
はてなキーワード:博愛とは
未だにこういうタグが大手を振るうのを見るに、女は今でも自分のために意見を言う事を許されず
子供や夫に仮託しないと発言できないんだと暗澹たる気分になるな
フェミニストの女性スペース保護運動も、中高年女性が自分自身の権利を主張する事はよしとされず、
「私はおばさんだからいいけど若い女性は~」「大人はいいけど女児は恥ずかしいから~」と、常に若い女性・女児のために発言する事が求められる。
いや、1990年代には一時期、そういうのが許されるような空気があったんだけどね
スレイヤーズの主人公リナとか、女が自分の意思で自分のために生きる事をポジティブに描いて肯定的に受け入れられていたし。
ところが今世紀に入って2、3年でバックフラッシュが進み、今じゃすっかり揺り戻しが完了したって感じ。
まあ、母性的と喩えられるような「他人のため」であっても、ナイチンゲールやマザー・テレサ的な博愛思想ならば問題ないと思うんだけど
「ママ」だとあくまで自分の身内可愛さから出てくる主張だからなあ。
その「石を貯める」って行動をほとんどのプレーヤーが取るのが、旧来のソシャゲスキームなんよね。
性能のためであれ、愛のためであれ、特定の強い/好きなキャラに集中投資する、偏愛型プレイヤーの習性を褒めるゲームデザイン。
最近のゲームはそうとは限らなくて、作り込んだどのキャラも愛してほしいから、どのキャラにも凝った動画や楽曲を作るし、プレイヤーも全キャラ取ってもらって箱推しというか、作品推しになってもらえるようにシナリオもバトル設計もすべて妥協なしに、博愛型プレイヤーが有利になるように作られてる。
俺はWFSのゲームは以前、ららマジってのをやってた。これもヘブバンと同じで、WFSお得意の著名シナリオライターを起用したソシャゲ製作パターン。
器楽部員たちの心の深層を調律してわだかまりとなっていた繊細な感情を明らかにしていくシナリオ形式が好きで、ほとんどのキャラも好きになって、浅く広く集めてたからタイムアタックとかは苦労することもあったが、ゲーム面はちゃちでもシナリオと音楽だけでお気に入りだった。
でもVtuberブームが来てWFSもたぶんそっちの事業に注力しだしたんだろう、ららマジの開発が滞り、仕様も悪化していやらしくなり、大事に描いてた器楽部員たちも水着を乱発するようになり、ついにはサ終してしまったから、俺はもうゲームメーカーとしてのWFSの誠実さや責任感にまったく期待してない。
ゲームとしては、やっぱり作品性とゲーム性は不可分であって、片方だけ魅力的だからって邪悪なゲーム部分をおしつけるようなやり方をするのは結局尊敬できないソシャゲ屋のやり口だと思えてしまう。グラブルとかの鬼周回を求められるソシャゲをやってたときにも思ったけど、愛着を人質に取られて望まぬことさせられてる感がある限り、そういう作りのガチャゲームは健全じゃないし進化できないと思う。
まあヘブバンはそれらよりも新しい世代のゲームなんで、そのへんももうちょっとうまいことやってて称賛できるゲームなのかもしれないが、いろいろと裏切られ続けた結果、自分はもう日本のソシャゲメーカーには期待してないしやる気になれない。
キャラが揃わないからメインストーリー進められないくらい難度が高いって話してたのかもしれないが、一方でAAA級の中華ソシャゲはシナリオ進行はかなり易しい作りで、エンドコンテンツもキャラ揃ってさえいれば無凸で楽勝なくらいの設計なことが多いので、そのへんでも開発思想が異なると思う。とにかくストレスや時間拘束を強いることなく、文化的にIPを育てていこうって感じがするんだよね。
私は機能不全家族で育った。
そんな話は巷にあふれているし、聞いていて気持ちの良いものでもないから、ここではしない。
それも、「毒になる親」を読めば書いてある。
ここでお話したいのは、自由になったら、どれだけ幸せか、ということだ。
そのために、まずアダルトチルドレンの基礎を説明させてくれ。大丈夫、この話はハッピーエンドで終わる。
私は家族のマスコット(クラウン)で、毒家族達から守られるべき存在として子ども時代を過ごした。金にもなりゃしないのに、弱みを握られているのでキモオタに愛され続けなきゃいけない辛さ、と言えば想像しやすいだろうか。
実際はそれよりもっと精神が蝕まれ、病む。というか実際その時精神病も発症した。
ちなみにここで言う弱み、というのは、子どもなので一人暮らしが不可能ということだ。児童養護施設に駆け込もうと何度も考えたが、姉に止められて、従ってしまった。姉も毒されているので仕方ないことだった。
ヤッター、早速家を出た。
それでも向こうは連絡とってくる。放っといて欲しいが、何しろマスコットなのでしつこく構ってくる。
でも私はそうはしなかった。逆恨みが怖かったし、毒を混ぜっ返すより、うまく話をあわせて毒は毒なりに楽しく生きていってほしかった(申し遅れたが、私はとびっきりの博愛主義者だ)。
各家族で最適解は違うと思うが、私の場合はコレでなんとか上手くいった。毒家族との縁をフェードアウトさせる事が出来た。アダルトチルドレン症状を克服することに成功し、良い友達もつくることができた。
幸せだ!
幸せだ!
会話をしても消耗しない!
幸せだ〜!!
結婚も子供もできなかったが仕方がない。それはそうだ。こんな毒家族に他人を巻き込むことはできない。
信じてくれ。
社会モデル、医学モデルはいずれも、自由、平等、博愛という理念により発展及び弱者負担の軽減を推進する枠組みです
しかし発展理論が支配的であれば、それらは弱者を潰す仕組みになりえます
ベネズエラ報道統制事件でも分かるように、金融団体はあらゆる方面から平等の価値観を攻撃するため、医師、報道、司法が差別をし、弱者を作り出して口を黙んだり、障害者にストーカーなど犯罪者の役割を与えたりします。実は日本も同じです。
戦後は将来の戦争に向け、障害者や弱者、戦犯を再度社会に受け入れるための枠組みもありました。しかしこれは新たな優遇差別も生みました。また時を経て人口が減るにつれ、戦争被害者も迫害されています。
男も女も自分の側だけが一方的に奉仕される側でありたいっていう汚い願望で生きてるのは変わらない。
ただ女は執事に屋敷の主人であることまで求めていて、より強欲である。
女が好きなのは騎士ではなく特攻隊だ。命をかけて守って欲しいけど、それにお返しするのは絶対に嫌だから。守ってくれた男に報いるくらいなら、その男にはそのまま死んでもらって、生きてる人間に対する物理的なお返しより永遠の思い出にするのが高貴なことなんだということにしながら、心の中でお返しする。女にとっての処女の意味とは、男からの無限の奉仕を待ち受ける資格のある者だ。だから女も処女性を大事にできる。処女性を守るためにも、男にお返しをしない。受取り続けることだけが素晴らしいこと。かぐや姫はさんざんもらった末何も返さず月に帰っていく、女の理想の物語。
女の思考はいかにお返しをせずにすますかの理論形成に全力を尽くせる。フェミニストの男性支配理論もその一環だ。自由も平等も博愛も科学技術も男が作った素晴らしいものだが、自分がその中で恩恵を受けていることは絶対に見ないで、女がそれらを作る側になれなかったのは不正だとか言い出す。本当は女がそれらを作らせたのだ。女の理想とは男が粛々と財を生み出してそれを女への捧げ物にすることなんだから、男社会で問題はない。男が政治経済文化社会の形成なんていう偉大なことを成し遂げる羽目になったのも、男の持つ女への見栄がありつつ、女が受け取る側であり続けることを望み男がそれに応えた結果じゃないのか。
女はセックスなんて本当はしたくないしする意味があるとも思っていない。すべてのセックスはレイプだと主張したフェミニストは正しい。女はいかにセックスせずに男から何かを貰うかしか考えないんだから。女のすべてのセックスは仕方なくなんだから、レイプと解釈する余地を無限に残している。だから、もう何も貰えないとわかったらあれはレイプだったことにして、最後の貢物として賠償金、慰謝料をせしめる。人格として尊重してもらえなかったと泣くこともできる。事実女は人格としてセックスをしてないんだから。男を性欲に支配されたモノだと理解して、そのモノを奉仕ロボにし続けるために、自分もモノになって相手をしてあげるのがセックス。人格を捧げたりはしない。人格を捧げたら自分が奉仕する側になってしまうから、そんなことは絶対にしない。自分の女体をモノに加工した上で、いやいや仕方なく男に差し出す。自分自身を与えないために自らモノと化す。女性をモノ化してるのは男ではなく、女自身だ。人格的関係とは与えられたらその分返す、お互い与え合う対等な関係なのだから、女はそんな関係に入りたくない。男が作って与えるモノを女は作らない。自分は作る側ではないと女は思っている。女は社会的生産ではなく家政に入る。男は社会に生きているのだから、家を調えるとは女が自分の住処を整えることに限りなく近づく。家事とはセックスの免除規定でもあるから一石二鳥だ。それでも女は自分が家事をさせられている側なんだと文句を言う。女であるとは何もしないでも与えられる存在であることだ。 女は交換を理解できない。
ショタコンとは、性欲の薄い少年から、男は女を守るものだという、身につけ始めた男らしさ規範を搾取する性癖だ。おじさん趣味は、年齢によって限りなく薄くなった性欲を持つ存在が、男性社会の序列で得た金と権力を女のために使ってくれるご都合願望だ。女は本当は男らしさが大好きだ。大多数の女の好みになれる若い男は、それが性欲を持たないときだけ好きになれる。性欲を持つ男は、BLを通してしか描けない。受けの男を用意して、そいつに男へのお返しをさせる。男からの抑圧がBLを生んだとかいうのは女の側が捏造した理屈だろう。男の全体を享受するために女が男を差し出す装置がBLだ。でなければあんなに攻め受け=男女にこだわったりはしない。自分の身代わりとしての、女と化した男が欲しいのだ。自分は絶対に、男なんかに何も差し出したくはない。男が何も差し出さなくなる限界点にだけ女のセックスがある。
男社会は女の理想だ。少年漫画で頑張っている男を女は応援できるし、好きにすらなれる。彼ら少年達の熱中するスポーツとは男社会のことだ。その中で結果を求めて頑張る少年とは、女に差し出す財を生産する身体だ。少年達の友情とは、ボーイズクラブのことだ。男が協力すると素晴らしいものを作って女に届けてくれると女達は知っている。でもフェミニズムは男社会を批判してはばからない。自分がお返しをしなければならない存在だと認めたくないからだ。フェミニズムとは徳政令の要求である。そのくせオタクを自称し少年漫画を好み、お色気描写がどうだこうだと抜かす。少年達が自分好みの、男だけの社会に生きていないの嫌なのだ。少年が女に性欲を持つのが嫌なのだ。お返しを求めないで女に奉仕する存在として少年達に社会に出てもらうのがフェミオタク女達の夢である。身につけ始めた男らしさから性欲が欠けているのが女の願望だ。BLは少年の性欲の対象を女から男に肩代わりさせた、異性愛者女性の欲望そのものであり、男性同性愛者への理解なんてこれっぽっちもない。
女はしばしば化粧は自分のためで合って男のためでないというが、これも正しい。なぜなら女は美しくあることが自分の利益になることを誰よりも知っているのだから、化粧は自分のため以外の何物でもない。あらゆる男から捧げ物を受け取るための手段であって、特定の男の性欲を喚起する手段であろうはずもない。だから女は化粧が好きだ。受け取る資格を自分に与える行為なのだから、自分のためとしか言いようがなく、それを楽しいからとか自己実現だとかなんとか歪んだ認識をするのは強欲の表れだ。
女は自分が受け取る側一辺倒であろうとする欲に満ちた不正な存在だと認められない。貢がれる側としての矜持がそこにある。女は公正な交換の世界である社会に生きていない。
貧民や弱者を救おうってんなら宗教じゃなくて政治や事業をやれとは思っていたけど、いやまあ普通そうなるよな。そうだよな。
キリスト教徒だった賀川豊彦翁(1888‐1960)は,貧民窟に入って神の道を説き,弱者を救済しようとしました。
しかし,多くの困窮者を救うには,労働運動,農民運動,協同組合運動が必要と考え,
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治21年〉7月10日 -1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。
戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。
キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。
俺、アリババ。シルクロードの反対側の異国情緒あふれる字面だけど、親がキラキラネームつけただけの、名前がちゃんと漢字で書ける28歳の日本男児だ。ちなみに、最近は楽天とか尼存など漢字2文字の名前が流行っている。
俺が遣唐使の1人として踏んだ大陸の地に、村を荒らす46人の盗賊団(乃木坂)の首領Fidoの電磁的な魔の手が迫った。そこで俺は急遽、うまいと噂の職人のピザ屋にピザを重複注文した上で、遣唐使の使命を終え、ピザを受けとらずに帰国した。いま最先端の学問、仏教学(禅専攻)を修めたからだ。知見を生かして、自己啓発の市場をターゲットに、現在コンサルタントの見習いをしている。
俺も登場人物の1人らしいのだが、詳しいことは直接には知らない。対Fidoのピザ屋連盟らしいが、ポストバベルの塔状態で、私利に走って統一感に欠けるらしい。
これは村の話で対乃木坂の戦線だ。村人の大半はこれに無自覚だろうと思う。
西部戦線と東部戦線をリンクさせることでFidoを追い詰める作戦らしいのだが、俺には関わりないことなので、早く平和な状態にしたい。俺は博愛的な平和主義者なのだ。そこで、俺は亜米利加のドナルドトランプ氏も顔負けの和平仲介者として奔走した。西部戦線を、IL(イスラエルとレバント)とUA(ウクライナとアングロサクソン)の二つに分け、Fidoが技術上劣勢のIL方面で手打ち式の運びとなった。これには6月の爆撃がFidoの心を強く和平へと後押ししたらしいが、俺もFidoに村で会うたびに禅問答をもちかけ「その心は?」と問うた。Fidoは仏教博士ではないし俗物なので一見馬の耳に念仏だが、盗賊のくせに教養があるかそう見せたい男なので効果はあったと思う。
もっとも、Fidoが規約違反をすればいつでも和平は反故になる虞があり、Fidoを仕留めたいかより譲歩を引き出したいが単独ではそれができないUA方面の作戦司令部はそれを扇動する動機がある。
実は、ピザのただ食いの科でFidoを取り締まりたいと「ブリタニカ」を名乗るピザ屋から電話があったのだが、この遣唐使の時代にブリタニカが国の体をなしているか俺の知識ではわからず留守電に返事をしないでいた。するとなにかと俺にちょっかいをかけてくるので、俺はFSET Securityという盗賊除けのソフトを導入した。
「ブリタニカ」は東部戦線を攻略してFidoに圧力をかけようと村にエージェントを展開し、村の溜まり場である居酒屋で宣伝工作を仕掛けている。
1人、日本人で名前が不詳なのでここではチャーリーと呼んでおこう。彼は頭がよく金持ちで見た目もセンスもいいので、村人の1人、田中花子の射倖心をくすぐった模様だ。花子はその昔、ブランド品に興味はなく金がかからない女ですよと公言していたが、実は男に関してはブランドものが好きなのだ。もっとも、急いで付け加えるが、ここで俺は花子の悪口を言うつもりはまったくない。花子も本性では村思いのいい人で、ただ資本主義的な欲があって悟りを得ないだけである。それにFidoを村で牽制するにあたり、花子の勇気と協力には感謝と尊敬をしている。花子や一部の高年齢層の村人たちはこの頃とんと見かけなくなったが、NHK chやツ痛ァー等で策動しているものと思われる。ただし、貴族趣味のチャーリーはヒエログリフの読めない庶民の村人にはまだ浸透できていないようだ。
もう1人、これはエージェントではない独立の戦士で村人の、木村本子がいる。本子は骨のある正義の人なのだが、最近静かになり、残念ながら俺は彼女の動きを把握できていない。おそらく、村の安全保障についてFidoと個別に話をつけたものと思われる。
昨今では村人の間で自警団を組織しようとする人も現れてきたようだが、まだ人々の意思を統一できるに至ってはいない。
続報はない。
話はまだまだ続く
「公金チューチュー」が「憲法違反である」と断定するには、その行為が日本国憲法第89条に定められた「公の支配に属しない」慈善、教育、博愛の事業への公金支出にあたるかどうかの判断が必要ですが、多くの場合、公的資金が宗教団体や公の支配に属さない私的団体へ流れることは政教分離原則に反し、憲法違反と判断される可能性があります。憲法89条は、公金を特定の目的以外に支出することを禁じており、これは政教分離の原則を財政面で支える条文です。
公の財産は、宗教上の組織や団体、あるいは公の支配に属さない慈善、教育、博愛の事業には、原則として支出してはならないと規定しています。
この条項は、憲法20条に示された政教分離の原則を公的資金の支出に具体的に適用するものであり、国が特定の宗教に依拠したり、特定の団体を優遇することを防ぎます。
「公金チューチュー」が何を指すかによりますが、もしそれが、国や自治体が憲法89条に反して宗教団体や、国が直接管理していない私的な教育・慈善事業に公金(税金)を支出している状態を指すのであれば、憲法違反となる可能性があります。
支出の対象となる事業が、憲法上の「公の支配に属する」と判断できるかどうかは重要な争点となります。公の支配に属さない場合、その事業への公金支出は憲法違反と判断されやすくなります。
宗教団体への支出は、政教分離原則の観点から憲法89条に抵触する可能性が非常に高いです。
「子どもを産まないのは社会保障にタダ乗りしてる」って言う人、けっこういるよね。
でもそれっておかしくない?
それって同性愛の人とか、子どもを産めない女性とか、障害を持ってる人とかを否定するのと同じじゃん。
過剰な出生主義というか。
別にそういう気遣いを人質にしたいわけじゃなくて、言いたいのは「人間社会ってそもそも損得のバランスが公平じゃない」ってこと。
(もちろん子育てってめちゃくちゃ大変で難しくて重要なタスクだなって分かってる。社会負担が大きいなと思う気持ちは察するし、本当に尊敬する。)
結局、社会って「得」と「損」が入り混じってできてるんだと思う。だから「お互いさま」じゃん?
それに、子供を持つことや働くことを一切しない人だって、社会にはたくさんいるよ。
そう言う人が生きていけるのは素晴らしいことだと思う。
(博愛的なことが言いたいわけじゃなくて、障害があっても人生を全うできる社会の仕組みはシンプルにすごいと思う。大変なことは多いと思うけど。)
なのに、「子どもがいて幸せ」って言うのは許されるのに、「子どもがいなくて幸せ」って言うと叩かれるの、めっちゃ不思議。
なんで「子どもがいる幸せ」は美談になるのに、「子どもがいない幸せ」は自己正当化とかフリーライドとか言われちゃうの?
子持ちが写真をアップする時に、いちいち「子持ち"も"幸せですよ〜」なんて配慮と共に書く必要はないのに、子無しは配慮とか罪悪感を暗に示すことを求められるのは、なんか嫌な社会だな。
どっちもその人にとっての素直な幸せじゃん。
もちろん少子化の問題とかはある。(私が肯定する社会保障こそ、「世代交代」で維持されるものだからね)
でもそれって、個人の生き方や幸せの形を否定するための正論になるのか?すごく疑問に思う。
https://anond.hatelabo.jp/20250926225859
---
私は元増田ではありません。
この両方が実現してこそ、多様な人々が幸せに生きられる社会だと思う。
「なぜいちいち子無しの幸せを主張するのか(そうすることでなぜ子持ちに攻撃するのか)」という議論になっていて、相互理解の難しさを感じた。
マイノリティがマイノリティであることを主張すると、なぜそれがオーソリティへの批判だと受け止められるのか。
相対化は人を不安にさせることは明白なので仕方ないにしても、
そろそろソレを恐れずに多様化を受け入れる社会にならないと、それこそ少子化による社会問題(社会福祉循環の破綻)は防げなくなるのでは?
最後に、
この増田を読んで傷付く人を無くしたいので言っておくと、子育てしてる人はすごいし、大変な中で子供たちに愛を向けるのは本当に尊いことだと思う。
その国民宿舎はまあ古い建物だった。建てられたのは昭和末期から平成初期の辺り。少なくとも今三十代の自分が物心ついたころにはもう古い建物だな、って思うくらいには昔からあった。昔は田舎リゾートとして村の重要な財源だったのだろうけど、国民の休日の過ごし方が変わり、かつては村だった土地が合併して名義だけ市になる頃には、もう補助金と地元のプチ銭湯という妥協の営業スタイルになっていた。
自分は里帰りしていた時に、しばらくそこでバイトをしていた時期があった。実家が近い自分は施錠や宿直を任されることになり、事件はその宿直の最中に起きた。
時間は確か23時近くだったと思う。洗濯室に夕食のために厨房で使ったタオル類を回収に行ったら、床の上に置いてあった粘着式のネズミ捕りになんか長ーい物体が乗っていた。最初は見間違いかと思った。だけど二度見してよくよく確認すると、それは粘着シートにべったりとひっついたヤマカガシだった。
捕らえられたヤマカガシは、でかい人間が近づいてくるのを察すると、ウゴウゴと身を捩って逃げようとした。だけど全身の半分近くが捕われているから、ネズミ捕りの台紙が左右に少し揺れるだけの動きしかできなかった。
ヤマカガシというのは日本に住むヘビの中ではポピュラーな方ではあるけれど、人家に近いところに住むシマヘビやアオダイショウと違って森の中に住んで小動物を食べるスタイルであり、マムシとも違って好戦的じゃないから藪の中でもヘビの方からさっさと逃げてしまうということもあり、目撃することは田舎育ちの自分でも割とレアだった。
しばらく観察して分かったのは、ヤマカガシの全長は60cmから70cmくらい、「6」の字を描くみたいに粘着シートにひっついている、空腹だったのかペラペラの状態、ということだった。特に最後については、脱出しようとして身を捩ったせいなのか、お腹側のほとんどが粘着シートに密着してしまっており、そのせいで身体が蛇らしい丸太ではなくてベルトみたいな楕円になってしまっていた。
どうやらヤマちゃんは排水溝を通って室内に入ってきたみたいだった。洗濯室には水抜きのための大きな排水口があったのだけど、ヤマちゃんはその排水口のすぐそばにあるネズミ捕りに掛かっていたのだ。
ネズミ捕りに掛かったヘビという初めての状況に出会ってしまった自分は大層困った。取れる手段は無視するか対処するかの二択。無視して餓死を待つという手段もあったけど、仮に脱出されてしまうと客室に蛇が出没することになってしまう。それに蛇はしぶといので空腹で餓死するまでに何日も掛かってしまうかもしれない。だから対処するしかなかった。
そろそろ眠気を感じる時間帯だったけど、この頃にはもう眠気は完全にぶっ飛んでいた。どう対処をするか。一番簡単なのは殺してしまうこと。動けない状態なのだから鈍器で頭を潰してもいいし、水漬けにしてもいい。だけど、エセ博愛主義者の自分はどうにか生かせないかと思っていた。
完全にエゴなのだけど、自分は生きる機会がある存在には可能な限り生きていて欲しいと思っている。だから部屋に虫が入ってきても外にポイするし、殺虫剤もこれまで使ったことがない。だから今回もなんとかヤマちゃんを生きて脱出させてあげられないかなと思っていた。
だけど、問題が一つあった。もし掛かっていたのがシマちゃん(シマヘビ)やアオちゃん(アオダイショウ)なら手なり火箸なりで水かけてメリメリ剥がしていただろうけど、ヤマちゃんは一応毒蛇なのだ。しかも、マムちゃん(マムシ)よりも強い毒性を持ってしまっているのだ。ヤマカガシは臆病な性格でマムシみたいに自分から襲ってくることはないから危険視されていないけど、実は喉の奥に毒腺を持っており、深く噛み付くとマムシもびっくりな強烈な毒液を相手に送り込むことができる。
今、宿直は自分一人だけで、もし噛まれてしまうと最悪その場で倒れて死んでしまう可能性があった。そこで取った手段は、できるだけ自力脱出できるような策を講じて、あとはヤマちゃんのガッツにかけるというものだった。
ネットで「ネズミ捕り 外し方」と調べると、どうやら粉と油でなんとかなりそうだと分かった。粉を使って細かい毛(ヘビの場合は鱗か?)を保護して、油で粘着剤を剥がす。急いで厨房へ行って、片栗粉とオリーブオイルを取ってくると、ついでに持ってきたショベルにヤマちゃんごとネズミ捕りを乗せて外に運んだ。そこでドバドバと粉と油をかけ、あとは天の配剤に任せて草むらにネズミ捕りごと放置して朝を待つことにした。
昔の記録映像にある蝨取りみたいにして筆者に粉をかけられたヤマちゃんは、ウゴウゴして嫌がる仕草をしていたのを覚えている。
宿直室に戻っても、アレで本当に良かったのだろうか、もっとできることはあったのではないかという後悔が何度もあった。身動きできない状況で外に放置しているのだから野生生物に襲われたらひとたまりもない。もっと上半身くらい剥がしてあげれば襲われても反撃できるんじゃじゃないか。でももし噛まれてしまったら、と考えが堂々巡りしていた。
ともあれ朝までちゃんと眠って、翌朝5時に起きて館内の照明を点けた後に外に出していたネズミ捕りの様子を見に行ってみた。昨日置いた草むらにちゃんとネズミ捕りが残っていた。ただし、中で捕まっっていたヤマカガシの姿を除いて。しっとりと朝露で湿ったネズミ捕りにはヘビがのたくった痕跡が色濃く残されていた。オリーブオイルでゆるんだ粘着剤は荒波が立ったようにあちこちがうねっており、捕まっていたモノが激しく動いたことが察せた。
家に帰って宿直中に起きたことを父親に話すと、多分逃げ延びたのだろうという話になった。根拠はネズミ捕りの台紙がその場に残っていたこと。野生生物に襲われたなら台紙ごともっていかれているだろうと。だけど正直、本当にヤマちゃんが助かったのかは分からない。ある程度暴れて拘束がゆるんだタイミングで、タヌキかなにかが運良く咥えていった可能性すらある。ただ、自分はたぶん助かったと思っておくこととした。
後日談として。それから数週間後、施設のクロージングのために外を歩いていたら、ネズミ捕りを置いていた草むらからほど近い場所に、で〜んとデカいヤマカガシが寝ていたことがあった。スマホのライトの先に急に現れたからびびったけど、じっと見ていたらノソノソどっかに行ってしまった。もしかしてあの時の……だったのかなあ、と思ったりもしたけど、まあ真相は叢の中。
素晴らしいものは未来永劫素晴らしい、真実はいつもひとつ、真理はどんなときでも正しい
それらはただの幻想というか願望に過ぎないことが、一般大衆にも広く浸透してしまったのが今という時代なのかもしれません(ブルーハーツの情熱の薔薇という歌はこの世界の一面を喝破していたのだが、早すぎた)
私たちは、善も悪も美も醜も、自由も平等も博愛も、友情も努力も勝利も、どこかの誰かがこしらえたイメージや概念やただのスローガンに過ぎず、物心つく前からの、教育いうという名の洗脳によって、かろうじて社会を成り立たせている、蜃気楼のような虚しい虚像だということを、気づいていないふりして、死ぬまで生きてるふりをしなきゃならない、いやそんなことないんだか、どこかでなんとなく、ぼんやりと気づいていて、躁と鬱の反復横跳びしたり、幻覚なのか幻聴なのか分からないようなネットメディアや、今やそれをパクったテレビジョンを見ながら、希死念慮と、社会的責任と、養育費と、奨学金と、生物個体としての物理的肉体の重さを引きずりながら、ドリンクのカップに残った氷をガリガリ噛むことくらいしかできないのです