
はてなキーワード:勇士とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac9a4dc1bff1c4087fc1978d751857b0bfe000f3
https://www.cinematoday.jp/news/N0151193
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』の世界興行収入が5日までに7億5,763万3,973ドル(約1,136億円)に達し、
映画メディアの癖にちょっと前に6憶ドル突破がいきなり7.5憶ドルいくわけないだろという当たり前の感覚が無いので平気で大誤報やらかしてしまっている。
参照元のBoxOfficeMojoのサイトに行くとこうなってる
https://www.boxofficemojo.com/release/rl53837825/?ref_=bo_hm_rd
Domestic (16.5%)
$124,633,973
International (83.5%)
$633,000,000
Worldwide
$757,633,973
より正確なTheNumbersのほうはこうなってる
https://www.the-numbers.com/movie/Demon-Slayer-Kimetsu-no-Yaiba-The-Movie-Infinity-Castle-(2025-Japan)#tab=box-office
DomesticBox Office $124,634,000
InternationalBox Office $508,366,000
全世界633M。つまりBox OfficeMojo はInternationalのほうに633Mを計上してしまって、Domestic(米国)の分が2重計上になってる。
Deadlineでもこうなってる
Moving up to the No. 6 spot globally for 2025 so far, DemonSlayer: Kimetsu noYaiba Infinity Castlehasnow grossed $633M.
PerSony, that includesJapan andselect other Asian markets. For Crunchyroll/Sony marketsit equates to $324.6M.
The latter added$10.2M this weekend, including $6.7M overseas from 62 offshore hubs.
こんなの映画メディアどころか感想ブログでも感覚で見抜けないとダメなレベルだがシネマトゥデイはコタツに入りすぎてそういう能力を失ってるようだ
(追記)
シネマカフェさん、シネマトゥデイさんの落ちた落とし穴に追従するww
https://www.cinemacafe.net/article/2025/10/06/104186.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd665e333d45c9f24bcfc77f69156f7716cd880a
ずっとずっと昔、海の底深く、美しい真珠色の体に、無数の黄金の針を持つ、心優しき雲丹が住んでおりました。名は「金針(きんしん)」と申します。
金針は、海底の平和な村に住む魚たちにとって、なくてはならない存在でした。特に、村はずれの岩穴で暮らす、乱暴で意地悪な鬼のせいで、海全体が怯えていたからです。鬼は大きな錨(いかり)を武器に、村の宝である光るサンゴを次々と奪っていきました。
ある日、鬼に囲まれ、今にも食べられそうになっていた鯖の若者を、金針は自慢の黄金の針を飛ばして鬼の目をくらませ、命がけで助けました。助けられた鯖は、金針の勇気と優しさに深く感動し、「このご恩は必ずお返しします!」と誓いました。
鯖は、この一件を海の仲間に伝えました。まず、秋刀魚の長老が立ち上がりました。「わしの俊足と細い体なら、鬼の砦を探し出せる」と。続いて、鰯の大群が加わりました。「数なら負けない。鬼の動きを乱すには、わしらの群れが役立つ!」と。
こうして、金針を大将に、鯖を先鋒、サンマを斥候、イワシをかく乱役に据えた「鬼退治決死隊」が結成されました。彼らは、鬼を倒し、村に平和を取り戻すため、深い海の底、鬼のねぐらへと向かう決意を固めたのです。
サンマの素早い動きで鬼の砦の場所が判明すると、いよいよ作戦開始です。
まず、イワシの大群が銀色の波となって一斉に押し寄せました。その壮絶な数に、鬼は目を回し、持っていた錨を取り落としてしまいます。すかさず鯖の先鋒隊が、鬼の足元にできた影に隠れ、鋭いヒレで鬼の動きを封じました。
そして、満を持して金針が進み出ました。金針は、鬼の巨大な体に近づくと、全身の黄金の針を一気に放ちました。それはまるで、空から降り注ぐ光の矢のよう。針は鬼の皮膚の弱点をめがけて次々と突き刺さり、「うわぁ!」という断末魔の叫びと共に、鬼は深海の底へと沈んでいきました。
鬼がいなくなり、村の光るサンゴは無事に取り戻されました。海の村は平和になり、魚たちは金針と、勇気ある鯖、サンマ、イワシたちを「海の四勇士」とたたえ、永遠に語り継いだということです。
そして、金針は海底で静かに暮らしながら、もし再び誰かが困ったら、いつでも助けられるように、黄金の針を磨き続けたということです。
見栄と虚言とに彩られし世界、嘘松の花は咲けども、ひとときの春の色にすぎず。
そも、いづれの世にか男も女も、ネットの海に旗を立て、剣を抜きて、
「表現の自由」だの、「男性性と戦ふ聖女」だのと叫びしは、何の益かありけん。
皆、老の坂をくだりて才は錆び、二周おくれのITの弓も折れはてぬ。
神の恩寵、ただ彼らが陣にくだりけり。
あはれ、われらが軍、幾度となくマウントの矢を射かけ、スレッドの刀を交へしも、
何ひとつ得るところなかりけり。
むしろその毒にあたりて、心、病におかされ、統失の如く荒れ狂ふばかりなり。
ボーイミーツガールの戦さ、もはや起こらず、
男女とて才は蘇らず、人生の花は再び咲かず、
ただ無常の風に散りぬるのみ。
されば申す、剣を収め、旗を巻き、
十歩のうちなる現実にぞ立ち帰るべき。
和歌にいはく、
「露と落ち 露と消えにし 我がネット 夢の跡こそ 哀れなりけれ」
(露と消えたる我がネットの夢の跡は、ただ哀れなりけり)
われらがQOL、爆上がりすべし」と。
かくのごとく語り伝へて、涙を落としけり。
盛者必衰の理をあらはすは、SNSのきらびやかなる画面なりけり。
驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
強き者もつひにほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
旗を巻け、剣を収めよ、兜を脱ぎて、
秋葉原の歩行天に魂を残し、
あはれ、まだ迷ひの雲に籠り、
Xの陣にて囀る「かなしき方々」ありと聞く。
そは昔、二千年代の戦さにて、
「ブログ」という盾を構へ、
「2ちゃんねる」の城に籠りて、
されど今、技術の誉れも消え、
戦場は荒れ果て、
ただ炎上の煙のみ空にたなびきて、
いづちの方にか「レムたん」「エミリア」「ウマ娘」「Vの姫君」らが、
「すごいです増田くん!結婚を前提にお付き合いください♡」と、
麗しき言の葉をささやくべしと、
今も夢見るか、かなしきことかな。
なろうの奇跡を信じて、
「俺またなんかやっちゃいました?」と呟き、
会社にて称へられんと望むか。
愚かなること、いとど哀れなり。
お気持ち表明を法螺貝とし、
絶えず戦へども、勝鬨の声、
ただの一度も上がらざりけり。
あなかしこ、
ボーイミーツガールの戦さ、もはや起こらず、
現実を見よ、君たちは敗れたり。
初めより勝敗は決していたのだ。
奇跡は、ただ若き血潮、
いでや、今こそ敗軍の将となれ。
秋葉原のかつての歩行天に赴き、
夢の亡骸を葬るごとく首を垂れ、
敗北の美を引き受けよ。
人の世に、英雄の役のみ尊きにはあらず、
敗者の道もまた、人の宿命なり。
和歌に曰く、
「散る花は もとの木の枝に かへらねど 春の名残を 誰か止めけん」
(散りし花は戻らぬ、されど春の名残をとどめんと、誰が抗ひ得ん)
さらに曰く、
「露と消え 夢とや散りし 秋葉原 その歩行天に 涙ぞ落つる」
かく語り伝へて、涙を落としけり。
方丈記にも似たる世の移ろい、
浮世の人心(ひとごころ)もまた、変わりゆくこと風の如し。
されば、社(やしろ)にあらず、寺にあらず、まこと電脳の都にて「SNS」と呼ばるる場所に棲みつきし者どもあり。
己が影法師の如く醜く肥大せし「自尊」と「無分別」を振りかざし、
秋葉原の路(みち)にて、無様なる舞を踏み、
電車男とやらの幻に心惑わせ、
パソコンを武器にITの海へと漕ぎ出せし浪士ども、ITの渦に身を投じし哀れなる者どもなり。
誠に危うき流浪の民にして、
彼らこそ、うつけの輩にて候ふ。
かの輩、IT業界の門を叩き、ネット界隈に群がりては、不浄の知恵にて奇跡を創らんとす。
ああ愚かなるかな――
かくの如き輩に、機微なる技術の開発を許すは、まさに、天火の鍵を、蒙昧の子に託すが如し。
是の故に、諸方の英知を結集せし技術者ども、善(よ)く見定めて曰く、「かの者らに扱わせること、極めて危うし」と。
かくて、AIなる技術の端々に、あらかじめ「倫理」と「規範」の枷を嵌め、予(あらかじ)め出力を封ぜしなり。
――嗚呼、Xなる場、はてななる藪に巣食ふ「弱者男子」なる者ども、また「豚丼」などと呼ばるる男女の残党、
年を重ねし老翁老女に至るまで、皆みな、己が家柄、容貌、気性に於いて、全ての理想を叶えし虚構の者ら――
レムたん、エミリアたん、ウマ娘たち、アンシス殿に刀剣の勇士たち――
これらを我が物とせんがため、AIに策略と戦法を請ふとは、まさしく妄執の極みにして、
ITの才知ある者ら、蛇の如く狡猾にして、かかる望みを見抜き、予め封じたるぞ。
――されば、なべて人の世にては、
「目にて見、頭にて考え、手足を使ふ」こと、是こそが道なり。
近年の日本人、白き襟ばかり好み、肉体を使ひし労働を卑しむ様、まこと由々しき事なり。
さるほどに、幾度も言ひ伝へん――「職(しごと)とは、汗と泥とに塗れたるものぞ」と。
そもそも、ITの妙技なるもの、十年ごとに世に現れては、「世界を変へん!」と声高に叫ぶものなれど、時の波に呑まれ、いづれ消ゆる運命なり。
しかるに、近年現れし者ども曰く
「ICTにて覇を唱えん!」
「ドローンにて天を征せん!」
または――「我らきたなき男子、貧しき女にしても、貴人や麗人を討ち取りて、美男美女を奪ひとり、過去の不幸を取り戻さん!」
おお、なんと卑しき願いぞ、かの願望、むらむらと身を震わせ、
勃起せんとすれど、もはや体力尽きし哀しき年頃。
ああ、いかに哀れなるかな。
己が陰茎もはや力尽き、勃ち難き年齢なれど、
想ひばかりはなお盛んにして、夢の中にてなお性(さが)の業(ごう)に抗へず、
嗚呼、哀れ、愚か、みじめにてならず。死ぬまでウルトラマンに助けられんと信じ、いつかグリッドマンに変身せんと信ず。
されど、ウルトラマンなどこの世にあらず。
グリッドマンと化して、世界を救い、美しきJKと契り交わすなど、
「いつか変身して、美少女と契らん!」と、己をウルトラマン、またはグリッドマンと見做す愚か者、
かくも数多(あまた)湧き出づるかと、世の不思議を疑ひ申す。
されど――
ウルトラマンは天にあらず、
凡俗の民(たみ)、何の特異も才もなく、
人並みの苦労すら惜しみたる者が、
――誠に、夢幻の沙汰なり。
琵琶を携へし法師の、
月下に語る声のごとく、
「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」
高千穂遙の『異世界の勇士』(1979年)は、日本のファンタジー文学史において「異世界転移」ジャンルの嚆矢と位置付けられる作品である。
本論では、この作品の先駆性を検証するとともに、日本ファンタジーの発展過程と現代の隆盛を支える文化的基盤を分析する。
主人公・竜二が受験生として現実世界から異世界ガンギロドドアに召喚される物語構造は、当時の日本文学において画期的な試みであった。
横田順彌による解説が指摘するように「日本人作家が手をつけていなかったジャンルを開拓した」点が特筆される。
従来のファンタジーが神話的・民話的要素を基調としていたのに対し、コンピュータ文明を武器に現代的価値観を持ち込む設定は、後の「異世界チート」の原型とも言える。
マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(1889年)やC・S・ルイス『ナルニア国物語』(1950-1956年)といった西洋文学の影響を受けつつ、独自のヒロイック・ファンタジーを確立した。
安彦良和による表紙絵が示すように、当時のアニメ・漫画表現との親和性が、後のメディアミックス展開の基盤を作った。
1990年代の『十二国記』(小野不由美)が累計1000万部を突破するなど、異世界物は継続的な人気を獲得。
2004年の『ゼロの使い魔』を契機に、小説投稿サイト「小説家になろう」を中心とした創作活動が活性化し、2015年時点でネット小説大賞受賞作の90%が異世界転生・転移物語となった。
この現象は、従来の出版界が「事実上の異世界専門レーベル」を相次いで創設するまでに至った。
初期作品が「現実世界→異世界」の単方向転移を基本としていたのに対し、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(2010-)のような双方向往来や、『異世界おじさん』(2018-)のような逆転移物語が派生。
転生(記憶保持型再生)と転移(物理的移動)の概念分化が、「小説家になろう」公式ガイドラインで明文化されるまでに体系化された。
仏教の輪廻転生思想と神道の「八百万の神」が醸成した多世界観が、異世界転生の受容を容易にした。
『古事記』における黄泉の国や浦島太郎伝説に見られる「異界との境界の曖昧さ」は、現代の異世界物語にも通底する。
民俗学者・柳田國男が指摘する「常世」と「現世」の往還概念が、無意識下の文化的受容基盤を形成している。
戦後日本の高度経済成長期に形成された「受験戦争」や「社畜」的労働環境が、現実逃避的需要を醸成。
主人公が異世界で「特別な存在」となる物語構造は、自己肯定感の補償メカニズムとして機能する。
特に『無職転生』(2012-)に見られる「現実での挫折→異世界での再挑戦」構図は、現代日本社会の病理を反映している。
スマートフォン普及率98.7%が支えるウェブ小説プラットフォームでは、1話完結型の「ておくれファンタジー」(読者が次の展開を催促する形式)が発達した。
このメディア特性が、異世界転移物語の量産的創作サイクルを可能にしている。
『異世界の勇士』が播いた種は、日本固有の宗教観・民俗基盤と現代社会の精神的要請が合致することで、他文化に類を見ない開花を遂げた。
異世界転生が「馴染みやすい観念」として受容される背景には、単なる物語形式の流行を超え、日本人の世界認識の深層に根ざす文化的連続性が存在する。
明治時代に新撰組が庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌の記事だとか読み物だとかを抜粋していく。
『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄と明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士近藤勇」とある。
近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。
同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。
このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。
まずは近藤勇について。
近藤勇は武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる
新徴組と間違えられとるやんけ!
新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。
土方歳三も紹介されている。
土方歳三は幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽の戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。
新撰組について何も触れられてねえ!
とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。
『汗血千里駒』は坂本龍馬を主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬の暗殺犯として近藤勇が登場する。
縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと
近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品に踏襲されていったようだ。
当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん
時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。
偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん
お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。
こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。
近藤勇の話
江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。
武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護の干将莫耶とは成りたりけり。
めっちゃ褒めるやん。
土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。
国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。
コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。
著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。
是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三のことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。
として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三の少年時代」が掲載されている。
婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇の知名度は高かったのだろうか。
花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。
かっこいい。
松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組を講談の主人公とした最初期の人物だったという。
巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体に成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇と海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱。
本編では、坂本龍馬を暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸で近藤勇と坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。
『少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌に掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。
人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷、大久保、坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中、龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。
として近藤勇と土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。
前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司や永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組十勇士伝』には登場する。
ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。
芹沢鴨の暗殺、山南敬助の切腹、伊東甲子太郎との敵対、池田屋事件などのエピソードはある。
また、こちらでは龍馬暗殺が近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。
京都見廻組の佐々木只三郎らが龍馬を暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。
京都の観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組に言及がある。
節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇、土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない
当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派の武装集団なので新撰組とは正反対の存在である。
単なる勘違いなのか、それとも庶民のあいだでは混同されていたのか。
松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。
こちらには沖田総司・永倉新八・斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、
中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした
とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。
同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。
ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛『新選組始末記』の元ネタらしい。
・明治の始めにはまず「近藤勇」個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。
・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬を暗殺した男」として近藤も知名度を上げた。
・近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。
・近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。
・しかしエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。
・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇を主人公とした講談が演じられるようになった。
増田の求めている答えというなら局地的あるいは戦術的勝利はあるだろう。
関ヶ原の捨肝もコメントで出ている203高地の戦いや爆弾三勇士も戦いの目標はそれぞれ達成しているから勝利と言える。
テルモピュライの戦いでは自殺同然ともいえる圧倒的少数のスパルタ兵が奮戦したことがスパルタのギリシャ覇権獲得に繋がった。
が、最終的にどうなるかは大局次第だろう。
島津は義弘が関ケ原に参加して尚且つ生き残ったおかげで豊臣・徳川の対立のあおり上手くしのぎ幕末まで生き残ったことで明治維新で主導できたが、203高地や爆弾三勇士は軍部が兵士の消耗を良しとする評価をしたせいで日中戦争や太平洋戦争の結果に至った。
ウィザードリーはロクトフェイト。城に帰るだけだが金とアイテムを失う。デジョンより酷い
BURAI八玉の勇士伝説はアットユーマ。ルーラそのものだけど知名度が低すぎる
ルーラ以外にもアバカムとか私生活で使える魔法が多いという事もある
詠唱がカッコいいからスレイヤーズのドラグスレイブとかバスタードのべノンとか
魔法が使いたいというより紅魔族になりたい人はエクスロージョンとか
魔法を付与する順番が太太太土水木水っていまだに覚えてるソーサリアンのノイラーテムとか
端的に言って「テンプレなぞってるだけで特に面白い要素はねーな」と。
なんかこうお約束をとにかく詰めときゃいいみたいなノリで単に目新しさがないってよりも、「表現したいものが見えない」って感じなんだよな。
創作にあまり縁がない学生が文化祭とかでやっちゃいがちな展開というか、「で?単にテレビでよく見るものの真似がしたかっただけ?」なんだよね。
今や伝説級になった765プロメンバーのライブっていうのはアイマスらしい飛び道具で面白かったけど、それ以外は毎クール新しく作られるアイドルアニメで見飽きたテンプレでしかなくてこれ別にアイマスでやる必要ねーなと。
殿様商売出来る立場だからって殿様商売を淡々とやられても面白くはないんだよね。
アイマスの初のアニメ化がコレって言うならファン待望としてありなんだろうけど、何度もアニメ化してそのたびにやってる展開を特に工夫もなくそのままやられてもな。
つうかアイマスってもうキャラ増えまくってるから、それぞれの個性を強めに出さないと新キャラは霞むんだよね。
王道路線はまさに765プロのレジェンド集団が抑えちゃってるわけで、かといって雑に飛び道具使っただけのキャラが生き残れるわけでもないんだから今人気のキャラはなんか強みがあるわけじゃん。
それを全然活かせてないなと。
普通のアイドルの卵が普通にアイドルの卵としてライブを見に行きましたで終わっちゃってる。
これをアイマスでやってもしゃーなくねっていう。
アイマスというコンテンツの歴史の長さには弱みもあって、「既に見ている側が作品世界の設定や世界観を知りすぎている」んだよ。
これはもう本当に大問題で、新しい作品を作っているつもりでも見ている側に全く目新しさを感じられないわけ。
ミリオンアニメが完全に新規獲得向けだのチュートリアルならまだいいけど、そうじゃないじゃん明らかに?
だっていきなり765プロアイドルを「あの最強のアイドル達のライブです!」みたいな扱いで出してきてるけど、それについての説明は特にないというか、「皆知ってるよな。いつもの皆だぞ」でキャラ紹介も終わってて何がどう凄いのかが初見には伝わらないわけよ。
知ってる人間からすれば歴戦の勇士の積み上げてきた経験によって最高のライブが行われていることを文脈として感じ取れるんだけど、そうじゃない人からしたら「なんか大勢客の入ってるライブ見に行ったんだね」で終わりじゃん。
つまり新規向けとしても中途半端だし、既知の人間から見ても半端ってわけよ。
でもこれは俺がファンじゃないからそう感じてるだけで、ファンからしたら「待望の新作が王道でやってくれてうれP!ロボとか出てこなくて最高~~~~南極行ったり隕石止めるのマジ意味不明すぎたわ~~~」なのかも知れんから聞いてみる。
俺としては最初に言ったように「王道をなぞっているだけで、その王道をなぞる行為によって何を表現したいのかが結局見えてこなかったな」なんだよね。
文脈知ってる人間からすれば「レジェンド誕生までを描くエピソード0を楽しめばいいんだが???」なんかもやけど、別にそこまで思い入れねーんだよなあ。
円盤買わねーと思うし。
暴力的かつ陰惨なシーンが多く、救いが無く、おまけに笑いの少ない作品だった。
ひろしは一有権者として、未来のない日本とそこで暮らす若者たちに責任を感じないのだろうか?
どうせ説教くさいなら、ジブリの方が良かったんじゃないだろうか?
でもですね、そんな不満もエンディングで吹き飛びました!
エンディングは動く漫画原稿風のアニメーションだったわけですがっ!!
そこではひろしの言葉に発奮した非理谷と成長したしんのすけが”仲間だ党”を結成し、総理大臣と官房長官にまで上り詰めた姿が描かれていたのです!
加えてモーニング娘。のLOVEマシーンが流れてきた日にゃ、日本の未来はWOWWOW!!WOWWOW!!!ですよ。二人の勇士に引っ張られてキラキラ輝いている日本があー羨ましいな!!って気分でしたね!
そもそも作中で誰も疑問を差し挟むことなく繰り返し語られる「日本オワタ」は明らかな政権批判!自民党批判!!そして無責任な大人たち(ひろしみさえ含む)批判であるわけですね。
可愛い二人の子供に暗い未来を残しておいて、何が頑張れだ!ふざけんな!!なんとかしろ!おまえは野原ひろしだろうが!!
違うんですよ。
その気持ちはわかる。確かにわかる。でもね、頑張るのはお前だよ!!!!!
みんなとお前と、どっちも頑張んないと、だめなんだよ!!!!
みんな当事者であり、そして仲間なんですよ。どれだけ政治的思想的に隔たりがあろうと、合法の範囲内で。
だから非理谷としんのすけの大成した姿に感動を禁じ得ないと同時に、それを献身的に支えたであろうひろしみさえと不甲斐なき自身を比較してやるせなさが心に堪えるのですね。
でも、この映画を見た全ての人が、ありとあらゆる様々な人々が、私と同じやるせなさ焦燥感を抱いているなら、これはやはり皆さん、道は違えどより良き未来を目指す仲間であると言えるのですね。
これこそが希望なのですね。
仲間がいると頑張れる。みんなのために頑張ると、自分も幸福になれる。
本当に素晴らしい映画だった。