
はてなキーワード:剥奪とは
その「女性の解放運動」の思想的な後ろ盾は何なのか?ってのが問題なんよ。
ただ単純に「女性の権利を拡大したいんで拡大しろ(お気持ち権利要求主義)」という主張であれば、「フェミニズムは男のための運動じゃないんだよ」でもなんの問題もなかったのね。まぁ思想的に問題はないんだけど実現は難しかった。具体例でいうと、世界の諸国で女性参政権がない時代において、「政治的多数決で女性の権利向上するかどうかきめましょう。なお女性に投票権はない」って状態で、権利向上がほいほい推進されるかって言えばしないでしょ? いくら喚いたって政治的発言権無いんだから。事実長い間女性の権利は一向に向上しなかった。
この路線じゃまったくどうにもならんってわけで、女性の権利拡大、解放運動の思想的な背景に人権思想をくっつけたわけ。それがすなわち男女同権であり弱者救済ね。
「全ての人間は等しい権利を持っている(人権思想)ので、当然その一部である女性も男性と等しい権利を持っているはずである。その正しい社会を実現しよう」という理路でもって女性の解放運動は推進されたわけ。その理屈だからこそ、男性しか投票権を持たないような前世紀の社会においても「社会正義のためなら」ってことで女権が拡大されてきたわけよ。
つまり、フェミニズムは人権思想や男女同権や弱者救済ってのを前提に推進されてきたっていう歴史があるのね。そんなのそれ系の新書の一冊でも読めば分かる程度の、当然の浅い歴史であり前提なわけよ。
それに対して、女性参政権が認められた現代女性がXだのツイッタだののしたり顔で「そもそもフェミニズムは女性解放運動で男性の権利や弱者男性とか関係ない」っていうのだとすれば、「はーそうなんすか。つまりは人権思想はもう用済みっすか?お気持ち多数決で権利剥奪OKの戦場に再ログイン上等って話ですね?」ってなっちゃうわけ。まぁ有り体に言えば思想的な大後退ですね。
狭い視界でみたらオタクだのおっさんだの醜くて目障りかもしれないけれど、広い始点でみれば彼らも女性も、社会的には弱者であり、富裕層でも上級層でもないのよ。広い始点の権利闘争のなかで、本来的には同じ側の人間を目障りだっていう理由で人権思想を否定して背中撃ちするのならば、まぁ、思想としても社会運動としても袋小路になってしまうというだけの、それだけの話しなんだけどね。
最近、高市総裁のワークライフバランス遺棄発言から、メディア各所でワークライフバランスについての議論が盛り上がっているのを見て、少しモヤモヤするのでここに自分の意見を書き留めておこうと思う。
そもそも自分が考えるワークライフバランスの定義というのは、表題の通り「ワークとライフのバランスについての自己決定権」だと思っている。
内閣府のホームページにある「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章(https://wwwa.cao.go.jp/wlb/government/20barrier_html/20html/charter.html)」においても、(多様な働き方の模索)という章において、「一方で働く人々においても、様々な職業経験を通して積極的に自らの職業能力を向上させようとする人や、仕事と生活の双方を充実させようとする人、地域活動への参加等をより重視する人などもおり、多様な働き方が模索されている。」と記述されており、そもそもワークライフバランスの定義においては、働き方が多様である事は前提条件であり、それらを可能とすることがワークライフバランスにおいても重要であるとされている。
従って、本来の定義に沿えば、ワークライフバランスの名のもとに猛烈に働く事も、仕事はほどほどに育児や趣味に熱中する事もどちらも許容されているのである。
高市総裁も「今は猛烈に仕事をする!」という事を単にアピールしたかっただけだとは思うが、そもそもそれが可能になっているのもワークライフバランスのおかげである事を認識して欲しいと思う。
自身も、40歳までは徹夜上等で仕事一辺倒だったのが、40歳で結婚して5年前に子供が出来て以降は、育児一辺倒の人生を過ごしている。
猛烈に仕事をした40歳までの人生も、育児一辺倒の今の人生もどちらも自分の意思で決めたもので、自分で決めたが故に後悔も無く、不満も無い。
むしろ自分の意思と関係なく、働かせてもらえない、あるいは働かせられる方が、肉体的にも精神的にもキツイと思う。
最後に、高市総裁の「全員馬車馬のように働いてもらう」と自民党に所属する議員に対して発言したのは、個々の議員の皆さんのワークライフバランスの剥奪になるので、この発言だけは撤回した方が良いと思う。
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ2.0」(BE2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
•システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
•イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
現在、東京の某国立理系単科大学で大学院生として研究をしています
自分がこれまでに体験してきた日本の国費留学生制度の現状やクソさについて周知したいと思いこの日記を書きました
制度的には他の大学でも同じだと思うので日本全土の大学/大学院で似たような悲劇が起こっていると思います
2XXX年、日本は「はてな」に支配されていた。全国民にはてなIDが強制的に発行され、はてなのサービスを日々利用することが義務化されている。首都は東京から京都に移り、古都の町並みに無数のデータセンターとモニタリングタワーが林立していた。
はてなブックマークは国民的な監視装置に変貌し、誰が何をブクマしたかがすべて記録され、思想や嗜好までもが「スコア」として可視化された。ホッテントリは単なる人気記事ではなく、政令に等しい影響力を持つ。人々の行動規範はそこから読み取られ、翌日の通達に組み込まれた。
若い男、増田は夜更けのネットカフェの個室で端末を覗き込んでいた。
彼のはてなIDには赤い警告が表示されている。理由は単純だった。――セルフスターのつけすぎ。
国家は「人気コメントに見せかける行為」を公共秩序の撹乱とみなし、違反点数を蓄積した者には「獲得スター剥奪」、「プラベ送り」や「垢BAN」が科されるのだ。
見出しの下には数千のブクマが並び、スターの数は天井知らずに増えていた。スターはもはや貨幣の代替物として流通しており、日常生活に不可欠だ。スターを持たぬ者は食事も住居も失う。
「このままじゃ……ログアウトすらできない」
彼は囁いた。
そのとき個室のドアが小さくノックされた。入ってきたのは同じく灰色のパーカーを着た少女、増田子だった。
「増田、まだ逃げられるうちに決断して。地下に“旧ネット”へつながる回線が残ってる」
旧ネット――はてな統制前のインターネット。そこでは匿名性が保たれ、ブクマもスターも存在しない。噂では、そこに潜った人々が独自の自由圏を築いているという。
「増田子、そんなの見つかったら即削除やぞ」
「それでも……今のまま、スターの残量に怯えて生きるのは、もういや」
増田はモニターを見つめた。人気エントリの数値は刻一刻と更新され、アルゴリズムが無慈悲に次の秩序を構築していく。スターが零になれば、彼の存在は“社会からの除名”として抹消される。
増田はその紙を握りしめ、深く息を吐いた。
かつて、はてブは遊びだった。
――どちらを選ぶのか。
秩序に従ってスターを乞い続けるか。
それとも旧ネットに潜り、二度と日の当たらぬ“匿名”に生きるか。
増田は立ち上がった。外の空気は冷たく、京都の塔群が月光に光っていた。
「増田子……俺は――」
言葉はまだ続かなかった。
本レポートは、ドナルド・トランプ米大統領が提示したガザ和平案をハマスが拒否した場合に想定される、軍事、外交、人道の各側面における「完全消滅」シナリオについて考察する。この和平案は、ハマスに対する「武装解除と降伏」、あるいは「完全な壊滅」という二者択一を迫る「最後通牒」としての性格を有している。ハマスがこれを拒否した場合、イスラエルによる軍事行動の国際的正当化が進み、アラブ諸国からの外交的孤立が深まり、最終的にはガザ地区住民にとって壊滅的な人道危機に至る可能性が高い。
トランプ和平案は、単なる停戦提案を超越し、ハマスの存続をかけた戦略的な転換点となる可能性が高い。その内容は、実質的にハマスに対する「武装解除と降伏」を要求するものであり、拒否は軍事行動の継続を正当化する口実となる。本分析は、ハマスがこの提案を拒否した場合の、ガザ地区およびハマスにとっての多次元的な破局シナリオを予測する。
ハマスによる和平案の拒否は、イスラエルに対する国際社会からの軍事的制約を著しく緩和させる効果を持つ。これは以下の戦略的連鎖によって理解される。
本和平案は、ハマスを外交的・政治的に孤立させることを巧妙に狙っている。
軍事的な敗北に加え、その存在理由であった「抵抗の物語」の失効は、ハマスの政治的死を意味する。
ハマスの和平案拒否がもたらす最も悲劇的な結果は、ガザ地区住民が直面する壊滅的な人道危機である。
ガザ地区の狭隘な閉鎖空間において、暴力、飢餓、疫病が同時に発生することで、被害は指数関数的に増大する。これは、現代において前例のない規模での人口の激減、すなわち「住民の消滅」という最悪のシナリオに直結する。
ハマスがトランプ和平案を拒否した場合、単なる軍事的敗北に留まらない、より深刻な結果が待ち受けている。それは、国際社会からの完全な孤立、存在意義であった「物語」の剥奪、そして統治する民衆をも巻き込んだ物理的な破局へと続く「完全消滅」の道である。ハマス指導部には、組織のイデオロギーと200万人のガザ住民の生存という、究極の選択が迫られている。この選択が地域の安定、そして何よりも住民の命運を決定づけることになる。
さっき米軍基地の近くを通りかかったら、米軍兵士と思われる白人男性が周囲をニコニコしながら一人で歩いていた。
日本は、慈悲深い米国の寛大なる待遇を受けた植民地である。言い方を柔らかくすれば、米国連邦所属の自治権を認められた属国でしかない。この様にならない様に幕末から明治にかけて血を流しながら先人が動いていたのに、現在はこのザマであることを我々は深く噛み締めなくてはいけない。
幕末から明治にかけて先人が最も恐れていたのは、アヘン戦争に敗北した清国の様に列強の玩具にされないことだった。そのときの清国はまさに列強諸国にレイプされているとしか言えない状況だったのだから。
日本が太平洋戦争で完全に敗北し、まさに先人が恐れていた状況に追い込まれたのにも関わらず、アヘン戦争で負けた清国の様に列強諸国に蚕食されなかったのは、寛大な米国の慈悲によるものでしかない。
もっと言うと、当時ソ連が持ち前の帝国主義を振りかざして日本に迫ったときに白馬に乗った騎士のごとく、日本を守ったのは米国に他ならない。共産主義に対する防波堤にするという意図があったにしても、結果だけ見れば、米国は日本を守ったと言える。
現在の日本は軍事力を実質的に剥奪され、他国の軍事基地をその領国内に日本の意思に関わらず置かせられているという状況は、客観的にみれば植民地であり属国でしかない。米国や中華人民共和国をはじめとする他国に侮蔑されてもなんの反論もできない国が日本なのだ。
もちろん日本は軍事力を失ったかわりに、朝鮮半島の軍事的問題に関わる責任も無くなり、浮いた軍事費を経済に回せることとなり、経済発展を遂げたわけだが。
日本は米国に深く感謝するべきだ。はっきり言って、トランプ大統領に80兆円出せ、関税を上げると言われても、日本には反論する権利は全く無いと思う。むしろ100兆円出させていただきますと日本は言うべきなのだ。現在の日本は、そのような国であることを理解するべきだと思う。
諸外国との外交は、日本はその前提に則り動くべきである、というよりも、日本はそうするしかない。
今回の件で言えば、パレスチナに対して日本国民から同情が集まることは当然と思うが、米国がそれを認めない限りパレスチナの国家承認を日本がすることはあってはならない。逆に言えば、米国が承認すれば日本も承認するべきと思う。
インターネットで注目されたり、その延長線上で小遣いを稼いだりするためのハードルの高さに関して、絵を描く人間のそれは他の技能に比べてずっと低いよな、とずっと感じている。俺は描けない人間なのでやっかみもあるんだとは思う。
でも、一流の研究者が自分の専門分野についてほぼ毎日更新しているブログが1日数百PVとかなのに、デザインの専門学校入りたてみたいなやつが描いたキャラクター絵が簡単に数千、数万閲覧されていたりするのを見るとどうしてもそう思ってしまう。
物語を作る能力があったとしてもマンガと小説ではリーチできる数が全然違うし、ゲームシステムとかの設計ができてプログラミングができても、絵を描けなかったら独力でゲームを作ることはできない。俺の作った世界一面白いはずのゲームは、Unityroomの片隅で誰にも見向きされてない。
生成AIが登場した時、ついにそういう状況が改善された、と思った。文章を書くのが苦手ならAIに書かせ、プログラミングができないならAIにコーディングさせ、絵を描くのが苦手ならAIに生成させればいい時代が来た、と思っていた。
もちろん、絵を描く人が見たら、自分がAIの書く文章やコードに感じるのと同じ物足りなさを感じるんだろうけど、少なくとも誰でも一人で「成立する」程度のものは作れるようになるんだ、と。
みんな得意な部分のクオリティだけで勝負できるようになるんだ、と。
ところが、絵を描く人間たちは、「AIで生成した絵」が倫理的にダメなものだという風潮を作り、それを使った作品を忌避したりゾーニングし始めた。
インターネット上の文章やコードを無断学習したAIにメールを手直したり、ちょっとした便利ツールを作らせたりは当たり前にしているのに。
俺が魂を込めて書いたフェチ小説は、表紙にCanvaの生成イラストを使ったせいで、DLSiteの「AI使用作品」カテゴリの中で埋もれている。
だったら描く練習をすればいい。あるいは、描ける人間にお金を払って頼めばいい。
もちろんそんなことは分かっている。ただ、たまたま絵を描くことが楽しいと思えるように生まれたというだけで、そうでないものに楽しみを見出す人間よりもずっと良い場所からスタートを切れるというのは、こちら側からすればどうしても不公平に感じてしまう。
俺はfanboxの収入で毎月新しいガジェットを買えてるインターネット絵描きが絵にかけたのと同じくらいには、より良い文章やコードを書いたり設計する努力をしてきたと思うんだ。
カサンドラというのはギリシャ神話に出てくる女性で、嫉妬男に逆恨みされ、「未来を見通すちからで今後起きることを正確に予言してるのに誰にも信じてもらえない」という呪いをかけられた悲劇のひと。
転じて「正しいことを言ってるのに周囲に理解してもらえない」という場面がカサンドラに例えられ「カサンドラ現象」などと呼ばれるようになる
拡張してアメリカの1人の心理士が、夫が発達障害でコミュニケーションが上手くいかずに妻が悩み鬱になることをカサンドラ情動剥奪障害などと名付ける
それが日本に輸入されSNSでは「わたしはカサンドラだったんだ」という人が急増して、女性向けメディアもこぞって取り上げ一般化していく
わいはそこから「自分をカサンドラだと思い込む女性」をカサンドラシンドロームと揶揄されているのかと思ってたけど、元は同情的な言葉だったんだね
2人以上の人間関係で「わたしのほうが正しいことを言っているのに、わたしが悪い立場に立たされる」という思い込みは老若男女問わず誰でも持ち得るものであり、こじらせてしまうと陰謀論組織に取り込まれやすくなるので対策が必要なのは確か。