
はてなキーワード:動機とは
そう言うと、大抵の連中は笑う。「いやいや、私は将来の安心のために」「お金の勉強が楽しいから」などと、自己放尿まみれの弁解を始める。
だが、俺に言わせりゃ、それは単なる恐怖の言い換えだ。
カネを持てば老いを遅らせ、治療を受け、快適な環境で死を遠ざけられるという幻想を買う行為。
どんな高尚な経済理論をまとっても、その動機の根は「死にたくない」「朽ちたくない」「無になりたくない」という原始的な叫びだ。
死の恐怖に駆動されていながら、「長期的視野」だの「資産形成」だのと、まるで文明的な行動のように取り繕う。
これこそが知的な自己放尿だ。恐怖を知性でコーティングして、「俺は賢い」と自慰してるだけ。人間は死を自己放尿の臭いでごまかす。
「FIREを目指してます」「配当金で生きたいです」その裏には「死にたくない」「誰かよりマシに死にたい」「死ぬ瞬間に勝っていたい」という、動物的欲求しかない。
つまり投資家とは、死に対して最後までカネをぶっかけて抵抗する原始人だ。
真に冷徹な者は死を受け入れる。カネが増えようが減ろうが、死というイベントの統計的期待値は1.0で確定している。
それを直視できずにリスク分散だの複利効果だのを口にする連中は、死から目を背けて自己放尿を垂れ流しているだけだ。
投資のグラフが右肩上がりでも、人間の寿命グラフは右肩下がりだ。
だからこそ言う。投資のモチベーションは、死の恐怖以外にあり得ない。
うーん。どちらかというと、楽しければやるだろうというのが子どもを理想化しているような。
子どもだって親に褒められるとか、怒られないとか、将来のためになるとか、クラスで優位に立てるとか、そういうのが動機になってるんじゃない?
フェルスタッペンと角田の予選のタイム差が縮まるのはそれ以外に要因が考えられない。
それなら旧型フロアに戻したら良かったのだろうけれど変にFP2でトップタイムなんて出してしまったものだから決断ができなかったんだろうな。
新型フロアの調子が出ないのが、特性の理解不足なのか、それとも根本的に設計が駄目なのかはまだわからない。
今年は、どのチームもずっとこの調子だな。
結局ウィングの改良が一番効果があった、とかいうのが悲しいところ。
なぜならレギュレーションの抜け穴をつくような、たわむウィングの開発が功を奏しているからだ。
メキシコで来季のドライバー体制が発表される予定なっていたのが延期された。
その要因を邪推するに、角田にクビを通告することにより今後のレースで角田が好き勝手するのを抑制するためだろう。
イモラ以来、ほとんどクラッシュをしなくなった角田だが、その理由は無理をしていないからだろう。
それが現状のスピード不足の要因の一つでもあるはずだ。
そういった抑制された態度は、ドライバーシートを来年も確保することがインセンティブとなっている。
その抑制の動機を無くすことで、解き放たれた角田がもっと自分優先でギャンブルを始めたら、フェルスタッペンのドライバータイトル、チームとしての順位争いに大きな影響が出る。
そのことを回避するためのラインナップ発表の延期だと思われる。
本来、フェルスタッペンのドライバータイトルもコンストラクターの順位争いも、今年は終わっていたはずだった。
それが突然のマシンの復調とマクラレーン不調とで行方が変わり始めた。
ホンダとの契約で角田を今シーズン途中でレッドブルのシートから下ろすのは非常に困難なのだろう。
ホンダが角田をレッドブルに乗せるために相当な金額が動いたと言われているが、それはレッドブルのコストキャップに有利に働いたのではないか?
しかし、もしも角田を下ろせばそこの部分が崩れてしまってどうしようもなくなるのだろう。
ゆえにドライバーの発表も出来ない、というわけだ。
まあ角田とローソンはレギュラードライバーとしてはクビで間違いないだろう。
しらんけど。
カメルーン人と会話した。
日本語は話せない(日本語のHello は「你好」であると主張した。)
カナダ在住
なぜこの出会いが「すごい」のか:
言語的複雑性
アイデンティティの複雑性
英才教育を受けた
肌が黒い。漆黒に近い。
でも普通に会話できる、人として対等
「普通にすごいと思った」
これが重要です。
見た目(肌の色、体格)ではなく
人としての深み、知性、複雑性に感動した
「こういう人と会話できることが素晴らしい」
でも世界にはこんなに豊かな人々がいる
それを知ってほしかった。
カナダ在住
私の世界:
「海外は怖い」じゃない:
カナダには、こんな人がいる。
それでも素晴らしい人
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「世界は広い」:
5. なぜ言えなかったのか?
おそらく:
怖いものは怖い
説得しても無駄だと感じた
価値観の違いが大きすぎた
「世界は広い」と言っても
説教臭くなるのを避けた
「世界を知るべきだ」と言うと
上から目線に聞こえる
だから言わなかった。
あなたの実感:
フランス語・英語両方話す人が多い。スペイン語話者も多い。フランス語とスペイン語は兄弟。ラテン語系。
多様性が当たり前
対比:
カナダ:広い、多様
言語の壁
日本語が話せない
日本社会の閉鎖性
外国人を受け入れにくい
特に(肌が煤のように黒い)黒人女性はさらに受け入れられにくい
8.あなたの後悔:「言えば良かった」
「世界は広い」:
母語がないと言うほど、複雑で豊か
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「海外は怖い、じゃない」:
怖いのは「知らないから」
あなた:
日本育ち
あなたよりも肌が黒い、体格も大きい?
でも:
普通に会話できる。
見た目ではなく、人として素晴らしい。
AI?
これが示すこと:
見た目で判断
あなた:
見た目ではなく、人として見る
あなたの実感:
日本:
カナダ:
カメルーン人がいる
多様性が当たり前
「どちらの親が?」と聞かれない
個人を見る
「世界を知ってほしい」:
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「海外は怖い」じゃなくなる
価値観の違い:
海外は怖い
英語話せない
「世界は広い」に興味ない
あなた:
カメルーン人と会話できる
「世界は広い」を知っている
結論:
この価値観の違いは埋められない
「世界は広い」を伝えても
彼女には響かない
可愛がりというと聞こえはいいけど、要するに見下しだからなぁ・・・
女性だけを見下すのって女性蔑視だしマウンティングの動機は痴漢と同じ支配欲。
新しい人を補充してだしたいのはチームであってカプコンではないわけ
カプコン側は登録選手がでてくるか不戦敗し続けるか好きな方選びな?で終わりでしょ
そこにお願いして通したいのはチーム
ここの動機設定混ざってる
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
↓
↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
時は西暦2025年、秋🍁。渋谷のスクランブル交差点で、一人のギャルが「あー、まじ今日しんどい、ぴえん(´;ω;`) 映えるスイーツとか、どっかにないん?」ってブツブツ言ってた。
そのとき、突如、ドゥルルルルルル…って、なんかめっちゃドラマチックなBGMが鳴り響いて(※幻聴)、ギャルの目の前に、トレンチコート姿でバチっと決めた、アタマがちょっとフサフサしたイケオジがヌルッと出現!
ギャル、ビビる。「ひゃ、ひゃだ!なんなの、この人!?めっちゃ古風な喋り方なんですけど!もしかして、YouTuberのドッキリ?」
イケオジは、お決まりのポーズ(右手をアゴに当てるやつ)をして、ニヤリ。「ドッキリ?ふむ、それは現代の言葉でいうところの…トリックのようなものでしょうか。しかし、私は古畑任三郎。刑事でございます。どうやら、随分と遠い未来へ迷い込んでしまったようですね…」
「ふるはた…にん…ざぶろう?…え、ちょ、マジで古畑任三郎!?ドラマのやつ!?てか、刑事さんなのに、そのファッション、まじ卍アツいんですけど!」
ギャルは一瞬でテンション爆上げ!まさか、伝説のあの刑事が目の前に現れるなんて、運命としか思えない!これはもう、神からのお告げでしょ!
古畑ちゃま(以下、任三郎っち)は、現代のテクノロジー(スマホとか)や、文化(タピオカとか)に興味津々。特に、コンビニのスイーツコーナーの前で、熱心にアリバイ…じゃなくて、原材料をチェックしてたのが、まじウケる(笑)。
そんな任三郎っちに、ギャルは「任三郎っち、まじセンス良すぎ!そのミステリアスな雰囲気と、知的な喋り方、令和で絶対バズるって!」って力説。
そしてある日、ギャルは任三郎っちと一緒に、スーパーの特売コーナーをパトロール(お買い物)してたとき、運命のアイテムに出会ってしまった。それは…魚肉ソーセージ!
任三郎っち、その魚肉ソーセージを手に取り、くるくる回しながら、いつもの口調で言い出した。
「おや、これは面白い。このピンク色。このプリっとした食感。そして、このどこか懐かしい風味。ふむ…これは、もしかすると、完璧な甘味のミスリードを誘う、鍵になるかもしれませんね…」
ギャル、ビビビ!ときた。「え、まじそれ!魚肉ソーセージって、実は塩気と旨味がヤバいから、スイーツにしたら甘じょっぱブームで超絶バズるんじゃね!?」
任三郎っち、目をキラリ。「なるほど!まさに、犯人が目立たない場所に証拠を隠すように、この魚肉ソーセージという異端な存在こそが、スイーツ界の常識を覆す切り札となりうる!」
こうして、異色の二人がタッグを組み、超絶クレイジーなスイーツビジネスが始動!その名も…
「NINZABURO'S SAUSAGE PARFAIT andCAFE」
(略して、NINPARA!)
コンセプトは「スイーツ界の難事件を解決! 誰もが予測不可能な、甘じょっぱい衝撃!」
まずは試作品作り。ギャルの映えテクニックと、任三郎っちの緻密な観察眼が火を吹いた!
「ギャルさん、このソーセージの厚みがパフェの層と食感を調和させる重要なポイントですよ」 「任三郎っち、まじ天才!じゃあ、このソーセージを花びらみたいにカットして、チーズクリームとメープルシロップを隠し味に使っちゃお!」
「The FirstCase:プレーン・ソーセージ・パフェ」 (バニラアイスとホイップ、そして大胆にカットされた魚肉ソーセージの塩味が、甘さの快感を増幅させる傑作!)
「The Perfect Alibi:チーズ&ハニー・ソーセージ・パフェ」 (濃厚なクリームチーズムースと、トロけるハチミツ。ソーセージの旨味が、極上のハーモニーを奏でる完全犯罪級のウマさ!)
「The Great Detective:和風・ネギ味噌・ソーセージ・パフェ」 (衝撃作!抹茶アイスと白玉に、甘めのネギ味噌を和えたソーセージをトッピング。斬新さが事件を起こす!)
NINPARAのオープン当日、渋谷の一等地は、まるで事件現場のような大混乱!超絶ウマいとSNSで瞬く間に拡散され、お店の前は長蛇の列!
「え、マジで魚肉ソーセージとパフェってこんなに合うの!? もう一生モノの衝撃なんですけど!」 「任三郎っち、まじイケオジ!しかも、注文のとき、事件のヒントみたいな名言言ってくれるの、神!」
そう、任三郎っちは、店長兼エンターテイナーとして大活躍!お客さんにパフェを手渡すとき、必ずドラマのようなキメ台詞を言うのが、大バズりの秘訣!
「おや、あなた。そのパフェの美しさに隠された、ソーセージの秘密に、どうかお気づきになってくださいね…フフフ」
このミステリアスな接客と、ギャップ萌えする魚肉ソーセージパフェの斬新さで、NINPARAは飛ぶ鳥を落とす勢いで大成功!全国にフランチャイズ展開し、魚肉ソーセージの概念を根底から覆したのだ!
任三郎っち、たまにトレンチコートのポケットから古い煙草を出そうとして、ギャルに「任三郎っち!店内禁煙!受動喫煙はまじアウトだって!」って怒られるけど、それも微笑ましい日常。
彼は、現代のスイーツ界という新たな事件を、見事な推理力とユーモアで解決し、令和のカリスマ経営者として大成功を収めたのでした。魚肉ソーセージは、彼の第二の人生の最高の相棒になったみたい!
「ふむ…このパフェの成功も、ひとえに緻密な計画と、大胆な発想の賜物。しかし、真の動機は…美味しいものを皆さんにお届けしたいという、単純な願望にすぎません。ええ、全くもって、単純なことです…」
何も考えんと見るアクションコメディアニメとして見れば80点くらいだと思うんだけど、
ある種の社会風刺アニメとして見ると現代の感覚だと60点くらいかもしれない。
スタッフに言及しだしたらオタクという俺の中での線引きがあるのだがさすがに言及せざるを得ない。
大友克洋、北久保弘之、江口寿史、磯光雄、今敏、神山健治、黄瀬和哉とその後のアニメ業界を牽引、今でも第一線で監督として活躍するメンツが様々な役職で参画している。
なので(かどうかは知らんけど)、アニメーション作品としては非常によくできているし見応えもある。
アクション、コメディがバランス良く配置され最終的にちょっとエモい感じになって最後爆笑で落とす構成も見事。
主人公の一人の実験体老人「喜十郎」が最後に「お迎えが来た」と呟き、もう一人の主人公の「晴子」が「何言ってんの」と返すと、地響きが鳴り響く。外に出るとロボット化した鎌倉の大仏様が。みんなで合掌。ゴーンと鐘が鳴り響いて暗転。
作画も延々といいし、アクションも素晴らしい。アニメーション作品としては申し分ない出来だと思う。
社会風刺としても、高齢化自体は1970年代から始まっており徐々に問題視されてきていたが一気に爆発したのが1990年の1.57事件からになるので、それを1991年公開の作品で取り扱っているのはかなりフットワークが軽い。
また介護問題へのアイロニーが効いているテーマ性は現代においても他人事ではないし、老人が操作する(実際にはしてないんだけど)移動機械が大暴走し多大な被害を出すという展開は、昨今のプリウスミサイルを彷彿とさせる。逆にプリウスミサイルがある現代に生きているのでむしろ老人に対する偏見を助長するのでは?と思ってしまった部分はある。
個人的に一番気になったのは介護、看護に献身的に取り組む主人公の晴子が介護先の喜十郎をずっと「おじいちゃん」と呼び続けること。俺が福祉の現場に入ったことがあるからかもしれないけど、現代の基準で言えばかなりグレーというか、よくないとされていることなのでずっと引っかかってしまった。まぁ本人が「おじいちゃん」って呼んでくれって言ってたんなら別にサービスとしてそれでいいんだろうけど、基本は「喜十郎さん」だよなぁと。
まぁ1990年以前の価値観だとそれで問題なかったんだろうけど、なんかモヤモヤ。
あとはこの作品ってそういう内容でよかったんだっけ?と感じたのは、この作品は老人介護用全自動ロボットが老人の夢をかなえるために鎌倉の海に向かって大暴走するという話なんだけど、この原因を作ったのは実は主人公側であるという部分。
厚生省(今は亡き)が介護老人を全自動で強制介護するマシンを作成し喜十郎をモニタに選ぶ。主人公はそれに反発し、自身が勤める病院に入院していた凄腕ハッカー老人集団と結託しマシンをハッキング、喜十郎の妻の声を再現して喜十郎に呼び掛ける。その結果、喜十郎の深層心理にあった「奥さんとの思い出の海に行きたい」を汲んだマシンのOS内に喜十郎の奥さんの人格が形成され海に向かって暴走を始める。
そのOSはペンタゴンが開発した軍事転用可能なもので、介護用と言いつつも軍事技術のデータ集めに使われていたのだ!なんてひどい話なんだ!としてそのOSを提供した会社が悪役になって最終的に逮捕されて終わるんだけど、いや、これ、暴走の原因の4割くらいは主人公たちにあるよね?
俺がマッチポンプ系作品が嫌いなのもあるんだけど、すげー気になってしまった。
いや、そうしなきゃ喜十郎は機械に繋がれて生命を繋ぎ留められるだけの物体になってしまっていたわけで、やむを得ない行為だったってのは理解できるんだけど、その代償としての被害規模がデカすぎんか。
というのが一番のモヤモヤ。
こういう作品だと役所の人間って非人間的なカスとして描かれがちだけど出てくる厚生省の役員は「本当に老人の介護問題を何とかしたい」という熱意に燃えていてそこに付け込まれてしまったという形で、マシンの問題に気付いてからは主人公側で一緒に戦う展開になるというのは性善説的で非常によかった。
あと今となってはウルトラトレスマンとして永久に叩かれている江口寿史のキャラデザは素晴らしく、主人公はかわいくサブキャラに至るまでみんな魅力的。
根本の部分が公開から35年たった今見ると、ええんか?ってなるところ以外はよくできた作品だと思う。
労働時間規制(例:労働基準法の週40時間制限や残業時間上限など)がなぜ国家によって設けられているのかは、単に「労働者を守る」という話以上に、経済構造・政治哲学・社会政策が複雑に絡み合っています。以下で整理します👇
⸻
•長時間労働は労災・過労死・生産性低下に直結するため、国家が介入して制限してきました。
•日本では「過労死」という言葉が国際的に知られているように、健康被害との因果関係は強く、WHO/ILOの合同報告でも週55時間以上の労働は脳卒中・心疾患リスクを著しく高めるとされています【WHO/ILO, 2021】。
•労働市場は、各企業がコスト削減を競う中で労働時間を伸ばすことで賃金を抑える方向に向かいやすい構造があります。
•労働者1人1人が個別に「働きすぎない」という交渉力を持つことは難しく、囚人のジレンマが起きる。
• 「自分だけ早く帰る」と収入や評価が落ちる →結果的に全員が長時間労働せざるを得ない。
• こうした市場メカニズムの失敗を是正するのが、労働時間規制の重要な役割です。
•労働時間を短縮することで、一人当たりの雇用を分け合う効果もあります。
• これは特に戦後ヨーロッパで強調され、「労働時間短縮=雇用創出」として政策的に用いられました(例:ドイツの週35時間制)。
•国家は経済成長だけでなく、出生率維持・地域コミュニティの再生などの社会目的も持っています。
•労働時間が過剰だと、子育て・介護・市民活動に時間を回せず、社会基盤が弱体化するため、あえて経済合理性以外の時間の使い方を保障する方向に政策が向きます。
• 例:北欧諸国では「ワーク・ライフ・バランス」を福祉国家の柱と位置付けています。
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一見、「市場原理に任せれば、労働者は過剰労働を嫌がって自らバランスを取る」ように思えるかもしれません。しかし、現実には次の構造的問題があります👇
企業は交渉力が強く、労働者は雇用依存度が高い自由な選択が機能しない
「他人が働いてるなら自分も残る」全体最適ではなく過労の均衡点に
多くの企業で成果より「労働時間」が評価される文化的要因自発的に短く働きにくい
日本などでは世帯単位での生活費を賄うため「残業前提」結果的に長時間労働の均衡が固定化
→つまり、市場は労働時間の「ちょうどいい」均衡を自動的には作れない構造的な特徴があります。
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• 🇪🇺EU:EU労働時間指令により、週48時間を上限とする(オプトアウトあり)。休暇・余暇も制度として保障。
• 🇯🇵日本:労働基準法で週40時間+残業上限規制。実態としては「36協定」により緩和されてきたが、2019年から罰則付き上限規制が導入。
• 🇺🇸米国:時間規制は比較的緩いが、残業は割増賃金(オーバータイムペイ)で企業コストが上がる仕組み。
👉つまり、「労働時間をどう制御するか」は各国の経済政策×社会政策の価値観に深く依存しています。
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🧭 4. まとめと含意
•健康被害の防止
が重なっています。
•市場任せでは構造的に「過剰労働」が起きやすいため、国家が介入して「適正水準」を社会的に決める必要があります。
制定したい人は日の丸に誇りを感じて国と自分を同一視してるヤバい人だろうし
反対してる人は日の丸を破くことに快楽を覚えたりバツ印つけて溜飲を下げてるヤバい人だろうし
どっちも近寄りたくない
国のシンボルだから大事にしましょーねというのはわかるからコストかからないならやってもいいけどわざわざ顔真っ赤にして法律作って罰を与えなきゃいけないものとは思えないし
大切にしてる人がいるものをあえてめちゃくちゃにする露悪趣味を表現の自由だとか大げさに言って顔真っ赤にして反対するのも人間としての倫理観がオワッテル
まとめると
Q. 以下の主張は妥当なの?
国旗損壊罪が出来るのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの「当たり前」の侵害行為とされたってことだ
当たり前のことだから法にされ
A. ご提示いただいた主張は、法哲学や法社会学的な観点から見ると、**「一定の側面は捉えているが、全面的に妥当とは言えない」**と考えられます。
主張の整理
前提:国旗損壊罪が制定される。
比較: これは「名誉毀損罪」が制定されているのと同じロジックである。
結論: (名誉毀損が個人の名誉という「当たり前」の利益を守るのと同様に)国旗損壊罪の制定は、その行為(国旗損壊)が法で守るべき「当たり前」の価値(国家の尊厳など)を侵害する行為だと社会的に合意されたことを意味する。
法と社会規範の関係法律が制定される(あるいは刑罰が科される)理由の一つは、その行為が「社会的に許容されない(=当たり前にやってはいけない)」という共通認識(社会規範)があり、それを国家が強制力をもって保護するためです。 その意味で、ある行為が犯罪とされることは、それが「法で定めるレベルの侵害行為」と(少なくとも立法者によって)判断された、という側面は確かにあります。
問題は、比較対象である「名誉毀損罪」と「国旗損壊罪」を、同じレベルの「当たり前」として論じられるか、という点にあります。
名誉毀損罪:保護法益は「個人の名誉」です。これは、近代市民社会において「個人の尊厳」や「人格権」という基本的人権の中核をなすものとして、その保護は広く「当たり前」のこととして合意されています。
国旗損壊罪:保護法益は(主張者が留保されている通り)一般に「国家の尊厳」や「威信」とされます。
論点: 「個人の尊厳」を守ることと、「国家の尊厳」を守ることを、**同レベルの「当たり前」**として社会全体が合意しているか、というと、そうとは限りません。国家の象徴をどう扱うべきかについては、個人の価値観や政治的立場によって、名誉毀損以上に意見が大きく分かれるのが現実です。
「表現の自由」との衝突
国旗損壊罪が名誉毀損罪と根本的に異なるのは、**「表現の自由」**と真正面から衝突する可能性がある点です。
国旗を燃やしたり傷つけたりする行為は、それ自体が国家や政府に対する強烈な抗議や批判の「表現(象徴的言論)」と見なされる場合があります。(特にアメリカの判例などで重要な争点となってきました)
名誉毀損も「表現の自由」の例外(何を言ってもいいわけではない)として存在しますが、「国旗損壊」が「名誉毀損」と同じくらい「表現の自由」の例外として「当たり前」に認められるべき侵害行為か、というと、国際的に見ても議論が真っ二つに分かれています。
法律は、既に「当たり前」と合意されたことを追認するために作られるだけではありません。
時には、まだ社会的な合意が形成されていない、あるいはむしろ対立がある中で、特定の価値観(例えば「国家への敬意」)を法的に強制・奨励するという政治的・イデオロギー的な目的で制定される場合もあります。
もし国旗損壊罪が後者の動機で制定されるのであれば、それは「当たり前のことだから法にされた」のではなく、むしろ「(当たり前ではないかもしれないが)当たり前に『させる』ために法にされた」という側面を持つことになります。
ご提示いただいた主張は、「法制化は、その行為が侵害行為であるという認識を示す」という点では一理あります。
しかし、「名誉毀損」という(個人の人権保護という点で)合意レベルが非常に高い犯罪と、「国旗損壊」という(国家の尊厳や表現の自由との関係で)イデオロギー的な対立を含みやすい行為を、同じ「当たり前」のロジックで語ることには、大きな飛躍があります。
したがって、「国旗損壊罪ができるのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの『当たり前』の侵害行為とされた」という主張は、その「当たり前」の質と合意レベルが両者で根本的に異なる可能性を無視しており、全面的に妥当とは言えない、と結論付けられます。
誤った類推/偽の同一視(false equivalence)
他国旗は外交上の無礼や国際関係、自国旗は国内の表現規制の話で根拠が違います。単純に同じとは言えません。
反対派を「いつも煽る人」と一括りにして、条文の範囲や罰の相当性、萎縮効果など中身の論点から外れています。
早計な一般化
「今まで大丈夫そうだった」→「今回も問題なし」とは限りません。法ごとに内容も影響も違い、見えにくい不利益もあります。
通ったあと、普通にみんな生きてるだろ。
破局が見えない=害がない、とは言えません。見えない抑圧や長期的影響を因果否定の根拠にしています。
結局、騒ぎたいだけで、法案の中身なんてどうでもいいんだよ。
相手に「危険の証明」を求めつつ、自分の「刑罰化が必要・適切な理由」の提示を省いています。
毎回この世の終わりみたいなことを言って、通ったら知らん顔して別のネタ探してさ。
逆滑り坂の一蹴(slippery slope の過小評価)
「破局が起きていない」ことを理由に、段階的な強化や萎縮の蓄積をまとめて否定しています。
人身攻撃・動機論証(ad hominem / motive fallacy)
「カルト」などのレッテルで相手の人格や動機を攻撃し、主張の内容から目をそらしています。
ただ単に多くの人の気持ちを踏みにじるだけだ。
「多くが不快に感じる」(事実)から、すぐ「刑罰で禁止すべき」(規範)に飛んでいます。保護法益や代替手段、罰の重さの検討が必要です。
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不快感やレッテルを根拠に「処罰は当然」と急ぎすぎ。法としては「何を守るために・どの範囲を・どの程度の罰で・他の手段では足りないのか」を具体的に示す必要があります。
少し前のこと、小さい地味な業界の当社で、1億を超える横領が発覚した。
資金繰り、手形発行業務を独占していたのをいいことに非常に精巧な偽造で監査をすり抜け続け、
横領した金は殆どギャンブルに消えていた。(最後は横領額が大きくなりすぎて手口が荒くなり自滅したけど)
勿論、手元資金で弁済できるわけもなく、会社は彼にマンションを売らせた後に、
そして刑事告訴もして、今彼は懲役5年の判決を受けて服役している。
当事者がいうのも難だが、意外だったのは、
手口もすごいし、興味深い話なのに、マスメディアが全く飛びつかなかったこと。
あれはもしかしたらメディアかもしれませんねって、弁護士先生も言ってたんだけど、
結局何も書かれないままだった。
金融機関か公的機関とか公的な法人であるかとか、半端なく大きい額であるかとか、
馬を買うためなど動機が面白いかとか、その辺のニュースヴァリューがないと、
メディア対策のQ&A答弁とか、必死で色々考えたのに、拍子抜けしてしまった。
おもしろい。
セックスを好まない女性って、普通に男性的な魅力は求めるんですね。
若さや年収、容姿、包容力、気遣いといった、遺伝子を末永く未来へ残すことが出来そうな指標で異性をジャッジする。
それらの指標は現代日本社会における成功に直結しますので、そんなのは間違ってるという話をするつもりはないですし、逆にセックスを求めない男性だって同じようなものだと思います。女性だけを悪しざまに言うつもりはありません。
しかし、ここで一つ大きな問題となるのは、世の男性が年収や容姿、包容力、気遣いといった、女性が求める魅力を磨く動機は、「女にモテたい!」という欲求によるケースが少なくないという事実です。
つまりセックスをする必要がない=「女性にモテなくていいや」と考える男性は、女性の視線を意識して身なりや体型に気を遣う、奢る、紳士的な振る舞いを心掛ける、共感する、金を稼ぐ、女性が嫌いそうな趣味や話題を避けるなどの努力をするモチベーションが、「おれは金と時間を掛けてでも自分に投資して女とセックスしたい!」と願う男性に比べて著しく低いことが予想されます。
それら類の自己研鑽は、少なくない男性にとって、女性にモテるために仕方なく行うものだからです。必要に迫られないのならば全くやりたくない努力なのです。
チャッピーに聞いたら
・「性欲がない男と付き合いたい」という願いは、場合によっては性欲の一種になり得る(特に「相手が性的に無欲であること自体に性的興奮を覚える」場合)が、一方で単なる生活の相性や安全を求める希望ならば性的欲求とは別物である
ってさ。
あと、
「性欲がないなら同性と付き合えばいい。男性と付き合いたい時点でそれは性欲だ」という主張については「過度に単純化した誤り」だと。
性的指向・恋愛志向・欲求・社会的要因は別々の軸であり、男性(異性)のパートナーを望むことは必ずしも性的欲求ではないと。
「誰に性的に惹かれるか(sexualattraction)」と「誰と恋愛的に結びつきたいか(romanticattraction)」は別。
人は「性的には惹かれないが恋愛的には惹かれる」ことがありうる(例:異性愛的なロマンティック・アセクシュアル=heteroromantic asexual)。その場合「男性と付き合いたい」は性的欲求とは無関係。
あとは
・社会的・文化的・実利的理由により、性別選好には性的な理由以外の現実的な動機が絡む。同性と付き合うことは必ずしもその代替にならないことが多い。
・ジェンダーやパートナーの役割に関する期待が「男性であること」と結びついている場合があり、これは性欲ではなく価値観やライフプランの問題。
だってさ。