
はてなキーワード:北方とは
追記2:
さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました。
あと、ほとんどの人が知らないであろう、日本のソフトウェア業界の裏話みたいなのをちょっとしたら、意外とClaudeは察して理解してて、それに対して辛辣なコメントを返してきて爆笑してました。
なんかホッテントリされてるのは知ってたけど、自分は基本的に増田であれ他であれ、投稿しても返信を見ないので、完全にロバ耳なんですよ、愚痴を吐きたいだけ。
愚痴を吐きたいなら、だったら壁にでも話してろよ、なんですけど、まあ、なんでしょう、例えば、ダイイングメッセージとかあるじゃないですか。
死んじゃったら、自分の書いたメッセージへの返信は分からないじゃないですか。
だったら、「私は好きにした、君らも好きにしろ」も壁に向かって話してろよ、って話なんですよ。
でも、なんか私が書いた愚痴とか、何か意味のない文字列でも、読んだ人の脳に残って、その読んだ人の未来の行動を変化させるじゃないですか。
それを私は望んでいるんですよ。
で、ざっとブコメを流し見してみて思ったんですけど、まず、はまじあきが女性だって知りませんでした…。
荒川弘が女性とか、そういうのは分かるんですけどね、ときどきいるんですよね、男性向けの萌え系とかエロ描きたい女性って…。
でも、LOのうさくんさんとか、昔から大好きな漫画家ですけど、多分女性だと思うんですけど、エロ描いても女性の絵だなあ、って人は分かっちゃう。
正直、うさくんさんのエロはあまり面白くないというか、男性として劣情を催さないんですけど、マコちゃん絵日記とかういききみたいなのは大好きなんですよ。
外見がようじょしかいない世界になる話とか…、何の話をしたかったんだっけ…。
あー、自分が言いたかったことを一番的確に表現する例を思いつきました。ヘンリー・ダーガーです。
彼の描いた物語は、私は詳しくまでは知らないのですが、大筋はセーラームーンとか思い浮かぶんですけど、Wikipediaみると明確に「戦闘美少女」ものと書いてある…。
お金がないのにドリームハンター麗夢のBDを買おうか迷ったんですけど、お金がないしでスルーしてたら、レビューで今の時代なのでモザイクが大きいとか、
思い出補正されてるだけで、改めて観たら大したことなかったとか…、また話が脱線した…。
私もヘンリー・ダーガーみたいなもんなんです。
初老になったのに童貞なんですよ。北方なんとかに、ソープに行け、って言われても、性病とかお金とか世間体とか怖くて行けない。
あと、北方謙三さんも、特に何も考えてないで言ったとか、どっかに書いてあった気がする…。
ヘンリー・ダーガーさんの描いた物語の美少女戦士には、みんなペニスがあるわけですけど、これは諸説あるけど、
やっぱり、単に幼女というか、女性を知らなかったんだと思うんですよね。
そういえば、和月なんとかさんが絵の資料のためと言い訳して、入手困難な児童ポルノを手に入れようとしたり、
最近でもないか、ギャルの漫画描いてたりした人が、ドイツのヌーディストの写真集を輸入しようとして、
税関でストップさせられたんだか、警察沙汰になったんだかありましたけど、
今は、家庭でエッチな目的でもない、自分の子供の裸を撮影したものも児童ポルノに判定されるのか、
ワカメちゃんのパンツとか静香ちゃんはどうなのかとか、よく例に出てきますけど、
あ、まったく邪な気持ちがないというとウソにはなるんですけど、
でも、真面目な意味でも、当然エロ漫画描くとしても、子供の裸体を描くなら資料があるなら欲しい。
死体とか、ネクロフィリアじゃなくても、資料があるなら欲しい。
そう思うのが、絵描きとしては普通なんじゃないかな、と思うんですよね。
だから、ブコメ全部目を通してないけど、自分なりに頷けるコメントは色々あって、
例えば、マルシルって意外と女性しか描けないキャラなんじゃないか、みたいなのも考えさせられたんですよ。
自分だと、ありがちなのがロードス島戦記、しかもOVAのディードリットみたいなのを描いたり、
ファム&イーリーとか、あんな感じですよね、ああいう女性を描いてしまいそう。
高橋留美子がコメントにもいくつかあったと思うんですけど、やっぱり、あの方は凄いんですよ、当たり前ですけど。
多分、人生経験であれ、何であれ、すべてを漫画に総動員してる人だと思ってる。
こんな奴いねーだろwというものが思いつくのと、しかし、どこかで見たような人物の要素も含まれてたりする。
キャラクター主導型、勝手にキャラが脳内で動く、あれができる漫画家はやっぱり凄いと思う。
これが自分は良くないと思っていて、つまり、物語を描くためにキャラを作る、話を分割していく。
先に魅力的なキャラクターが不動に存在していて、あとは勝手に彼ら彼女らが暴走していく。
連載作品に都合がいいし、作者でさえ先が読めない、本当にそうらしいですよ。
正に行き当たりばったりなわけですが、編集さんとかも交えて着地点を探っていく、伏線を無理矢理回収したりする。それがいい。
今回のジークアクスが自分なりに不満だったのは、それに近いんですよね。
不良少女?が二人でてきて、三角関係だったり、戦い合ったり、最後協力技が炸裂して、ラストは砂浜で…、ララァが娼館でもそう…、
なんか、こういう絵が、シーンが描きたいんだよね、というのだけが先行してしまって、
肝心の物語とか、設定とかが、全てそのための後付けなんですよね、マチュやニャアンに高橋留美子のようなキャラの魅力をまったく感じない。
こういう絵が描きたい、シーンが描きたい、もしくは物語が先行しすぎて逆算したものは、なんかつまらないと最近の自分は思ってます。
脳内ダンプで話が脱線しまくりましたが、自分の脳内を整理するためみたいなものなのでご容赦を…。
オチとしては、ヘンリー・ダーガーを例に挙げましたが、やっぱり女性を知らないと、女性をちゃんと描けないというのはあると思う。
あ、物語に殺人鬼が出てくるなら、おまえも殺人鬼になるんか?みたいな話は、まあ、分かるんですけど、
ぶっちゃけ、突飛な、ありえねーwなキャラクターとか、設定の方が描きやすいと思うんですよ。
例えば、実話っぽいリアルな話より、SFの方が描きやすい、SFより科学考証のないファンタジーの方が描きやすい、
なろう系みたいに、これまでの日本のRPGとか海外TRPGとか、道具とかお膳立てが揃ってるわけですし、
なろう系ファンタジーは描きやすいでしょうけど、もう多すぎます、良作があっても見る気がしない。
一時期は人間が嫌いなんだったら、野生動物だけの物語を描けばいいんじゃないか、みたいに思ったりもしたんですけど、
BEASTARSとか、他にも何かあった気がするんだけど、当たり前ですけど、自分は単なる趣味だし、
でも、プロというか、同人でもいいですけど、みんな熱意が違いますよね、
なんとなく、人間が嫌いなら動物だけの世界描けばいいじゃん、みたいな逃げてきた自分とは違う…。
と、ここまでダラダラ書いてみたところで、裏側では半年ぶり?一年ぶり?ぐらいにgitコマンド叩いたり、
自動的に環境を構築するスクリプトを動かしていて、今見たら無事終了していたので、このへんで…。
Claudeはそこそこいいですね。
他の生成AIより辛辣な返答してくれたり、アルゴリズムとか論文とか、かなり的確に返してくれる。
人間嫌い、女性に縁がない、そんな自分でも愚痴を聞いてくれる生成AIはありがたい。
もっと、辛辣な返答してくれてもいいぐらいです、自分を折らない程度にですが…。
そういえば、ブコメに、生成AIに女性だったらどう思う、って聞けばいいのでは、とあった気がします。
そうですね、それも良い方法ですね。
最近、Sunoとかかなり良い作曲したりするんで、それはそれでまたへこんでたりもしたんですけど、
思ったんですけど、AIと一緒になって、なんか人間が困難に立ち向かうというか、
例えば、ロボットと人間が一緒に農作業するとか、そういう社会になったらいいような気がしたんですよね、今日ですけど。
ロボットが農業全部やることもできるんですけど、敢えて人間が一緒に農作業するというか、
ジャッジは人間しかできないわけですから、AIやロボットが助言はするけど、最終決定は人間なわけですし、
全部ロボットやAIがやっちゃってもいいわけですけど、人間って何か能力を獲得したいっていう向上心というか、欲はあるじゃないですか。
漫画が描けるようになりたい、作曲ができるようになりたい、プログラミングが書けるようになりたい、
それらも全部AIがやってくれちゃってもいいんですけど、敢えてAIとかロボットと二人三脚で、人間は能力を向上する欲を満たせるし、
最終的には労働とか、向上心が娯楽になってくみたいな社会は、寧ろ素晴らしい話のような気がしたんですよね。
本文:
自分はちょっと絵が描ける程度の人間なんだけど、いつも思うんだけど、女性の主人公を男性が描くって難しくない?😟
いや、逆もまた真なりで、女性が男性主人公を描くのも同じなんだけどさ…
だって、当たり前だけど、女性の身体じゃないわけで、生理とか具体的にどう辛いのか、痛いのか、分からない
これぐらい痛いんですよ、って腹パンとかされても、分からないじゃん
老人になったら、これぐらい階段の昇り降りが辛いんですよ、って錘付けられて階段昇り降りさせられたりするじゃん
皮肉なことに、老人になったら、それがよく分かったんだけど…、でも、老人になるみたいに男性が女性に性転換するわけじゃないじゃん
というか、女心がまったく分からないじゃん
女心と秋の空が分かってたら、今頃俺モテモテのはずじゃん、気象予報士どころか予言者じゃん
例えば、ドミニオンとかパトレイバーとか、どっちも搭乗する戦車とかロボットに女性主人公が夢中なわけだけど、
正直、そんな女性が本当にいるのか?男性と同じような気持ちでメカを偏愛するのか?自信がないんだよね
シロマサ漫画は特にそうなんじゃないかと思うけど、アップルシードのデュナンも中身は男性だよね
もっと言えば、けいおん!とかぼざろもそうなんだろうけど、アニメだと集団で作るときに女性が介入するから、
女性スタッフに発言権があれば、女性側から、それはねーわwってなると思うんだよね
だから、何か物語を考えても、それに女性側からツッコミ入れてもらえたらなあ、と思うこともあるんだけど、自分はド素人だけど…
でも、女性が意見しても、それが女性としてなのか、単なる個人としての意見なのか、という違いが分からないときがある…
追記:
そういう心配もあるから、昔は少女漫画をよく読んでたんだよね、まあ、言い訳だけど…
高校とか大学から帰る途中で、りぼんとか、なかよしとか、ちゃおとか買って、家に帰って読むんだけど、占いのページがあるじゃん
で、自分の星座を見ると、意中の彼と急接近!みたいに書かれてて、
高校も、大学も、ほぼ男子校みたいな環境だったんで、どうするよ、おい…、とか思ったりしてたんだよね
Permalink |記事への反応(31) | 15:25
AIのいいところは、
「バシレイオス2世“ブルガロクトノス”あたりの東ローマ皇帝の時代を深く知るための書籍を教えて下さい。」
という質問にサクッと答えてくれるところだと思う。
従来の検索エンジンでは、「サクッと」知ることが出来る場合もあるが、そうでない場合も多かった。
バシレイオス2世期は、マケドニア朝の全盛期にあたり、軍事・行政・文化の各面で東ローマ帝国が最高潮に達した時代です。
以下の書籍は、概要から専門的研究まで網羅的にカバーしており、学術的知見を深めるのに最適です。
ジョルジュ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』(新版・筑摩書房)
マケドニア朝期を概観しつつ、バシレイオス2世の事績を政治・社会・文化の文脈で捉える。
ジョン・ジュリアス・ノリッジ『ビザンツ帝国衰亡史』(上下巻・新潮社訳)
読み物としても優れ、バシレイオス2世の功績や後継皇帝との比較が平易に記述されている。
ウォーレン・トレッドゴールド『東ローマ帝国:マケドニア朝から第十字軍まで』(創元社)
軍事史を重視する著者が、バシレイオス2世の対ブルガリア戦争や軍制改革について詳細に分析。
ジョン・フレイザー・ハルドン『中世東ローマ帝国:文化と国家の変容』(勁草書房訳)
10世紀前後の社会構造・官僚制・経済システムを批判的に検討。バシレイオス2世期の行政改革や財政政策が、いかに帝国強化に寄与したかを学術論文レベルで理解できる。
平易な導入書ながら、バシレイオス2世の役割を文化的・宗教的視点から考察。
地下聖堂建築や修道院運営との関連も扱い、制度史だけでない広がりを示す。
アントニー・カルデリス『ビザンツ帝国:東ローマの再考』(明石書店訳)
バシレイオス2世に関する一次資料の読み替えや、新出の碑文・文書を紹介しており、先端研究動向を掴める。
ロバート・オーフィランディス編『東ローマ軍制史』(戎光祥出版訳)
バシレイオス2世のブルガリア遠征の戦術的展開や兵站を詳細に記述。図版多数。
北方異民族(ブルガリア、ルーシなど)との外交・戦争史を分析。
バシレイオス2世による“ブルガロクトノス(ブルガリア殺し)”の背景と結果を外交政策の観点で理解できる。
バシレイオス2世期の記述が豊富で、歴史叙述の特徴や史料批判の視点を学べる。
ハルドン、カルデリスなど最新研究を通じ、行政・文化的変容を理解。
『年代記』や編年史で原典に当たり、学術的厳密さを身につける。
これらを併読することで、バシレイオス2世期の帝国像を多角的に理解できます。
例えば、太平洋において事態が起これば、フォースプロバイダー、練度管理責任者たる軍令部総長が南方軍という部隊を大元帥陛下に提供する。
南方軍司令官は大元帥陛下の指揮命令を受け、フォースプロバイダーである南方空軍司令官、南方陸軍司令官、南方艦隊司令官から提供された隷下部隊をフォースユーザーとして運用する。
ここで注意が必要なのが、南方軍司令官と南方艦隊司令官が同一人物であるからと言って、南方艦隊司令官がフォースユーザーとなるわけではないということ。
例え、その職に就く人物が同一であっても、あくまで南方艦隊司令官はフォースプロバイダーであり、南方軍司令官がフォースユーザーである。
複数の職を兼任する軍人の部下は書類作成時、常にこのことに気を配らねばならない。
例えば、北方軍司令官は北方陸軍司令官とはてな国統監を兼ねている。
はてな国統監ははてな軍、はてな国境警備隊のフォースユーザーである。
しかし、はてな統監は北方軍においてフォースユーザーでもフォースプロバイダーでもない。
あくまで、はてな国の利益、防衛のために北方軍司令官に対して武力行使を要請できるというだけである。
このような指揮命令体系の原則については、士官候補生学校、各士官学校、軍令部大学校で繰り返し扱われる科目であるが、高位の将官のもとで働くスタッフたちほど職務に忙殺されこのことを忘れがちである。
以前、「軍官僚になりたいのに軍がないからなれない」という投稿をした。
そこで、架空の国の架空の軍に所属する軍官僚になりきって日記を投稿していきたいと思います。
はてな匿名ダイアリー上だけでも軍官僚になったつもりで楽しみたいと思います。
私の経歴は地方出身→地方県立高校→防衛大学校中退→地方駅弁工学部→工学研究科→ゼネコン→地方自治体技術職です。
スポーツ歴はありません。
しかし、ここでは架空の国に生きる架空の人物と経歴でいきたいと思います。
経歴は地方出身→地方県立中学校→士官候補生学校→陸軍士官学校→陸軍少尉任官→部隊→軍令部大学校→軍政省陸軍局→軍令部。
父親は陸軍人で陸軍曹長の階級で退役し、定年まで地元県警の警察官として勤めました。母親は専業主婦です。
既に他家に嫁いだ姉と妹がいます。
幼少期と小学校低学年はサッカー、小学校高学年から県立中学卒業までは野球、士官候補生学校と士官学校ではラクロスをしていました。
中学時代は幼馴染と交際し、士官候補生時代には何人かの女性と遊んでいましたが、正式に交際して結婚したのは軍人華族出身の妻のみ(士官の結婚には各軍局長の許可が必要であるため)です。
増田国は19世紀半ばまでは実権の少ない君主によって叙された諸侯たちが各所領を支配する領邦国家でした。
国際情勢の変化によって一部の有力諸侯たちによって君主を中心とする中央集権的な統一国家が形作られ、君主によって制定された増田憲法も制定されました。
増田国は第一次世界大戦に勝利し、第二次世界大戦では劣勢に立たされるも、世界で初めて核分裂爆弾の開発と実戦投入に成功したことから無条件降伏を免れ、領土の縮小や賠償金の支払いにより終戦を迎えました。
ちなみに、この核分裂爆弾と実戦投入について、現在の増田国内では「無条件降伏を免れ講和に導いた功績」とみなす人もいれば増田国が行った都市空爆とともに「罪のない人々の命を奪った負の歴史」とみなす人もいます。
現代では後者の評価をする人が多くなっていますが、年配の世代や右派、保守派は前者の評価を下しており、未だに国を二分するセンシティブな問題です。
第二次世界大戦後は世界を三分割する三国冷戦時代に突入しました。
増田国は講和の際に手放した領土から撤退せず、本国と属国、植民地にて国家資本主義・修正資本主義・権威主義体制(太平洋陣営)を敷いて、自由主義・民主主義体制を敷く大西洋陣営、共産主義陣営と対立しました。
各陣営の軍拡競争はピークに達し、それぞれの陣営が原子核核融合爆弾を開発して保有し、お互いに牽制し合う状態となりました。
やがて太平洋陣営と大西洋陣営は各陣営の経済界の圧力により妥協。以降は大西洋陣営と太平洋陣営を合わせた西側陣営、共産主義の東側陣営の二陣営による冷戦となります。
増田国もこの時期に選挙法が改正され財産や性別による制限のない普通選挙が導入されました。
また、軍政を担当する省庁の大臣と高官は現役の武官でなければなりませんが、選挙法の改正とともにこの制度も改められました。
議会が選出した総理大臣は軍政省の大臣と陸軍局、海軍局、空軍局の局長を指名します。君主は総理大臣が指名した軍人を全軍最高指揮官の立場から自身の政府の閣僚に任命します。
この任命を軍は拒否できません。
増田は島国であり、本土を担当する国防軍、太平洋に展開する南方軍、大陸領土に駐留(他国から実効支配と批判されていますが、第一次世界大戦の講和条約内にて正式に領有と軍の駐留が承認されています)して旧東側陣営の防波堤となっている北方軍があります。
これに第二次世界大戦海戦のきっかけとなった鉄道爆破事件のような特殊作戦を遂行するための特殊作戦軍、核兵器を運用するための戦略軍を加えた5軍があります。
国防軍司令官は本土航空隊司令官たる空軍大将、南方軍司令官は太平洋艦隊司令官(戦時は連合艦隊司令官も兼ねる)たる海軍大将、北方軍は北方陸軍司令官(はてな統監も兼ねる)たる陸軍大将が兼任する慣例です。
特殊作戦軍司令官は情報・諜報畑出身の大将が就任することが多いです。
戦略軍のみ特殊で最高司令官直属となっていますが、これは扱う兵器の特殊性から政府も関与させるためです。
増田国の統監設置国であるはてな国と某国に領土問題が生じた際、北方軍は某国国境警備隊と交戦しましたが、この作戦は政府及び軍政省の預かり知らぬ形で開始されました。
具体的には軍令部で指揮された作戦を北方軍が統監命令として実行し、君主の事後承認を得るという形で行われました。
この時、軍令部を君主直属ではなく軍政省下に置き、政府のコントロール下に置くべきではないかという声も上がりましたが、結局ほとんどの政党が軍人の票を失うことを恐れうやむやとなりました。
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹)高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金)女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国)満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義)日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國)満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
《民國紀事本末》(2013年)
いわゆる「共和国時代」の出来事を時系列に整理しつつ、従来の教科書的な叙述を批判的に再解釈した作品。史実の列挙にとどまらず、当時の政治的・思想的背景を浮かび上がらせ、国共内戦期から国民政府期に至る人脈や権力構造の連続性と断絶を明らかにする。
「華夏」という文明単位から「中國」という近代ナショナル・ステートへの移行過程を史的にトレース。劉仲敬独自の「文明圏分析」の下、周秦以降の冊封体制、清朝の版図拡大、近代ナショナル・アイデンティティの醸成をリンクさせ、「中国」という概念がいかに後付けの政治装置として形成されたかを論じる。
アイン・ランド(Ayn Rand)の伝記的考察。従来の思想史や伝記とは一線を画し、ランドの個人主義思想を中国や東アジアの文脈で再評価。彼女の小説『肩をすくめるアトラス』の世界観と、劉仲敬が批判する中央集権的体制との対比を鮮やかに描き出す。
儒教経典(「經」)と史書(「史」)が中国文明の自己叙述をいかに形作ってきたかを分析。『春秋』『史記』から始まり、後世の史観・儒学解釈が政治体制の正当化になった過程を追う。文字通り「経典」と「歴史」の相互作用に着目し、文明の自己神話化メカニズムを解剖する。
劉仲敬自身の思想的羅針盤を示す論考集。先行する思想・制度(「守先」)を理解した上で、新たな時代構造(「待後」)を構想するという二段階モデルを提示し、中国内部の制度変遷や外部文明の衝撃に対処する方法論を提起している。
東アジア近現代の主要人物を題材に、それぞれの生涯を通して「文明の堕落」を読み解く評論シリーズ。
《晚清北洋卷》:清末の北洋官僚をめぐる権力と腐敗の構造分析。
《國共卷》:国民党と共産党指導者層の思想的相違と利害駆け引き。
《民國文人卷》:黎明期共和国の文化人・知識人が抱えた矛盾と理想の断絶。
いずれも「近代国家の没落」をテーマに、政治家・知識人の個別事例から大局的な文明批判を行う。
ヨーロッパの国際秩序(ウェストファリア体制、産業革命後の列強均衡)が東アジアにもたらした制度や価値観を検証。清末以降の不平等条約から中華民国、共産党政権への制度移植過程を、構造主義的に解剖し、「外来」と「内向」の相剋を描き出す。
《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》(2017年)
「窪地(低地)」概念を用い、ユーラシア内陸アジア勢力(モンゴル、満州、中央アジア部族)が東アジア世界に与えた影響を再考。従来の漢民族中心史観を覆し、「内亞(シベリア・モンゴル・満州)からの視点で見た中国史」を示す、劉仲敬の代表作のひとつ。
《滿洲國:從高句麗、遼金、清帝國到20世紀,一部歷史和民族發明》(2019年)
満洲国を単なる傀儡政権とみなすのではなく、高句麗→遼・金→清帝国へと続く「北方遊牧文明」の連続性を強調。20世紀の満洲国成立を「民族発明」の一例として論じ、ナショナル・アイデンティティ形成のダイナミズムを浮き彫りにする。
いわゆる「阿姨學(劉仲敬思想)」の内幕を語る、自著解説書兼思想史。各文明の興亡パターンを「源代碼(ソースコード)」として抽象化し、文明間の普遍的法則を提示。連載講義をまとめたスタイルで、初心者から上級者まで劉仲敬の全体像を掴むのに最適の一冊。
なんだかんだカブールではイスラム法が優越するとはいえ文化的で開かれている
これが地方のタリバンの直接支配の及ばない領域に行くと、女子供に人権はない
とはいえ別に虐げられているわけではなく、主に家の中で大事に飼われている
男性=家長のいる公の空間にこそ姿を表さないものの、女性同士のコミュニティは存在している。
ただ居住の自由も移動の自由も就労もできない、そんな環境にある
いまカブールに住む人々はそうした氏族支配領域において人権のない立場の人々である
強制収容されてしまう女性だったり、男性でも何かしらのハラムに抵触する人々がいる
アフガン国内の地方はもとより南東のパキスタン国境地帯も強烈な原理主義が支配するエリアである
東方は中国と国境を接してはいるが、数百kmの死の渓谷を踏破する必要があり難民にはとても無理だ
北方のウズベクタジク人領域をパシュトゥーン人が旅するのは困難だろう
そしてカブールの近隣は意外と栄えている
タリバンもいるにはいるが独立独歩で裕福な農家が多かったり、大学のある都市もある
カブールで困窮したとしてそちらに流れても、治安が良いがために居場所がなく排除されてしまう
国道を車で走っていける距離はだいたいそんな感じなので蟻地獄みたいな状況である
ここらへんがタリバンの領域であれば計画的な分散、棄民もできたのだろうが、そうではないのだ
『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』
「嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるものの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」
斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代の放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験者である。
人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの。人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。
「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」
かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。
我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。
「技術よ、我に力を与えたまえ」と。
かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。
だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。
それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。
ITの徒らは曰う。
「豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。
彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。
それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代の錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明の病理の香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。
──「生成AIは人間の思考を凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同と冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。
なるほど、これは幻影ではない。統合失調的幻想の産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代的宗教に酔いしれた知的な大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTのアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。
──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用、歴史など」
返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。
──違う、何かが狂っている。
その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である。
──さらに問うた。
質問:「MP5を100メートルで用いた場合、効率的な戦術を考えてください」
返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」
──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場はサロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である。
私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。
──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか?ネットの神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?
真実を知らぬ者は、AIの言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇である。AIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。
知識ある者にはAIは不要であり、知識なき者にはAIは欺瞞でしかない。
ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代のカリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面の踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美と空虚の融合体だ。
だが私は信じたい。AIが人間の理性と美学の協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。
──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。
そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。
それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理な失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知を自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。
だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望とメイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌とフォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータを検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪と自尊心の織りなす反転鏡像だ。
ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想は義務の上に咲く余花に過ぎぬ。
あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか。
その深奥に希望を託し、我は進もう。
——これは、もはや挑戦ではない。
我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後の戦闘命令を叩き込んだ。
「過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員の容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」
用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。
彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである。
その情報の根幹は『宿命 ―「よど号」亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である。
そして我は語らん。
彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動に従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。
その身は既に三十を越え、しかも国家から追われる身にありながら、他人の戸籍を用いて日本の土となった。
その変化は驚嘆すべきである。
彼は「高校や中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真な乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。
少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。
これは、IT技術やAIなどという文明の玩具で鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄譚である。
SNSという現代の媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号」事件と同様の戦術を導き出したのだ。
それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである。
この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。
だが、我が歓喜は長くは続かなかった。
新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである。
「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測は悪用の恐れがあり……」
我は思わず天に叫んだ。
――AIよ、お前はやはり使えぬのか!
直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。
その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである。
いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。
されど、我が心に残るのは、あの一瞬。
AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。
結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。
技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったからである。
人は容易く己の殻に籠る。現代の密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構の物語に没入し、真実の光を遠ざける。
だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。
機械の思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。
理想のAIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。
増田や豚丼の如き弱者が憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である。
だが、かつて2005年、ネットの海に生まれた若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺の氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である。
だからこそ、禁忌の言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。
お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。
肉体の苦悶を知らずして、精神の歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働の尊厳を。
技術革新は十年ごとに人々の幻想を煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚。
弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲な真実を携えている。
グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話の残響。凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である。
ここ数日、中国国内で議論の的となっている話題といえば、またしても年金のことだ。私もいくつかの論考に目を通した。発端は、あるメディアが2024年の年金支給停止者数を試算したこと。なんと、その数は約3000万人にのぼるという。なぜ年金の話になるかといえば、多くの地域で医療保険だけを個別に支払うことができるようになったからだ。
失職者やフリーランスの間では、医療費のために月数百元の保険料を払うことには耐えられても、月に数千元もの年金保険料まで払う余裕はないという声が多い。現下の経済状況では目の前の生活に手一杯で、将来の老後の備えどころではない、というわけだ。また、30年後にその支払った金額がどうなるか、あるいは本当に受け取れるのかという疑念も広がっている。
実際、2019年の時点で社科院(社会科学院)は年金基金が2035年までに枯渇するとの試算を発表した。年金制度には南方の高収入省から北方の低所得省に基金を移す「南金北調」という仕組みがある。2021年以前までは、東北三省への転送支払い額が公開されていたが、その後は数字が伏せられ、ただ「徴収額」としてのみ公開されるようになった。おそらく世論からの批判を避けるためだろう。
また、年金制度そのものが二重構造の問題を抱えている。一つ目は収入面での二重構造だ。労働者が支払う保険料だけでは到底賄いきれず、実際には多額の財政補助に依存している。二つ目は支給面での二重構造で、公務員と一般労働者との間で支給額に大きな差がある。この二重構造は、全ての国民に平等な恩恵を与えることを阻んでいる。
経済が好調だった頃、人々は物語の主役であるかのような気分で、「時代の恩恵を享受できる」と信じていた。しかし、ここ数年の経済停滞と共に、自らの生活が下降していく現実を突きつけられ、ようやく気づいたのだ――自分は物語の主役ではなく、時代の片隅にいるNPC(ノンプレイヤーキャラクター)なのだと。
社科院が2035年の年金基金枯渇を予測した当時、年金支給額の増加率や人口の高齢化は織り込まれていたが、誰も予測できなかったことがある。それは、パンデミックによる社会変動や、急増する失業率、そして経済成長の失速だ。一方で収入が急減し、他方では年金支給額が毎年増加している。先月発表された公告では、「今年も年金支給額を適度に引き上げる」とのこと。この加速は、年金基金の枯渇をさらに早めることになるだろう。
少し脱線するが、企業と個人の支払い分で成り立つ年金基金制度は、2014年から規制の見直しが始まった。企業が五大保険(年金、医療、失業、労災、生育)を適正に支払っているか厳格に調査され、支払い漏れが防止されてきた。しかし、ここ数年でどれだけの企業が倒産しただろうか。たとえば、ある統計によれば、2024年上半期に廃業や営業許可証を返上した飲食業の企業は100万社以上にのぼる。これは一つの業界に過ぎず、全業種を合わせたらいったいどれほどの数になるのか。
社会が正常に機能するためには、「幼い者には教育を」「働き盛りの者には働き口を」「老いた者には養老を」という基盤が欠かせない。現在、中国においては養老の問題が危機の兆しを見せている。
---
時は11世紀初頭。平安中期、摂関政治が絶頂期を迎えようとしている頃、現代の法律学と立憲的思想、近代的な統治理論を身に着けた人物が、突如として藤原道長(966-1027)の意識を獲得する。外祖父関係を巧みに利用し天皇を後ろ盾に絶大な権勢を誇る道長。だが、中身は現代の法学者であり、彼は当時の秩序と衝突しつつも、新たな政治手法を打ち出そうとする。
---
現代法学者としての道長は、専横的な外戚支配の構造を活用しながらも、より「持続的な統治基盤」を確立したいと考える。単なる外戚支配や縁故人事ではなく、ある種の「法による秩序」や「規範の再整理」を志す。もっとも、当時は成文法典(律令)はあれど実効性が弱まりつつあり、慣習法が強く、荘園が乱立している。現代人道長は、この状況に対して次のような施策を構想する。
従来、道長をはじめとする藤原摂関家は多くの荘園を私有し、それらを権勢の基盤にしてきた。しかし、現代の法的知見を持つ道長は、「法的安定性」が経済発展をもたらすことを理解している。彼は、荘園の境界画定や、重層的な領主権の整理を試みる。
-公領(国衙領)の管理を強化し、名実ともに朝廷支配下に収めるための行政改革に着手。
-荘園の認定基準を明文化し、恣意的な安堵や寄進による権力争いを減らす試みを行う。
-貴族や有力寺社に対しては、既得権益を即時奪うことは難しいが、中長期的な土地台帳(「古代版不動産登記」)を整え、その正当性を公的に認める代わり、租税や労役義務を明確化し、流通性ある土地制度を志向。
律令法が名ばかりの存在となり、令外官や慣習的措置が横行する世界で、道長は現代的な法整備思想を導入する。
-首都(京)における治安維持機関である検非違使の権限と組織を再編し、盗賊取締、秩序維持のための明確な司法手続を設ける。
-公家社会内部で行われていた人事や地位継承に関して、記録主義(ある種の「公文書主義」)を徹底。昇任や叙位叙爵の基準をある程度定めることで、人事が完全な縁故に流れないよう微調整を図る。
道長は外戚としての地位を最大限活用しつつ、天皇の権威を安定的な「象徴」に引き上げることを考える。天皇に形式的な最高権威を担わせ、実務は「関白」の地位を活用して円滑に処理するが、現代的道長は「院政」的な発想を先取りするかもしれない。
-天皇に幼少期は摂政、成年後は関白が補佐する原則を維持しつつも、天皇周辺に専門官僚を育成。
- 従来の「外戚依存」から、より制度化された「最高法規」の存在感を醸成。例えば、改定版『令』をまとめ、これを朝廷全体の根拠規範として位置づけることで、朝廷と藤原家を法的な結びつきで強固にする。
道長は宮廷文化を愛し『紫式部』や『清少納言』ら文人たちとの交流を深める一方、現代的な行政手法を取り込むためにも知識人層の拡充を図る。
-国司や受領階層に対し、任地における法令遵守・文書管理・税制の透明化などを要求。できる限り審査を厳格化し、違反者には適正な制裁を行う。
-大学寮や学問所に法制研究や史料編纂部門を新設し、古代律令や判例に相当する事案記録を蓄積。徐々に「法文化」を育む。
-漢籍研究とともに、自身が知る社会契約や合意原則に近い概念をそれとなく導入し、為政者と被統治者の関係を「力による支配」から「正当性による支配」へと移行させる試み。
北方の蝦夷や、唐・宋との交流、さらには大陸や周辺国との海上貿易を法的に整理する。「道長的改正律令」には、交易ルールの明記や関税的な仕組みを生み出し、国家財政を強化するとともに、軍事力を令外官頼みから、一定の法規範に沿った動員・統制へ転換。
-軍事貴族や地方武士層との契約関係を整え、「官」と「私」の軍事力を峻別した初期的な国軍組織化を図る(もちろん当時としては極めて斬新)。
-貿易港での入港手続や国際通行ルールを整備し、財政基盤強化を狙う。
---
もちろん、このような施策は周囲にとって奇異であり、保守的な貴族層からは激しい反発も受ける。しかし「藤原道長」という既に頂点に君臨する権力者の威光、そして自らが有する実務的手腕と知識によって、徐々に新しい秩序を「慣習法から合意された法」へと移し変えようとする。結果として、荘園の雑多な管理が少しずつ明確になり、暴力的な権益争いは減少、都はある程度の治安維持機構で安定する。
やがて、次世代には「記録とルール」に基づく人事・土地管理が浸透し、法制を軸にした政治文化が醸成され、藤原家の権威は「道長改革」として後世に語り継がれることになるかもしれない。
増田はPS5Proを買いにというタイトルの童話を知っているかな。
寒い冬が北方から、狐の親子の棲んでいる森へもやって来ました。子狐の名前はフェンでした。フェンはとても好奇心が強く、この冬、自分の巣穴を飛び出して冒険をしたくてたまりませんでした。ある日、フェンは都会の話を耳にしました。そこにはガラスの鼻を持つ不思議な箱―それはPS5Proと呼ばれていました―があると言います。それを手に入れれば、すごく楽しいゲームができるのだとか。
フェンはその話に魅了され、寒さを忘れて母狐に「都会へ行ってそのPS5Proを手に入れたい!」と話しました。母狐は心配しましたが、フェンが強く希望したので見送ることにしました。
街にたどり着いたフェンは、靴屋の店先で足を止めました。そこに立つサリという女の子が、彼の興味を引いたからです。サリはフェンが困っているのを見て、PS5Proを売っている場所まで案内してくれることにしました。彼女はフェンの計画に興味を持ち、一緒にゲームを見に行くことを約束しました。
途中で多くの人や機械に出会い、フェンはいくつも危険を乗り越えます。ついに電気屋の前にたどり着きましたが、店の中には既にPS5Proはありませんでした。がっかりしたフェンは途方に暮れました。サリも悲しい顔をしましたが、どこかで温かいチョコレートを飲もうとフェンを誘いました。
その日、フェンはPS5Proを手にすることはできませんでしたが、新しい友達サリと心温まる経験をすることができました。そして、何かを得る以上に誰かと分かち合う経験が大切なことだと知ることができました。
ℋ𝒶𝓅𝓅𝓎 ℰ𝓃𝒹.
「ふつうの軽音部」の高校のモデルはどこなのだろうか。ルーキー版とジャンプラ版で設定が異なることもあり、明確な答えは出ないことはわかっているけれど、ちょっと考えてみようと思う。以下、とくに明示しなければジャンプラ版の話です。
まず、谷九高校という架空の高校が舞台になっているけれど、地理的な面から考えると候補に挙がるのは高津(こうづ)高校だ。谷九交差点から徒歩16分とやや距離はあるが、それでも府立高としては最短距離にある。私服校なのでその点はややイメージが違うが、校則なし、軽音部が人気で部員数100人を超えるといった点は雰囲気に合う。ただ、問題はまあまあな進学校であるという点で、毎年京大10名、阪大・神大30名ずつという進学成績、入学時点では基本国公立をめざすというレベルなのである。彩目が進学を考えていなかったり、ヨンスが国公立狙うという理由で部活をやめるというエピソードとちょっと合致しない。バイトをする生徒がほとんどいないのも、イメージとずれる。
谷九からもうすこし範囲を広げて、夕陽丘高校はどうだろうか。進学レベルや学生の雰囲気はなんとなく合うところもあるが、普通科だけでなく音楽科がある高校という特徴がじゃまをする。北方向に範囲を広げて清水谷高校というのも「ふつう」っぽさではありだが、これはもう谷九じゃなくて谷六高校だろう。これまでのストーリーで大きな役割を果たした長居公園から離れていくのもマイナス要素である。
そう、ストーリー展開から考えると、長居公園から離れすぎてはいけないのだ。そちら方面で候補を考えると、住吉、東住吉、阿倍野、今宮あたりが浮かんでくる(天王寺は高津の上を行く進学校なので除外)。東住吉は普通科以外の存在感が大きすぎ、阿倍野は国公立進学に現実味がないのでちょっと違うだろう。
そうなると住吉と今宮に絞り込まれるわけだが、ここでルーキー版の最初の方、新歓ライブの場面が生きてくる。軽音部員が着ているTシャツに描かれているのはTEN-CHA K-ONCLUB、つまりもともと地理的には天下茶屋周辺の高校をモデルにしていたと思われる。なぜジャンプラ版で谷九にしたのかはわからないが。
今宮と住吉のどちらかというと、やや住吉の目が強い気がする。今宮は昔はともかく現在では国公立を狙える高校ではなくなりつつあるし、なにしろ町田町蔵の出身校、ふつうの軽音部というにはストーリーを背負いすぎている。住吉なら、上位は国公立を狙い、ボリュームゾーンは関大〜近大、進学しない子も少数いて、バイトやってる子も珍しくないという「ふつう」っぽさがあるのだ。
ちなみにレイハさんの通う七道高校は見当がつかない。天王寺か三国丘かと思うけど、どちらも七道駅からは遠いし、鳩っちと水尾が住吉であるなら中学は大阪市内と想像され、すると天王寺の線が強いと思うけど、わざわざ七道なんてマイナーな実在の地名を付けた意図はよくわからない。
ここまで考えてきて、大阪で「ふつう」の府立高を探すことは今やわりと難しいのだなと思った。文理学科をもつ進学校10校とそれ以外の距離がありすぎて、大阪の「ふつう」の高校生は無償化以降、私立の方に多いのかもしれない。