
はてなキーワード:創作性とは
AIに関する議論を見ていると、どっちもどっちだよなと思うことが多い。
規制派は「人間の文化が壊れる」「AIは悪」と強硬で、推進派は「技術は止められない」「AIを使えない人間が文句を言ってるだけ」と煽り気味。
お互いに冷静さを欠いていて、建設的な議論がしづらい空気になってる。
ほんと、どっちもどっち。
これはもう、明らかな蔑称だと思う。
慎重な意見や批判的視点を持っているだけの人まで、「感情的」「時代遅れ」と切って捨てる。
中にはAIの全部を否定しているわけじゃなくて、「これはOK」「これはアウト」とちゃんと考えてる人も多い。
でも、そんな声すら「反AI」という一言で潰してくるのが今のAI推進派の一部なんだよね。
もちろん、すべてのAIが悪いってわけじゃない。
たとえばChatGPTのような文章生成AIは便利だし、十分活用すべき。
そもそも、文章って基本的に誰でも書けるものだし、創作性や希少性の観点でも、過剰に保護する必要はないと思う。
同様に、機械的に単語を置き換えるだけの翻訳AIや著作権の対象ですらないプログラム生成AIも、創作性が薄いからリスクは少ないし、実務的に役立つ。
あれは、他人の絵を勝手に学習させて、それっぽい画像を吐き出してるだけ。
しかも、それを自分の創作物みたいに堂々と公開して「俺すごいでしょ」ってやってる人がいる。
それって、やってることは泥棒と変わらないんじゃないの?
リアルで他人の作品を盗んで自分の名前で出したら、普通に炎上するのに。
AIになるとそれが「技術」として称賛されるの、どう考えてもおかしいでしょ。
こういうことを言うと、すぐ「反AIだ」と決めつけてくる人がいる。
どこまでが許容範囲か、どこからがアウトなのかを話し合いたいだけ。
それすら許されない空気の中では、健全な議論なんて成立しない。
「反AI」という言葉は、その空気を作るための便利な侮辱ワードになってる。
AI規制派も推進派も、どっちもどっちだと思うのは、どちらも「全部禁止」「全部容認」みたいな極論に走りがちなこと。
大事なのは、「何のために」「どのような使い方をするか」を一つひとつ判断すること。
特に、他人の創作を吸い上げて成り立っているAIに対しては、線を引かなきゃいけない。
それを主張するだけで敵扱いされるような状況が続けば、クリエイター文化そのものが壊れていく。
「反AI」という言葉は、もはや議論を封じるための攻撃的な武器になっている。
慎重派を追い出し、推進以外は「無知」「感情的」と切り捨てる。
どっちもどっちだけど、「反AI」というレッテルを使う側にはより強い責任があると思う。
最初に結論書いておくけど、クリーンな生成AIを使われて不利益が生じましたって裁判になるまではたぶん状況変わんないよ。
無断学習禁止とか書いている人とか、無断学習こそが問題(許諾を取れば良い)みたいな話してる人いるけど、もう合法になっちゃったんだよね。
第30条の4
著作物は、次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には、その必要と認められる限度において、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
生成AI目的だろうが検索エンジン目的だろうが、機械的に処理して人間が直接楽しまないなら使って良いよ、となってる。
ポイントは但し書きの部分で"著作権者の利益を不当に害することとなる場合"のところね。
ちょっと話題になりつつある音声合成モデルがらみのは、ココがキモね。
特定の声優さんの声を模倣する目的で機械学習させて、その結果その声優さんの利益を害してたらアウト。
一度法律になったものは基本的に相当のことが無いと廃止になりません。(解釈変更で逃げたりするのはそれで)
第30条の4を相手取るのは相当しんどいと思うので、個人的にはここ十年くらいでの可能性はゼロじゃないかな。
我こそはという法曹畑の人が居たら投げ銭はすると思う。それぐらいちょっと無理じゃないかな。
特に絵画的な表現で顕著なんですが、アイデア(作風・画風)は著作権として保護の対象になりません。
これは文化の発展に寄与しつつ、いうて権利も守ろうやという、せめぎあいの歴史でもあるので個別具体例には触れません。
通常、類似性(創作性のある表現が似てるか)、依拠性(知ってた上か)が揉めどころですが、ポイントはまさにここです。
合法無断学習生成AIを使って出力しようが、完全許諾学習クリーン生成AIを使って出力しようが、出力物が著作権侵害してれば一緒です。
特に、存命の俳優の演技(創作性のある表現)を真似て出力するのは、相当揉めるでしょう。
これは学習基が何かに寄らず当然揉めるので、無断学習だろうが許諾学習だろうが関係無いんすよ。
たぶん、無断学習(自分の創作物が勝手に使われるのが嫌だ)という部分にフォーカスが当たり続けて、理解が広がるとしたらガッツリお金の絡む話で裁判沙汰になってからだと思う。
超具体的に言うと、ときメモ裁判みたいなやつとか、パルワールドみたいなやつとか、あの辺。
完全にクリーンなデータで作られた生成AIの出力物で、超揉めてからが本番。
なので、たぶんクリーンなデータにこだわって開発を進めても、とん挫すると思うよ。やるなら地の利(国内で合法)を活かしてガツガツ言ってビジネス面でメリット出しながら公式から出した方が良いと思うよ。
この記事【anond:20250805040011】の続き。
オリジナリティとは一体なんなのでしょうか。芸術とは模倣から始まる、とはよく聞く言葉ですが、ならば模倣がその人特有のオリジナリティに変化するのはいつなのか。
先んじて述べさせていただきますが、生成AIイラストが著作権侵害にあたるのか否かということに関しては、一切議論しません。あくまで、オリジナリティとは? という追究の参考にとどまります。
まずは、生成AIか否かは置いておき、一般的な“著作権侵害”にあたる基準等について考えてみます。法律的な専門知識は薄いため、法律の解釈等についてはこちらのサイトの記事『著作権侵害とは?事例や罰則、成立要件などをわかりやすく解説』【https://kigyobengo.com/media/useful/2118.html】から引用・参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方ははリンク先へどうぞ。
著作権侵害となるのは、以下の四つの項目を満たすときだそうです。
1.著作物性……侵害の対象となる、イラストや画像、映像などが『著作物』であること。オリジナリティ(創作性)が全くないものは通常は著作権の対象になる著作物にはあたらない。
2.依拠性……他人の著作物をもとに、そのコピー等が行われたこと(依拠性)。
3.同一性・類似性……既存のイラストや画像、映像に類似していること。
4.引用などの例外的に利用が許される場合ではないこと……他人の著作物を無断で利用すること。
困ったことにしょっぱなからオリジナリティ(創作性)とそのままの意味で出てきてしまいました。
こちらのサイト【https://www.jfpi.or.jp/webyogo/sp/index.php?term=4360】から引用させていただきました。
表現の創作性……著作権法で保護される著作物と認められるためには、思想又は感情の創作的な表現であること、すなわち創作性があることが必要で、事実の伝達にすぎないものや時事報道は著作物には含まれないとされている。創作性が認められる程度は「単なる事実を素材にした場合であっても、筆者の事実に対する何らかの評価、意見等が表現されており、何らかの個性が発揮されていれば足りる」とされている。
こちらのサイト【https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/pdf/93726501_05.pdf】からです。
「創作的」に……他人の作品の「模倣品」など(創作が加わっていないもの)が著作物から除かれます。
また、「ありふれたもの」(誰が表現しても同じようなものになるもの)も創作性があるとはいえません。
さらにもう一件。
こちらのサイト【https://www.weblio.jp/content/創作性#goog_rewarded】から引用。
創作性……著作物につき、著作権が発生するために必要とされる要件の1つ。創作性があるかどうかは、創作者の個性が著作物にあるかどうかで決まる。たとえば、だれが作っても同じ表現のプログラムになるのであれば、出来上がったプログラムには創作性がないとされる。極めて単純なアイコンなども同様である。つまり、もともと選択や組み合わせが限られているものは、創作性がないといえる。他の著作物についても同じように考えてよい。
ふんわりとしか概念ですが、おおよそとして、創作性とは、著作者本人の個性や独創性が発揮されているかどうかということですね。つまり創作性=個性や独創性である。
創作性ーーオリジナリティについて理解を深めたところで、本題へと戻りましょう。
オリジナリティとは、著作者の個性や独創性の発露と一旦定義しました。それでは絵描きと生成AI使いにおいてのオリジナリティはどの程度のものなのでしょうか?
絵描きに関しては特別考えるべくもなく、既存のイラストや創作物等をトレースしたものでなければ著作者それぞれで異なる独創性がありますね。
それでは生成AIはどうでしょう。こちらも与えるプロンプトによって出力が変わることを考えたら、全く個性がないとも言い切れません。たとえ絵柄が特定の既存著作者と同一だったとしても、法律や言葉上の概念からすればその著作者が生み出し得ない構図や色使いであればそれは“個性”と呼べるかもしれません。
超絶個人的な見解ですが、パッとみて一目で“生成AIイラストだ”とわかるということはすなわち、生成AIイラスト特有のオリジナリティがあるからだと思っているのですが、果たしてこれはオリジナリティといっても良いのかどうか。加えて、あくまでこれは生成AIのオリジナリティであって、もしこれが認められるとしたら、著作者は出力者ではなく“生成AI本体”、もしくは“生成AI自体を使ったプログラマー”になるという解釈もできますし。どうなんでしょう?
話を戻して、ではなぜネット上では“生成AIイラストにはオリジナリティがない”と言われるのか。
自分が思う最大の要因は、絵柄という最大の特徴を欠いていることです。
これまでに何度か出てきていますが、絵描きのイラストは“イラストから作者がわかる”が、生成AIイラストは“生成AIで出力されたイラストから出力者が特定できない”。この点が一番の要因ではないかと思います。
絵柄というのは強烈な個性ですので、それを欠いてしまうと一気にオリジナリティの喪失を感じるのかな、と。
生成AIは“既存のイラストデータの学習”と“より学習データに似た出力を求められる”という観点から、“学習データに似せないorないイラスト”の出力は難しいです。これは絵柄に限らず、構図や色彩についても同様です。つまり、どう頑張っても特定の生成AI使いにしかないオンリーワンの個性が薄くなる。よって“生成AIイラストにはオリジナリティはなく、ただの既存のコピーや模倣品、本物の劣化版でしかない”と言われるのではないかと思いました。
やはりクリエイティブの領域では“その人だけの”という唯一無二の個性や特徴が評価されて、作品のみでなく、著作者自身に価値が生じますからね。
長々と書いてまいりましたが、最後に改めて主題に対する個人的な見解をまとめさせていただきます。
主題:“絵描きが資料を見て描くことが、なぜ生成AIを用いてイラストを出力することと同義ある”とされるのか。また、そのことに対し、絵描きと生成AI使いで意見が異なるのはなぜか。
→“蓄積データ”を使って適切なプロンプトでイラストを生成する。
この時に、絵描きにとっては“蓄積データ”=“素材”≠“資料”≠“経験”という前提で考えているのに対し、生成AI使いは“蓄積データ”=“素材”≒“資料”≒“経験”という前提で考えている。
上記に付随して、絵描きと生成AI使いでは、素材や資料、経験、オリジナリティといった単語に対する解釈が異なる。そのため、それぞれの言葉に対して対応している範囲が異なるので、お互いに想定していない範囲の意見が特出して見えている。
要するに、絵描きに於ける“素材”の概念に比べて、生成AI使い側の“素材”に含まれる概念が多すぎるってことと、その噛み合ってない部分同士でずっと言い合いをしているということですね。
まとめてしまえばなんでことのない、面白みのないありきたりな回答です。
そも、対立が起こるのは意見や考え方の違いの衝突が起こるからです。なので、まあ、根本の考え方が違うからなんだろうなぁという一言で終わってしまうといえばその通りです。
終いに、もしここまで長々とお付き合いいたただいた方がいらっしゃいましたら、お疲れ様でした。
興味本位で調べてみたら、注意喚起の終わりから4.オリジナリティとはの末尾までで7500字を超えているらしいです。書いた本人が言うことではないですが、よくここまでお読みになられましたね。ありがとうございます。
少しはあなたさまの肥やしになりましたでしょうか?
もしも、そうなれたのならば嬉しいです。
こうして、答えでない考えるだけ無駄なことをぐるぐる考えるのは楽しいですね。
連日、酷暑が続いておりますので、みなさまも体調にはくれぐれもお気をつけくださいませ。
それでは、これにて失礼致します。
AIに反対している。
私はAIによる創作物の模倣と搾取に断固としてNOを突きつけている。
AI推進派は私を「反AI」などと呼ぶが、すべてのAIに反対しているわけではない。
私はChatGPTも使うし、DeepLも使う。
それは、まったく矛盾していない。
まず明言しておく。
誰かの表現を勝手に取り込み、似たようなものを大量生産する構造にこそ問題があるのだ。
作者が苦労して積み上げてきた画風やキャラクター性を、
無断で「学習」し、「似てるけど違うからセーフ」と言い張って再生産する。
法がまだ追いついていないだけで、倫理的に言えば真っ黒だ。
一方で、ChatGPTやDeepLなどの言語系AIは、それとはまったく性質が異なる。
文章の構成を整える、英語を日本語に訳す、説明を平易にする──
すべて「実用のための変換」にすぎない。
誰かの書いたブログの文体をそのまま真似て出力するわけでもなければ、
実際、ChatGPTは個々の作家の名前でファイルを保存することもなければ、その人格を模倣して商用出力するわけでもない。
「でもChatGPTも無断学習してるじゃん」と反論する人間がいる。
それは表面的な理解にすぎない。
たとえば料理人が何千種類ものレシピを読んでから独自の料理を作るのと、
他人の料理を完全にコピーして店に出すのでは意味がまったく違う。
AIも同じだ。
「学習」という言葉が共通しているだけで、同列に扱うのは稚拙だ。
許されるAI:
許されないAI:
この違いがわからないのは、AIを「全部一緒」としか見ていない人間の怠慢である。
私は便利さに目がくらんでAIを使っているのではない。
倫理を踏まえた上で、許される範囲内でAIを使っているだけだ。
そしてその判断基準は明確で、一貫している。
そういう人間に限って「お前もAI使ってるじゃん?」などと論点をズラしてくる。
私は言おう。
山田太郎もそのひとり。
でも聞きたいんだけど、それって誰の表現の自由のこと?
今、画像生成AIがどれだけ人間の絵を食い散らかしてるか、ちゃんと見てる?
イラストレーターが描いた作品を勝手に学習して、「それっぽい画像」を大量に生成してばらまく。
こんなん、勝てるわけないじゃん。
このまま放っておいたら、絵を描く人間なんていなくなるよ。
“創作の自由”を標榜してるはずの社会で、“創作そのもの”が壊されてくって、おかしくない?
一方で、翻訳AIや文章AI、プログラミングAIについては、そこまで問題視してない。
誰もがやりたくない、めんどくさい単純作業。
だから、AIに任せたところで誰も困らないし、文化も壊れない。
でも、絵は違うんだよ。
絵には“個”がある。
感情がある。
そして、その人にしか描けない何かがある。
だったらさ、山田太郎。
あんたが「表現の自由を守る」って言うなら、画像生成AIには規制をかけるべきじゃないの?
その裏で、どれだけの人間の表現が潰されてるのか、ちゃんと見て。
頼むから、見て見ぬふりするのはやめてくれ。
なんか最近、エンジニアが「自分たちもクリエイターです!」とか言っててマジ笑うんだけど。
いやいや、お前ら創作してないじゃん。
そこに創作性なんかあるわけないじゃん。
プログラムって基本的に誰が書いても同じような構造になるし、答えが決まってんのよ。
「こう動かしたい」ってゴールがあって、それに向かって論理を積むだけ。
著作物とか言っちゃってるの、恥ずかしくないの?
クリエイターっていうのは、絵師とか漫画家とか、イラストで勝負してる人のこと。
だってコードは創作じゃないんだから、著作権侵害になるわけがない。
しかもそれを「俺が描いた!」とか言って出してくるバカがいる。
存在自体が悪なのよ、あれは。
「反ワク」みたいな雰囲気で、まともにAIの問題を語ろうとしてる人まで、まとめて「頭のおかしい危険人物」扱いされる。
正直、卑怯だよ。
むしろ、AIの可能性はあるって理解してるし、使えるところはちゃんと使えばいいと思ってる。
でも、問題があるAIにはちゃんと問題があるって言ってるだけ。
それすら許さないような空気を作って、批判=敵、って構図にするのは、完全に思考停止だろ。
たとえばさ、著作権侵害してるAI、あれどう考えてもアウトでしょ。
人の絵とか音楽とか文章とか、勝手に大量に学習して、それで「これはAIが自動的に生み出した作品です!」って言われても、いやそれ元ネタ誰かの作品じゃんって話よ。
どんだけうまく加工されてても、元の創作物がなきゃ成立しないものを「AIの独自性」って言い張るの、倫理感バグってない?
で、最近とくにひどいのが、AIに批判的な人がひとり暴走すると、AI推進派が「見たか、やっぱりAI規制派は過激で危険!」って騒ぎ出すこと。
この前もさ、なんか犯罪予告したバカが捕まって、それを根拠に「AIに反対してるやつはテロリスト予備軍」みたいに言ってた人いたよね?
全体の主張と結びつけんなって。
冷静に著作権や倫理の問題を指摘してる人まで、「犯罪者と同じ穴のムジナ」にされるのおかしすぎ。
一方で、全部のAIを敵視するのも違うと思ってる。
単語をただ置き換えるだけのものに創作性なんかないし、別に人間が何時間もかけてやることじゃないでしょ。
「AIがコードを生成するのはパクリだ!」って騒ぐ人もいるけど、そもそもプログラムって著作権の保護範囲がかなり限られてるんだよ。
しかも、if文とかfor文とか、そんなもん創作性ないって認定されてるのに、それを「俺のコードを真似するな!」っていうのは、ちょっと無理があるよな。
そこはもう割り切って、AIに任せられるところは任せるべきだと思う。
結局、AIって言ってもいろんな種類があるし、分野によっては有益だし、分野によっては破壊的すぎる。
なのに、推進派は「全部のAIは正しい」って押し付けてくるし、規制派も中には「全部のAIを止めろ!」って言っちゃう人がいる。
そういう極論同士でぶつかり合ってても、建設的な議論なんか生まれないよ。
こっちはね、ちゃんと切り分けて話してるつもりなんだよ。
「翻訳やプログラム支援みたいに創作性がない分野では活用してもいい」
これってめっちゃ理にかなってると思うんだけど、それでも「お前は反AI!」ってくくってくる。
もう、疲れるわ。
AI推進派って過激化しすぎてて、まともな対話ができなくなってるのが一番の問題。
少なくとも「著作権を軽視してるAI推進派」には、絶対に賛成できない。
そこは絶対に譲れない一線だよ。
最近の日本が作るのは既存アニメカルチャーを担う有名人(老齢)に既存の有名IPを乗っけて手堅く成功するようなやつだけ。いや爆死も多いが。
でも、中国や韓国はゲームの分野で完全新規IPに果敢に挑戦して、予算も熱意もかけてグローバルでヒットさせるようなものを頻繁に生み出している。
miHoYoとかSHIFT UPとかね。映像表現では、KURO GAMESなんかも特筆すべき芸術的創作性を備えてきてる。
そういうものは、怠惰で忍耐力のないアニメ視聴者に媚びた、「行間を読ませない」ような作品づくりとは対極の、作り手と同じくらいの熱意を持って自発的に散らばった行間(伏線)を探してくれるようなユーザーを喜ばせる、濃度の高い複雑怪奇な創作スタンスを持っている。高IQ者でないと理解するのが難しい表現や高度に文化的な表現も多用する。置いてけぼりにされたことすら気づかないくらいのミーム圧だ。リスペクトにあふれているとも言える。
それから、ヘイトコントロールというより、ラブアンプリファイとでも言うような、ゲームだからこそできるキャラ一人ひとりの背景をじっくり、場合によっては数年かけて掘り下げるアプローチで、どのキャラも自然と好きになれるので、オタクからの信頼を新規IPというビハインドを感じさせない勢いで獲得してる。
アニメ調ゲームは作り手も消費者も若く「ガチ」なものに溢れるホットなオタク領域だが、日本のTVアニメという創作分野はくたびれた中年~初老のかつてオタクだった人向けにお決まりのものを提供する場になりつつあるのではないか。
それこそテレビバラエティが老人向けのものになっていったように。これらは老人向けなりに若めのカルチャーに目を向けて、登場させるタレントや美術センスこそ若さを感じさせるようにすることで、しょぼしょぼ感が画面から滲み出ないように作られているが、実態として消費者は老人ばかりなのだ。
そういう創作スタンスの欺瞞性を、一世代、二世代若い人たちは容易に見抜いては呆れることを繰り返してきた。作り手の古臭い価値観が滲み出ているからね。TVアニメはその流れとは関係ないと思っている人もいるようだが、まったくそんなことはない。
有名IPアニメを見て「勉強」してる場合なのか?と思う。創作というのは、小手先の技法のモダン表現へのキャッチアップは枝葉末節であり、本質的なのは、創作の源泉となる思想のアップデートだ。新しい時代の価値観を内包した思想性へのアップデート。それが伴わない限り、キャラが操り人形に見えてしまい、すべてがニセモノじみた茶番になる。それが分からない人が創作の小手先を学んでも、世の中に残るものは残せないよ。
ピンと来ないなら、宗教団体が今風のアニメ表現でショート動画を作ったのを見るときの「なんか浮いてる気色悪さ」を想像してもらえばいい。年寄りたちが今風の表現を借りて作るTVアニメ作品には、それと同種の気色悪さがあるが、作り手と同じくらいの感性で止まっている人にとってはそうは感じない、という話。
それがまさに若者がバラエティを見たときに感じる気持ち悪さと同じ。
もちろん、これらは所詮娯楽だから、一消費者としてならそこで止まり続けて、死ぬまで慣れ親しんだものを消費していくのでも構わない。それを揶揄されようと気にしないでいればいい。なんなら逆に、こういう指摘をしてくる自分のような人間を小馬鹿にしつづけたらいい。
ブコメ・X・棘などで
「(権利者の許諾を受けてない)コスプレは著作権侵害じゃないの?」
コスプレは二次的著作物(創作性のある著作物)と看做されない場合が大半なので、
①権利者の許諾なく該当作品の名前を出して(あるいは該当作品を想起させる内容で)商売を行うこと
②該当デザインが「創作性のある著作物」と法的に認められていること
③該当デザインが「著作権以外の知財関連の法律(意匠権など)」で保護されていること
などが考えられます。
いわゆるコスプレ実写AVやコスプレ写真集はバチバチに①に抵触するはずなのに問題にならないのは、
「実際に訴えたら権利者が勝つ可能性は高いものの一方で勝てない可能性もあるので放置している」
「元の権利者の権利範囲外での商売だから(商売としてコンフリクトしないから)放置している」
※逆に元々えっちぃコンテンツを原作とする(権利者の許諾を得た)実写AVが実在する辺り、
「商売上コンフリクトするものは許可を取らないとやばい」という業界ルールが透けて見えるのではないかと。
いずれにせよ、コスプレの許可不許可を判断するのは権利者や場の管理者なので、
この文章は創作であると判断できます。以下にその根拠を示します。
・幼少期に母が『言葉のない国に行きたい』と神に祈った」などの表現は、現実の事実というよりは誇張された比喩であり、作家的なユーモアが感じられます。
・全体的に会話や描写がオーバーで、エンターテインメント性を重視している点も創作の特徴です。
・登場人物の「M」についての描写(例:「真顔で無表情」「口数が極端に少ない」)は、リアルな人間関係の中ではあまり見られない極端な特徴を際立たせるための脚色と思われます。
・転職という現実の出来事を題材にしながらも、その後の展開(昼休みの会話、原神を通じた交流、社内の飲み会でのエピソードなど)が一種のストーリーとして構成され、エンターテイメント的な物語性が強い点も創作性を示唆しています。
以上の理由から、この文章は現実の事実の記録というより、読者を楽しませるために創作されたフィクションであると判断されます。
発言者はアニメの1話の「年齢確認ネタ」に引っかかり、それが作品全体を見続けるかどうかの判断に影響を与えていると述べています。この細部への強いこだわりや分析傾向は、物事を深く考える強みである一方で、些細な部分に囚われすぎて全体を楽しめないリスクを孕んでいます。例えば、「感覚が違いすぎる作品っぽく見えてしまう」という表現からは、初めの印象や小さな違和感が過大に膨らみ、作品を公平に評価する柔軟性を失ってしまう可能性がうかがえます。
ネガティブな側面: 過度に分析的であるがゆえに、新しい体験や異なる視点を受け入れるのが難しくなり、楽しみを自ら制限してしまうことがあるかもしれない。
「年齢確認拒む人って、もう実在しない」「梅沢富美男が作った都市伝説がネットで信仰されてるぐらいの感覚」と、アニメの描写を現実と比較して非現実的だと切り捨てる姿勢が見られます。また、「なろう作品」に現実の仕事観を当てはめて「なってない」と感じる点も同様です。リアリストであることは強みですが、この傾向が強すぎると、フィクションの誇張や創作性を許容できず、不必要に否定的な態度を取ってしまう可能性があります。
ネガティブな側面:現実との整合性を求めすぎるあまり、エンターテインメントの楽しさや想像力を素直に受け入れることが難しくなり、批判的になりがち。
「しっくり来ない時に『この作品に共感できるかな?』って不安になる」という発言から、共感や感情移入ができないと作品を楽しめない傾向が強いことが分かります。これは、共感性を重視する感受性の高さの裏返しとも言えますが、逆に言えば、自分と異なる価値観や感覚に直面したときに不安や抵抗を感じやすいことを示唆します。感覚のズレを「面白さ」で補えると述べているものの、それでも「つまらなく感じられてるんだろうなぁ~」と自己否定気味に結論づける点からは、感情的な揺れや自信の欠如が垣間見えます。
ネガティブな側面:共感できない状況に過剰に不安を感じたり、自己評価を下げてしまう傾向があり、精神的な安定感が揺らぎやすい可能性。
自分の感情や思考を細かく分析し、「こういうことが気になってるってことはこの作品は僕にはつまらなく感じられてるってことなんだろうなぁ~」と結論づけるプロセスは、内省的な強みを示す一方で、決断を先延ばしにする優柔不断さにもつながりかねません。アニメを見続けるかどうか悩む段階で、明確な「見ない」という決断に至らず、モヤモヤしたまま自己分析に終始している点からは、行動よりも内面的な整理に時間をかけすぎる傾向がうかがえます。
ネガティブな側面: 考えすぎて決断や行動が遅れがちになり、結果的にストレスや不満を溜め込むリスクがある。
仕事におけるストレスの感じ方として、「ルールで決まっていることはストレスにならないが、立場的に断りづらい雑務やミスの発覚の方がすり減る」と述べています。この発言からは、不確実性や曖昧な状況に対する過敏さがうかがえ、こうした場面で精神的な疲弊を感じやすいことが推測されます。特に「すり減る」という表現からは、ストレスへの耐性が低い、あるいは一度ストレスを感じると回復に時間がかかるタイプである可能性があります。
ネガティブな側面: 不測の事態や曖昧さに弱く、日常的なストレスに過剰に反応して疲れやすい傾向があるかもしれない。
発言者のネガティブな側面をまとめると、以下のようになります:
過剰なこだわりと硬直性:細部に囚われすぎて全体を見失ったり、新しい視点を受け入れる柔軟性が欠けることがある。
批判的になりがち:現実とのズレを許容できず、フィクションに対しても否定的な態度を取りやすい。
共感への過依存:共感できないと不安や不満を感じやすく、感情的に不安定になるリスク。
優柔不断さ:内省が過ぎて決断を先延ばしにし、モヤモヤを抱え込みやすい。
ストレスへの脆弱性:不確実性や曖昧さに敏感で、精神的な疲弊を溜め込みがち。
総括
この発言者は、鋭い観察力や内省的な思考を持つ一方で、その特性が裏目に出ると、過剰な分析や現実への固執、感情的な不安定さとして現れる可能性があります。アニメ1話の小さなシーンに引っかかり、そこから作品全体への不信感や自己評価にまでつなげてしまうプロセスは、彼/彼女が自分の内面や外界に対して非常に敏感であることを示しています。この敏感さが、ストレスや不満を増幅させる要因となり得るでしょう。
元のイラストを見てきたが、普通に絵が上手い。明らかな創意性があった。あれが二次創作ではないのなら、Pixiv の みんなの新着 のほとんどは二次創作ではなくなってしまうよ。
二次創作であることは必ずしも 絵の上手さ・創作の楽しみ を必要としないと思う。
特殊なファンアートであるという説明にはなってるが、ファンアートの一種であることは否定できてない。
二次創作はしばしば著作権侵害になりうる。塗り絵でも創作性が認められる場合もある。今回のイラストは元絵があるが直ちに著作権的な問題があるとは言えないと思う。
修正した(fixed)と宣言していようが、そこに創作性があるなら二次創作だ。原作の著作人格権を主張してるわけでもなし、歴史修正などは誰もしてない(できない)。
定義に照らしても今回の作品は、二次創作ではある、と言えると思う。
にじ‐そうさく〔‐サウサク〕【二次創作】 の解説
既存の作品をもとにして、新たな作品を創作すること。特に、マンガ・アニメなどの登場人物や世界観を流用して独自の作品を創作すること。また、その作品をいう。二次創作物。→二次的著作物
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%89%B5%E4%BD%9C/
「本チャンネルの動画はすべてオリジナル作品で、再配布は厳しく禁止されています」
こんな文を概要欄に書いて、映画本編の映像を使ってあらすじ紹介してる動画があるんだが。
少し前インスタント映画だか、なんかそんな名前で定義されて映画配給会社から訴えられてなかったかこの手の動画?
あの著作権騒動のおかげで、クソ映画紹介系の「紹介自体に創作性の有る動画」が軒並みYouTubeから消えて絶望してた
のに、なんで元凶になるようなただあらすじ紹介してるっていう、訴えられたのと同様の違法な動画が未だに存在してんだ?
配給会社は何やってんだ?
俺から楽しみ奪っといて、肝心の違法性のある動画は放置で方針ブレブレじゃねぇか
金稼いでそうなところしか訴えないつもりなのか?
特にshortの方はひどくて、クソ翻訳で雑な紹介してるようなのが何万もいいね付いてたりする
なんでこんなのほっとくんだ?
少女ファイトのあのシーンは練自身が自らが間違っていることは認識しており、兄もそれを理解して言っているわけで、
そういうシーンじゃないと「初めからそうだが?」と返されるだけだよ……。
初めからそうだが?
俺や、特許の新規性、創作性を問題視している人は道義的責任や技術に対する態度を批判しているし、
それに関する俺個人の持論を打っているだけだ。
こっちで話しているのを読んでくれ。
特許ってのは、公知でない、新規性、創作性のある発明に対して認められるものなんだわ。
もともとポケモンに由来するものであっても、2021年にそれらの要素が公知でない、新規性、創作性のあるものなのかという問いだ。