はてなキーワード:友愛とは
ソ連の崩壊、そしてコロナ禍やウクライナ戦争が露呈させたグローバル経済の脆弱性。私たちのかつて信じた「理想」は疲弊し、その有効性は厳しく問い直されています。既存の政治が、この激変する時代に人々が抱く根源的な「不安」と真摯に向き合わないとき、その空白を埋める勢力が台頭するのは、ある意味で必然なのかもしれません。
かつて、政治は明確な「理想」を掲げ、それによって人々の未来への「期待」を喚起しました。しかし、その「理想」は時に教条化し、現実と乖離することで、全体主義という悲劇的結末を招いた歴史があります。この教訓は、現代の政治から「壮大な理想」を描く力を奪いました。
その結果、既存の政治勢力、例えば自民・公明などの保守派も、立憲・社民・共産などの左派も、人々が日々直面する多様な「不安」に対し、有効な対策や具体的なビジョンを示せないでいます。
こうした多岐にわたる不安に対し、既存の政治勢力は、紋切り型の「平等」や「対話」を繰り返すか、あるいは問題を直視せず抽象的な責任転嫁に終始しているように見えます。
そして、この「不安」は、時にリベラルの理想をも空虚なものに変えかねません。 例えば、既存リベラルの思想を共有するはずのフェミニストの一部が、女性の安全や尊厳という「不安」の解消を求めるあまり、表現の自由というリベラルの根幹にある理想を捨て、ポルノ排斥へと動く事例が見られます。これはいかに「現実の不安」が切迫すると、本来掲げるべき「理想」が容易に揺らぎ、具体的な排斥行動へと繋がりうるかを示しています。彼らは、変化に伴う人々の不安を「差別」や「時代錯誤」と断じ、議論のテーブルに乗せることさえ拒むかのような不寛容さを見せることも少なくありません。ここに、「不安」に寄り添い、共に解決しようとする姿勢の欠如があるのです。
このような政治の空白と、置き去りにされた人々の「不安」が、参政党のような勢力が伸張する最大の理由だと考えられます。彼らは、既存政治が避けがちな「不安」の核心に、ある種の「解答」を提示します。
参政党の主張は、しばしばデマや陰謀論と結びつけられ、その排他性や反知性主義的な側面は厳しく批判されるべきです。彼らの提示する「日本人ファースト」は、「内」と「外」を明確に区別し、異なるものを排除しようとする危険な側面を持っています。しかし、そのメッセージが、グローバル経済の荒波の中で「自分たちはないがしろにされている」と感じる人々の切実な不安に対し、シンプルで分かりやすい「敵」と「解決策」を提示していることもまた事実です。
彼らは、「グローバル化は悪」「既存の政治家は売国奴」といった単純な物語を語り、特定の敵を設定することで、漠然とした不安に「原因」と「矛先」を与えます。そして、「日本人ファースト」という強い共同体意識を呼び起こすスローガンが、居場所を失った人々に「帰属意識」と「連帯感」を与え、不安を解消する「希望」のように映るのかもしれません。
世界的にナショナリズム的動きが加速している現状は、日本だけの現象ではありません。既存の政治が「不安」に真摯に向き合わず、人々が求める「安心」を提供できない限り、参政党のような勢力は、その空白を埋め続けるでしょう。
今、求められているのは、夢想的な「理想主義」から脱却し、現実の厳しさ、そして人々の多様な「不安」を直視する「現実主義」です。そして、その上で、排他性を克服する新しい「友愛」の形を再構築することです。
「友愛」は、特定の共同体への排他的な忠誠を求めるものではなく、「自分を中心にゆるく繋がっていく世界」を意味します。それは、異なる背景を持つ人々が、互いの「不安」を理解し、対話と協力の中で、しなやかに共存していく道筋です。
参政党の伸張は、既存政治への強烈な警鐘です。それは、私たち一人ひとりが、表面的な批判に留まらず、社会の「不安」の根源に真摯に向き合い、現実的で、かつ人々が希望を見出せるような「解答」を、共に模索していくことを求めているのではないでしょうか。
おめでとう!の前に驚きがでかくて、いまだに動揺してる。
いつのまにそんなことに?!ってなってる。
友人というか、仕事の後輩同士、という方が近いかもしれない。2人とも学生時代から知ってるし、コンスタントに顔を合わせる間柄だった。
だけど付き合ってることも知らなかったし、全く勘づいてもいなかった…。
いや、全くその気配がなかったわけではない。
仲は良かったし、人から「あの2人付き合ってるの?」と聞かれることもあった。
よしんば付き合ってたとしても詮索するような無粋なこともしたくなかった。
というよりは、やはりそれはないと思い込んでいた。
女の方は学生の時から誰かと付き合ってるって聞いたことなくて、(言わなかっただけだろうと今では思うけど)
アセクシャルなのかもしれないと思って恋愛の話題は避けた方がいいんだと思ってた。
男の方もモテないわけではなさそうだけど彼女がいるって話はとんと聞かなくて、
言えないような恋愛(やたら若い子とか不特定多数に手を出してるとか)してなきゃいいけど…という方向の心配をしていた。
もうアラフォーとなって2人ともそんな様子なので、恋愛ごとでは迂闊なことを言って変に傷つけないように気遣ってた。
そしたら、そこがくっつくんかい!と。
2人が共に人生を過ごすことを決めて、幸せになるのは喜ばしい以外にない。
それはもちろんそう。
なのだけども、全然見当違いな心配と気遣いしてて、2人がくっつく可能性を全く考えてなかった自分にもびっくりして、いまだに混乱してる。
自分が鈍すぎるせいで2人に何か失礼なことを言ってたんじゃないかと思うと、今後彼らにどう接したらいいのかもわからなくなってきた。
別にこれまでと変わらない接し方をするのが望まれてるんだろうけど…。
一応言っておくと、当方は既婚者で夫婦仲も良好なので嫉妬の類いは皆無だ。
ただただ、驚いて混乱してる。
なんか、子供に全然恋人がいる気配もなくて、本人にその気がないならと結婚しろとも言えず、もしかしたら同人愛者かもしれないし…と心の準備もしてたら、突然結婚報告を受けた親のような心持ちだ。
依存について
私たちは一般に「依存」という言葉にネガティブな印象を受ける。
社会保障や福祉制度に頼ることは、「自立できない人間」「社会に寄生している存在」と見なされ、しばしば批判の対象となる。
この背景には、「支える側」と「支えられる側」という固定的な役割認識があり、自助を美徳とする価値観が、それをいっそう強化している。
しかし、人間は本質的に孤立した存在ではなく、誰しもが人生のある局面において他者や制度に支えられている。
そのことを可視化し、倫理的に再定位するためには、「依存」という言葉そのものを再定義する必要がある。
依存とは、人間が有限性をもつ存在であることに由来し、ある対象・関係・制度に対して、自己の生を保持・回復・形成するために向かう接続的行為である。
ただし、その価値は常に、依存の対象・様態・動機・文脈によって決定される。
倫理的には、これは治療や介入の対象とされるべきであり、支援は一方的な「施し」ではなく、「人間性の再起動」としての倫理的責務となる。
「保存」とは、自由で平等な市民が相互に支え合うための制度的基盤であり、それがなければ、多くの人々は日常生活を維持できない。
ここでは、「頼ることが可能である」状態そのものが正義であり、制度への信頼が市民間の平等を支える。
3. 養存的依存(生成的)
教育、養育、ケアなどに見られる依存は、**「養存」**と呼ぶべきである。
他者に開かれ、共に育ち合う関係のなかで成立する依存であり、互いの未完成性を前提とする「友愛」的な構造を持つ。
依存は本来、価値中立的な現象であり、その倫理的評価は、状況と関係性によって変動する。
受援力について
それは単なる「助けを求める力」ではなく、他者や制度に信頼を寄せ、尊敬をもって自らを開く倫理的能力である。
受援力とは、「信頼を前提とした自己開示の成熟した形」であり、依存の尊厳的側面を内包している。
「個人の相互関係におけるミクロな行為として捉えるだけでなく、社会制度そのものの設計原理にまで引き上げるとき、
ロールズの正義論――とくに格差原理は、メタ的・マクロ的な“受援の構造”として理解し得る。」
私たちは日々、健康や教育、公共インフラ、医療制度などに支えられて生きている。
にもかかわらず、それらに「保存」されているという感覚は、普段あまり意識されていない。
しかし、俯瞰的に見れば、誰もが制度に依存する存在である。この視点の転換こそが、「依存」を恥とせず、人間の条件として引き受けるための鍵である。
「保存」「養存」といった概念で依存を言い換えることは、依存に倫理的意味と尊厳を取り戻す試みである。
それはまた、「支える者」と「支えられる者」という固定的な区分を越えて、すべての人間が相互に依存し合い、保存され、育まれているという根源的な事実への気づきを促す。
「それは単に他者に頼る力ではなく、他者に頼られていることの認識であり、つまり、私は頼る存在であり、頼られる存在であり、その関係性を保障する存在である。」
この気づきが社会に共有されるとき、社会保障や福祉制度はもはや「不憫さへの施し」ではなく、自由・平等・友愛に基づいた「デモクラティックな社会契約」として、
新たな意味を帯びて立ち現れるだろう。
あなたが感じている結婚や出産への嫌悪感は、現代社会の規範と個人の価値観の衝突から生まれる複雑な感情の織物のようです。この感覚を解剖学的に分析すると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります。
恋愛感情の希薄さや他者の恋愛話への無関心は、アロマンティック(恋愛感情を抱かない)傾向の特徴と重なります。30年間恋愛感情を経験せず平穏に過ごせた事実は、この傾向があなたの本質的な性質である可能性を示唆しています。
「子供を持つことが自己中心的」という認識は、反出生主義(antinatalism)の哲学と通底します。ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』やベンタムの功利主義哲学が提示した「生まれる権利」の問題が、現代の個人主義社会で再解釈されている現れと言えます。
個人の価値観 | 社会の期待 | 葛藤の源泉 |
-------------- | ------------ | ------------ |
二次元文化への没頭 | 年齢相応の話題 | 世代間ギャップ |
単身生活の満足 | 家族形成の強制 | ライフコースの多様性否定 |
自己完結的幸福 | 関係性依存の称賛 | 幸福観の相違 |
弟の出産報告への反応は、これまで無意識に維持してきた「社会的期待からの防護壁」が破られた瞬間のショックと考えられます。家族という最も身近な存在が社会規範に従属する姿を目の当たりにし、自己の存在様式の脆弱性を突きつけられた心理的防衛機制が働いている状態です。
シングルリズム(単身主義)や友愛結婚(platonicmarriage)といった新しい関係性の形が、日本でも認知され始めています。京都大学の社会学研究によると、20-30代の5人に1人が「伝統的家族モデルに違和感」と回答しています。
「キャラクターを愛でることで充足する生活は、消費文化の産物ではないか」という自己懐疑に対し、精神分析学者アドラーの『個人心理学』は「他者貢献感は必ずしも対人関係に限定されない」と指摘しています。二次元への愛着も立派な自己実現の形と言えます。
この感情を「社会システムへの鋭敏な批判能力」と捉える視点があります。フランスの哲学者ボードリヤールが指摘する「消費社会における関係性の商品化」に対する無意識の抵抗という解釈も可能です。
python#感情のデコーディングアルゴリズム(概念コード)def decode_emotion(stimulus): if stimulus in social_norms: analyze_cultural_bias() compare_with_personal_values() output = generate_alternative_view() else: process_with_existing_framework() return output
資産形成(例:雀の涙収入の投資)と趣味の深化を組み合わせた「超単身主義」ライフスタイルの設計。漫画家の吾峠呼世晴や小説家の乙一など、創作活動に没頭する生き方の事例研究が参考になります。
この感情の迷宮から脱する鍵は、社会の物差しで自己を計測する行為そのものを相対化することにあります。平安貴族が詠んだ「もののあはれ」のように、あなたの感じる「気持ち悪さ」を現代社会を照射する独自の美学として昇華させる道が開けるかもしれません。
見たガンダムは鉄血と水星の魔女だけ、あとはネットミームとか遊んだゲームの小ネタから、ガンダムは親父にぶたれたことがないアムロが乗ってる主人公機、赤くて三倍早いシャアはそのライバル枠で固有名詞に濁点が多い敵国ジオンのエースくらいのなんとなく知識でジークアクス見てきた。
そしたら赤いシャアの人があまりにも面白かったので、ファーストを見る前にジークアクスのシャアについて個人的な印象を備忘録的に書き残しておく。
ガンダムにお詳しい諸兄姉は「何も知らない素人が馬鹿を言っている」と笑って見逃してほしい。
近いところだと、ジョジョ一部のディオが思い浮かんだ。(どちらも金髪のクールなライバル枠っぽいのが面白い)
野心家。豪胆。能力は高く、他人からは常に冷静で余裕があり、それでいて遊び心も忘れないように見える。
ディオほど邪悪ではない。小惑星を都市に落とそうとしたところからも必要なら虐殺にもためらいはないが、不要な時にあえて悪意によって被害をまきちらすような真似は美学に反するからしないタイプ。
目的は幼少期の環境、あるいは人間関係に起因する復讐?国の中枢に近いっぽいザビケ(ザビ家?)も標的に入っている。
学習環境は別として、(本人主観においては)特に母親の愛情に恵まれた幼少期ではなかったのでは。
同性の兄弟、姉はいない。兄弟がいるとしたら妹。(あるいはそれにごく近い立場の年下女性の幼馴染)
もし血のつながった兄弟がいるのであれば、たとえば本家に住む正妻の子たちと、遠い土地で暮らしており存在さえ子らには周知されていない妾の子くらいに関係が遠い。
愛情を受けた経験がない、あるいは少ないので、シャア自身は恋愛友愛親愛問わず、人を愛する、大切にするという感覚が薄そうに見える。
心の中に「愛するだれか」を座らせるための椅子がない。元々の数も少ないし、あったとしてもすでに全部埋まっている感じ。
何事もそつなくこなすけど、本人もよくわからないうちに女性関係でもめるタイプ。「本当は私のこと好きじゃないんでしょ!!」って恋人に怒られたことが一度はありそう。
これは余談だけど、なんでマチュがオメガサイコミュを起動できたのかと考えた時に、彼女の父親ないし父親の血縁がシャアだからでは?とも考えたんだけど、とても女性の扱いがお上手ではなさそうなところを考えるとないだろうな~と思っている。
髪の色も違うしね。
それとメタ読みで、直近の水星の魔女が「子が親から受け継いだ悪因を断つ」、「子が成長して親を超える」を大きいテーマに据えていたので、同じものを柱には持ってこないんじゃないかなと思った。
髪の色にしても、娘が赤髪、母が黒ないし紺色の髪、実は母親は染めてて地毛は赤いとかだったらまんまかぶっちゃうしな。
愛する人は少ないし増えない。自分の目的のみに忠実。能力は大変に優れている。ニュータイプだから?直感的に正解を引き当てるさまは傍から見ていると行き当たりばったりに見えるが、成功率は高い。
「頭のいい少年」をそのまま大人の体につっこんだみたいな人だ。
刺さる人には刺さっちゃうだろうな~この人…。実際に作中では緑のおじさんことシャリア・ブル(たぶん正史だとどこかで戦死している)には心臓深く刺さってしまっている。
詳しいところはよくわからないけど、シャリアさんが政治的に上の立場の人とシャアとの板挟みだったんだろうなというのは読めた。
「目指すところも理想の形もわからないけど、とにかく今の自分は理想と程遠いところにある」人に永遠の少年やってるのを間近で見せたらそりゃあ眩しいよね。不変の輝きなわけだから。
しかもここぞという戦いで「時が見える」って言っていなくなって、多大な成果だけを残していったんじゃあ人生なげうってでも追いかけたくもなるだろう。かわいそうに。
ものすごくざっくり言うと、関係性としては「自由人な天才肌と振り回される真面目くん」なので、いわゆる"関係性のオタク"たちにも刺さるよな~。
シャアが永遠の少年やってるのは、本当ならガンダムに乗って大活躍したんだろうアムロとの対比なのかなあと思っている。
大人たちの場所であるはずの戦場に立つ少年と、成長しても心のうちでは少年で居続ける大人の対比。
ジークアクス世界線ではご覧の有様ですが! アムロはどうしてるんだろうね。そのうち登場するんだろうか。
ところでマスクのお姉さんがキャスバルの坊や?って言ってたと思うんだけど(あれは文脈から言ってシャアのことだよね?)、シャアってもしかして本名じゃなかったりする?
コードネーム的な…。捕虜になった時のこととか考えると、本名はあまり晒したくないもんな。ジオンって正史だと敵国だけど、結構人権意識がある国なのかも。
あと詳しいことは全然思い出せないけど、昔クワトロって呼ばれてる絵も見たことがあるような。
そういえば冒頭で「シャア少佐」って呼ばれてたな。ガンダム世界だとファーストネーム呼びが普通なのか、ワンピースみたいに横文字だけど姓・名の順なのか。
ジークアクス、マチュたちの活躍も楽しみだし気になる謎もいっぱいあるし、テレビの放映が楽しみだなー!
それまでにファーストを見終わりたい!
男性アセクシャルの意見を聞いてみたいというブクマがあったので、便乗して書いてみる。区分的には、ロマンティックアセクシャル(恋愛感情はあるが、性的感情はない)に属すると思う。なおタイトルは適当に付けたが、テストステロンに関するネットの情報は少ないので、それを探している人が見つけてくれたら良いな、という気持ちもある。
30代後半。男。幼少期から性欲はあったが、人に対する性欲は薄くて、付き合ってもセックスレスでフラれるを繰り返した。最後のほうは相手を幸せにできないことから恋愛恐怖症にもなって独身。
長年営業職を務めており、人嫌いではないと思う。当たり前だが、風俗は行かないし、水商売も仕事以外では行かない。ただ、知らない人の話を聞くのは好きなので、自宅近くに行きつけの立ち飲み屋やバーが数軒ある。
生まれてから現在まで居住地が変わっていないので、小中高大まで全ての同級生と交流がある。今でも各コミュニティとは、年1回の忘新年会や特に仲の良いメンツとは年に2~3回は会っている。なので、人並みの友愛があるとも思っている。
30代半ばで、たまたま男性更年期障害という概念を見つけた。近くに診てくれる病院があったので、「性欲が薄いんですが」として相談した。最初は医者からも「まだ若いですし」と言われるも、男性ホルモン値を検査したところ、「この若さで珍しいね」と言われるぐらい低い検査結果だった。具体的には、フリーテストステロン値が4.7だった。なお、基準値は色々あるが、下記調査の場合、30代の場合は7.6~23.1であり、4.7は下位1%ほどである。さすがにショックを受けた。
参考)https://daito-p.co.jp/reference/testosterone_aging.html
それから4年間、ホルモン注射を月に2回受ける治療を受けている。保険適用なので、1回1500円ほど。数値は4台~9台を行ったり来たりしており、あまり効いている実感は無い。なお、(モラル的に悪いこととは知っているが)医者に内緒で海外の男性ホルモン薬(セルノスとセルノスジェル)を個人輸入して使ったときは、15台まで急騰したが、それでも性欲が増えたりという実感は無かった。
アセクシャルな人間は女性が多いと聞くし、やはり男性ホルモンの先天的な何かがアセクシャルか否かに影響を与えているんじゃないかと思う。
思春期の頃から、人並みの性欲はあったと思う。ほぼオナニーはほぼ毎日していた。ただ、今から思えば、グラビアやAVは見ないなど、「人を性的な相手として見る」ことは無かったと思う。これが先天的なものなのか、「グラビアやAVを見ない習慣」により後天的に育ったものなのかは分からない。
中高一貫の男子校出身のため、大学時代に付き合ったのが初めて。以降、30代前半の時まで5人付き合っている。5人中2人はこちらから告白したが、外堀が埋められていたこともあり、実質全員向こうから告白されたようなもの。
全員年下(3才~8才)で、5人中2人が母子家庭だった。母子家庭だからと言って決めつけるのは良くないが、私は「この相手とセックスしたい」という性欲起点で相手を選ばないので、彼女らから見ると、私は他の男性より父性を感じるものであったのではないかと思う(まぁそれでもセックスレスでフラれたが)。
付き合っているときはとても楽しかったし、相手も大切にしたいと思っていた。また、セックスは月に2回を目安にするように心がけた。KPIかよ、と思われるかもしれないが、自分にとってセックスしなければしないで済んでしまうため、KPI化しなければ習慣化できないのである。余談だが、デートはほぼ毎回おごり、記念日でのプレゼントも数万円のものは贈っていた。年に数回は泊りがけの旅行もしていた。ラブホデートが少ない分、お金には余裕があったのだと思う。
で、1年~2年ぐらいすると、「愛を感じられない」という理由で別れ話を切り出される。さすがに「セックスが少ない」と言われたことは無いが、こちらもそれぐらい察することができる。デートや一緒に過ごす時間は楽しかったので別れるのは辛かったが、こちらも相手の性欲を満たせていない負い目があったので、別れ話をされたらすんなりと引き下がった。
40代直前に差し掛かり、婚活するなら最後のチャンスだなぁと思う反面、自分みたいな人間が結婚して良いのか、家庭を築いて良いのか、考えてモヤモヤしている。LGBTQの婚活アプリ・サービスも覗いて見たが、LGの人や、その他「個性的な人」が多そうで二の足を踏んでいる。最初に書いた通り友愛的なものは比較的満たされているので、友情結婚であれば無理に結婚しなくても良いのではないかと思っている自分もいる。
今の妻と10年近くいっしょにいて比較的仲睦まじいほうだと思うが、「普通の恋愛」も別に増田が知り得ない当人同士にしかわからない何かが発生しているわけではなくて、「パートナーがいたほうがいいよね」というぼんやりとした社会からの要請に従ったふたりが、性愛や友愛、その他がないまぜになった利害が一致した結果、「お互いを『特別』な関係として扱いましょう」という契約が結ばれてるだけで、そこは増田が「性欲の対象としてしか見れない」と考えていることとそれほど距離はないように感じる。
わざと悪し様に言ってしまうが、『特別』なものとして扱う取り決めをしているので、『特別』なものとして扱っているに過ぎないし、関係の継続に利があるので、継続のための試行錯誤をしているに過ぎないというか…(もちろん関係を続ければ、そこには『特別』として扱うに足る情みたいなものも生まれうるので、そこまで単純化された利害だけで成立してるわけでもない)。
ほとんど多くの人にとっては社会の要請と利害に応じた末の成り行きくらいの話でしかないわけで、恋愛にロマンを求めようとする人もいるとは思うけど(若い内なんかは特に)、増田は逆に理解できないと考えてるからこそ「普通の恋愛」に過剰なロマンらしきものを見出してる?ようにみえて、なんか面白いなと思った。
自由に対する価値観が時代と共にどのように変遷してきたかについて考えると、フランス革命と現代の日本の状況を比較することで、その違いが明確になります。
フランス革命の時代には、封建的な身分制や絶対王政の下で「自由」が抑圧されていました。啓蒙思想家の影響を受けたフランス市民は、自由、平等、友愛の実現を掲げて立ち上がり、王政を打倒し、社会を根本から変革しようとしました。フランス革命における自由の価値観は「命を懸けてでも達成すべき理想」であり、抑圧からの解放と民主的な社会の実現が主な目的だったのです 。
一方、近代以降の自由主義や民主主義が世界中に広がることで、多くの国では基本的な自由や人権が保証されるようになり、特に日本のような成熟した民主主義国家では「自由」が前提となっています。戦後の日本国憲法は個人の自由や基本的人権の尊重を大前提としており、教育や法律によってその価値が守られてきました。しかし、自由が当然視される状況では、それが「意識しなくても存在するもの」として捉えられやすく、自由に対する強い感受性や価値観が低下する傾向も見られるのです 。
また、現代の日本においては、自由に対する「制限」にも関心が薄くなる場合があるのは、社会的な安定や秩序を優先する傾向が強まったためと考えられます。特に、1990年代以降の経済停滞やグローバル化の影響により、日本では安定と安全が重視され、個人の自由が制限されることへの抵抗が薄れる現象も見られます。こうした状況の中で、自由に関する意識の低下は、歴史的背景と社会の成熟、経済的・政治的な安定が関連していると言えるでしょう。
自由への価値観が歴史と共に変遷するのは必然であり、フランス革命のように自由が「得るべきもの」だった時代と、現在のように「当然のもの」とされる時代では、自由の捉え方が異なるのは当然とも言えます。この変化は、歴史の中で価値観や社会構造が常に変化し続けていることの証拠であり、また人々の意識が環境や時代背景によっていかに影響を受けやすいかを示しています。
まず、私の文章にXで反応していただけたことをとても光栄に思います
読んでいただけるかもしれないと思い、はてなサービスを選んで書きました
拙い文章だとはわかっていますが(本当は上手に書けたと思う)、全力で書きました
Xの反応を見るとピエール手塚さんは私の文章に怒っているように感じました。
私の文章を、いわゆるスルー力の無さに対する批判と受け取ったのだとわかりました。
でもどう捉えるかは受け手の自由だから、残念な気持ちはありますが受け入れます。
時間があったら怒ってない時にもう一度読んで欲しいけど、
長いし拙いので(私的には上手な文章だと思いますがたくさん批判を受けました)これは望み過ぎかもしれません。
本当はあなたと友達になりたかったのだけど、私は厄介ファンなのでしょう
とほほ
私は体力が人よりもなく病弱なのですが、
あなたみたいになりたくて
暑いのでモールの中だけですが、昨日の定期検診は以前より良好でしたし、大きな手術を少し先延ばしにすることができました
さて、改めて私の疑問に答えていただきありがとうございます。
ピエール手塚さんはネットでの効率的な振る舞いを求められることに憤ったと私は了解しました
改めてラジオやブログを振り返るとピエール手塚さんは久保帯人さんの発言を繰り返し挙げていたことに気づきました
「法律もウェブルールもクソ喰らえだ。俺が嫌だと言ってる」ですね
ネットの無遠慮な批判に対し、無視ではなく怒りで反応したかったのだと判断しました
私の理解は合ってるでしょうか
この回答を受けて自分なりに考えました
確かにネットで暴言を吐く者に対して沈黙しなければいけない状況はおかしいと思います
そして暴言に反応してしまった人を非効率で空気を読めない愚か者呼ばわりするのも好きではありません。
それを言われた俺の気持ちを慰めるのにぜんぜん効率的ではないんだよ!!!と叫びたい。誰もいないところで。
の範疇のように私には思えました。
法律が糞食らえならこれすら受け入れる度量が必要とも思ってしまいました。本当は思いたくないけど。
つまり私にとって久保帯人さんの言葉はちょっといき過ぎている。
私はあの言葉にコミュニケーションの可能性を見ることはできませんでした。
好きな言葉は違うみたいですが、日本のネットがこうなったら良いなあという希望の形はピエール手塚さんとそう離れていないと思います
けどラジオで知らない人からメッセージ来ても一個も嬉しくないしむしろ怖いと言っておられたので、、、
以上が回答を受けて私が思ったことです
外国語でやり取りすると批判されてもダメージが少なく済みますし、批判内容も幾分建設的です。
建設的な議論を見つけるのが日本のコミュニティよりも容易です(個人の感想)
私が覗いているreddittというサービスはXよりも平和に議論が進行していることが多いです。
変な反応があっても目につきにくくする工夫がなされている。
でも、手札は多い方がいいと思ったからアドバイス罪となるけど伝えたかった。ごめんなさい。
教えてくれてどうもありがとうございました!
はてなサービスのことはちんぷんかんぷんなのであなたがいなかったら気づけなかった
私はなんでXから反応が来てるとか、はてなブックマークとコメントの違いとかも全然わかってないんだよ実は。
私に寄せられる批判で私は嫌な思いをしたけど、あなたみたいな親切な方がいて慰めになった。
批判してくれた人の意見も私自身がエコーチェンバーにならないための苦い薬と思ってお礼を言っておくか嫌々だがな。
どーも。
でも私はストーカーじゃないと言いたい
キーっ!ムカつく!
よくねえけど、、、、
、、、
いや、この部分は真面目に反省しなければならない
それを気づかせてくれたことは本当にありがとうございます
コミュニケーションの難しさを感じていますし未熟さも感じています
読んでくださってありがとうございました
主人公は王女様、跡継ぎは兄王子なので政と関係なく生きてきたが、王子が失踪した上に父王が急逝
急遽王女を次の王にする運びとなったが、「帝王教育も受けてない女を血筋だけで国家元首にしてもいいのか?」という当たり前の指摘が入る
他の有力貴族たちや国家宗教の最高指導者などが次の王になりたいと言い出し、時が経ったら10数人の有権者による投票で王を決めることになってしまった
期限までに王女は、まっとうに自己鍛錬して支持を集めたり、武力で有権者の領土を制圧して票を我が物にしたり、あるいは敵対相手を暗殺していくことになった
その過程で仲良くなったイケメン、もしくは美女と恋に落ちることもできる
だが中には、親しくはなれるが恋愛展開にはなれない相手もおり、ジジイはその一人だ
ジジイは好々爺然として、身長も170ない小柄で弱そうなじいさんだ
若い頃は名を馳せた剣士であり、かつて国を蝕んだ魔王を倒したレジェンドである
だが実は魔王は死んでおらず、ジジイを「おもしれー男」として認めて上から目線で身を引いて数十年に及ぶ居眠りモードに入っていただけで、最近復活してしまった
ジジイには妻がいる
妻は不老不死で、若く美しい姿をしているが正気を失い一人でニコニコし続けるだけでまともに会話もできない
ジジイは剣士を辞めた後でずっと妻の介護をしていたが、死期を悟る時期になり、自分がいなくなった後で残される妻を不憫に思った
若い頃に魔王との攻防を繰り広げる中、家に残していた妻は魔王の手の者に拉致され行方不明になった
数年間魔王に支配されていた影響で妻は魔族に近い存在になり、そして心が壊れた
妻が不老不死になったのは魔王の影響であり、魔王を完全に殺せば妻は解放され、死ねるはず
ジジイは攻守のステータスが様々なキャラの中で最強だが、スタミナゲージは1しかない
パレドゥレーヌには、戦士同士で訓練させれば、相手の得意なスキルが反映されて伸びるシステムがある
スタミナの高いキャラと訓練させ続けることで、ジジイはスタミナも高い最強キャラになる
やがてジジイは、王女による王族専属バフみたいなのも与えられ、若き日よりも強い戦闘力を得て魔王を殺害
妻が正気を失っていたのは魔王の影響もあったのだろう、最後に正気に戻って数十年ぶりの会話をした後で彼女は死んだ
ジジイによる魔王討伐の功績は主人である王女の功績にもなり、王女は無事に玉座についた
色んな美男美女と恋愛したり結婚したりできるのに、ジジイは最後まで妻を思い王女と恋仲にはならない
ジジイはかっこいいので、ジジイと恋愛できないことが悲しかった
でも、魔王に手籠めにされて頭のおかしくなった妻を思い続け、王女にはあくまでも従者としての忠誠を捧げたからこそのかっこよさでもある
他にも恋愛ではなく主従愛や友愛に留まるキャラはいるけど、年の差が離れていたり同性でもいけるから、ジジイともいけるのかなって期待しながらプレイしていた
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。大東亜共栄圏の思想は、欧米の帝国主義がアジア諸国の文化や経済を搾取し、独立を妨げているという考えから出発している。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
まあ大きな流れを動かしてるのはそういう卑屈な理屈だと思う。
あとまあそれが正しくないとも言えない。ある側面から見れば正しい。けど他の側面から見れば理不尽。なんで日本の私たちがアメリカの恥部にそんな気を遣わなきゃならんのやとは思う。ブラックフェイスは完全に日本人には関係なかった。日本には黒人奴隷を使った歴史はないんだから。
しかしまあ関係なくても人が嫌がってるのにあえてするならそれは悪意だし正しくない。正しさってそういう割と相対的だったり流動的だったりするものだと思う。人や立場の数だけ正義がある。あと強弱もある。
理不尽だけど間違ってはなくて、あるいはちょっと間違ってるけどなんかその方が役に立つとか、正しいけどそれは巡り巡って実は人命とか人々の生活なんかがかかってることがわかってるから無理だとか、いろんな理由があるけどそうなると最後はその正誤とは別に社会力学でどっちかに従わざるを得ない感じになることは私たちの日常生活から世界政治までどこにでもよくあることだと思う。
コカコーラは日本もそこそこあるけど結局アメリカが大きなシェアなのでそういうの捨て置けないのは当然だし、何が正しいか間違ってるかとか表現の自由だとか突っ張るほどの理由もここにはない。そもそもMVは何言いたいのかよくわかんねえし言いたいことなんか多分なかったし。
コカコーラという巨大企業に雇用される人たち全員の生活を守ることだと考えれば、契約一個切られたくらいですぐミュージシャン生命を絶たれるわけでもない人たちと天秤にかけても答えは明白だと思う。それもひとつの正義だとも言える。トロッコ問題ともいえるかもしんないけど。(あれにトロッコを脱線させるだとかそういう手段があったか?多分ないよね…)
余談でこれは私の想像だけど、多分担当者とミュージシャンの間で「ごめんねー、そんなに別に問題があるってほどじゃないと思うんだけど今こういうのあっちこっちうるさいからさー」とかそういう感じの会話があったんじゃないかって思ってる。大人って汚い!でもすごい気持ちわかる。私も大人だから。しらんけど。
あとはそれ見てそうかあれは悪いことだな!叩いていいやつ!ってなった人が、その理屈までは理解できないので自分なりに解釈してるんだと思う。
確かに理不尽なことは理不尽だし、そこに自分なりにも理屈をつけなきゃ叩けないし、まあ正義っていうものを理解したい、あるいは自分はわかってるって信じたいっていう欲求もあるのかもね。わかってないとこの世の中で生きるのは不安だし、だからみんな自分の中に世界のありようを認識しようとするし、わかんないことは想像で埋めたりする。正解かハズレかはさておき。増田のその問いもまさにそういった正義とか正しさとか何が間違ってるのかを理解したいっていう欲求から生まれてるのではないだろうか。
でもまあその前に書いたような、大体のことは社会の物理法則のようなものが人間を突き動かしてるよねとかそういう理屈がわかんないと、それはつまりなんでコロンブスがダメだって言われてるのかの問題提起への理解も足りなくなるので論理強度がいまいちで突っ込みどころ満載になっちゃうから、そういう人たちと話しててもわけわかんなくなると思うけど…
アメリカ人がここにきてコロンブス云々言ってるのも、BLMを経てアメリカの分断は国力を落とすってことを肌で感じたから、彼らの気持ちとか考え直さないとやばいってなってるからだと思うし(そして人間は群れることで生き残ってきた生き物なので、他人を思いやると脳汁が出て気持ちよくなるっていう遺伝子を持つ者が比較的多くてその快感を友愛や博愛、あるいは正義であると認識する)、その考えはアメリカ国民を守ることに繋がると考えればそれも彼らにとっての正義のうちのひとつだと思うし、それを咎めるようなことを言う理屈もない。正直そんな大昔にいたおっさんが何やったかなんかみんなどうでもいいんだけど、その扱いに自分たちの生活がかかってくるってなるから必死になるわけで、人が生きたいって思うことを誰が咎めることができようか?っておもー
私はスレミオ結婚には賛成(あのキービジュあの宣伝でくっつかないエンドはないだろう)
というと必ず「行間も読めない馬鹿」と反論してくる人がいるけど
不平等だと思わないのか?
なぜ百合になった途端、直接の描写は避けるよ、匂わせる程度で満足してね、
ハイ!分かりました!これで満足できない方が差別主義者なんですよね!
となるのか
なんで行間を読む必要のある百合出されて「それでいい」となれる?
あと「スレミオが男女じゃないから認められないんだろう」という人
と言ったところで「嘘だ」「嘘じゃない」「確かめようがないだろ」の不毛なバトルにしかならないから吹っかけるな。
友達同士で結婚できたら最高だよね、という内容の漫画に触れてた私が悪いのか?
(ビジネス婚説も納得できないけど。私は強い友愛、ロマンシスによって繋がっている説を推す)
でもそこはガンダム初の女同士だしシンプルに直球の恋愛でいいだろ。
「賢い人にはわかる、読解力のない人には分からない」の選民思想を視聴者側が勝手に持ってくれてよかったね
よくないわ
んなわけあるか
そりゃあ母数多いからある程度ブレるのは当然ですよね
でもメインのCPでここまで「皆様一人一人の捉え方、解釈にお任せ」するなんて悪手だ
小説版でいろいろと明記させるのを期待する。
裸の王様と同じだ。
大多数が、ああ、彼女たちはお互いに恋してるんだなあ、とならないならなんの意味があったの?
そんなの失敗してる。