
はてなキーワード:北条泰時とは
本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権が天皇の権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的・象徴的次元から多角的に検証する。
日本史上の権力構造が「権威(天皇)」と「権力(武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理が機能したことを論証する。
鎌倉幕府の創始者・源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権の法的根拠が朝廷の官位授与に依存していたことを端的に示す。
この官職は律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権の公認を得た。
特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝が東国における荘園・国衙領の警察権を公式に認められたことが、朝廷との制度的紐帯を強化した。
承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府が朝廷の荘園管理システムに介入する手段となった。
地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府の経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷へ一定の税収を保証する相互依存関係を形成した。
この共生関係は、幕府が朝廷の経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。
鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統と大覚寺統)において、幕府が皇位継承に介入した背景には、三種の神器の所在が正統性の根拠とされた神権政治の論理が存在した。
例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程を監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。
朝廷が主宰する新嘗祭や大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇の神聖性を可視化する装置として機能した。
幕府はこれらの儀式への供御人派遣や財政支援を通じて、伝統的権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。
特に伊勢神宮や賀茂社への寄進は、武家が宗教的権威を利用して支配を正当化する典型的手法であった。
鎌倉幕府の経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷や貴族の荘園であった。
幕府は地頭を通じた年貢徴収の合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。
この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷が幕府の軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。
平清盛の日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交・貿易管理として継承された。
幕府が実質的な外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易(室町期)に至るまでこの構図が持続した。
藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家が天皇の外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位を媒介に権力を正当化する手法と同根である。
平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家が伝統的官制に依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。
白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時の執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。
いずれも名目上の君主(天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威と権力の分離という中世的政治構造の典型を示している。
北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承の正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方が政治的正当性を主張する根拠となった。
これに対し足利尊氏が光厳上皇を擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理に依存せざるを得なかったことを示す。
鎌倉後期に伝来した朱子学の大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史』編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。
この思想的系譜は、天皇の権威が武家政権の正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。
以上の分析から、鎌倉幕府を頂点とする武家政権が天皇の権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、
③神権思想に基づく支配の正当化——という三重のメカニズムによって支えられていた。
明治維新に至るまで継続したこの権力構造の本質は、権威(祭祀権)と権力(軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。
| 年 | 将軍 | 執権 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1192 | 源頼朝 | ||
| 1193 | |||
| 1194 | |||
| 1195 | |||
| 1196 | |||
| 1197 | |||
| 1198 | |||
| 1199 | |||
| 1200 | 梶原景時の変 | ||
| 1201 | |||
| 1202 | 源頼家 | ||
| 1203 | 源実朝 | 北条時政 | 比企能員の変(源頼家失脚) |
| 1204 | 源頼家暗殺 | ||
| 1205 | 北条義時 | 牧氏事件(北条時政失脚) | |
| 1206 | |||
| 1207 | |||
| 1208 | |||
| 1209 | |||
| 1210 | |||
| 1211 | |||
| 1212 | |||
| 1213 | 和田合戦 | ||
| 1214 | |||
| 1215 | |||
| 1216 | |||
| 1217 | |||
| 1218 | |||
| 1219 | 源実朝暗殺 | ||
| 1220 | |||
| 1221 | 承久の乱 | ||
| 1222 | |||
| 1223 | |||
| 1224 | 北条泰時 | 伊賀氏の変 | |
| 1225 | |||
| 1226 | 藤原頼経 | ||
| 1227 | |||
| 1228 | |||
| 1229 | |||
| 1230 | |||
| 1231 | |||
| 1232 | |||
| 1233 | |||
| 1234 | |||
| 1235 | |||
| 1236 | |||
| 1237 | |||
| 1238 | |||
| 1239 | |||
| 1240 | |||
| 1241 | |||
| 1242 | 北条経時 | ||
| 1243 | |||
| 1244 | 藤原頼嗣 | ||
| 1245 | |||
| 1246 | 北条時頼 | 宮騒動(藤原頼経失脚) | |
| 1247 | 宝治合戦 | ||
| 1248 | |||
| 1249 | |||
| 1250 | |||
| 1251 | |||
| 1252 | 宗尊親王 | ||
| 1253 | |||
| 1254 | |||
| 1255 | |||
| 1256 | 北条長時 | ||
| 1257 | |||
| 1258 | |||
| 1259 | |||
| 1260 | |||
| 1261 | |||
| 1262 | |||
| 1263 | |||
| 1264 | 北条政村 | ||
| 1265 | |||
| 1266 | 惟康親王 | ||
| 1267 | |||
| 1268 | 北条時宗 | ||
| 1269 | |||
| 1270 | |||
| 1271 | |||
| 1272 | 二月騒動 | ||
| 1273 | |||
| 1274 | 元寇・文永の役 | ||
| 1275 | |||
| 1276 | |||
| 1277 | |||
| 1278 | |||
| 1279 | |||
| 1280 | |||
| 1281 | 元寇・弘安の役 | ||
| 1282 | |||
| 1283 | |||
| 1284 | 北条貞時 | ||
| 1285 | 霜月騒動 | ||
| 1286 | |||
| 1287 | |||
| 1288 | |||
| 1289 | 久明親王 | ||
| 1290 | |||
| 1291 | |||
| 1292 | |||
| 1293 | 平禅門の乱 | ||
| 1294 | |||
| 1295 | |||
| 1296 | |||
| 1297 | |||
| 1298 | |||
| 1299 | |||
| 1300 | |||
| 1301 | 北条師時 | ||
| 1302 | |||
| 1303 | |||
| 1304 | |||
| 1305 | 嘉元の乱 | ||
| 1306 | |||
| 1307 | |||
| 1308 | 守邦親王 | ||
| 1309 | |||
| 1310 | |||
| 1311 | 北条宗宣 | ||
| 1312 | 北条煕時 | ||
| 1313 | |||
| 1314 | |||
| 1315 | 北条基時 | ||
| 1316 | 北条高時 | ||
| 1317 | |||
| 1318 | 後醍醐天皇即位 | ||
| 1319 | |||
| 1320 | |||
| 1321 | |||
| 1322 | |||
| 1323 | |||
| 1324 | 正中の変 | ||
| 1325 | |||
| 1326 | 北条守時 | 嘉暦の騒動(十日執権・北条貞顕) | |
| 1327 | |||
| 1328 | |||
| 1329 | |||
| 1330 | |||
| 1331 | 元弘の乱(後醍醐天皇挙兵) | ||
| 1332 | |||
| 1333 |
・平家
平宗盛…アホの子。源頼政挙兵のきっかけを作っちゃった人。こいつのせいで平家は滅亡(出典:平家物語)。
・源氏
・北条氏
北条泰時…承久の乱に勝利し幕府の基礎を固める。これで一応鎌倉幕府は安定するが、執権は全員短命に。
・足利氏
足利義満…いわずもがなの権力者。南北朝を統一し、有力な守護大名を押さえ、勘合貿易で経済を潤し、息子を天皇の前で元服させる。権力が強すぎたせいで死後幕府は混迷・没落
・豊臣氏
豊臣秀頼…実質的には二代目。秀次を挟んで三代目。徳川家康が恐れる体格・人格を持つ。右大臣にまで登りつめるも、大坂の陣ではほぼ何もできず豊臣は滅ぼされる。
・徳川氏
徳川家光…有史以来のキチガイ。インセルに権力を持たせたらどうなるかよーくわかる人物。バカとインセルに刃物と権力は持たせてはいけない。