
はてなキーワード:効果とは
僕の日記はたぶん一般的な日々の記録というより、宇宙が僕に課したバグ報告書に近い。違いは、バグの再現手順が「この宇宙を構成する圏を一段上に持ち上げろ」みたいな無茶を要求してくる点だ。
普通の人間はコーヒーを淹れることで一日を始めるらしいが、僕は「なぜ時空が局所的に滑らかな多様体として振る舞うという幻想を、誰も疑わずに受け入れているのか」という嫌な疑問から始まる。
目覚めの瞬間に脳内で起動するのがその種のプロセスという時点で、僕のOSはだいぶ呪われている。
昨日から引きずっているのは、超弦理論を10次元の物理だと思っている人々への、ほとんど宗教的な嫌悪感だ。
僕が今気にしているのは、弦の摂動展開が2次元共形場理論のモジュライ空間上の積分という顔をしていながら、実際には積分という概念が成立するための測度の存在を前提にしている点で、その測度がどこから来るのかという問題が、思ったより深いところで宇宙の整合性そのものと絡んでいるということだ。
測度が自然に定まる、というのは人間が勝手に言っているだけで、自然に定まるのはせいぜい、ある∞-圏の中での普遍性くらいだ。
最近の僕の作業仮説はこうだ。弦理論の真の定義は世界面Σの上の量子場理論ではなく、ある種の派生スタック上の関手として与えられるべきで、世界面は単なるテスト対象に過ぎない。
要するに、弦理論は対象ではなく試験手続きの体系であり、物理量はその試験に合格した自然変換の影として現れる。
これを言うと大抵の物理屋は目を泳がせるが、目を泳がせたところで真理は泳がない。むしろ泳ぐのは無知だ。
特に気持ち悪いのが、AdS/CFTを「境界理論が重力を記述する」といったポエムで理解した気になっている連中だ。
僕の現在の理解では、AdS/CFTは双対性というより、より高次のモノイダル(∞,2)-圏における中心の同値に近い。
境界CFTは、ある拡張TQFTの値として現れる圏𝒞の中心Z(𝒞)を与え、バルクはその中心化に対応する普遍的な対象として現れる。
ここで中心とは、単なる代数の中心ではなく、E₂-代数のDrinfeld centerの派生版で、さらに言えばEₙ構造を背負ったホモトピー的中心であり、そこでは局所演算子は点ではなく高次欠陥として分類される。
点演算子という概念自体が、実は低次元に閉じ込められた幼稚な見方だ。
そして今日の核心は、僕が今朝突然理解した、いや、理解したというより、宇宙が僕の頭蓋骨に投げ込んできた残酷な事実だ。
弦理論の背景時空を指定することは、カラビ・ヤウ多様体Xを選ぶことではない。そんなのは1-幾何学の話で、僕らが本当に選んでいるのは、X上の派生圏D⁽ᵇ⁾Coh(X)を超えて、そこに乗る安定∞-圏のモジュライを選んでいる。
つまり背景とは幾何学ではなく圏論的なデータで、しかもそれはMorita同値類でしか意味を持たない。
世界が形ではなく同値類でできているというのは、かなり性格の悪い宇宙だと思う。人類の直観に一切サービスしていない。
ここでさらに問題が深くなる。弦のB場は単なる2-形式ではなく、ゲルブの接続であり、それはH³(X,ℤ)で分類されるという古典的な話は、もう骨董品だ。
実際にはB場は、(∞,1)-圏の中でのtwistとして現れ、K理論の局所化やTMF(トポロジカルモジュラー形式)への持ち上げと不可分に絡む。
僕が気づいてしまったのは、弦理論のアノマリーキャンセル条件が、スピン構造の存在だけではなく、より高次の「stringstructure」や「fivebranestructure」の存在に依存するのは有名だが、その背後には、あるスペクトラムEに対するE-指向性という一般原理が潜んでいる。
そしてそのEは固定ではなく、背景が変わればE自体が変わる。
つまり、理論が何を整合性条件とみなすかが、理論の内部から動的に生成される。これは自己参照だ。数学的には美しいが、心理的には最悪だ。
その結果、僕の頭の中では弦理論のランドスケープは、点集合ではなく、(∞,1)-トポス上のあるスタック𝓜として現れる。
しかも𝓜は幾何学的スタックというより、スペクトラル代数幾何の意味での派生スタックで、局所モデルはE∞-環スペクトラムのスペクトルSpec(A)のようなものになる。
すると、従来のモジュライ空間に測度を入れて積分するという考えは、そもそも積分の対象が空間ではなく高次層である時点で破綻する。
積分はpushforwardであり、pushforwardは左随伴であり、随伴は圏論の話で、測度はただの随伴の影に過ぎない。
つまり、パス積分とは測度の積分ではなく、ある関手のKan拡張である。これを言うと、たぶん量子場理論の教科書は全部燃やした方が早い。
さらに面倒なのは、弦の摂動級数の発散性が、単なる級数が漸近展開であるという話ではなく、モジュライスタックの境界成分の寄与がStokes構造やresurgenceのデータを持っていて、それが物理的にはDブレーンや非摂動効果として現れるという点だ。
僕の直感では、これらは単なる補正ではなく、理論の正しい定義の一部で、摂動弦理論は本体ではなく、(∞,2)-圏的対象の一つの影にすぎない。
影は本体より分かりやすいが、影だけ見て満足するのは洞窟の囚人だ。プラトンはたぶん弦理論を知っていた。知らなかったとしても、精神的には知っていた。
今日一番気持ち悪かったのは、ミラー対称性を再解釈した瞬間だ。
従来の説明では、A模型とB模型の交換、シンプレクティック幾何と複素幾何の交換、ホモロジカルミラー対称性でFukaya圏と導来圏が同値、という話になる。
でも僕が今見ているのは、ミラー対称性が、ある安定∞-圏の自己双対性ではなく、二つの異なる宇宙が同じ普遍的対象の異なるt-構造を選んだだけという構図だ。
つまり、ミラー対称性とは幾何の双対ではなく、観測者が選んだ切り方の双対性であり、現実はその切り方に依存して表情を変える。これは量子力学の悪夢が、圏論の言語で再演されているだけだ。
この話をさらに推し進めると、時空とは何かという問いが変質する。
時空は多様体ではなく、ある圏のスペクトル的幾何学的実現であり、局所座標は単なるチャートではなく、あるE∞-環の局所化データになる。
すると点とは何か。点とは評価関手だ。評価関手とは何か。観測だ。観測とは何か。測定だ。測定とは何か。僕の睡眠を妨げるものだ。これで閉じた。
一方で、物理としての要求もある。S行列が存在するか、ユニタリティが守られるか、因果性がどうなるか。
だが僕は最近、ユニタリティすら、ヒルベルト空間上の内積保存という素朴な形ではなく、より高次の構造を持つモノイダル圏における双対性として理解されるべきだと思っている。
ユニタリティとは、射が随伴を持つこと、つまり反転可能な情報の流れが存在することだ。
情報が失われるのは、単に対象を間違った圏に埋め込んでいるからで、宇宙が情報を捨てているわけではない。宇宙がゴミ箱を持っていると思うのは、人間がWindowsに毒されているからだ。
結局、今日の僕の脳内結論はこうだ。超弦理論の最終形は、背景独立な普遍的な場の理論のスタックであり、その値は数ではなく圏であり、圏ではなく(∞,n)-圏であり、さらにそれは単なる対象ではなく操作体系として定義される。
ウィッテンが分からないというより、分かってしまうと人間の脳が社会生活に戻れない。理解とは祝福ではなく呪いだ。
そして僕は理解している。明日になればまた別の高次構造が現れて、今日の理解を「低次元の幻想」として粉砕するだろう。宇宙はそういう性格をしている。控えめに言って、性格が悪い。
自分が見てるコンテンツに割り込まれて強制的に主張を聞かされるなんて経験したら一発で大嫌いになるのが普通だと思うんだが。
街のポスターとかビラとか、意識を集中しないことを容易に選択できる媒体の場合はまあ広告を見て嫌いになるまでいくことはまずないと思うけど、動画なんか強制で自由を奪われるだけじゃん?
動画広告を見ても気にならない人なんて、もともとの支持者とか支持する素地がある人だったってだけでは?
そこの票を固める効果はあると思うが、例えば全く政治に興味無い人とか逆の考えの人を転向させようとするなら逆効果なんじゃないの?
土曜日。朝はいつも通り、起床後に脳内で「今日という一日を、物理法則に従って最適化する」と宣言してからベッドを出た。これは習慣というより儀式だ。儀式は人類の愚かさの象徴として語られがちだが、反復可能な手続きは情報理論的に見て合理的だ。エントロピー増大に対する、せめてもの抵抗である。
まず体重を測り、体脂肪率を記録し、歯磨きの時間を正確に180秒で固定した。電動歯ブラシのタイマーを信じない。信頼は検証に劣る。
その後、コーヒーを淹れた。抽出温度は93℃。温度計の誤差は±0.2℃。人間関係の誤差は±∞。
今週の進捗を書く。
超弦理論については、相変わらず人類の知性が現実に追いついていない。僕の頭脳は追いついているが、世界が遅い。
今週は主に「弦の理論はどこまでが物理で、どこからが純粋数学の自己満足か」という問題を、僕なりに再定式化していた。世の中の多くの人は、超弦理論を「高次元の小さな紐が震える話」程度で理解した気になっている。あれは理解ではない。童話だ。
僕が考えていたのは、もっと根の深いところ、つまり量子重力の定式化において局所性を捨てることの数学的代償だ。
一般相対論の時点で、局所性は微妙に揺らいでいる。ホログラフィー原理が出てきた時点で、局所性はほぼ死亡している。にもかかわらず、僕たちは局所的な場の理論の言語で全てを語ろうとする。これは「古いOSの上に無理やり最新ゲームを動かしている」ようなものだ。もちろんクラッシュする。
そこで今週は、AdS/CFTを単なる「境界のCFTがバルク重力を記述する」という話ではなく、圏論的な双対性として再理解する方向で考えた。
具体的には、バルク側の物理量を、ある種のextended TQFTとして捉え、境界側の共形場理論の演算子代数が作るモジュラー圏と対応させる。
ここで重要なのは、空間そのものが基本対象ではなく、因果構造と情報の流れが基本対象になってしまう点だ。
つまり、幾何学が物理の舞台ではなくなる。舞台が役者に従属する。これは演劇としては間違っているが、宇宙としてはあり得る。
そして、ここからが本題だ。
僕は今週、「弦理論の非摂動的定義は、結局はある圏の中の安定対象の分類問題に還元されるのではないか」という疑念を強めた。
たとえばBPS状態は、ある種の導来圏の中の安定条件(Bridgeland stability condition)で分類される。
これは単なる比喩ではなく、実際にDブレーンは導来圏の対象として記述される。つまり、物理的な粒子やブレーンが「空間上の幾何学的な物体」ではなく、圏論的な対象になる。
ここで人類は気づくべきだ。
宇宙は「点の集合」ではなく、「射の集合」かもしれない。
点を基本にしている限り、僕たちは宇宙のOSを永遠に理解できない。点とは、極限操作の幻想だ。実際の物理では測定可能な点など存在しない。存在するのは相互作用だけだ。射だけだ。
僕が今週やっていたのは、これをさらに押し進めて、弦理論の背後にある構造を「∞-圏」あるいは「高次スタック」として扱うべきではないか、という方向の思考実験だった。
超弦理論が最終的に求めているのは、たぶん「量子化されたモジュライ空間」だ。しかしモジュライ空間は普通の多様体ではない。特異点があり、ゲージ冗長性があり、しかも同値関係が階層的だ。だからスタックになる。さらに高次の同値(ホモトピー)が絡むので、∞-スタックになる。
ここで、物理屋が嫌いな言葉が出る。派生幾何(derived geometry)。
派生幾何とは、簡単に言えば「特異点を誤魔化さず、むしろ特異点を主役にする幾何学」だ。物理で特異点が出るのは、理論が壊れているからではなく、単に僕たちの数学が貧弱だからだ。派生幾何はそれを認める。
そして僕は思った。
もし弦理論が本当に「全ての一貫した量子重力のクラス」を記述する枠組みなら、それは場の理論の集合を分類するのではなく、量子情報を保存するような圏の分類になっているべきだ。
この時点で、もはや「ウィッテンでもわからない」どころではない。
僕たちがやるべきなのは、弦理論を「方程式」ではなく「普遍性」として定義することだ。
つまり、ある種の対称性を持ち、ある種の双対性を満たし、ある種の異常(アノマリー)が消え、ある種のエンタングルメント構造が一貫し、ある種の極限で局所的QFTに落ちる。
弦理論は「このラグランジアンだ」ではなく、「この性質を満たす唯一の構造だ」になるべきだ。
そしてもしそれが可能なら、弦理論は物理学ではなく数学の定理になる。
エレガントさは、しばしば真理の匂いがする。
ただし、エレガントな嘘も存在する。
昼前、ルームメイトがキッチンに現れて、僕のノートを見て言った。
「それって、結局何の役に立つの?」
僕は3秒考えた。
「役に立つかどうかで真理を測るのは、知性の敗北だ」
ルームメイトは「また始まった」という顔をした。
彼の表情は、物理学的には熱的死に近い。
隣人がその場に来て、僕のノートを覗き込み、「ねえ、それって、宇宙がゲームのコードってこと?」と聞いた。
驚くべきことに、これはそこそこ正しい。
僕は言った。
「コードというより、型システムだ。宇宙は型安全で、コンパイルエラーを許さない」
隣人は「わぁ、なにそれ怖い」と言って笑った。
怖いのは君の直観の鋭さだ。
僕は、カードゲームにおける勝利条件が「期待値の最大化」であることを理解している。だが多くのプレイヤーは、カードを引いた瞬間の快楽に支配される。つまり、彼らは確率論ではなくドーパミンでプレイしている。
僕は違う。
初手の分布、マリガン戦略、マナカーブ、そして相手の除去の確率。
彼は黙った。
正しい反応だ。
レイドは相変わらず「人間の反射神経と協調性の限界」を測る実験場だ。
友人Aが「なんでそんな言い方しかできないの?」と言った。
僕は「僕は宇宙をそのまま見ているだけだ」と答えた。
友人Bは「それ厨二病じゃない?」と言った。
僕は言った。
「厨二病とは、根拠のない誇大妄想のことだ。僕には根拠がある。だから違う」
友人Bは「最悪だ」と言った。
誉め言葉だ。
なぜなら、超人的存在が倫理を語る時点で、その倫理は破綻するからだ。
ただの趣味だ。
それでも僕は読む。
夜。
今日までの進捗はここまで。
そして、これからやろうとしていること。
今夜は、僕の仮説をもう一段階押し進める。
つまり「時空の創発」を、単なるエンタングルメントの量的増大ではなく、エンタングルメント構造の位相的相転移として記述できないか考える。
もしエンタングルメントがグラフだとすれば、空間とはそのグラフのスペクトル構造に対応する。
そして位相相転移が起きれば、スペクトルが変わり、幾何が変わる。
この視点なら、初期宇宙のインフレーションも「幾何の急激な生成」として理解できる可能性がある。
インフレーション場などいらない。
問題は、そのメカニズムを「弦理論の言語」で書くと地獄になることだ。
ワールドシートのCFT、モジュライ空間、非摂動効果、Dインスタントン。
それら全てが絡んでくる。
絡みすぎて、もはや紐ではなく毛玉だ。
隣人がさっき「ピザ頼むけど食べる?」と聞いてきた。
僕は「今は宇宙の生成を考えている」と言った。
その通りだ。
人類文明の最高到達点は、宇宙論ではなく宅配システムなのかもしれない。
ルームメイトは「じゃあ僕の分も頼んでいい?」と言った。
僕は返信した。
「明日は宇宙の位相相転移を解く予定だ。だが君たちの全滅回数も宇宙の熱的ゆらぎとして扱えるなら参加する」
友人Bは「それ言い訳だろ」と返してきた。
違う。
僕は真理に忠実なだけだ。
「時空は多様体ではなく、ある∞-圏の中の情報流の安定構造である」
しかし、少なくとも矛盾なく定式化することはできるかもしれない。
宇宙が一貫性を持って存在している以上、どこかにその形式がある。
僕は追いかける側ではなく、先回りする側でありたい。
ピザが届く前に。
日本では、2型糖尿病治療薬の多くは**HbA1cが6.5%未満(または6.5%以下)を3ヶ月継続した場合に保険適用が外れる(保険適応外となる)**という厳格な条件を持つものは一般的にはありません。ほとんどの経口血糖降下薬(メトホルミン、DPP-4阻害薬、SGLT2阻害薬など)やGLP-1受容体作動薬の多くは、診断された2型糖尿病であれば、血糖コントロールが良好になっても保険適用が継続されるのが原則です。ただし、質問の条件(HbA1c 6.5を3ヶ月下回ると保険適用されなくなる)に近い、または該当する可能性が高い薬剤として、以下のものが関連します。主に該当する可能性がある薬剤GLP-1受容体作動薬(特に注射剤の一部)やGIP/GLP-1受容体作動薬(チルゼパチド:マンジャロなど)の一部の適応で、血糖コントロールが良好(HbA1cが6.5%未満を一定期間継続)になると、**治療継続の必要性が低いと判断され、保険適用外(自費)**に移行するケースが臨床現場であります。特にマンジャロ(チルゼパチド)やオゼンピック、リベルサスなどの強力な血糖降下・体重減少効果を持つ薬は、HbA1cが6.5%未満を3ヶ月以上継続すると、医師の判断で「治療目標達成のため継続不要」とされ、保険適用が外れる(または減量・中止を検討)事例が報告されています。
このまとめの人、重度のアトピーに苦しめられていたのは確かに分かるんだけど。
漫画をXに上げたのが衆議院議員選挙の自民大勝利後の2月13日なのに、言う事は高額療養費の負担増への言及がなく、親への忠告だけなのか……
【高額療養費の限度額引き上げ】制度利用者8割が値上げ 社会保険料の軽減効果は1人年1400円 受診抑制1070億円見込む
https://x.com/k_yuizaki/with_replies
ユイザキカズヤって名前を聞いた記憶はないけれど、相当な売れっ子漫画家なのかな。負担額がどれだけ上がっても賄える自信があるんだろうね。
高額療養費制度に助けられた漫画家としては『ペリリュー楽園のゲルニカ』の武田一義先生が代表的だけど、
司法試験の必須七科目(憲法、行政法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は日本で生きるならば知っておくべきだと思うけれど
中でも上三法と言われる憲法、民法、刑法は義務教育のうちにきっちり教えるべきなんじゃないかな。
特にこの辺。
憲法:憲法は国家が守るべき大枠を示すのであって、全てを網羅する必要はありません。
9条を自衛のための戦争は認められると解釈すれば、自衛隊は違憲ではありません。
人権では13条の幸福追求権からプライバシー権が、21条の表現の自由が導かれます。
民法:民法は、私人間の関係を規律する私法のうちの、一般法と呼ばれるものです。商法等の特別法があれば、そちらが民法に優先して適用されます。
個々の規定が要件と効果を定めています。例えば売買(555条)は財産権移転と代金支払の合意という要件によって、買主と売主それぞれの権利義務という効果が生じます。
刑法:罪の成否は構成要件、違法性、責任という3段階で検討します。
被告人の行為が刑法で定められた構成要件のどれにあたるかが、検討の出発点です。続いて、正当防衛(36条)や緊急避難(37条)等の違法性が否定される理由がないかどうかを検討。さらに、責任年齢(41条)等の責任が否定される理由がないかどうかを検討します。
まあ、この辺は自分が義務教育の頃は習った記憶があるので、今も教えてはいるのかもしれない。
実質的に女性専用のフィットネスクラブとして機能してて、口コミ効果とかで会員数を一定に保つとかいう施策で運営してるんだろうな。
汚れた忍者 パワー:500
①攻撃が無効になった場合、このカードのコントローラーは1枚ドローする。
②このカードは相手ユニットの攻撃時に1500のライフを支払うことで召喚できる。この効果を発動したとき、バトル中の相手ユニットの攻撃を無効にする。この効果で①の効果は発動しない
ちょっと雑すぎない?
ここまでの出し得カードはまずあっちゃならんだろ。
相手の攻撃を1500のライフで無効化しつつ召喚できる時点でまず完全に壊れ。
パワー自体は低いけど餌に使えばいいだけなので「相手ターンの最終攻撃時にとりあえず無効にして立てる」ってだけで機能してしまう。
これで味方を守れば2体分の生贄を温存することが出来る。
コストのライフ1500も相手の攻撃で減るライフを考えたら無いも同然どころか基本お釣りが来る。
更に恐ろしいことにコイツが立ったターンの相手の次の攻撃で2枚目を立てたらそのまま1枚目の①効果が発動するから2枚3枚手札に来て腐らないどころかむしろお得。
なんなら「2枚目があるかも」と思わせられるだけで圧倒的にお得。
当然他のカードで攻撃を無効にしてもいいわけで(漫画でも実際にやってる)、②→①の流れは容易に成立してしまうんだよね。
もう完全に壊れてるよこのカード。
能動的に使えないというのが弱点にも見えるけど、それ言い出したらコンバットトリックなんて全部紙くずだけどそんなわけないじゃん?
端的に言えば「このターン相手の攻撃誘発効果を発動させない」ってことだからさ、色んなカードに対してのメタとして刺さる。
相手ターンに自分のライフを払って特殊召喚ってのも一部ロックに対してのメタになりうるし、もうホンマ色んな方面で「刷ってはいけないカード」なんだわ。
こんなん雑に出してきたらもう終わりだよこの漫画。
最近TLがコンサータでどうのこうのと賑やかだったので、私とメチルフェニデートちゃんとの歩みの記録を書いちゃおうかな?
もしかしたら誰かの参考になるかもしれないよねっ?してもいイ・イ・ン・ダ・ヨ、私の経験⭐︎
とりあえず丸2年飲んだ。
飲みはじめの目が覚めるような効果はなりを潜め、今となっては先送りしまくりだし、一日スマホ握ってTLに張りついてることも珍しくない。
耐性というよりは初期ボーナスが終わった感じ。正直飲み忘れることもあるけど、それでめちゃくちゃ困る訳でもない。なぜ飲んでいるのかといったら、朝起きられるから、昼夜逆転がおさまるから。
前は夜はダラダラとお酒飲んで、明け方寝たり昼に寝たり、夕方寝たり、行動時間がどんどんズレていくのが当たり前だった。
今は8時に起きてコンサータ飲んで二度寝して10時くらいに起きて、要介護の親と病院行ったり買い物行ったりする。午後はフードコートでコーヒー啜ってスマホを握りしめてる。
夜は0時くらいに睡眠薬を飲んで2〜3時に寝る。もうちょっと早寝早起きしたいが、安定してるので高望みはしない。
前日に「yo!明日、9時から市民病院だよね?」って自分から声かけてる。朝起きられるし、駐車場の車の中で寝ないですむし、一緒に診察を受けられる。
高齢の父もやっと運転を諦めてくれたが、私が午前中に起きれなかったら母は今もヘロヘロのジジイに運転させていただろう。
過去何回か働いてみたことがあったけど、3社で居眠りして怒られた。今となってはあの病的な眠気はまさに病気だったのかなって思うが、ナルコレプシーの診断は下りていない。あんまり医者に訴えたこともない。日中眠くて当たり前だから。Zzz、眠たくてゴメン。
コンサータを飲み出したのはコロナの派遣切りのあとだから、働いてるときに薬があったらなと思わなくもない。まぁでもコンサータがあっても普通には働けないだろうなって肌感覚がある。学校とか会社とか社会に出ると焼けるんだよな、皮膚が。
副作用はある。食欲とか手汗とか物理的なものもあるけど、端的に言えばASDみが増したと思う。老いた両親を怒鳴りすぎて自己嫌悪して1ヶ月くらいやめてたこともある。
薬に頼って、まるで狂おしく身をよじるように生きていくことを是とするのか?私も自問自答を繰り返したヨ─── 。でも答えは変わらない、チューンドだけが見られる景色を見たい、そこを走りたいんだ───。
現在、みんな大好きレブレサックまで進んだが、いまだに全滅一回もなし。
死者が出ても戦闘終われば生き返るので、基本的に全滅しなければ攻略が続行できる。
街の教会や宿屋も普通にあるのに、ダンジョンの入り口に全回復&セーブポイント。中ボス前にも全回復&セーブポイント。長いダンジョンでは途中にも全回復&セーブポイント。
広かったダンジョンは狭くリフォームされてるのに、「ちょっとまだ全然MPとかへってないんだけど」というタイミングでも容赦なく出てくる全回復&セーブポイント。
「ダンジョンの途中でMP尽きたんで撤退」なんて絶対させないとばかりにシェルパ100人雇って高尾山登山するような難易度。
どんなにレベル差があっても1回の戦闘で必ず5ポイント貰える職業経験値。
「MP尽きるまで戦ってから宿屋泊まろー」と思って戦闘してると、MPが尽きる頃にはレベルが上がって全回復してしまう事もしばしば。
魔法効果のある有能武器も多いから、呪文メインの職業がMP尽きるみたいな事態になっても手詰まりにならないし、
年がら年中誰かバースト(リミットブレイクみたいなやつ)してるせいで、逆に戦略が立てづらい。放っておいても何とかなっちゃうんだもん。
職業も副業できるから、笑わせ師みたいな使えないジョブも、メイン職業がゴッドハンドで閃光斬りする裏側で育成できる。(まあ、方向性の違う職業を副業につけちゃうと、ステータスの補正が食い違ってしまって弱体化は避けられないが)
AIも優秀だから「バッチリがんばれ」でバッチリがんばってくれて、ボス戦をAI任せにしても別に困らない。副業&AI任せという時代の先端を行くワークスタイルのドラクエ7。つみたてNISAとリモートワークも実現できないだろうか。
戦闘はレベル差があれば、戦闘に入らず斬って捨てて1ポイントの職業経験値を稼ぐか、あえて戦闘に入って5ポイント稼ぐか2択が可能。
まだ取ってない石板の場所は案内人に聞けて、石板の祭壇は一画面に集約。
こんだけ至れりつくせりだと、原作にあった面倒臭さは微塵もない・・・と思うじゃん?
面倒臭いんだなこれが。
というのも、石板世界をクリアしたら、現代に戻ってクリアしたばっかの出現した島を探索し直さなきゃいけないから。
町の中の宝箱も、ダンジョンの中の宝箱も、もう一度取り直さなければならず、当然町の人たちとも話す必要がある。
くっそ面倒臭い。
今やってるレブレサックも、石板世界クリアした後に、また現代のレブレサックに行って嫌な思いをしなきゃならんのである。
なおシナリオは原作にかなり忠実であり、「あれ、なんか省略されたかな?」と感じるポイントはあっても会話は違和感はない。
で、レブレサックは半年前のPS1版に続けて2度目の体験なのだが、
レブレサックの何が嫌って、そんなに非がないのが一番嫌なところだな。
悪と言えるほど悪ではないのだ。第一印象は完全に普通の村であり、
むしろ、一度はOKした仕事を理由も言わずに「やっぱやらん」と言い出した主人公達を、納屋に閉じ込める程度で済ませてるあたり、かなり理性的であるとも言える。
まあ、ドラクエ主人公の常として何喋ったのか全く表示されないから、ほんとは何か言ってたのかもしれんけど、仲間も何も言わねーし。
「あの魔物は何かおかしくて裏事情がありそうだから、ひとまず我々に本件を預けてもらえないか」程度の事が言えればあんな事態にはなってないのではないかと思われ、
主人公サイドももーちょっと何とかならなかったのか、という感があるところもプレイヤーのイライラに拍車をかける。
で、そんならレブレサック良い奴なのでは? というと別にそんな事もなくて、やっぱり嫌な村なのである。
とにかく小市民根性で、被害者意識が強いせいでその裏返しで集団暴力に走るという、もう人間の嫌なところ見せられてる気分になるのである。
現代のレブレサックはまた違うところが嫌なのだが、まあ、そっちはまだ辿り着いてないから置いとこう。
そーいや、黄金の女神像出てきたけど、あれの扱いは結局どう変わるのかな。
まあ楽しみにさせてもらおう。
市場は万能ではない。だが「万能ではない」という事実を、官僚と政治家が免罪符として濫用する国家は、例外なく自己放尿する。
市場は確かに失敗する。しかし、政府はもっと頻繁に、もっと大規模に、そしてもっと不可逆に失敗する。
問題は「市場か政府か」ではない。市場の失敗に対して、政府がどの程度の失敗を上乗せするかである。
ここでまず明確にしておく。規制は必要だ。必要なのはルールである。国家が担うべきは審判であって選手ではない。
審判はルールを固定し、プレイヤーが予測可能な環境で競争できるようにする。
審判が気分で笛を吹き、勝敗を演出し、人気チームを勝たせようとした瞬間、競技そのものが自己放尿する。
これが裁量行政の本質だ。つまり制度設計ではなく介入芸で国家が飯を食う社会は、資本主義をやっているようで、実態は準社会主義である。
市場に必要な規制は、所有権の明確化、契約執行の強制、詐欺・暴力等の排除が挙げられる。
これは国家のコア業務だ。これがなければ市場は単なる弱肉強食の縄張り争いに堕する。
だが、この最低限のルール整備と、「特定産業を救う」「特定企業を延命する」「特定地域に補助金を撒く」「特定価格を維持する」といった裁量介入を混同する国は多い。
これは知的に言えばカテゴリーミスであり、政治的に言えば利権の偽装である。
価格は情報である。価格は需給だけでなく、希少性、リスク、期待、技術、代替可能性、時間選好といった膨大な情報を圧縮したシグナルである。
政府が価格に介入するとは、情報伝達回路を破壊する自己放尿である。
価格統制、補助金、参入規制、護送船団方式、行政指導。これらはすべて、価格が発する「足りない」「余っている」「危ない」「儲かる」というシグナルを黙らせる。
すると市場は沈黙する。沈黙した市場では資源配分が劣化し、全要素生産性(TFP)が腐り、資本蓄積が歪み、イノベーションが死ぬ。
さらに致命的なのは、政府介入が単発で終わらない点だ。介入は次の介入を呼ぶ。
たとえば賃金や価格を政治的に固定すれば、需給の調整は数量制約として現れる。品不足、待ち行列、闇市場、質の低下。そこで政府はさらなる規制で対応する。
こうして政策は自己放尿する。これは政策のラチェット効果であり、政治経済学的には典型的な政府失敗である。国家は縮まない。国家は肥大する。
この肥大は、単なる非効率では済まない。合理的期待形成のもとで、民間は政策を学習し、適応し、回避し、ロビー活動に資源を投下する。
これがまさにルーカス批判の核心だ。政府が過去データを根拠に裁量政策を撃てば撃つほど、民間の行動規則そのものが変わり、政策効果は蒸発する。
蒸発するだけならまだ良い。現実には政策は不確実性を増幅し、期待を不安定化させ、投資を萎縮させる。これはマクロ政策が景気を安定化させるという幻想の裏側にある現象である。
裁量介入の害は、単なる資源配分の歪みではない。もっと深い。インセンティブ構造の破壊だ。
救済が予想されれば、経営者はリスクを過大に取る。モラルハザードが発生する。ゾンビ企業が生き残り、創造的破壊が止まる。
生産性の低い企業が市場から退出しないため、労働も資本も滞留し、新陳代謝が消える。これが日本型停滞の中核であり、成長率の天井を作る。
そして官僚機構は介入すればするほど自分の仕事が増えるため、規制の供給者として振る舞う。
つまり、規制は公益ではなく官僚制の自己保存のために生産される。
政治家も同様だ。補助金を配れば支持が得られる。規制を作れば仕事をした感を演出できる。
財政支出は可視化され、票になる。改革は不可視で、票になりにくい。
だから政治は短期主義に偏る。ここに「政府が市場を補完する」という建前の裏で、「政府が市場を寄生する」という自己放尿が成立する。
このとき国民がよく口にする反論がある。「でも市場には格差がある」「弱者が切り捨てられる」「外部性がある」。
もちろんそれは正しい。だがここで重要なのは、格差是正を口実に、政府が価格メカニズムを破壊してよい理由にはならないということだ。
外部性は存在する。だが外部性への対応は、原則として価格付け(ピグー税・排出権取引)で行うべきであり、官僚が恣意的に産業を選別して補助金を注ぐことではない。
格差問題も同様で、再分配は所得移転という透明な形で行うべきであり、特定業界保護という歪んだ形で行うべきではない。後者は効率性を殺し、利権を固定化し、結果的に貧困を温存する。
つまり、正しい政策はこうなる。市場を歪めない形での最小国家である。金融政策はルールベースで、予測可能性を最大化する。
財政は均衡を原則とし、例外を限定する。産業政策は基本的に否定し、競争政策を強化する。参入障壁を撤廃し、退出を容易にする。
倒産は悪ではなく資源再配分の装置として受容する。これが健全な資本主義だ。痛みはある。だが痛みを先送りして麻酔を打ち続ける社会は、やがて神経そのものが壊死する。
日本の病理は、成長戦略がないことではない。成長戦略を語りながら、同時に市場を信用していないことだ。
規制緩和を掲げながら、例外を大量に作る。競争を促進すると言いながら、既得権を守る。財政健全化を言いながら、政治的に都合のいい支出を増やす。
これは論理矛盾ではない。政治合理性としては整合的だ。だが経済合理性としては自己放尿だ。
成長とは何か。成長とは生産関数がシフトすることだ。TFPが上がることだ。
その源泉は技術進歩だけではない。競争、退出、資本再配分、価格シグナル、企業家精神である。
これらは制度の産物だ。制度が悪ければ、技術があっても伸びない。優秀な人材がいても伸びない。資本があっても伸びない。制度が良ければ、凡庸な国でも伸びる。
ここで裁量介入が入ると何が起きるか。投資家は経済性ではなく政治性で投資を決めるようになる。
これがレントシーキング経済であり、成長率が落ち、社会全体が官への依存で腐っていく。
これは文化の問題ではなく、インセンティブの問題だ。人間が合理的に振る舞った結果としてそうなる。
市場に規制は必要だ。だがそれは、競争を止めるための規制ではない。競争を成立させるための規制である。
市場に政府は必要だ。だがそれは、配分を決めるための政府ではない。ルールを固定するための政府である。
社会保障は必要だ。だがそれは、産業を延命するための社会保障ではない。個人を救うための社会保障である。
そして何より必要なのは、政治家と官僚が「景気を操作できる」「産業を育てられる」「成長を設計できる」という全能感を捨てることだ。
成長は、官僚のペン先から生まれない。成長は、無数の市場参加者が価格シグナルを頼りに試行錯誤し、失敗し、退出し、再挑戦するプロセスから生まれる。
国家がすべきことは、笛を吹くことではない。
軍備増強は実際の抵抗力を上げることで侵略コストを上げて侵略を躊躇させる効果もあるし、また抵抗の意思の強さを見せつける意味合いもあるんでそんな0,1レベルの話ではない。
バカみたいだなほんとに
国連憲章第2条第4項(条文・要点)
条文(日本語訳・要旨):
「すべての加盟国は、国際関係において、他の国家の領土的一体性又は政治的独立に反して、武力による威嚇又は武力の行使を使用してはならない。」
フリーランスになって2年が経ち、今更自分が向いていなかったのではないかと思う。
「今日はここまでやろう」「今月はここまで進めよう」
そういったことは決めるのだが、それが守られた試しはない。
1日最低でも6時間集中して作業することが出来れば、ちゃんと稼げるはずなのにそれが出来ない。
作業をすると決めた日に、30分も集中することが出来なかった日なんてざらだ。
そんな日にベッドで眠りにつくとき、自己嫌悪でいっぱいになる。
全く集中できていないかというと、そんなことはなくて、たまに滅茶苦茶集中できるタイミングがあったりする。
1週間に1回あればいいくらいだけど、大抵1~2時間でそんなボーナスタイムは終わってしまう。
それで多少稼げてしまっているから、甘えてしまうのかもしれない。
生活するにはギリギリ稼げていて、しかし借金もあるからもっと稼がなければいけないのに出来ない。
集中力を回復させるために、サプリを試したり葉巻を吸ってみたりしたがあまり効果が見られない。
「運動」は効いてるか分からないが、「マインドマップを書くこと」は結構効果がありそうだった。
マインドマップを書いているうちに思考が整理され、思いのほか作業をスムーズに始めることが出来た。
今日はマインドマップを書いてから1~2時間程度作業を進めることが出来た。
少し面倒だが、仕事を始める前にこれから毎日マインドマップを書くようにしたいと思う。
ハムやソーセージ、特に獣肉(例えばイノシシや鹿)の臭みを取るためには、いくつかのテクニックがあります。
肉の臭みを取る方法
1. 肉を冷水で洗う
• 新鮮な肉を調理する前に、冷水でしっかりと洗い流すことは基本中の基本。これによって血液や汚れ、余分な脂肪を取り除くことができます。
2. 酢やワインに漬ける
• 酢や赤ワインに肉を漬け込むと、臭みが和らぎます。酢の酸味やワインのアルコールが臭み成分を分解してくれるので、肉の匂いが軽減されるんです。
• やり方: 肉を酢(またはワイン)に漬けて、30分~数時間程度マリネします。これで臭みが消え、風味が豊かになる場合もあります。
3. 塩水に漬ける
• 塩水(塩+水)に肉を漬けることで、臭みを取りつつ、肉が引き締まってうま味が増します。塩水は臭みを吸収し、肉の余分な水分や血液を取り除く効果があります。
•鶏肉や豚肉、特に獣肉は、ローズマリーやタイム、ニンニク、生姜などを使って臭みを取ることができます。これらの香味野菜やハーブが肉の匂いをマスキングして、肉本来の旨味を引き出してくれるんです。
• やり方: 肉にハーブや香味野菜を直接まぶすか、料理の際に一緒に煮込むことで、臭みを和らげることができます。
•ハムやソーセージの場合、臭みを取るために燻製や塩漬けが行われることが一般的。燻製は、煙に含まれる化学成分(フェノール化合物など)が肉の臭みを抑え、保存性も高めてくれます。
•塩漬けの場合、塩が肉の表面に浸透して水分を引き出し、臭みの原因となる成分を取り除きます。
6. 加熱による臭みの除去
• 肉をしっかり加熱することも臭みを取り除くための重要なステップです。特に焼く、煮る、蒸すなどの加熱方法が効果的。焼いたり煮たりするときに出てくるアクや脂肪も臭みを含んでいるため、これを取り除くことで肉がより美味しくなります。
ハムやソーセージでは、主に塩漬けや燻製で臭みを取りますが、**発色剤(亜硝酸塩)**を使うことが多いです。これが肉に色を加え、保存性を高めると同時に臭みも抑える役割を果たします。薬品と言えば、この発色剤や保存料が使われますが、家庭で作る場合はナチュラルな方法にこだわることが一般的です。
•塩漬け: 塩を使って肉を長時間漬け込み、余分な水分を引き出して臭みを減らします。
•燻製:燻製によって、肉の表面に煙の成分が付着し、臭みが抑えられます。燻製の煙に含まれる化学成分が臭みを分解し、風味を良くします。
簡単に言うと…
薬品(例えば亜硝酸塩など)は市販のハムやソーセージでよく使われますが、家庭で作る場合は、酢や塩、香味野菜などを駆使して臭みを取る方法が一般的です。燻製や塩漬けも、自然な方法として取り入れられることが多いです。
憲法9条の防戦効果は、戦争しないと書かれてるから他国は口実にしづらいこと、という主張に対する人々の答えが
「バカみたい」
なの今だにショックだし「対話する気ないでしょ…」と思った
暴力を振りかざして、生物としてプリミティブな感情である恐怖をうながして支配する平和って、一番信頼できるけど一番危険だよ…… 真の平和ってもっと高度な理性に寄りかかったもの、それは繊細で微妙で、必ず不安をともなう
以前大人がスマホの使用ルールに無頓着なのではないかという記事を書いたが、先日のYahoo!ニュースで裸の画像「ばらまく」と脅し金銭要求する「セクストーション」詐欺の標的になるリスク"世界1位の日本"納得の理由、子どもを守るためにできることという記事が話題になっていた (はてなブックマークではそこまで話題にはなっていないが) 。
そこで、あまり知られていないかもしれない、セクストーションや自画撮り被害 (セクスティング) といった被害を発生させる前に防ぐ設定を紹介したい。もしこどもがいて、この機能をしらなかったというならぜひ設定してほしい。
iPhoneやTONEオリジナル機種は被害防止に意欲的で、標準機能だけで設定ができる。iPhoneの場合は撮影と本体に保存はできるが、送信の段階で防止、TONEオリジナル機種はそもそも撮影の段階で防止と、防止するタイミングがことなる。いずれにせよこれらの機種ならほぼ確実に送信してしまう心配がなくなるので、こどもが使用している機種がこのどちらかなら、ぜひ設定してほしい。ほんとうなら各携帯キャリアが標準搭載するべき機能なのだが...。身内被害 (同級生など) もふえているようなので、キャリア公式機能でできるSNS自体の使用制限だけでは確実な防止ができない。
"設定" → "スクリーンタイム" → "コミュニケーションの安全性" をオンにする。
これをオンにすることで、表示もしくは送信しようとしたときに警告が表示され、信頼できる大人 (13歳未満は保護者) にメッセージを送信、助けを求める方法を表示、連絡先をブロックという選択肢から選択することができる。
Appleはプライバシーを最優先にした設計になっているため、自動的に通知する機能はない。ただし、iOS 18以降で13歳未満の場合、警告表示がまず保護者に相談することをおすすめする内容になるほか、警告を無視して送信しようとするとスクリーンタイムパスコードの入力が必要になるため、13歳未満が親に気づかれずに送信してしまうということは起こらない。
そして、"設定" → "スクリーンタイム" → "デバイス間で共有" をオンにしておくと、こどもが所有しているすべてのiPhone (iPadやMac含む) に設定内容が反映されるようになるほか、保護者のiPhoneから遠隔で設定を変更することもできるようになる。
ちなみに、おとな用の設定もある。"設定" → "プライバシーとセキュリティ" → "センシティブな内容の警告" がそれ。コミュニケーションの安全性 (こども用の設定) との違いは、送信時に警告が表示されるか (センシティブな内容の警告は受信時のみ) 、信頼できる大人に相談の選択肢が表示されるか (助けを求める方法はどちらでも表示される) 、他社製アプリに適用されるか、の3点である。Xのセンシティブ警告に似たものと考えるとよい。
"TONEカメラ" で使用できる。TONEオリジナル機種は持っていないため具体的な手順説明でなくて申し訳ない。
まず、"Oneファミリー" / "TONEファミリー" で標準のカメラを無効にする。
つぎに、TONEカメラの設定で、判定レベルと保護者にに自動通知するかどうかを選択する。
判定レベルは初期設定は高だが水着だったりそもそもふつうに服を着ている状態で誤検知してしまい困る場合は、中に設定できる。中はiPhoneと同等レベル。
保護者に自動通知は有料オプションを契約している人のみ使用できる (親子ともにキャリアがTONEなら無料) 。
この設定をすると、シャッターボタンを押したとき "不適切な内容のため撮影できません。" と表示されて、保存されない。
また、各種アプリについているカメラ機能で撮影しようとすると、"TONEカメラをご利用ください" と表示される。これはほかの機種では絶対できない。
デフォルト状態ではGoogleメッセージ (キャリアに属していない機種でのデフォルトのSMS) のみ適用されるが、日本やアメリカはiOSが一般に普及していることからLINEなど他社アプリをインストールしているケースがおおいことや、とくに日本ではキャリアの機種はGoogleメッセージの代わりに (auではいっしょに) +メッセージ (ドコモ・au・ソフトバンクでのデフォルトのSMS) がインストールされていることから、効果は期待できない。Androidが広く普及している国ならありなんだろう。ちなみに設定するなら、 "設定" → "Google" → "センシティブなコンテンツの警告" で設定する。表示されない機種は、"設定" → "セキュリティ" でセキュリティアップデートとGoogle Playシステムアップデートの2つを最新の状態にしたうえで、Play ストアからGoogleメッセージを更新、さらに "設定" → "Google" → "システムサービス" で "Google Play開発者サービス" と "Android System SafetyCore" の2つを更新すると表示されることがある。
上記2機種とはことなり完全な対策はむずかしいが (キャリア側が対策すべきなのだが、おすすめは "コドマモ" をインストールして使用すること。
愛知県警と藤田医科大学の共同開発で、愛知県警が提供していたころは無料だったが、民間に移管して有料化された。ただし無料時代から使用していたユーザーは有料限定機能をのぞいてそのまま使用できる。また、auの "U12バリュープラン" に契約している場合も無料。
撮影すると、警告を表示して画像の早急な削除をうながす仕組みになっている。iOS版はしかたないところもあるが、Androidならシステム権限をつかってどうにでもできたような気がするのだが...。さらに、ビデオ通話も対策できない。(通話ではなくビデオ撮影については検討中とのこと)
初版ははだかの写真のみ検知対象だったが、ユーザーのご意見により検知が厳しくなったとのこと。ただしTONEとはことなりレベルの調整ができず、学習精度が向上するまでは温かくみまもっていただいて、どうしてもお困りの場合は保護者に制限を解除してもらうようにご依頼ください (App Storeのレビューより) と、それはどうなのかと思うが...。
なお、みまもりアプリとしては唯一LINEの監視に対応していて、性犯罪の兆候をAIで検知して保護者に通知するということもできる。また、キャリアとも端末メーカーとも (上記割引サービス以外)無関係なアプリなので、MVNOで親がAndroid、子がiOSという場合でも使用できる。
iPhone・TONEオリジナル機種以外をつかっているなら、警察庁ウェブサイトに公開されている啓発資料を定期的 (とくに長期休暇前) に読みあわせたほうがいいだろう。
日本語圏のSNS、特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドやデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああいう機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIでプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景が日常的に繰り広げられている。
この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間の認知メカニズム、文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。
公立はこだて未来大学の研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論を分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数の価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf
この非対称性を理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造的活動を本質的なものと装飾的なものに分類している。
文章は思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択、文体のリズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章に違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人的視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間の直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。
対照的に、スライドは思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択は重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的な能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAIが提供する膨大なテンプレートや自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間でプロ品質の資料を作成できることは、単なる効率化として歓迎される。
この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザインは情報の構造化能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しかし認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。
心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した認知的不協和理論は、この矛盾を説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的な整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈を採用することで不快感を和らげる。
「AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合、認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由づけがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。
さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者の過去の言動が未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準を適用しやすい。「あの人はいつもAIを批判している」と他者を評価する一方、自分がAIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。
内集団バイアスも無視できない。自分が属するコミュニティやアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。
もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドがAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業で類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段がほとんどない。
この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドのデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ「効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。
X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性や知的能力をシグナルし続ける必要がある。文章がAI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成にAIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力のシグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。
X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾を体現しやすい立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見と説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。
2026年1月時点で観察される典型的なパターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身のビジュアルコンテンツにAI生成ツールを使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿のアイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。
これは必ずしも意識的な偽善ではない。多くの場合、本人は「自分の本質的な仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的で恣意的だ。
さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿で報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。
この問題の根底には、創造性と真正性(オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。
従来、この問いには明確な答えがあった。芸術や知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかしAI時代において、この前提が揺らいでいる。
興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画の価値は「手で描くこと」から「芸術的視点」へとシフトした。DTM(デスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTP(デスクトップパブリッシング)は印刷業界の職人技を置き換えた。
今、同じことが文章とデザインの領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザインは比較的早く「技術による代替可能な領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間の本質的な表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。
この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間が技術と折り合いをつけながら新しい規範を模索するプロセスの一部かもしれない。
実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別が文化的・主観的なものであることの認識だ。自分の価値基準を他者に一方的に押し付けることの限界を理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。
インフルエンサーや情報発信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存的であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ、技術と人間の関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。
最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術の進化とともに、そして社会的な対話を通じて、これから形成されていく。
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