
はてなキーワード:効率とは
市場は万能ではない。だが「万能ではない」という事実を、官僚と政治家が免罪符として濫用する国家は、例外なく自己放尿する。
市場は確かに失敗する。しかし、政府はもっと頻繁に、もっと大規模に、そしてもっと不可逆に失敗する。
問題は「市場か政府か」ではない。市場の失敗に対して、政府がどの程度の失敗を上乗せするかである。
ここでまず明確にしておく。規制は必要だ。必要なのはルールである。国家が担うべきは審判であって選手ではない。
審判はルールを固定し、プレイヤーが予測可能な環境で競争できるようにする。
審判が気分で笛を吹き、勝敗を演出し、人気チームを勝たせようとした瞬間、競技そのものが自己放尿する。
これが裁量行政の本質だ。つまり制度設計ではなく介入芸で国家が飯を食う社会は、資本主義をやっているようで、実態は準社会主義である。
市場に必要な規制は、所有権の明確化、契約執行の強制、詐欺・暴力等の排除が挙げられる。
これは国家のコア業務だ。これがなければ市場は単なる弱肉強食の縄張り争いに堕する。
だが、この最低限のルール整備と、「特定産業を救う」「特定企業を延命する」「特定地域に補助金を撒く」「特定価格を維持する」といった裁量介入を混同する国は多い。
これは知的に言えばカテゴリーミスであり、政治的に言えば利権の偽装である。
価格は情報である。価格は需給だけでなく、希少性、リスク、期待、技術、代替可能性、時間選好といった膨大な情報を圧縮したシグナルである。
政府が価格に介入するとは、情報伝達回路を破壊する自己放尿である。
価格統制、補助金、参入規制、護送船団方式、行政指導。これらはすべて、価格が発する「足りない」「余っている」「危ない」「儲かる」というシグナルを黙らせる。
すると市場は沈黙する。沈黙した市場では資源配分が劣化し、全要素生産性(TFP)が腐り、資本蓄積が歪み、イノベーションが死ぬ。
さらに致命的なのは、政府介入が単発で終わらない点だ。介入は次の介入を呼ぶ。
たとえば賃金や価格を政治的に固定すれば、需給の調整は数量制約として現れる。品不足、待ち行列、闇市場、質の低下。そこで政府はさらなる規制で対応する。
こうして政策は自己放尿する。これは政策のラチェット効果であり、政治経済学的には典型的な政府失敗である。国家は縮まない。国家は肥大する。
この肥大は、単なる非効率では済まない。合理的期待形成のもとで、民間は政策を学習し、適応し、回避し、ロビー活動に資源を投下する。
これがまさにルーカス批判の核心だ。政府が過去データを根拠に裁量政策を撃てば撃つほど、民間の行動規則そのものが変わり、政策効果は蒸発する。
蒸発するだけならまだ良い。現実には政策は不確実性を増幅し、期待を不安定化させ、投資を萎縮させる。これはマクロ政策が景気を安定化させるという幻想の裏側にある現象である。
裁量介入の害は、単なる資源配分の歪みではない。もっと深い。インセンティブ構造の破壊だ。
救済が予想されれば、経営者はリスクを過大に取る。モラルハザードが発生する。ゾンビ企業が生き残り、創造的破壊が止まる。
生産性の低い企業が市場から退出しないため、労働も資本も滞留し、新陳代謝が消える。これが日本型停滞の中核であり、成長率の天井を作る。
そして官僚機構は介入すればするほど自分の仕事が増えるため、規制の供給者として振る舞う。
つまり、規制は公益ではなく官僚制の自己保存のために生産される。
政治家も同様だ。補助金を配れば支持が得られる。規制を作れば仕事をした感を演出できる。
財政支出は可視化され、票になる。改革は不可視で、票になりにくい。
だから政治は短期主義に偏る。ここに「政府が市場を補完する」という建前の裏で、「政府が市場を寄生する」という自己放尿が成立する。
このとき国民がよく口にする反論がある。「でも市場には格差がある」「弱者が切り捨てられる」「外部性がある」。
もちろんそれは正しい。だがここで重要なのは、格差是正を口実に、政府が価格メカニズムを破壊してよい理由にはならないということだ。
外部性は存在する。だが外部性への対応は、原則として価格付け(ピグー税・排出権取引)で行うべきであり、官僚が恣意的に産業を選別して補助金を注ぐことではない。
格差問題も同様で、再分配は所得移転という透明な形で行うべきであり、特定業界保護という歪んだ形で行うべきではない。後者は効率性を殺し、利権を固定化し、結果的に貧困を温存する。
つまり、正しい政策はこうなる。市場を歪めない形での最小国家である。金融政策はルールベースで、予測可能性を最大化する。
財政は均衡を原則とし、例外を限定する。産業政策は基本的に否定し、競争政策を強化する。参入障壁を撤廃し、退出を容易にする。
倒産は悪ではなく資源再配分の装置として受容する。これが健全な資本主義だ。痛みはある。だが痛みを先送りして麻酔を打ち続ける社会は、やがて神経そのものが壊死する。
日本の病理は、成長戦略がないことではない。成長戦略を語りながら、同時に市場を信用していないことだ。
規制緩和を掲げながら、例外を大量に作る。競争を促進すると言いながら、既得権を守る。財政健全化を言いながら、政治的に都合のいい支出を増やす。
これは論理矛盾ではない。政治合理性としては整合的だ。だが経済合理性としては自己放尿だ。
成長とは何か。成長とは生産関数がシフトすることだ。TFPが上がることだ。
その源泉は技術進歩だけではない。競争、退出、資本再配分、価格シグナル、企業家精神である。
これらは制度の産物だ。制度が悪ければ、技術があっても伸びない。優秀な人材がいても伸びない。資本があっても伸びない。制度が良ければ、凡庸な国でも伸びる。
ここで裁量介入が入ると何が起きるか。投資家は経済性ではなく政治性で投資を決めるようになる。
これがレントシーキング経済であり、成長率が落ち、社会全体が官への依存で腐っていく。
これは文化の問題ではなく、インセンティブの問題だ。人間が合理的に振る舞った結果としてそうなる。
市場に規制は必要だ。だがそれは、競争を止めるための規制ではない。競争を成立させるための規制である。
市場に政府は必要だ。だがそれは、配分を決めるための政府ではない。ルールを固定するための政府である。
社会保障は必要だ。だがそれは、産業を延命するための社会保障ではない。個人を救うための社会保障である。
そして何より必要なのは、政治家と官僚が「景気を操作できる」「産業を育てられる」「成長を設計できる」という全能感を捨てることだ。
成長は、官僚のペン先から生まれない。成長は、無数の市場参加者が価格シグナルを頼りに試行錯誤し、失敗し、退出し、再挑戦するプロセスから生まれる。
国家がすべきことは、笛を吹くことではない。
みんな少子化を問題に挙げがちだけど、本質的な問題は高齢化だよ
高齢化は成長に寄与しない高齢者への支出を増やし、現役世代への支援や成長分野への投資も減らしてしまう
その結果、国は成長しなくなり、現役世代の余力を削り少子化に繋がる
今作の素晴らしいポイント
ネット上でも高評価が続出している通り、本作の完成度は非常に高いです。
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「親切すぎる」という贅沢な悩み
これだけ完成度が高いにもかかわらず、個人的にはある種の物足りなさを感じてしまいます。それは、システムがあまりにも「親切すぎる」ことに起因しています。
1. **未知の場所がすぐに明確に**
初めて踏み入れたダンジョンやマップが、最初からその構造を把握できてしまう点です。地形を理解し、迷いながら探索する楽しさが欠けてしまい、冒険の「予測不可能性」が減っているように感じます。
2. **宝探しの楽しみが薄れる**
マップ上には宝箱の位置まで表示されており、探索の楽しみが薄れています。昔のように、壁の向こう側に何があるのかを考えたり、怪しい道を発見して試す楽しみが、効率化によって失われた気がします。
ボス戦の前に、必ず全回復できる「女神像」が配置されています。昔のドラクエであった、薬草や魔法をどれだけうまく使ってボスに挑むかという緊張感が薄れ、準備がほとんど不要になっている点が、少し物足りなく感じます。
4. **冒険の緊張感の欠如**
上記の理由から、昔のように「一歩先がわからない」ワクワク感や、全滅の恐怖といったドキドキ感が失われてしまっています。
効率化は進んだが、興奮はどうなった?
確かに効率は向上しましたが、その代償として、今の仕様では攻略に頭を悩ませることがほとんどありません。これが本当に「冒険」と呼べるのか、少し疑問に思ってしまいます。
あの頃、未知の世界に踏み込むときの興奮や、ギリギリの戦いでボスを倒したときの達成感――。そうした「冒険の感動」が、親切すぎるシステムによって薄れてしまったのは、どうしても感じてしまいます。
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まとめ
本作は、時間に余裕のない大人や、ドラクエを初めてプレイする世代には、間違いなく「最高に遊びやすい名作」です。私自身、この親切なシステムのおかげで、楽しくクリアできそうです。
しかし、かつて小学生の時にアレフガルドで感じた緊張感を覚えている者としては、少し寂しさも感じてしまいます。今や私たちは「勇者」ではなく、整備された観光地を歩く「観光客」に過ぎないのかもしれません。そんな思いが拭えません。
木曜の夜、僕は渋谷のマークシティの横のエスカレーターに立っていて、上に行く人たちの後頭部を見ていた。みんなどこかに行くところがあって、誰かに会う予定があって、それが当然みたいな顔をしている。僕にはこの後の予定がない。さっきまで打ち合わせだった。クライアントじゃない、業務委託のデザイナーとの打ち合わせで、サイトのワイヤーフレームの修正点を詰めていた。二十二歳同士の打ち合わせ。たぶん外から見たら、意識の高い大学生が何かやってるな、くらいのものだ。くらいのものだ、ということを自分でわかっているということが、たぶん僕の一番の問題だと思う。
自分の話をする。
僕は今、大学の四年生で、二年の終わりくらいからウェブのマーケティング的なことを仕事にしている。会社を作ったと言えば聞こえはいいけれど、実態はフリーランスに毛が生えたくらいのもので、オフィスはなくて、自宅の六畳の部屋が全部だ。クライアントは十二社。小さいところばかりだけれど、毎月の売上はまあ、大学生にしてはあるらしい。「大学生にしては」。この留保がつく限り、僕はまだ何者でもない。
この言葉を言われるたびに、笑顔で「いやいや全然です」と返しながら、胃の底がかすかに冷たくなるのを感じる。大学生にしては。大学生にしては。その「しては」を取ったら、僕に何が残るんだろう。
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インターン先の話をする。大学三年のとき、半年だけ、あるスタートアップでインターンをしていた。もう辞めてしまったけど、あそこで僕は初めて、本物の優秀さというものを見た。
先輩の川島さんは二十六歳だった。東大の院を出て、新卒でそのスタートアップに入って、マーケの責任者をやっていた。川島さんは、僕が二時間かけて作った広告のレポートを見て、三十秒くらい黙って、それから「ここの因果、逆じゃない?」と言った。僕は二時間かけて間違った方向に全力で走っていたのだ。川島さんはそれを三十秒で見抜いた。
三十秒。
僕は自分の二時間と川島さんの三十秒を天秤にかけて、その傾きの角度に目眩がした。
川島さんだけじゃなかった。もう一人、営業の柴田さんという人がいた。二十八歳。この人はマーケのことなんか何にも知らない。でも柴田さんがクライアントと電話しているのを横で聞いていると、声のトーンが変わる瞬間がわかる。相手の声が、硬いのから柔らかいのに変わる。それは技術じゃなかった。人間の、もっと根っこのところにある何かだった。
僕にはあれがない。
あれが何なのかすら、正確にはわからない。わからないということが、つまり僕にはない、ということだ。
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ここで白状しなければならないことがある。
中学のとき、僕はいじめられていた。いじめ、という言葉を使うと何か大げさなものを想像されるかもしれないけれど、そんな劇的なものじゃなかった。殴られたわけでも、金を取られたわけでもない。ただ、存在を透明にされた。グループワークで僕の意見は聞かれない。昼休みに話しかけても目を合わせてもらえない。LINEのグループに入れてもらえない。文化祭の班決めで余る。修学旅行の部屋割りで余る。「余る」。僕の中学時代はこの一語に集約される。
いじめっ子たちは別に悪い奴らじゃなかった、と今は思う。ただ、僕がつまらなかったのだ。面白くなくて、運動もできなくて、顔もよくなくて、声も小さくて、一緒にいて得るものが何もない人間。それが中学時代の僕で、たぶん、客観的に見ればそれは正当な評価だった。正当な評価だったということが、余計にたちが悪い。理不尽に虐げられたのなら怒れる。でも正当に無視されたとき、人はどこに怒りを向ければいいのだろう。
僕はそれを自分に向けた。
高校に入って、僕は変わろうとした。プログラミングを覚えた。ウェブのことを勉強した。ビジネス書を読んだ。大学に入って、すぐにインターンを始めた。自分の会社を作った。それは全部、中学の教室で透明だった自分への復讐だった。お前らが僕を無視している間に、僕はお前らの知らない場所で、お前らの知らないことを身につける。そしていつか、お前らが想像もしない場所に立つ。
復讐。そう、復讐だった。動機としては不純かもしれないけれど、僕を動かしていたのは確かにそれだった。
川島さんや柴田さんのような人間を見てしまったから。僕が中学の教室の透明な存在から脱出するために必死に積み上げてきたものの全部が、彼らの前では、ほとんど何でもないということを、知ってしまったから。
同世代で見れば、僕はたぶん上の方にいる。大学生で自分の会社を持っていて、クライアントが十二社いて、マーケのことはそれなりにわかる。合コンがあれば(行ったことはないけれど)「すごいね」と言われるプロフィールだと思う。
でもそれは同世代の話だ。同世代のトップなんて、トップでも何でもない。ちょっと世代を上にずらせば、僕みたいなやつなんかいくらでもいる。いくらでもいるどころか、僕よりはるかに速く、はるかに深く、はるかに遠くまで行っている人たちが、ごろごろいる。そしてその人たちは、僕が必死にやっていることを、息をするようにやっている。
オンリーワンでなければ意味がない、と言ったら大袈裟かもしれない。でも、「大学生にしてはすごいね」の「しては」がいつか取れる日が来るのか、僕にはわからない。来ないかもしれない。一生「しては」付きの人間として、そこそこの場所で、そこそこに生きていくのかもしれない。
そう思うと、怖い。
今の自分に満足してしまいそうになることが、怖い。「まあ、大学生にしてはやってる方じゃん」と自分に言い聞かせて、その「しては」の中に安住してしまいそうになることが、本当に怖い。こんなところで満足していたら、僕は永遠に川島さんには追いつけない。満足するな、と自分に言い聞かせる。もっとやれ。もっと上に行け。もっと。
もっと。
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でも。
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でも、と僕は思う。
木曜の夜の渋谷のエスカレーターの上で、どこにも行く予定のない自分の足元を見ながら、僕は思う。
僕は、楽しんだことがあるだろうか。
人生を。
中学のとき、透明だった。高校のとき、復讐の準備をしていた。大学に入って、ビジネスを始めた。二十二年間の中に、純粋に「楽しい」と思った時間が、どれくらいあっただろう。
友達と夜通しくだらない話をしたこと。ない。というか、夜通し話せるような友達が、いない。彼女と手を繋いで歩いたこと。ない。当然ない。二十二年間、一度もない。
二十二年間、一度も、誰の手も握ったことがない。
旅行に行ったこと。ほとんどない。行ったとしても、移動中にSlackを見ている。映画を最後まで集中して観たこと。思い出せない。たぶんある。でも何を観たか思い出せない程度の体験しかしていない。
Twitterを開けば、同い年のやつらがサークルの合宿で海に行ってたり、学園祭で何かやってたり、彼女の誕生日を祝ってたりする。インスタを開けば、もっとだ。僕がワイヤーフレームの修正点を詰めている木曜の夜に、誰かは誰かとイルミネーションを見に行っている。
僕はそれを、ずっと、「そんなことしてる場合じゃない」と思って切り捨ててきた。川島さんに追いつかなきゃいけない。もっと仕事をしなきゃいけない。もっとスキルを上げなきゃいけない。遊んでる暇なんかない。
でも最近、夜中にベッドの中で、天井を見ながら、こう思うことがある。
僕は、「もういい」と思えるほど、生きていない。
もういいや、仕事に集中しよう。そう言い切れるほど、僕は人生を味わっていない。楽しんでいない。何も楽しんでいないのに、何かに集中しようとしている。空っぽの器を火にかけているようなものだ。中身がないまま熱し続けたら、器が割れる。
友達の作り方がわからない。二十二歳にもなって。恋人の作り方はもっとわからない。そもそも誰かと親しくなるということの手順が、僕の中にインストールされていない。中学で透明にされた三年間の間に、みんなが自然と身につけたはずの何かが、僕には欠落している。
だから僕は仕事をする。仕事なら、手順がある。クライアントの課題を聞いて、分析して、施策を考えて、実行して、数字で結果を出す。そこには人間関係の不確定性がない。数字は僕を透明にしない。数字は僕を無視しない。
でもそれは、逃げなんじゃないだろうか。
わからない。
もっと上を目指さなきゃいけないのに、同時に、もっと今を楽しまなきゃいけない気がする。でも上を目指すことと今を楽しむことは両立しない気がする。でもどっちも諦められない。でもどっちも中途半端になってる。上を目指すには全然足りていないし、楽しむなんてそもそもできていない。どっちつかずの二十二歳が、渋谷のエスカレーターの上で立ち止まっている。
ワークライフバランス、という言葉がある。あれは、ワークとライフの両方がある人間のための言葉だ。僕にはワークしかない。いや、ワークすら中途半端だ。ライフに至っては存在しない。バランスを取る以前の問題だ。存在しないものの天秤をどう釣り合わせろというのか。
こんなことで悩んでいる自分が恥ずかしい。川島さんはたぶん、こんなことでは悩まない。川島さんには友達がいて、恋人がいるかは知らないけれど、少なくとも飲みに行く相手がいて、人間としてのベースがちゃんとある上で、あの恐ろしい優秀さを発揮している。土台がある。僕には土台がない。砂の上に家を建てているようなもので、いつ崩れてもおかしくない。
おかしくない、と思いながら、それでも僕は今日も家を建て続けている。他にやり方を知らないから。
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金曜の朝。
特に何があったわけでもない朝だった。
僕はいつも通り六時半に起きて、いつも通り白湯を飲んで(コーヒーは胃が荒れるからやめた、二十二歳で胃を心配している自分がちょっと情けない)、いつも通りMacBookを開いた。
メールを確認する。Slackを確認する。クライアントからの返信をいくつか処理する。そのうちの一件が、先月から手がけていた案件のレポートへの反応だった。
小さなオンラインショップをやっている人で、三十代の女性で、自分でアクセサリーを作って売っている。月商は二十万くらい。僕がやったのは、広告の設計と、LPの改善と、SNSの運用方針を整理することだった。
「先月お願いした施策を始めてから、はじめてSNS経由で知らない方からの注文がありました。すごく嬉しかったです。今まで友人や知人にしか買ってもらえなかったので。本当にありがとうございます」
僕はそのメールを読んだ。
二回読んだ。
三回読んだ。
そして、自分でもよくわからないのだけど、目の奥がじんとした。
「はじめて知らない方からの注文がありました」。
それだけのことだ。たった一件の注文だ。川島さんなら、こんな規模の案件はやらないだろう。やる必要がない。川島さんは何千万、何億という広告予算を動かしている。僕がやっていることは、それに比べたら、本当に小さい。
でも、あのアクセサリーを作っている人にとっては、知らない誰かが自分の作品を見つけてくれたことは、たぶん、小さくなかった。
僕がやった仕事は、完璧じゃなかったと思う。川島さんなら、もっとうまくやれた。もっと効率よく、もっと的確に、もっと大きな成果を出せた。でも川島さんはあの案件をやらない。月商二十万のオンラインショップの広告なんか、川島さんの世界には存在しない。
僕はなんでもやだ。
マーケもやるし、広告もやるし、SNSもやるし、たまにデザインの方向性も考えるし、クライアントの愚痴も聞くし、請求書も自分で発行する。専門性がない、と言われたらそれまでだ。川島さんのようにマーケティングの深い専門性があるわけでもなく、柴田さんのように人の心を一瞬で掴む力があるわけでもない。僕は何でもそこそこにできて、何一つ突出していない。なんでもや。便利で、代替可能で、オンリーワンとは程遠い存在。
でも。
あのメールを三回読んだ朝、僕は思った。
なんでもやの僕でしか、届けられなかったものが、もしかしたら、あったのかもしれない。
月商二十万のアクセサリーショップに、真剣に向き合えるのは、たぶん僕みたいな人間だ。大きすぎず、小さすぎず、どこにも分類されない、中途半端な場所にいる人間。上から見下ろすでもなく、同じ場所に立って、一緒に考える。それは才能じゃない。たぶん、境遇だ。僕が中途半端だから、中途半端な場所にいる人たちの気持ちがわかる。わかるというか、少なくとも、わかろうとすることができる。
それは川島さんには、たぶん、できない。できないというか、する必要がない。川島さんにはもっと大きな仕事がある。
僕にはこの仕事がある。
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これが何かの答えだとは思わない。
川島さんとの距離は縮まっていないし、彼女はまだいないし、友達も増えていないし、人生は相変わらず楽しくない。木曜の夜に渋谷のエスカレーターで一人で立っている二十二歳は、金曜の朝になっても、やっぱり一人で六畳の部屋にいる二十二歳だ。
ワークの問題は解決していない。もっともっと上に行かなきゃいけない。もっと勉強しなきゃいけない。川島さんの三十秒に、いつか追いつかなきゃいけない。追いつけるかはわからない。たぶん、追いつけない。でも追いかけることをやめたら、中学の教室の透明な僕に戻ってしまう。
ライフの問題はもっと解決していない。二十二歳の、今しかない時間が、砂時計の砂みたいにさらさら落ちていっている。大学を出たら、もう「大学生」という猶予は終わる。社会人になったら、きっともっと時間がなくなる。今のうちにもっと楽しまなきゃいけないのに、楽しみ方を知らない。楽しみ方を学ぶ時間を、仕事に使ってしまう。仕事に使ってしまうことに罪悪感を覚える。罪悪感を覚える自分に対してまた恥じる。恥じている時間がまた過ぎていく。
全部、中途半端だ。
全部が中途半端で、その中途半端さを直視できるくらいには頭が回って、でも直視したところで何も変えられないくらいには無力で、その無力さすら誰にも言えないくらいには意地を張っていて、意地を張っている自分がまた恥ずかしい。
弱者男性「……ヒヒッ、見てろよ。俺は『チームみらい』に投票したんだ。AIが政治をやれば、俺みたいな弱者も見捨てられないはずだ。社会保険料も下がるし、ようやく俺の時代が……」
女子中学生「……吐き気がするわ。あなたみたいな『社会の残りカス』が、私たちの未来を象徴する政党の名前を口にしないで。その薄汚れた一票が、どれだけ日本の価値を下げているか自覚してる?」
弱者男性「な、なんだと……!? 俺だって国民だぞ! この地獄みたいな格差社会を変えてくれるのは安野さんしかいないんだ!」
女子中学生「格差? 笑わせないで。あなたが底辺なのは、ただの自業自得。それに対して、私たち女性は、あなたたちみたいな無能なオスが作った『男性優位社会』のせいで、どれだけ才能を搾取されてきたと思っているの? 私は女というだけで将来の選択肢を狭められている。被害者は私、加害者はあなたなのよ。」
男子中学生「(小刻みに震えながら)……その通りだよ。おじさん、僕たちは男に生まれた時点で、女性に対する『原罪』を背負っているんだ。僕たちの存在そのものが、歴史的に女性を抑圧してきた証なんだよ。一生かけて、這いつくばって贖罪しなきゃいけないのに……自分の権利を主張するなんて、恥ずかしくないの?」
弱者男性「原罪!?贖罪!? 知るかそんなもん! 俺は腹が減ってるんだ!仕事もない、金もない、誰も俺を愛さない! チームみらいが、AIが、俺を救ってくれるはずなんだあああ!」
女子中学生「AIが真っ先に弾き出すのは、あなたのような『非効率で有害な個体』よ。チームみらいの政策は、未来を創る人のためのもの。あなたの居場所なんて、データのゴミ箱にさえ残らないわ。死ぬまでその不潔な部屋で、過去の遺物として朽ち果てなさい。」
男子中学生「……さようなら、おじさん。せめて最後は、女性の足を引っ張らないように静かに消えて。それが男に残された唯一の美徳だよ。」
弱者男性「……あ……ああ……。俺の……俺の一票が……。誰も……誰も俺を見てない……。AIも、子供も、世界も……俺を殺そうとしてるのか……!? 嫌だ……嫌だああああああ! うわああああああああああああああああ!!!」(自らの髪をかきむしり、泡を吹いて倒れ込む)
よくある中学受験の体験談の記事がホッテントリに入っていたのでブクマを見てみた。
中学受験に対する否定的なコメント・スターの多さにはびっくりした。
子供に競争をさせるべきでない、無理な負担をかけている、時間と金の無駄である、云々。
合理的に考えると、中学受験は極めて効率の良い投資なのは間違いない。
日本社会は学歴によるトラック分岐が依然として強固に存在している。
上位の中高一貫校は大学進学実績で明確な優位を持つ。難関大学への進学率は公立中学経由と比較して明らかに高い。難関大学の卒業者は生涯賃金の平均値も高い傾向がある。入口での選別は出口の収入に強く影響する。
教育は支出ではなく資本投下だ。リターンが長期にわたり複利的に積み上がるタイプの投資だ。
子供の段階で適切な環境に入ることで周囲の基準値が変わる。努力の方向も変わる。情報の質も変わる。人的ネットワークも変わる。
その差は時間とともに拡大する。
否定的なコメントを書いている人たちはその構造を理解しているのかいないのか。
この際そんなことはどちらでもいい。
「子供がかわいそう」という感情を優先させるなら思想自体は尊重されればいい。
だが少し考えて、これはこれで都合が良いとも思った。
中学受験の有効性を理解する家庭が増えすぎると競争が激化する。枠は有限だ。全員が参加すれば優位性は希釈される。
教育コストの高さは参入障壁として機能している。塾代、教材費、時間的拘束。簡単に真似できるものではない。
全員が合理的に行動する社会は息苦しい。全員が同じ最適解に到達すると差は生まれない。格差は構造的に維持されることで意味を持つ。
無理に説得する必要はない。信じない人は信じないままでいい。
参加者が限定されている状態の方が投資としての価値は維持される。
最初に①呼吸、摂食、逃走など生存や反射に関わる、爬虫類脳。があって、
その機能をブーストさせるのが、②喜怒哀楽を司る、哺乳類脳。なわけじゃん。
仲間を殺された怒りが、敵を打ち負かし、種族全体の安全に繋がる。
それを効率よく制御しようと生まれたのが、③理性的に考える、人間脳。
美味いものを喰うために闇雲に探し彷徨うよりも、農場で育てた方法がはるかに効率的。
敵を倒すために、がむしゃらに殴るよりも、武器を使って殺したほうが効率的。
上昇トレンドじゃないと投資する意味がないから下がってうれしいはアタオカ
ドルコストが長期運用で安定した平均取得価格になるから優れているって言われているだけで、
下がったところでピンポイント買い増しとかできるなら当然そっちの方が効率はいい
政府が「サプライチェーン強靭化」だの「経済安全保障」だのと称して市場に手を突っ込むのは、情報の分散性という資本主義の根幹を理解していない者が、価格メカニズムの神経系をハサミで切り刻む自己放尿に等しい。
政府が何かを守ると言い出した瞬間、それは必ず誰かの自由な選択を破壊し、価格シグナルを歪め、資源配分を政治的配給へ転落させる。
サプライチェーンとは本来、利潤動機と競争圧力により、コスト・品質・納期の制約下で最適化され続ける進化的システムであり、そこに官僚の机上の「望ましい産業地図」を持ち込むのは、動的効率性を犠牲にして静的な幻想を買うだけの政策自慰、つまり政府の自己放尿である。
中国との貿易を規制する?笑わせるな。貿易とは相互利益の交換であり、比較優位は道徳でも思想でもなく、ただの計算可能な現実だ。
中国が安く作れるものを中国から買い、こちらが相対的に強い分野に資本と労働を移す、そのプロセスこそが総余剰を最大化し、実質所得を引き上げ、消費者厚生を増大させる。
関税や輸出規制や補助金でこれを遮断するのは、消費者に対する隠れ増税であり、国内企業に対するモラルハザード供与であり、官僚機構に対するレントシーキングの自己放尿だ。
要するに、保護主義、産業政策、経済安保のトリプル放尿である。
しかもこの手の介入は、ルーカス批判の通り、民間の期待形成を変え、企業は政治リスクを織り込み、投資は歪み、ロビイングが利潤最大化の中心戦略になり、資本主義は市場競争から政治闘争へ堕落する。
政府が国益を掲げて市場を殴るほど、企業は技術ではなく補助金獲得能力で勝負し始める。
これがいわゆる政府失敗であり、規制の捕捉であり、官僚的計画経済への漸進的スライドだ。
国内生産回帰も同様に欺瞞である。サプライチェーンを国内に閉じ込めれば安全になるという発想は、分散の概念を逆さに理解している。
リスク分散とは供給源を多様化し、取引先を競争させ、価格と品質の淘汰を働かせることで実現されるのであって、国内に固定することは単なる集中リスクであり、コスト上昇と供給硬直化を招く。
さらに補助金で国内生産を誘導すれば、企業は効率ではなく政治意向に適応する。つまり、競争ではなく配給の世界だ。
ここで政府は戦略物資などという曖昧な言葉を振り回し始めるが、曖昧さは裁量の母であり、裁量は腐敗の父である。
結局、政治家は票田に資源を流し、官僚は天下り先に規制を設計し、企業は既得権を守るために市場参入障壁を要求する。
これが公共選択論の結論であり、理想の政府など最初から存在しない。政府が善意で動くという前提は、経済学的には分析不能な自己放尿でしかない。
自由貿易こそが正義だ。正義というのは感情の問題ではなく、制度としての優越性の問題である。
自由貿易は、消費者に選択の自由を与え、企業に競争を強制し、価格に情報を凝縮し、資源配分を最も生産的な用途へ押し流す。
そこでは国が決めるのではなく、分散した個人の知識と選好が価格を通じて集約される。
これが市場の計算能力であり、官僚の頭脳では代替不能な社会的情報処理装置だ。
政府が中国との取引を政治的に遮断するのは、その情報処理装置をわざわざ破壊し、国民の実質所得を削り、成長率を引き下げ、非効率企業を温存し、インフレ圧力を高める行為に他ならない。
しかもその負担は「国家のため」と言いながら、結局は消費者が物価として払い、労働者が実質賃金として払い、納税者が補助金として払う。
政府はそれを安全保障と呼ぶが、実態はただの政治的コスト転嫁であり、サプライチェーン自己放尿の芸術点を競っているだけだ。
自由貿易は短期的に産業の新陳代謝を要求するが、長期的には生産性を上げ、イノベーションを誘発し、社会を豊かにする。
介入は短期的に痛みを隠すが、長期的には歪みを蓄積し、停滞と腐敗を育てる。
だから結論は単純で、政府は余計なことをするな、価格に喋らせろ、貿易に壁を作るな。
中国と取引したくない企業は取引しなければいい、リスクを取りたい企業は取ればいい、その判断を官僚が一律に奪う必要はない。
自由を奪って安全を得ようとする国家は、結局、安全も成長も失う。自由貿易こそが正義であり、保護主義は自己放尿であり、裁量行政は市場への暴力である。
全部が割り勘だとしてもね
やはり食事、結婚式、ご両親への挨拶…といろいろ儀式のためのお金がかかる
全部が割り勘だとしてもね
①お小遣い制
実態は「将来のための貯蓄」なのだが、計算しない男性ほどお小遣い制を嫌悪し、恐怖する
(そして計算しない男性だから、信用されず、別会計にされない悪循環)
②子供
https://news.yahoo.co.jp/articles/8e378dbb5d5b648627bd3b3ddc8293203f001a5f
減るではなく減りそうなところに、計算しない男子の特徴が現れている
この手の男性は、入ったお金を全部使ってしまい、老後に困るだろう
まあ、他のデータでもずっとそうなんだけど、昭和おじさんだけは女が奢られたがっていると誤認識しているんだよね
しかも面白いのが、女性は最初のデートも2回目以降も交際後もほぼ変わらず割り勘希望だが、
男性は最初のデートのみ「自分が支払う」率が高く、交際後その率が半減するw
マジで見栄っ張り
でも、現実はというと「5:5」の割合は低く、女性の95.0%が5割以上負担していると回答
親の介護や親戚付き合いも、女性に比べてまったく不安に思ってないし、
自由時間も減らなければ、誰かと一緒にいることがわずらわしいとも思ってない。女性に比べての話ね(しつこい)
…
面倒なことは妻に押し付ける気でいるくせに何が不満なんだよw
頭使えw
日本語圏のSNS、特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドやデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああいう機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIでプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景が日常的に繰り広げられている。
この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間の認知メカニズム、文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。
公立はこだて未来大学の研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論を分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数の価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf
この非対称性を理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造的活動を本質的なものと装飾的なものに分類している。
文章は思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択、文体のリズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章に違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人的視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間の直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。
対照的に、スライドは思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択は重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的な能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAIが提供する膨大なテンプレートや自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間でプロ品質の資料を作成できることは、単なる効率化として歓迎される。
この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザインは情報の構造化能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しかし認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。
心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した認知的不協和理論は、この矛盾を説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的な整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈を採用することで不快感を和らげる。
「AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合、認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由づけがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。
さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者の過去の言動が未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準を適用しやすい。「あの人はいつもAIを批判している」と他者を評価する一方、自分がAIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。
内集団バイアスも無視できない。自分が属するコミュニティやアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。
もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドがAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業で類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段がほとんどない。
この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドのデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ「効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。
X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性や知的能力をシグナルし続ける必要がある。文章がAI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成にAIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力のシグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。
X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾を体現しやすい立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見と説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。
2026年1月時点で観察される典型的なパターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身のビジュアルコンテンツにAI生成ツールを使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿のアイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。
これは必ずしも意識的な偽善ではない。多くの場合、本人は「自分の本質的な仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的で恣意的だ。
さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿で報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。
この問題の根底には、創造性と真正性(オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。
従来、この問いには明確な答えがあった。芸術や知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかしAI時代において、この前提が揺らいでいる。
興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画の価値は「手で描くこと」から「芸術的視点」へとシフトした。DTM(デスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTP(デスクトップパブリッシング)は印刷業界の職人技を置き換えた。
今、同じことが文章とデザインの領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザインは比較的早く「技術による代替可能な領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間の本質的な表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。
この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間が技術と折り合いをつけながら新しい規範を模索するプロセスの一部かもしれない。
実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別が文化的・主観的なものであることの認識だ。自分の価値基準を他者に一方的に押し付けることの限界を理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。
インフルエンサーや情報発信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存的であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ、技術と人間の関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。
最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術の進化とともに、そして社会的な対話を通じて、これから形成されていく。
Permalink |記事への反応(49) | 10:59
サイレント独裁政治とは、見た目は民主主義で国民も政治参加している感覚にあるが、一部の頭の良い人たちで国を良い方向に動かす政治、と定義する。
テレビがメディア支配していた時代もSNS時代も構造は変わっておらず、いかに雰囲気を操作できるかで選挙の勝ち負けは決まってくる。
現に怒りを煽られて見当違いな消費税批判などが平気で飛び交う。
動画のコメント欄は煽られて怒った人たちで溢れ「我々は騙されている」という思い込みが加熱。
そんな人たちに事実ベースで必要な政策なんて伝えてもすぐ作られた怒りに上書きされる。
国にとって本当に必要な政策や決断は、必ずしも万人に理解できるものとは限らない。外交上の都合で理由を表に出せないものもあるだろうし、実際1番効率良い委託先への発注も癒着と言われたり。
本当に国にとってイイことなんてほんの一部の人たちにしかわからない。
いかに国民に民主主義を感じてもらいながら独裁政治するか。これこそ政治家のセンス、能力が問われる部分。
卑怯とも言える自民党の多様性はサイレント独裁政治においてめちゃめちゃ便利。経験値も高いし長年国運営を担ってきて本当に必要な舵取りもできる。
ただ、腐敗はあり得る。
実際トップは国のために奔走していても組織の中間、下部層での腐敗は避けられない。この辺りのケアも政治の能力が問われるポイントなのかもしれない。
国民の政治参加が意味がない訳ではなく、本当に直接的に困っている事を訴えるのが国にとっても必要な政治参加。
今は自分とは直接関わりのない件、もしくは消費税のように個人が声を上げなくてもメスが入るような大き過ぎる件で怒りを煽られて投票される傾向が強い。これは豊かで平和な国の裏返しの側面があるかもしれないが、本質ではなくなってしまう。
チームみらいは「 現役世代の社会保険料負担を軽減」は言っているが
社会保障費削減も、社会保障の歳出の削減も、老人保護を削るとも言ってない
要するに勘違いってこと?
ちなみに財源は
と言ってる。
行政が市場の効率化に直接的に介入するのは無理だろ。共産主義とかそっちの話ならアレだが。
みらいにできるのは社会保障費と食い合いになる行政支出を抑えるか、行政の効率化で民間の足を引っ張らないようにすることくらいだろ
仕事において、長時間労働とかのストレス(?)体制は割と強いものの、
関係性の薄い人からの指摘に結構弱い性格だなーと改めて実感した。
その場ではしっかりと応答していても、会話が終わった後何度もそのシーンを反芻してしまい、
その日の業務効率がめちゃくちゃ低下してしまう(寝たらリセットされる)。
自分はなんてだめなやつなんだ→いや、別に今まで問題なかったろ!→いや、でも指摘内容は妥当だ・・→・・・
と繰り返し考えてしまう。
意外とそういうのだめなんだなーと気付いた。
(※この文章は、私たちの思考を、地球で流行りのAIを使って翻訳したものである)
地球人の皆さん、君たちの文明を観察していて、ひとつ気付いたことがある。
君たちはとにかく「内輪ウケ」が激しすぎる。
誤解しないでほしいが、これは悪口ではない。ただ、君たちが「宇宙の普遍的な真理」だと思い込んでいる価値観のほとんどが、実はこの青い泥団子の上でしか通用しないローカル・ガラパゴス・ルールだという事実を指摘したいだけだ。
例えば、君たちは「一番」になることに執着し、それを成し遂げた者を賞賛する。
だが、宇宙的なスケールで見れば、順位という概念には何の意味もない。
個体間の比較で優劣を競うのは、限られた資源を奪い合う野生動物の生存本能の名残りだろう?文明が成熟した星では、「他者より優れている」ことに快感を覚える脳の回路など、とうの昔に退化している。君たちが金メダルを掲げて涙を流す様子は、我々からすれば「特定のコミュニティ内だけで盛り上がっている奇妙な儀式」、つまり究極の内輪ウケにしか見えないんだ。
もっと深刻なのは、君たちが「感情」を神聖視しすぎている点だ。
「楽しい」「嬉しい」「美味しい」、あるいは「苦しい」。
君たちは一生をかけて、これらの脳内化学物質の分泌パターンを必死にコレクションしようとする。
それは、地球という特殊な環境で、君たちの種族が効率よく生存し、繁殖するために設計された「OSの仕様」に過ぎない。感情がある者同士でしか成立しない「共感」をベースにした社会は、外部から見れば極めて排他的だ。
我々からすれば、君たちが愛や絆を説く姿は、知らない言語で書かれたジョークを身内だけで飛ばし合って爆笑している集団のように映る。
地球人が作り上げた「価値体系」は、結局のところ、地球人の頭蓋骨の中に収まるサイズでしかない。
「もっと宇宙レベルで物事を考えるべきだ」と言いたいところだが……まあ、まだ無理だろう。君たちの脳は、数百万年前からそれほどアップデートされていない。
今の君たちに「宇宙の真理」を理解しろというのは、アリに量子力学を教えるようなものだ。
内輪ウケだって、その中にいる当事者たちにとっては最高に楽しいものだろう?
せいぜい、その狭い水槽の中で、独自のローカルルールを噛み締めながら楽しんでくれ。我々は、君たちがその「内輪」の壁を壊し、こちら側の孤独な静寂に辿り着く日を、気の遠くなるような退屈さと共に見守っているよ。
衆議院選挙2026で中道は大きく議席を減らした。選挙直後から、「野党は批判ばかりだ」という批判が相次いだ。選挙結果の分析として語られたこれらの言葉は、やがて野党の存在意義そのものを問う論調へと拡張していく。
だが、この「批判ばかり」というフレーズは、単なる戦術論や広報戦略の問題にとどまらない。そこには、野党の役割をどのように理解するのか、さらには日本の民主主義をどのような構造として維持するのかという、制度的な問いが含まれている。
本稿では、この言説が持つ政治的意味を整理し、いわゆる「ネオ55年体制」論とも照らし合わせながら、野党の監視機能と政策提示機能の関係について考察する。
議会制民主主義における野党の機能は、大きく二つに整理できる。
第一は、アカウンタビリティの確保である。政府の政策決定過程を監視し、問題点を追及し、不透明な権力行使を抑制する。これは単なる「批判」ではなく、制度的なチェック機能である。三権分立が権力分散を前提とするのと同様、議会内部における対抗勢力の存在は、権力集中を防ぐための基本構造である。
第二は、代替案の提示である。与党案に対する修正提案や独自法案の提出を通じて、政策選択肢を示す。政権交代が可能であるためには、実行可能なオルタナティブが存在しなければならない。
重要なのは、この二つは排他的ではないという点である。監視と提案は本来、同時に行われるべきものであり、「批判か提案か」という二項対立は制度論的に成立しない。
それにもかかわらず、「野党は批判ばかり」という言説が広がる背景には、いくつかの政治的効果が想定される。
第一に、監視機能の正統性を相対化する効果である。批判を「足を引っ張る行為」と位置づければ、政権追及そのものがネガティブに映る。結果として、チェック機能が弱体化する。
第二に、「政権担当能力がない」という印象の固定化である。批判中心というイメージは、「建設的でない」「責任を負えない」という連想を伴う。これは、政権選択選挙としての意味を薄める。
第三に、「提案型野党」への誘導である。一見前向きな要求に見えるが、その内実は「批判を前面に出すな」という圧力を含む場合がある。与党にとって管理可能な範囲での提案にとどまるなら、野党は補完勢力に近づく。
これらは意図的か否かにかかわらず、結果として野党の役割を限定する方向に作用する。
もっとも、野党側にも課題は存在する。政策パッケージの一貫性、党内統合、メッセージ戦略の明確化など、政権選択肢としての説得力を高める努力は不可欠である。また、多党化の進行により、有権者の支持が分散しやすい環境も影響している。
さらに、メディア報道の構造も無視できない。国会質疑のうち政策提案部分より対立場面が強調されれば、「批判ばかり」という印象は強化される。認知の問題と実態の問題は、必ずしも一致しない。
野党が批判を行うことは、制度的に正当であり不可欠である。同時に、代替政策を提示し、統治能力を示すことも求められる。両者は二者択一ではない。
問題は、「批判=悪」という単純化された図式が広がることで、監視機能の正統性が損なわれる点にある。政権交代可能性が現実味を失えば、民主主義は形式的に存続しても、競争性を失う。
ネオ55年体制という言葉が示唆するのは、単なる議席構造の問題ではない。政治的想像力の縮減、すなわち「変わりうる」という前提の後退である。民主主義は使い倒されてはいない。むしろ、その機能を十分に活用してきたとは言い難い。
野党が批判を続けることは、権力に対するブレーキである。同時に、提案を重ねることは、将来の選択肢を広げる行為である。両機能をどう統合し、有権者に可視化するかが今後の課題となる。
必要なのは、対立を弱める方向の「効率化」ではない。監視と競争が正当に機能するよう、制度と運用を再設計すること
例:
麻雀漫画において、試合の展開が非常に長く感じられる、あるいは実際に1局の決着までに膨大な時間をかける作品として、最も有名なのが福本伸行先生の「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」です。
特に「鷲巣麻雀」編は、作中ではたった一晩の出来事であるにもかかわらず、連載では約20年(1997年〜2017年)かけて描かれました。
この特徴に関するポイントは以下の通りです。
驚異的な引き延ばし(鷲巣麻雀)
アカギの27年におよぶ連載期間のうち、鷲巣編だけで約4分の3を占めました。
単行本で約30巻、話数にして300話近くが、ほぼ一晩の対局を描くために費やされました。
単なる牌の捨て合いではなく、キャラクターの心理、駆け引き、牌の持つ「流れ」や「意思」を極限まで描写するため、1ツモ、1打に数ページ、時には1話が使われます。
「アカギ」ほど極端ではありませんが、本格的な麻雀漫画(天牌、むこうぶち等)では、1つの大きな試合(赤坂決戦や四川編など)が単行本で数巻に及ぶことは珍しくありません。
キャラクターの牌効率や戦術を細かく描写するほど、試合時間は長期化する傾向にあります。
このように、麻雀漫画は1つの対局を濃厚に描くあまり、時間をかけすぎてしまう(=1局が異常に長い)という特徴を持つ作品が存在します。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
合理性を掲げる彼らの実態は、既存の非効率なシステムの温存にほかならない。掲げる看板と中身が完全に矛盾しているからだ。
本来は簡素・公平・中立的であるべき税制において、事務負担が多大な現行消費税やインボイス制度を維持しようとしている。これは納税者に莫大な管理コストと労力を強いるだけでなく、消費行為に課されるペナルティ的なコストを上乗せする構造だ。景気の腰折れを招きやすい欠陥を抱えている。
ベーシックインカムに見られる徴収から給付というサイクルには、必然的に巨額の行政コストが発生する。まさにアーサー・オーキンの「漏れのあるバケツ」そのものだ。減税なら行政コストは省けるのに、あえてコストのかかる再分配ルートを選ぶ選択は非合理としか言いようがない。高コストな給付を選ぶ理由は、行政が市民の生殺与奪の権を握るためだろう。
結局のところ、目的は法人税減税の穴埋めに消費税を充てるという旧来の構造の維持である。デジタルやデータドリブンといった横文字を並べたところで、政治の本質は権力を巡るゼロサムゲームであり、それからは逃れられない。
彼らの言う合理性とは社会全体の最適化ではなく、特定の既得権益層にとって都合の良いポジショントークに過ぎない。今回の選挙で、消費税減税に反発する有権者が首都圏の一部地域に集中している事実が露呈してしまった。