっぱり私も古い人間なのかも。
まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。
今はさすがに年賀状はコンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、