
はてなキーワード:原点回帰とは
https://mainichi.jp/articles/20251004/k00/00m/010/030000c
参院選大敗を受けた自民党の総括に記された「解党的出直し」に向けて、総裁選で各候補はこう訴えた。
岸田、石破が解党させるくらい壊したやつを、時間を戻すってつもりなんだろ。
トーンだけだと、こんなふうに感じた。
(自民党を変えたい派) 林≧コバホーク≧進次郎>>茂木>>>高市 (自民党を元に戻したい派)
やんわり改革派と、めっちゃ戻したい派で、戻したい派が勝った。
関税なんかかけたら自分たちの暮らしが困るってのにトランプを押すアメリカの低所得者らと、インフレで困るってのに高市を押す日本の低所得者。
ぶっちゃけこれって構造的な問題であって、お母さんも子供もそれの犠牲者なんですよね。
なんで子供たち(に限らないですが)が靴のかかとを踏むかというとちゃんと靴を履くのが面倒だからですよね。
で、なんで靴を履くのが面倒かというと、日本の家や生活習慣や教育機関が靴をちゃんと履ける環境になっていないからです。
日本の家は、といっても一軒家を除くんですが、玄関で靴を座って脱ぎ履きするようになってないんですよね。
一軒家でちゃんと上がり框がしつらえてあれば座って靴を履いたり脱いだりできるんですが、集合住宅だとたたきと5cmくらいの段差があるだけで座れる構造になってなくて、立ったまま靴を脱ぎ履きしないといけないようになっています。脱ぐときに靴ひもをほどいて、履くときは靴ひもを緩めて足を入れて靴ひもを締めて結ぶというのがきちんと靴を履くということですが、立ったままこれをやるのはかんりしんどいし、腰への負担にもなります。それでどうなるかというと、いちいち靴ひもを緩めたり締めたりしなくていいようにずっとゆるゆるにしておく、それでも面倒だからかかとは踏んでサンダルや草履みたいに履けるようにしてしまう、と。まあもともと日本人は草履と下駄を履く生活をしていたわけである意味原点回帰といえるかもしれないですね。最近はバリアフリーということで一軒家でも玄関の段差も低めになってたりスロープになくしたりするみたいで、ますます靴を履きにくくなっているのかもしれませんね。玄関に段差があるのは、日本では家屋を高床式にして基礎を30~50cm高く作るようになっているからで、これは湿度が高い気候で地面が湿っていて水害もままある土地に木造住宅を建てるには必要なことなんでしょうね。
それで次の問題は、そういうあまり靴をちゃんと履けるようになっていないところで靴をちゃんと履いても子供たちが学校に行くとせっかく履いた靴を脱げとなる上靴下靴文化ですね。せっかく靴を履いても30分もしないうちに脱げと言われるんじゃ、まともに履く気にはならないですよね。そして上靴を履くときに靴を履くための環境は全く用意されておらず、登校してきた子供たちがひしめく中で立ったまま履かないといけないわけです。立ったまま靴を脱ぎ履きできるようになることは新小学一年生が最初にできなくてはならないことの一つだそうです。学校が率先して靴の変な脱ぎ履きの仕方を教えているということですね。それで、休み時間にグラウンドで遊びたいと思ったらまた上靴を脱いで下足に履き替えないといけないし、休み時間が終わったらまた下足を上靴に履き替えないといけないし、グラウンドでの体育や校外学習があったりするとその時も同様ですね。なんというか日本の小学校に足育なんて夢のまた夢、学校がかかとを踏む子を育てていると言っていいでしょう。
大人は子供たちほど靴を脱ぐ場面があるわけではないですが、子育てしていると保育園の登降園時に発生しますし、職場でスリッパに履き替える人がいたり、履き替えないといけない職場だったり、デスクの下で靴を脱いでいたり、昼食や夕食に行った先が座敷だったり、ということもありますね。ちゃんと座って靴を脱いだり履いたりして、靴ひもを結びなおしている人がどれだけいるでしょうか。そもそも靴ひもは毎回結びなおさないといけないということを知らなかったりしますよね。子供のころからそういう風に指導されてませんからね。
まあ、そういうわけで靴のかかとを踏んでしまうのは、靴をきちんと履ける場所がないことと、それにもかかわらず高頻度での靴の脱ぎ履きを要求されるから、ということになりますね。
仰々しい題名を付けた。
書きたいことはそのまま。
日本語の衰退が怖い。まんま。
最近、色々な場所で外来語(という呼称が正しいのかは分からないが)を見かける。
例えば時事ネタで言えば某政党の「日本人ファースト」など。あえて外来語の呼び方を使うようなそういうやつ。アレが怖い。饅頭的怖い的な意味ではなく。
他でいえばマッチングアプリなどは最たる例かと思う。本質は古からある出会い系サイトと同じだが、それまでのイメージを一新、または払拭するために外来語を混ぜた呼び名があえて使われ、それが功を奏した。
出会い系サイト…というと昔は忌避されていた印象があるが、今の若者でマッチングアプリを使ったことがない人はごく少数になりつつあるだろう。
(現代、インターネットが現実の延長となり、とても身近な存在になったことも勿論影響しているだろうが)
それらが日本語の言葉遊びでは無くて、英語等の翻訳だから怖いのだ。
一度成り代わった言葉、一度定着してしまった言葉はそうそう入れ替わらない…ように思う。
かくいう自分もイメージという、画像や想像という意味では無く、ぼんやりとした意味を持つ、外来語を使ってしまっている。
他にも暮らしの中で言えばリビング、キッチン、ハンガー。ビジネス関連でいえばアジェンダ、アサイン、シナジー…。(調べると元は英語じゃない表現もいくつかあった)
日本語として言い換えは出来る…がしかし、言葉として使う時に口から出てくるのは、以上に挙げたような言葉ではないだろうか。対して今はそうでないカタカナ言葉も沢山あるだろう。
ちょっと外国に被れて、使ってるだけの人だって少なからず居るはずだ。直接表現するのは憚られるから、印象を和らげるために、とか。
なんならお洒落だし、とか。
そんな軽い気持ちで。
良くないね。
非常に良くない流れだ。
つまり何が言いたいかというと、日本語がもっと大切に扱われて欲しい、ということだ。
カタカナで和訳された外来語も、日本人しか読めない、かつ、ちゃっかり日本語発音なので、日本人による日本人の為の言い換えでしかない。
でも同じように、その直前にあった呼び名は日本人の日本語話者にしか扱えない言葉である、と自分は思う。
当方は法律関連の勉強をしている身分なのだが、法律の条文の解説書にイニシアチブとかいった表現が出てきた時はとかなりイラッとしてしまった。
そういうのが多い。
多すぎる。
言葉の意味や細かな表現が移り変るのはごく自然なことだと思う。言葉ってそういうもんだし。
当たり前だ。そういうもんだ。
そういうもんだよね。
自分達が使わなくなれば誰も使わない。外来語をカタカナにしたって意味が無いんだ。
細かい言葉の意味の違いが翻訳では伝わらないことも、いかに言語を他の言語で代替することがあやふやで複雑であるかを表してるように自分は思う。
言葉とは色眼鏡だ。他の言語を通すと見える世界が変わる。なんかの本で読んだ。
「ある思想家は言った」
「人は国に住むのではない 国語に住むのだ」
スカルフェイスというより、これはエミール・ミハイ・シオランっていうルーマニアの思想家の言葉が元ネタだけど。
しかしさっきも書いた通りだ。言葉は移り変っていく。そういうものだ。言ってしまえば外来語だから駄目なんて決まりもない。和製英語とかあるし。
じゃあどこまで良くてここからは駄目、とか、線引きなんて誰にも出来ないだろうし。
こうやって少しずつ、日本語らしい日本語が失われていくんじゃないかと。
でも皆そんなことに関心が無い。
大きい企業は商品名自体を英語にしちゃってるし。SNSの広報は当たり前のようにカタカナ英語を使ってPRをしてしまうし。お洒落かグローバリズムかなんだか意図は知らないけど。
それが一番怖いね。
そんなこと考えてたら寝れなくなって朝っぱらからこの記事を書いてるよ。この不安を拭えるような書籍とか言語学者の見地とかあったら教えて欲しい。
ただの一般人だから、何にも分からないから怖いだけなのかもしれないし。日本語らしい日本語の定義ってなんだよ、って我ながら思うよ。
でも、それが当たり前になって、いつか自分の愛した言葉達まで淘汰されてしまうかもしないって思うと、やっぱり怖い。
やがて平仮名や漢字の表現や熟語は淘汰されて、和製英語でカタカナ字ばかりの、さらにガラパゴス的な進化を遂げるのかな?と思うとそれはそれで、少し面白いかもしれないけど。
つか保守派だー!とか言って叩かれそうで怖い。まあそのための匿名なんだけど。
とりあえずもっかい寝るよ。
だからサブスクには心から魅力を感じていたし今年の2月までは加入していた。毎週、何かしらの作品は観ていたんだ。
映画が山ほど揃っていて、好きなときにいつでも観られる。そんなの天国だと思っていた。だが現実にはちょっと違うというか、好きな作品をいつでも観られると思うと集中できないことが増えた。スマホをいじりながら流して、ながら観のようなことも増えていった。
それでも配信終了のお知らせが来ると、まだ観ていない気になっていた作品を慌てて再生するようにもなった。「今のうちに観ないと損だ」と思って、焦るように観る。でもそうやって観ても、正直あまり楽しめない。なんだか映画好きだったはずなのに、全然楽しめない。全然違うことをしているような感覚があった。
そういう状況に気づいて、思い切って2月にサブスクを解約した。原点回帰して、映画を観たいなら映画館へ行こうと思ったんだ。しばらく足が遠のいていたが、ふと気まぐれに近くのシネコンへ行ってみた。
久しぶりにでかいスクリーンの前に座ると、それだけで胸が高鳴った。上映が始まった瞬間、驚いたよ。音響の迫力が昔とは比べものにならなかった。低音が腹に響き、細かい環境音まで鮮明に聞こえる。スクリーンの大きさに包まれる感覚。暗闇の中で物語に没入する感覚。久々だったが、圧倒された。改めて映画はこういうふうに観るものだったと思い出した気がした。
それ以来、毎月何度か劇場に足を運ぶようになった。もちろん費用はサブスク代より高い。観られる本数も当然減った。でも、不思議と満足感は圧倒的に今のほうが高い。劇場で観る一本は、家で観る十本よりずっと心に残る。映画が特別な体験として戻ってきた感じがする。
ちなみに、最近だと『国宝』は特に良かった。これは劇場でこそ観るべき作品だと思う。スクリーンの大きさと、映画館の音響のなかでこそ、この作品の空気感と緊張感は本物になる。これは断言できる。俺がいうんだから、信じて間違いないよ。
「エロゲーってすぐ脱ぐじゃん?逆に服着てる方がエロく感じるときあるよね」
そんな逆張り的な声がSNS上で一定の共感を集める中、そのニーズに技術的に真っ向から応えたエロゲーがいま話題を呼んでいる。
本作は、近年台頭してきた次世代可視化エンジン「QUX(クックス)」を採用。
通称「量子エンジン」と呼ばれるこの描画技術により、同一人物の異なる衣服状態を重ね合わせて同時に可視化するという、従来のゲームにはなかった演出を実現している。
どういうことか。
本作では、プレイヤーが恋人関係になるヒロインの“裸の姿”と“制服を着ている状態”を、量子的に重ねたまま表示することが可能なのだ。
これはつまり、キャラは服を着ているのに、脱いでいる状態も“同時に存在”しているように見えるというもの。
いいえ、違います。
単なるシースルーやエックス線的な演出とは異なり、QUXでは服の質感や重なりによる陰影と、肌の熱反応による微細な色変化までを物理演算している。
”裸を見ながら(味わいながら)、制服を愛撫する”という、高度に内面的なフェティシズムの再現が可能になっている。
シナリオ面でも、本作は一線を画す。
主人公は「世界の観測構造が狂った都市」でヒロインと邂逅するが、彼女は“自分の身体の状態”を自覚的に認識できず、服と裸の“存在確率”が曖昧なまま恋が進行する。
その結果、セックスシーンはどれもが"触れた感触と見えている視覚情報がズレる”という奇妙なズレを帯びており、プレイヤーは常に「これはどちらの彼女なのか?」と問われ続けるのだ。
エロゲーの表現が飽和し、単なる脱衣では抜けなくなった現代のエロゲー表現の限界に挑戦する本作、突きつけるものは視覚ではなく想像力をエロティックに加速させるという原点回帰だ。
そのうえで、技術的進化によって二重の世界を“視覚化”した点で、本作は極めて野心的な試みといえる。
着ているのに見えている
糖質制限ダイエットは何度が試したことがあり、短期的にはガクッと体重が落ちてくれた。しかしいずれも続かなかった。
理由として、食べて良いもの自体が制限されるというのは普通の生活では結構大変というのがまず1つ。ましてや主食だからね。外食しなきゃいけない時とか選択肢がかなり狭まってしまうし、これは食べてよいのか?と一つ一つ気にするのが精神的にキツかった。
よほどダイエットに本気な人(例えば減量期のボディビルダーとか)以外はこのハードルがかなり高いと感じる。
正直、お米やパンや麺類が食べたいという欲とか、血糖値が下がってふらつくとか、そういうのより糖質制限を常に考えて生活するのが辛かった。
それともう一つ、糖質制限中は不足するカロリーを補うために代わりにタンパク質や脂質を多めに摂る事になるんだけど、これらって「密度」が高すぎるのね。
要は物理的な量として一食分の肉とか魚って小さいからあんまり胃が膨らまないわけ。カロリー的には足りてるから長い目で見れば問題なくても、食事そのものの満足感が全然得られなかった。
もちろん血糖値も上がらないから、お腹に入ったのは分かるけど本当に食べたのか?って脳が混乱してる感じがした。
だからカロリー管理に切り替えたけど、まず野菜や海藻中心の食事にしてみたらこれまたあまりうまく行かないと分かった。
これらは肉や魚の逆で密度が低すぎるんだよね。
確かにサラダとかはカサがあるからその場ではお腹も膨れてたくさん食べたなという満足感はある。
しかし結局野菜ってほとんど水なのでしばらくすればすぐにお腹が空いてしまう。いくら食べても早くお腹が空くとどうしても空腹によるイライラが発生してしまう。これまたしんどいものだ。
つまり
・肉や魚:空腹にはなりにくいが食事に対する満足感を得にくい
ということが実感として分かった。
だから今は、主食も含めたバランスの良い食事(要は定食とか)を適量食べるというある意味当たり前な食事に原点回帰した。
野菜や海藻から食物繊維を摂りながら並盛のご飯(なるべく雑穀米とか玄米を選んでる)を食べれば血糖値が適度に上がるから満足感はあるし、そこに肉や魚を組み合わせれば満腹感の持続性もある。
更に気付きとして、小鉢が複数付くなど品数が多い食事はトータルとして少なめでも結構満足できると分かった。ちゃんと食べたという感じがある。
幸いな事に私は肉より魚が好きなので、焼き魚とか刺身とかの低カロリーな和定食を中心にするのは苦ではないし、肉が食べたくなったら別に我慢せず食べればよい。
またご飯を増減させれば1日のカロリーを調整する事もできる。これはすごく便利だった。
子供の頃の教育(田舎の農家出身の両親による、とにかく早くたくさん食えというもの)のせいか丼とか麺類のような一皿完結のものを一心不乱に食べる習慣が付いてしまっていて、定食という選択肢が脳から消えていた。
とにかく大量の米を少量のおかずでかきこむようにしなければならないと思いこんでいた。
でも適正な量のご飯でもちゃんと食事が出来ると良い大人になってからようやく理解できた。
これでやっと人並みの食事が身について、人並みに痩せられそうだ。既にしばらく続いていてそれなりに痩せてきてるので、このまま続けていきたい。
かつての高度な交通網・通信網が十分に保守できず、地方では故障した基地局や新幹線車両を“掘り起こして”部材を転売する個人業者が台頭。半導体を取り出す「都市鉱山」ビジネスがスラムの定番職業に。
百歳人口密度世界一となり、海外の医療・老年学スタートアップがフィールドワーク目的で村ごと受託運営。老人ホームが“生きた博物館”として見学料を取る逆輸入モデル。
電力・通信を自前でまかなうオタク技術者がクラウドファンディングで“町内向けミニ発電所”を量産。コミケのノウハウをインフラ構築に転用し、自治体より早くサービスを復旧。政府が後追いで許認可を出す「公→私」逆転現象。
光熱費高騰で煮炊きが贅沢に。魚粉を超圧縮した“出汁キューブ”が主食扱いになり、食卓は湯に溶かすだけの流動食化。結果として味覚の微差を競うオタク層がガストロノミーを牽引し、“お湯割り職人”が登場。
ネット速度が不安定になる中、テキストベース+8bit音声のみの軽量メタバースが復権。昭和レトロなドット世界が若者の主ステージとなり、「現実はハードだがオンラインは8kbpsで優しい」という逆転。
輸入労働者と高齢日本人が意思疎通するため、ひらがな+簡体字+絵文字を混ぜた即席言語が広がる。やがてインドネシアやフィリピンに伝播し“コンビニピジン”として逆輸出。
中央税収が細り、巨大企業が道路補修や水道維持を肩代わり。結果としてトヨタ藩・ソニー藩・楽天藩など“企業領国”が自治権を持つ。住民は「どの藩に所属するか」を就職ではなく“帰属”として選択。
正規軍維持が難しくなり、個人オーナーのドローンをスマートコントラクトで束ねたバーチャル傭兵団が離島防衛を請け負う。トークン配当で機体を共有保有する“戦争版NFT”が出現。
高層マンション維持費が出せず、上層階が無人化。1–10階は低所得者が占拠、20階以上はクリエイターが格安アトリエとして使用。エレベーター運賃が電動キックボード並みに課金制に。
公教育が縮み塾も淘汰される一方、オープンソースLLMを使った“寺子屋AI”を町内で共同運営。江戸時代さながらの私設学習所にハイテクが融合し、学習の地域格差がむしろ縮小。
海外スタジオが費用を持ち、日本で食えなくなったマンガ家を国外アトリエに“流刑”する制度を創設。現地産業振興と日本マンガ存続を同時に図る“負けて勝つ”クールジャパン2.0。
国家保険崩壊後、外国製新薬のフェーズⅢ治験が日本全土で実施。高齢者が参加して医療費を浮かせる“治験ツアー”が一般化し、治験成績優秀者には「ゴールド被験者カード」が発行。
鎌倉大仏の譲渡担保で港湾を改修、浮世絵一括担保で衛星を打ち上げるなど、美術品がデジタル資産化され国際市場を回遊。やがてDAOが国宝を分割所有する“分散保護”へ。
災害多発と公的補償低下を受け、自宅をリビングシェルター化した住民が“被災シェアリング”の株式を発行。豪雨で止まった地域に対し、家ごと貸し出し配当を得る“寡占シェルター市場”が発展。
「町が無人になる瞬間」をYouTuberが24時間中継し、スーパーチャットで遺跡保存費を賄う。人口ゼロ記念セレモニーが国際的イベントに──“負の達成感”をコンテンツ化する逆転思考。
これNetflixで見て損した。人類滅亡の設定は面白いよ。破滅系が好きな私には刺さる世界観なんだけど、メインストーリーの少女5人組がガチで合わなかった。
政府と自衛隊による侵略者への対応とかサブストーリーだけ切り取って見てる分にはかなり面白かった。侵略者を自衛隊が駆除する描写はそのまんま殺戮って感じで、そこだけフォーカスした物語だったら9/10だった。
メインストーリーの少女5人組がつまらなすぎて一部飛ばしたレベル。UFOがある首都で日常系をやりたかったんだろうけど、『ぼくらの』みたいに悲惨さに寄せてるわけでもないし、
かといって『シンゴジラ』とか有川浩の『海の底』みたいな、政府や自衛隊の描写メインでもなく、出てくるギャグは面白くない。Coopとかナイフ限定鯖とか「その辺も把握してます」って感じでキャラに喋らせてるのも合ってない。
しかもこのゲーム好き、ゲーム得意という設定、全くメインストーリーで生かされてないし、そのセリフに費やす時間がムダすぎる。あと教師と主人公がセックスすることを友人が期待しているという一連のギャグも、
UFOがある街での日常系の一部として描いてるのが無理。そこまで描くならもっとエロ描いてればいいのに結局ほとんど描かれておらず、最終的には並行世界に飛んでハッピーエンドの世界線では同棲して何年を迎えてオチとかも、普通すぎて何も意外性ない。
最近昔の作品をリブートさせる動きが広まってるけど、「色々な人に刺さる要素盛り込みましたこれで全員にウケて稼げますスペシャル」みたいなストーリーより要素の多さを優先するコンテンツが氾濫して全体的に面白くないので、
ストーリー重視の昔の作品に原点回帰したくなってるんだろうな。本作はまさに、良くも悪くもこのスペシャルで、私には合いませんでした。まあタイトルの時点で察するべきだったかもしれない
土曜日に私生活色々やって日曜日はスタレの新エピソードとゴールデンマン読もうと思ってた。
そこにSBR全話無料が来たのでそれを読んでいたら日曜日がバイツァ・ダストした。
充実の一週間だった。
読むのは3周目か4周目。何度読んでも分からない要素は分からないままだなと感じた(保護色・公園でのD4C等)。ジョジョシリーズの集大成みたいな感じの作品なんだなという気持ちが読む度に強くなる。6部が表向きの最終章で、7部が集大成、8部以降がボーナストラックという印象。西部劇ベースってのも映画を漫画でやるジョジョ的空気の原点回帰って感じでいんだよなあ。本当面白かった。読んだことがあって全24巻ぐらいなら12時間もあれば楽しめるもんだなあ。
・スティール・ボール・ラン(24時間全話無料)
双子の男女が両方主人公の「シンジケート」や、サブ的に一部エピソードで女がプレイアブルになる「オリジンズ」があったが、UBIは当初はオデッセイではメインシリーズ初の「単独女性主人公」をやろうとした
しかし、女キャラは「俺達の目」にはなれないという反発があって渋々男女両方使えるようにした
男主人公を選ぶと女主人公は生き別れの妹として登場、女主人公を選ぶと男主人公は生き別れの弟として登場する
次回作「ヴァルハラ」では人間じゃない主人公が性別をいつでも切り替えられる形式になった
ヴァルハラのDLCの予定だったが単独化した次回作「ミラージュ」は男性単独主人公
UBIの公開されている資料を見ると、どうもシャドウズでは男主人公は当初おらず、NINJAの女主人公奈緒江が初期から構想にいたようだ
なんか「はじめは男NINJAが主人公だった」という主張も見るが、それはソシャゲ「メモリーズ」のヤマウチ・タカとの混同なだけと思う
炎上前から現在まで、奈緒江がまず先に作られたとよくスタッフが言っている
正式タイトルが決まる前のリーク画像では奈緒江だけが写っている
悲願の「単独女性主人公」をシャドウズで初めてやろうとしたのではないか
でもやはり女性だけだと「俺達の目」にはなれないので男主人公を追加することになり、「信長に伊賀攻めされ復讐を誓うNINJA」のパートナーに信長サイドのキャラを追加すれば面白い、最近流行りの弥助にしたらいいんじゃね?となったのではないか
ミラージュは原点回帰のステルス重視主人公で、奈緒江もステルスNINJA
奈緒江と正反対の要素が強いもう一人の主人公を組み立てていくのにも弥助は便利だろう
あと男女がプレイアブルの過去作は、ガワが違うだけで体格がほぼ同じで男女差がなかった
小柄なNINJAと巨躯のSAMURAIでぜんぜん違うプレイ体験をできるようにしたい、長身ムキムキ黒人とか差がめちゃくちゃついて面白いよなという発想がありそう
番外編ではなくメインシリーズで単独女性主人公の悲願はまだ叶わないが、次回作が魔女狩りをテーマにしてるそうなので次回作でこそ出来るかも…?
最近は真面目に労働者やってるからあんまゲームやる時間ないけど、今年は楽しみなゲーム色々あるな
まずは春はアサクリシャドウズ
少女革命ウテナで「白い手と黒い手が指を絡ませ合っているとすごいエロい」と目覚めたせいで二人をエッチな目で見てしまうがそうはならんのかな?
弥助は堂々と乳首出す衣装とかあるのに、奈緒江は長袖長ズボンばかりで禁欲的すぎてエッチだ
ギリシャが舞台のアサクリオデッセイのカサンドラさんなんかミニスカでパンチラしまくりなのに逞しすぎてなんもエロくない、隠すことでエロスは生まれる
夏はMafia: The Old Country
シリーズ四作目で、一作目二作目がわりと正統派のイタリア系移民がアメリカでドンパチやるマフィア物
三作目は異色で、イタリアの血と黒人の血を引き、後者の特性が色濃い容姿の男が、イタリアの血故に同胞として扱ってくれていると思っていたマフィアに裏切られマフィアを潰す側に回る
三作目はもはやマフィアってタイトルおかしいだろとかポリコレだとか言われたけど、これはこれでいいのよ
四作目は原点回帰で、舞台をマフィアの起源であるシチリアに移してクラシックなマフィア物をやるらしい
アサクリはその時代・土地らしさに没入できるのが良いとよく言われるが、マフィアシリーズもそこらへんはなかなかのもん
初代リメイクは、街をぶらっとしているだけでも1930年代アメリカの車やら服装やら町並みやらがレトロ可愛くて楽しかった
オリジンは1900年代シチリアで、重火器の時代性にこだわって作っているそうで、まあそこら辺の時代に全然詳しくはないのだが、浸りたい
日本語字幕はあるが日本語ボイスはつかないらしいので英語ではなくシチリア語でプレイしたい
シチリア語って話者が500万切ってて、もう少数言語なんだってよ
秋は冠を持つ神の手
発表された頃は学生だったからクリア率100%にできたが、今はその気力はあるだろうか、でもやりたい
あの頃はまだ実家暮らしだったな、お金がないからフリーゲームばかりやっていたし、一作一作をやりこんでいたなと懐かしき思い出とセットだ
ときメモとかみたいな、育成しながら恋や友情に励み、あと相手を殺害したり憎み合ったりの暗いルートも作り込まれているのがいいのだ
恋しあうだけではわからない、最悪な人間として振る舞い喧嘩売りまくることで引き出せる相手の醜い一面の中にこそ萌えがある
あの大量の分岐を一人で書いてるってすごいよなあ
絵師一人と、シナリオ・プログラム一人の二人だけであんなの作れるというのに、フリゲープレイしてた時代からこちとら年食っただけでなにも成し遂げてないな・・・
これまでの日常系アニメは複数人のグループに焦点をあてたものが多かったのが、
二人組+αの構成が増えてきて個人間の関係性が重視されてきてるように思う
ひとつには百合における関係性の部分が浸透してきたこともあると思う
ただ、そこから恋愛の文脈も入ってきやすくなって、原点回帰した感もある
ちなみに、沖ツラは二人の関係性を強調しながらも捻った構成になってる
てーるー→喜屋武さんの恋愛、喜屋武さん→比嘉さんの友情百合、比嘉さん→てーるーの恋愛と、それぞれが2人の関係性を作りながらのトライアングルの3人グループが成り立ってる
グループものの日常系としては、ラブライブとかガルパンなんかが最後の大物って感じかな
ただ、こちらも新しい展開として日常から逸脱した日常系?として発展してきてるように思う
この辺はわりとラノベの影響も受けてそうには思う
Ubisoft は、『アサシン クリードシャドウズ』の予約注文が『アサシン クリードオデッセイ』の予約注文と一致していることを確認した。
スタートは少し遅かったものの、オデッセイは最終的に 1,000 万本以上を売り上げ、3,000 万人以上のプレイヤーを獲得し、今でもこのシリーズで 2 番目に成功した作品となっています。
最高売上はヴァルハラ(9世紀イングランド)だが、これは前作オデッセイ(紀元前430年ギリシア)の評価が高かったので売れたものの
オデッセイやその前のオリジン(紀元前30年エジプト)に比べたらなんかなーと評判は微妙
オデッセイははじめて主人公を男女どちらかから選べるようにした
プレイしていくと、単純に選べますよってだけじゃなく「もう一人の主人公」と出会い、選ばれなかった側が闇堕ちしており~みたいなシナリオ
オデッセイ次回作のヴァルハラも男女から選べるが、これは単純に選べますよってだけでオデッセイの後だと単に男女平等感出したかっただけでいまいち
オリジン・オデッセイ・ヴァルハラの三部作は、マンネリ化していたシリーズを刷新してアクション要素強めになっていた
ヴァルハラの次回作ミラージュは、原点回帰でステルス要素が強くなり一作目オマージュが強い
ヴァルハラのDLCとして出る作品だったがヴァルハラのボリュームがありすぎたので単品として出たので、ミラージュだけだと話がよくわからんとか不満点は色々あったが、三部作は売れたとは言えアサクリらしくない、という人にはミラージュはアサクリらしいと好評だった
シャドウズは三部作+ミラージュを踏まえ、「男女主人公をただの平等感のお飾りにしない」「最近受けたアクション強め要素と、シリーズらしいステルス要素を両方できるようにしたい」という狙いがあったと思う
シャドウズの男女主人公は、「男・外国人・信長しゅき・剛腕アクションバトル」な弥助、「女・日本人・信長アンチ・技巧派ステルスバトル」な奈緒江、と性別をABから選べますよというのではなく立ち位置や性能を極端に分けている
その結果大炎上したわけだが…
ヴァルハラはヴァイキングが教会を破壊しまくり宗教冒涜し、あの時代のヨーロッパはまだいい建物や文化があんまりないのでビジュアルや物語が映えるように歴史考証を敢えて無視して捏造しまくった
キリスト教が悪者にされる物語も妄想時代設定のナーロッパなんかも西洋圏の人は慣れっこだし、ゲームとしてキレイで面白いほうがいいよねという
しかし次回作ミラージュは、一作目オマージュなことと、適当な設定やると怒る人がいそうな中東舞台なこともあって時代考証については評価が高い
西洋人ってイスラム圏に偏見持ってるやろうけど、本当はこんな感じなんやで?と教育的に啓蒙するが如き内容だった
ヨーロッパは適当でも許される、中東は許されなさそう…そして日本も「許される」と思っちゃってんじゃないかな、許されなかったね…
俺は許すよ
種が当時の情勢や科学技術を踏まえた仮想戦記である様にサンライズは何度もファーストガンダムを実質リメイクした作品を作ってるし
直球の延長であるUCは無論そうだし、安彦解釈のORIGINやハリウッド映画的なリアルさを持ち込んで大人の視聴に耐えうるハサウェイはその土台の上にある
ただ、それが日本のある時代のおっさん以外に届かないから悪戦苦闘を繰り返して失敗し続けてるだけの話で
同時にその失敗が続く故におっさんの思い入れが強まるというメビウスの輪から抜け出せてない
子供向けという原点回帰しつつおっさん層を両取りしようとしたガンダムAGEなんかは典型だ
最近だと単品で楽しめる事を意識してガンダム的ギミックを前に出さずにキャラの関係性を軸に描いた水星はその輪からの脱出に成功した、ファーストおっさんからの評価は低いがな
だからジークアクスはフリクリで海外評価が圧倒的に高くて少女向け作品での文脈も強い榎戸という切り札を持ち出したという所がある
鶴巻は最近エヴァでの介護にかかりっきりだったからコンテンツを立ち上げる腕が衰えてるかもしれん、実は不確定要素はここかもしれない
竹絵は言わずもがな、ポケモン以降は完全にグローバルスタンダードと化した
ところが、だ。なんか庵野とかいう同人誌描く位に最も神聖視してるだろうヤバいオタクがしゃしゃり出て妄想を開幕から叩きつけたからさあ大変
そこばかりがフォーカスされ、アホな懐古のおっさんしか盛り上がらないコンテンツになってしまった
インタビューとかでアレはない的な事を制作側も言ってるし、庵野も慌ててXでお気持ちをやる始末
大体、鬼太郎とか忍たまが劇場版でしっかり現代の需要に応えて若返りに成功してるのにこんなのやってたらそりゃ新しい層なんか取り込めないわ
単発映画と比べるのは酷だが、見せ場とかキャラ造形の時点で2本の方が全然良く出来てるし30分もあれを流してしまった事で
作品の重心が偏った結果、結局おっさん頼りになる未来しか見えない
……というわけでおっさんの戯言だったわけだが、実質リメイクなんかいくらでもあるのでそこはどうでもいい
それよりも過去のトレースなんかより自分はカラーのノウハウを生かした今の水準で見てもヤバいと思える一年戦争やコロニー落としの描写が見たかったよ