
はてなキーワード:化学式とは
二人合わせてガリ勉。役割分担は明確で、俺が「ガリ」。ひたすら暗記と思考停止で数をこなす作業担当。英単語、古文単語、年号、化学式。脳みそを使わず、ただ石を積み上げるような勉強は全部俺の仕事。
相方は「ベン」。数学の証明問題とか、現代文の読解とか、頭を使う系の問題を担当。俺が積み上げた石を使って、あいつが綺麗な城を建てる。テスト前は俺がまとめた暗記ノートをあいつに渡して、あいつは応用問題の解法パターンを俺に叩き込む。実に合理的だった。二人で一人の天才を演じていたわけだ。
まあ、そんな俺も四六時中ガリガリやっていたわけじゃない。当時はモンスターハンター2ndGに狂っていた。特にウカムルバスを倒した後のG級訓練。あれはマジで終わってた。ティガレックス3頭クエとか、誰がクリアできんだよ、と。でもやった。大剣を溜めて、振り向きに合わせて頭に叩き込む。その作業は、英単語を覚えるのと本質的に何も変わらなかった。クエストを回すのも、単語帳をめくるのも、同じ「ガリ」の仕事だった。
ベンはそんな俺を横目に、いつも冷静に参考書を読んでいたな。「その集中力、もっと有益なことに使えないのか」とか言われたけど、こっちはこっちで必死だったんだよ。ディアブロスの尻尾を切るために、どれだけの閃光玉と音爆弾を調合したと思ってんだ。
俺はフリーターになった。モンハンの代わりにソシャゲの周回をやり、たまに日雇いのバイトで金を稼ぐ。あの頃の集中力と継続力は、今やログインボーナスとデイリークエストを消化するためだけに使われている。情けない話だ。
一方、ベンは大学を出て、なんかよくわからんIT系の会社を作った。風の噂で聞いてはいたが、特に連絡も取っていなかった。
ニュースで会社の名前とベンの顔写真を見たときは、さすがにスマホを落としそうになった。あいつ、社長になってやがった。俺がモンスターのレア素材を求めて画面をタップしている間に、あいつは本物の金を集めていた。
「久しぶり。元気か?お前に頼みたいことがある」
なんだよ、今更。金の無心か?と一瞬思ったが、逆だった。
「うちの会社に来ないか。お前のあの異常なまでの集中力と継続力は本物だ。うちのサービスで、そういう泥臭い作業が必要な部署がある。絶対に活躍できる」
正直、頭がクラクラした。
フリーターの俺と、上場企業の社長。高校時代、隣の席で同じテストの点数に一喜一憂していたはずなのに、いつの間にこんな差がついたんだ。
ベンは俺を対等な友人として誘ってくれているのか?それとも、安く使える便利な「ガリ」が必要なだけなのか?あいつの下で、俺は昔のようにうまくやれるのか?
でも、心のどこかで期待している自分もいる。ワンチャン、俺も役員とかになれるんじゃないか。ストックオプションとかいうやつで、億万長者になれるんじゃないか、とか。G級訓練をソロで全クリした俺だぞ?やれないことはないんじゃないか?
まあ、無理か。今の俺はただのフリーターだもんな。
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
---
次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペしてプロンプトを書くだけ、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか?批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか?歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
アスファルトが安い、コンクリが高いの他に、施工の速さもあるんだけど、施工の速さだけでは正解じゃなくて、施工の速さによるメンテナンス性の良さが一番効いてきているんだよね
どういうことかというと、片側1車線(両側2車線)の道路を直すときに顕著なんだけど、コンクリートだと施工と固まるまでの時間が必要(養生期間っていってる)なので、1車線だけ補修するに
しても、養生期間は片側交互通行にしないといけないのね。交通渋滞はもちろん、事故の原因にもなるためこれは避けたい。だからアスファルトが多く使われる。
一方で、コンクリートの方が耐久年数は長いのよ。細かい話、アスファルトは10年で10%が壊れるよーって設計してる。コンクリートは20年~50年程度で設計してる。この耐久年数が長いところを活用して、
あんまり舗装のやり替えをしたくないところは値段が高かろうが、補修に時間がかかろうがコンクリートでやっちゃうことがある。具体的にはトンネルの中とかね。
10年に1回数日の交通規制にするか、30年に1回、数週間の交通規制にするかって選択だね
・鉄筋の腐食
中性化やひび割れが原因ってのはその通りで間違いないんだけど、もう一歩踏み込んでいこう。
錆びるって化学反応なんだけど、化学反応が起こる場合って基本的に電気が流れるんよ。学校で習った化学式思い出してもらえればいいんだけど水のH2OってH+とかOH-が合体して出来てるわけだよ。
そんで化学反応って何かって簡単に言うと、H2Oが分解されて、H+が誰かにあげて、他の+要素を誰かからもらう的なことなのね。電荷持ってるものが動くわけなので電気が流れるわけよ。
じゃあ電気流れなくすりゃ化学反応起きずに錆びなくね?って考えて作り出されたのが電気防食法
色々種類あるんだけど、一番簡単は方法で言うと錆びたら困るところにあらかじめ錆びた時に発生する電気を抑える電気をあらかじめ流しとけよって話
海沿いの橋とか岸壁の下にある鋼矢板ってのに使われてたりするよ
まあ電気流すと電気代とかランニングコストかかるんで、錆びの犠牲となる金属をあらかじめ設置しておくことで電気が流れて犠牲の金属のみが錆びるようにするって方法なども使われているね
水の密度を1とすると油の密度が約0.9だから油が浮くというのはわかる。
水の化学式はH2Oで、分子量は1*2+16=18でたったの18だ。
一方で油の化学式はもっと複雑で分子量もずっと多い(100を軽く超える?)のに、水より軽くなる理由がわからない。
物体の密度は分子量に比例するわけではないと思うのだが、それにしても油は軽すぎるように思える。
水はH2Oで1つの酸素原子に対して最も軽い原子である水素が2つも付いているのだから、構成している原子からして密度は小さいはずなのに。
doravviiより
(追記)
最近はdorawiiの投稿頻度が高いから便乗して真似してみた。
ちょっとした日常の疑問を書いたらブクマカが釣れると思ったら予想以上の釣果だな。
ブクマカ共が嬉々として書いている説明なんて、調べた上であえて書かなかっただけなんだよな。
そんなことよりも、『doravvii』に誰も反応してくれなかったのが残念だったぜ。
Permalink |記事への反応(15) | 15:43
各メンバーが化学反応や化学物質を駆使した戦闘スタイルを採用。
例えば、爆発物の代わりに化学的な反応で作られたガスや液体を使用。
ゴッドフェニックスは化学的な技術で動作し、例えば燃料が化学反応で生成される仕組みを持つ。
化学反応や新しい合成物質の研究を行い、チームに新技術を提供する化学者に特化。
5.エピソードの内容
化学事故や有害物質の漏洩、敵の毒ガス兵器を防ぐといった具体的な問題に対処。
メンバーが化学式や反応メカニズムを使って解決策を考える場面が増加。
6.教育的要素
子どもたちに化学の基礎や安全性についての知識を提供する場面が組み込まれる。
例えば、「酸とアルカリを混ぜると中和する」や「化学物質の適切な取り扱い方法」など。
とのたまう謎のマンガ冊子をご存知だろうか?
うちの母親がある日どこかから貰って帰ってきて、ネタにして笑うつもりなのかと思ったら本気で信じていた
俺が「世の中の全てのものは化学式で表せる、そもそも水をH2Oって言うのも化学式だよ」と言うと、「あ、そうなのね…」と曖昧に笑ってその話は終わった
一応母は高校を出ている。授業を全部寝ていたとしても、どこかで化学式に触れることはあるだろうに、何故こんなものに騙されるのだろうか
しかし逆にその程度の思考であれば、世の中の多くのことが摩訶不思議なんだろう。だから水素水みたいな化学式でどう結合しているのかよく分からない商品を信じたり、陰謀論にのめり込んだりする
最悪なのは、こんな母親が若かりし頃は教育に熱心だったことだ。俺はゲームや睡眠時間を奪われながらも期待に応えるべく頑張ったのに、そのコントロールを握っていた女がこんなに勉強していないとは。確かに中学に上がって勉強したばかりの方程式の話をした時も、母親は曖昧に笑ってやり過ごしていた
そして哀れなことに、母親は俺の受験が成功したのを見て、自分も幼少期から教育を受けさえすれば頭が良くなっていたはずだと信じているフシがある。別に勉強なんていつからでもどこからでも始めて構わないのに、パートから帰ってきたらずっとネットやテレビに集中しながら砂糖は毒物だと信じている
もし子ども時代に戻ることができたなら、同級生やそのお母さんにうちの母親のことを言い触らすだろう。外面を気にする人だから、きっと明るみに出れば恥ずかしがって少しは努力したのではないか
35歳職歴無し無職ワイ乙4受けてきたで。ちな直前に解いた模擬問題の正解数は全て合格ラインに達してた。
でも本番は危惧してた通りヒネた問題出してきやがって面食らったわ。
確定して間違えたのは3問。
・1つめ
C6H6の構造式を見せられ「これ第一石油類やで、どれや?」って感じの問題で
アセトン、ベンゼンに絞ったはいいものの化学式までは覚えておらずアセトンを選び轟沈(アセトンには酸素が含まれている)
化学式までは覚えられませんやで殺すぞっていうか26回ぐらい模擬問題解いたのに1問も化学式を問うてくる問題はなかったやで殺すぞ
・2つめ
1類はなんやらかんやら云々
2類は還元性物質で酸化性物質と同じとこに置くと摩擦や衝撃でクソ燃える
の2択に絞る。
可燃性って還元性物質なん・・・?そんな文言テキストで一度も見たことねえぞ…ってなって
1類の方を選びおそらく轟沈。
・3つめ
思い出せんが間違えた気がする。
・怪しいやつ
定期点検は所蔵やなんたらかんたらが技術上のなんたらに適合しているかどうかについて行う。
みたいな2択に絞り給油取扱所の方を選んだ。多分合ってるけど
後者もそれっぽくて間違えた感がある。
あと
タンクに補充しに来たタンクローリーのあんちゃんが違うタンクにガソリンぶちこむ事故が起きた。対策としてどれがふさわしくないか?
みたいな問題でも
「補充する前にタンクのあんちゃんと危険物取扱者が立ち会ってから補充する」とあと内容忘れたけど2択まで絞って
そもそもタンクの中身は見えねえし移動タンクと注入先タンクが適合してるかどうかは危険物取扱者じゃなくても表記を見れば判断できるくね?って思って前者を選んだけど間違えた感がある。でも取扱者でもダブルチェックという意味では予防にはなるよな?
みたいな感じで一応事故の予防になるやろって選択肢ばっかで困った。
他はガソリンの性状や重油の性状でサクッと選べる問題で余裕だった。
○○を完全燃焼させたときの熱化学方程式である。係数の合計はいくらか?
みたいな問題でけけ係数?ってなったね。(正確な化学式は忘れたけども)
A+B+C+Dで両辺の分子の数が合致する組み合わせを探すだけって気づいて力技で見つけ出して2+4+5+2=13にして勝ったなって思った。
他にも静電エネルギーを問われてE=QVだったかE=QV^2だったかあやふやだったり。
ちゃんと前者にしたけども。ていうか静電エネルギー云々ってそこらのテキストでも一問も出なかったぞこれ。
過去問常連の指定数量が1を超えるのはどれか?問題も0.96だったり0.93だったりギリギリを攻めてくる選択肢が複数。
乙4の合格率が調整期間に入ってて記憶があやふやな奴らを振り落とすためか過去問からズラしてきてる問題がそれなりにあって
確かにこれなら落ちる奴も増えるだろうなって思った。